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06: ()らずの雨

 「本格的な雨になる前に着けて、良かったな」
 ヘルメットを外しながら千秋が言うと、ほぼ同時にヘルメットを取った荘太は、
 「あぁ? なんだって?」
 と横着そうに聞き返した。
 「小雨のうちで良かった、と言ったんだ」
 「あー、そうだな。この分だと、当分止みそうにないしなぁ」
 千秋の言葉に、ヘルメットでぺったりと押し付けられた髪をバサバサと解しながら、荘太は何度か頷いた。
 午前で講義が終わってしまった、曇り空の午後。ツーリングに出ないか、と誘ったのは、千秋の方だった。
 本当ならアクアラインを使って袖ヶ浦の方にでも抜けてみるか、という話になっていたのだが、出発して間もなく、早くも雲行きが怪しくなってきた。そして、ちょうど千秋の家までバイクで5分程度の所に差し掛かったところで、とうとう雨が降り出した。仕方なく、行き先を千秋の家に変更したという訳だ。
 「でも、急に押しかけて、ほんとに大丈夫かよ」
 「大丈夫だ。今日は、師範クラスの大きな試合があって、父も祖父も道場を閉めて出払っている。弟は大学だろうから、家には母がいるだけだろう」
 「え、あの弟君、大学行ってんの?」
 意外に思い、荘太は目を丸くした。
 千秋は日頃、弟についてあまり多くを語らない。本来なら自分が継ぐ筈の道場を横から掻っ攫っていった奴なのだから、実の弟とはいえ、複雑な心境なのかもしれない。だから荘太も、千秋の弟について殆ど知らないのだが、一応顔は見たことがある。千秋に誘われ、透子と一緒に彼の昇段試験を見に行ったからだ。
 背が高くがっしりした体躯をした弟は、さすがに胴着がよく似合う男だったが、やはりキャリアの差か、千秋が持つような凛としたムードに欠けていた。演武を見ても、その良し悪しは荘太や透子には分からなかったが、千秋が呟いた「…話にならん」という一言に、あまり良い出来ではないことだけは想像がついた。
 「俺、弟君は、毎日道場で稽古してんのかと思ってた。道場継ぐんなら、勉強したいジャンルは武芸だろうし、就職の必要もないし…。橋本だって、跡を継ぐつもりだった時、大学進学は全く考えなかったんだろ?」
 「おい。弟と私を、同じレベルで語るな」
 むっ、としたように眉を顰めた千秋は、バイク2台の入ったガレージのシャッターを引き下ろし、荘太を表玄関へと案内した。
 「私の場合は、高校卒業時点で、あと2年もやれば十分指導者ができるだけの技量を既に持っていた。だから進学の道は考えてなかったんだ。それに比べて弟は、ガキの頃に辞めてしまっていたから、うちの道場の同世代の中でも下の方という有様だ。指導者資格を持つには、少なくともあと5年はかかる」
 「5年!?」
 「5年後にはあいつも25だが、それでも指導者としては若い方だぞ」
 では20歳そこそこで指導者になろうとしていた千秋は、桁違いのバケモノということになる。恐ろしい話だ。
 「そんな訳だから、後継者といえども、当面は無職という訳だ。だから今、あいつは大学に通っている。いずれ就職もするだろうな、普通に。仕事以外の時間は、鍛錬に明け暮れる。それでようやく、まともな跡継ぎになれる」
 「…とんでもねー世界だな」
 「そうか? 生まれた時からこんな環境にいれば、それが当たり前と思えるぞ?」
 そう言って笑うと、千秋は、いかにも古めかしい門構えの木戸を、ぎぃ、と言わせながら開けた。

***

 千秋が言っていたとおり、千秋の祖父と父は留守で、弟も帰ってきておらず、ついでに母も留守だった。
 「…すげー違和感」
 どこか、尾道にある“先生”の家を彷彿させるようなノスタルジックな茶の間で、荘太はぼそりと呟いた。
 「何が」
 「お茶淹れてる橋本が」
 「…相変わらず失礼な奴だな」
 いや、そんなことはない筈だ。今、ここに透子がいたとしても、きっと同じことを言ったに違いない。お茶の入れ物と急須を持ってウロウロしている千秋は、胴着を着た男が泡だて器を持ってエプロンをしてるのと同じ位、違和感だらけだ、と。
 ―――透子…。
 その名前を思い出しただけで、荘太の表情が暗く澱んだ。
 「―――ほら、またその顔」
 コトン、と湯のみを机の上に置いた千秋が、そんな荘太の顔を見て、そう言った。
 「その顔、って何だよ」
 「思い出したくないもんを思い出して、また同じショックを繰り返して、落ち込んでる顔」
 「……」
 「まあったく―――そんなにショックだったのか、透子のバンドエイド事件が」
 「―――…」
 図星だった。
 あまりにも的確な図星だったので、荘太は何も言い返せなかった。

 『季節外れの蚊に刺されちゃって、みっともないから絆創膏貼ってきたんだ』
 という、お前もうちょっとまともな嘘つけよ、と言いたくなる嘘を口にした透子の首筋には、なるべく目立たせたくないのか、肌に馴染む透明タイプのバンドエイドが貼ってあった。
 後に聞いた話では、同じゼミになった男を追い払うための仕掛けだったらしい。が、それだけではないだろう。何故なら、「単なるフェイクなら、取ってみせろ」と千秋がからかったら、透子は笑顔を引きつらせて、断固拒否したのだ。バンドエイドを取ったそこには…多分、誰もが予測するであろうものが、本当にあるのだろう。
 ターゲットである同ゼミの露村のショックは、その瞬間に居合わせなかった千秋や荘太には、分からない。
 しかし、とりあえず荘太にとっては、その1枚のバンドエイドは、果てしなくショッキングな、絶望的なものだった。
 もう終わった恋とはいえ、高1から足掛け6年。あまりにも長かった恋だ。そう簡単に、思い切れるものではない。お前がショックを受けてどうする、と言われても、こればかりはどうしようもない。

 「もう2週間近く経ってるっていうのに、いつまでもウジウジシクシク、女々しい奴だな」
 ぐっさり。
 刃わたり30センチの牛刀で心臓をひと突き、といった感じ。
 こんな女々しいことじゃいかんなぁ、と自分でも思っていただけに、この千秋の一言は、痛い。ガクリ、とうな垂れた荘太は、じりじりと顔を上げて、涼しい顔で緑茶をすする千秋の顔を睨んだ。
 「…随分とズケズケ言うよな…。お前は平気なのかよ」
 「は?」
 「透子の相手っつったら、工藤さん以外いねぇだろ。お前、平気なのかよ。あの2人がそういう関係になったって分かっても」
 はじめキョトンとした顔をしていた千秋は、荘太のセリフの意味を理解するや、呆れたような顔になった。
 「一体、いつの話をしてるんだ、小林。そんな、とうの昔にカビが生えたようなことを…。失恋のショックが高じて、昔話にしがみつくほどに耄碌したのか」
 「お前なあっ!」
 「ま、耄碌は冗談として―――私は、さしてショックでも何でもないぞ。工藤さんはいい大人だし、透子だって大人なんだから。しかも、同じ家に住んでて恋人同士なんだから、むしろ何もない方がおかしい」
 「…いや、まあ、そりゃそうなんだが…」
 おっしゃることは、いちいちごもっとも、なのだが―――そう割り切れないのが、人間の感情というものだろう。とはいえ、ここで反論するのはますます女々しいので、荘太はぶつぶつ言いつつも、不貞腐れたように湯飲みを口に運んだ。
 勿論、そうした荘太の複雑な心境は、千秋にも十分分かっていた。苦笑した千秋は、何気なく掃き出し窓の外に目をやり、ガラス越しでもはっきり見えるほどに強くなった雨足に、思わず眉を顰めた。
 「全く―――小林がさっぱり調子を取り戻さないから、見るに見兼ねて、アクアラインを制限速度ギリギリでぶっとばそうと思っていたのに…」
 「…えっ」
 「夏場のスコールなら、ざっと降ってカラリと上がることもあるが、このジトジトした降り方は、この先も晴れる望みは薄そうだな」
 残念そうにそう言うと、千秋は小さくため息をつき、再び緑茶を口にした。
 ―――そんなつもりで、誘ったのか。
 平日にツーリングなんて、また珍しいことを言うな、とは思ったが…その裏にそんな意味があったとは、全く気づかなかった。確かに、あまり繁盛しているとも思えないアクアラインを思い切り飛ばしたら、かなり気分がスカッとするだろう。
 ぶっきらぼうで口の悪い千秋だが、実は気が利く、良い友人だ。荘太は密かに心の中で感謝したが、日頃から素直にお礼を言うような間柄ではないので、あえて口には出さなかった。
 「さて…と。いつまでも年寄りのようにお茶ばかり飲んでいても仕方ないな。ビデオなら居間だし、本やCDなら私の部屋だし―――どうする?」
 千秋の言葉に、荘太はうーん、と首を傾げた。
 千秋の部屋、というのも、少々興味がある。カワサキとかヤマハとかホンダのポスターがででん、と貼ってあったら大笑いするよなぁ―――と思いつつ、ふと、その興味は、別の所へと飛んだ。
 窓の向こうに見える、橋本家の家屋より更に由緒正しそうな、古い建物。
 「なあ」
 湯飲みを置いた荘太は、千秋の目を見ながら、窓の外を指差した。
 「道場、見せてもらってもいいか?」

***

 “心身統一”
 橋本道場の、入り口を入った真正面の壁には、そう書かれた額が掲げられていた。
 テレビドラマにでも出てきそうな、典型的な道場。門下生の掃除が行き届いているのか、休みにしている今日も、畳の上には塵一つ落ちている様子はない。型などを見るためにあるらしき鏡も、指紋もくもりもなく磨かれていた。
 「…やっぱ、身が引き締まる感じだよな…」
 その深閑としたムードに、思わず背筋が伸びる。道場に一歩踏み出そうとして、千秋が一礼しているのに気づいた荘太は、それを真似て“心身統一”の額に向けて一礼した。
 「橋本も、ここでいつも練習してんのか?」
 「ああ。今も、週に2日、計3時間はやってる」
 「…の割には、大してマッチョにもなってないよな。古武道って、筋力はあんまり関係ないのか?」
 「橋本流は、合気道に近いからな」
 微笑んだ千秋は、鏡の前に立ち、ジーンズにTシャツ姿のまま、基本の構えをしてみせた。それは、思いのほか闘志を感じさせない、受身的な構えだった。
 「相手の“気”に合わせることで、相手の攻撃の力を吸収にする。そして最低限の力で相手を倒す―――小林、私に向かって、パンチしてみろ」
 「は? いいのか?」
 「思い切り来い」
 陸上のアスリートだった荘太も、武道は、学校の授業で剣道と柔道を齧った程度だ。力加減なんか分からないぞ、と思いながらも、荘太はボクシングのように構え、千秋の胸元めがけて右の拳を繰り出した。
 千秋は、その拳を避けるかのようにスッと身を引くと、荘太の右手首を掴んだ。その力は、さほどの力とも思えず―――なのに、次の瞬間。
 「! っうわっ!!」
 腕を軽く引かれた、と思ったら、1秒後、荘太は畳の上に叩きつけられていた。右手1本での、投げ技だった。
 「―――という訳だ」
 分かるか? という風に、ニッと笑って見下ろす千秋に、荘太は、悔しさより先に、魔法でも見せられたような驚きを覚えた。
 「…何がどうなったか分かんねーけど…俺の力が吸収されてくのは、よく分かった」
 荘太の拳を止めた千秋の力は、突進してくるものをがっしりと受け止める感じではなかった。まるでクッションのようにフワリと受け止め、力をどこかへ分散してしまう―――それができるのは、荘太の攻撃の“気”を読み、その動きに合わせたからなのかもしれない。
 ―――攻撃のエネルギーを吸収して、自分の力に変えるのか。
 よっ、と弾みをつけて立ち上がりながら、武道も結構奥深くて面白いな、と荘太は思った。
 「精神の鍛錬にもなるし、合理的だし、優れた武道だと私は思うんだがな。合気道同様型練習中心で、小学生なんかはすぐに飽きてしまうんだ」
 「まあ、何でも基礎作りは面白くはないからな。しっかし…もったいねー」
 「え?」
 心底もったいない、という感じで荘太が発した言葉に、千秋は不思議そうな顔をした。
 「何がもったいないんだ?」
 「橋本だよ。こういう家に生まれてきて、その跡を継げるだけの力も持ってるのに―――なんでお前じゃなく、弟が継ぐんだよ。もったいねーなぁ…」
 「……」
 一瞬、千秋の目が、僅かに揺らいだ気がした。しまった、と思って、荘太は慌てて付け加えた。
 「あ、いや、その不条理を誰より感じてんのは、橋本本人なんだろうから、わざわざ俺が言うこともないけどな」
 「ハハ…、気を遣うな。小林らしくもない」
 ―――なんだよ。気を遣わないのが小林らしさかよっ。
 ふっと笑いながら言う千秋に少々眉を上げはするものの、とりあえず、今の失言を大きく捉えてはいないようなので、荘太は少しだけホッとした。
 「それは確かに、弟が跡継ぎに決まった当初は、“なんで今更”と思うと悔しかった。でも、今はもう納得している。よく考えたら、自分の未来を自由に決めてもよい立場になれたのは、むしろラッキーだったかもしれない。教師になって、武道の部活の顧問になる―――それが今の私の夢だから、道場のことはもういいんだ」
 「…そうか」
 やはり少し、もったいない気はするが―――確かに、千秋の言う通りなのかもしれない。家を継ぐばかりが、橋本流の家に生まれた人間の生きる道とは限らない。他にいくらでも、千秋のこれまでの鍛錬を生かす場所はある筈だ。
 「考えてみたらお前、英語科の人間なんだから、外国人向け橋本流教室、なんてのもやれるよな」
 何気なく荘太が笑顔でそう言うと、千秋は、ちょっと驚いたように目を丸くしたあと、初めてその可能性に気づいたかのように、感心したような声で呟いた。
 「―――そうだな。そういう道も、悪くない。小林、案外いいところに気がつくな」
 その言葉に、ちょっと自慢げに笑った荘太だったが。

 ―――あれ? でも、待てよ。
 跡は弟が取ると決まったにしても―――師範も夢じゃない位に強い橋本なんだ。跡取りとしてじゃなくても、大学卒業後に、この道場の指導員の1人として加わる、って道も、よく考えたらあるんじゃないか? というか、そういう話になる方が、むしろ自然な流れなんじゃないか?
 なんで橋本は、その道を選ばないんだろう―――…?

 「姉貴」

 荘太の疑問は、突然割って入った声によって、遮られた。
 声のした方へと荘太と千秋が目を向けると、道場の入り口から、大きな体が身を乗り出していた。
 不機嫌そうに歪められた、きりっとした太い眉。千秋とどことなく似ている、涼しげな切れ長の目―――以前見たのは遠くからだったので、そうした細部は分からなかったのだが…身長180センチを裕に超していると思われるその男は、確かに千秋の弟に見えた。
 「武留、帰ってきてたのか」
 という千秋のセリフで、この弟の名前が“タケル”であることが初めて分かった。武留は、ジロリと荘太を一睨みすると、姉の方をその切れ長の目で見据えた。
 「…誰、こいつ。部外者を道場に入れていいのかよ」
 “こいつ”。
 その言葉と口調から、武留が荘太を歓迎していないのは明らかだった。そんなに道場に入られたのが嫌だったのだろうか。
 「部外者じゃない。私の大学の友人だ。お前の昇段試験も見に来てくれたし、道場に興味を持ってくれてるから、私が自発的に案内したんだ」
 「道場にとっては、部外者だろ。勝手に入れるなよ」
 武留のこの物言いに、さすがに千秋の表情が険しくなった。
 「私の友人だ、と今言った筈だ。お前は、20歳にもなって、姉の友人と顔を合わせておきながら、挨拶のひとつもまともにできないのか?」
 「……」
 それでもまだ、武留は少々、不満げだった。でも結局は、首を前に突き出すような会釈と共に、
 「…ッス」
 という、いかにも体育会系な短い挨拶をした。
 「小林。これが、弟の武留」
 バツの悪そうな千秋にそう紹介された荘太は、武留の方にきちんと向き直ると、社交辞令用の笑みを浮かべて会釈した。
 「小林です。ええと…なんか、留守中に案内してもらっちゃ、まずかったのかな」
 「…いや、いいっす」
 ボソリ、と武留が返したところで、荘太は勝利の笑みを口元に浮かべ、畳み掛けるように言った。
 「だよな? 橋本も、この道場の一員で、この家の人間なんだから」
 「……」
 明らかに、武留の顔に怒りの表情が浮かんだが―――荘太はあえて、それを無視した。武留の背後に僅かに見える外の天気に目をやり、かなり小降りになってきたことを確認すると、ちょっと伸びをするような仕草をしながら、千秋を振り返る。
 「あー…、じゃあ、俺、そろそろ帰るわ」
 「えっ」
 「弟君に、あんまり歓迎されてないみたいだし」
 「まだ雨、降ってるぞ。もう少し、様子を見てからにしたらどうだ?」
 「飛ばしてきゃ、この位は大丈夫だろ」
 「でも…」
 急な辞去に、千秋は眉をひそめた。まだ雨粒が見えるレベルの雨なので、事故などを懸念しているらしい。荘太は、その懸念を払拭するように、ニッと笑った。
 「安全運転で帰るから、心配ご無用。…じゃ、また明日。午後暇だったら、また改めてツーリング行こうぜ」
 「―――ああ、分かった。ガレージ、開いてるけど、1人で大丈夫か?」
 「ノープロブレム。じゃなー」
 極めて軽い調子で千秋の肩をポン、と叩くと、荘太は道場の出入り口に向かった。
 「じゃ、どーも」
 入り口ですれ違う際、武留を見上げて軽く会釈すると、武留は相変わらずの憮然顔のまま、無言で会釈を返してきた。そして、荘太が道場から出てしまうと、ぴしゃりとその扉を閉めてしまった。

 ―――変な奴。
 閉じられた扉を見つめる荘太の顔から、笑みが消えた。

 千秋が荘太を引き止めてた時、荘太はずっと、背後から突き刺さるような武留の視線を感じていた。
 初めは、神聖な道場を部外者に荒らされた、とでも思っているのかと思ったが…なんだか、それとはちょっと、違う気がする。第一、そこまで道場を神聖視するほど、あの弟は橋本流古武道に思い入れがあるとは思えない。
 だって、一礼せずに、道場に入っていったから。
 ただの見学であっても、ピシリと背筋を伸ばし、深々と一礼していた千秋のことを考えれば、弟のあの態度は、およそ後継者のそれとは思えない。

 …それに。
 あんな、不安そうな千秋の目は、初めて見た。
 頼むから帰らないでくれ、とでも言うようなその目は、日頃の千秋とは、まるで違っていた気がする。

 よく、分からないが…あの弟と千秋は、ちょっと尋常ではない緊張関係にあるらしい。
 橋本のやつ、大丈夫かな―――ガレージへと向かいながら、荘太はそう考え、僅かに眉を寄せた。


***


 「…何だよ、あいつは」
 弟の声を聞きながらも、鏡の隅っこの僅かな汚れに気づいた千秋は、ジーンズのポケットに入れていたハンカチを取り出すと、その汚れを丁寧に拭き始めた。
 「おい、姉貴。あいつ、」
 「―――道場に対する礼儀も忘れたような奴と、話すことは何もない」
 一礼せず入ってきたことを暗に指摘する。武留は、一瞬言葉に詰まり、それから渋々といった感じで道場に一礼した。
 まだマシになったものだ―――素直に頭を下げる弟を視界の端で確認しつつ、千秋は、皮肉めいた笑いを口の端にだけ浮かべた。頭に血が昇って、礼儀作法も忘れて暴走していた、あの頃に比べれば…今の武留など、大人しい羊に等しい。たった一言で、こうして頭を垂れる程度には賢明な奴に成長したのだから。
 「姉貴」
 「何だ」
 「姉貴が誰かを道場に連れてくるなんて、今までなかったよな」
 「そうか?」
 「何なんだよ、あいつ」
 武留の声が、3音ほど、低くなる。
 「…まさか、彼氏とか、ふざけたこと言わないよな?」

 ―――いい加減に。

 喉元まで出かかって、飲み込む。
 憤りが、ギリリと胸を締める。ハンカチを握る手が、今にも震えそうになった。けれど、千秋はそれを顔には出さなかった。いつも通りの涼しい表情で、鏡に映る自分の顔を見つめた。


 あの頃、武留は、理解していなかったのだ。
 千秋が道場を継ぐ―――それが具体的に、どういうことなのか。10歳にもならないうちに武道を辞め、それ以降道場のことには全く興味を示さないまま大きくなった武留には、何も想像できなかったのだ。
 女が家を継ぐ、それに伴って、そういう話が持ち上がるのは、古い家においては当然のことだという事を。
 千秋が高3の秋、実際に現実となって目の前に突きつけられるまで、分からなかったのだ。

 『婚約、って―――どういうことだよ!?』
 まるで、信じて疑わなかったものから、裏切られたかのように。
 『姉貴は、まだ18だろ!? 婚約って…しかも、あいつだなんて! どういうことだよ!? 俺は何も聞いてない!』
 とてつもない勢いでまくしたてる武留に、家族全員、唖然とした。
 千秋が道場を継げば、千秋は家から出ていかない。技を磨き、精神を鍛錬し、家長としてずっとこの家を守り続ける―――ただそれだけだと思ったからこそ、千秋が跡を継ぐことを笑顔で了承していた武留。
 まさかそこに、「次の跡継ぎとなる子供をもうける」なんて使命が含まれているなんて…あの瞬間まで、武留は知らなかったのだろう。

 だから。
 だから、この、弟は。

 『冗談じゃねぇよ。そんなことさせるか。俺が道場を継ぐ。それで文句ないだろ―――!?』


 全身が、総毛立った。
 「―――…っ!」
 “気”を感じ、千秋は咄嗟に体を捻ると、いつの間にかすぐ傍にまで接近していた武留の腕を掴み、足払いの要領で床に引き倒した。
 武留の大きな体が、畳の上に沈む。身長差20センチはあろうかという巨体が、簡単に組み伏せられる。押さえ込まれた武留は、苦しそうに顔を歪め、無抵抗の姿勢を示した。完全な屈服だ。

 「武留」

 こんな、瞬間―――残酷なまでの快感を覚える、自分がいる。
 自分よりはるかに大きくなったこの弟を、片手1本で軽々と投げ飛ばす、快感。悔しそうにし、痛みに体を丸め、生傷に歯を食いしばる武留を目にするたび、たまらない優越感と嗜虐感に浸っている自分がいる。
 何故なら。

 「あの時、言った筈だ。忘れたのか」

 何故なら。

 「…“二度目はない”、と」

 何故なら―――こいつに与えられたたった1度の屈辱が、千秋の人生を、滅茶苦茶にしたから。

 「異常嗜好妄想系変態男の相手ができるほど、私は暇じゃないんだ。余計な詮索をして、私に無駄な技をかけさせるな」
 「…あ…姉、貴、」
 「―――小林は、大事な友達だ」
 ぐい、と武留の顔を更に畳に強く押し付けると、千秋は、まるで物でも投げ捨てるように、武留を放り出した。その勢いで畳の縁で頭を打った武留は、低く短い呻き声を上げた。
 「自称“姉思いの弟”なら、姉の大事な友達には、最大級の敬意を払え。さっきのような態度をとったら、次からは、お前が近づくのを待たずに投げ飛ばすからな」
 武留は、答えなかった。答えるとも、思えなかった。
 ポケットにハンカチを押し込みながら小さなため息をついた千秋は、ふと、さっきの荘太との会話を思い出した。

 ―――それでも…悪いことばかりじゃ、なかった。

 「…武留」
 「…なんだよ」
 「それでも、私に自由をくれたことは、感謝してる」
 「―――…」
 「やっぱり、お前が継ぐことになって、良かったと思っている。…大学に行けたことは、私にとって、人生で最大の奇跡だったから」
 大学に行って、荘太や透子と出会えた。あの人にも―――優しい色合いをした、あのフワリとした空気を持つ彼にも、出会うことができた。そして、僅かな期間ではあるが、淡い恋心を経験することもできた。
 そして…新しい夢も、見つけることができた。
 全ては、武留が家を継ぐと言ってくれたからだ。たとえそれが、捻じ曲がり歪んだ、武留の偏愛から来ているものであっても。

 そんな感慨に浸っていた千秋は、ジーンズのバックポケットに突っ込んでいた携帯電話の音に、我に返った。
 慌てて携帯を取り出すと、液晶には“小林”と表示されていた。つい数分前別れたばかりの、荘太からの電話だった。
 まだ床に転がっている武留をチラリと見遣り、千秋は道場の扉を開けた。携帯のフリップを開きながら一礼し、道場を出る。そして、素早く道場から離れながら、携帯の通話ボタンを押した。
 「小林?」
 『おー、俺』
 「どうしたんだ。忘れ物か?」
 『いや、俺、まだガレージの外にいるんだけど』
 「は?」
 冗談かと思いつつ、千秋は小走りに門へと向かい、古びた木戸を開けた。
 そこから顔を覗かせると―――確かに、ガレージの前に、バイクにまたがり、ヘルメットを抱えたまま携帯を耳に当てている荘太の姿があった。
 「…何してるんだ、お前」
 時間的にみて、とっくにエンジンスタートして、数百メートル離れた所の交差点を曲がっていてもおかしくない頃だ。呆れたような顔で千秋が問うと、荘太は楽しげに笑い、携帯をパチンと閉じた。
 「雨、上がってるだろ、ほとんど」
 「え?」
 「だから、橋本が暇なら、今からアクアラインぶっ飛ばそうと思って、電話した」
 「……」
 確かに―――今、空を見上げると、雨粒はパラパラと落ちてきてはいるが、ツーリングできないレベルではなかった。荘太が帰ってからの数分間に、空模様がかなり変わっていたらしい。
 「なーんかあの弟君と橋本、嫌なムードだったから。…もしかしてお前、弟と一緒に家にいるの、嫌だったんじゃない?」
 「―――…鋭いな」
 参ったな、という風に苦笑した千秋は、自らも携帯電話を閉じ、ガレージの扉をよっ、と言いながら上げた。
 「じゃ、ツーリングついでに、夕飯まで付き合ってくれ」
 「弟君はいいのかよ」
 「大丈夫だ。それより、さっきの話の続きをしたい」
 「さっきの話?」
 振り返った千秋は、キョトンとした顔をする荘太に、ニッ、と笑ってみせた。
 「未来予想図だ」


 “英語を学んだキャリアと、培ってきた技量を生かして、外国人に橋本流古武道を広める”。

 千秋はこの日、そんな新たな夢を、荘太のおかげで見つけたのだった。


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