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19: ピンホールカメラ  

 子供の頃、世界は、幸せな光に満ちていた。
 春の暖かく柔らかい光、夏の眩暈がするほど強い光、秋の静かで透明な光、冬の突き刺さるような研ぎ澄まされた光―――移ろう光を見つめながら、ただ幸せに、何の憂いもなく暮らしていた。

 たくさんの憂いを知った今も、世界は、幸せな光に満ちている。
 それを“幸せ”と感じられるかどうかは―――そこに光があることに、気づけるか、気づけないか、その違いだけなのかもしれない。


***


 「慎二」
 窓枠に頬杖をついて外を眺めていた慎二は、背後から掛けられた声に、振り向いた。
 「そんなに窓開けて―――風邪ひくぞ。一体何見てたんだ?」
 「あの雲」
 慎二が指差す先には、高い空にポツンと、白い雲が浮かんでいた。
 「蝶々に似てるな、と思って」
 「蝶々? …ああ、ほんとだ。似てるな」
 「ねえ、秀兄(しゅうにい)。この前見つけたあの蝶々って、どんな色してたっけ」
 慎二に屈託なく問われて、秀一は、記憶を手繰り寄せるように眉を寄せ、首を捻った。
 「河川敷で見たやつか? あー…、何ていうか、青のような緑のような、微妙な色だった気がするなぁ。慎二、あの蝶々も描いたんじゃなかったっけ?」
 「ううん、描いてない」
 「なんで。綺麗なもの見つけると、いつも真っ先に描くだろ」
 「色が、来なかったんだ」
 「色が“来なかった”?」
 「ポン、と頭の中に飛び込んでくる色と、後からゆっくりゆっくり湧いてくる色があるから。あの時の蝶々は、ポン、と来なかったから、描けなかったんだ」
 「…難しいな、慎二の頭の中は」
 「うん…、友達にもよく“何考えてるのか分からない”って言われる」
 「分かりやすい奴になんて、ならなくていいぞ」
 ぐしゃぐしゃ、と慎二の髪を撫でる秀一の顔は、穏やかな笑顔だった。
 そんな兄を見上げる慎二の顔も―――穏やかな、幸せそうな笑顔だった。

***

 工藤さんのご兄弟は、ほんとに仲がいいのねぇ。
 秀一と慎二は、ご近所の住人から、よくそう言われる。
 中学1年生と高校3年生、5つ歳の離れた兄弟は、共に思春期の真っ只中にある。次第に距離が離れ、会話も少なくなっていく兄弟が多い年頃の筈だが、秀一と慎二は、小さい頃と変わらず、今もよく一緒に行動し、いろんな事を語り合う仲だ。

 でも、本当に小さい頃―――それこそ慎二が生まれたばかりの頃は、そうではなかった。当時5歳だった秀一は、突如現れた自分より小さな子供に、母を盗られたような気分になった。これまではいい子できたのに、突如駄々をこねてみたり、拗ねてみたりして、両親を随分困らせた。
 それが、180度変わったのは、慎二が初めて秀一を呼んだ時。
 確か、慎二がまだ2歳になる前だったと思う。不貞腐れたように秀一が1人で遊んでいたら、慎二がトコトコ歩いてきた。そして、一番のお気に入りだったぬいぐるみを差し出して、「にぃーに」と秀一を呼んだのだ。
 慎二がどういうつもりだったのかは、1歳児のこと故に、今でも誰にも分からない。ただ、自分が呼ばれたとは気づかずキョトンとする秀一に、慎二が見せた屈託のない満面の笑みは、秀一を兄と慕っている弟の顔のように、秀一には思えた。
 この瞬間、秀一の中の慎二のポジションは、「親の関心を攫った悪魔」から「自分に懐いてくれる天使」に変わった。以来、秀一は、父よりも母よりも慎二のことを可愛がるようになったのだ。

 秀一の弟偏愛熱は、慎二が3歳で死の淵を彷徨ったことで、より拍車がかかった。
 まだ8歳だった秀一は、ショックのあまり、食べることすらままならなくなった。毎日毎日、学校が終わると病院へ駆け込み、無菌室に隔離された慎二を窓ガラス越しに見つめ続けた。図書館へ行って、難解な文字の並ぶ医学書を引っ張り出してきて、辞書を片手に「白血病」についての項目を読んだりもした。勿論、その内容の大半が理解不能だったが、読めば読むほど絶望的な病気に思えて、涙が出てきた。
 お願いです、慎二を助けてください―――毎日毎日、神様にお祈りしたのが届いたのか、奇跡が起きた。
 そして、その奇跡を体現した慎二を、秀一はそれまで以上に大事にした。

 花や鳥や虫を愛し、自分達とはどこか違う時間の中を生きている慎二。秀一があまりに優等生すぎるせいか、周囲の慎二に対する評価はイマイチだ。
 けれど秀一は、慎二の方が、自分よりはるかに上等な魂を持っていると思っている。
 秀一には、慎二の見る世界を見ることができない。彼が幸せそうに見つめるものが、秀一には見えない。それは多分―――奇跡と共に慎二にもたらされた特別な力で、慎二にだけ見ることができる世界なのだろう、と、秀一は考える。
 思いのままに描き殴った絵は、成長とともに次第にデッサンに磨きがかかり、曖昧なものから具体的なものへ―――混乱した色から統一された色へと変わっていく。けれど、そこに描かれる世界は、慎二が幼児から子供、子供から少年へと成長しても、まるで変わらない。幸せな色に包まれた「慎二が見ている世界」だ。

 だから秀一は、いつまでも慎二を大事に思う。
 彼の世界が壊されないよう、自分が守らなければ、と思う。

 一方、世情に疎く、時に浮世離れしてしまう慎二にとって、兄は、現実世界を見せてくれるフィルターだ。
 世の中に起きている悲しいこと、苦しいこと、その全てを分かりやすく、慎二でも理解できる言葉で語ってくれる。秀一というフィルターを通すことで、慎二は現実世界と上手く折り合いをつけられる。
 そんな秀一を、慎二は心から慕い、頼りに思う。
 そして、彼が現実に疲れ、傷ついた時は、慰めてあげるのが自分の使命なのだと、そう思う。

 少年期を迎えた慎二が、絵という芸術の世界に目覚めていくのと対を成すように、秀一は、報道カメラマンという現実を写し出す世界に目覚めていった。

 陰と陽、静と動、夢と(うつつ)―――まるで正反対の兄弟は、自分の見られない世界を相手の中に見つけ、それを大事にしながら生きていた。

***

 ちょっとついて来いよ、と秀一に言われ、慎二は、蝶々に似た雲を眺めるのをやめ、兄の後を追った。
 秀一が向かった先は自宅の庭だった。途中、居間に置いてあった四角い箱を秀一が手にするのを見て、慎二は不思議そうな顔をした。
 その箱は、どう見ても、紅茶の空き箱だった。数日前、この箱に入っていたティーバッグの最後の1個を使ってしまい、母が後で捨てようとテーブルの端に置いたのを慎二は見ている。
 「秀兄。それ、どうするの?」
 慎二が訊ねると、秀一は、庭に出る窓を開けながら振り返り、ニッと笑った。
 「こいつは、カメラだよ」
 「カメラ?」
 紅茶の箱が?
 キョトンとする慎二をよそに、兄は、紅茶の箱を手に庭に出た。あれのどこがカメラなのか、慎二にはさっぱり分からなかったが、なんだか面白そうだったので、兄に続いて庭に出た。
 「良かった、今日は結構暖かいな。天気もいいし、いい撮影日和だ」
 満足げに呟いた兄は、開け放った窓に腰を下ろした。慎二も、その隣に腰を下ろす。間近で紅茶の箱をしげしげと眺めたが、やっぱり慎二には、ただの紅茶の箱にしか見えなかった。
 「これが、ホントに、カメラ?」
 「カメラだよ。ピンホールカメラっていうんだ。昨日、受験勉強に疲れてたから、久々に部活に顔出したら、ちょうど後輩がそんな話をしてる所でさ。懐かしくなって、作ったんだよ」
 「えっ」
 カメラが手作りできるなんて、聞いたことがない。信じられない、という顔をする慎二に、兄は得意げに笑い、それまで手のひら側に向けていた面を、こちらに向けた。
 そこには、ちょうど箱の側面中央辺りに、黒いテープがぺたんと貼ってあった。破れているのを補修した、というより、意図的に貼った感じのする貼り方だ。
 「ほら。このテープが貼ってある所。実はここには、針の先位の小さな穴があけてあってね、その穴が、普通のカメラで言う“レンズ”なんだ」
 「穴、って……ただ、穴があいてるだけ?」
 「そう、ただ穴があけてあるだけ。ガラスをはめ込んでもいないし、セロファンを張ってもいないよ。で、この黒いテープが、その穴を塞いでる。つまり、このテープがカメラの“シャッター”。撮影する時は、このテープを剥がして、穴から光が入るようにするんだ」
 「へーえ…」
 「で、この箱の中に、印画紙っていう紙が入ってるんだ。光に反応する薬が表面に塗ってある紙で、そういうのを、光を感じる体って書いて“感光体”って呼ぶんだけど―――普通のカメラで言う“フィルム”がその役割をしてる。普通のカメラもピンホールカメラも、穴から入った光に、その感光体が反応して、フィルムとか紙の上に画像が写るんだ」

 説明されても、やっぱり不思議でたまらない。
 中に入っている印画紙なるものが、どうやら写真が出来るのに重要なものであることは、何となく想像がつく。カメラにただのビニール片やセロファンを突っ込んでも、そこに画像が焼き付けられることはないだろう、位のことは慎二にも予想できる。あれは、フィルムに、そういう特殊な薬品が―――それが感光体とかいうやつだろう―――塗られてるか含まれてるかしているから、写るのだ。
 でも、フィルムや印画紙だけで写真が写る筈はない。カメラ本体が何をしてるかは知らないが、とにかく、カメラが必要な筈だ。
 慎二が知るカメラは、兄が日頃愛用しているカメラだ。慎二にはその仕組みがさっぱり分からないが、多分、職人技術が目一杯あのボディの中に詰まっているのだろう、と想像している。だから、その職人技で写真は写るのだと信じているのだ。
 でも、今、目の前にあるのは、どう見たって紅茶の箱で。
 ただの紅茶の箱じゃないことは分かったが、そうは言っても所詮、針の頭ほどの穴があいてて、それをテープで塞いでるだけに過ぎなくて。

 ―――およそ、技術って言葉からは程遠いよなぁ…。
 小学生の図画工作と大差ない仕組みに、やはり首を傾げてしまう。だからつい、
 「……ホントに写るの? これで」
 と、不安そうな声で秀一に訊ねてしまった。
 博識な兄が言うのだから間違いない、と思いつつも、疑うような口調になってしまう。が、秀一は、特に気を悪くした様子も見せず、あはは、と明るく笑った。
 「だよなぁ。俺だって最初は、そう思った位だから。だから、実験。今から撮ってみようぜ、これ」
 「えっ、いいの?」
 途端、慎二の目が輝いた。実は、これが本当にカメラなら、一体どうやって撮るんだろう、と興味津々だったのだ。
 「いいよ。印画紙も何枚か買ってあるし。そうだな―――父さんが貰ってきたあそこの菊の鉢植えでも撮ろうか。ちょっとこれ、持ってて」
 そう言うと、秀一は紅茶の箱を慎二に渡し、立ち上がった。どうするのかな、と思って眺めていたら、秀一は、庭の隅に置いてあった脚立を持ってきて、それを慎二が座っている前に立てた。
 貸して、という風に、手が差し出されたので、預かっていた紅茶の箱を渡す。すると秀一は、それを、脚立の中段辺り―――ちょうど、座っている慎二の腰の高さ位に置き、穴をテープで塞いである面を、庭に3つ並べて置かれた菊の鉢植えの方へと向けた。
 「慎二、時計持ってきて」
 「あ、うん」
 何に使うのか分からないが、秀一にそう言われ、慎二は部屋の中に身を乗り出して、テレビの横に置いてあった置時計を掴んだ。
 「うーん…よく晴れてるけど―――5分てとこかな。よし」
 慎二が時計を取っている間、そんなことをブツブツ呟いていた秀一は、大きく一度頷くと、慎二の方を振り返った。
 「じゃあ慎二、秒針が12時指したら、“はい”って合図して」
 「うん」
 返事をしながら兄をチラリと見ると、兄は、脚立の上に置いた箱を手で押さえ、例の黒いテープの端っこを指で摘んでいた。
 ジリジリとした時間が過ぎ、秒針が1ミリ、1ミリと12時に近づく。
 「―――はいっ」
 秒針が12を指すと同時に慎二が合図をすると、秀一は、テープの端を引っ張り、ピッ、と剥がした。テープに覆われていた穴が顔を出した筈だが、あまりに小さな穴のため、身を乗り出した慎二からは全く見えなかった。
 「はい、これでオッケー。あとは5分待とう」
 「え?」
 それだけ?
 あまりのあっけなさに、ポカンとしてしまう。が、本当に「それだけ」らしく、秀一は、剥がしたテープを手の甲に貼り付けて、悠々と慎二の隣にまた座ってしまった。
 「……」
 「ん? どうした?」
 置時計を抱えて呆気にとられている慎二の様子に、秀一が軽く首を傾げた。
 「…や…、だって、その―――テープ剥がして、5分待つだけ?」
 「そうだよ」
 「…ホントに写るの?」
 「写るよ」
 「…よく分かんないなぁ」
 もしそれだけで写るなら、あの最先端技術の結晶みたいなカメラは、一体何なんだろう? と、眉をひそめる慎二に、秀一はちょっと笑い、時計を確認した。そして、説明に十分な時間は残っているな、と判断し、改めて口を開いた。

 「なあ、慎二。お前、俺たちがどうして物を見ることが出来るのか、その仕組み、知ってるか?」
 「えっ? えーと……、ううん」
 「光があるから、見えるんだ」
 そう言うと秀一は、すっと手を挙げ、ピンホールカメラが向いているのと同じ方向を指差した。
 「例えば、あの菊。真ん中の鉢のやつの花びらは、黄色に見えるだろう? でもそれは、あの菊が黄色って色を自ら発してるんじゃない。もしそうなら、どんな条件下でも―――それこそ、真っ暗闇の中でも、黄色に見える筈だからね」
 「じゃあ、どうして黄色に見えるんだろう…」
 「光を反射してるんだ」
 「反射?」
 「そう。光が、たくさんの色の集合体だってのは知ってるだろ?」
 問われて、頷いた。それは、小学生の時、理科の授業でやったプリズムの実験で知っている。無色透明に思える光は、実は、赤や青や緑といった光が集まったものなのだと―――雨上がりに見る虹が七色に見えるのは、そのせいなのだと教えられた。
 「光が、あの菊に当たる。それは、色の集合体が菊の表面にぶつかってる、ってことだ。イメージできる?」
 「うん」
 慎二はじっと、秀一が指差す菊の花を見つめた。
 特に強い陽射しを浴びている訳ではないが、今、菊は日向(ひなた)に置かれている。周辺は明るい。光がいっぱいだ。慎二には無色透明に見えるが、あそこには、色の集合体が大量にあって、それが菊の表面にぶつかっている。
 「光の中の色のうち、いくつかは、ぶつかると同時に吸収される。どの色がどれだけ吸収されるかは、その物体の材質や表面の形で決まるんだ。そして、吸収されなかった色は、表面で反射される―――色が跳ね返ってくるんだ」
 「え…っ、何も、跳ね返ってるようには見えないよ?」
 「あはは、それは、見えないさ。周りにも沢山光があるだろ? 跳ね返った色だって、光の一部だ。紛れて見えないんだよ。ほら、学校でスライドをスクリーンに映すような授業、たまにやるだろ? ああいう時は、暗くするとちゃんとスクリーンに映るけど、カーテン開けた途端、見えなくなる―――あれと同じで、反射された色は、光の中では見えないんだ」
 「じゃあ……どんな色が跳ね返ってるかは、暗くしないと見えない、ってこと?」
 「そう。それを、俺たちの目はやってるんだ」
 ニッ、と笑った秀一は、慎二と目の高さを合わせるように少し背中を丸めると、自分の目を指差した。明るい慎二の瞳とは違う、深い漆黒色をした兄の目を、慎二も見つめた。
 「俺たちの目の表面は、ちょうど虫眼鏡みたいに膨らんでる。虫眼鏡で、太陽の光を集めたこと、あるだろ? あれと同じように、俺たちの目は、周りの光を沢山取り込んで、1点に集める―――もの凄く小さな小さな1点にね。その集まった光は、俺たちの目の内側に射し込んでくる。目の内側は、カーテンを閉めた教室同様、真っ暗だ。そこに、細い細い光の束が射し込むんだ。その中には、菊の花にぶつかって跳ね返された光の色も含まれてる。あのブロック塀に跳ね返された光も、地面に跳ね返された色も、その時目を向けた全ての物から跳ね返された光が入ってるんだ」
 「……」
 「俺たちの目の中には、印画紙やフィルムと同じ、光に反応する性質を持った場所がある。そこに、その集められた光の束が当たる。ちょうどスクリーンに映るようにね。そこで初めて、俺たちは、菊の花が跳ね返した色がどんな色だったのかを認識できる―――黄色を跳ね返したんだな、ってね」
 「……」
 「そして、色の違いや影の有無で、その物体の形をも認識できる。それだけの事を、俺たちは、一瞬でやってのけるんだ」
 「…オレ…、そんなの、意識したことない」
 「うん。意識しなくても、できるんだ。凄いだろ」
 「……凄い…」
 呆然と呟いた慎二は、ゆっくりと、視線を菊の鉢植えの方へと向けた。そこには、鮮やかな黄色い花びらをした大輪の菊が、誇らしげに咲いているし、その後ろには植え込みの葉っぱの緑が、更にその後ろにはブロック塀が見える。
 「オレが見てるこの色は、全部、反射した“光”なんだ―――…」

 薄暗がりでも物がある程度見えるのは、ほんの僅かな光があるだけで、物体がその光を反射しているから。真っ暗になると何も見えなくなるのは、物体の表面に反射する光がゼロになってしまうから。明るければ、見える―――その当たり前のことが、実は「自分達の目が光を見ているから」だとは、今まで一度も気づかなかった。
 木々の緑も、地面の茶も、アスファルトの灰も、空の青も。
 美しいものも、醜いものも、輝いているものも、色あせているものも。
 この世にある、全ての「目に見える物」は、光を反射している。世界中が、物体が反射した光で覆われている。その光を集めて、自分達は、この世界を見ている―――自分達が見ている世界は、実は、“光”なのだ。

 「あのピンホールカメラも、同じだよ。ああして菊の方に穴を向けておくと、何もしなくたって、光はあの小さな穴の中に入ってくる。カメラが向いてる方にあるたくさんの光を、あの小さな穴1点に集めるんだ。箱の中は密閉されていて、真っ暗になっている―――そこに置かれた感光体に光が当たって、色や形が認識されるんだ」
 「じゃあ、なんで、5分待つの?」
 「俺たちの目や、普通のカメラのレンズは、虫眼鏡みたいな構造になっていて、一瞬で大量の光を1点に集められる。けど、ピンホールはただの穴だから、自然に入ってくる光しか集められない。だから、入ってくる光がとても弱いんだ。俺たちが一瞬で集められる量の光を、あのカメラは、5分かけてやっと集められるんだよ」
 「へーえ…」
 随分のんびりしたカメラだなぁ、と思う一方、慎二は、ちょっと感動した。
 自分が無意識のうちにやってのけている驚異的な仕事を、あの針の先ほどの小さな穴も、5分かければちゃんとやってのけるのだ、ということに。
 「なんか、いいなぁ、そういうの」
 「え?」
 「ゆっくり、ゆっくり、周りの光を集めて、色を感じ取っていくのって」
 「ハハ…、なんか、慎二らしいな。そういうのを“いいなぁ”って感じるのって。……あ、5分経った」
 時計を見た秀一は、そう言って立ち上がり、手の甲に貼っておいたビニールテープを剥がした。
 脚立の上の箱を手で押さえ、また穴を塞ぐように、黒いテープを貼り付ける。
 「よし、これでOK。あとは、中の印画紙を取り出して現像すればいい」
 「上手く写ってるかなぁ」
 「どうかな。モノクロだから、色は出ないけど―――上手く撮れたら、今度、母さんとか父さんも撮ってみようか」
 「うん」
 ほい、と差し出されたピンホールカメラを受け取り、慎二はふと、父と母をこのカメラで撮る場面を脳裏に思い描いた。
 ―――きっと、光を集めてる間は、被写体は動いちゃダメなんだよな。昔のカメラも、そうやって撮ったって言うし…。母さんも父さんも、こんな箱の前で5分も10分もじーっとしてられるのかな。
 記念撮影っぽい笑顔を作りながらも「ねぇ、まだなの?」とムズムズしている母を想像し、思わずクスクス笑ってしまった。そんな慎二に、脚立を片付けていた秀一は、不思議そうな顔で振り返った。
 「ん? どうした?」
 「あー、うん、なんでもない」
 首を振りながらも、まだ慎二は小さく笑い続けている。
 秀一も、つられたようにちょっと笑ったが―――ふいに、あることが脳裏にひらめき、脚立を置く手を止めてしまった。
 「―――そうか。なんか、分かった気がする」
 「え?」
 唐突に、兄が、妙に納得したようにそう呟くのを聞いて、慎二は笑うのをやめ、キョトンと目を丸くした。
 「分かった、って……、何が?」
 「さっき、慎二が言ってたこと」
 「オレ?」
 「言ってただろ? “色が来なかった”って」
 そう言うと、秀一は、壁際に脚立を置き、くるりと振り向いた。そして―――なんだか、大切な宝物を見つけたような目で慎二を見下ろして、微笑んだ。

 「慎二の目には、普通のカメラのモードと、ピンホールカメラのモード、2つのモードがあるんだな」
 「……え……っ?」
 「たくさんの光を集めて、瞬間に焼き付けるような物の見方と―――ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて光を蓄積していって、それが一杯にならないと色を再現できないような物の見方。超高性能の最新型カメラみたいな目と、ピンホールカメラみたいなスローな目、両方持ってるんだよ、慎二は」
 「……」
 「あの時、河川敷で見つけた蝶々を、慎二はピンホールカメラみたいな目で見てたんだな、きっと」

 今、まだ色を思い出せないのは、色で一杯になっていないから。
 蝶々に似た雲を眺めながら、あの時見た色を、何度も何度も頭の中で繰り返し再生して―――いつの日かきっと、その色が、ポンと“来る”日がやってくる。
 そうなった時初めて、慎二は、一杯になった色を自分のスクリーンに―――真っ白なスケッチブックに、描き出す。

 「俺には出来ない物の見方だよ。…だから慎二は、俺とは違う世界が、たくさん見えるのかもしれないな」
 そう言って目を細める秀一に、慎二もくすっと笑い、目を細めた。


 ―――それは、秀兄もだよ、きっと。
 秀兄のように、今、目の前で起きている現実から瞬時に真実を掴み取るような目を、オレは持っていないから。

 

 陰と陽。光と影。静と動。…夢と現。
 2人は、それぞれの中に、自分には見ることのできない世界を見ていた。
 正反対故に、必要とし合う心―――兄弟は、お互いが一番の憧れで、そして、お互いが一番の理解者だった。

 そう。
 この時から3年後―――秀一がこの世を去る、その瞬間まで。

 

***

 

 「あれ……っ?」
 帰宅した透子は、テーブルの上に置かれた箱のような物に目を留め―――やがて、ちょっと嬉しそうに目を丸くした。
 「えー? もしかしてこれって、ピンホールカメラ?」
 「えっ」
 そのピンホールカメラを作った慎二が、逆に驚かされる。一見するとただの箱に見えるのに、何故それと分かったのだろう、と。
 「よく分かったね」
 「うん。小学校か中学校の理科の実験で、作ったの。洗剤の空き箱使った、もっとカッコ悪いやつだったけど、いかにも何かを塞いでます、っていう黒いテープが同じだから、分かったの」
 「へぇ…、いい学校だなぁ。授業でこんなもの作らせてくれたんだ」
 「でも、急に、どうしたの?」
 ストン、と慎二の向かい側に座り込んだ透子は、そう言って、不思議そうな目でピンホールカメラを見つめた。無理もない質問に、慎二は苦笑しつつ答えた。
 「ああ、うん、実は―――この前、ヤボ用で成田君に会ってね」
 「成田さん、って……あの、カメラマンの?」
 「そう。それで、用事終わった後に久々にいろんな話をしたんだけど、その時、どういう経緯か忘れたけど、ピンホールカメラの話になって。で、懐かしいからちょっと作ってみたいなぁ、って思って―――本屋でこの本買って、参考にして作ってみたんだ」
 そう言って慎二は、テーブルの下に放り出されていた本を手に取り、テーブルの上に置いた。“ピンホールカメラ入門”なんてタイトルのついた本を見て、透子は意外そうな顔をした。
 「ピンホールカメラ専門の本があるなんて、知らなかった」
 「うん、オレも知らなかった。なんか、最近結構、こういう昔懐かしいものが流行らしくて、何冊かこういう本があったよ」
 「ふうーん…。でも、凄い。綺麗な箱で作ると、ちょっと芸術だね」
 「あはは、上手く撮れればね。撮れても、現像で失敗するかもしれないし」
 「ああー、私も、現像した後、紙に焼き付けるところで失敗しちゃったんだった…。慎二は? 子供の頃に撮ったんでしょう?」
 「ああ、うん」
 透子に問われ、慎二は一瞬言葉を濁しかけて―――でもすぐに曖昧な笑みを浮かべて、答えた。
 「…子供の頃は、現像は、兄貴がやってくれたんだ」
 「―――…」
 カメラに注がれていた透子の視線が、弾かれたように、慎二に向けられる。
 大きな瞳が、真っ直ぐに、慎二の目を見つめる。その目が辛そうに歪む前に、慎二はくすっと笑って続けた。
 「兄貴が暗室代わりにしてた物置の中で、赤色ランプだけ点けてさ。…カメラマン志望だったからね。兄貴は、職人みたいに上手かったよ。オレは、隣でそれを見物してただけ」
 「…そう、なんだ」
 「うん」
 「…秀一さんとの、いい思い出なんだ」
 「……うん」
 「…そっか」
 透子の目が、優しげに、どこか懐かしげに笑った。
 「そっか―――お兄さんの思い出、なんだ」

 きっと透子の脳裏には、紘太のことが浮かんでいるのだろう。
 もうここにはいない、優しい思い出―――トランプで負けて泣く紘太、抱きついて駄々を捏ねる紘太。どれも、いい思い出で、思い出すほどに懐かしくて……そして、もう二度とないのだ、と思うと、寂しくて胸が痛くなる思い出だ。慎二にとっての秀一が、そうであるように。
 秋の日の午後、2人並んでのんびりと、ピンホールカメラが花や景色を写し出すのを待っていた思い出―――あのピンホールカメラは、今も実家のどこかに、母の目に触れぬよう密かに保管されているだろう。あの前で、引き攣った笑顔で何分もじっとしていた母が、それを手がかりに、兄の死という現実に引き戻されないように。
 思い出は、いつだって、優しい。
 優しくて、優しくて―――だから、現実に戻った瞬間は、残酷だ。

 「でも、なんだろう。ピンホールカメラって、なんか、慎二っぽい」
 ピンホールカメラを手に取って四方八方から眺めていた透子が、ふいに、ポツリとそんなことを呟いた。
 「オレっぽい?」
 意味が分からず、慎二が眉をひそめると、透子は顔を上げ、ニコリと笑った。
 「慎二、よく“季節の色を吸収しに行く”って言って、お花を見に行ったり紅葉を見に行ったりするけど、その色をカンバスに描くのはそれからずーっと経ってからでしょ。下手すると、去年見たものを今年描いてたりするし。多分…自分の中に、イメージが一杯になるまで溜まり切ってから描くんだよね。それって、なんか、ピンホールカメラっぽくない?」
 「……」

 ―――…驚いた。

 あまりにも、秀一と同じことを言うので……驚いた。

 そう言えば―――昔も、透子は、秀一と同じことを言った。
 透子がまだ高校生だった頃、トレッキングコースで、散り残った落ち葉を眺めながら、子供の頃の話を初めて語って聞かせた時。浮世離れした少年だった慎二のことを聞いた透子は、慎二のことを「芸術家」と言った。そして、こう言ったのだ―――「だから、大人になった分、きっと生きてくのが大変だろうなあ」、と。
 兄も、かつて、同じことを言った。お前は生きていくのが大変そうだな、と。現実世界で生きていくには、辛いことが多すぎるだろう、と。
 不思議だ―――まるで違うタイプに見える兄と透子が、こと、慎二に関しては、頻繁に同じ言葉を口にするなんて。

 「…慎二?」
 僅かに目を見開き、驚いたように自分の顔を凝視し続けている慎二を、不審に思ったのだろう。透子は、少し心配そうな顔をして、慎二の目を覗き込んだ。
 「ごめん……私、なんかまずいこと、言っちゃった?」
 「―――ああ、いや」
 数度、瞬きを繰り返す。小さく息をついた慎二は、ふわりとした笑みを透子に返した。
 「…なんでもない」
 「ホントに?」
 「うん。ただ、オレってやっぱり、透子が好きだなぁ、と思っただけ」
 「な―――…っ、なに、それっ」
 ぱっ、と顔を赤らめた透子は、慌てたようにそう言うと、あたふたと立ち上がった。たかが“好き”の一言だけなのに―――すぐに照れて挙動不審になる透子が、なんだか可笑しい。
 「ゆ、夕飯作ろーっと。今日は、ほうれん草鍋ね」
 「え。シチューにするんじゃなかったの」
 「急遽変更。帰りに商店街寄ったら、ほうれん草が2袋で198円だったんだ。慎二、最近疲れてて貧血気味っぽいから、がんがん食べて元気になってもらわないと」
 「…はいはい」


 笑ってしまうほどに、リアリストの透子。
 たとえどれほど辛い現実であっても、体を丸め、震え、時に逃げ出したくなりながらも、必死に歯を食いしばって生きる。そんな生命力を持った透子。
 けれど―――流れ行く雲に、膨らみかけた蕾に、頬を撫でる風に、小さな小さな季節の移ろいを感じ取る、ロマンチストの透子。
 時に現実から乖離して、夢の世界を漂うように生きてしまう慎二を、誰よりも理解し、それでいいのだと肯定してくれる透子。

 ……そうか。
 透子って、そういうところが、昔から兄貴と似てたのか。


 くすっ、と笑った慎二は、手元にピンホールカメラを引き寄せると、壁に寄りかかり、静かに目を閉じた。
 その脳裏に、透子と2人、ピンホールカメラを置いてのんびり日向ぼっこする風景を思い描く慎二の表情は、子供の頃と同じ、幸せそうな笑みを湛えていた。


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