←BACKFake! TOPNEXT→




― only and lonely

 

 「えーっ、それじゃあ、うちから歩いて5分くらい!? ウッソー! 凄い偶然ー!」
 目を大きく見開いてミサが言うと、
 「ホンマホンマ。めっちゃ奇遇やわー」
 と、テンが上機嫌に返す。
 30分前まで、絶対にあり得なかった光景。それを横目で眺めながら、奏は、少しばかりの頭痛を覚えて、思わず額を押さえた。
 「…お前ら、歌の間位は、静かにしとけよ? マジで」
 バドワイザーに手を伸ばしつつ奏が言うと、テンとミサはキョトンと目を丸くし、それからケラケラと笑った。
 「いややわー、そんなんわかっとるわ。いっちゃん心配性ー」
 「そーよぉ。あたし、ここの従業員だったんだからぁ」
 「…そーっすか」
 もういい。気の合ってる同士、放っておこう―――割り切ることにした奏は、早くステージが始まらないかな、と、いまだライトの点かないステージの方に目をやった。


 お好み焼き位じゃ癒されへん、お酒お酒、アルコールプリーズ、とうるさいテンを奏が連れて来たのは、結局また“Jonny's Club”だった。テンに酒とくれば、自分1人では対処しきれない事態になる可能性大だ。そんな時、テンの扱いの上手い咲夜がいてくれれば、多少は違うだろう、と考えたのだ。
 ところが、来てみると―――咲夜は既に、1匹、問題児を抱えていた。
 ライブとライブの合間の時間、普段なら控室に引っ込んだまま出て来ない筈の咲夜は、大学生か社会人か微妙、といった感じの男女と一緒にテーブルに着いていた。と言っても、咲夜が飲んでいたのはソフトドリンクで、酒が入っているのは女の方、男の方は欠食児童のようにガツガツ食べているばかりだ。
 なんだこのメンバー構成は、と不思議がる奏に、咲夜は小声で事情を説明した。
 『…ああー…、だから見覚えあるんだ、女の方』
 『そゆこと。控室でひと暴れしたんだけど、一成に会わせる訳にもいかないから、とりあえずこっちで付き合ってるって訳』
 ひと暴れしたのは、一目瞭然だ。ミサの目元は、マスカラがヨレヨレになって、いかにも泣いた後だ。
 『んで? そっちはどしたの。珍しくテンちゃんとツーショットで』
 『…いや、それがさ―――…』
 と説明しようと思ったのだが―――そのための時間は、ほとんどなかった。
 『うわーん、ウチもなんよおぉ! ウチも今、失恋したばっかり。もうできたてホヤホヤの失恋女やねんー』
 『えー、そうなのぉ? やだもー、なんか、ミサの周りって、不幸な人ばっかー』
 失恋による傷心真っ只中の2人が、いきなり意気投合してしまい、ミサがナンパしてきた男をも完全無視で、延々続く失恋の愚痴りあいが始まってしまったのだ。
 こういう時は、下手に第三者が慰めるより、同じ傷を持つ同士の方がいいのかもしれない、との大人な判断のもと、咲夜は次のステージのため控室に帰って行き、奏は2人の会話に一切口を挟まないようにした。
 ミサにナンパされたというホスト風の男は、テンの登場により、お役御免となった。元々、金欠状態で食事に釣られてついて来ただけなので、食事だけでお払い箱にしても、何ら問題はなかったらしい。
 『帰っていいわよ。あ、でも、お酒の分位は払ってよね』
 『えええ、聞いてねぇっ』
 ブツブツ言いつつも、男は大人しくドリンク代のみ置いて帰って行った。女は堂々とおごられるのに、男がおごられると、なんだか惨めったらしく見えるのは何故なのだろう? 年下の女に「ご馳走様でした」とヒョコッと頭を下げる男の姿を見て、奏は、同じ男として、なんとなくもの悲しい気分になった。
 『なんやぁ、帰してしもたん? 今の人、結構ミサちゃんとお似合いやったのに』
 『ごめんー、あたし、顔が良すぎる男ってダメなのよね。このお兄さんも苦手。藤堂さんみたいな、硬派っぽくて男っぽい人の方が好きなのー』
 ―――悪かったな。軟派な外見で。
 ほんとに失恋で傷ついてるのか? と疑いたくなるほど元気な2人にムッとしながらも、奏は、どうせ言っても何も聞こえないだろう、と思い、何も言わなかった。そして、何も言わない自分に対しても、なんとなくもの悲しい気分になった。


 「ねぇ、大通りんとこのローソンの前ってさぁ、朝通ると、すっっっごいブサイクな犬を、めちゃくちゃ美人な奥さんが散歩させてるよねぇ?」
 「あー! あれや! うんうん、知ってる。あんまりおもろいから、ウチ、一度声かけたことあるわ」
 「うっそ、何言ったの?」
 「その犬、なんて名前ですかー? って」
 「で、なんて?」
 「あの顔で“ヴィクトーリア”やって!」
 「アハハハハハハ、ヴィクトーリア!? 似合わないーっ!」
 思いがけずご近所同士であることが発覚し、地元ネタで2人が盛り上がっているところに、本日2回目のライブが始まった。奏がテンの頭を軽く小突くと、テンとミサもBGMが絞られたことにやっと気づき、笑い声を静かにフェードアウトさせていった。
 全く、あれだけ周りに心配をかけておいて、いい気なものだ。ミサにしても、一成だけでなく咲夜も結構な迷惑を被った筈なのに―――…。
 ―――でも、まあ、いつまでも落ち込まれるよりはマシか。
 苦笑とともに軽くため息をついた時、1曲目が始まった。
 歌う前、ステージの上の咲夜が、チラリとこちらを見た。休憩時間にバタバタした割には、既に落ち着いているようだ。

 「Falling in love with love is falling for make believe... Falling in love with love is playing the fool...」

 『Falling in love with love』―――日本語で言うなら『恋に恋して』といったところか。明るいメロディで、恋って盲目よね、などと楽しげに歌っているのだが、

 「I fell in love with love with love everlasting... But love fell out with me...」

 ―――失恋の歌かよ。
 曲調に騙された奏は、思わぬオチにガクリと来た。ミサが来ているのを一成には内緒にしている以上、まさかミサやテンを意識しての選曲ではないだろうが、なかなかタイムリーというか、間が悪いというか―――もっとも、この2人に、歌詞の意味は伝わっていないだろうが。
 と思ったのだが、ふと2人の顔を見ると、ミサもテンも、顔を微妙に歪めて涙を浮かべていた。
 「え…っ、お、おい。なんで泣いてんだよ」
 もしかして歌詞がわかっていたのだろうか―――慌ててテンに訊ねると、テンは鼻をすすりあげながら答えた。
 「…アカン。今のウチは、“love”って単語だけで、泣けんねん」
 「……」
 「…やっぱり藤堂さん、カッコイイなぁ…」
 ミサとテンでは、涙を浮かべる理由が、ちょっと違っていたらしい。が、恋の歌に泣けるのは同じらしく、2人は顔を見合わせ、ひしっ、と手を握り合った。
 「ミサちゃんっ」
 「テンちゃん〜〜〜」
 「……良かったな。いい友達ができて」

 やっぱり、もう放っておこう。
 そう決めた奏は、くいっ、とバドワイザーをあおり、再びステージの方に目を向けた。

***

 「そっか…」
 ブランコをキィキィいわせながら、咲夜はそう言って、ため息をついた。
 「そんなことがあったんじゃ、テンちゃんが店休みたくなる気持ちも、ちょっとわかるなぁ…」
 「…わかるけど、やっぱ、プロとしては許されないからな。ひっぱたいた氷室さんの気持ちも、わかるよ」
 咲夜の隣で、やはりブランコを揺らしながら、奏が答える。その足元には、誰が忘れていったのか、サッカーボールが転がっていた。
 結局、ミサとテンは、テンの家で飲み直す、と言って一緒に帰って行った。明日ちゃんと出勤してくるのか少々不安になるが、ご近所に友情が芽生えたのは、とりあえずめでたいことだ。
 が……“Studio K.K.”の狭い人間関係の中に生まれた、いや、随分前から続いていたらしい複雑な相関図は、その中で唯一安泰な立場にある奏にとっては、できれば知りたくなかったことかもしれない。
 「テンの話しか聞いてないから、どうしても星さんが悪い女に見えるけどさ。でも…本音言うと、まだ信じられないんだよなぁ…。あの人が、氷室さんを弄んで捨てたとは、絶対思えない」
 「うん…、私も、まだ1回しか会ってないけど、そういうタイプには見えなかったな。むしろ、ストイックで真面目なタイプに見えた」
 「だろ? どーなってんだかなぁ…」
 つま先が、トン、とボールに当たる。座ったまま、ボールを器用に足の甲に乗せた奏は、よっ、と弾みをつけてボールを上げ、両手でキャッチした。
 「あ、上手いじゃん」
 興味を引かれたように、咲夜が腕にブランコの鎖を巻きつけて、身を乗り出してきた。そう? と首を傾げた奏は、かつて慣れ親しんだボールより若干小さいそれを、人差し指1本でくるくると回してみせた。
 「普通普通。この程度なら誰でもできるって」
 「…なんか、何気に嫌味なんですけど、その態度」
 「ほら」
 ポン、と奏が放り出したボールを、咲夜がキャッチする。地面に置いて、つま先でボールを操ろうとしたが―――ボールは、コロコロコロ、と、転がって行ってしまった。
 「……」
 「あれー? 何やってんの、咲夜ちゃん。信じらんないー」
 「ムッカツクんですけどー! その態度ー!」
 上手い、と褒めておきながらも、やっぱり自分には全然できないと、悔しいらしい。ブランコを法則外な横向きに揺らして咲夜が繰り出したキックは、奏の膝上辺りにクリーンヒットした。が、大した勢いではなかったので、さほど痛くはない。奏は、声をたてて笑った。
 「悪い悪い。座ったまんまだと、難しいよな、確かに」
 「全く…そーゆー態度でいると、女にモテなくなるよ、ホント。周りが忙しくくっついたの離れたのってしてるのに、肝心のあんたには浮いた話の1つもなくて、いい訳?」
 「うーん…そうなんだけどなぁ…」
 明日美とのことがあるまでは、焦っていた部分もあったのだけれど。
 勿論今でも、新しい恋を見つけなくちゃ、と思っているし、求める人が応えてくれる、という充足感に飢えている部分も、確かにあるのだけれど。
 「…なんだろ。前ほど、焦らなくなったかも」
 暫し考えた末、奏は、ポツリとそう言った。
 「蕾夏を好きなままでいても構わないんだ、って思えるようになってから、焦る必要、なくなったし。欲求不満で暴走するほど、女に飢えてもいないし―――っていうより、仕事が忙しくて、飢えてる暇ないんだけど。とにかく、冷静になって考えてみると、それほど“彼女”の必要性、感じないんだよな」
 「でもさ。そういうのだけじゃ、ないじゃん、恋人って」
 「って言うと?」
 「例えば、一緒にいるとホッとするとか、他人には見せられない弱みを曝け出せるとか―――そういう、精神的な支えの意味もあるんじゃない?」
 「…うーん…そっちでも、あんまり飢えてないからなぁ…」
 仕事上の真剣な悩みは、佐倉となら、とことん相談できる。もっと大きな人生観というか、哲学というか―――そんなものを相談できる相手といえば、やはり瑞樹や蕾夏だ。もう親に助けを求める歳でもないが、母である千里も、やはり心強いアドバイザーとなってくれる。
 そして、何より―――そんな大上段に構えたことじゃなくても、日々、支えとなってくれている人がいるから。
 アドバイスをするでもなく、励ますでもなく、ただお互いのバカさ加減を曝け出し、「上手くいかないねぇ」と互いに苦笑しあうだけなのだけれど……そんな情けない自分たちを、共に笑い、共に恨み、共に慰め合える人が、いてくれるから。
 ―――ああ、そっか。テンがミサちゃんと話して元気になったのも、それに近いのかもな。
 無様なのは、惨めなのは、もがいているのは、何も自分ひとりじゃない―――そう思える相手は、まだ未熟な自分たちには、恋人以上に必要な存在なんじゃないか、と、少し思った。
 「なんつーか―――友情がありゃ、それでいいかな、今は」
 「はっ?」
 奏が呟いた答えに、咲夜は目を丸くした。
 が、奏の方は、別におかしなことを言ったとも思わない、という顔で、にまっ、と笑ってみせた。
 「バカ言い合って、愚痴りあって、罵り合って、一緒に泣けるような友達失くす方が、恋人いないことより、スゲー辛いことのような気ぃしない?」
 「…んー…、恋より、友情か」
 なるほど、と頷いた咲夜は、それを自分にも当てはめて、思わず苦笑を漏らした。
 「そう考えると、私もかなり、その傾向高いかもなぁ」
 「え?」
 「片想いも結構しんどいけど、奏がいてくれりゃ、それで十分、毎日が楽しいよなー、とか思ってるとこあるからね。ハハハ」
 「……」
 不覚にも、ドキリとした。
 自分が言ったことと同じことを、咲夜も言っただけなのに―――同じように大事な友人と思ってくれているのだから、嬉しいのは当たり前だ。当たり前だけれど、改めて言われると、なんだか妙に焦る。
 「そ…そりゃ、光栄デスネ」
 そう茶化して、誤魔化すように立ち上がった奏は、さっき咲夜が転がしてしまったサッカーボールを目で探した。
 ブランコを囲む柵のすぐ外にそれを見つけ、拾い上げる。それを左右の手の間で弾ませて弄びつつ、奏は目を上げ、咲夜の方を見た。
 「けど―――お前の場合、オレと違って、まだ望みあるじゃん。恋より友情、で満足してていいのかよ」
 「望み?」
 「麻生さん。特定の女いないんなら、お前が言うほど、望みゼロじゃないだろ。なのに、一度きりの恋なら叶えてみせろ、って言っても、お前、さーっぱり行動に出ないし」
 「……」
 キョトン、と目を丸くしていた咲夜は、奏の説明を聞き、困ったような顔をした。
 「…うーん…」
 ため息混じりに呻き、ブランコに座ったまま、膝の上で頬杖をつく。そのまま暫し黙っていたが―――やがて、ポツリポツリと、口を開き始めた。
 「…別に、片想いでもいいんだよね、私は。拓海を想う気持ちが、歌を歌うエネルギーになってるから。片想いだからこそ、歌にその想いがこめられてる部分、あるかもしれない。満たされない部分を歌で満たしてる、というか…」
 「じゃあ、歌のために、両想いの可能性は無視してる、ってことか?」
 「それだけじゃないよ。なんか、こっちの気持ち知られたら、今みたいに気軽に家に上げてはくれないだろうなぁ、とか、それどころか連絡もくれなくなるんじゃないか、とか―――それ思うと、怖くて言えないし、それに……ずっと、引っかかってること、あるし」
 「引っかかってること?」
 「…昔さ。1回だけ、見たことあるんだ」
 言葉を切った咲夜は、頬杖をやめ、ブランコを少しだけ揺らし始めた。
 「確か高1の時、かな―――拓海と女の人が、腕組んで歩いてるの、偶然見かけたんだ。すっごい、優しそうで、女っぽくて、綺麗な人だった。その人を見る拓海の目も、優しくてね。あー、あの人、拓海の恋人なんだ、って、すぐわかった」
 「…へーえ…」
 「…12で拓海に出会って、ジャズを知って、拓海に憧れて……高1の頃って、ちょうど、一番混乱してた時なんだよね。拓海のこと、男として意識しちゃうようになって―――憧れに限りなく近い恋が、現実的な、生々しい恋になりだした頃だったから。だから、結構、ショックだった。どう頑張っても勝ち目ないな、って思う位、素敵な人だったから」
 「でも、別れたんだろ?」
 その美女と別れていなければ、今の拓海の生活はない筈だ。そう思って奏が先回りして訊くと、咲夜は小さくため息をついた。
 「…わかんない。私が高2の時、拓海、突然またアメリカに半年位行っちゃって―――帰ってきたら、今の拓海になってたんだ。見かけるたびに違う女の人連れててさ。でも……あの人の姿は、あれ以来、見てない。だから、結果を見れば別れたんだと思う」
 「だろ? じゃ、なんでそれが引っかかるんだよ」
 「…最近、思うんだ。拓海、まだあの人のこと、好きなんじゃないかな、って」
 「……」
 ちょっと、意外だった。奏は思わず目を丸くした。
 「前はね、あの人と、よほど酷い別れ方をして、そのせいで拓海、誰も愛せなくなっちゃったのかもな、って思ってたんだ。例えば、あの人が、他の男の人好きになって、拓海を捨てた、とかさ。でも……拓海って、私と似てるんだよね」
 「咲夜と?」
 「うん。もうね、嫌んなるほど、似てる。音楽性も、思考パターンも。だから、もしかしたら、恋愛の形も私と似てるのかもしれないな、と考えると―――案外拓海も、誰かをずーっと想い続けてるんじゃないかな、って」
 「……」
 「前に奏、言ってたじゃん。“お前は、隣を常に空けておきたいタイプだ”って」
 言われて、ああ、と思い出した。咲夜が、一成と組んでの活動の場を増やすことについて、色々悩んでいた時だ。

 『本当に隣に居て欲しい人が、はっきりと見えているから―――そいつが隣に座ってくれる可能性がたとえゼロでも、そいつ以外にその席を埋めて欲しいとは思わないから、誰かが隣に居座ったままになるのが、怖いんだろ』

 「拓海も、同じかもしれない」
 何もない、公園の薄闇をじっと見据えて、咲夜は、呟くようにそう言った。
 「拓海も、誰かのために空けておきたいから、どんな女の人とも“一度限り”で、絶対家には来させないのかもしれない―――なんかね、一成とのことがあってから、そんな風に思うようになったんだ。拓海のこと」
 「…その“誰か”が、自分の可能性は、考えないのか? 咲夜は」
 「アハハ…、もしそうなら、とっくの昔に手出してるよ。一緒に暮らさなくなってからも、ちょくちょく拓海の家には泊まってるし、もう手出しても法律に触れない年齢だしさ」
 ―――それは、言えてる。
 拓海ほど咲夜の近くにいた男なら、咲夜が自分を好いていることまでは気づけなくとも、他の男に目が向いていないことは、ちゃんとわかる筈だ。血縁関係もないし、成人してしまえば年の差もさほどの問題ではない。咲夜が相手なら、じっと耐え忍ぶ必要など、何もないのだ。
 「もし、拓海が、今もあの人のこと想ってるなら―――特定の女がいるのと、おんなじだよなぁ」
 はあぁ、とため息をついた咲夜は、キィ、と音をたてながら、ブランコを今までより大きくこいだ。キィ、キィ、という規則的な音を聞きながら、奏も、咲夜の言う通りかもしれないな…と、思った。
 その相手が、すぐ傍にいようが、遠く離れたところにいようが、結ばれていようが、反目していようが―――拓海が誰かをずっと想っているのなら、拓海の心は“彼女”のものだ。
 咲夜の心が、ずっと拓海のものであるのと、同じように。
 そして―――奏自身の心が、まだ、蕾夏のものであるのと同じように。
 「…上手くいかないな、ホントに」
 地面にサッカーボールを落とし、奏が苦笑と共に呟くと、咲夜もブランコをこぎながら、苦笑を返した。
 「本当に、上手くいかないよねぇ」


 苦笑を交わし合いながら、奏は、頭の片隅で、ほんの少しだけ、考えた。

 もし、自分に、蕾夏という存在がいなかったら。
 そしてもし、咲夜に、拓海という存在がいなかったら―――自分たち2人の関係は、どうなっていただろう?

 友達にすら、なれなかっただろうか。
 それとも―――…。


***


 「ご迷惑おかけしましたっ」
 翌朝一番、テンは、全スタッフの前で深々と頭を下げた。
 「週末も休みなしで働きますっ。ほんま、すみませんでしたっ」
 「…まあ、次からは、連絡もできないほど酷い状態になる前に、誰かに連絡入れなさい」
 テンがあまりに潔く頭を下げるので、店長も厳しい態度に出る機会を失ってしまった。土曜日に取る筈だった半休をキャンセルすることを言い渡し、テンの無断欠勤騒動は幕を閉じた。
 1日泣いて、ミサと大いに語り合ったからか、テンはかなり立ち直っている様子だった。星に対しても、まだぎこちなさはあるものの、昨日休んで迷惑をかけたことについては心からの謝罪をし、何度も頭を下げていた。
 ただ―――やはり、氷室とは、まだ普通に接することはできないらしい。スタッフ全員に謝った時こそ、きちんと氷室にも向き直り、頭を下げていたが……以来、1日中、氷室とだけは目を合わせようとしない。
 「なぁ、いっちゃん―――ウチ、嫌な態度になってへん?」
 仕事の合間、心配げなテンにボソボソと相談されたが、奏は曖昧な笑みで、
 「…まあ、振られた相手に対する2日目の態度としては、合格ラインなんじゃない」
 と答えておいた。泣きじゃくり、失恋の痛手を曝け出したテンを見てしまった以上、いつも通り振舞え、とは、奏には到底言えなかった。


 その日も通常通り仕事は終わり、奏は、テンより若干早く店を出たのだが。
 「お疲れ」
 「―――…」
 外で、氷室が待っていた。
 「…お疲れ。もう帰ったと思ってた」
 「ああ。でも―――昼間、ゆっくり話する時間、なかったから」
 僅かに微笑んでそう言った氷室は、風のせいで眼鏡にかかってしまった髪を指ではらい、奏の隣に並んで歩き出した。
 確かに―――朝は奏が若干遅かったし、昼休みの時間もずれていたので、氷室とは今日1日、仕事上の話以外は何もできなかった。昨日、テンをひっぱたいたところを奏に見られたまでで終わっている氷室からすれば、色々と奏に言いたいことも、逆に訊きたいこともあっただろう。
 「…昨日は、ごめんな」
 案の定、歩き出してすぐ、氷室がそう言った。
 「あの後、テン、大変だっただろう?」
 「…ま、ね」
 「…ありがとう。テン、随分立ち直ってたみたいで、ホッとした。奏のおかげだろ?」
 「いや、その……咲夜の店連れてったら、そこに偶然、失恋したての女の子がいて―――たまたま住んでる所も近かったもんだから、2人で意気投合しちゃったんだよな」
 気まずそうに奏が言うと、さすにが驚いたらしく、氷室がちょっと目を丸くした。
 「そんなことがあったのか」
 「…オレも最後まで付き合った訳じゃないけど、多分あいつら、家に戻っても、2人で自棄酒飲んで盛り上がってたと思う。感謝するなら、あの子に感謝した方がいいかも」
 「…僕が会うこと、あるかな、その子」
 「ないと思うけど」
 「じゃ、奏か咲夜ちゃんから、伝えといて。“助かりました”って」
 「ハハ…」
 ―――いや、オレも会うこと、ないと思うけど。
 もうミサは、“Jonny's Club”には来ないだろう―――少なくとも、暫くは。一成のことを過去にできるようになれば、今度は、彼のピアノのファンとして、あの店を訪れることもあるのかもしれないけれど。でも、ミサを知らない氷室に、そこまで説明するのもまずい気がして、奏は困ったような笑いを返すだけに留めておいた。

 そんな会話で、2人の間の空気は、一旦は和んだのだが―――暫しの沈黙の後、氷室がボソリと呟いた言葉で、奏にも僅かに緊張が走った。
 「―――聞いたんだよな。テンから」
 「……」
 僅かに、心臓が、跳ねる。チラリと隣を歩く氷室の表情を窺うと、氷室は、前を向いたまま、ほんの少しだけ視線を落としていた。
 「…軽蔑、してるか?」
 「……」
 「…だよなぁ。誰が聞いても、褒められた話じゃないよな」
 ため息をついた氷室は、寒そうに丸めていた背中を、余計丸めた。でも、奏は別に、氷室を軽蔑している訳ではなかった。テンが憤慨したように「星さんは酷い」と言っていたようには、星や氷室のことを思えなかった。
 「…あのさ。訊いてもいいかな」
 奏が言うと、氷室は顔を上げ、奏の方に顔を向けた。
 「あんたたち2人って、その…、いつから―――…」
 「…ああ、」
 曖昧な奏の質問に、奏の訊きたいことの全体図は、見えたのだろう。氷室は苦笑し、また前を向いた。
 「知り合ったのは、もう4年も前になるけど―――親しくなったのは、“Studio K.K.”に入らないか、って黒川さんから誘われた時だよ。同じようにスカウトを受けてた星さんと、ちょうどその頃、仕事で会う機会があって、以来、色々相談しあってたんだ。僕も星さんも、本音は“是非やってみたい”だったんだけど……星さんは、メーカー専属って立場だから、誘いを受けるなら会社を辞めなきゃいけないからね」
 「…じゃ、もしかして、その頃からあの婚約者のことは…」
 「…うん。知ってた。その頃は婚約者じゃなく、交際中の男性、ってことだったけどね。…メーカー時代の星さんは、その腕が評判になって、メーカー直営店以外での仕事の依頼も多くてね。勿論、それはメーカーにとっても宣伝になるし、メリットもあったんだけど…上からの風当たりは強かったんだ。彼氏は、そういう微妙な立場だった星さんを、会社内でずっと守ってきた立場の人だよ。僕も、それより少し前に何かの集まりで話したことがあるけど……いい人だった。人柄もいいし、見た目も男らしくて、星さんにはお似合いだったよ」
 「……」
 どんな心境で、星の恋人を褒めているのか―――でも、氷室の横顔は、穏やかだった。嫉妬を堪えているとは、到底思えない位に。
 「結局、僕らは店に入り、星さんはメーカーを辞めて、フリーの仕事を始めたけど―――それが決まった頃から、彼氏とギクシャクしだしてね。…ああ見えて星さんは、精神的に凄く脆い人なんだ。慣れない現場に加えて、プライベートでも彼氏と上手くいかなくて、随分悩んでた。表には出さなかったけどね」
 「…知らなかった」
 入店当初から、星は常にキリッとしていて、隙のない女性だったから。奏からすれば、寝耳に水だ。いや、恐らくは、転職前から相談に乗り合っていた氷室以外全員にとって、寝耳に水だろう。
 「で、僕の方も―――この店の仕事を引き受けた頃から、その準備や仕事で、付き合ってた彼女と会う時間が、なかなか取れなくてね。寂しい、どうして一緒にいてくれないの、って責める彼女に…少し、疲れてた。そんなことも、お互い、愚痴ったり励ましたりしあって―――それぞれ、破局の危機を乗り切ったんだ。…けど…」
 氷室の歩く速度が、ふいに、落ちる。
 氷室は、遠い昔を振り返るように、真っ直ぐに前を見つめた。
 「…どうしてなのかな。僕も、星さんも」
 「……」
 「…彼女と上手くいってない時は、その寂しさから、星さんに気持ちが傾いているだけだと思ってたのに―――恋人のことを想う気持ちは、少しも減っていないのに―――平穏を取り戻しても、どうしてまだ、お互いを必要とせずにはいられなかったんだろう? 恋人を裏切る行為だってことは、十分すぎるほど、わかってたのに」
 「……」
 「…奏が、黒川さんのマンションを追い出された頃は、僕も星さんも、恋人との時間を1分でも長く持つことで、お互いを遠ざけようとしてた。1度限りの過ちにしたかったんだ。でも……無理だった」
 頻繁に彼女との仲をノロケていた氷室を思い出し、ああ、だからか、と納得した。
 あれは、氷室が、自分自身に言い聞かせていたのだ。自分には愛する人がいるのを忘れるな―――と。
 「月に1度か2度…その程度の関係だけど、断ち切れなかった。僕は結局、耐え切れなくて、恋人と別れた。まだ好きだったけれど―――星さんと別れず彼女と別れたのは、僕の選択だ。…星さんも、同じだった」
 「えっ?」
 話の最後に付け加えられた言葉に、奏は驚き、思わず訊き返した。が、氷室は、平然とした顔だった。
 「別れようとしてたよ、彼と。何度もね。まだ彼のこと、凄く好きなのに……いや、好きだからこそ、裏切ってる自分が許せなくて」
 「…でも…」
 じゃあ、この結末は、一体?
 訳がわからず、眉をひそめる。そんな奏を見て、氷室は困ったような笑みを見せた。
 「僕が、止めてたんだ。まだ好きなら、絶対別れるな、って。別れるなら僕たちの方だろう、苦しいならこっちをもうやめよう、って」
 「…なんで…」
 「…星さんが、好きだったよ」
 きっぱりと、氷室は言い切った。
 「いや…今でも、好きだよ、確かに。でも―――僕は、星さんと結婚したいとは、思えなかった」
 「……」
 「星さんも、僕を好きでいてくれた。でも、多分……僕との未来は、見えてなかった。…なんでだろうね」
 「―――…」
 なんで、なのか。
 それは、わからないけれど―――そういう関係もあるのかもしれない、と、奏は思った。
 明日美が、好きだった。嫌いなところなんて、どこもなかった。一緒にいれば楽しいし、安らげた。でも……明日美と恋人同士になる自分が、どうしても見えなかった。恋人同士になろうとすれば、無理が生じ、お互いが自分らしさを失っていった。
 氷室と星も、それと同じことなのかもしれない。
 励ましあい、慰めあい、男女として求め合っていても―――伴侶として寄り添う未来が見えない関係。それは、何がいけないとか、どうすれば変われるとかいう問題じゃなく……運命とか、相性と呼ばれるものなのかもしれない。
 「じゃあ…星さんの彼氏って、今も何も知らない訳?」
 それじゃあんまり気の毒だ、と思って奏が言うと、氷室は静かに首を振った。
 「11月、やっと星さんが決心して、話した。でも、僕の名前は伏せたらしい―――2人の責任なのにね」
 「…星さんらしいな」
 星は、責任感の強い人だ。テンがミスをした時も、裏ではテンをきっちり叱りながらも、客や店長への謝罪は、全て指導者の自分の責任だ、と全てにおいて自分がその先頭に立った。2人の責任であっても、恋人のことは、自身の問題だ。たとえ言葉の上でも、恋人に氷室を責めさせたくはなかったのだろう。
 「それを全部承知の上で、彼氏が星さんにプロポーズした時―――2人で、決めたんだ。僕らの時間はずっと、仕事とプライベートの隙間の、ほんの少しだけだったからさ。最後に…どこかに2人で行こうって」
 「…それが、あの水族館、か」
 「あれで、終わり。ケジメをつけるために、もし相談事があるなら、仕事の休憩時間だけにしよう、って決めてる。今も星さんは、僕の最高の相談相手だし、僕も星さんのいい友人でいたい」
 「じゃあ、後悔は、してないんだ」
 「ああ」
 氷室は、笑顔でそう言ったが―――最後にふっ、と、僅かに表情を翳らせた。
 「ただ―――水族館に行った日、ちょっとだけ、後悔…したかな」
 「え?」
 「…星さんがさ。熱帯魚の水槽見ながら、言ったんだよ。“氷室君と、こういうデート、もっとしてみたかったな”って」
 「……」
 「別人みたいにはしゃいで、楽しそうに笑ってる星さん見てたら……少し、後悔した」

 そんな時間を、これまで、ずっとあげられなかったことを?
 それとも―――無邪気に笑う星さんを、手放す決意をしてしまったことを?

 そのどちらなのかを、奏は、氷室に問うことができなかった。
 どちらであっても、氷室はもう後悔していないし、前を向いて歩いている。問う必要など、ないのだろう、今更。
 「やっぱり、軽蔑するよな。こんなの」
 苦い笑いを浮かべて呟く氷室に、奏は、少し迷った挙句、答えた。
 「軽蔑はしないけど―――オレは、やりたくないな」
 「ハハハ」
 そりゃそうだ、僕だってやりたくなかったよ―――そう言って、氷室は笑った。


 その後、駅まで向かう間、奏と氷室は、星が抜けた後の店のことなどを話した。
 そんな話をしながら―――奏の頭の中には、何故か、さっき氷室が言ったセリフが、何度か蘇っていた。

 『どうしてまだ、お互いを必要とせずにはいられなかったんだろう? 恋人を裏切る行為だってことは、十分すぎるほど、わかってたのに』

 そのセリフに合わせて、何度か頭をよぎったのは―――咲夜の、父のことだ。
 死の淵を彷徨う妻がいながら、その妻を愛していながら、取り残される孤独に耐え切れず、他の女性を求めてしまった、咲夜の父。そんな父を、咲夜は、頭では理解できても、感情がついていかない、と言っていた。
 咲夜は、氷室と星の話を、どう思うだろう?
 2人を同じ位に好き、なんてあり得ない、と言うだろうか。裏切りへの罪悪感から恋人と別れた氷室を罵るだろうか。それとも、自分とは関係のない第三者のことなら、そんなこともあるよね、と理解を示すだろうか―――咲夜が、何と答えるか、聞いてみたい気もした。
 ―――でも、あいつには、言わない方がいいのかもしれないな…。
 なんとなく、そう、思う。
 見えた気がしたのだ。咲夜が何と言い、そしてどんな顔をするかが。

 「私ってば、実の父親以外には寛大だよねー」と、茶化したように笑いながら、きっと咲夜は、暗い目をするのだろう。
 いまだに父を許せずにいる自分を責めるような、けれどもやっぱり許せないような―――そんな目をしながら、それでも咲夜は、笑うのだろう。…なんだか、そんな気がした。  


***


 ―――うー、アポとった時間に間に合うかな。
 時計とフロントガラスを交互に見比べながら、咲夜は、少し苛立ったようにハンドルの縁を指で叩いた。
 この次に、定期メンテナンスのアポイントを取っている客は、現在地からまだ車で10分の位置にある。が、時計は既に、約束の時間まで、あと10分を切っている。前の客で少々時間を取ってしまったのも痛かったが、途中、道路工事で車線規制があったのが痛かった。こういう時、車での移動は何かと影響があって不便だ。
 かと言って、大量のコーヒー豆とメンテナンス機材、時にはデリバリー用のポットまでを積んで走っているのだ。それらを抱えて電車移動は、非現実的な話である。
 ―――それに、結構好きなんだよなぁ、この車。
 愛嬌のあるボディに黄色のペインティング。車内に漂うコーヒーの香りも、咲夜は結構好きだった。歌1本で生きていきたい、と思ってきたし、今もそう思っている咲夜だが、コーヒーの香りに包まれたこの仕事は、決して「生活のため、仕方なく」ではない。これはこれで、好きでやっている仕事だ。

 コーヒーの香りが好きになったのも、実は、拓海の影響だ。
 拓海の家で暮らしていた頃、拓海が家にいる日の朝は、必ず、コーヒーを豆から挽いて淹れていた。紅茶党な両親の間に生まれた咲夜は、コーヒーにはあまり馴染みがなかったのだが、初めて嗅いだコーヒーの香ばしい香りには、とても魅せられた。
 香りといえば、葉巻の香りも嫌いではない。
 拓海が日頃吸っているのは極々普通の市販の煙草だが、夜、家でのんびりする時などは、時々外国製の葉巻をくゆらせていた。ヴォーカリストになるなら喉を労われ、と、咲夜の前では煙草も葉巻も滅多に吸わなくなってしまったが、煙草の類を全くやらない咲夜でも、香りだけは結構好きだった。そして、咲夜が香りを好ましいと思う葉巻は、大抵、拓海のお気に入りの葉巻でもあった。

 元々似ていたんだろうか。それとも、拓海の影響で、似てしまったんだろうか。最近、拓海と自分の共通点を見つけては、なんとも複雑な気分になる。
 拓海の立場に自分を置き換えてみた時―――やはり、誰かに対する恨みつらみから人を愛せなくなっている図より、誰かを愛し続けるために他人を拒否している図の方が、しっくり来る気がして、しょうがないから。
 ―――ま、そのどっちでも、私の未来にあんまり影響はないんだけどさ。
 そう考えた時、目の前に迫っていた信号機が、青から黄色に変わった。
 「……っと」
 ついてない。客のビルまで、あと1ブロックだったのに―――内心舌打ちをしつつ、咲夜はブレーキを踏んだ。
 停車して間もなく、信号は赤になり、右折車だけが進んで行った。その流れも途切れ、歩行者の信号機が、青に変わった。
 その様子を、見るともなしに見ていた咲夜は、次の瞬間、目の前に現れた者に、目が釘付けになった。

 「―――…」

 内巻きにした、栗色の柔らかそうな髪。
 抜けるように白い肌に、憂いを帯びた目元。美人なのに、その印象は大人しげで、優しげだ。そして、周囲の疲れた歩き方とは対象的な、優雅で姿勢の良い歩き方―――…。
 髪型も、服装も、まるで違う。年月の分だけ、顔立ちも多少変わった気がする。
 けれど、あの時、あの僅かな時間に、咲夜はその詳細を目に焼き付けるかのように、真剣に彼女を見つめたのだ。忘れる筈がない―――これほど重要な人の姿を。

 あの人だ。
 8年前―――拓海の腕にしがみついて、幸せそうに笑っていた、あの女の人だ―――…!

 「ま…っ、」
 待って。
 その一言が、声に、ならない。咲夜は、目の前の横断歩道を左から右へと優雅に横切っていく彼女を、言葉を失ったまま、フロントガラス越しに追うことしかできなかった。
 横断歩道を渡りきった彼女は、右に折れ、咲夜が向かおうとしているのとは逆方向へと歩き出した。慌てて窓を開けその姿を目で追ったが、咲夜が窓から半分顔を出しかけた時、後ろの車のクラクションが、咲夜を現実に引き戻した。
 ハッ、として前を見ると、信号が青に変わっていた。
 「……っ」
 約束の時間が迫っている。後ろからも催促されている。
 ―――バカ。迷うまでもないじゃない。
 一瞬考えた選択肢を、即座に切り捨てる。きゅっ、と唇を噛んだ咲夜は、きちんと前に向き直り、車を発進させた。

 景色が、背後へと流れていく。信号機も、彼女も、咲夜からどんどん遠ざかる。
 けれど―――ハンドルを握る手が微かに震えてしまうことを、咲夜はどうしても止められなかった。


←BACKFake! TOPNEXT→


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22