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「無理すんなよ」
くわえ煙草で奏が言うと、隣の窓の咲夜は、あっけらかんとした笑みを―――いや、「一見」あっけらかんとした笑みを、奏に返した。
「だーいじょうぶ。無理なんてしてないよ」
「……」
「あーあ。寝すぎて、だるいなぁ」
休み明けはこれだからねぇ、と言いつつ、咲夜は両腕を上げてうーん、と伸びをした。そんな姿を胡散臭そうな目で横目に見ながら、奏は、長くなり過ぎた煙草の灰を灰皿に落とした。
昨日、マリリンとバトンタッチして様子を見に行った時、咲夜はまだベッドの中で丸まっていた。
起きてからも元気がなく、ほとんど喋らなかった。奏がどこに行っていたかも訊ねず、暇つぶしに奏がつけたラジオを、壁にもたれて座ったまま、ずっとぼんやり聴いていた。そんな咲夜に、無理に何かを訊く気にもなれないし、拓海の所に殴りこみに行った話などできる筈もなく―――結局、奏も、床にあぐらをかいたまま、ずっとラジオを聴いていた。
そんな風に、1日過ぎてしまったのだが―――それでも、日中はおかゆすら僅かしか口にしなかった咲夜が、果物と鍋焼きうどんをきちんと食べたので、奏は少しだけホッとした。
咲夜を1人にするのは、なんだか不安な気がしたが、「1人の方がよく眠れるから」と言って咲夜が追い返そうとするので、夕食後には素直に自室に引き上げた。が……、壁1枚隔てたところで、まだ咲夜が泣いている気がして、昨晩はあまりよく眠れなかった。
…で、夜が明けたら、これだ。
―――その顔を信用しろ、って言う方が、無理な話だろ。
再び煙草をくわえつつ、眉を顰める。
まる1日、微笑すら浮かべなかった奴が、たった一晩眠っただけで、こんな満面の笑みを本気で浮かべられる訳がない。実に名演、見事な化けっぷりだ。だが、48時間前なら騙されたであろう名演も、咲夜の泣いてる顔や魂の抜け殻みたいな顔を見てしまった奏の目を、今更誤魔化せる筈もなかった。
なのに、咲夜の方は、一向に本音を出そうとしない。
「…だーかーら。そういう目で見るのヤメテって」
奏の、いかにも「疑ってます」という目つきを見て、咲夜はため息をつき、軽く奏を睨んだ。
「心配してくれるのは嬉しいけど、もう大丈夫だから。ほら、見てのとおり元気でしょ?」
「…元気“そう”だよな、確かに」
「うわ、嫌味。なんで元気“そう”って、“そう”にアクセント置くかな」
「お前の笑顔は額面通りに受け取れないからだっつーの」
「…そりゃ、まあさ。額面100パーセントじゃないのは、自覚してるけど」
一向に疑惑の目をやめようとしない奏に、咲夜は唇を尖らせ、面白くなさそうに髪の先を弄った。
「元気一杯、とは言わないよ。うん。でも―――ま、くよくよしてても、しょーがないし」
「……」
「たかが、失恋じゃん。世界中、どこでも、誰でも経験してるようなことで、そう何日も寝食忘れて落ち込んでる訳にもいかないっしょ」
―――たかが失恋、かよ。
そんな一言で片付けられる話なのか? と、ちょっと思う。
いや、たかが失恋でも、失恋は辛い。テンの時を見たってわかることだ。1日2日でピンピンしてる、なんてドライな奴の方が珍しいだろう。
しかも咲夜の場合、たかが失恋、とは割り切れない部分がある。咲夜にとっての拓海は、心を病んでいた時の唯一の味方であり、心の支えであり、またジャズを通しての師であり、目標であり―――到底、一言では言い表せない存在なのだから。
……あ。
駄目だ。落ちる。
「? どしたの、奏」
突然、がっくりとうな垂れ、窓枠に頭をぶつけてしまった奏を見て、咲夜がキョトンと目を丸くする。なんでもない、という風に、奏はうな垂れたまま手を振った。
「私よか奏の方がヤバイんじゃないの」
「…うるせー」
「あ、そろそろ準備しないと。じゃーね」
背後から聞こえるラジオが告げた時刻に、咲夜はそう言って、早々に窓を閉めた。今日は、連休の谷間の水曜日―――ゴールデンウィークを丸ごと連休にするような太っ腹な勤め先ではない2人にとっては、今日は極当たり前の平日だ。のんびり朝を満喫する時間などないのである。
奏の方は、まだ少し時間がある。むくっ、と頭を上げた奏は、ほとんど消えかけていた煙草を、灰皿に押し付けた。
一見、元気さを装っている咲夜。
でも、それが「一見」に過ぎないのは、この晴天に発声練習ひとつせずに引っ込んだことが、何より如実に表している。
事情も知っているし、咲夜の気持ちもある程度理解しているつもりだ。なのに、頼ってもらえない―――それは、今の奏にとっては、結構へこむ事実だった。
はるかに年上で。咲夜が一番辛かった時に傍にいて。長い年月を共に過ごしてきていて。
スタート時に、こんな気の遠くなるほどの差をつけられていたら、一体どうやって逆転しろと言うのだろう?
「最後に結ばれた者の勝ちなのか」というのは咲夜のセリフだが、逆に訊きたい。人と人の繋がりは早いもの勝ちなのか? と。後から出会った者は、長い時間をかけて繋がってきた奴には、永遠に勝つことができないのか? と。
必要とされたいのに。
それが、友情でも、愛でも―――今はただ、必要とされたいだけなのに。
悔しさが、じわじわと、湧き上がってくる。
勝ちたい。
あいつに勝ちたい、と―――奏は、切実に思った。
***
「あれ? 如月さんも今戻りか」
黄色の軽から下りたところで、別の車から出てきた先輩社員に声をかけられた。
デリバリー用のバッグを、よいしょ、と肩に掛け直した咲夜は、ちょっと笑みを見せ、軽く頭を下げた。
「お疲れ様ですー」
「午前からデリバリー?」
「ええ。会議で2ポット」
「あー、そういやあ、今日って月末なんだよなぁ」
「ですねぇ」
月末月初は、大抵の企業で会議が増えるため、デリバリーサービスの注文が増えるのだ。今日は、同じ月末でも大型連休の谷間なので、いつもよりは注文が少ない。が、なにせ対応するこちらの社員も、一部有給を取って不在ときているため、結果、残った人間に集中的に負担がかかるのだ。
「角の3階にできたイタリアンの店、如月さん、行ったことある?」
歩き出しながら先輩に問われ、咲夜はおぼろげな記憶を手繰り寄せた。が、何も浮かばなかった。
「ない、かなぁ」
「なら、昼飯に、たまには一緒にどう? 手塚たちがオープンの時の割引券持ってるからって誘ってるんだけど」
「うーん…」
この先輩には、過去に2、3度、おごってもらったことがある。「手塚たち」と言っている同僚たちも、別に悪い人じゃない。新しくできた店の評判は知らないが、イタリアンは嫌いじゃない。でも。
「遠慮しときます、今日は」
「え、なんか先約でもある?」
「ハハ、先約なんか、ないですよ。ただ、今日はイタリアンな気分じゃないんで。休み明けは、胃が弱ってんのかなぁ…」
「ふぅん…。如月さんでも胃が弱ることってあるんだ」
―――どういう意味でしょうか、それ。
まあ、でも、そういう風に思われているのは、なんとなくわかっていた。お気楽で、細かいことでいちいち気を揉まないタイプ―――上等だ。そう思っていてくれた方がいい。もっとも、「あたしって傷つきやすくて繊細だからぁ」と言っている2つ上の女子社員は、彼氏と別れた2日後に新たな男をゲットした、という咲夜の数倍頑丈な心の持ち主だったりするのだが。
また今度、と先輩を適当にあしらった咲夜は、オフィスの入り口に置かれた「行き先ボード」の自分の欄をサッと消し、自分の席に戻った。時計を見ると、11時半―――なんとも中途半端な時間だ。
休憩時間までどうするかな、と考えつつ、伝票を書き写していると。
「如月さん」
今度は、女性の先輩が声をかけてきた。
はい? という目で咲夜が見上げると、先輩は何かの紙切れをヒラヒラさせた。
「ね、スープ屋の後にできたイタリアン屋の割引券もらったんだけど、みんなでお昼に行かない?」
「……」
つぶれたスープ屋の後にできたイタリアンレストランは、先ほどの先輩が言っていた「角の3階にできたイタリアンの店」である。
何故、今日に限って、次々と人に誘われるのだろう―――内心、神様の意地悪を呪いながらも、咲夜は笑顔で断った。
「あー、ごめんなさい。胃の調子悪いから、今日はパス」
「え? そうなの? ふぅん…如月さんでも胃が痛い時ってあるのね」
「―――…」
反論するのもツッコミを入れるのも、面倒なので、やめておいた。
***
ベンチに腰を下ろし、脚を組む。
スポーツドリンクの入ったペットボトルの蓋を開けた咲夜は、それを一気に4分の1まで飲んだ。普段なら口の中に絡まる甘みが、今日は空腹に染み渡るような気がした。
はあ、と息をつき、空を見上げた。
都会のど真ん中、僅かな空間に作られた小さな緑地帯の真上には、雲ひとつない青い空が口を開いていた。
―――すっごい、いい天気だなぁ。
こんな日は、『Blue Skies』が、よく似合う。
咲夜の唇は、声を出さずに、無意識のうちに『Blue Skies』の歌詞を口ずさんでいた。が、そのことに、咲夜は気づいていなかった。
不思議だ。
あんなに泣いて、あんなに苦しんだのに……何も感じない。
まるで、この頭上にぽっかりと開いた空みたいだ。何もない―――空っぽだ。拓海のことを思い出すこともないし、寂しくて悲しくて途方に暮れることもない。ただ漠然と、ああ、私、拓海から切り捨てられたんだな、と思いはするが……それだけだ。
こんな経験は、前にもあった。
母が他界した時だ。
死に立ち会った時、泣いて、泣いて……通夜の席でも、ただ座っているだけでやっとだった。出棺の時は、連れてっちゃ嫌だ、と泣く咲夜を父が止めたりもした。なのに―――母が小さな骨に還ってしまうと、涙はどっかへ行ってしまった。ああ、もういないんだ―――それだけ、だった。
人は、あまりに悲しすぎると、最後には悲しみが麻痺するのかもしれない。
上手く出来てるよね、なんて随分冷静に分析しながら、咲夜はゆっくり瞬きをし、空を見上げ続けた。
…気づかなかった。
あんまり空が青いと、人って、孤独を感じることもあるんだ。
空が、青すぎて―――咲夜は何故か、ここに1人きり取り残されたような孤独を感じた。
***
「…いっちゃん、どないしたん?」
もの凄く怪訝そうな声でテンに訊かれ、奏はやっと我に返った。
「え、何が?」
「それ」
「……」
テンの視線を辿り、自分の手元を見る。するとそこには、1万円札があった。
先ほど会計担当をした時に、客から1万円札を受け取ったのだが、お釣りを出す際、それをマグネットでレジに一旦留めていたのだ。お釣りを渡し、出て行く客を見送ったので、その1万円をレジに入れようとしたのだが―――そこで動作がストップしていたらしい。難しい顔をして、ただじーっと1万円札を睨んでいたのだから、変に思われても仕方ないだろう。
「何やの? もしかしてニセ札?」
「ち、違う違う。…悪い。ちょっと考え事してた」
「ふーん…」
気まずそうに、そそくさと1万円をレジに入れる奏を、テンは酷く胡散臭そうな目で眺めた。それから、手にしていた雑誌をマガジンラックに戻しながら、ボソリと呟いた。
「―――なんや、えらい殺気立っとるんやね」
その言葉に、レジを閉めた奏は、不思議そうな顔をしてテンを見た。
「殺気?」
「昨日もそうやったけど、接客中は普段通り愛想よぉしとっても、暇になるとめっちゃピリピリしてるわ。いっちゃんが変なのは今に始まったこととちゃうから別にええけど―――今回は、さすがにみんな心配してると思うわ」
「……」
―――殺気立ってる、……か。
殺気立った覚えはないが、おかしくなっている自覚はある。そんな風に表には出てたのか、と苦笑したくなる。
「何かトラブル抱えてるんやったら、誰かに相談した方がええよ。ウチは無理でも、氷室さんとか、店長とか」
よほど奏の様子が深刻そうに見えたのだろう。普段のからかう調子を少しも見せず、本気で心配そうな顔でテンがそう言った。ちょっと笑った奏は、別に何ともない、という意味を込めて、軽く首を振ってみせた。
「けど、いっちゃん」
「なんともないって。ちょっと面白くないことがあっただけで、トラブってる訳じゃないから」
「…ほんまに?」
「ホント。…悪いな。店のスタッフとは関係ないことでイライラして」
殺気立ってる、と思われたのなら、単に不機嫌だという方向に持って行った方がいい、という奏の判断は、一応正しかったらしい。テンは、まだちょっと納得がいかない部分がありそうだったが、
「…そんなら、はよ機嫌直して。1人でだまーってピリピリしとるいっちゃん、外から見とると、不気味やわ」
と言って、早々にその場を離れて行った。
テンの背中を見送り、はぁ、と息をついた奏は、カウンターの上に置かれた卓上カレンダーに目を向けた。
今日から5月。ジャズ・ライブは、今度の日曜日―――明々後日に迫っている。なのに咲夜は、今朝もやっぱり発声練習すらしなかった。そして……何事もなかったような、「一見」あっけらかんとした笑みを、奏に見せていた。
―――大丈夫かよ、あいつ。あんな状態で。
本当に、舞台に立てるのかよ? 今まで経験したことのないような大舞台―――しかも、麻生さんも参加するライブの舞台に。
自分が心配したところで、どうしようもない。それはわかっている。わかっている、けれど。
同じように、自分が行っても解決しないのに、咲夜は行ったじゃないか。拓海のもとに。「放っておけない」―――理由は、それだけで十分だ。
今日が木曜日……“Jonny's Club”での咲夜のライブのある日だったのも、何かの縁だ。そう無理矢理考えた奏は、今日この後の行動を決めた。
***
―――やばい。
冷たい汗が、額に吹き出した。
ごくん、と唾を飲み込んだ咲夜は、もう一度、大きく深呼吸をした。
「ん? おい、大丈夫か?」
咲夜の様子に気づいてか、ヨッシーが、少し眉をひそめて咲夜の顔を覗き込んだ。ヨッシーの声を聞きつけた一成も、振り向き、咲夜の方に目を向けた。
「どうした? 血の気が引いてるぞ」
ぺちぺち、とヨッシーに頬を叩かれた咲夜は、少しグラつく頭を押さえ、なんとか誤魔化し笑いを作った。
「そ、そうかなぁ? そんな顔色悪い?」
「…結構。なあ、一成?」
「どれ」
同意を求められ、一成も咲夜に歩み寄り、その顔をじっと覗き込んだ。ヨッシー以上に咲夜の内心を見透かそうとする目つきに、咲夜は焦りを覚え、ガタン、と音を立ててパイプ椅子から立ち上がった。
「いや、ほんと、大丈夫だから」
「でも、確かに顔色悪いぞ、咲夜」
一成の眉も、心配げにひそめられる。
「ジャズ・フェスタ直前なんだし、体調管理には気をつけろ、って言っといただろ」
「ちゃ、ちゃんと日付変わる前に寝てるってば。練習もいつもより控えろって言われたから、控えてるし」
控えるどころか、ここ3日、全く歌っていなかったりするのだが。
―――控えすぎたから、緊張してんのかな。
ちらっと、そんなことも思う。
ライブが近づくにつれ、体の芯が震えてくる、この感じ―――咲夜は、確かに緊張していた。3日歌わない位では何の影響も出ない位には歌い込んでいるものの、朝も1曲も歌っていない、というのは珍しい。この冷や汗や動悸は、きっとその自信のなさから来る緊張だろう、と咲夜は思った。
…いや。勿論、それだけじゃないことは、自覚しているのだが。
でも、それを一成やヨッシーに言う気は、咲夜にはなかった。
「大丈夫。練習控えすぎて、かえって不安になって、緊張してるだけだから」
咲夜は、それまでよりは幾分自然な笑みでそう答えたが、咲夜の顔を覗き込む一成はあまり納得した顔をしていなかった。が、食い下がったからと言って、真相を語るような咲夜ではないこと位、一成も重々承知している。小さくため息をつくと、ポン、と咲夜の頭を叩いた。
「…だったら、出番まであと10分だから、大至急発声練習しろよ」
「うん」
ホッとして、やっと普通の笑みを見せた咲夜だったが。
「あ、時間あったら、カロリーメイト食っとけよ。その顔は、緊張だけにしては血の気がなさすぎる」
ついでに、といった感じでヨッシーが付け足した言葉には、咲夜は曖昧に返事を誤魔化した。とてもじゃないが、今、あのポソポソしたカロリーメイトを飲み込めるとは思えない。緊張だけじゃない自覚はあったが、咲夜は食べ物は口にせず、お茶だけを飲んだ。
準備に戻った一成やヨッシーを横目に、発声練習をしてみる。
一番出易い高さの音から順に、高い音へ。最高音から、今度は順に低くなっていき、最後は最低音のCへ。それを2、3度、繰り返した。
咲夜独特の高音は、掠れることなく響いた。低音は少々怪しいが、今日の歌には影響がないだろう。1曲目を軽く歌ってみたが、声は滑らかに出てきた。
―――よし、大丈夫。
自分に言い聞かせるよう、そう心の中で言うと、咲夜は最後に、もう一度大きく深呼吸をした。
***
挨拶をするため、マイクスタンドに手をかけたところで、咲夜は、客席の中に奏の姿を見つけた。
「……」
―――…奏…。
ジャズを楽しみに来た訳じゃないことは、妙に緊張を帯びたその表情で明らかだ。
心配させまいと、なるべく普段通りに接しているつもりだが……やはり、十分演じきれてはいないのだろう。ただでさえ、あんな重たい話に巻き込んだ上に、情けない醜態を晒して随分迷惑をかけたのに―――またこうしてわざわざ足を運ばせてしまったことに、嬉しさより、申し訳なさが先に立つ。
でも、申し訳なさそうな顔をすれば、奏は余計、心配するだろう。瞬時にそう判断を下した咲夜は、目が合った奏に、小さな笑みだけを返した。そんな咲夜に、奏も微かに笑みを見せて、気づかれない程度に手を挙げた。
「こんばんは―――ようこそ“Jonny's Club”へ」
いつもの挨拶と共に、1曲目が、始まった。
「You'd be so nice to come home to... You'd be so nice by the fire...」
1曲目は、咲夜が大好きなヘレン・メリルの『You'd be so nice to come home to』だった。
トランペットがない分、ヘレン・メリル盤より軽いタッチで、速さもアップテンポだ。ヨッシーが考えたアレンジだが、咲夜は最近では、ヘレン・メリルが歌うこの曲より、自分が歌うバージョンの方が好きになっていた。
歌い慣れた大好きな曲を、咲夜は、なかなかいい調子で歌っていた。
「Under the stars chilled by the winter, under an August moon burning above... You'd be so nice you'd be paradise, To come home to and love...」
―――うん…、大丈夫。歌える。
もう、震えは収まっていた。あんなに恐れていたのが嘘みたいだ。咲夜はやっと安堵を覚え、恋人の待つ我が家を恋しがる歌を、軽やかに歌った。
1曲歌い終え、拍手をもらえば、もういつも通りだった。
にこやかに拍手に応え、マイクを握り直す。一息ついて、咲夜は次の曲の紹介に入った。
「次の曲は―――…」
と、言いかけた時。
ぐらっ、と、視界が一度、大きく揺らいだ。
「……っ、」
突然のことだった。
一気に血の気が引き、咲夜の体を支える軸が、バランスを失いかけた。危うく倒れそうになるのを、咲夜は、マイクをきつく握り締めることで堪えた。
それでも、突然途切れた曲紹介と、1歩横にふらついた足は、客にも気づかれてしまったらしい。一番ステージに近い客が、どうしたんだろう、という顔をするのが咲夜にも見えた。貧血だ、と自分を襲った異変を察しつつも、咲夜は焦った。
まずい。
ここは、舞台の上だ。
客を不審がらせてはいけない。倒れるなんてもってのほかだ。ぐらついた頭を手で押さえ、咲夜は咄嗟に笑みを作った。
「アハハ…、ごめんなさい。うーん、連休ボケかなぁ、ライトが眩しい眩しい…。あ、勿論、遊びすぎじゃありませんよ? 貧乏歌手のゴールデンウィークは、ひたすら家でゴロゴロ。だから“休みすぎ”かな」
こういう時、誤魔化しのトークがスラスラ出てくる才能を、今ほどありがたく思ったことはない。不審に思ったようだった客も、トークに乗ってクスクスと笑ってくれた。
「この連休、みなさんも、懐かしい人と会うこともあるかもしれませんね。そんな時にピッタリな曲を1曲―――…」
上手いこと、曲紹介に繋げて、ホッとする。
ホッとしつつ―――咲夜は、自分の口から自然と滑り出したこの曲紹介を、直後、激しく後悔した。
2曲目は、『What's New』、だったのだ。
『What's New』―――2ヶ月以上日本を留守すると、帰国した拓海が、真っ先に弾く曲だ。留守中変わりはなかったかい?―――そんな意味をこめて。
―――…拓…海…。
瞬間。
残酷なほど鮮やかに、拓海のことが、脳裏に蘇った。
少し物悲しい前奏が始まる。
その音色を聴きながら、咲夜の頭は、半ば真っ白になりかけていた。
『What's New』―――もう彼の心がここにないと気づきながら、まだ愛してる、と彼を想って歌う歌。いつだって感情移入して、主人公になりきって歌えた。拓海を想って……拓海への想いを、歌い上げていた。
その想いなくして、一体、どうやって歌えばいいんだろう?
わからない―――どう歌えばいいのか、何を感じて歌えばいいのか、わからない。
それでも、この歌も―――いや、1曲目以上に、慣れ親しんだ歌だ。前奏が終わると、咲夜は条件反射的にマイクを握りなおし、無意識のうちに口を開いていた。
「What's new...? How is the world, treating you?―――…」
―――…違う。
「You haven't changed a bit... Lovely as ever, i must admit...」
違う。ああ、違う。こんな風じゃない。
違和感が襲う。確かにちゃんと歌っているが、咲夜は、まるで自分がオルゴールかレコードになった気分だった。普段通りに、全然歌えない。歌の世界にも入り込めない。ただ楽譜をなぞっているだけ……それは多分、咲夜以外にも感じ取れるレベルの違和感だろう。一成やヨッシーは勿論、もしかしたら―――客にも。
何を歌っているんだろう、自分は。
無に、なれない。何も浮かんでこない―――どう歌えばいいかわからない。
「What's new.....? How did that romance come through?―――…」
高音が、震えそうだった。
今にも声が出なくなりそうだった。貧血のせいか、頭もグラグラして、上手く回らなかった。
それでも、最後まで歌いきらなければ―――その義務感だけで、咲夜は必死に歌った。
***
「今日はもう帰れ」
控室に戻るなり、一成が放った一言に、咲夜は絶句した。
憮然としたような冷ややかな表情の一成を呆然と見つめ、続いてヨッシーに目を移す。が、怒った顔はしていないものの、ヨッシーも一成の意見には賛成の様子だった。仕方ないさ、という、咲夜を宥めるような目のヨッシーを見て、咲夜はますます言葉を失った。
「2回目のステージは、俺とヨッシーだけでやる。店に一宮、来てただろ。ちょうどいい、一緒に帰れ」
「……」
「ごめん、ヨッシー。カウンター席にいた筈だから、呼んできてもらえるかな」
一成に頼まれたヨッシーは、軽く肩を竦めると、無言のまま控室を出て行った。パタン、というドアの閉まる音が、やけに大きく控室に響いた。
一成と2人きりの控室に、沈黙が流れた。
何故一成が、自ら呼びに行かずヨッシーに頼んだのか、咲夜にもわかっていた。訊きたいことが―――ヨッシーに聞かれることなく、咲夜に訊きたいことがあるからだ。案の定、暫しの沈黙の後、一成がさっそく切り出した。
「…言いたいこと、わかってるだろ」
「……」
「麻生さんか」
咲夜の視線が、一成から逸れ、斜め下に落ちた。
が、ぎゅっと結んだ口元は、返答を拒んでいる。一成もそれを察し、深いため息をついた。
「…出られるか? ジャズ・フェスタ」
「……」
「麻生さんも出る舞台だぞ。本当に大丈夫か?」
一成が言うと、咲夜の肩が、僅かにびくん、と反応を示した。
けれど、答えは1つだ。咲夜は、視線を逸らしたまま、ゆっくりと大きく頷いた。
「…ジャズ・フェスタでは、確かに俺達は前座に過ぎない。でも、相手にするのが、1万以上の金を払って集まってる客であることは間違いない。その意味、わかってるな?」
「…うん」
「今日みたいな歌を歌う気なら、プログラムを無視してでも、俺1人で舞台に立つ」
―――あんな歌なら、ない方がマシだ。
その意味を感じ取り、咲夜は逸らしていた視線を一成に戻した。
自分でも、嫌になるほど実感していた。あれじゃ、歌なんてない方がいい。一成のピアノ1本で勝負する方が数百倍マシだ。咲夜は、一成の真剣な視線を受け止め、コクリと頷いた。
直後、コンコン、というノックと同時に、ドアが開いた。
「はいはい、連れて来ましたよ、お隣さんを」
わざとおどけた口調でそう言うヨッシーの背後から、心配げな顔をした奏が、顔を覗かせた。その表情を見ただけで、咲夜は胸が締め付けられそうになった。
―――…情けない。
今ほど、自分で自分に腹が立ったことはない。
唇を噛んだ咲夜は、ヨッシーと一成の前できっちり姿勢を正すと、深々と頭を下げた。
「…迷惑、かけて―――申し訳ありませんでした」
***
帰り道は、どちらも無言だった。
“Jonny's Club”から駅までの道も、電車の中も、終始無言だった。
一成は「ちょうどいい」などと言ったが、咲夜に言わせればまるっきり逆だ。こんな日に、こんな場面に、奏が居合わせてしまうなんて―――最悪。最低最悪の展開だ。
あんな記事に自分がこだわったせいで、無関係な奏を巻き込んで。
佐倉や拓海の、知らなくてもいい過去を蒸し返して。
その挙句、拓海を失った傷を、奏の前に……よりによって、奏の前に、晒している。…もう、消えてしまいたい。今すぐ溶けてなくなってしまいたい。
「―――…なあ、」
やっと奏の方から口を開いたのは、駅に着き、電車を下りてすぐだった。
バッグから定期券を取り出しながら、咲夜は、気だるい面持ちで、隣を歩く奏を仰ぎ見た。
奏の方は、咲夜を見下ろしてはいなかった。改札の方に目を向けたまま、考え込むような、少し眉根を寄せた顔をしていた。その口から出てきた問いは、やはり、一成と同じ質問だった。
「日曜のジャズ・フェスタ、大丈夫なのかよ」
「…大丈夫だよ」
ポツリと、答える。けれど、一成とは違って、咲夜の異変の原因を知っている奏が、そんな言葉で納得する筈もなかった。目線だけを咲夜の方へと落とし、少し険しい目つきをした。
「大丈夫な訳、ないだろ」
「……」
「オレにまで、気休めとか強がりとか、言うなよ」
何故か少し不服そうにそう言うと、奏は咲夜より1歩先に出、改札を通った。咲夜もそれに続いて改札を抜ける。連休の谷間のせいか、普段ならまだ帰宅する人間が結構いる時間帯なのに、改札を通っていく近隣住人の姿はまばらだった。
改札を通るために一旦中断した話は、間もなく再開した。
「―――オレは、さ。一応、お前と麻生さんの間のことも、麻生さんと佐倉さんの間のことも、全部聞いてる立場だから。だから、お前が、ありきたりな失恋とは比較にならない次元でショック受けてるのも……なんとなく、だけど、わかってるつもりだよ」
「……」
「だから、せめてオレの前では、平気なフリして笑うなよ。知ってるから―――辛そうにしてる顔見るより、辛い癖に平気なフリしてるの見る方が、痛い」
「…ありがと」
そう言ってくれるのは、嬉しい。…けれど。
「でも、大丈夫。ほんとに、辛くないから」
その返答と同時に、奏の足が止まった。
つられて咲夜も足を止め、突然のことに少し驚いて奏を見上げた。すると奏は、憤りをあらわにした顔で、咲夜を睨み下ろしていた。
「…そんなにオレは、頼りないかよ」
「頼りない、なんて、誰も」
「言ってるのと同じだろ。“ほんとに辛くない”? ふざけんなよ。だったらさっきの歌は何だよ?」
ズキン、と心臓が嫌な感じに疼いた。元気がないとか、笑顔が足りないとか、そういう指摘は平気でも、歌に関する指摘だけは咲夜はスルーできない。
「あれは…っ! あれは、一瞬、頭が真っ白になっただけで、別に落ち込んでたせいでも何でもない」
「頭が真っ白になってる段階で普通じゃないっつーんだよっ」
「人間なんだから、そーゆーことの1回や2回、あったっていいじゃんっ」
「他のことならな。でも、歌だぜ!? 歌詞を忘れるならあり得ても、あんな上の空な歌い方を、お前が―――咲夜がするなんて、」
「しょーがないじゃんっ! わかんなかったんだから!」
これだから、嫌なんだ。
奏には、こういう姿を……拓海が原因でボロボロになってる姿を、他の男を失って絶望してる姿を、誰よりも一番見せたくないのに。
奏といると、感情のコントロールが効かなくなる。感情そのままをぶつけてくる奏に対しては、感情で応えてしまう。嫌だ、と思いながらも、咲夜は止まれなかった。
「た…っ、拓海への想いが、私が歌う原動力だったのに―――それを失くしたら、どうやって歌えばいいか、わかんなかったんだものっ! 私だって、あんな歌い方、したくないよ! でも……でも、どうすりゃいいか、わからないんだもの!」
「……」
「もう、わかんない…っ。何を歌えばいいのか、何に向かって進めばいいのか、なんにもわかんない。だって、拓海への想いを歌って、拓海を目標にずっと歌ってきたんだもの。それをいきなり、目標はさっさと叶えられて、想いは捨てろって言われて……何をどうすればいいか、わかんないよっ!」
「んなもん、別の目標見つけて、別の物をエネルギーにして歌うしかないだろっ!?」
苛立ったように、奏の口調のテンションも上がった。
「麻生さん抜きにしたら、世の中真っ暗闇か!? 麻生さん以外の人間がこの世にいないとでも思ってんのかよ!? あいつ以外は、未来の目標にも、歌う原動力にもなり得ないってか。え!?」
「そんなこと言ってないじゃんっ!」
「じゃ何だよっ!」
「あああ、もう嫌だ」
奏を振り切るように、歩き出す。が、奏がそんな真似を許す筈もない。きっちり咲夜を追って後からついてきた。
「やだやだ。もう嫌だ。たかが失恋如きでわーわー騒ぐ周りも嫌だし、そんなこと位で歌えなくなっちゃう私も嫌だ。最低。無様。自分でも愛想が尽きる」
「…無様で何が悪いんだよ」
憮然とした表情で、奏が吐き捨てた。
「カッコイイ失恋なんてあるかよ。失恋した直後なんて、誰だって情けなくて無様なんだよっ」
「でも、歌えないなんて最低」
「歌えよ」
「歌えない」
「―――麻生さんがいないと、か」
ぐい、と腕を引かれた。
反射的に仰ぎ見た奏の顔は、一言では言い表せない表情だった。
怒っているような、憤っているような―――傷ついているような、悲しんでいるような。
「麻生さんなしでは、歌えないのか、咲夜は」
「……」
「だったらお前にとって、歌って何だよ? 歌えれば幸せだって言ってたのは、あれは嘘かよ? 結局咲夜にとって、歌は、ただ麻生さんと同じ世界で生きて行きたいがための“道具”だったのか!?」
「―――…っ!」
感情が、メーターを振り切った。
悔しげに唇を噛んだ咲夜は、奏の手を振り解き、ドン! と奏を突き飛ばした。
不意打ちを食らったように、勢いで、奏がよろける。一瞬ビックリしたような顔をする奏に、咲夜は、涙の滲んだ目を歪め、
「バカ……っ!!!!」
と叫んだ。そして、クルリと踵を返すと、今来た道を戻るように、早足で歩き出した。勿論―――行き先などないのに。
ずんずん、振り返りもせず、憤りに任せて歩く。
もしかしたら奏が追いかけてくるんじゃないか、なんて馬鹿な期待も、ほんの少し―――頭の片隅にちょっとだけ、あった。けれど、奏は追いかけてこなかったし、咲夜も振り返ってそれを確かめようとはしなかった。ただ、行き場のない感情を持て余したかのように、意味もなくずんずん歩き続けた。
―――…言い返せなかった。
拓海がいなくては歌えないのか、歌は結局、拓海と世界を共有するための道具か―――そう言われた時、きちんと言い返すことができなかった。
図星だからではない。決してそうではない。
でも、少しだけ―――咲夜の中のどこか一部が、確かに奏の言う通り、「拓海がジャズピアニストだから」という理由でジャズを歌っていたんじゃないか、と、咲夜を嘲笑っていたから。だから……言い返せなかった。
馬鹿にするな、と頭に血が上る一方で、血の気の引く思いもしていた。…だから、あんな酷い言葉に、言い返せなかった。
「…サイテー…」
滲んだ涙を手の甲で拭きながら、呟く。でもそれは、奏に言っているのか、自分に言ってるのか、わからなかった。ただ、悔しくて、情けなくて―――目頭が熱くなった。
―――…奏は、絶対に知らない。
あの日……拓海の部屋からの帰り道、タクシーの中で、私が何を思ったか、なんて。
…私は、「罰が当たった」って思ったんだ。
拓海だけでいいと、一生拓海だけを想い続けるんだ、と言っていた私なのに、その誓いを破ったから。
自分だけは絶対にやらない、それだけは絶対許せない、と思っていたのに―――拓海を想いながら、奏を好きになってしまったから。
だから神様は、私から拓海を取り上げたんだ。拓海を想い続ける権利を取り上げたんだ。…そう思ったんだ。
…こんな姿。
拓海を想って、ボロボロになった姿を、奏に―――好きな男に、見せたい訳、ないじゃない。
足が、止まる。
どこだかよくわからない場所で、咲夜は、電柱にもたれかかり、両手で顔を覆って泣いた。
もう、この数日で、涙なんて涸れ果てたと思っていたのに―――涙は次々溢れて、止まらなかった。
***
翌朝の目覚めは、最悪だった。
―――オレの方が、自分に愛想尽きたかも…。
前日、徹底的に―――それこそ、地面を突き破って地球の裏側まで行ってしまうほど落ち込んだ奏は、あと少し自己愛の足りない人間だったら、オレ、絶対自殺してたな……と、本気で思った。
当然ながら、窓など開ける気になれない。ラジオを聴くゆとりもなかった。奏は、ただ黙々と起き上がり、黙々と朝食を準備し、結局半分も食べず、自棄になってシャワーを浴びた。
もう、泣きたかった。
思い出せば思い出すほど、何やってんだオレ、と腹が立ってくる。咲夜を支えたかったのに、咲夜を慰めたかったのに、咲夜を元気づけたかったのに―――…。
「…喧嘩売ってどーするよ、オレ」
バカだ。
大馬鹿野郎だ。
奏は、ただ悔しくて、妬ましかったのだ。あんなにも咲夜の中の多くを占めている、拓海という存在が。悔しくて、妬ましくて、でもどうすることもできなくて……それを咲夜にぶつけてしまった。
平気なフリをするな、本音を曝け出せ、と言っておきながら、いざ曝け出された結果、自分が示した反応が、アレだ。落ち込むな、という方が無理だろう。
今度のジャズ・フェスタを、咲夜がどう乗り切る気なのか―――もう、今の奏には、そんな心配すらできなくなっていた。
ジャズ・フェスタなんて、どうでもいい。店でのライブも、どうでもいい。咲夜が今後、何をエネルギー源にして歌うかも、とりあえずいい。全部どうでもいいから、昨日のあの一連のやりとりを、今すぐ消しゴムで消してしまいたい。
「…ちっきしょ…」
シャワーを頭から浴びながら、浴室の壁をガツン! と殴る。
が、部屋の壁と違い、タイルが貼られていたその壁は、もの凄く硬かった。びしっ、と拳に走った痛みに、奏は危うく上げそうになった悲鳴を辛うじて噛み殺した。
大した力で殴らなかったのが幸いして、暫く悲鳴を堪え続けていたら、手の痛みは治まった。なんだか馬鹿らしくなった奏は、シャワーを止めると、ぶるっ、と髪から落ちる雫を振るい落とした。
出掛ける準備をしながら、ぐるぐる頭の中を堂々巡りするのは、「どうやって咲夜に謝ればいいか」だ。
色々な言葉を考えてはみるものの、一向に妙案は思い浮かばない。妙案が出ないまま、身支度は終わってしまった。
―――まあ…とりあえず、今夜にでも、思い切って会ってみるか。
ドアチャイムを慣らした挙句に居留守を使われる、というシーンがチラリと浮かんだりもしたが、ネガティブになっていては始まらない。うん、そうしよう―――ひとまずそう決心し、奏はドアを開けた。
すると。
「……?」
ドアを開けると同時に、ガサリ、と音がした。
何だ? と思って見ると、そこには、ドアノブに引っ掛けられた、コンビニの袋があった。
なんだか見覚えのある光景に、心臓が軽く跳ねる。少し緊張した面持ちになった奏は、恐る恐る、コンビニの袋を手に取った。
中身は、案の定―――バドワイザーとミックスナッツ。
メモやカードの類は、一切なし。…これだけだ。
「…咲夜…」
奏の口元に、泣き笑いのような、苦笑のような、微妙な笑みが浮かんだ。
下手なメッセージが添えられていない、その差し入れは、なんだか妙に咲夜らしいように思えたのだ。
***
帰宅した咲夜は、ドアノブに、小さなコンビニの袋が掛かっているのを見て、思わず足を止めた。
「……」
素早く、奏の部屋のドアに目を移す。が、朝掛けておいた袋は、既にそこになかった。多分……奏が受け取ってくれた、ということだろう。いや、突っ返された、という可能性も―――…。
慌てて、ドアノブから袋を外す。が、ビールが入っているにしてはやたら軽い手応えに、突っ返された訳ではなさそうだ、と悟り、咲夜はひとまずホッとした。
ガサガサと、袋の中を覗きこむ。
そして、中身の正体を確かめて……咲夜は、泣きそうになりながらも、笑みを浮かべた。
奏からの差し入れは、「ごめん」とだけ書かれたカード1枚と―――最初の時と同じ、のど飴だった。
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