←scene2Heavenly Child TOPscene4→

scene3: 先生

 俺の天邪鬼が始まったのは、多分、佐和子のせいだと思う。
 幸せの絶頂期に佐和子を失ってしまったことで、俺は、“大切なもの”を持つことが怖くなった。もう一度、あんなことが起きたら―――きっと次は、俺も生きてはいけないだろうから。
 元来、寂しがりやで世話焼きな人間である俺だからこそ、人と深く付き合うことを避けた。寂しい時ほど「寂しくない」と言い、気に入った人間にこそ「お前などどうでもいい」と突き放した。
 教師という仕事は、面倒を見なければならない存在には事欠かない。とはいえ、実生活に立ち入るほどの関係ではない。長い生徒でも、卒業までの3年間で終わる付き合いだ。そんな期限付きの関係だからこそ、不必要に感情的にならずに済む。
 寂しがりな部分を埋めるだけの適度な雑音、世話焼きな部分を埋めるだけの適度な干渉―――そんな仕事は、俺には向いているのだと思う。

 そんな俺だからこそ、工藤慎二という生徒は、俺にとって、無視できない存在になった。

 初めてあいつの絵を見た時から―――とても困った存在になってしまったのだ。


***


 「寅之助ちゃーん!」
 美術室のドアがガラッと勢い良く開く。
 手にしていた絵から扉へと目を移す。廊下から覗いた顔は、新聞部の女子生徒2名だった。
 「工藤君知らないっ!?」
 「工藤? なんだ、教室におらんのか。まだ清掃時間だろうが」
 「そーよ! 掃除の時間のうちに捕まえようと思ってたのに、また逃げられちゃったのっ! 寅之助ちゃんとこに逃げ込んでるんじゃないかと思ったんだけど、まだ来てない!?」
 「来とらん」
 眉間に深い皺を寄せた先生は、憮然とした声でそう答えると、超不機嫌という顔を女子生徒たちに向けた。
 「それからお前ら、俺を名前で、しかも“ちゃん”付けで呼ぶんじゃない。40過ぎの男を捕まえて“ちゃん”とは何事だ。呼ぶならちゃんと“西條先生”と呼べ!」
 「あらやだ、親愛の情の印じゃないの。ねー?」
 「ねーっ?」
 顔を見合わせて、わざとらしく膝を折って首を傾げてみせる女子生徒の様子に、脳の血管が今にも切れそうになる。が、いちいちキレていたのでは教職にある身としては非常にまずいので、先生は怒鳴りたい気持ちをぐっと堪えて、手にした絵を振って彼女らを追い払うようなゼスチャーをした。
 「とにかく、見ての通り、工藤はおらん。早く捜しに行け」
 「はーい」
 案外素直な返事が返ってきて、新聞部の2人は、取材ノートと古めかしいカメラを手にバタバタと廊下を走り去って行った。去りしな、ケラケラと明るい笑い声が聞こえた。あの2人の目の前で箸を転がして見せたら、本当に笑うかもしれんな―――そんなことを思いながら、先生は溜め息をついた。
 「…全く…」
 アートボードに描かれた絵をぽん、と机の上に投げ出すと、先生は、美術室前方の窓際に目を向けた。
 ―――なんだってアレに気づかんのかね、あの子らは。
 どう考えても不自然な位置にずらされている、教卓。普通、教卓は、黒板の前方中央にあるものだ。あんな風に窓際に寄せられている訳がない。まあ、掃除の時間なので、気を利かせた生徒が上の方の窓を拭こうとして引っ張ってきた可能性はあるが、ここは一般の教室ではなく、美術室―――毎日生徒が掃除に入る場所ではない。
 その時、ガタガタ、と音がして、窓際の教卓が揺れた。
 にゅっ、と教卓の裏から伸びた手が、教卓の角を掴む。そしてひょいと顔を出したのは―――さっきの連中が捜していた人物だった。
 「…行っちゃったかな…?」
 ふぅ、と息をつきながら、慎二が辺りをキョロキョロ見回す。その途中、呆れ顔の先生と目が合うと、慎二は誤魔化すような笑いを浮かべてやっと立ち上がった。
 「助かりました。あの子たち、結構しつこくて…」
 「構わんけどな。インタビュー位答えてやればいいだろうが。お前がヒーローにまつり上げられることなんて二度とないかもしれないんだぞ。欲を出せ、欲を」
 そう、さっきの新聞部員は、学内新聞に載せるインタビュー記事のために、慎二を捜していたのだ。現在、2月の末―――3学期も残り僅かだ。今学年中に載せようと思えば、焦るのも頷ける。
 昨年の秋、とある有名な新聞社の一般公募に、慎二の絵を勝手に出品してしまったのは、実は先生だった。才能はありそうなのに、さっぱり欲を持たない慎二に、ちょっと刺激を与えてやろうという魂胆だった。それが、まさか―――高校生部門で金賞を取ってしまうとは思わなかった。おかげで、何も知らなかった慎二は、いきなり有名人になって真っ青になっている訳だ。
 「…だから。オレは、勝負ごとは向いてないんですってば…」
 「―――ま、そりゃ、見てれば分かるわな」
 それでも、どうしても出してやりたかったのだ。
 いつも自信なさげで控え目なこの生徒に、お前はこういう公募に胸張って出せるだけの力があるんだぞ、と教えたかった。勧める位じゃ絶対自分の意志では出さないと分かっていたから、こういう強硬手段に出たまでだ。
 「けど、これでやっと分かっただろうが。お前の絵はなかなかいい線いっとることが」
 「…はあ」
 「…お前なあ。全国規模で金賞取っといて、そういう自信なさげな顔をするな! 小森や藤代はどうなる! あいつらなんざ、都の高校生絵画コンクールに出しても入選すらせんのだぞ!」
 慎二と同じ美術部員の名前を出して活を入れるも、慎二の自信なさそうな顔は変わらない。ピンと来ないよなぁ、という顔をして、少し首を傾げている。これだから、美術部顧問としてはイライラしてしまうのだ。
 「全くもう…。掃除をサボってまで逃げ回る位なら、ぱぱっと答えちまったらどうなんだ」
 「うー…、でも、なんか、あの子たちにまくしたてられると、言葉が出なくなっちゃうんですよ」
 「―――それは、言えてるかもしれんな」
 「あっ、工藤君!」
 突如、廊下から声がして、慎二の肩がビクリと跳ねた。
 ついさっき、聞いたばかりの声だ。廊下の方を返り見ると、案の定、さっき笑いながら走り去ったとばかり思っていた新聞部の女子生徒2人が、廊下側の窓から慎二の姿を見つけて騒いでいるところだった。
 「西條先生、ひどいっ! やっぱり匿ってたんじゃないですかーっ!」
 「やっぱり睨んだとおりだぁ。寅之助ちゃん、工藤君には甘いんだもん。ほんとズルいよねーっ」
 ガラリ、と扉を開けた2人は、憤慨した顔でずんずんと美術室の中に乗り込んできて、両脇から慎二の腕をがっちり捕獲した。しまったなぁ、という顔でがくりとうな垂れる慎二の姿は、ちょっと可哀想かもしれない。
 「さ、工藤君。とりあえずクラス戻って掃除ね。で、ホームルーム終わったらそのままインタビューさせてもらうから」
 「…あの、オレ、何も話すことないんだけど…」
 「いいから早く!」
 観念したのか、それとも元々彼女らより力が弱かったのか、慎二はそのまま、2人組にズルズルと引きずられるようにして連れて行かれてしまった。その姿は、あまりにも情けなかったが、あまりにも慎二らしいとも言える姿だったので、先生は少しだけホッとした。

 ―――いかんな。あれ以来、工藤より俺の方が神経過敏になっとるのかもしれん。

 あれ、以来。
 去年の5月に、慎二の兄が他界して以来―――それまでも困った生徒であった慎二は、先生を振り回す存在になっていた。

***

 「西條先生、どうぞ」
 コトリ、と目の前に置かれた湯飲みに、先生は顔を上げた。
 「ああ、どうも。倉島先生も居残りですか」
 「家でやればいいんでしょうけどね。家に帰ってしまうと、どうしても家のこと優先になってしまうので、ギリギリまで粘ろうと思いまして」
 そう言って笑う倉島は、現国担当の中堅教師である。1年前結婚した彼女なので、確かに家に帰れば主婦業優先になってしまうだろう。
 この時期、教師の居残りはどうしても増える。何故なら、通知表という難題を抱えているからだ。倉島のほかにも数名居残っているが、先生を含め全員、その原因は通知表に違いない。
 「西條先生は大変ですねぇ。美術と古文両方ですから」
 ちょっと息抜きがしたくなったのか、倉島はそう言って、先生の隣の席に腰掛け、自分の分の湯飲みをすすった。
 先生は、元々古文担当である。大学も日本文学専攻だったし、故郷の尾道の公立高校でも古文を教えていた。流れ流れて、今はこの東京のど真ん中にある私立高校に勤めているのだが、やはり古文での採用だった。ただ―――たまたま同じ時期、美術の非常勤講師が辞めてしまい、代講の講師も見つからない、という状況だったせいで、美術も受け持つ羽目になったのだ。足かけ25年、美大こそ行かなかったものの、ずっと絵に携わってきたことが、こういう結果になった訳だ。
 「いや、参りましたよ、ほんとに。今年は担任もあるし…」
 ちょうど担任クラスの通知表をつけていたところだ。溜め息混じりにそう呟いた先生は、眉を顰めるようにして湯飲みを口に運んだ。同じく、今年1年生の担任になった倉島は、分かる分かるという風に頷いた。
 「あの“担任所感”欄、私、全部空白にしたくなっちゃいましたよ。どれだけクラスのことを把握できてるか、正直言って自信ありませんもの」
 「わたしにしたって、自信なんて微塵もないですよ。全く…人を扱う商売は、何年経っても難しいもんです」
 「あら、西條先生でも、そんなことおっしゃるんですか?」
 意外、という顔を倉島がするが、先生からすればそんな顔をされることの方が意外だ。
 「そりゃあ、そうですよ」
 「でも先生、生徒の信頼が厚いでしょう? 工藤君の件も、随分親身になっていらっしゃるし」
 「ああ…まあ」
 慎二のことを言われると、ちょっと面映い。先生は、曖昧に返事をぼやかし、またお茶をすすった。
 「でも、本当に良かった、工藤君。一時はどうなっちゃうかと心配してたんですよ。仲のいいお兄さんを亡くした上に、お母さんまで倒れられてしまうなんて―――多感な年頃ですし、傷つきやすい子に見えますから。でも、ちゃんと学校に来てますし、前と変わらない笑顔を見せてくれるし…西條先生が担任だったのが良かったのかもしれませんね」
 「まあ…美術部で1年の時から知ってましたから、工藤側も色々言いやすい部分はあるかもしれんですが…ああ見えて工藤は、意外と打たれ強い奴です。大丈夫ですよ」
 ―――嘘だ。ますます心配になった。
 前と変わらない笑顔だから、余計心配なのだ。まだ、その苦しい胸の内を表に出してくれた方がどれだけ安心か知れない。

 あれほど楽しげに家族の話をしていた慎二が、今、家族なんていないんじゃないかと言うほどに、家族の話には一切触れない。特に…今も時折入退院を繰り返しているという、母親の話は。重大な病気なのか、入院の際は大抵救急車で運ばれている。なのに、先生が幾度訊ねても、慎二は絶対に答えない―――母親が、どんな病に侵されているのか。
 まるで、家族を自分の中から閉め出すために、学校に来ているみたいだ。時折学校に来なくなるのも、授業を抜け出してどこかへ消えるのも、何かから逃げているみたいに見えて―――不安を、煽られる。
 こいつも、死んでしまうんじゃないか。…そんな不安を。

 「西條先生が工藤君に親身になる気持ち、私も分かる気がします。つい、構いたくなっちゃう子ですよね」
 「…ほー。やはり、女性の目から見ると、そういうタイプですか、工藤は」
 クスクス笑う倉島に、先生は少しからかいを乗せてそう言ってみる。「工藤君て母性本能くすぐられるよね」とクラスの女子生徒が言っていたのを思い出したのだ。すると倉島は、ちょっと顔を赤らめ、怒ったような拗ねたような顔になった。
 「あらやだ。変な意味にとらないで下さいね」
 「はは…、分かってますよ。結婚1年じゃ、まだ新婚の域ですからね」
 「そうですとも。それに、西條先生も気をつけた方がいいですよ? うちのクラスの新聞部の子なんて、“西條先生がいつまでも独身なのは、工藤先輩に道ならぬ恋をしてるからに違いない”なんて言ってるようですし。教師と生徒の同性愛疑惑発覚、なんて記事、読みたくないですよ」
 思わず、口にしたお茶を吹き出しそうになった。
 「は、はぁ…!? なんですか、そりゃあ」
 「そんなような漫画でも読んだんじゃないですか。今時の女の子は、同性愛モノなんかも結構好むみたいですし。工藤君がちょっと美少年系だから、色々誤解もされちゃうんでしょうね」
 「…男にはわからん感覚だなぁ…」
 ゲホゲホと咽ながら、ちょっと涙目になってしまう。それにしても、生徒の心配をした位で同性愛の嫌疑を掛けられたのではたまったものではない。近頃の女子高生の発想の恐ろしさに背筋が冷たくなった。
 「まあ、でも―――依怙贔屓(えこひいき)と言われやせんか、という不安はありますけどね。少々、工藤には私情が絡んでしまうんで」
 「そうなんですか?」
 「…担任している期間中に“一番大切な人間”を亡くしたのは、あいつが初めてなんですよ」
 倉島の表情が、俄かに曇る。倉島も恐らく、教師仲間の誰かから、西條寅之助という人物の過去について聞き及んでいるのだろう。
 「そう言えば西條先生、奥様を亡くされたって…」
 「15年以上も前の話ですよ」
 苦笑いした先生は、僅かにぬるくなったお茶をずずずっ、とすすり、どこか遠い目で呟いた。
 「乗り合わせたタクシーの運転手もろとも、ペシャンコでした。半年あまりの、短い“家族”でも―――結構、辛いもんですねぇ…」

 あれから、幾年もの年月が過ぎた。
 妻の―――佐和子のお腹に新しい命が宿っていたと知ったのは、妻が死んでからだ。妻もそれを知らなかったらしい。生きていれば17歳―――今受け持っている2年生のクラスの生徒たちと同じ年齢だ。
 そういう意味でも、つい、慎二に過干渉になってしまうのだろう、と先生は自分の心境を分析する。
 自分と同じく、大切な存在を失ってしまった少年に、生まれてくることなくあの世へ行ってしまった自分の子供を、どこかで重ねているのかもしれない―――と。

***

 「せんせー、さよーならー」
 「おー。春休みだからって遊びすぎるな」
 バタバタと帰っていく生徒を背中に感じながら、先生は黒板に書いた文字をささっと消した。
 ああ、やっと1年終わったか、という感慨が、ひしひしと迫ってくる。
 久々に体験する“担任”生活は、思いのほか気苦労が多かった。通知表を配り終えた今日、やっとその1年が終わったのだと思うと、強烈な肩凝りと緊張の糸が切れたような変な寂しさを同時に感じる。新学期からは担任の仕事はなくなるのだが、気楽さ半分寂しさ半分という気分で、我ながら複雑な心境だった。
 ―――まあ、今回は特に、工藤の件があったからな。
 行方不明になって捜しに行ったり、不良に絡まれて怪我をしたのを引き取りに警察まで走ったり…よくやったもんだ。来年も慎二は、担任泣かせな生徒を続けるのだろうか。就任5年目の、先生より少し年下の教師が担任になる筈だが、あいつに務まるのかね、とちょっと心配だ。
 「あー、やれやれ…」
 ひと通りの片づけが終わり、肩の凝りをほぐすように伸びをした先生は、何気なく窓の外を眺めた。
 この教室の真下には、園芸部ご自慢の大きな花壇がある。冬は寂しいばかりだった花壇だが、今眼下にある花壇には、色とりどりの花が並んでいた。なんでも、こういった花壇の全国規模のコンクールがあるらしく、この学校の園芸部もそれに参加しているのだそうだ。
 ―――こんなもんにも勝負事があるのか…。人間て動物は、とかく、勝ち負けを争うのが好きな性分らしいな。
 妙なことに感心しつつ溜め息をついた先生は、その花壇の端っこにしゃがみ込んでいる人影に気づき、眉をひそめた。
 ちょうどパンジーが固まって植えられている辺りの前にしゃがみ込み、じっと花壇を見つめている人物―――それは、慎二だった。
 慎二は以前から、やたら自然物が好きな生徒だった。絵に描く題材も、花や緑といった自然のものを好む。1年の時の担任も、休み時間が終わっても戻らない慎二を心配して捜したら、校庭の隅に咲いているタンポポを見ていた、なんて話をしていたほどだ。だから、慎二が花を見ているのは、別におかしくない。
 おかしいのは、その表情だ。
 妙に真剣な、硬い表情で花を見つめている。とてもじゃないが、大好きな花を眺めている顔には見えない。一体、どうしたんだろう―――ちょっと、気になった。
 教室の中をぐるりと見回し、異常ないことを確認すると、先生は教室を出て1階の教員室へと向かった。その教員室までの道のりの途中、やっぱり気になって、外に出てみた。
 案の定、あれから5分近く経つのに、慎二はさっきと寸分違わぬ姿勢で、そこにいた。
 「工藤」
 声を掛けると、慎二の背中が驚いたように跳ねた。慌てて振り向いた慎二は、先生を見上げて、キョトンとした顔をしていた。
 「えらく熱心に、花を眺めてるな」
 「…春だなぁ、と思って」
 そう言って柔らかく微笑んだ慎二は、また花に視線を戻した。
 「パンジーの花びらって、微妙なグラデーションだなぁ、って感心してたんです。自然に出来たものなのに、なんでこんなに綺麗なのかなぁ、って」
 「…その割には、妙に真剣な顔してたな。思い詰めてるみたいな」
 「……」
 前もってその空気は読んでいたのか、慎二は、先生の言葉に驚く様子も見せず、ただ黙ってパンジーを眺めていた。小さく溜め息をついた先生は、慎二の隣にしゃがみ込むと、同じようにパンジーの群生を眺めた。
 確かに、自然が織り成す色というのは、不思議なほどに美しい。人がどれだけその美に憧れてその色を真似ようとも、実際の花の色に勝ることはできないんじゃないか…そう思う時が、たびたびある。同じ色が2つとない、生き物だからこそ生まれる色合いに、先生の口元も自然と綻びかけた。
 「―――先生」
 「ん? なんだ?」
 「輪廻転生って、信じますか?」
 「―――…」
 唐突な話に、今度は先生の目が丸くなる。
 驚いて隣を見ると、慎二は、さっき2階から見た時のような、神妙な面持ちでパンジーを眺めていた。もしかしてさっきも、あんな顔をしながら考えていたのは輪廻のことなのだろうか?
 「うーん…どうだろうなぁ。別段仏教を熱心に信じてる訳じゃないが、輪廻はあるような気がするぞ」
 「人間だった魂だからって、人間に転生するとは限らないんですよね」
 「らしいな」
 「…じゃあ、こういう花に生まれてきたりもするのかな…」
 「―――なんだってそんなことを考えるんだ?」
 「…兄貴も、どこかで生まれ変わってるかな、って」
 「……」
 「もしそうなら、うちに来てくれないかなぁ…。うちには、兄貴が必要なのに」
 横顔が、少し歪む。直後、力なくうな垂れた。
 「…神様って、意地悪だなぁ…。オレより兄貴を連れてくなんて。…なんで、なんだろう…」
 溜め息混じりの呟きに、先生は眉をひそめた。

 慎二よりずっと年上で、優秀で頼りがいのある兄だったと聞いた。けれど、親は2人を分け隔てすることなく、平等に愛情を注いでいたとも聞いた。むしろ、1年の時に慎二がポツポツ漏らしていた家庭の話からは、両親と兄が、世俗に無頓着でいつまでも童心を忘れないような慎二を、3人して温かく包んでいるような印象を受けた。多分、そういう家庭だったのだろう。
 慎二だって、両親にとって、亡くなった兄と同等に、大切な子供の筈だ。
 ちょっと世間とズレている息子を愛してやまなかったような両親が、兄が死んだからといって、弟を蔑ろにするとは思えない。けれど―――もしかして、そんなことになっているのだろうか?

 「…あのな、工藤。兄貴が必要な人間なのはそうかもしれん。けど、お前だって、家族の中で必要な人間だろう?」
 思わず先生がそう言うと、うな垂れていた頭が少しだけ持ち上がり、慎二が先生の方に目だけを向けた。うっすらと微笑む口元は、その言葉にイエスと言っているのかノーと言っているのか、微妙だ。
 「そうだろう?」
 もう一度言うと、やっと慎二は少しだけ頷いた。
 「―――でも、兄貴がいてくれたらな、と思うんです」
 「……」
 「オレじゃ、兄貴の代わりになれない部分がたくさんありすぎて―――そんな時、オレって何のために生き残ったのかな、って…兄貴が死んでて自分が生きてる理由が、見えなくなるんです」
 「…どんな時に、そんな風に思うんだ?」
 どういう時、兄の代わりにはなれない、と思い知るのか…その質問には、慎二は答えなかった。ただ、小さな溜め息をひとつついて、視線を少し落としただけだった。
 「…先生って、奥さんを亡くしてるんですよね」
 答えの代わりに返ってきたのは、質問だった。確か、1年の頃、そんな話をした覚えもあるので、先生は頷いた。
 「ああ。もう随分前のことだがね」
 「先生は、自分より奥さんが生き残ってくれたらよかったのに、って思うこと、ないですか?」
 ―――自分より佐和子が?
 眉をしかめた先生は、佐和子を失った当時の自分を振り返った。どうだっただろう…自分が死ねばよかったのに、などと考えただろうか? 佐和子が生きていればよかったのに、とは常に思うけれど―――それはあくまで、自分も生きているという前提の上での話だ。
 「俺は、ないな。兄弟を亡くしたケースと、嫁さんを亡くしたケースを同じ土俵で考えるのは、ちと無理があるぞ」
 「…そっか。そうですよね」
 今気づいた、という風に、慎二はちょっと目を丸くし、そしてくすっと笑ってそう言った。彼を包む空気が少しだけ緩んだのを感じて、先生はホッと息を吐き出し、視線を花壇に向けた。

 「―――あのな、工藤。これは、俺の持論なんだが…」
 「…はい」
 「お前が生きてる理由も、俺が生きてる理由も、別にないと、俺は思うぞ」
 「え?」
 「人間は、当たり前のように生まれ、当たり前のように死ぬ。生まれることは“自然”だし、死ぬことも“自然”だ。たとえその原因が病気であれ事故であれ、死んだ時が寿命なのだと…そう、俺は考えてる。お前の兄貴が死んで、お前が生きてるその理由をあえて言うなら、それが兄貴とお前の寿命だったからだ、としか言えん」
 「……」
 「例えば、嫁さんが死んで俺が生き残ったのも、嫁さんより俺の方が立派だからとか、俺の方が多くの人に必要とされとるからだとか、そんな風には思えんし、思わん。実際、嫁さんの方が俺よりずっと出来た人間だったからな。でも―――世の中、立派な人間に限って若くして死ぬのは、元々持っている寿命が短いからかもしれんな。その短い時間を目一杯生きるために、立派な人間として生まれたんじゃないか―――そんな風に思う部分もある。…お前の兄貴も、俺の嫁さんも、お前や俺より上等な分、寿命が短かったのかもしれん」
 「…なんか、憎まれっ子世に憚る、みたいですね」
 「ハハハ、確かに、それと似てるな。そのことわざからいくと俺なんかは相当長生きするぞ。工藤が寿命をまっとうしても、まだ俺は生きてるかもなぁ」
 愉快そうに笑った先生は、キョトンとした顔をしている慎二の方を見て、ニッ、と笑った。けれど―――内心、ちょっと後悔していた。この持論を口にしてしまったことを。
 その持論からいくと、目の前にいる生徒などは、確実に早く死ぬ運命にあるような気がして。
 純粋無垢な、まるで子供のような透明な魂を持ったままに見える少年は、こういう奴ほど大人にならないままに死ぬような気がして―――背筋が寒くなる。
 「オレなら、短命でもいいから、上等な人間になりたいなぁ」
 そんな先生の心を知ってか知らずか、慎二はふいに笑顔になると、そんな先生が思わずギョッとするようなことを口にした。つい平然とした顔をできずに、その内心そのままにギョッとした顔をした先生は、眉間に皺を寄せて慎二の笑顔を睨んだ。
 「ばかもん。下等で構わんから、地べたにへばりついてでも生きたい、と思え。生きるのが生物の使命だぞ」
 「んー…、でもオレ、必要とされる人間になれれば、短命でもいいや、って思うんだけど」
 「必要とされる人間? …また、随分工藤らしからぬ言葉だな」
 「そうですか?」
 「課外ボランティアも学校の役員も、全部“オレはいいです”の一言で手を挙げようとしない奴だからな、工藤は。必要とされたいんなら、課題ボランティアにでも積極的に参加すりゃあいいだろうが」
 先生がそう言うと、慎二はちょっと首を竦めるようにして「スミマセン」と小さく言い、視線をまたパンジーの方へと移した。
 「必要とはされたいけど…ボランティアは、好きじゃないです」
 「なんでまた」
 「…だって、オレ以外の誰がやっても、同じでしょう? むしろ、オレよりそういう活動に向いてる奴、いっぱいいるし。…オレは、感謝されたい訳じゃなくて、オレを必要として欲しいんです。誰にも代わりができない、オレ自身を―――誰かの代わりとしてじゃなく、オレ自身として」
 「……」

 ドキリとした。
 心のどこかで一度も見ることのなかった亡き子供と慎二とを重ねていることを、なんだか慎二に見透かされたような気がして、心臓が痙攣しそうになった。
 いや、でも―――違う。そうではない。そもそも最初に慎二という生徒が心に引っかかるようになったのは、いきなり慎二と子供が重なって見えたせいではない。
 寂しくない、深く心を通わせる人などもう要らない、そう言い続ける先生の心の隙間にスルリと入り込んだもの。それは―――…。

 「…お前には、絵があるだろう」
 呟くように、そう口にしていた。
 「お前の絵は、お前にしか描けないもんだろう。お前の絵を必要とする人間が1人でもいたら―――それは、お前が生きてる“意味”になりえるんじゃないか?」
 「…オレの絵を必要とする人なんて、いるのかなぁ…」
 「いるさ。ここに」
 さらりと先生がそう言うと、慎二は驚いたように先生の顔を凝視した。
 想像もしなかった、という顔をする慎二に、先生は、珍しい位に穏やかな笑みを見せた。今この瞬間位は、昔家族に見せた顔を見せたっていいだろう…そう、佐和子や子供に心の中で言い訳して。
 「大人は、嘘つきながら生きなきゃならん時が多いからな。時々、肩が凝る。そういう時のために、工藤の絵は必要なんだよ。少なくとも俺にとっては…な。工藤の色使いは、この花壇の花みたいに、心が和む。…お前の絵を見るとな、俺みたいな頑固もんでも、自分の感情に素直になれる気がするんだよ」
 「…そういうもん、なんですか?」
 「そういうもんなんだ」

 慎二の絵を見ると、子供の頃を思い出す。
 寂しがりで、家族の姿が見えないと途端に不機嫌になってしまい、兄が全寮制の高校に合格した時には「絶対行かせない」と言ってハンガーストライキまでやらかした自分を思い出す。近所に捨てられた犬や猫を拾ってきては母に怒られていた自分を思い出す。
 そして、そんな子供の頃の自分は、佐和子と子供の死を思って、涙する。もう二度と手に入れられない幸せを思い返して、懐かしさに涙する。そうすると、何故か―――人に背を向けようとする自分が、馬鹿らしく思えるのだ。また傷ついてもいいじゃないか、とさえ思える。本当に…何故なのか、分からないけれど。

 「お前の兄貴がどんだけ優秀でも、それに比べてお前が自分をどう思おうが、構わんじゃないか。…天はお前に、絵を与えた。短い命で終わったら、俺1人救って終わりだぞ。勿体無くないか?」
 「……」
 「それに、お前の絵は、まだまだ発展途上のお遊びだからな。もっともっといい絵を描け。自分のためじゃなく、いつかお前が助けるかもしれない奴のために」
 慎二が、先生の言葉をどれだけ理解したかは、分からない。
 けれど、まだ見ぬ誰かのために生きる―――そんな考え方も案外悪くない、と思ったのだけは、間違いないようだ。
 「―――はい」
 慎二は、そう素直に返事すると、ふわりと嬉しそうに微笑んだ。
 その笑顔を見て、先生も笑った。こいつのこういう笑顔も、多分天が与えた能力の1つだな―――なんてことを思いながら。


←scene2Heavenly Child TOPscene4→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22