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14: 風の音

 「透子」
 トントン、とドアをノックすると、暫しして、ドアが開いた。
 そして、顔を覗かせた透子の顔を見て―――慎二は思わず、1歩、後ろに退いてしまった。
 「…なぁに?」
 「あ、いや―――そ、荘太君から、電話」
 「えっ、荘太から?」
 「うん。保留にしてあるから」
 「分かった。ありがと」
 一応、笑顔らしきものを作り、慎二の横をすり抜けていく透子は、なんだか動きもふらふらしている感じがした。まるで幽霊の如く、すすすっ、と居間を横切ると、カラーボックスの上の電話を取った。
 「はぁい、もしもし」

 ―――キ…キテんなぁ…、あれは。
 電話をする、少し斜めに傾いだ透子の後姿を眺めつつ、慎二は心配げに眉根を寄せた。
 透子の性格と、透子の置かれた状況を考えれば、それも仕方ないのかもしれないけれど―――これでは、試験当日まで、体は持っても心が持たないのではないだろうか。

 「え、今から? 今ってどこにいるの? ……うん……うん、えっと、ちょっと待ってね」
 会話を切った透子は、受話器を手で押さえ、慎二の方を振り返った。
 「荘太がツーリングの途中で駅まで来てるんだって。喫茶店入るから気晴らしに出てこない? って言うんだけど…」
 「へーえ…、暑いのに元気だね」
 5月にも、神戸までの相当な距離を運転してきた割に、へっちゃらな顔をしていた荘太を思い出す。慎二なら、ヘルメットを被ってこの暑さの中にいる段階でアウトだ。
 喉が渇いたのが、たまたまこの辺りに来た時だったのか、それとも…最初から、透子を連れ出す気だったのか。
 ―――まあ、計画的だろうな。
 透子のバイトがない日に、しかも、たまたま午後のティータイムにこの近所を通りかかる、なんて出来すぎだ。くすっと笑った慎二は、
 「いいんじゃない? 気晴らしに出ておいでよ」
 と答えた。
 「でも……」
 「透子」
 気が進まない様子の透子に、ちょっと睨みをきかせてみせる。
 「根詰めれば受かる、ってもんじゃないだろ?」
 「……」
 ちょっとしょげた顔になった透子は、再び受話器を耳に当て、
 「―――もしもし。…うん、分かった。先お店入っててくれる?」
 と荘太に答えた。


***


 「…す…すっげー顔してるなー、お前」
 「えっ、そぉ?」
 引き攣った荘太の顔を見て、透子は席に着きながら、首を傾げた。
 ミックスジュースを注文して、ホッと一息ついたところで、もう一度問う。
 「そんなに凄い顔してる?」
 「…鏡、見てないのかよ」
 「顔洗う時には見たけど―――どういう風に凄いの」
 「うーん…なんつーか…目が据わってるし、顔色悪いし、目の下クマが出来てるし。早く言うと……幽霊?」
 「……」
 ―――そ…そんな顔、してるのか。
 ちょっとでもシャキッとしなければ、と思い、少し横を向いて、両頬をペチペチと叩いてみる。そんな凄まじい顔を慎二に見られていた、と思うと、そっちもかなりショックだ。
 「気象予報士、今度の日曜だっけ。まさか、飲まず食わず眠らずで勉強してんじゃないだろうな」
 「…そんなことないって。ちゃんと睡眠取ってるし、食事もしてるよ。体壊したら本末転倒だもん。いつも以上に健康管理には気を遣ってますっ」
 「ふーん。じゃあ、精神的疲労で、そこまでやつれるのか。すげーな」
 「……」
 「透子って、工藤さんに片想いしてた時も、精神的疲労ですげー顔してたもんなぁ…。思い詰めやすいタイプだろ。健康管理してても、精神的疲労でぶっ倒れるんじゃない」
 ぐうの音も、出ない。
 慎二が、あんな風に睨みを利かせてまで「気分転換してこい」と言ったのも、「思い詰めるとトコトン自分を追い込む」という透子の悪癖を知っているからだろう。日頃、あっけらかんとしている分、その落差たるや凄まじいらしい。透子自身には、あまりよく分からないのだが。
 「前回も相当惜しかったんだろ? なら、万全の状態で臨んで実力出し切れば、受かるって」
 「…だと、いいんだけど…」
 運ばれてきたミックスジュースを引き寄せながら、ため息をつく。
 試験だの受験だの、といったものには、比較的プレッシャーを感じない透子だが―――今回ばかりは、平常心でいるのが難しいのだ。

 『気象予報士試験にパスしたら、面接を受けさせてあげましょう』

 どうしても―――どうしても、掴みたい。このチャンス。
 その思いが強くなればなるほど、残り少ない試験までの時間を、1秒だって無駄にはできない、と焦ってしまう。ぼんやりテレビを見ている暇があったら、天気図を1枚でも見ておかなくては、と思ってしまう。
 「…1月で学科は受かったから、学科免除になった分、余裕はある筈なんだけど……これで人生決まっちゃうかもしれない、と思うと、なんか、じっとしてられなくて…」
 「受かったって、人生決まんないだろ? 面接で落ちるかもしれないし、入社した途端倒産するかもしれないし」
 「そりゃそーなんだけどっ!」
 「わわわ、ごめんって。冗談だって」
 両手握りこぶし状態で本気で涙ぐむ透子に、慌てて荘太はそう言って、諸手を挙げてみせた。
 「…っつーか、透子さ。このところずっと、精神的にグラグラになってることが、多かったから」
 「……」
 「事情はよく分かんないけど―――もしかして、あの露村って奴がうるさいせいか?」
 「…ハハ、違うよ」
 「じゃ、工藤さんか」
 「それも、違う。……上手く、説明つかないんだ。なんか、色々、思うことが多すぎちゃって」
 例えば、佐倉のこととか。
 例えば、多恵子のこととか。
 例えば、慎二の母・由紀江のこととか。
 例えば―――神戸で別れた同級生・ユウのことや、多分今頃、再開発のための工事が始まっているであろう、かつて、我が家があった町のこととか。
 就職のこと、卒業研究のこと、考えなくてはいけないことが山ほどあるのに……考え始めると、心がギリギリになってしまうことばかり、多くて。
 「…無風状態、かなぁ」
 ミックスジュースを飲む手を止め、ポツリと、呟く。
 「無風状態?」
 「荘太はさ。走り始めると、風を感じるでしょ」
 「あ? ああ、まあな」
 「トップスピードに乗って、風と一体化して、すーっと気分が高まるじゃない。でも、その風になる前のスタート地点って―――ううん、もうちょい前、スタートラインに着く前、ウォーミングアップしながらトラックの外で待ってる時って、風を感じないでしょ。この先、風を切って走る爽快感が待ってるぞ、って分かってても、風力ゼロのトラックで順番待ってる間って、空気が体に纏わりついて、気持ち悪かったりしない?」
 「…そうか?」
 「あんな、感じ」
 「……」
 「今日の対戦相手のコンディションはどうだろう、とか、昨日ちょっと痛みを感じた足は大丈夫だろうか、とか、色々考えちゃって―――空気が、停滞してるの。ええい、そんなのどうでもいいや、って吹っ切って、がむしゃらにスタート切っちゃえばいいんだけど、まだそこまで行けないのが、辛いんだよなぁ…」
 ため息をつく透子に、荘太は眉をひそめ、首を傾げた。
 「…俺には、よく分かんないなぁ、それ」
 「あはは…、だよねぇ」
 透子にだって、よく、分からない。何故自分が、いっぱいいっぱいになっているのか。
 ただ―――なんだか、不安で、唯一がむしゃらになれる試験勉強にしがみついてる。そんな感じだ。
 「ま…いいや。ねえ、荘太は最近、どうしてるの?」
 「俺? 俺は卒論とバイトとバイク中心の生活かな」
 ずずっ、とコーラをすすった荘太は、少しだけ明るくなった透子の表情に内心安堵しつつ、ニッ、と笑った。
 「教員になったら、いわゆる世間一般の“社会”とは、ちょっと違う世界に生きてくことになるだろ。金やり取りしたり、客に頭下げたりさ。そういうの、今のうちにバリバリやっとこうと思って、バイトの時間もちょっと増やしてる。ま…、バイクのローンがまだ残ってる、っていう切実な問題もあるけどな」
 「ひえー…、まだ残ってたんだ」
 「橋本と違って、頭金ほぼゼロ状態で買ったからなぁ、俺…。ガソリン代も馬鹿にならないし、金喰う趣味だよなぁ、つくづく…」


 それから、透子と荘太は、日々の大切なことやどうでもいいことを、暫く話し続けた。
 荘太とこんな風に話すのは、久々かもしれない。
 透子の片想いが実り、進む道も違ってしまってからは、荘太とは千秋を通して接することが多かった。お互いに忙しくなったというのもあるし、やっぱり気まずい部分が少しだけあった、というのもあるし―――でも、こうしてまた顔を合わせれば、荘太はやっぱり気楽にバカ話のできる大切な友達だ。

 ―――そっか…。夏休み入ってから、私、同世代と話すこと、ほとんど無かったんだ。
 改めてそのことに気づいた。
 大学ではそれなりに、同じゼミの連中や千秋や荘太と話をするけれど、バイト先は全員年上の社会人、家にいるのも10歳年上の慎二―――夏休み以降、透子の生活の中で、透子は常に「一番後ろを歩いている人間」だったのだ。
 だから余計、焦ったり、苛立ったりしていたのかもしれない。
 慎二が珍しい位強い態度で追い出したことに、会う相手が荘太でも何も思わないのかな、なんて方向違いな不満をちょっとだけ感じたりしたのだが―――荘太と話しているうちに、自分の中の焦りが少しだけ小さくなったのを自覚して、透子は慎二の気遣いの理由がよく分かった。


 「―――あ、そうだ」
 かれこれ30分以上も話をした頃。荘太がふいに、口調を変えて切り出した。
 「透子さ、最近、橋本から連絡あった?」
 「千秋?」
 先ほどから千秋の話はちょこちょこ出てはいたが―――記憶を辿った透子は、数秒後、ふるふると首を振った。
 「ううん。そう言えば、8月に入ってから一度も連絡がないかも」
 「その前は?」
 「うーん……ほら、夏休み入ってすぐ、荘太と千秋がバイト先来てくれて、3人で夕飯食べたじゃない? あれが最後かなぁ、千秋と喋ったの。なんか、大会が近いから、って言ってたじゃない? だからあんまり連絡するのも控えてたんだけど…」
 「…そっか」
 荘太の目が、少し、落胆したように暗くなった。その変化に、透子も思わず心配げに眉をひそめた。
 「あの…、千秋が、どうかしたの」
 「え? あ、いや―――別に」
 慌てたように笑顔になった荘太は、残りのコーラを、一気に飲み干した。
 「俺もこのところ、忙しくて連絡取ってねーからさ。透子の誕生日ももうすぐだし、また3人で集まるかー、と思っただけだよ」
 「う……、こ、今年は、試験の結果次第では面会拒否するかもしれない」
 試験の翌日が、22度目の誕生日なのだ。試験がボロボロだったら、人に会える状況にないかもしれない。透子が難しい顔でそう言うと、荘太は豪快に笑った。
 「ハハハハハ、そーゆー時こそ、俺らで盛り上げてやろうってことじゃん」
 「―――…」
 結構、辛辣なことを言う荘太と千秋に盛り上げられたら、余計沈むんじゃないだろうか。
 なんてことをチラリと思いつつも、荘太なりのエールと感じた透子は、荘太の大笑いに合わせて、苦笑を浮かべた。

***

 荘太と別れ、帰宅した透子は、表札下の小さな郵便受けを開けた。
 本来、このアパートには、郵便受けなるものが全くなかった。ところが、隣の人が去年の年末に、何を思ってか自分で郵便受けを買ってきて、取り付けたのだ。
 そんなもの要らないよ、と思っていた慎二や透子も、他の家がそれに従って次々に郵便受けを設置してしまうと、ちょっと気になる。挙句、唯一、郵便受けのない自分達の部屋だけ、どこに入れればいいか分からなかった郵便局員が、郵便物を買い物袋に入れて玄関のドアノブに掛けて行った日には、諦めざるを得なかった。そんな訳で、現在、慎二と透子の部屋も、郵便受け付きとなっている。
 郵便受けの中は、案の定、ダイレクトメールとチラシの類で埋まっていた。
 「…もぉー、資源の無駄使いだよなぁ…」
 ぶつぶつ言いながら、大量のチラシを引っ張り出した透子だったが。
 その中に、1つだけ、他とは違って明らかに郵便物と分かる封書が混じっているのに気づき、手を止めた。
 「……?」
 誰からだろう、と、たまたま上になっていた封書の裏に目を落として―――透子は、目を大きく見開いた。


 「ただいまっ!」
 慌てて玄関を開け、部屋に飛び込む。
 自室で締め切りの絵を仕上げていた慎二は、いきなり鍵を開けて飛び込んできた透子に、驚いたように部屋から顔を出した。
 「お…お帰り。どうしたの透子、慌てて」
 「ミヤマさんからっ!」
 「え?」
 「ミヤマさんから、手紙が来てるのっ!」

 ミヤマさん―――それは、神戸で、透子達の家のお向かいに住んでいた、ミヤマ靴店の夫婦のことだ。
 5月、仮設住宅に住むミヤマさんを慎二と一緒に訪ねた時、ミヤマさんは、「再開発工事が始まったら、その様子なんかを手紙で知らせてあげるからね」と言っていた。透子も慎二も、その手紙が来るのを、どこかで少し恐れながら待っていたのだ。
 何故なら―――再開発工事が始まった、ということは、透子達があの日植えた向日葵も、引き抜かれてしまった、ということだから。
 「花が咲いた、って電話、いつだっけ」
 透子と一緒にローテーブル脇に腰を下ろしつつ、慎二がカレンダーを振り返る。
 「えーと…7月の半ばか、終わり近くかな。日照不足で、ちょっと生育が悪かったけど、綺麗な花が咲いたよ、って言ってた」
 「そっか…あれから1ヶ月か。上手いこと種も採れたのかな…」
 少し心配げな目をする慎二の言葉には答えず、透子は封書の一部をハサミで切った。

 引っ張り出した便箋は、白のシンプルな縦書きの便箋で、折り畳んだその中に、1枚の写真が挟まっていた。
 「―――うわー…」
 撮ったのは、ミヤマさんのご主人だろうか。
 画面いっぱいに、5本の向日葵が揺れていた。
 高さはバラバラだけれど―――父と、母と、紘太と……そして、慎二と透子の分の向日葵。5月のあの日、自宅のあったあの空き地に2人で埋めた向日葵の種が、写真の中で、見事な花を咲かせて、揺れていた。
 「綺麗……」
 「―――うん」
 暫し、向日葵の写真に見入っていた2人は、続いて、折り畳まれた便箋を広げ、そちらに目を移した。
 これまで手紙をやりとりした経験から、これを書いたのがミヤマさんの奥さんだと、慎二には分かった。


 透子ちゃん、そして工藤さん。お元気でしょうか。

 私どもは、今月末の仮設住宅からの転居を控え、毎日忙しなく過ごしています。
 忙しさにかまけて、なかなか写真の現像ができなかったのですが、つい先日、やっと7月に撮った向日葵の写真のプリントが出来上がってきたので、同封して送ります。
 綺麗でしょう? よく見ると、1本だけやたらと背の低い向日葵があるんですよ。
 私にはそれが紘太君に見えてしまって、近くを通るたび、なんだか胸が締め付けられて、泣きそうになっていました。
 6月頃は、生育が悪く、随分心配もしましたが、花をつけてからの向日葵は、どれも元気で、多少の雨風はものともせず、結構長い期間、私達の目を楽しませてくれました。
 殺風景な空き地の多いこの辺りで、あの向日葵は私達の心の慰めでもありました。
 透子ちゃん、工藤さん、ありがとうございました。

 お盆明けに、ついにこの地区の再開発も始まり、間もなく、向日葵も抜かれました。
 無事、種がとれましたので、そのうちの半分を同封します。
 残り半分は、主人と私とで、来年の春にでも神戸のどこかに蒔こうと思います。
 東京と神戸で、同じ向日葵の種がそれぞれに花をつけるのも、楽しいでしょう?

 移転先の住所を最後に書いておきます。
 9月からはこちらの住所になります。また気が向いたら、近況を報せて下さいね。


 そうして、市内の住所と電話番号を最後に記して、手紙は終わっていた。
 「……種?」
 種を同封した、と書いてあった割に、便箋に挟まっていたのは、写真だけだ。不思議がる透子の横で、慎二は、残された封筒の方をひっくり返してみた。
 すると、小さい、向日葵柄の小袋が、封筒の中から滑り落ち、テーブルの上に落ちた。
 「ああ、別袋で同封されてたんだね。便箋だけ引っ張り出したから、気づかなかったんだよ」
 「わぁ…、可愛い袋」
 ミヤマさんの奥さんが選んだのだろうか。中身が向日葵の種で、袋の柄が向日葵とは、随分洒落ている。口元を綻ばせた透子だが―――…。
 それを手に取って、何気なく裏返してみて。
 心臓が―――ドキン、と、大きく跳ねた。

 淡い水色をした、向日葵模様の小袋。
 その裏に、ミヤマさんとは明らかに違う丸みを帯びた文字で、たった一言、綴られていたのだ。

 『ごめんね』

 「―――……」
 “ごめんね”―――その言葉を、透子に送る人がいるとしたら、それは……。
 「……ユウ、ちゃん…?」

 慌てて、小袋を開けてみる。
 中には、やはり、向日葵の種が入っていた。それと、折り畳まれた、小さなメモが。広げてみると、やはり丸っこい文字で、見覚えのない住所と、ユウの名前、そして電話番号が書かれていた。
 この小袋を選んだのは、ユウだ。
 向日葵なんか植えて何になる、と透子に怒鳴ったユウが―――この袋を選び、そこに、あの向日葵の種を入れてくれたのだ。自分の連絡先と一緒に。
 「…良かったね、透子」
 呆然とメモを見下ろす透子に、慎二はフワリと笑い、その頭にポン、と手を置いた。
 それが引き金になったように―――透子の目に、みるみる涙が溢れて、透子の膝の上に、落ちた。


 向日葵の種を胸に抱き、目を閉じる。
 透子は、風に揺れる5本の向日葵を思い浮かべながら、5月のあの日から無意識に自分の足を縛り付けていたものが、少しずつ融けていくのを感じた。
 それは、あんなに仲の良かったユウと仲たがいしてしまったままでいることへの悲しさでもあり、自分は神戸を捨てたんだという罪悪感でもあり―――もう二度と取り戻せない幸せを当たり前のように持っているユウへの、嫉妬でもあり。
 そして―――神戸を捨て、紘太や多恵子が生きられなかった未来を生きて、慎二の傍で幸せに暮らしていることに対する、畏れでもあり。
 気づかなかった。
 5月のあの時のことが、その後に続く様々なもの思いの、発端だったなんて。
 自分が、たったこれだけの一言でこんなに涙を流すほど―――ユウから否定されたという事実に、傷ついていたなんて。


 風が、吹いた気がした。
 ザワザワと、向日葵を揺らす風の音を聴いた気がして―――透子は、やっと安堵したように、微笑んだ。


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