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― 接近遭遇 ―

 

 「おはようございます、如月さん! お勤めご苦労様です!」
 「…………」
 季節は、真夏。
 鮮やかな黄色の軽自動車の横に、雪だるま……じゃない、雪だるまに似た男。
 …全く、朝っぱらから、疲れさせてくれる男だ。氷点下の視線で彼を一瞥した咲夜は、無言のまま、運転席のドアを開けた。
 「あのですね、しつこいのは自分でもよーくわかってるんですよ。でも、せめて詳しい話を聞いてから判断して下さいよ。ね? ね? ね?」
 「…聞いてる暇、ないんで」
 「あっ、じゃあ、この書類読んで下さい! うちの契約条件が」
 「読んでる暇も、ないんで」
 バタン、とドアを閉めれば、出雲の声はシャットアウトされる。やれやれ、とため息をついた咲夜は、助手席に仕事道具の入ったケースをどかっ、と置き、エンジンをスタートさせた。
 それでも出雲は、ボンネットの上に身を乗り出すようにして、書類をバサバサ振り回しながら何やら言っている。
 ―――轢いたろか、ほんとに。
 一瞬、本気で思ったが、理性で思いとどまった。
 手帳から1枚、紙を破り取り、さらさらと一言書き記す。そのメモを、咲夜は、外から読めるよう運転席の窓にバン! と押し付けた。
 「?」
 それに気づいた出雲は、ボンネットの上からどいて、運転席側の窓の方へと駆け寄り、メモの内容を凝視した。

 『2歩、さがって』

 出雲が反射的に2歩下がる。
 それを確認した咲夜は、ひらひらと手を振り、無事車を発進させた。
 これで、ひとまず人身事故は回避できたし、客先にも出られて万々歳、なの、だが。
 「……あー…、疲れる」
 バックミラーの中に、少しもめげた様子を見せずに両手を振っている出雲を見つけ、咲夜は、心底疲れ果てた声で、そう呟いた。


***


 ―――うーん…、結構、難しいな。
 現場と衣装を確認した奏が、まず最初に抱いた感想が、それだった。
 リカから依頼された仕事の、第1回。その撮影現場のメイクルームで、奏は絵コンテを片手に、うーむ、と唸った。

 今日撮るのは、建築関係のデザイナー向け雑誌の表紙だという。スタジオではなく、とあるデザイナーズマンションの一室を使っての撮影なので、メイクルームもモデルルームの一部を借りている。
 絵コンテを見る限り、撮影ポイントは、LDKの一角に配された螺旋状の階段らしい。実際にその場に赴き、絵コンテ通りの位置で見てみたが、こんなお洒落で生活観のない家に住んだことがないので、いまいちイメージが湧いてこなかった。
 そして、衣装。
 シンプルである。もの凄く、シンプル。ノースリーブ、丸首の、何の装飾もないワンピースときている。しかも色はナチュナルホワイト。素材もコットンだ。
 前回のアンティーク・ドール風なゴスロリから、また随分と違った方向に針が振れてしまったものだ。前回見たお人形のような無機質さでこの服を着ているリカを想像し、奏は無意識のうちに身震いした。…寒い。まるで、サイズの合わない服を着せられたマネキンみたいだ。

 …さて。
 自分がモデルなら、この撮影、どう挑むか。

 「おはようございまーす」
 背後から声が聞こえ、奏は絵コンテから目を上げ、振り返った。
 リカと、そのマネージャーだった。他のスタッフらと一緒に、奏も挨拶をした。
 「ああ、一宮さん。急にご無理言って、申し訳ありません。今日はよろしくお願いします」
 まるでリカに付き添っている母親みたいに、マネージャーがリカの背中を押しながら、奏に頭を下げてくる。リカの独断でメイク担当を替えたことを、多少申し訳なく思っているのかもしれない。その様子は、妙に低姿勢だ。
 「いえ、とんでもない。こちらこそ、よろしくお願いします」
 「リカが担当者を指名してくるなんて、初めてなんですよ。よっぽどこの前の時にフィーリングが合ったのね」
 「もー、梅ちゃん、ウルサイよ。リカ、もう準備始めるんだから、どっかそっちの方行っててよ」
 ぐい、とマネージャーを押しのけるようにして、リカが鏡の前に進み出る。憮然としたその表情は、どう見てもご機嫌斜めだ。
 「じゃ…、じゃあ、よろしくお願いしますね」
 笑顔が若干引きつったマネージャーは、相変わらずの低姿勢で、お辞儀をしながら去って行った。多分、クライアントなどに挨拶をするのだろう。その姿は、メイクルームの外へと消えた。
 「…あのなぁ。マネージャーに愛想尽かされたら、仕事入って来なくなるんだぞ。そういう態度、あんまり良くないんじゃない?」
 呆れたように奏が言うと、リカはツンとそっぽを向きつつ、大鏡の前に腰を下ろした。
 「いいの。あの人、前に担当してたモデルを怒らせてマネージャー交代になっちゃったもんだから、リカに対しては、担当外されるのを恐れてなーんにも言わないの。2人連続じゃ、事務所クビになるかもしれないもんね。リカが何しても、びくびく顔色ばっかり見てるようなマネージャー、愛想尽かされても痛くも痒くもないわ」
 「……」
 「それに―――見た? さっきのあの、わざとらしい笑顔」
 バニティバッグを床に置き、顔を上げたリカは、鏡の中で、奏の顔を面白くなさそうに見上げた。
 「今日の梅ちゃん、いつもより何割か赤いルージュつけてるんだから。ここ来る間も、一宮さんのプロフィール挙げては“凄いわねぇ”だの“モデル辞めちゃうなんて惜しいわねぇ”だの“リカが気に入るのも頷けるわ”だの、もう、1人で変にハイテンション」
 「え、」
 「一宮さんも、梅ちゃんには愛想良くしない方がいいわよ。勘違いして舞い上がっちゃったら、次はミニスカートで登場しかねないから」
 ―――マジ?
 冗談、だと思いたいが……つい今しがたのマネージャーの異様な低姿勢を思い出すと、リカの勝手な思い込み、とも断言し難いものを感じる。なるべく事務的に接するようにしよう、と奏は密かに肝に銘じた。
 「…じゃあ、さっそく始めるか」
 マネージャー問題を頭から追い払うように、奏が咳払いと共にそう言うと、リカはこくりと頷き、きっちりと鏡に向き直った。


 正直な話―――リカが自分を指名してきた理由を、奏は、ちゃんと理解できているような、できていないような、微妙な気分だった。
 勿論、リカが自分の仕事にうんざりしていて、それを打開したくて奏に助力を求めていることは、理解している。それでも、リカの言動を見ていると、どこまで真剣に悩んでいるのか怪しいな、と思う部分もある。意見されることを嫌い、徹底的にわがままに振舞っているリカが、果たして自分の助言を素直に聞くだろうか―――それを考えると、親身になるだけバカを見るかもな、と思わないでもない。
 ただ、今、マネージャーについてリカが愚痴るのを聞いて……少しだけ、わかった気がした。リカが何故、担当替えなどという思い切った行動に出たのか。

 リカは、リカの顔色を窺うことなく厳しく接してくる人間に、飢えていたのだ。
 リカが奏に話を持ち込んできたのは、奏が自分と同じ経験を持っているという理由以上に―――この前、誰も止めなかった自分の暴走を、奏が止めたからだ。

 ―――ま、確かに、猫可愛がりするばかりが能でもないもんな。
 親子関係に置き換えれば、わかりやすい。奏や累の育ての母である千里などは、とてつもなく厳しかったが、その愛情を疑ったことは一度もない。むしろ、わがまま放題甘やかされていたら、「実の子じゃないから遠慮してるのか」などと思い、親の愛を疑ったかもしれない。
 リカは多分、この甘やかされた子供と同じだ。褒めるのは、ちやほやするのは、リカが優れているからじゃなく「商品」だから―――そんな風に、周りの人間を見ているのだろう。奏自身、“Frosty Beauty”としてもてはやされた時に似たことを思ったから、なんとなくわかる。
 本来なら、そういうことじゃなく、メイクの腕で評価してもらいたいところだが……まあ、きっかけは、何でもいい。
 要するに、仕事が来ることが第一だ。実際の仕事の中で、腕も認めてもらえるよう頑張ればいい。


 「ねえ。今日の衣装って、もの凄く地味じゃない?」
 アイラインを引かれながら、リカが呟く。その声音は、地味で不満、とよりは、自分のイメージではない衣装に違和感を覚えている、といった感じだ。
 「あー、まあ、この前のゴスロリよりは、圧倒的に地味だよな。こういう業界向け雑誌の仕事って、時々ある?」
 「ううん、全然。ファッション雑誌がほとんど。なんでリカにこの仕事が来たのか、よくわかんない。業界向けだと、地味な服になるの?」
 「そういう訳じゃないだろうけど―――はい、目、開いて」
 ぱちっ、と目を開いたリカの顔を、改めて眺める。まだアイシャドーとルージュを施していないが、ベース部分はほぼ完了だ。
 ―――やっぱ、なぁんか、ピンと来ないんだよなぁ…。
 あのシンプルな衣装を着たリカが、想像するだけでは、どうにもしっくり来ない。うーん、と唸った奏は、手にしかけていたシャドウチップを、テーブルの上に戻した。
 「…あのさ。先、着替えてもらってもいいかな」
 「え?」
 「服着た状態見て、仕上げたいから」
 中途半端なメイク状態のリカの眉が、怪訝そうにひそめられる。
 「別にいいけど……肝心のアドバイスは? モデル業を楽しむ極意の」
 「だ、か、ら、それはメイク仕上げてから」
 「えぇー」
 「じゃ、よろしく」
 ケチ、もったいつけてる、とブツブツ言うリカを放置して、奏はスタイリストに声をかけ、一旦メイクルームを出た。ショーの時などは、男だろうが女だろうが、目の前で平気で着替えたりするものだが、さすがにこういう場では出て行くのがマナーだろう。
 メイクルームから出た奏は、その足で、撮影現場となるLDKへと向かった。
 柔らかい色合いの木で造られた螺旋階段の周りには、ライトが3台ほど置かれており、カメラマンが色々指示を出していた。その様子を、奏は少し離れた場所から腕組みをして眺めた。
 ―――オレなら、あの階段使って、色々遊んじゃうと思うけど……それは、あの子のキャラじゃないよなぁ。
 それに、業界向け、という硬さを考えても、あまり奇をてらった写真は撮らないのではないか、と思う。実際、絵コンテはオーソドックスに階段に腰かけたポーズだった。

 蕾夏とか、似合いそうな感じだよな。
 ふと、そんなことが、頭に浮かぶ。
 天然素材のシンプルな服、暖かい色調のインテリア―――与えられた素材から連想する単語は、“ナチュラル”だ。
 ナチュラル、と考えた時、奏の中に浮かぶ女性は3人いる。母と、咲夜と、蕾夏だ。3人とも、とても自然体で生きている。服装にしてもライフスタイルにしても、一切の虚飾を感じさせない―――そういう点で、3人は共通している。オレって自然体な女が好みだったんだな、と、3人の共通項に初めて気づき、ちょっと驚いた。
 その3人の中で、あのコットンのワンピースのイメージに一番近いのは……やっぱり、蕾夏だ。それに、癖のない黒髪に白い肌、というリカのルックスは、微妙にその質は異なっているが、確かに蕾夏と重なっている。
 だが、過去のリカの写真を何点か見たが、どれも、リカのはっきりした顔立ちを活かした、インパクトの強い写真ばかりだった。ナチュラルとかシンプルという単語に当てはまるものは、奏が見た中には、1点もなかった。
 「…この路線で行くか…」
 やってみて、周囲からNGを出されたら、その場で路線変更だって可能だ。やるだけやってみよう、と決め、奏はメイクルームに戻った。

***

 「…はい、これでOK」
 「―――…」
 目を開けたリカは、鏡に映る自分を見て、キョトンとした顔をした。
 「ちょっと…、本気?」
 「本気本気」
 鏡の中のリカは、ほとんど素顔だった。
 いや、実際には、きっちりメイクを施している。ファンデーションもちゃんと塗っているし、アイラインも引いているし、シャドウも入れている。口紅だって塗っている。ただ、色の選び方、色の差し方、どれを取ってもナチュラル・メイク―――あまりにナチュラルで、一瞬、本気で素顔なんじゃないかと思うほどだ。
 「これじゃ、リカのプライベートのメイクよりまだ薄くない?」
 「薄く見えるよなぁ」
 「…何考えてるの?」
 訝るように、リカが眉をひそめる。無理もないよな、と苦笑しつつ、奏はポン、とリカの肩を叩き、目の前の鏡を指差した。
 「どう、見える? 鏡の中の自分」
 「……」
 「化粧が薄い、じゃなくてさ。いつもより大人しく見える、いつもより大人びて見える―――なんでもいいから、何か感じない?」
 「……」
 訳がわからない、という顔をしつつも、リカは、鏡の中の自分の姿を、もう一度真剣に凝視した。穴があくほど、じっと見つめ続けたが、リカの表情は、終始「意味不明」のままだった。
 「モデル業を楽しむ極意、って訳じゃないし、オレの自己流のやり方だけど―――オレ、撮影に入る前に、飽きるほど鏡見るようにしてるんだ」
 奏が切り出すと、リカは少し表情を変えた。
 「一宮さんが?」
 「そ。頭のてっぺんからつま先まで、撮影用の自分に変身したところで、鏡を見るんだ。ターンしてみたり、座ってみたり、表情変えてみたり……長い時は、1時間近くやってる時もある。傍から見てると相当変だと思うけど」
 「…なんで?」
 「なりきるために」
 目を丸くするリカに、奏はニッ、と笑い、まるで演説をするが如く、人差し指を1本立ててみせた。
 「誰だって、着物やドレスを着ると動作がおしとやかになるし、ジーンズ穿くと活動的になるだろ? 花嫁が綺麗に見えるのは、精神的なもんもあるけど、ウエディングドレスや白無垢を着た自分に陶酔してるから、って部分もある。男だって、運動音痴な奴が、柔道着を着た途端、顔つき変わったりするんだぜ」
 「……」
 「一種の、自己暗示だよ。鏡に映った自分の姿を見て、“いつもとちょっと違う自分”を感じるのが、演技の第一歩なんだ。優雅そう、無邪気そう、性格悪そう―――なんでもいい、鏡に映った自分を見て、何か感じれば、それでいいんだ」
 「…感じるだけで、いいの?」
 「いいよ。本当は、感じたものをもっとアピールするように、“それらしく見せる”表情とか動きをするのが、演技なんだけどな。でも、慣れない人間が演技しようとすると、かえって不自然になったりするから、リカはやらなくていい。ひたすら鏡見て、何か感じてればいい」
 「……」
 奏の言葉に、リカは、半信半疑という表情で、眉をひそめたままでいた。
 が、奏が「とにかくやってみろよ」という目で促すと、気が進まない様子ながらも、再び、鏡の中の自分と向き合った。
 まるでブティックでの試着よろしく、コットンワンピースの裾を僅かにつまみ、右を向いたり左を向いたり、と色々試している。そんなリカの様子にホッと息をついた奏は、リカの傍を離れ、メイクルームの隅へと向かった。


 実を言えば、今リカに施したメイクは、撮影本番用のメイクではない。
 ふんわりと柔らかい表情に見えるよう、影をなるべく消し、口紅もピュアなピンク系統にしてある。本番前には、もう少しメリハリをつけ、口紅も1トーン濃い色にする予定だ。そう―――あれは、リカに「ナチュラルな柔らかさ」を感じてもらうためのメイクなのだ。
 リカが、果たして「ナチュラルな柔らかさ」を無事感じ取ってくれるかどうか、少々不安ではあるが……奏には、多少なりとも自信があった。

 『本番直前に、鏡で自分の姿を見たんだけどさ―――昨日のあの自分の姿を見てると、なんか、自信が湧いてきたんだ。結構貫禄あるように見えるじゃん、大丈夫、ぺらぺらの新人の歌なんて聴かせる気か、なんて客が怒るほど、舞台慣れしてなさそうには見えないぞ、いけるいける、って』
 『メイクとかファッションって、人にいい印象を与えるためもあるけど、それ以上に自分自身の気持ちを変えるためにあるんだなー、って、つくづく思った。…ありがと。奏に頼んで、やっぱ、良かった』

 拓海のライブにゲスト出演した翌日、咲夜が笑顔で語ってくれた言葉は、メイクアップアーティストとしての奏にとって、これまでで最大の賛辞だった。
 はっきり言って、咲夜は、あまり自己陶酔するタイプではないし、外見に自信のある方でもない。それでも、奏にメイクしてもらった自分を鏡で見て、拓海と対等に渡り合えるだけの自分を演出できた。それだけ、咲夜が舞台の上で演じることに長けている、という考え方もあるが―――少し位、自分のメイクが咲夜をその気にさせた、と自負してもいいだろう。
 さて、お手並み拝見―――リカは、鏡の中の自分から、どれだけのことを感じ、それをどれだけ表現してくれるだろう? 壁に寄りかかった奏は、腕組みをして、静かにリカを見守った。


 最初、難しい表情で鏡に向かっていたリカは、5分もすると、後ろに3歩ほど下がり、鏡の前でくるりと一回転してみせた。
 後ろに手を組んでみる。座ってみる。立ってみる。歩いてみる。そんな試行錯誤を繰り返していく中で―――やがて、リカの表情が、僅かに、変わった。
 リカは、微かな微笑を浮かべていた。
 ふわり、と、柔らかな笑み―――奏がイメージしたナチュラルさに、1歩近づいたような笑みだった。
 ―――まるっきり、才能ゼロ、って訳じゃなさそうだな。
 奏の口元にも、どこか安心したような笑みが浮かんだ。


 結局、リカは、カメラテストの直前まで、30分近く鏡を見続けた。
 感じたものが“何”なのか、よくわからない、とリカは言った。けれど、そう訴えるリカの表情は、今日ここに現れた時に比べて、力の抜けた自然な表情だった。
 「それで? 撮影の時は、どうすればいいの」
 少し焦れた様子のリカに、奏が出した答えは、シンプルだった。
 「今の続きをすれば、それでOK」
 「えっ」
 「目の前に鏡があるつもりでさ。今ずっと見てきた自分の姿がそこに映ってるつもりでいれば―――それで多分、今日の撮影、上手くいくと思う」
 「……」
 リカが、疑うような目で奏を見上げる。
 そんなリカに、奏は自信あり気に笑い、撮影のための新しい口紅をその唇に差してやった。


***


 「はい、OKです! お疲れ様でしたー」
 撮影終了の掛け声と同時に、現場がざわざわと騒がしくなる。
 それまでの緊張を解いた奏も、大きく息を吐き出すと、周りのスタッフと「お疲れ様でした」と声をかけあった。
 ―――あー、良かった。時間通りに終わって。
 この後、少々ヤボ用の入っている奏としては、撮影が延びることを一番心配していたのだ。大きく伸びをした奏は、さっそく帰る準備に入るか、と、早くも現場を離れようとした。
 ところが。

 「あ、お帰りになるんですか? 一宮さん」
 1歩踏み出した矢先、リカのマネージャーが、リカに対する時より2音ほど高い声で、声をかけてきた。
 うわ、と一瞬怯んだ奏だったが、ここは仕事場だ。踏み出した足を止め、当たり障りのない笑みを即座に作る。
 「え、ええ。お疲れ様でした」
 「一宮さんこそ、お疲れ様でした。もう、一宮さんにお願いして良かったわ〜。リカの新境地、って感じでしたもの、今日の撮影。ね、そう思いません?」
 「…はあ…」
 ―――いや、そりゃ嬉しいけど……そんな目ぇキラキラ状態で言われると、困るって。
 明らかに奏より年上であろうマネージャーは、すっかり「夢見る乙女」の表情になってしまっている。しかも相手が、いかにも恋愛経験が少なそうな真面目で硬そうな外見なだけに、なんだかこの図が「ホストと客」みたいに見える気がして、微妙な気分になってくる。
 「やっぱり、メイクされる本人が一番、自分との相性をわかってるんですねぇ〜。最初はリカのわがままに困ったな、と思ってたんですけど、ほんと、今回はリカの言う通りにして良かったです」
 「ま、まだクライアントの反応がわからないんで、なんとも言えませんけどね、ハハハ」
 「これからもよろしくお願いしますね。あ、よろしかったら、これから親睦のためにお食事でも」
 「ちょっと梅ちゃん!」
 突如割って入った声に、マネージャーの顔が、一気に引きつる。
 見れば、リカが、かなりご機嫌斜めな表情でずんずん近づいてきていた。アイドルを見るかのようにキラキラに輝いていたマネージャーの目は、みるみる輝きを失い、またいつもの気弱そうな小動物っぽい目に戻ってしまった。
 「何、若い男捕まえて浮かれてるのよ、みっともないっ」
 過激な言葉と共に、リカはマネージャーを軽く小突くようにして、奏とマネージャーの間に割って入った。そして、マネージャーに目をむけ、撮影現場を指差した。
 「こんなとことでヘラヘラ笑ってる場合? カメラマンが、ちょっと話をしたい、って梅ちゃん探してたんだから」
 「えっ、そ、そうなの?」
 「ちゃんと仕事してよね、もうっ」
 イライラをぶつけるようにリカが言い放つと、マネージャーはあたふたした様子で、カメラマンのもとへと走って行った。奏に一言断りを入れることも忘れているようだ。
 ―――…確かに、あんまり使えないマネージャーではあるかもな。
 リカの言い草はあんまりだと思うが……正直、助かった。はぁ、と息をついた奏は、疲れたように髪をぐしゃぐしゃと掻き毟った。
 「ねえ、どうだった? 今日の撮影」
 マネージャーに対する声とはまるっきり違う、ちょっと期待を滲ませた声で、リカが訊ねる。まだ、撮影中のキャラクターを少し引きずっているらしい、リカにしては子供っぽい口調に、奏は僅かに苦笑した。
 「オレがどう思ったかより、リカがどう思ったか、だろ? どうだった?」
 「…んー、すっごく面白かった訳じゃないけど―――なんか、必死だった」
 「必死か。じゃ、“つまんない”じゃなかった訳だ」
 奏の言葉に、リカは、悪い気はしていない、という感じの笑みをちょっとだけ口元に浮かべることで、応えた。まだ「表現する楽しさ」とまではいかないが、そのきっかけは掴めたのかもしれない。
 「今ね、カメラマンに言われたの。意外だった、って」
 「意外?」
 「想像していたより、幼くてピュアな表情をする、って。もっとツンとすました、斜に構えた感じをイメージして“スタイリッシュ”な感じを出そうかと思ってたけど、この部屋の雰囲気とカメラテストの時のリカを見て、木の素材感を活かしたナチュラルな感じに路線変更したんだって」
 「へーえ…。じゃ、いまいち、って思われたら、スタイリッシュ路線にメイクも変わってたんだな」
 まあ、それはそれで、悪くない選択だったかもしれないが―――あの階段には、かっこよさより温かさの方がしっくりくるな、と感じたのは、間違いではなかったらしい。
 「リカも、鏡に映った自分見て、なんだか幼い、と思ったから、カメラマンから“幼くてピュア”って言われて、ちょっと嬉しくなっちゃった」
 「そっか。良かったな」
 奏が笑うと、リカも、ちょっと照れたように笑った。
 ―――へぇ、こういう素直な顔もできるんじゃん。
 まるで、テストでいい成績を取った子供が親に褒められて照れているみたいな顔だ。危うく吹き出しそうになったが、すんでのところで堪えた。
 「じゃ、今日の仕事は無事終了、ってことで。お疲れ様」
 そう言って、奏が軽く手を挙げ立ち去ろうとすると、リカの笑顔が、驚いたような顔に変わった。
 「えっ、ちょっと、待ってよ」
 ぐい、と腕を引かれ、立ち止まらざるを得なくなる。は? という顔で振り向く奏に、リカは、面白くなさそうに唇を尖らせた。
 「そんな急いで帰らなくてもいいじゃない。ちょっとくらい付き合ってよ」
 「はぁ!?」
 「聞きたい話とかあるんだもん。今日の仕事、結構ギャラいい筈なんだから、仕事を斡旋してあげたリカに、ちょっとサービスしてくれたって良くない?」
 「サービス、って……なんで、オレが、」
 「あ、そうだ、今日色々教えてもらったお礼に、リカが食事おごっちゃう。それでいいでしょ?」
 サービスしろと言ったり、逆におごると言ったり、全く―――はあぁ、と盛大にため息をついた奏は、腕にしがみついているリカを、困ったように見下ろした。
 「…そう言われてもオレ、この後、約束があるから」
 「約束? なにそれ」
 「先約があるんだよ。用事があるの」
 「何よ、用事って。仕事?」
 「いや、仕事じゃないけど」
 奏が言葉を濁すと、リカの表情が、何かにピンと来たように変わった。
 途端―――その顔に、興味津々の笑みが浮かぶ。
 「わかった! デートでしょ」
 「…いや、デートじゃ、」
 「でも、女絡みでしょ」
 「…ま、まあ、関係してるには、してるけど……って、何尋問してんだよっ!」
 「えぇー、見たい! 凄く見たい、一宮さんのカノジョ!」
 「はあぁっ!?」
 何言い出すんだ、とギョッとする奏をよそに、リカは完全に、奏の腕をロックして離さない構えだ。
 「ねぇ、リカも行っていいでしょ? どこだか知らないけど、移動する間に話もできるし。ちょっと顔見たら、すぐ帰るから! ね? ね? ね!」

 ―――…疲れる…。
 勘弁してくれ、という表情で、奏は思わず、頭を押さえた。


***


 飲み物とちょっとつまめる物を注文して、軽く店内を見渡した奏は、とりあえず想定した人物の顔が見当たらないのを確認し、ほっと胸を撫で下ろした。
 とはいえ、これから来ないとも限らない。油断は禁物だ、と気を引き締めかけた時。
 「なんか、大人ー、な店ね」
 キョロキョロしながら、リカが、どことなく感心したような声でそう言った。
 「ここで働いてるの、一宮さんのカノジョって」
 「…まあね」

 そう。
 結局、リカはついて来てしまったのだ。ここ“Jonny's Club”まで。
 勿論、奏は何度も拒否した。が、あの後マネージャーが戻って来てしまったのがまずかった。
 『一宮さん、この後カノジョとデートなんだって。リカ、カノジョさんに、ちょっとだけ挨拶したいの。だってホラ、次の打ち合わせは、日曜日を半分潰しちゃうことになるしー。ねえ、梅ちゃんも一宮さんにお願いしてよ』
 というリカの言葉に、マネージャーは、一旦大ショックを受けたような顔になった。多分“カノジョ”という単語のせいだろう。ああそうですか、カノジョ持ちですか、という感じに一気に脱力してしまったマネージャーは、あろうことかリカの加勢に回ってしまった。
 『ほんと、すみません、わがまま言って…。1度顔を見ちゃえば、もう興味を失くすと思いますから、今日だけ付き合ってあげて下さい』
 リカには聞こえないようにそう言うと、さりげなく5千円札を奏に握らせてきた。その意味は、これで彼女とおいしいものでも食べて下さい―――つまり、迷惑料らしい。
 もう面倒だったし、人の目のあるところで金を受け取る・受け取らないと揉めるのもどうかと思う。で……結局、奏が折れた、という訳だ。

 ―――でも、咲夜に会いたかった、というより、オレの話が聞きたかったのが本音みたいだな。
 撮影現場からここまでの間、リカは、奏を質問攻めにしていた。イギリスではどんな仕事をしたのか、今所属している事務所はどんな所なのか―――いずれも、仕事の話ばかりで、彼女絡みの質問は1つもなかった。行き先を「付き合ってる奴が働いてる店」と説明したが、どういう店か、とも、何をしているのか、とも突っ込んでこなかった。
 それにしても……奏がモデルを始めた頃は、同じ事務所に所属する先輩モデルから色々な経験談を聞いて参考にしたものだが、リカの事務所には、そういったことはないのだろうか? まるで情報に飢えていたかのように、興味津々で奏に質問してくるリカを見て、ちょっと不思議に思った。

 「それで? カノジョって、どの人?」
 運ばれてきたハウスワインに口をつけつつ、リカが訊ねる。どうやら、店の従業員と決めつけているらしい。バドワイザーに手を伸ばしながら、奏は肩を竦めた。
 「まだいないよ、ここには」
 「え? でも、ここで働いてるんでしょ?」
 「働いてる、っつっても、従業員じゃなく、あれ」
 そう言って、舞台を指差す。ピアノやウッドベースをそこに認めたリカは、意外そうに目を丸くした。
 「バンドの人?」
 「ジャズ・シンガーだよ。この前、言っただろ? MP3プレーヤーの仕事の時、“Amazing Grace”歌ってくれた友達がいる、って。あの友達が、今の彼女」
 「……」
 リカの表情が、変わった。
 「―――ああ、」
 ただの興味本位に過ぎなかった目が、少し、真剣みを帯びる。ワインのグラスを置くと、リカは、どことなく心ここにあらずな様子で、呟いた。
 「ああ……あの話の人、なの」
 「もうすぐ、ライブ始まるんだ。それ聴いたら、一旦駅まで送るから」
 長居はするなよ、と釘を刺す意味もこめて、そう言う。するとリカは、ちょっと慌てた様子で笑みを作り、軽く頷いてみせた。
 「それより―――ね、一宮さんて、どうしてモデルになったの?」
 「ん? ああ、きっかけはスカウトだけど―――…」
 そこで言葉を切ると、奏は、口に運びかけていたオープンオムレツを、ぱくり、と一口で食べた。
 「―――…ちょっと色々あって、写真の世界に前から興味あったから」
 「色々、って?」
 「うん、まあ……親戚にカメラマンがいるんだ」
 さすがに、相手が現役モデルなだけに、時田の名前を出すのはやめた。過去にも、奏の叔父が時田だと知ったモデル仲間が、「紹介してくれ」などと迫ってきたことがあるから。
 「オレ、その人のこと、親戚としても大好きだったし、カメラマンとしても大ファンだったから。その人に撮ってもらえるモデルになれたらな、と思って……それが、モデルになった理由」
 「じゃあ……その人に認められたくて、ってこと?」
 何故か、少し身を乗り出すようにして、リカが訊ねる。妙に熱心なその様子をちょっと不審に思ったが、奏はその質問に頷いた。
 「まあ、そんなとこ」
 「撮って、もらえたの」
 「いや」
 「えっ、どうして?」
 …この話題は、正直、触れたくない話だ。一瞬眉を顰めかけた奏は、すぐにそつのない笑みを作り、胸の奥に久々に湧き上がった苦い思いをねじ伏せた。
 「どうして、って……ま、そういうこともあるさ。縁がない、っていうかさ」
 「でも…」
 「まあ、いいじゃん。昔の話で、今はその人よか他のカメラマンと一緒に仕事がしたいし―――…」

 そこまで言った時。
 店の入り口の扉が開き、見覚えのある人物が、ひょっこり姿を現した。
 「!!」
 ガタン、と、奏が座った椅子が音を立てる。奏の表情が、一気に険しくなった。

 ―――…で…、
 出たな、出雲―――…っ!!

 出雲はこの1週間あまり、完全に咲夜のストーカーと化している。
 この店に通いつめていることは勿論のこと、どこで突き止めたのか、咲夜の職場である“カフェ・ストック”の事務所にも姿を現し、是非是非契約を、と迫っているらしい。唯一、割れていないのが自宅だが、このままでは家まで押しかけてくるんじゃないか、と、咲夜は半分ノイローゼ気味だ。
 勿論、咲夜は毎回、断っている。ライブ終了後に、かなり時間を取って「契約する気はない」と説明もしたのだ。なのに出雲は、「とにかくオーディションだけ受けて欲しい、上の者と話をして欲しい」の一点張りだ。よほど上層部からプレッシャーをかけられているのだろう。
 1週間、我慢し続けてきたが、さすがの咲夜もそろそろ限界だ。せっかく摂食障害が治ったというのに、この分だとまた胃がやられてしまうのは目に見えている。見るに見かねた奏は、「オレが話をつけてやる!」と立ち上がった。
 つまり、今日、こうして“Jonny's Club”に赴いたのは、「出雲と決着をつけるため」なのだ。

 「ど、どうしたの?」
 突如顔色が変わった奏に、リカが目を丸くする。その声とほぼ同時に、店内に入ってきた出雲が、奏の姿を見つけた。
 当然ながら、出雲は驚いた顔をしていた。壁際の席に向かいかけたその足を、すぐさま奏たちの席に向け、満面の笑みでこちらに歩み寄ってきた。
 「いやいやいや、これはこれは、如月さんの…。こんばんは。奇遇ですねぇ」
 「…どうも」
 ぶん殴ってやりたい気持ちを辛うじて抑え、低く挨拶をする。
 基本的に、人の迷惑を顧みない性格なのだろう。同席してもいいか、と訊くことすらなく、出雲は奏たちの4人掛けの席の1つに、ちゃっかり腰を下ろしてしまった。何食わぬ顔で店員を呼び止め、「あ、ビールね」などとオーダーしている。当然ながら、リカは目が点だ。
 オーダーし終えた出雲は、やれやれ、などと言いながら、鞄を床に置いた。そして顔を上げると、まだ驚いたように目を大きく見開いた。
 「おや? 今日は女性連れですか?」
 ―――今気づいたのかよ。
 どういう目をしてるんだ、この男は。注意力不足な出雲に、奏は呆れた顔をし、存在に気づかれなかったリカは、あからさまにムッとした顔をした。
 「いやぁ、びっくりするほどの美少女じゃないですか! いいんですか? 如月さんのいるお店で、浮気相手と飲んだりして」
 「…勝手に浮気扱いしないでもらえますか。仕事関係者です」
 「ねえ。このおじさん、誰よ」
 不機嫌100パーセントの声で、リカがイライラしたように言う。説明しようと、奏が口を開いたその時、それまで店内に流れていたBGMがフェードアウトし、消えていった。ライブが始まる前触れだ。
 「あっ、始まりますね。時間に合わせて来たんですよ。いいタイミングでしょう」
 ホクホク顔の出雲に、ビールが運ばれてくる。ため息をついた奏は、ひとまずリカの存在を忘れることにして、しっかりと出雲に向き直った。
 「出雲さん」
 「はい?」
 さっそくビールをきゅーっとあおっていた出雲は、邪気のない顔で、奏に目を向けた。
 「もういい加減、咲夜のことは諦めて下さい」
 「え?」
 「咲夜は、何度も断ってるでしょう? あいつが芸能プロに入ってJ−POP歌う気になることなんて、何年待っても絶対ありませんよ。あいつは飽くまで“ジャズが”歌いたいんです。もう追いかけ回すのは止めて下さい」
 奏の言葉に、出雲はパチパチと目をしばたいた。
 「あなたは、如月さんがメジャーデビューすることに、反対なんですか?」
 「賛成する訳ないでしょうが」
 「なんでです? あ、もしかしてうちの事務所の名前、ご存知ない? 怪しいプロダクションじゃないですよ。ちゃんと有名どころの芸能人を多数」
 「そうじゃありません」
 「ああ、それに、うちの事務所、アイドル以外は男女交際OKですよ。プロになったら別れさせられるとか、そういう心配を」
 「そうじゃねーっつってんだろっ」
 奏の、最大限ボリュームを絞った怒鳴り声に、出雲だけじゃなく、リカまでビクッ、と肩を跳ねさせた。
 「オレは、咲夜が望む歌を歌わせてやりたいんだよっ。ミリオンヒット飛ばそうが、高級マンションで暮らせようが、不本意な歌を歌わされてたんじゃ、あいつにとっては全然意味ないんだよっ」
 「い、意味ない、って…」

 「こんばんは。“Jonny's Club”にようこそ」

 出雲の反論を打ち消すように、咲夜の声が店内に響いた。
 3人の目が、ステージに向く。いつものように、咲夜はスタンドマイクに手を添えて店内を見渡しているが、ちょうど死角になっているのか、その視線が奏たちのテーブルに止まることはなかった。
 「…あなたは、如月さんのようなシンガーを、こんな小さな店で飼い殺しにしといていいと、本気で思うんですか?」
 ひそひそ声で、出雲が反論する。
 「あれでも如月さんはプロですよ? 客から金取って歌を聴かせてる人間は、ジャンルの違いこそあれ、望みは同じです。より大きな箱で、よりたくさんの聴衆の前で歌いたい―――CDを出して、世界中の人に自分の歌を聴いて欲しい。そう思うもんでしょう?」
 「…そりゃ、そうだろうと、オレだって思うよ。ただし、“自分が望む歌で”、な」
 「如月さんがジャズが好きなのは、わかりますよ。でも、歌は歌でしょうが。あの人の声は、ジャズより他のジャンルの方が絶対成功しますって。ジャズにこだわってるせいで、こんな所でしか歌えない―――歌だけじゃ食べていけなくて、昼間、まるで関係のない仕事をこなさなくちゃいけない…。せっかく才能があるのに、可哀想じゃないですか」
 「……」

 ―――可哀想?
 なんだよ、可哀想、って。

 その一言に、ぷちん、と血管が切れた気がした。1曲目の前奏が店内に流れ始める中、奏は険悪に眉を上げ、出雲のワイシャツの襟首を掴んだ。
 ひぃ、と、出雲が小さな悲鳴を上げる。それを無視して、奏は出雲の体を、強制的にステージの方へ向けさせた。

 「Blue skies, smiling at me, Nothing but blue skies, do I see.....」

 咲夜の十八番、『Blue Skies』だ。
 「…ちゃんと見て、ちゃんと聴けよ」
 「……っ、」
 「あれのどこが、可哀想だよ! え!?」
 更に、出雲をステージの方に突き出す。奏の剣幕に呑まれてしまったかのように、出雲は声も出せずに舞台を凝視した。

 「Blue birds, singing a song, Nothing but blue birds, all day long......」

 咲夜は、歌っていた。
 いつものように、笑顔で―――体の中の、心の中の全てを、今この瞬間の声に乗せて解き放つみたいに。
 「…あんたの目は、節穴かよ」
 「……」
 「オレ、あいつほど幸せそうに歌う奴、見たことない。今、ここで、この歌を歌うことこそが、自分が生きている理由だ、って言ってるみたいに……あいつはいつも、幸せそうだよ。どんだけキツイ暮らししてても、どんだけ辛い思いしてても、歌ってる時だけは、他のどんな有名な歌手よりも、咲夜の方が幸せそうだ」
 「……」
 「それなのに、“可哀想”だ? ふざけんなよ! あんた、何回もこの店に足運んで、一体咲夜の何を見てきたんだよ!?」

 出雲は、何も言わなかった。
 ただ声を失ったまま―――ステージの上で歌う咲夜を、瞬きも忘れたみたいに見つめ続けていた。

***

 「…あのおじさん、ちょっと気の毒だったんじゃない?」
 店のドアを開けながら、リカがポツリと呟いた。
 あのおじさん、とは、出雲のことだ。不愉快そうに眉を顰めた奏は、
 「まだ言い足りない位だよ」
 と答えた。

 結局出雲は、咲夜のステージを最後まで聴き終わると、咲夜に会うことなく、ビールを半分残して帰って行った。
 それでもわたしは、如月さんをこのままにしておくのは、忍びないんですけどね―――そう言いつつも、当面はスカウトを諦めたのだろう。如月さんによろしくお伝え下さい、という言葉は、もう直接咲夜に会うことはない、という意味だと奏は受け取った。
 ただし―――もし万が一、将来気が変わることがあったら、ということで、ちゃっかり名刺を奏に託して行ったのだが。

 「―――なんか、羨ましい」
 階段を上りきった所で、リカがピタリ、と足を止め、小さく言った。
 「羨ましい?」
 何が、と、奏も足を止め、軽く首を傾げる。顔を上げたリカは、奏を見上げ、曖昧な笑みを浮かべた。
 「自分のために、あんなに真剣になってくれる人がいる、あの人が」
 「……」
 「いいなぁ…。リカも、欲しい。そういう人」
 「…うーん、案外、いるんじゃないか? リカが気づいてないだけで」
 「そう?」
 「親とか、友達とか、さ。片意地張って強がってると見えないけど―――素直になったら見えるもんも、あるんじゃない?」
 「……」
 少し考え込むように、リカの視線が、斜め下を向く。
 再び目を上げた時、リカはニコリ、と、まるで人形のような笑みを奏に向けた。
 「じゃ、リカ、帰るから」
 「え? いや、駅まで送るよ」
 「まだ9時前じゃない、全然ヘーキ。あのおじさんがいたせいで、カノジョさんに挨拶できなくて残念だったけど―――色々、話聞けてよかった。また10日の打ち合わせの時、イギリスの話とか聞かせて」
 「…ま、打ち合わせに支障ない程度に、な」
 今日みたいな勢いで色々訊かれたら、仕事の話をする時間がなくなってしまいそうだ。半分本気、半分冗談で奏が釘を刺すと、リカは、ふふふ、と笑って頷いた。
 「じゃあ、おやすみなさい」
 「あー、おやすみ」

 くるん、と踵を返すと、リカは軽やかな足取りで、駅の方へ向かって去って行った。その姿は、みるみるうちに遠ざかり、あっという間に雑踏の中に紛れてしまった。
 「……」
 ―――なぁんか、変だったな、今のあの子。
 何が変だったのか、具体的には、よくわからないのだけれど……何か、変だった気がする。態度や表情が。
 何だったんだろう、と、奏は暫し、眉根を寄せて考えた。が、納得のいく答えが見つからず、すぐにギブアップした。
 「…っと、ヤバイ」
 ぼやぼやしていると、次のライブが始まってしまう。軽く伸びをした奏は、階段を駆け下り、また“Jonny's Club”へと戻ろうとした。
 …のだが。

 「うわっ!」
 ドアを開けようとした、ちょうどそのタイミングで、逆に店側からドアが開いた。
 慌てて飛びのいた奏は、出て来た人物が誰かを確認して、更に驚いた。
 「さ、咲夜!?」
 「! あ、いた!」
 ドアの横に貼りついてる奏に気づき、咲夜が声を上げる。そして、何かを探すみたいに、キョロキョロと視線をあちこちに彷徨わせた。
 「あれ? 1人? 一緒にいた人は?」
 「えっ、お前、ステージから見えてたのかよ」
 見る限り、全然奏たちに気づいている様子はなかったのに―――目を丸くする奏に、咲夜は視線を奏に向け、軽く首を振った。
 「違う違う。私は全然気づいてなかったんだけど、ヨッシーが気づいたの。ステージ終わってから、いきなり言われてさ。“一宮が、雪だるまとすんごい美少女連れて店に来てたぞ”って」
 「……」
 ―――なんつー説明だよ。雪だるまと美少女、って。
 「雪だるまに見つかるとヤバイから、控え室に隠れてたんだ。そろそろライブ始まるし、ってんで様子見に出て来たんだけど―――何、雪だるまだけじゃなく、美少女も帰っちゃったの?」
 「ああ、たった今」
 奏が答えると、咲夜の顔が、一気に落胆した表情に変わった。
 「なんだ、帰っちゃったのか…。残念」
 「残念、って、」
 なんだよそりゃ、と奏が突っ込むのをあっさりかわし、咲夜は、惜しかったなぁ、などとブツブツ呟きながら、再び店のドアを開けた。そしてそのまま、すたすたと店の中に戻ってしまった。

 ―――…オイ。
 ちょっと待て、咲夜。
 お前……追いかけてきといて、それだけか!?
 出雲がどうなったか、とか、美少女って一体誰? とか、引っかかる部分、色々あるだろーが、普通っ! 全部スルーかよっ!

 釈然としない。ついでに、面白くない。特に―――奏が正体不明の美少女と一緒にいた、という点をこれっぽっちも気にしていない部分が、実に面白くない。
 「奏、ぼーっとしてると、ライブ始まっちゃうよ」
 「…うるせー」
 咲夜に不機嫌に返した奏は、ふて腐れたような顔で、店内に戻った。
 そんな奏を振り返った咲夜は、奏の心内を知ってか知らずか、少し背伸びをし、BGMに負けないよう、奏の耳元で囁いた。
 「出雲、追い返してくれたんだね。ありがと」
 「……」
 少し目を丸くする奏に、背伸びをやめた咲夜は、ちょっと目を細めて微笑んだ。

 ―――我ながら…容易い。

 たった一言と微笑ひとつで、あっさり不機嫌が覆ってしまう自分は、つくづくバカだと思う。
 なのに、バカだと思いつつ、咲夜の微笑に応える奏の表情は、既に笑顔になっていた。


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