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― Girl friend ―

 

 「…人待ち顔」
 「えっ」
 蓮がボソリと呟いた言葉に、優也はキョトンと目を丸くした。
 テーブルに頬杖をついた蓮は、その鋭い目を面白そうに細め、微かに笑いを滲ませていた。
 「人待ち顔、って…僕が?」
 「他にいないだろ?」
 「べ…別に、誰も待ってないよ?」

 だって、今日は、日曜日だし。
 一宮さんや咲夜さんも家にいる可能性がある休日に、会うことを禁じられてる彼女が、このアパートを訪ねてくる訳がないし。

 「日曜だもんな」
 心の中で付け加えた言葉が聞こえたみたいに、蓮が相槌を打つ。人待ち顔、などと言っておきながら、待っている「人」はお見通し、といったところのようだ。
 「…別に、待ってる訳じゃないよ、本当に。た、ただ―――できれば友達になって、ちゃんとあの2人に会って謝るチャンスを作ってあげたかったな、とか、あんなこと言っちゃって迷惑だったかな、とか、来ないってことは寂しくない証拠でむしろ喜ばしいことでもあるよな、とか…」
 「ずっと言おうと思ってたんだけど、」
 しどろもどろな優也の言い訳を遮り、蓮が静かに切り出した。
 「この前、“昼間で大学のない時なら”って、秋吉、言ってたけど―――それが“いつ”なのか、あの子はどうやって知ればいいんだ?」
 「―――…」

 があん、と、頭を殴られたような、衝撃。
 自分の大失態に気づいて青褪める優也を、蓮は、少し気の毒そうに眺めた。


***


 ―――…来ちゃった…。
 もう見慣れた感すらある建物を前にして、理加子は大きく息をつき、胸に手を当てた。

 このアパートの住人である2人と出会ってから、2週間あまり―――仕事のない日には、毎日、迷っていた。
 優也の言葉を真に受けていいものかどうか……それに、蓮の方は、理加子をあまり良く思っていないようだった。優也が本心からああ言ってくれたのだとしても、優也と大変親しい様子だった蓮が嫌がったら、優也も理加子を歓迎してはくれないかもしれない。
 真に受けて訪ねたりしたら、かえって寂しい思いをするかもしれない。
 拒絶される可能性に、理加子はこれまで以上に臆病になっていた。やっぱり、やめておこう―――心が揺れるたび、そう思った。けれど。
 昨日の夜、久々に、父や母と一緒に夕飯を食べた。そして今朝、誰もいない食卓を見た途端、張り詰めていたものがパチン、と弾けた気がした。
 子供みたいで、情けない話だ。でも、誰かに会いたくて、1人ではいたくなくて―――気づいたら、“ベルメゾンみそら”の前にいた。

 ―――でも、いるかどうか、わからないのよね…。
 郵便受けで「秋吉」と書かれた部屋番号を確かめ、今更ながらに、そう気づく。
 今日は、月曜日。彼らと出会ったのも月曜だったので、今日も大学の講義はないのかもしれない。が、休みに必ず家にいるとも限らない。時刻は午後4時前…微妙な時間帯だ。
 深呼吸をし、1階の廊下を進んだ理加子は、103号室のドアの前で立ち止まった。
 ちょっと、耳を澄ます。…人の気配があるかどうか、よくわからない。意を決して、呼び鈴を押した。
 ピンポーン、という庶民的な音が廊下に微かに響いた。そのまま暫し、じっと息をひそめて反応を待ったが、103号室のドアの向こうからは、何の音も聞こえてこなかった。試しにもう1度、呼び鈴を鳴らしてみたが、早くも薄暗くなりつつある廊下は、しんと静まりかえったままだった。
 …そっか。留守なんだ。
 一気に力が抜けた。
 肩を落とした理加子は、それでもすぐには立ち去ろうとせず、俯いたままドアの前に佇んだ。ここにひょっこり、優也が帰って来ないかな、なんてバカなことを、少しだけ考えて。すると、まるでそのタイミングを計ったかのように、足音がエントランスの方向から聞こえた。
 「……!」
 ハッとして目を向けた理加子だったが―――足音の主に気づき、その表情が、僅かに曇った。

 2階から下りてきた足音の主は、手の中で鍵を弄びながら、ちょうど101号室の前に差し掛かっていた。そして、103号室の前に立つ理加子に気づき、反射的に足を止めた。
 「……」
 切れ長の鋭い目が、一瞬、丸くなる。気まずそうな表情で佇む理加子を数秒見つめた蓮は、困ったような表情になった。
 「あの…あたし」
 「秋吉だろ」
 理加子の言葉を制して、蓮が口を開く。
 「あいつなら、留守だよ」
 「…みたいね。返事ないし。遅いの?」
 「いや、もうすぐ帰ってくると思う」
 「大学?」
 「家庭教師センター」
 「…バイト?」
 「そう」
 「もうすぐって、いつ?」
 「さぁ?」
 「彼、いつ頃出て行ったの?」
 「いや、午前は俺も秋吉も授業で―――…」
 言いかけて、イライラしてきたのか、蓮はブラウンの短い髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜ、大きなため息をついた。
 くるり、と踵を返した蓮は、ジーパンのバックポケットから携帯電話を引っ張り出し、足早にエントランスの方へと向かった。どうやら、電話をかけるために、電波状態のいい所へ移動する気らしい。理加子も、その後を追った。
 案の定、蓮はアパートを出たところの壁際で、携帯を耳に当てていた。理加子の気配に気づき、ちょっと迷惑そうに振り返ったが、やがて電話の相手が出たらしく、再び理加子に背を向けてしまった。
 「秋吉? 俺。今、いいか? …そうか、よかった。実は今、例の子が来てて―――あの子だよ。姫川理加子」
 『ええぇっ!!?』
 すぐ後ろにいた理加子にも聞こえるほどの声が、携帯から漏れた。思わず携帯を耳から離した蓮だったが、気を取り直したように、また耳に当てた。
 「…声、デカいって…。ん? …いや、今、すぐ後ろにいる。…え? いや、だから―――ちょっと待って」
 どことなくうんざり気味な声で言うと、蓮は後ろを振り返り、憮然とした表情で理加子に携帯電話を突き出した。
 「あたし?」
 どうやら、電話を代われ、ということらしい。受け取った理加子は、おずおずと電話に出た。
 「も…もしもし」
 『り、理加子さんっ!?』
 聞き覚えのある声が、ちょっと裏返った状態で、理加子の耳に届く。2週間前見たあの焦ったような表情を思い出し、緊張しきっていた理加子の表情が、僅かに緩んだ。
 「…う…、うん。あたし。ごめんね、留守なのに来ちゃって」
 『そっ、そんなことないよっ! ご、ごめん、普段の月曜なら午後は暇な筈なんだけど、今日はたまたま、月1回の家庭教師センターの報告日で…。あ、もう報告は終わって、今、帰ってる最中なんだ。ええと、あと15分か20分……だ、だからその、もしよかったら…』
 「…うん。じゃあ、待ってる」
 『え、ほんとに?』
 自分から言っておいて、優也は驚いたような声を出した。矛盾したリアクションに、理加子は思わず苦笑し、同時になんとなくホッとした。
 「うん。せっかく来たんだし、帰っても誰もいないもん。そのくらいの時間なら、待ってる」
 『じゃ、じゃあ、急いで帰るからっ!』
 言うなり、電話は切れた。
 「……」
 ツー、ツー、という音だけが、電話から聞こえる。焦ったような優也の声が聞こえなくなると、途端に、空気が冷えた気がした。
 ―――…寒い。
 携帯を閉じ、11月の風に軽く身震いする。すると、目の前に、蓮の手のひらが突き出された。
 「……?」
 「…携帯」
 やはり憮然といった声で、ぼそりと呟く。つくづく愛想のない蓮の態度に少々ムッとしながらも、理加子は携帯電話を蓮に返した。
 「秋吉、何て?」
 「…急いで帰ってくるって。15分か20分みたい」
 「ふぅん」
 そっけない相槌を打つと、蓮は携帯をポケットに突っ込み、理加子の目の前を横切った。
 え? と呆気にとられる理加子を置いて、蓮はすたすたと、アパートの中へと戻ろうとした。まるで、理加子などそこに存在していないかのような顔をして。
 「ちょ…、ちょっと、待ってよっ!」
 理加子が呼び止めると、一応立ち止まり、振り返る。角度のせいで、ちょうどギロリと睨まれたような形になり、その迫力に思わず理加子の足が1歩後ろにさがった。
 苦手だ。もの凄く苦手なタイプだ。はっきり言って、怖い。出会い方が悪かったこともあるが、優也の友達だというのに、この男は優也とは対照的過ぎて、どうにも馴染めそうにない。
 が―――好もしい相手には臆病になり、嫌いな相手には高飛車になるのが、理加子である。
 「帰ってくるまで、あたし1人で、ここで待てって言うの?」
 「……」
 他にどうしろと? とでも言いたげに、蓮の眉が訝しげにひそめられる。
 「たった15分20分じゃない。一緒に待っててよ」
 「俺が?」
 「薄暗くなってきた中、女の子1人で待たせるなんて、あんまりじゃない?」
 「……」
 多分、今、彼の中では、数々の反論が渦巻いているのだろう。だが、色々反論するより、20分程度なら、付き合ってしまった方が楽だと思ったのかもしれない。蓮は愛想のない顔のままため息をつき、アパートの壁によりかかった。

 ―――呼び止めたはいいけど、何話したらいいんだか困るなぁ、こういう人…。
 蓮とは1メートルほど間を空けて壁にもたれた理加子は、チラリと蓮の横顔を盗み見、必死に話題を探した。
 優也の、大学の友人―――そして、あの日、咲夜を抱きかかえて帰ってきた人。…咲夜の話は、たとえ共通の話題であっても、絶対にタブーだ。となれば…当然、話題は限られてくる。
 「…あなたたちって、何年生?」
 当たり障りのない話題を振ると、蓮は、極めて事務的に答えた。
 「3年」
 「え…っ、じゃあ、あたしと同い年なの?」
 「21?」
 蓮が、目だけをこちらに向け、訊ねる。理加子は、コクンと頷いた。
 「9月に、21になったとこ」
 「じゃあ、俺と同い年だ」
 「優也は?」
 これまで、友人や仲間を呼び捨てにしてきた習慣から、つい、優也のことも呼び捨ててしまった。そのことに、蓮は一瞬、微妙な顔をしたが、特に失礼だとか馴れ馴れしいとかいう指摘はせず、淡々と答えた。
 「秋吉は、俺より1つ下」
 「え? でも、あたしと同い年で3年てことは、留年や浪人じゃないんでしょ、あなた」
 「秋吉が、普通より1年早く大学に進学してるだけだ」
 「……」
 あまりにあっさり言われたせいで、その凄さが、すぐには実感できなかった。
 1年早く……つまり、同級生が高校3年生になる時、優也は大学生になった、ということだ。外国ではそういう例も珍しくないが、横並び社会な日本では珍しいこと位、理加子にだって理解できた。
 「…す…ごいんじゃない? それって」
 「まあ、そうだろうな」
 「…そういう人が行ってる大学ってことは、もしかして、もの凄くレベル高い大学?」
 恐る恐る理加子が訊ねた内容に、蓮の無表情が、僅かに崩れる。
 蓮自身も通う大学を「もの凄くレベルが高い」と言われて肯定するのは、さすがに抵抗がある、といったところだろうか。蓮は、少し困ったような顔になり、手の中の鍵を意味もなく弄びながら、ボソリと大学名を呟いた。それは、理加子もよく知る、理系では有名な大学だった。
 ―――な…なんか、全然、あたしとは違う世界の人たちなんじゃない?
 天才や秀才ばかりが通う、超難関大学の学生。しかも、その中でも特例であろう、1年飛び級して入学したような、筋金入りの優等生。理加子がこれまでの人生の中で関わってきた人種とは、明らかに違っている。理加子の周囲にいたのは、理加子と同レベルかそれ以下の学力・学歴の人間か、でなければ大学に遊びに行っているような連中ばかりだったから。

 自分とは、ある意味、対極にいる人たち。
 多分……父や母と、同じ側にいる人たち。

 急速に、劣等感が襲ってくる。もし理加子が優也のような優秀な人間であったなら、両親ももっと理加子に関心を持ってくれたのかもしれない―――俯いた理加子は、そんなことを思い、靴のつま先をじっと見つめた。
 「…あなたは、あたしが優也と親しくなるのに、反対なんでしょ」
 俯いたまま理加子が呟くと、蓮は相変わらず鍵を弄びながら、目だけを理加子に向けた。
 「別に、反対してないけど」
 「でもこの前、敵意丸出しの態度だったじゃない」
 「敵意?」
 「あたしにキツいこと、いっぱい言ったし」
 「…それは、咲夜さんの件についてで、秋吉とのことは関係ない」
 憮然とした様子の蓮の返答に、理加子は顔を上げ、改めて蓮の方を見た。
 「だから、咲夜さんを危険な目に遭わせた張本人が、自分の親友と親しくなるのは、嫌なんじゃないの?」
 「それは…」
 蓮の目が、一瞬、迷うように揺れる。が、暫し理加子の顔をじっと見つめた末に、蓮はきっぱりとした口調で答えた。
 「たとえ、秋吉が俺の嫌いな奴と友達になっても、俺と秋吉の関係が変わらないなら、それでいい」
 「……」
 「俺にも友達になれとか、俺との付き合いはやめるとか言われるのは嫌だけど、そうじゃないなら、どうでもいい。秋吉が誰と親しくしようが、俺には関係ない」
 関係ない。
 …確かに。蓮の言うとおりだ。でも、なんだかバッサリと切り捨てられたような感じがして、理加子の胸の内が微かに震えた。
 「…あなた、あたしが嫌いなの」
 掠れそうな声で辛うじて訊ねると、蓮は冷めた目で理加子を一瞥し、視線を前に向けた。
 「あんたに限らず、女は嫌いだ」
 「え?」
 「特に、恋愛話の絡んだ女は、最悪だ。バカな上に狡猾で、平気で嘘をつく」
 「…あたしも、バカな上に狡猾で、平気で嘘をつく女?」
 「だから、一宮さんから、手痛い仕打ちを受けたんだろ」
 蓮が低く放った言葉に、胸がズキリと痛んだ。
 反論、できない。奏にはいくつもの嘘をついてきたし、彼が断れないようずるい方法で会う口実を作ったりもした。揚句に、咲夜をあんな立場に追い込んで―――まさに自分は、蓮の言う「バカで狡猾な上に平気で嘘をつく女」の典型例だ。
 図星だ。けれど、この取り付く島のない蓮の断定口調が、妙に癇に障る。少し眉根を寄せた理加子は、拗ねたように唇を尖らせた。
 「で…でもっ、恋愛話でバカになったりずるくなったりするのは、男も同じなんじゃないっ? でなけりゃ、痴話喧嘩の末に女を刺しちゃう男や、邪魔になった元カノを殺しちゃう男が週刊誌賑わせてることの説明、つかないじゃない。バカになる女もいるし、バカになる男もいる、そういうことでしょ? なのに、そういう理由で女全体を“キライ”ってひと括りにするのって、なんか女性蔑視っぽくて、やな感じ」
 嫌味ったらしい口調で理加子が言うと、ポーカーフェイスな蓮も、さすがにムッとした表情になった。今度は目だけじゃなく顔も理加子の方に向ける。
 「“特に”って言っただろ。基本、女は嫌いなんだよ」
 「なんでよ」
 「そんなこと、説明する義理はない」
 「あたしだって、あんたが嫌いだっていう女の一員だもんっ。嫌いって言われて、その理由を聞きたいと思うのはトーゼンでしょ?」
 「聞きたいって言われたら、絶対に答えないといけないのか? 答えようが答えまいが、俺の自由だろ」
 「嫌いとだけ言われて理由をうやむやにされる側の気持ちを考えなさいよっ。ほんとは大した理由なんてないんじゃないの? 男ってすぐ話を誤魔化してその場しのぎをしようとするんだからっ」
 「ああ、そうかよ。こっちだって、女のそういう何でも白黒はっきりつけないと気がすまない部分には、いい加減うんざりだ。人間、触れられたくない話ってのもあるだろ。だから女は嫌だってんだよ」
 「何よっ、女、女、って! 女なら全部ダメって訳!? だったら咲夜さんはどうなのよ!? あの人だって、あたしと同じ女よ!?」
 途端、蓮の目が、一気に険しくなった。
 「…なんでそこで、咲夜さんが出てくるんだ?」
 「……っ、」
 ゾクリ、と背筋に走った冷たいものに、エキサイトしかかっていた理加子も、思わず言葉に詰まる。そんな理加子を、蓮は冷ややかに見据えた。
 「咲夜さんの名前を出して、俺に何を言わせたいんだよ」
 「…べ…っ、別、に」
 「秋吉が何て言おうが、もしお前に咲夜さんに対する悪意や嫉妬がまだあるなら、このアパート含めた咲夜さんの行動範囲内への立ち入りは、俺が断固阻止する」
 「……」
 そんなつもりで、咲夜の名前を出したんじゃ、ない。
 言葉にならない分、必死に首を振る。が、蓮の目は、まだ冷ややかなままだった。

 「穂積ーっ!」
 急速に険悪になっていく2人の間の空気に、突如、優也の声が割って入った。
 ハッとして、2人して声の方に目を向ける。見れば、先日会った時より少し厚手のジャケットを羽織った優也が、必死にこちらに走ってくるところだった。その形相から察するに、眼鏡がずれて半分落ちかけていることにも、本人は気づいていないのだろう。
 優也の顔を見て、理加子の表情のみならず、蓮の表情も和らいだ。2人は、壁に預けていた背中を起こし、優也を出迎えた。
 「ご…ごめんっ、待たせて…っ」
 駅から全力で走ってきたらしい優也は、2人の前に到着するや、両手を膝に置いて、肩でゼイゼイと息をした。11月の夕方は、風も冷たくなりつつある。優也の頬は、走ったせいと寒さで、赤く染まっていた。
 「あー…、こんなに走ったの、久しぶりかも…」
 「ご苦労さん」
 息の整わない優也の様子に微かに苦笑しつつ、蓮がそう言って、優也の肩を叩く。その光景が、なんだか、女である自分には踏み込めない「男の友情」そのものに見えて、理加子は少し寂しさのようなものを覚えた。
 「じゃあ、俺は行くから」
 蓮がそう言って、手の中の鍵をチャラッと音をたてて握り直すと、優也はようやく顔を上げ、ちょっと心細そうな顔をした。
 「えっ…、ほ、穂積、出かけちゃうの?」
 「ああ。今日のバイト、ちょっと早いんだ」
 「でも、その鍵―――バイクだよね? 停めるとこ、見つかったの?」
 「いや。ちょっと調子悪いとこあるから、途中でバイク屋寄って、預けてくるんだ」
 「あ…、そうなんだ…」
 優也の顔に、明らかな落胆の色が浮かぶ。どういう意味の落胆なのだろう? 自分が訪ねて来たと聞いて慌てて駆け戻ったものと受け取っていた理加子は、優也が必死に戻ってきたことの意味を改めて考え、困惑した表情になった。
 「じゃあな」
 「うん。ありがと、連絡くれて」
 にっこり笑って優也がお礼を言うと、蓮も微かな笑みを返した。バイクを取りに行くためにアパートのエントランスへと入って行こうとした蓮は、一瞬、理加子と目が合うと、途端にその微かな笑みを消し、憮然とした表情になった。それは理加子も同じことで、蓮と目が合うと同時に、頬の筋肉が誤作動を起こしたみたいに、顔全体が一気に強張った。
 ―――やっぱり、キライだ、この人。
 出会った経緯が経緯なだけに、嫌われているのかもしれない、という予感は元々あった。でも、今の言い合いで、そういう次元ではない相性の悪さを感じた。優也は蓮が行ってしまうことに落胆しているようだが、あんな男、いなくて万々歳だ。
 蓮がアパートの中に消えると、理加子の険しい表情も消え、その場にぽっかりと空洞が空いたみたいな、妙な空気になった。
 「…ええと…」
 気遣うような優也の声に、慌てて振り返る。いつの間にか、ずれていた眼鏡をきちんと直した優也は、理加子の表情を窺うような目をして、おずおずと口を開いた。
 「穂積と、何か、あった?」
 「え…、」
 「なんか、すれ違った時、2人とも目が怖かったから。喧嘩でもしてた?」
 「う、ううん、別に」
 理加子がきっぱりと否定して首を振ると、優也は少しホッとしたような表情になり、口元をほころばせた。が、それはほんの僅かな間のことで、優也はすぐに笑顔を失い、妙にそわそわとした様子になった。
 「え…ええと、それで―――どっ、どうしようかな。せっかく遊びに来てもらったけど…へ、部屋に上がってもらう訳にも…」
 「えっ、どうして?」
 当然、優也の部屋でお茶でもしながら話をするものとばかり思っていた。キョトンと理加子が目を丸くすると、落ち着かない様子の優也は、困ったように口元に手を置いた。
 「…女の子が、1人で、男の一人暮らしの部屋に上がる、ってのも、ちょっと…」
 「…ダメなの?」
 何がダメなのか、わからない。素で不思議そうに問い返すと、優也の方もちょっと驚いたような顔になった。
 「え、いいの? 普通」
 「…普通、って……普通、ダメなの?」
 「い、いや、その―――普通どうなのか、は、いいや、とりあえず。理加子さんは、今まで、どうだったの?」
 「今まで?」
 「取り巻きとか仲間とか…たくさん、いるんでしょう? 男の人が」
 前回、理加子から聞いた話を踏まえて、優也が当然のようにそう訊ねる。
 訊ねられて気づいた事実に、理加子は少し瞳を揺らし、気まずそうに僅かに俯いた。
 「…自宅に遊びに行くほど、深い付き合いをした人なんて、いないもの。男の人に限らず」
 「……」
 眼鏡の奥の優也の目が、ちょっと、丸くなる。
 多分優也は、理加子の取り巻き連中のことを、もっと密接に付き合いのある人間たちだと思っていたのだろう。理加子が一方的に違和感を覚えているだけで、向こうは非常に親しみを持っているのだろう、と。
 でも、現実は、これだ。彼らにとって理加子は、真の悩みや素の表情を曝け出せる相手ではない―――理加子にとっての彼らが、そうではないのと同様に。亜紀の関係から、晴紀の内情だけは辛うじて把握していた理加子だが、他の連中の家族構成などまるで知らないし、どこに住んでいるのかだって、全然知らない。そして彼らも、理加子のことなど、履歴書以上のことは全く知らない筈だ。
 ―――…あたしって…。
 コンプレックスが、また、胸の奥からせり上がる。
 薄っぺらな中身、薄っぺらな人間関係―――比べて優也は、頭脳明晰で、一流大学の中でも特別な存在でありながら、蓮という親友まで持っている。
 友人関係というのにも、ある程度、釣り合いというものがあるのではないか、と理加子は思っている。その考えからいくと、理加子と優也は、全然釣り合っていない気がする。勿論、自分の方が劣っている、という意味合いで。こんな自分が、優也と友達になれるんだろうか? はっきりと「友達」と呼べる存在など、これまで1人もいたことのない自分なのに。
 そんな劣等感に理加子が苛まれていると、目を丸くしていた優也が、ふいに、ちょっと安心したように息をついた。
 「そ、そう、なんだ。あー…、安心した」
 「…え?」
 「だって僕、女の子の友達って、初めてで」
 そう言うと、優也は照れたように、あはは、と笑った。
 「同性の友達も、家を頻繁に行き来する友達も、小さい頃を抜かすと、ほとんど穂積が初めてに近いくらいで―――だから、どういう付き合い方が“普通”なのか、よくわからないんだ。今日も、理加子さんが来てくれて嬉しいのに、いざ会うと何すればいのか、思いつかなくて…。2人じゃ間が持たないから、穂積にも助けてもらおうと思ったのに、穂積、バイトに行っちゃうし」
 「……」
 「でも、理加子さんにとっても初めてなら、普通はどう、とか、他の友達よりこう、とか、考えずに済むよね。よかった」
 「…なんか…」
 力が、抜けた。
 そう―――この前も、そうだった。優也が喋ると、時間の流れがゆっくりになって、体全体の力が抜けていく感じがする。こういうのを「癒し」とか呼ぶのかもしれない。優也の言葉に甘えたくなった理由は、きっと、彼の持つこういう「癒し」の力のせいだ。
 「優也って、面白い」
 「?」
 不思議そうな顔をする優也に、理加子はくすっと笑った。
 「ううん、面白いんじゃなくて、羨ましい。なんでも素直に口にできて」
 「そ、そうかな?」
 「うん。癒し系なんだ、優也って」
 「…癒し系…」
 優也自身としては、微妙なラインだったらしい。複雑な表情をした優也は、少し首を傾げた。
 「なんだ、お前ら、まだいたのか」
 と、そこに、エントランスの方から蓮が声をかけてきた。
 振り返ると、バイクを押してきた蓮が、少し呆れたような顔でこちらを見ていた。どうやら、自分がバイクを取りに行っている間に2人はどこかへ出かけているものと思っていたらしい。
 「立ち話だけで日が暮れたら、シャレになんないぞ」
 「ハ…ハハ、う、うん、わかってる」
 引きつった笑いを見せる優也に、蓮は一瞬苦笑を浮かべ、小脇に抱えていたフルフェイスのヘルメットを被った。そして、2人が見守る中、颯爽とバイクに乗って走り去ってしまった。
 あっという間に遠くなるエンジン音が、会話の邪魔にならないレベルになると同時に、優也はバツが悪そうに眼鏡を直しつつ、理加子をチラリと見た。
 「…どうしよう?」
 「…あたしは、何でもいいけど」
 「じゃあ、やっぱり間が持ちそうにないから、どっかに行くんでもいいかな? 行きたい所とか、見たいものとか、ある?」
 行きたい所…見たいもの…。
 暫し考えを巡らせた理加子は、ふと、今日ここに来る電車の中で見た、映画雑誌の広告を思い出した。
 「あ、映画、行きたい」

 反射的に口にして、気づいた。
 そういえば―――映画なんて、もう何年も、見に行ったことがない。理加子が知る“映画”は、ビデオやDVDばかりだったのだ。


***


 「…あの…だ、大丈夫?」
 「ご…、ごめんなさい…っ」
 向かいの席に座る理加子は、ハンカチで涙を押さえつつ、また鼻をすすった。
 困った―――女の子の涙なんて、弱いとか強いとか言う前にまず経験が著しく乏しい優也は、この慣れない状況にとるべき態度が見つからず、ひたすらオロオロしていた。

 映画館を出て、少し歩いて、カフェというのか喫茶店というのか、とにかくお茶の飲める店に入って。
 時間にして、だいたい15分。この間ずっと、理加子の涙は、まるっきり止まる気配すら見せていない。
 そんなに泣ける映画だっただろうか、と、ついさっき見終わったばかりの映画を思い返してみるが―――まあ、確かに、最後は泣けるシーンの連続で優也もちょっとホロリときたりしたのだが、それにしたって、ここまで泣くほどのものではなかった気がする。優也の隣に座っていたOL風の女性だって、全然泣いていなかったし。いや、でも、前の方からすすり泣きが幾度か聞こえたりしていたから、人によってはツボに入るタイプの映画だったのかもしれない。
 「これでも、涙腺は弱い方だと思ってたんだけどなぁ…」
 これだけ理加子が泣いている映画で、自分はさほど泣けなかった、という事実が、ちょっとばかりショックだ。納得いかない、という顔で首を捻りつつ、カフェオレのカップを口に運んだ。
 「あ…あたしは、逆。自分がこんなに涙腺弱いなんて、全然知らなかった。やっぱり、テレビの画面で見るのとスクリーンで見るのとじゃ、感じ方も違うのかも…」
 ぐす、と、また鼻をすすりながらそう言って、理加子もティーカップを手に取った。さすが美少女、ボロボロに泣いても、美貌は少しも損なわれない。いや、普段がツン、とすまして見える分、泣いた顔は幼くなって、むしろ可愛さが増すくらいだ。
 「やっぱり、最後にヒロインが死んじゃうのが、泣けた理由?」
 「それもあるけど―――なんか、こう、せつなくて」
 2人が見た映画は、一般的には少々マイナーなフランスの映画で、ジャンルはバリバリ、恋愛映画だった。
 本当は両想いなのに、飽くまで友人という立場を貫き通す主人公と、プライドの高さから高飛車な態度を取ってばかりのヒロイン。社会的立場も外見も、明らかにミスマッチな2人だけれど、心は通い合っていた。途中、想いが通じ合いそうになる場面もあったのだが、最終的には、ヒロインが病に侵され、死んでしまう。残された手紙で、主人公はヒロインの気持ちを確かめる、といった場面で、映画は幕を閉じていた。
 「主人公もヒロインも、想い合ってるなら、それ以外のことなんてどうでもいいから、素直に気持ちを伝え合えばよかったのに。メンツとかそんなの、どうでもいいじゃない。主人公には、もっと強気で押してって欲しかったのに」
 「うーん…、でも、あの場合、仕方ないと思うなぁ…」
 ストーリーを思い返しつつ、優也は小さくため息をついた。
 「相手は自分より年上で、しかも既婚者で、結婚した相手は大金持ちで―――叶う訳ない、って思うのは当たり前だし、そう思ったら、せめていい友達でいたい、って思って友情を貫く態度を取る気持ち、僕にはよくわかるなぁ」
 「でも、ヒロインだって、時々、それとなく気持ちを伝えようとしてたじゃない?」
 「ああ…。だけど、それを“そういう意味”とは思えない、っていうか、思うのが怖いんだよなぁ、ああいう場合」
 「怖い?」
 「自分に都合のいい解釈をしてるんじゃないか、って気がして。もうちょっと“あり得る相手”なら、思わず本気にしちゃうかもしれないけど、あそこまで落差のある相手だと、最初から諦めてるっていうか、いい気になりそうな自分を抑制しちゃう、というか…」
 「―――なんだか、妙に、真に迫った感じね。それ」
 いつの間にか涙も止まったらしい理加子が、そう言って、眉をひそめる。その指摘に、優也は、うっ、と言葉に詰まった。
 「もしかして…優也にも経験がある、とか」
 「……」
 …そのとおり。
 映画を見ている間、優也はずっと、主人公に自分を、ヒロインに102号室の住人を―――由香理を重ねていた。
 憧れることしかできない相手。恋愛対象になど見てもらえなくて当然な相手。信じられないような展開で、あんな行為に及んでしまったりもしたけれど、一夜の出来事を都合よく解釈できるほど、優也は己を知らない人間ではなかった。
 由香理は自分を、弟か何かのように思ってくれている。それは、ある意味、優也が失恋した、ということなのだが―――それで十分だった。今も由香理に憧れる部分はあるが、恋は穏やかに、ゆっくりと、親しみや連帯感へと変わりつつある。それは、主人公が映画の後半部分で辿り着きかけた境地に、どことなく似ている。
 「…そっかぁ…、優也にも、そういう相手、いたんだ…」
 ほぅ、と息をつき、理加子は椅子に深くもたれかかった。理加子の言う「そういう相手」が、どういう相手を意味しているのかが微妙で、優也は慌ててカップを置いた。
 「い、いや、あの―――そういう相手、って、僕も主人公と同じで、ただ憧れてるだけの相手だから。そ、それに、実はもう失恋済みで…」
 「え、そうなの?」
 「…うん。とっくに。今では何ていうか…お姉さんと、弟?」
 きょうだいのいない優也なので、由香理に感じる親しみが「お姉ちゃん」に近いのかどうか、ちょっとわからないのだが―――他に表現のしようもなく、そう答える。
 ふぅん、と相槌を打った理加子だったが、ふいに、その表情が少し影を帯びた。一瞬、瞳を揺らした理加子は、僅かに眉を寄せ、声をひそめた。
 「…もしかして、咲夜さん?」
 「は?」
 「その、相手」
 咄嗟に、何のことか、理解できなかった。
 3秒、考える。そして、理加子の言う「相手」の意味を察し、慌てて首を振った。
 「じょ…っ、冗談でしょう…!? そ、それはないよ、いくらなんでも!」
 「ほんとに?」
 「勿論っ! な、なんでそんなこと考えたの!?」
 「……」
 理加子の頬が、だんだん、赤く染まる。口元に手を置いた理加子は、申し訳なさそうに視線を落とした。
 「ご…ごめんなさい、あたしったら…」
 「…いい、けど……なんで?」
 「……」
 理加子のローズ色の唇が、きつく引き結ばれる。その僅かな反応に気づき、優也は、何故理加子がこんな突拍子もないことを思いついたのか、なんとなく理解した。
 理由を口にさせるのは、酷かもしれない。優也は笑みを作り、置いてしまったティーカップを、再び手に取った。
 「ま、まあ、いいけど。誤解だってわかってくれれば」
 「…あたしって、ダメね、ほんとに」
 優也には全て勘付かれてしまった、と感じたのか、理加子は、優也が何も言わないのに、そんな風に呟いてため息をついた。
 「さっきもね、全然関係ない話で、つい咲夜さんの名前を出しちゃって、蓮に睨まれちゃった」
 蓮、と呼び捨てされた名前に、ドキリとする。自分も呼び捨てにされているし、仲間や友達は常に呼び捨てにしてきた、と理加子からも聞いているので、当然といえば当然なのだが……親友である自分が「穂積」と苗字で呼んでいるだけに、まだ出会って間もない理加子が蓮の名を呼ぶことに、どうしても動揺してしまう。
 「別に、嫉妬してるとか、そういうんじゃないけど―――優也とも蓮とも関わりのある人だし、なんか、どうしてもあの人には勝てない、っていう、劣等感みたいなのがあって、つい…」
 「…うん」
 理加子の気持ちは、なんとなく、わかる。
 つい2週間前、自覚したばかりの、奏への恋心―――自覚してしまった分、むしろ今までより、奏に対する気持ちは募っているのかもしれない。そんな奏が、大切な客である理加子を無慈悲なまでに拒否してでも、守ろうとしている人―――奏の、最愛の女性。彼女に対する理加子の劣等感は、2週間前以上に強いのだろう。特に、咲夜と理加子の間に、容姿の上でも中身の上でも、共通項と言えるようなものがほとんどないだけに。
 「まだ、暫く、時間はかかると思うけど…なんとか時期を見て、2人に謝れる機会を作れるように、僕も協力するから」
 優也がそう言うと、理加子は驚いたように目を上げ、それから、なんとも形容しがたい笑みを浮かべた。
 「…うん…、ありがとう」
 「……」

 こういう場面で、なんて綺麗な笑みなんだろう、と見惚れるのは、少々不謹慎な気もする。
 けれど、この笑顔に見惚れないなんて、無理だと思う。
 ただでさえ、理加子は、綺麗だ。まるで人形のように整った顔で、だけど、素の表情はちょっと子供っぽくて―――多分、理加子の容姿は、生まれてから今まで褒められることの方が断然多かったに違いない。
 でも、今、理加子が見せた笑みは、また別の意味で綺麗だった。大人っぽくて、儚くて……瞬きする間に消えてしまいそうな脆さを感じた。
 …ちょっと、困る。
 理加子は、友達だ。それ以上でもそれ以下でもなく、勿論優也には下心なんて一切ない。けれど…こんな笑顔を見せられてしまうと、つい、心臓がドキドキしてしまう。焦りを覚えた優也は、落ち着かない態度で、カフェオレをぐい、とあおった。

***

 それから暫く、2人は、今見た映画の感想などを述べ合いながら、時間を過ごした。
 既に外は暗く、時刻も7時近くなっていたので、ついでに食事も注文した。2人の前にハンバーグをメインとした夕食が並ぶ頃には、話題は映画の感想からそれ以外の範囲へと広がり始めていた。
 「優也は、よく見るの? ああいう映画」
 「うーん…あんまり。映画はたまーに見るけど、アクション物や社会派が多くなっちゃって、恋愛は…。男1人で恋愛映画見てる図、ってのも、ちょっと…」
 「蓮と一緒なら?」
 「…男2人で恋愛モノ見てる方が、男1人より変な感じがしない?」
 「…それもそうね」
 「理加子さんは? よく見るの?」
 「ううん、あんまり。映画自体ほとんど見ないし、暇な時借りるのは、どうしても、テレビでよくCMやってるハリウッドの大作になっちゃうし…」
 「じゃあ、今日、あの映画を選んだのって、珍しいことなんだ」
 「面倒だし情報を仕入れてないから見ないけど、恋愛モノそのものは、本当は結構好きなの。漫画とか小説は、逆に、恋愛モノばっかり読んでるもの」
 話の流れで理加子が口にした言葉に、本好きな優也の本能が反応した。
 「恋愛モノの小説なら、僕もよく読むよ」
 「ホント?」
 「うん。本好きで、ジャンル問わずに読みまくってるから」
 「あたしは、本も漫画もあんまり読まない方だけど、好きな恋愛モノだけ選んで読んでる、って感じ」
 「たとえば、どんなの?」
 「んーとね…、最近読んではまっちゃったのは、海原真理の“暁坂トライアングル”」
 危うく、口に入れかけていたサラダを、盛大に吹き出すところだった。
 「…へ…へえ、そうなんだ。海原真理かー…」
 努めて平静を保とうとしたが、つい声が裏返ってしまう。当然、理加子は怪訝そうな顔をした。
 「変? 結構人気あると思うんだけど」
 「い、いや、全然変じゃないよ、全然っ。僕も結構好きだし、何冊も持ってるし」
 ―――ついでに、隣の隣に住んでるし。本人が。
 と言いそうになるのを、辛うじて抑える。別に知られてまずい話でもないが、不用意に広めてもいい話でもないだろう。ジワリと滲んでくる冷や汗を誤魔化そうと、優也はせっせと、ハンバーグやサラダを口に運んだ。


 それからも、食事をしながら、色々なことを話した。
 最近読んだ本のこと、日頃買っている雑誌のこと、好きな音楽のこと―――そのどれもが、優也と理加子ではあまりにも食い違っているのだが、自分が日頃全く接することのないジャンルの話に、お互い興味深い様子で耳を傾けた。
 ―――つくづく、対照的すぎるよなぁ…。
 改めて、自分と理加子を見つめ直し、そう思う。
 そもそも、外見からして、まるで釣り合いが取れていない。一般人の中でも特に埋没してしまいそうな、平凡以下な自分。比べて理加子は、プロのモデル―――店内でもひときわ目立ち、まるで別の人種のように浮き立っている。この店に入ってからというもの、何度となく、周囲からの視線を痛いほどに感じた。その視線はどれも、明らかにアンバランスな優也と理加子の容姿に、なんでこの2人が一緒にいるんだ? とあからさまに言っていた。
 そして、中身の方も、対照的。ファッション雑誌を何冊も購入し、ハッピーエンドな恋愛モノが大好きで、ここ数年、若者の間では絶大な人気を誇っている女性アーティストの歌がカラオケの十八番だという理加子。比べて優也は、購入する本の大半が技術関係と文芸関係で、小説や漫画も硬い内容のものが多く、好きな音楽はちょっと懐かしめのフォーク系で、カラオケは大の苦手だ。
 こんなにも、噛み合わない2人。
 なのに……不思議と優也は、居心地の悪さといったものを、ほとんど感じなかった。
 確かに、周囲から向けられる嫉妬とも失望ともつかない視線には少々胸が痛んだが、理加子との会話は面白かったし、蓮と話す時とはまた別の新鮮さがある。間が持たないんじゃないか、と心配していた割に、2人の会話は、思いのほか弾んだ。
 もしかしたら、対照的だからこそ、弾んでいるのかもしれない。
 自分の知らない世界に住む相手だからこそ、興味がある。想像のつかない世界だからこそ、話を聞きたくなる。理加子が、自分とはまるで違う人間であったことは、むしろラッキーなことなのかもしれない、と優也は思った。


 「ああ、思い切って、来て良かった」
 店を出て、最寄の駅へ向かう道すがら、理加子が大きく息を吐き出しながら、そう言った。
 「ほんとは、“友達になる”って言ってくれた優也の言葉、どこまで本気に取っていいんだろう? って、ずっと迷ってたの。同情した勢いで言ったんだとしたら、いきなり訪ねてきたら迷惑がるんじゃないか、と思って」
 「まさか」
 思わず苦笑する。蓮が今の理加子の言葉を聞いたら、絶対笑うだろう。来ないなぁ、やっぱり迷惑な申し出だったのかなぁ、とソワソワしていた優也を、一番間近で見ていたのは、蓮なのだから。
 「また、来てもいい?」
 少し心配そうに、理加子が眉根を寄せる。
 優也の今日の態度は、どう見たって、理加子が来てくれたことを喜んでいたのに―――とことん、人間関係には自信がないらしい。でも、そんな風に自信なさげになってしまう気持ちを、同じく人間関係に臆病なタイプの優也は、よく理解できた。
 「いいよ。って言うより、僕の方から“是非また来て”って言うのが筋な気がするなぁ…」
 「…本当?」
 「うん」
 「よかった」
 花がほころぶみたいな笑みが、理加子の顔に広がる。
 その笑顔は、お人形と称される「姫川リカ」の顔ではなく、血の通った女の子の顔―――「姫川理加子」の顔だった。


 ―――それにしても…不思議だよなぁ…。
 理加子と別れ、アパートへと帰りながら、優也は、今日の自分自身を思い返し、つくづく首を捻った。
 はっきり言って、自分という人間は、女性全般に対する免疫が激しく不足しているタイプだと思う。女の子と付き合った経験なんてゼロだし、それどころか、親しくなった経験すらない。女性の前に行くと、緊張のあまり声が震えたりどもったりすることも多い。それでも、1人きりなら仕方ないので何とかするが、誰かと一緒なら、相手に丸投げで自分はひたすら黙ってる道を選ぶのが常だ。もっとも、その相手が蓮だと、蓮のあまりの無口ぶりに、優也の方がフォローする側に回ってしまうことが多いのだが。
 とにかく、女性で、優也の日常生活ではあり得ないレベルの美少女で、しかもほとんど初対面に近い相手だった訳だ。理加子は。
 …本来の優也なら、絶対、パニックになっていたに違いない。パニックにならずとも、緊張のあまり、何も話せないまま終わっていてもおかしくない。なのに―――…。
 ―――勿論、緊張はしたし、穂積抜きで2人きりなんてどうしよう、って頭が真っ白になりかけたけど……案外、普通に振舞えたよなぁ…。
 理加子の方が遠慮がちだったせいだろうか? それとも、あまりに理加子が非日常的な美少女すぎて、かえって現実味がなくて平静でいられた、ということなのだろうか? 色々と理由を考えてはみるが、どれもいまいちピンとくるものではなかった。

 …友永さんのおかげ、かな。
 ふと、そんなことを思う。
 ただ見つめるだけの恋だと思っていた。自分とは別世界の、手の届かない所にいる人だと思っていた。
 なのに―――あの日、思いがけず、由香理の弱さや哀しさに触れた。颯爽とヒールを鳴らしながら歩く由香理が、その裏で、自分とさして違わない劣等感や不安、焦燥を抱えながら生きていることを知った。
 年下で、まだ学生で、しかもこんなに頼りない自分に、由香理は、他人には見せなかった素顔を晒してくれた。それだけでなく、感謝の言葉まで贈ってくれた。
 あの一連の出来事で、それまで「こんな自分はダメだ」と思い込んでいた優也が、少しだけ、変わった。
 ほんのちょっとだけ、自信が持てた気がする。「こんな自分」が、由香理にとって救いとなったのであれば―――「こんな自分」のままでも、いいのではないか、と。
 やっぱり、友永さんを好きになって、よかった―――改めて由香理のことを思い、優也はそっと口元に笑みを浮かべた。

 ―――でも、結構楽しかったなぁ…。女の子と2人なんて、気詰まりで遊びに行った気がしないんじゃないか、なんて穂積と話してたんだけど…案外、そうでもないかも。映画見たり、お茶したり、食事したり、穂積と遊びに行く時とそんなに変わらないんじゃないかな? ちょっと浮き足立ちそうになるとこもあるけど、退屈とか窮屈とか、そういうとこは全然―――…。

 そこまで考えて、はた、と気づいた。

 女の子と、2人きり。
 …これって、一般的に、デート、と呼ぶのだろうか?
 「……」
 途端―――優也の顔が、みるみる赤くなった。

 「優也君―――…!」
 「……っ!」
 その時、背後から、やたら聞き覚えのある声が飛んできた。
 うろたえ、振り返った優也の目に飛び込んできたのは、ついさっきまで考えていた人―――由香理の姿だった。


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