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『納得がいかない気持ちは分かります。確かに藤井さんは、筆記試験も優秀でしたし、面接の内容もしっかりしていましたから。仕事に対する意気込みは、よく伝わりましたよ』
受話器の向こうにいる採用担当者が、困ったような声で告げる。
「では、どうして不採用になったんでしょうか」
就職指導の教授が、納得のいかない顔でそう訊ねる。
『…では、はっきりお答えしましょう』
返ってきた答えは、蕾夏のみならず、教授も落胆させるものだった。
***
「―――やっぱり、元気ないね。大丈夫?」
「…えっ」
心配そうな正孝の声に、少し俯き加減で歩いていた蕾夏は、はっとしたように顔を上げた。
「秋の情報処理二種のために頑張ってるんだろ、最近。もしかして無理させたかな」
今日、正孝の誘いに応じて映画を観に行った名目が“正孝の誕生日祝い”なだけに、気になっているのだろう。正孝は、やたら恐縮したような顔をしている。蕾夏は苦笑し、軽く首を振った。
「ううん、平気。元気ないのは、そのせいじゃないから」
「…じゃあ、就職のこと?」
「―――うん…」
また、視線が下を向いてしまう。そんな蕾夏を見下ろしていた正孝は、見兼ねて「ちょっと、公園寄ってこうか」と提案してくれた。家に着くまでの道のりでは終わりそうにないことを察したのだろう。
駅から蕾夏の家へ行く途中にあるその公園は、まさに子供の遊び場としての公園で、砂場とブランコと滑り台、それに鉄棒があるだけで、ベンチも花壇もない。真夏の夕方、まだ子供が遊んでいるのではないかと思ったが、既に人影はなかった。
「懐かしいね、こういうの」
くすっと笑った蕾夏は、ブランコに腰掛けた。正孝は、さすがにブランコに座るのは恥ずかしいらしく、腰の高さほどあるブランコの周りの囲いに腰掛けた。ほっと一息ついたところで、蕾夏に話の続きを促した。
「…それで?」
「―――うん…あの、うちの両親には言わないでくれる?」
「いいよ。何?」
そう約束されても、まだ少し言うのを躊躇う。が、意を決した蕾夏は、思い切って口を開いた。
「…実はね。夏休み前に、大学の推薦受けて、新聞社を1社受けたの」
「へぇ…、さすがは記者夫妻の娘って感じだな。おじさんの所?」
「親に内緒で受けるんだから、それは無理だよ。第一、うちの大学に求人出してないし」
「そうか…自分が就職の苦労何もしてないから、その辺疎いな。…で、どうだったの」
「落ちた」
呟きに似た小さな声に、正孝は少し目を丸くした。
「…え? で、でも、大学の推薦があると、色々有利なんだろう?」
「それでも、落ちたの」
ブランコが揺れて、キィ、と音を立てる。蕾夏は、大きな溜め息をつき、諦めに似た笑みを口元に浮かべた。
「私ね、記者か編集がやりたかったの。募集要項にはいろんな職種が並んでて―――採用人数は“男女若干名”としか書いてなかったから、当然、私がそういう仕事を希望したって問題ないと思って。でも…問題は、大ありだったみたい」
「問題、って…」
「就職指導の先生がね、納得いかないって、その会社に電話したの。で、何故落ちたのか聞いたら―――女の子は事務か経理なんだって。確かに私はよく出来るけど、そういう女の子に来てもらっても、うちには任せる仕事がありません、って。だから先生が訊いたの。“藤井が男子学生なら採用しましたか”って。…答えは、イエスだった」
「……」
「…どうして人って、男女を分けたがるのかな…」
キィ、キィ、と、錆びた鉄が立てる音が、悲鳴か叫び声みたいに聞こえる。蕾夏は唇を噛み締め、俯いてしまった。
同じ希望を持って、同じ力を持って、同じ言葉を語っても―――女だというただそれだけで、許されない。
何故なのだろう? 何故同等に扱ってもらえないのだろう?
最初にその疑問を感じたのは、日本に帰国し、中学の制服に袖を通した時―――生徒を男と女2色に色分けして、一体どうしようというのだろう? 蕾夏にはそれが、藤井蕾夏という個性を消し去って、ただの“女”という色に無理矢理塗りこめられることのように感じられて、酷く窮屈だった。そう…全てはあの時から、おかしくなっていった気がする。
自分が色分けされようとしている“女”に、どうしても順応できなくて。
“男”はそんな蕾夏を、やっぱり最後には“女”としか見てはくれなくて。
同性からは仲間はずれとして責められ、異性からは暴力でねじ伏せられた。何故―――何故、誰も、ただの藤井蕾夏としてだけ、自分を評価してはくれないのだろう…?
「―――それは、その会社が間違ってるんだよ。男女雇用機会均等とか、色々言われてるだろ? 世の中はそういう風に流れてるのに、まだ旧態然としてるその会社が遅れてるだけだ」
「ん…、わかってる」
ちょっと憤慨したような声で言う正孝に、蕾夏は顔を上げ、ちょっとだけ笑ってみせた。
「いいの。後悔してない。記者以外の職種で採用されて、後で記者に転向する道もあったんだと思う…実際、うちのお母さんがそうだし。でも私、それが事前に分かってても、面接ではきっと同じ事言ったと思う。受かるために違う顔用意するなんて器用な真似できないから」
「…これから、どうするの。また他の新聞社受けるの?」
「ううん。最初からね、新聞社や出版関係は推薦受ける1社だけ、って決めてたの。両親揃ってあまりいい顔しない仕事だし、私も漠然と憧れてただけだから。次からは、予定通りコンピューター関係の会社を狙う。実はもう1社応募してるの」
正孝に愚痴ったら、少し気が晴れた。ふっきれたような笑顔になって、蕾夏はちょっと大きくブランコを漕いでみた。さっきまでより大きなキイィ、という音が、蕾夏がブランコを揺らすたび、古びたチェーンから響いた。
「コンピューター関係は結構若い企業多いし、技術職ならきっと、能力で判断してくれると思う。ちゃんと募集職種を絞ってる会社しか狙わないから、頑張るんだ。女だから不採用、は許せないけど、力不足だから不採用、は自分の責任だもの」
「…そう」
蕾夏が元気になっていくにつれ、何故か正孝の表情はだんだんと沈んでいく。蕾夏もそれに気づき、ブランコを漕ぐのをやめて、軽く眉をひそめた。
「どうしたの?」
「……」
「もしかして、私がプログラマーとSEとか狙ってるの、反対してる…?」
「いや―――そういうんじゃないよ」
苦笑した正孝は、どこか気まずそうな様子で目を逸らした。それでも蕾夏が訝しげに見ていると、やがて、消え入りそうな声で、ポツリと呟いた。
「―――だんだん、遠くなるな、と思って」
「…えっ?」
「卒業して、就職して…僕の知らない世界がどんどん増えて、僕の知らない君の顔が少しずつ増えてくのかな、って…そう思っただけだよ」
「…それは…仕方ないよ」
「うん―――でも、僕は、君にはずっと、傍にいて欲しい」
唐突な言葉に、一瞬、心臓が跳ねた。
少し目を見開いて、正孝の逸らされた目を凝視する。その視線に気づいたのか、正孝も蕾夏の方を見た。酷く、苦しそうな目をして。
「君がいないと、苦しい。君がいつか、誰かと恋に落ちて結婚する日なんかを考えると、苦しくて苦しくて―――気が違いそうになる」
「…結婚なんて、ありえないよ」
思わず、自嘲気味な笑みが口元に浮かぶ。そう…ありえない。それ以前の恋愛ですら、蕾夏にとってははるかに遠い世界だ。この手を握る事ができる人すらいないのに、共に生活できる人などいる筈もない。
だが、正孝は、蕾夏のその言葉に僅かに眼光を鋭くした。
「…君に触れることの出来る奴はもう現われないって、本気で思ってる…?」
蕾夏は、答えなかった。正直、どう答えていいか分からない。諦めが大半―――でも、もしかしたらという思いが無いと言ったら嘘になるから。
戸惑ったような様子の蕾夏をしばし見つめた正孝は、その数秒後、はっきりとした口調で告げた。
「―――だったら、卒業したら、僕と結婚してくれないか」
今度こそ、心臓が、止まった。
大きく目を見開いた蕾夏は、真剣な面持ちの正孝を、信じられないという面持ちで見上げた。
何故いきなり、そこに話がいくのか―――全然、分からない。
正孝が自分に抱いている気持ちは、知らない訳ではない。口にはされていないが、何度となく態度で示されているから。でも…分かっていても、やっぱり理解できない。何故、全てをすっとばして“結婚”の2文字が出てくるのか。
驚きに見開いた目でずっと見上げていたら、正孝の目がどんどん動揺し出した。突発的に口にしてしまった言葉だったのかもしれない。が…彼に撤回する気はないようだ。
「…え???」
やっとその短い言葉が口にできたのは、たっぷり1分後だった。すると正孝は、薄闇の中でもはっきり分かる程に顔を赤らめ、また視線を逸らした。
「…ごめん、いきなりで。でも―――本気だ」
「で、でも、私―――私、他の男の人ほどじゃないけど、辻さんのこともダメだよ…? だって、前に…」
「―――うん。分かってる。目の前で見たから。だからね、抱きしめたりとか、そういうことはもう期待してない。君が望まないことはしないよ。傍にいて、語らいあって…そんな風に過ごせれば、それで」
「…それだけだったら、結婚する必要なんて、あるの?」
素朴な、疑問。けれどそれは、核心に触れる疑問だった。正孝は、辛そうに眉を寄せると、視線を地面に落とした。
「…安心、したいんだ」
「……」
「君が、手の届かない所に行ってしまう気がして―――手離したら、二度と戻らない気がして。卒業後すぐなんて無理かもしれない。だったら、約束だけでも構わない。ただ…ただ、安心したいだけなんだ」
若干、しどろもどろになった、正孝の口調。
でも―――“安心したい”。その言葉を聞いて、蕾夏は正孝の考えをはっきりと理解した。
彼の望み、彼の不安、彼がずっとずっと追い求めているもの―――それが、何だったのか、今やっとはっきりと見えた。
そして、戦慄した。
このままでは2人とも、駄目になる―――と。
***
―――籠の、中に、閉じ込められる。
辻さんという名前の籠に、閉じ込められる。
「大丈夫―――ここは、安全だよ。君は穏やかに生きられる…この中でならね」
…いや。そんなのは、いや。
必死に、首を振る。抱きとめようとする手を振り解く。誰か助けて、そう叫びたくても、誰もいない―――誰もいない、私の手を握ってくれる人が。
「蕾夏…蕾夏、頼むよ。僕を置いて行かないで」
…お願い。名前で呼ばないで。辻さんが名前で呼ぶ時は、いつも私を、自分のもとに縛り付けようとする時。お願い、そんな風に呼ばないで。
何故気づかないの?
今辻さんの手の中に居るのは、辻さんが欲しがっているモノじゃないよ。
辻さんが欲しがっているのは、あの日、辻さんを狂わせてしまった、心が空っぽになってしまった“私”―――私の姿をした、私ではない、人形。
でも、本当の私は、人形じゃない。“人間”なの。
私は、籠に入れられて、綺麗に羽根の手入れをされて、それで満足できる鳥とは違う。空に憧れてる、平凡で当たり前の鳥なの。
飛ぶ力なんて、ほとんどないけれど。
他の人が当たり前に飛んで行ける所すら、私には地の果てより遠いけれど。
それでも、いや―――籠の鳥になってしまうのは。飛びたいの。自由になりたいの。自分の飛んでいく先は、自分で決めたいの。
「どこにも行かせない―――行かないでくれ、頼むから」
―――いや。お願い、私を解放して。
だから。
私は。
目の前の辻さんに向かって、ナイフを振り下ろす―――自由になるために。
「―――…ッ!!!」
目の前が真っ赤に染まった瞬間、目が、覚めた。
チッ、チッ、という時計の秒針の音に、耳を澄ます。心臓が、猛スピードで鼓動を打つ―――もう夏も終わったというのに、冷たい汗が背中を伝った。
真っ暗闇の中、悪夢が去るのを待った蕾夏は、5分ほどしてようやく、全身の緊張を解いて、大きく息を吐き出した。ベッドの上に起き上がり、時計を確認する。既に午前3時を回っていた。
手のひらに残る感触に耐えかねて、蕾夏はベッドを降り、階下のキッチンへと向かった。シンクの蛇口を捻り、流水の中に震える手を突っ込む―――そして、痛みを覚えるほどの力で、両手を擦り合わせた。
あの日から―――正孝にプロポーズされ、それを断った日から、既に2ヶ月。暦は10月になっていた。
あれ以来、時々この夢を見る。
悪夢には慣れているが、相手が正孝だけに、目覚めた時の後味の悪さは他とは比較にならない。フラッシュバックから救ってくれた人の悪夢を見るようになるとは…さすがの蕾夏も予想できなかった。
ギクシャクするのが嫌で、その後も何度か、正孝とは会った。翔子が夏休みで帰国していたせいもあり、あまり話はしなかったが―――それでも、彼が以前と態度を変えてきたことは、なんとなく分かった。
正孝も、戸惑っている。蕾夏との距離をどう取ればいいのか、分からなくて。
蕾夏だって、分からない。どうすればいいかなんて。…分かるのは、今の蕾夏には正孝に対する恋愛感情はないし、正孝が蕾夏に求めてることは、蕾夏からすると“束縛”に他ならない、ということだけだ。
「…蕾夏?」
ふいに、背後から母の声がして、蕾夏の心臓は大きく跳ねた。
慌てて水を止め、振り返る。眠そうな顔をした母は、ちょうど電気をつけているところだった。
「やだわ、電気もつけないで―――泥棒かと思っちゃった」
「…泥棒だと思うんなら、もっと緊迫した顔してないとダメだよ」
欠伸までしている母の様子に、蕾夏は緊張を解き、くすっと笑った。
「二種試験の勉強でもしてたの? 頑張るのはいいけど、体壊したら元も子もないわよ?」
「ん…違うの、ちょっと喉が渇いただけ。お母さんは?」
「私も水飲みに来ただけ。うーん…2人揃って喉が渇くなんて、夕飯の塩分が高すぎたのかしら」
ぶつぶつ言いながら、母は蕾夏の隣に並び、コップに水を注いだ。我が母ながら見事な飲みっぷりでそれを飲み干し、更にもう1杯水を注ぐ。よほど喉が渇いていたらしい。
「―――ねぇ、お母さん」
「んん?」
「なんでお父さんと結婚したの?」
途端、母が思い切りむせた。
ゲホゲホと苦しそうにむせる母に驚き、蕾夏は慌ててその背中をさすった。
「な…っ、な、なんなのっ、急に!? なんでそんなこと訊くの!?」
「ご、ごめん…ちょっと、ええと…そういう本読んでて」
本当の事など言える筈もないので、適当に誤魔化した。恋愛小説など蕾夏が読まないことは母も知っているだろうが、この混乱状態ならば疑問に思わないかもしれない。
「う…うーん…何でかしらねぇ…」
まだゲホゲホ言っている母は、それでもちょっと首を傾げ、記憶を手繰り寄せているようだった。
「匠さんと親しくなった頃は、お互い恋人が他にいたのよね。でも、記者に転向して、匠さんの下で取材に明け暮れて…気づいたら、当時の恋人の存在を、すーっかり忘れちゃってたのね」
「…忘れられた恋人、何も言わなかったの?」
「プロポーズしてきたわよ? 匠さんに取られると思って、焦ったみたい」
ドキン、と心臓が音を立てた。思わず唾を飲み込む。
「そ、それで?」
「んー…、なんかねぇ、違うな、って思った」
「違う?」
「この人と毎日寝起きして、ご飯食べて、子供育てて…って想像したけど、なんだかそれは、私じゃないみたいに思えた。私の顔した、別の人。…その時、ポン、と頭に浮かんだのよね。匠さんと一緒にいる自分が」
「……」
「ああ、なんて私らしいんだろう、って思ったの。だから、その人とはお別れして、匠さんにアタックしたの。押せばなんとかなるものねー。半年でゴールインよ」
「…お母さんらしいよね…確かに」
本当に、母らしいと思う―――父を選んだ理由も、そのことに気づいた後の行動も、全て。
そう―――人と人って、そうやって、自然に寄り添っていくものの筈だ。神様がそういう風に作っている筈。
正孝と自分の間は、やはり、不自然だ。正孝の隣にいる自分は、少しも自分らしくない―――自我を失った人形みたいに、彼に対する罪悪感という糸に操られて踊っているだけだ。
どうすれば、この糸を断ち切れるのだろう?
どうすれば、絡まった糸を解いて、自由になれるのだろう…?
***
「へーえ…入社前に、こんなのやらなきゃいけないのか…大変だなぁ」
学食の隅っこで蕾夏の向かい側に座った由井は、蕾夏が広げている通信講座の教材を一瞥して、思わず眉を顰めた。
「親会社が新人教育用にやってる通信講座だから、ひと通りやって90点以上取らないといけないの。まぁ、情報処理の講義でやったことがほとんどだけど」
「随分大変なとこに採用されちゃったな」
「そんなことないよ」
パタン、と教材を閉じた蕾夏は、そう言ってニッ、と笑った。
「入社したら即仕事に就けるように、って、そのための準備だもん。私に仕事をさせようっていう会社側の姿勢の表れだって思えば、全然苦痛じゃないよ」
「ハハ…藤井らしい」
「由井君の方はどう?」
「んー、オレんとこは、入社までは何もやることないし」
蕾夏は大手計算機メーカーの子会社に、由井は最大手の本屋の書籍販売部に就職が決まっていた。蕾夏の情報処理二種の試験も終わった今、話題はそれぞれが抱えている卒論と将来の話がほとんどだ。
「…なぁ、藤井。最近、ちゃんと眠ってる?」
ブリックパックのコーヒーを飲みつつ、由井は、少し心配そうに眉を寄せた。
「え? どうして?」
「いや。夏の終わり頃からずっと、顔色あんまりよくないし」
「……」
確かに―――顔色が悪いな、と由井には何度か指摘を受けている。その都度誤魔化してきたが、やはり度重なると気になってくるのだろう。心配顔の由井は、今回は誤魔化されないぞ、という目をしていた。
「また、夢見るとか?」
「…ん…実は、8月頃から、ずっと」
「…やっぱり。原因は? 思い当たる節ある? 正孝さんには相談してみた?」
「―――ううん」
ちょっと唇を噛んだ蕾夏は、由井の視線を避けるように、俯いた。
「相談してない。…だって、夢に出てくるの、辻さんだもの」
「―――…」
向かい側の気配が、変わった。
由井に詳しい説明など要らない。今の一言で十分、事情は察することが出来る筈だ。蕾夏が悪夢に見るのは、想いを告げてきた相手と相場が決まっているのだから。
「…捕まえるために、いよいよ手を伸ばしてきた、ってことか…」
溜め息をついた由井は、飲み干したブリックパックを握りつぶした。しばし、学食のテーブルの中央をじっと睨み何かを考え込んでいたが、やがて、彼にしては珍しいほどの真剣な眼差しを向けてきた。
「…藤井。前から一度、機会があったら勧めようと思ってたんだけど…」
「うん…、何?」
「―――就職を機に、一人暮らししてみたらどうかな」
蕾夏の目が、キョトンと丸くなった。
正孝との件に、何故一人暮らしが関係あるのだろう? よく分からない。
「今必要なのは、正孝さんと距離を置くことだと思う。…それは、藤井も同じ意見だよな?」
「うん」
「人間関係の“距離を置く”って、物理的な“距離”も、関係あると思うんだ」
「物理的な、距離」
「例えばさ、藤井が就職して、その職場で何か嫌な事があったとする。下手したらフラッシュバック起こしたり…まぁ、そんなことが。もし今と同じ距離関係だったら―――藤井も正孝さんと顔合わせて相談するだろうし、相談しなくても、もし正孝さんが気づけば絶対飛んでくるだろ?」
正孝の母と蕾夏の母は仲が良い。会社の愚痴でも家で零そうものなら、それが正孝の母に伝わり、最終的には正孝にも伝わってしまう可能性は高い。これまでもそういうケースは何度かあった。もしそうなれば…当然、心配した正孝は、蕾夏に会いに来る。蕾夏は、たとえ痛みを抱えていても、言葉にはそれを出さないタイプだ。顔を見なければ、蕾夏の本心は正孝にも読めない―――だからこそ、会いに来る。
「うん…、分かる」
「でも、もし一人暮らしだったら? どうなると思う?」
「……」
―――だんだん、由井の言いたい事がわかってきた。蕾夏の目が次第に真剣味を帯びてくる。由井も、蕾夏が察したと分かり、少し身を乗り出すようにした。
「オレが思うに、医者と患者って立場のままじゃ、きっと藤井、解放してもらえないと思うんだ。まだダメだ、まだ心配だ、って―――でも、そう言いながら本当にこの関係に依存してるのは、藤井じゃなく正孝さんの方なんだ」
「…つまり、もう私は大丈夫だ、もう安心だ、って辻さんに思わせることが…それを証明することが必要、ってこと?」
蕾夏の問いかけに、由井は目だけで頷いた。
「ただ、一つ心配なのは―――藤井が負うことになるリスクなんだよな…。フラッシュバック起こしても、事情を知る人間が誰一人周りにいない訳だし、あの事件の事を藤井が誰かに新たに相談するとも思えないし」
「…そうだよね。でも―――…」
―――やってみたい。
自分の足で、自分の力で、立ち上がりたい。
もし、誰かに縋るのではなく、自分の力だけで過去の傷を克服できたら…その時、初めて、あの事件の呪縛から解き放たれるかもしれない。
正孝の問題よりも何よりも、自分が自信を持って生きるために―――やってみたい。新しい生活を。
蕾夏の目に、その決意を感じ取ったのだろう。由井は、それまでの険しい表情を緩め、柔らかく微笑んだ。
「オレも藤井も、次の一歩を踏み出す時期なんだよな、きっと」
「うん―――え?」
危うく、聞き流すところだった。蕾夏は目を見開き、軽く首を傾げた。
「由井君も?」
「ん…色々とね、オレにも事情があるから」
「どんな?」
すると由井は、彼らしくない、意味深な笑みを浮かべてみせた。
「ナイショ。…いつか、藤井が忘れた頃に教えてあげるよ」
「何それっ」
ずるい、と唇を尖らせた蕾夏だったが、結局由井は、最後まで彼の事情とやらを教えてはくれなかった。でもきっと、あの事件に絡んだ“事情”なんだろうな、と蕾夏はどこかで感じ取っていた。
佐野が起こした事件で、蕾夏が十字架を背負ったように、由井も十字架を背負った。蕾夏とは異なる種類のものだが、彼も彼なりの傷を心に沢山抱えているのは想像に難くない。いつも、つかず離れず、なんとなく傍にいた間柄だったけれど―――あの時壊されかけた友情を保つ事も、2人にとっては傷を癒す一つの手段だったのかもしれない。
あれから、もう8年。
“同級生”として歩んできた8年でもある。
それぞれが、それぞれの道を自力で歩き始める時期なのかもしれない―――蕾夏も、そう思った。
***
蕾夏の一人暮らしに、両親はかなりの難色を示した。
理由は簡単。新人SEである蕾夏には、一人暮らしは金銭的に厳しいこと。そして、自宅から会社まで、十分電車通勤が可能なこと。父も都心に勤めているのだ。当然の意見だろう。
「わかってる。でも…どうしても、やってみたいの。分相応な部屋を選ぶし、会社から補助金も出るから…お願い!」
蕾夏は決して諦めない。その熱心さに負け、最後には、無理は絶対にしないこと、何かトラブルが起きたり病気をしたりすれば即連れ戻すこと、などを条件に首を縦に振ってくれた。
正孝は、反対はしなかった。
この町を離れる、一人でやってみる―――蕾夏のその言葉に、表情を強張らせ、不安げに眉を寄せただけだった。
「見つめ直したいの、いろんなこと」
「……」
「私、まだ“好き”って気持ちが、正直よく分からない。分かるのは…このまま辻さんの傍にいたら、辻さんのことも、自分のことも嫌いになるってこと。“好き”になれるかどうかは、分からない。でも―――嫌いになりたくはないの」
「…どれだけ、待てばいい?」
静かな口調で、正孝が問いかけてきた。何を、とは訊かずとも分かる。蕾夏は、寂しげな笑みを浮かべて、首を振った。
「待たないで」
「……」
「辻さんは、辻さんの道を歩いて。その先に私以外の人がいたら、躊躇わなくていい、その人の手を握ってあげて」
「…君の方に誰もいない間は、待ちたいんだ」
「…でも…」
「もう、無理強いするつもりも、閉じ込めるつもりもない。ただ…待ちたいんだ。可能性がゼロになるまで」
―――でも…それって辛いよ、辻さん。私も、辻さんも。
先の見えない時間、正孝を待たせ続けるのは…苦しい。その先に待っている答えは“可能性ゼロ”かもしれないのに。
けれど正孝は、そのことだけは絶対に譲らず―――結局、蕾夏は、正孝の言葉に頷いた。
微笑んだ正孝が、両手で包み込んだ手―――まだ、繋がれている。そのことに、安堵している自分と、苦悩している自分がいた。
「…よ…っと」
なんとかベッドメイキングを終え、寝るスペースだけは確保した蕾夏は、ほっと息をつき、狭い部屋の中を見渡した。
ダンボール箱が山積になった部屋―――グリーンのカーテンと、ベージュのカーペット、そしてガラステーブル。あとはカラーボックスが1台だけ。まだ、自分の部屋という実感すら湧いてこない。
今日からここで、たった一人の生活が始まる。
全ての問題に、一人で立ち向かう日々が始まる。
「ひとり…か…」
一人なんて、初めてだ。
なのに、何故だろう―――じゃあ一人じゃなかった時はあるのか、と言われると、ずっと一人だったような気がする。周囲にどれだけ人がいても、いつも自分は異端児、異質なものだった。寂しくなかったことなど、一度もなかった気がする…ずっと、昔から。
自分の考えを不思議に思いながら、蕾夏はベッドの上にうつ伏せに寝転がり、目を閉じた。
静かだ―――どこまでも続く、静寂。“一人きり”って、こういうことなんだな、と、なんとなく肌で感じられた。
―――この部屋で、私は、一人きりで生きていく。
不安が8割。期待が1割。そして残る1割は―――やっと一人になれた、という、言い知れぬ安堵だった。
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