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― songbird -side Takumi- ―

【2】


 『咲夜と代わってくれ』
 いささか不機嫌気味な声に、表情まで脳裏に浮かんでくる。
 正直、苦手だ。だが、拓海は素直に「わかりました」と答え、ソファに座って本を読んでいる咲夜を振り返った。
 「咲夜。親父さん、代われって」
 「……」
 穏やかだった咲夜の顔に、刹那、緊張のようなものが走る。が、ひとつため息をつくと、咲夜は大人しくこちらに歩み寄り、拓海から受話器を受け取った。
 「―――はい。……うん、元気。……大丈夫、前より随分良くなったから。……うん、……うん」
 あまり抑揚のないその声は、この家に来た頃と―――半年以上前と、さほど変わりがない。このところ、笑顔を見せることも増えていた咲夜に慣れつつあった拓海は、咲夜の抱える闇の深さを改めて見た気がして、僅かに眉をひそめた。


 同居生活の最初の1ヶ月は、さすがに少々、ぎこちなかった。
 なんと言っても、初対面である。しかも年齢がまるで異なっている。日中、拓海は家にいることが多いが、咲夜は学校に行っている。逆に夜は、拓海は仕事で出かけてしまって不在が多い。だから休日などは、余計にぎこちなかった。
 けれど、2ヶ月目、3ヶ月目になると、なんだかずっと前からこういう生活だったような錯覚を覚えるほどに、2人とも、この生活に馴染んでしまっていた。
 どちらも相手に干渉しない、ドライでクールな関係なのだが、どうやらそれが、今の咲夜には心地よいらしい。そして拓海も―――特に、ここ3年ほどは―――そういう関係の方が、楽だ。親を失った子には「暖かい家庭が必要」と識者は口を揃えて言いそうだが、案外そうでもないらしいぞ、と、咲夜を見ていて思った。
 炊事の大半を咲夜がやっているが、それも今の咲夜には良いようだ。元々、病弱な母に代わって炊事をやることも多かった咲夜だ。上げ膳据え膳の生活は、ありがたい反面、不慣れだったのかもしれない。慣れた味、ということもあってか、最初は拓海の分を作るばかりだったが、次第に自分の分もちゃんと1人前作るようになり、やがては、拓海の下手な手料理や買って来た惣菜もちょっとは食べられるようになった。
 それと―――ピアノ。意外なことに、これが、咲夜にはいい影響を及ぼしたようだ。
 最初の2ヶ月は、拓海がピアノを弾いていても黙っているばかりだった咲夜だが、2月の終わり頃からは、曲の名前を訊ねたり、ピアノの傍に膝を抱えて座り、ピアノの音色にじっと耳を傾けたりするようになった。拓海が奏でるジャズへの関心が深くなるのに比例して、拓海と咲夜の距離も近くなっていくようだった。

 当初、無口すぎるほどに無口だった咲夜は、今、学校で起きたことを拓海に話すようになった。テレビを見て大笑いすることもあるし、最近では、拓海の軽口に毒舌で切り返すことさえある。
 ただ、父のこと、そして、亡くなった母のこと―――失われてしまった「家族」のことは、咲夜は、まだ何ひとつ語っていない。初対面の時に多少話したのを最後に、父に対する憤りも、母への思慕も、一切口にしていなかった。
 拓海が預かってすぐ冬休みになったし、3月には春休みがあり、そして今、中学に入って最初の夏休みに入っているが―――咲夜は、父と新しい母の住むあの家に、あれ以来、まだ一度も帰っていない。ずっと目をそむけ、口をつぐんだままだ。


 ―――まあ…面白くない気持ちも、わからないでもないな。
 ソファに腰を下ろし、ため息をつく。
 咲夜の父は、当初、渋々といった感じで拓海に咲夜を託しはしたものの、態度は穏やかだった。どうか咲夜をよろしくお願いします、と言って頭を下げ、2日に1度、必ず咲夜の様子を訊く電話をかけてきた。
 その態度がころっと変わったのは、咲夜の中学の入学式からだ。
 入学式の会場で父と対面した咲夜は、父を無視していた。臨月を迎えた姉に対しては、体を気遣って声をかけていが、父とは最後まで目すら合わせなかった。そして父の方も、そんな娘に、自分の方から声をかけることはなかった。
 多分―――彼は、寂しかったのだろう。けれど、不器用な人で、それを表には出せなかったのだろう。
 そして、表に出せなかった分、拓海に嫉妬したのだと思う。血も繋がってない上に、出会ってまだ数ヶ月の男なのに、咲夜が拓海を信頼し、極自然に接しているのが、面白くなかったのに違いない。
 ちょっと、気の毒だとは、思う。が……同情は、できない。
 だったら何故、再婚する時、自分のことや姉のことよりまず、咲夜の気持ちを考えてやらなかったのか。今あんたが感じてる寂しさ以上に、無垢な子供だった咲夜は寂しかったに違いないのに―――胸倉を掴んで言ってやりたい気もしたが、姉の再婚相手、かつ咲夜の父だ。決定的に決裂するのは、まずい。如月氏の八つ当たり気味な敵意を感じつつも、拓海は完全に傍観者を決め込むことにした。

 「……あー、疲れた」
 受話器を置き、のろのろとソファに戻ってきた咲夜が、うんざりしたように呟いた。
 「親父さん、何て?」
 「…ん、法事のこと、言ってた」
 「ああ…」
 考えてみれば、間もなく1回忌だ。あまりに咲夜が何も言わないので忘れかけていたが、如月氏がその話を出すのも当然だ。
 「出ろよ?」
 少し睨むようにして拓海が言うと、咲夜は軽く眉根を寄せ、「わかってる」と小さく言った。
 「嫌なのか、法事」
 「…そんなこと、ないけど」
 そう言いつつ、咲夜の顔は、明らかに憂鬱そうだ。それは、多分……法事そのものより、父と顔を合わせることへの憂鬱、だろう。
 「…まあ、他の人間のことは考えずに、お母さんに会いに行くと思えよ」
 「……」
 拓海の言葉に、咲夜は、なかなか答えなかった。が、1分も経った頃、視線をテーブルの上に落としたまま、ぽつりと、呟いた。
 「拓海」
 「ん?」
 「…セックスって、そんなに、楽しいもんなのかな」
 「!!」
 手にしかけていたコーヒーカップが、拓海の指から滑り落ち、ガチャン、と音をたてた。
 大抵のことには動じない自信のある拓海だが、中1にこの質問をぶつけられると、さすがに慌てる。何故か意味もなくキョロキョロと辺りを見回してから、恐る恐る、咲夜の顔を覗き込んだ。
 「…なんでまた急に、そんな話を」
 第一、話の前後に脈絡がない。なんだそりゃ、バカなこと訊くな、と突っぱねなかっただけでも、褒めて欲しい位だ。
 咲夜は、視線を落としたまま、最近ではあまり耳にすることもなくなった、あの出会ったばかりの頃のような感情のない声で、答えた。
 「別に。ただ、学校の友達が、時々、そんな話してるから」
 「ドラマとか漫画とか雑誌から仕入れた情報を、知ったかぶりして話してるだけだろ? 俺の中学生の頃だって、そんなんばっかりだったぞ」
 「…うん。だから、経験者に訊いてんの」
 「…なんで知りたいんだ? そんなこと」
 「……」
 肝心の質問に、咲夜は答えず、黙り込んでしまった。そして結局、「もう、いいよ」と呟いて、また本を読み始めてしまった。

 さっぱり訳のわからなかったこの質問の意味を、拓海が知ったのは―――それから2週間後だった。

***

 咲夜の母の1回忌を翌週に控えていた。
 暑い日だった。あまりの暑さに、一緒にライブをやる予定のメンバーたちも少々グロッキー気味で、スタジオ練習を30分ほど早く切り上げたほどだった。
 日が暮れかけた時間に家に帰り着いた拓海は、そこに咲夜の姿がないことを、ちょっと不審に思った。が、さほど大きな問題とも考えなかった。夏休みに入ってから、友達と一緒に図書館に行ったり遊びに行ったりしているので、話が弾んでいるのだろう、位にしか考えなかったのだ。
 だが、拓海は、自分の考えが甘かったことを思い知る。


 「遅かったな、今日は。俺より後に帰ってくるなんて」
 「…う、うん、ごめん」
 暗くなってから帰ってきた咲夜は、拓海の視線を避けていた。挙動不審な咲夜に眉をひそめた拓海だったが、すれ違う際、あるものに気づいてしまい、思わず咲夜の腕を掴んだ。
 「! な、何!?」
 びっくりしたように、咲夜が拓海を仰ぎ見る。だが拓海は、Tシャツの襟から覗いている咲夜の痩せた肩から、目が離せなかった。
 見間違えようもないほど、はっきりとした、鬱血の痕―――拓海の目が、険しくなった。
 「咲夜、お前―――…」
 拓海の視線で、その意味に気づいたのだろう。咲夜はハッとしたように、慌ててTシャツの襟を掻き寄せた。
 「おい、一体どこに行ってたんだ?」
 「…っ、な、なんでもないっ」
 「なんでもない訳がないだろ! 何もないなら、もう一度見せてみろ!」
 ぐい、と咲夜の腕を引く。すると咲夜は、どこかに痛みを覚えたように顔を歪め、ガクン、と床の上に崩れ落ちた。
 咲夜が、何をしてきたか―――考えたくもないのに、もう疑う余地すらなかった。咲夜もまた、拓海が真相に気づいているとわかったのだろう。諦めたように、か細い声で言った。
 「―――…心配、しないで。無理矢理じゃないから」
 「…バ…カ、か、お前は…っ!」
 怒りのあまり、声が掠れる。なのに、咲夜はおもむろに顔を上げると、キッ、と拓海を睨み上げた。
 「そうだよ、バカだよ。…大笑いだったよ、由希子たちの憧れの先輩。年上の彼女しか女知らないもんだから、初めてってわかってオロオロ土下座してやんの。…何、あれ。あんなことに夢中になってるなんて、男ってサイテー。私がバカなら、先輩はもっとバカだよ。お父さんなんて―――病気のお母さんを裏切って他の女とセックスしたあいつは、もっともっと大馬鹿野郎だよっ!!」
 「……っ!」
 思い切り、咲夜の頬を平手で張った。
 バシン! という乾いた音が、廊下に響く。と同時に、堪えていた涙が咲夜の目に滲んだ。

 ―――バカヤロウ。
 泣きたいのは、こっちだ。

 怒りと憤りに舌打ちした拓海は、咲夜を引きずるようにしてバスルームに連れて行った。
 今すぐ体中洗い流せ、それをするまで出てくるな、と言い放ち、咲夜を脱衣所に放り込む。バタン、と乱暴にドアを閉めた拓海は、ドアに背中をつけ、苛立ったように髪を掻き上げた。

 情けないことに、この瞬間まで、拓海は、咲夜が父親に背を向け続けている、その根本的な理由を、正しく理解してはいなかった。
 母の死後、娘の意思も悲しみも理解せず、責任感を優先して再婚してしまった。そのことに怒っているのだと思ったが……それだけでは、なかった。
 咲夜は、もっと早熟で、現実を正しく理解していたのだ。母が死の淵を彷徨っている時、咲夜と支え合い、助け合っていたと信じていた筈の父が、密かに咲夜と母を裏切っていた―――その事実こそが、咲夜の父親に対する嫌悪感の正体だったのだと、咲夜の今のセリフで、拓海はようやく気づいた。
 子供、と、どこかで侮っていたのかもしれない。思いのほか生々しい理由で父を遠ざけている咲夜に、拓海は衝撃を受けていた。

 ドアの向こうから聞こえる泣き声に耐えかねて、ドアを開けると、咲夜は、脱いだTシャツに顔を埋めて、うずくまって泣いていた。
 緊張の糸が切れてしまった咲夜は、悲しいほどに、ただの「12歳の女の子」だった。
 年齢以上に冷めてしまった目と、年齢よりもまだ無垢さのある心のギャップが、なんだか、痛々しかった。柄じゃないな、と思いつつも、拓海は自らもしゃがみこむと、咲夜が泣き止むまで、頭を撫で続けた。


 やっと落ち着いた咲夜から、その日の経緯は、全て聞くことができた。
 途切れ途切れの説明を聞いて、拓海は、咲夜の涙が、人気者だとかいう先輩のせい、というよりは、小学校からの友達だった由希子が、咲夜の事情を面白おかしく吹聴して回っていたのを知ったせいだ、ということを知った。信頼していた友達に、裏切られた―――その出来事は、咲夜を深く傷つけてしまっているようだった。
 拓海にとっても、痛い話だ。
 脳裏に浮かぶのは、拓海を責めるニッキーの顔だ。…自分は、親友を見放した。そしてある意味、自分は、親友に裏切られた。信頼しあっていたのに、最後には、互いを憎みながら終わってしまった、自分たち―――その姿を咲夜と由希子に重ね、苦い思いをかみ締めていた。
 「…どうする。いわれのない噂話をされる位なら、家に戻るか?」
 拓海が訊ねると、咲夜はうなだれたまま、首を横に振った。
 「もう、いい」
 「……」
 「…もう、いいんだ」


 法事も終わり、新学期が始まって間もなく、咲夜は、何かの話のついでのように、サラリと拓海に告げた。
 「ああ、私さ、始業式の日、由希子のこと1発ひっぱたいたから」

 友達、誰もいなくなって、せいせいした。
 そう言って気だるそうにショートヘアを掻き上げる咲夜の手は、この夏の出来事で、また少し痩せてしまっていた。


***


 咲夜をジャズ・バーに連れて行ったのは、ちょっとした気まぐれからだった。
 テレビより本よりピアノに興味を示す咲夜なら、生演奏に触れる方が、いい気分転換になるんじゃないか―――そう考えたのだ。

 「大人の世界も、ちょっとは覗いてみたいだろ?」
 「えー…、でも、大丈夫? 私なんかが行っても」
 「大丈夫大丈夫。ただし、訊かれても年齢は言うなよ。ほら入って」
 興味津々でいながら、一応中学生であることを気にして躊躇する咲夜を、店のドアの内側へと押し込んだ。
 案の定、咲夜は、ジャズ・バーのムードを気に入ったようだった。スピーカーから流れるスタンダードナンバーに目を輝かせ、落ち着いた照明や渋い風合いのテーブルや椅子を、興味深そうにキョロキョロ見ていた。
 そして、何よりも―――初めて聴く生のジャズに、たった1度で、魅せられた。


 「多恵子さんの歌声、凄かったなぁー…」
 帰り道、咲夜は、ほぅ、とうっとりしたようなため息をつき、夜空を見上げた。
 「拓海のピアノも、いつも凄いと思ってたけど―――歌って、凄い。全身が一気に鳥肌立って、悲しいとか、切ないとか、感情が体中から溢れていくみたいだった。あれで素人だなんて、信じられないよ。フツーの大学生なんだよね?」
 「ああ。ドイツ語勉強してる、フツーの大学生」
 「いいなぁー…」
 ―――よっぽど惚れ込んだんだな。
 しきりに、いいな、いいな、を繰り返す咲夜を見下ろし、くすっと笑う。
 夏休みの出来事以来、体調を崩しがちで気分も塞ぎこんでいた咲夜なのに、見下ろした顔は、別人のように生き生きしている。多分、本来の咲夜の表情は、こちらなのだろう。
 「私も多恵子さんみたいに歌いたい」
 「お、ジャズ歌手になる気か?」
 「うん。ああ、でも、多恵子さんみたいなハスキー・ボイスの方が、ジャズには合ってるよなぁ。合唱で歌うにはいい声なんだけど―――サーマターーイ、アンリビン、イ、イージー…」
 「……」

 思わず、咲夜の横顔を、凝視する。
 咲夜は、夜空を見上げて、歌っていた。
 勿論、英語は、べたべたなジャパニーズ・イングリッシュだ。しかも、耳で聴いたままの音を歌っているので、歌詞も間違っている。出だし以外は全然覚えていないのだろう、最初の4小節より後は、歌詞のないスキャットで歌い続けた。
 はっきり言って、ただの鼻歌だ。
 けれど拓海は、驚きをもって、咲夜の横顔を見つめざるを得なかった。
 咲夜が気分よさそうに歌っている、この歌は、咲夜が今日、初めて聴いた筈の曲―――多恵子が最初に歌った、『Summertime』だったのだから。
 ―――驚いたな、こいつ。
 恐ろしく、耳がいい。歌詞はメチャクチャでも、たった1度聴いただけの歌を、1音も間違えずに歌っている。できそうで、なかなかできないことだ。歌は好きだ、と、今日多恵子と話した時にも言っていたが、恐らく、学校での音楽の成績はかなりいいのだろう。
 それに、声―――まだ子供っぽい声で、到底、ジャズには似合わない声だが……透きとおったその声は、多恵子のハスキー・ボイスとはまた違った意味で、とてつもなく魅力的な声だ。

 案外、これは。
 ひょっとしたら、ひょっとするんじゃないか?

 「あああ、なんかなー、私が歌うと、“Summertime”も、ブラックソウルじゃなくクラシックになっちゃうよなー」
 一通り歌い終えて、咲夜がため息をつく。歌に夢中になっていたから、拓海の驚きなど、全然気づいていないようだ。
 「―――本気で、ジャズ・シンガーになりたいか?」
 拓海の問いに、咲夜が、ぱっ、と拓海の方に目を向ける。
 キョトンと目を丸くした咲夜は、少し驚いたように、暫し拓海の目をまっすぐに見上げていた。多分、拓海の目に、からかいの要素が一切ないことに気づいたのだろう―――咲夜の目が、やがて、野心を持った鋭い目つきに変わった。
 「面白い。やってみろよ、協力するから」
 ニヤリ、と笑う拓海に、咲夜も、口の端をつり上げた。

 

 以来―――咲夜の日常は、ジャズ1色に彩られることになった。
 咲夜は毎日、ジャズの名盤と呼ばれるものを貪るようにして聴き、拓海のピアノに合わせて簡単な楽曲を練習し、拓海がいなくても、自分でピアノの鍵盤を叩いての発声練習に明け暮れた。多恵子が「もういらない」と言って譲ってくれたボーカル用の楽譜などは、冗談ではなく本当に「抱いて寝た」ほどだ。
 ジャズを学び始めてから、咲夜の状態は、目に見えて回復していった。
 歌を、歌う。それがたとえ、ただの発声練習であっても、咲夜は、閉じ込めていた感情を吐き出すかのように、全ての感情を露わにして、声を張り上げた。歌は、心を病んで感情を殺す癖がついてしまった咲夜にとって、感情を呼び覚ますための呼び水のようだった。
 咲夜は、よく笑うようになった。
 父からの電話の後、その内容に関する愚痴をこぼしたり、以前は飲み込んでいたストレートな憤りを素直に表したりするようになった。
 拓海の下手な歌にゲラゲラ笑ったり、いきなり観葉植物を買ってきたと思ったら、それに電球を飾り付けて、クリスマス・パーティーをやってみたり、アメリカ時代の拓海の話を聞いているうちに眠くなり、一晩拓海と同じベッドで眠ってしまったりした。
 1日、1日、まるで眠りついていた種が新芽を出し、双葉になり、ぐんぐん伸びていくように―――咲夜は、音楽を糧にして、ぐんぐん伸びていった。その様子を間近で見ていた拓海は、そのあまりの変化に驚き、奇跡を目の当たりにしたような高揚感を覚えた。

 相変わらず、それぞれが、それぞれのペースで生活し、どちらの生活にも干渉しない間柄―――それでも2人は、ジャズを通して、親戚とも同居人とも違う絆を強めていった。
 咲夜にとっての拓海は、ジャズの師であり、憧れてやまない存在。
 そして、拓海にとっての咲夜は、将来有望な後輩であり、思いがけなく見つけた可能性の塊―――原石みたいな存在となった。


 毎日がジャズのためにあるような生活は、翌年、学校でのくだらない噂を真に受けた咲夜の父が、拓海の部屋に殴りこみに来るまで、続いた。
 そして、ジャズを通して結ばれた絆は―――咲夜が家に戻ってからも、ずっと結ばれたままだった。


***


 中2の冬、咲夜に、ちょっとした変化があった。
 きっかけは、また偶然にも、多恵子だった。ある大学の軽音楽部のミニライブに、多恵子がゲストとして招待され、それを拓海と一緒に見に行ったのだ。


 「やっほー、咲夜ちゃん! あ、タクさんも来てくれたんだ。サンキュー」
 髪全体にラメを飛ばし、いつもより派手なメイクと衣装で決めまくっている多恵子は、ライブが終わるとすぐ、拓海と咲夜を見つけ、駆けつけた。他校でも有名なのか、途中、ライブを見ていた学生からサインを求められたりしていた。ただ、サインを求める学生が全員“女性”であるところが、いかにも多恵子っぽくて、拓海も咲夜もちょっと笑ってしまった。
 「んで? 感想は?」
 「迫力あった。本家よりカッコイイね、多恵子さんが歌う“Smoke on the water”」
 「あ、凄いじゃん中学生。その歳でディープ・パープルなんてよく知ってんね」
 「…いや、多恵ちゃんの歳でも、知らないヤツは知らないよ」
 『Smoke on the water』が発売された当時、拓海は既に洋楽にハマっているいかれた小学生だったが、多恵子は赤ん坊だ。咲夜に至っては生まれてすらいない。
 「最近咲夜ちゃん、あんまり店に来ないね。やっぱ、実家戻って出にくくなった?」
 多恵子が訊ねると、咲夜は浮かない表情で小さく頷いた。
 「拓海んとこ行って歌うにも、同級生の家で勉強してる、って嘘つかないといけない位。顔合わせる時間なんて短い癖に、今日は何をした、どこへ行った、あれはやったかこれはやったか―――もー、うるさいうるさい。こと、音楽が話に絡むとしつこくて」
 ―――音楽が絡むと、ねぇ…。
 唇を尖らせて愚痴る咲夜を見下ろし、複雑な表情になってしまう。咲夜はそう思っているのだろうが―――事実は若干、違う。「拓海が話に絡むと」、なのだ。父の頭の中では、既に、ジャズと拓海は一体化しているに等しい。
 「タクさんとこに、また転がり込んだらどうよ」
 事情を全く知らないまま、多恵子がチラリと拓海を見上げる。ごもっとも、だ。拓海は、肩を竦めた。
 「俺は、誘ってるんだけどね」
 「…んなこと、できる訳ないじゃん。拓海とお父さん、一度、ガツーンと激突してるんだもん。また私のこと預かったりしたら、あれよりもっとヒステリックになるよ」
 「ははー、タクさん、嫌われてんだ」
 「そ。嫌われてんのよ、俺」
 「そりゃ、お気の毒―――…っと、あ! おーい!」
 ふいに、多恵子の視線が、拓海と咲夜を追い越した向こうへと向けられる。ぶんぶん手を振る多恵子につられて、2人も振り返った。
 ライブ帰りの学生などでごった返す中、こちらを見て軽く手を挙げている人物が、1人だけいた。やはり学生だろうか―――明るい色の長髪を無造作に1つに束ねた、なかなか綺麗な顔立ちをした少年……いや、青年だ。拓海も咲夜も、初めて見る顔だった。
 多恵子に笑みを返した彼は、こっちこっち、と多恵子が手招きするのを受けて、こちらに歩み寄った。
 「どこ行ってたの、シンジ。いないから、探しちゃったじゃん」
 「ごめん。外の寒椿、描いてたんだ」
 そう言う彼は、小脇にスケッチブックを抱えていた。やたらフワフワした笑顔は、いわゆる「癒し系」というやつだろうか。多恵子の交友関係で、こういうタイプはちょっと珍しいかもしれない。
 向こうも、拓海と咲夜の存在が気になったらしい。ちょっとこちらに目を向け、問いかけるような目を多恵子に向けた。
 「…あー…、ええと、多恵子の知り合い?」
 「うん」
 「そっか。どうも」
 正体を問うこともなく、彼は拓海と咲夜に向かって、ひょこっ、と頭を下げた。そのフワフワ笑顔に調子を狂わされたように、拓海と咲夜も、ひょこり、と頭を下げ返した。
 「…もしかして、多恵ちゃんのカレシ?」
 試しに訊いてみたら、多恵子は少し首を傾げた後、彼の腕に自らの腕を絡めつつ笑った。
 「まあ、そんなとこ? 週末は大抵シンジんとこ泊まってるし。あ、このネタ、オフレコね。シンジを紹介してない友達も結構いるからさ」
 「へーえ…、じゃあ俺たちは、貴重なネタに偶然会えた訳だ」
 「ハハハ、そゆこと。…あ、そろそろ行かないとまずいね」
 壁にかかった時計を確認して、多恵子がそう言う。何やら、彼と約束があったらしい。彼も「そうだね」と時計を見て頷いた。
 「じゃあ、また、店で。咲夜ちゃんもまた顔出してよ。佐倉のやつが、拗ねてるからさ」
 「佐倉さんが?」
 まさかモデルの卵として目をつけられているなどとは夢にも思っていない咲夜は、何故佐倉さんが、という怪訝な顔をした。が、とりあえず好かれているのだろう、と解釈したらしく、すぐに笑みを見せ、わかった、と答えた。
 じゃあねー、と去って行く多恵子の隣で、彼は再びフワフワの笑顔でぺこり、と頭を下げた。再び調子を崩された拓海たちも、へらっ、と笑って頭を下げた。
 ―――どうにも、テンポが俺たちとはずれてるヤツだな…。
 というか、音楽で言うなら絶対にギンギンのハードロック系である多恵子のテンポに、あのノンビリしたテンポの男が、よくついていけるものだ。不思議な取り合わせだな、と、去って行く2人の背中を見送りつつ、拓海は思った。


 ライブからの帰り道、咲夜は、やたら大人しかった。
 「どうした。やけに静かだな」
 信号待ちの間に、助手席に座る咲夜に訊ねてみると、咲夜は、微妙な顔をして、シートにそれまでより深く沈みこんだ。
 「―――…別に、どうもしないけど……ちょっとだけ、ショック」
 「ショック? 何が?」
 「多恵子さんに、彼氏いたから」
 「は?」
 何故に、多恵子に彼氏がいて、咲夜がショックを受けるのか、わからない。眉をひそめた拓海は、フロントガラスを見つめたままの咲夜の顔を覗き込んだ。
 「…もしかして、ファーストキスを多恵ちゃんに奪われたショックで、そっちの趣味に目覚めたのか」
 途端、ゴン、と、咲夜の握りこぶしが拓海の肩にぶつけられた。
 「あんたの趣味悪いジョークにはついていけないっ」
 「…お前…車運転してる奴に暴力働くなよ。自分も死ぬぞ」
 睨みつける咲夜に苦言を呈したところで、信号が青になった。…本気で、停車中で幸いだったかもしれない。
 「で? なんで、多恵ちゃんに彼氏がいると、咲夜がショックなんだ?」
 再び車をスタートさせつつ、訊ねる。咲夜は、まだ拓海を睨んでいたが、はぁ、とため息をつき、また前方に視線を戻した。
 「なんていうか、さぁ…。多恵子さんは、愛だ恋だ、ってのとは無縁な存在っぽい気がしてたんだ、ずっと。ジャズが好きで、音楽が好きで、歌が好きで―――そういう姿しか見てなかったから、多恵子さんに、他に好きなものがある、なんて、想像したこともなかった」
 「…まあ、なぁ。でも、人間だからな。音楽以外に、好きなもんあって、当然だろ?」
 「うん…、当然、なんだよね」
 どこか気落ちしたように呟いた咲夜は、そのまま少し黙り込み、やがて、拓海の顔をチラリと見つつ、口を開いた。
 「…拓海って、彼女、いないの?」
 唐突な話に、思わず目を丸くする。
 「俺? なんでまた」
 「だから―――多恵子さんと同じで、拓海についても、あんまりそういうの、考えたことなかったから」
 「ああ、なるほどね。…うーん、今は、いないな」
 「ほんと?」
 「嘘ついて、どうするんだよ。昔は色々あったけど、ここ最近はいないよ」
 「…ふぅん…」
 答えを聞いても、咲夜の表情は、微妙だった。
 結局、咲夜はそれ以上何も訊かず―――微妙な表情の意味も、一切口にはしなかった。


 この日を境に、かどうかは、定かではない。
 咲夜は、これまでのように頻繁には、拓海の部屋を訪れなくなった。
 その年の夏休みにはほぼ毎日入り浸りに近かったのに、冬休みも、年が明けての春休みも、2、3日おきに顔を見せる程度だった。
 「歌に夢中になりすぎて、成績落ちちゃったんだ。来年には高校受験もあるしね。少し、パワー配分考えないと、と思って」
 不審がる拓海に、咲夜はそう説明した。が…、嘘だろうな、と拓海は思った。
 咲夜は、多恵子に彼氏がいた、という事実を目の当たりにして初めて、拓海にも恋人が出来る可能性に気づいたのだろう。そして、そうした女性を拓海が家に連れて来る可能性にも気づいたのだと思う。
 実際には、拓海は、たとえ恋人であっても相当の覚悟を決めた相手でない限り、家に連れて来たりはしない。アメリカにいた頃、付き合っていた女性にそれをして、同棲同然に入り浸られてしまった経験があるのだ。下手にプライベートの空間に入れると、思い上がり、勘違いする輩もいる―――だから、家に連れて来るなら、そのまま住み着かれても構わない、と思えるほど惚れ込んだ相手だけにしよう、と決めているのだ。
 勿論、咲夜もそういう拓海のポリシーは、大体知っている。だが、拓海ももうそれなりの年齢だ。新たに付き合う女性と、結婚を意識してもおかしくはないだろう。そういう事態を考え、咲夜は、拓海のプライベート空間に対して、遠慮を見せるようになったのだろう―――と、拓海は思った。

 そして、皮肉なことに、咲夜のこの遠慮は、実にタイムリーだった。
 時をほぼ同じくして、拓海は、偶然知り合った女性―――大原香苗と、久々に真面目に付き合い始めたのだ。


***


 「―――…ねぇ」
 「ん?」
 「今度の日曜、拓海の部屋に連れて行ってもらっちゃ、ダメ?」
 煙草に火をつけたところだった拓海は、その手を一瞬止め、隣の香苗に、目だけを向けた。
 カウンター席に並んで座る2人の前には、結構アルコールのきついカクテルが置かれている。外見とは裏腹に、案外酒はいける口の香苗だが、今日はいささか酔っているのかもしれない。頬杖をつく香苗の目は、いつもより潤んで、眠たそうにすら見えた。
 「あー…、来週は、咲夜が来るからな」
 ―――あいつ、これ聞いたら怒るだろうなぁ…。
 心の中で、密かに咲夜に謝る。咲夜をだしに使うのは、これで何度目だろう―――1度目と2度目は、実際、咲夜と約束をしていた日だったのだが、それ以降は、そうじゃなくてもこの理由を口にしたことが、少なからずあると思う。
 「ふぅん…そうなの」
 気落ちしたように、香苗が言う。困ったな―――香苗の表情に、拓海も表情を曇らせた。

 親戚や音楽仲間が出入りして落ち着かないから、家に恋人を呼ぶのは好きじゃない―――香苗には、最初にそう説明しておいた。
 実際、それは拓海の本音でもあった。もっとも、恋人と静かに過ごしたいから、というより、恋人に気兼ねすることなく、自分の好きな時に仲間や仕事の関係者を家に招きたいから、というのが本音だ。音楽バカを自認している拓海からすると、恋人より音楽の方がプライオリティは高いのだ。
 拓海の説明に、香苗も最初は頷いていた。が、付き合い始めて数ヶ月経つと、「お邪魔しちゃダメ?」と口にし始めた。特に、ここ半年は―――香苗が就職2年目に入り、仕事のことで色々悩み始めてからは、なんだか会うたびにこのセリフを言われている気がする。
 香苗は、これだけの美貌を持っている割に、自分に自信がなく、恋人の存在にどっぷり依存する傾向の強い女性らしい。最初はわからなかったが、付き合っていくうちにそれがわかり、少々困ったな、と思った。
 9時5時で働いているサラリーマンとは違い、拓海の生活は不規則だ。休日が香苗と合わないことも多々ある。そして、恋よりは断然、音楽だ。
 自分のような人間は、香苗のような人間にとって、寂しい思いをさせるばかりの存在だろう―――香苗のことは好きだが、恋愛感情とはまた別次元で、自分たちは合わないのかもしれない、とここ2ヶ月ほどは本気で思い始めている。

 「じゃあ、平日なら?」
 やはり、酔っているのだろう。珍しく食い下がる。
 「拓海の部屋から会社に行けばいいんだし…。この前、お料理教室で、おいしいビーフシチューの作り方を習ったの。あなた、好きだったでしょ? 忘れちゃわないうちに作ってあげたいの」
 だったら、自分の家で存分に腕を奮えばいいのに―――拓海の部屋に上がりこむ理由をなんとか見つけようと、必死なのだろう。それだけ、拓海の仕事が忙しくなって、最近会えないことも多くなってしまったこの関係に、心が不安定になっているのだ。それは、わかっている。
 わかっているが―――最初はまだ可愛くも思えたその必死さに、最近、疲れる。
 「平日は、俺の帰る時間がバラバラで、約束できないよ。…何度も言っただろ?」
 いけない、と思いつつ、ついうんざりした口調になってしまう。
 そんな拓海の感情を敏感に嗅ぎ取った香苗は、はっ、と息を呑み、慌てて笑顔を作った。
 「そ…、そうだった、わね。ごめんなさい」
 「…いや」
 「じゃあ、来週の平日に、うちに来れない? うん、そうよ、自分の家なら、じっくり仕込みもできるものね。前日から頑張って作っちゃおっと」
 自分を勇気付けるみたいに、笑顔でそう言う香苗を見て、拓海はくすっと笑った。
 笑いながら―――2つの相反する感情に、途方に暮れた。

 一生懸命に恋をしている香苗を、愛しい、と思うのに。
 その一生懸命さが、重くて、重くて―――時々、苦しくなる。

 「いいよ。じゃ、期待して待っとくよ」
 拓海の返事に、香苗は、輝くような笑みを見せた。

 

 来週の水曜日に、と、約束した。
 けれど、約束したその日、拓海が、香苗の作ったシチューを食べることは、なかった。

 突然かかってきた、1本の電話―――かの歌姫の訃報が、拓海の運命を……いや、香苗の運命も、そして佐倉の運命も、変えた。


 愛して、愛して、傷つけて。
 そして、傷つけられて。

 そうして―――月日は、流れた。


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