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― Love and Peace ―

 

 おめでたい日のスピーチには、いくつかの使い古された表現がある。

 「えー、古来から“雨降って地固まる”と申しまして…」

 すだれ頭をした中年男性が切り出した一言を聞いて、これが噂の「雨降って地固まる」か、と、蓮は変なところに感心してしまった。
 大安吉日にこだわる兄と、“ナイトウエディング”とやらに憧れる和美の結婚式は、大安の金曜日のアフターファイブに行われた。新郎新婦のこだわりどころが見事クリアされた日取りだが、天気ばかりはどうしようもない。屋外を使った演出もあると聞いて心配したが、さすがは結婚式場、悪天候の場合でも大丈夫なように準備してあるらしく、式も披露宴も滞りなく進んでいる。
 ―――それにしても…。
 兄の上司のスピーチに一応耳を傾けつつ、高砂席に目を向ける。そこには、結婚式の時の衣装のまま座る、新郎新婦の姿があった。
 白のタキシードを着た兄は、正直、「いつもどおり」としか言いようがない。元々スーツの似合う男なのだ。当然のように、タキシードも似合っている。変に固めた髪型に違和感はあるものの、なかなか堂々とした花婿姿と言えるだろう。
 そして、純白のウエディングドレス姿の和美は……ここは、幼馴染としても、また義弟としても、「馬子にも衣装」位のことは言ってやるべきなのだろうけれど。
 ―――…困った。罰ゲームにしか見えない。
 なのに、親族や友人・関係者各位は、口を揃えて「綺麗」だと言うのだ。当然、めでたい席でのご祝儀評価だろうが、それでも、彼らの正直な評価からも自分の評価は飛び抜けてしまっていることは、蓮にもわかる。一応、世間的には女にしか見えないであろう和美を見て、男が女装しているかのような違和感を覚えるなんて、いくらなんでも蓮だけだろうから。
 そもそも、こうなってもなお、兄が和美のどこに惹かれているのか、全然わからない。俺って目が悪いのかなぁ―――すだれ頭に拍手を送りながら、蓮はそんな方向違いなことをぼんやり考えていた。

 「式の間は随分緊張してたみたいだけど、やっとリラックスしてきたみたいね」
 一通りのスピーチなどが済み、「ご自由にご歓談下さい」という時間帯になると、隣に座っていた和美の姉・苑美が、和美を眺めながら、蓮に向かってそう言った。
 新郎新婦の家族6名は、1つのテーブルにまとめられていたのだが、歓談タイムになると、親4名は席を立ち、親戚らにお酌をしに行ってしまった。あまり付き合いのない苑美と2人きりで残され、蓮としては少々気まずかったのだが、それは苑美の方も同じなのだろう。随分唐突に話しかけてきた。
 「昨日なんて、久々に実家に帰ってきたせいもあって、夕飯が半分も食べられなかったのよ。要君はどうだった?」
 「…いや、俺、昨日は会ってないから」
 「あ…、そういえば蓮ちゃん、今は一人暮らしなのよね」
 “蓮ちゃん”。
 ぐ、と、飲みかけていた白ワインでむせそうになる。そういえば、和美以外の和美の家族は、昔から蓮を“ちゃん”付けで呼ぶ。一番年下というせいもあるし、成長が遅く小柄だったせいもあるだろう。久々に耳にした呼び名に、蓮は僅かに顔を引きつらせた。
 「せっかく自宅から通える大学なのに…。大変じゃない? 家事とか」
 眉をひそめてそう言う苑美は、イタリアンレストランで修行中ではあるが、現在も自宅通いだ。自らは調理師で、なおかつ、和美という家事が絶望的に不得手な妹を持っているのだから、蓮に家事なんてできるのか、と心配するのも当然かもしれない。
 「別に、そうでもない…かな」
 「ホントに? 和美なんて、じゃがいも1個剥くのに、今でも7分かかるわよ」
 ―――よりによって、和美と比較されても…。
 でも、実際のところ、女子高から調理師専門学校、レストラン勤務、というコースを辿っている苑美にとって、料理ができそうにない一人暮らしの知人男性は、蓮くらいのものだろう。料理で苦労している一番身近な存在である和美と比較するのは、至極自然なのかもしれない。
 「…うちは、共働きだから」
 自慢できるほどの腕前でもないが、和美以下と思われるのは不本意なので、答えた。
 「実家いる時から、自分のことは自分で、って感じだったから、一人暮らしでもあんまり違いがないかも」
 「ああ、そういえば、蓮ちゃんは物心ついた時から共働きだものね。ふぅん…要君との違いって、そこからくるのかもね」
 要と同い年であり、また幼い頃は要の友達でもあった苑美なので、要に対する見方も、実情に近い「意外に甘えん坊」というものらしい。
 ―――なのに、ご近所の大人はみんな、「よく手伝いをするしっかりした子供」だったんだよな。
 何故ならそれは、蓮が食事の後片付けやアイロンかけを手伝ったのに対し、要はごみ捨てや買い物といった外に出る手伝いをしていたから。よって、本当は、家事の類は全滅である。
 ちなみに、母が本格的に税理士として外に働きに出るようになったのは、蓮を保育所に預けることができたからである。それまでは、時々古巣の事務所の仕事を在宅で手伝っていた程度だったので、要の視点で見ると、家にいた母親が小学校低学年の時に働きに出るようになった、という感じだ。同じ家に育ったのに、寂しがりでワンマンな要と、淡々として1人が平気な蓮とに分かれたのは、「三つ子の魂百まで」の諺のとおり、多分、性格の基礎を築いた時期にどう育ったかの違いなのだろう。
 「うちはお母さんが専業主婦だったし、和美を甘やかし放題だったから、家事がダメで当たり前ね」
 「苑美さんが鍛えてやれば」
 プロなんだし、という目で蓮が流し見ると、苑美は軽くため息をつき、呟いた。
 「そうねぇ…。本人がその気になってくれれば、ね」
 …まあ、無理だろう。決して姉妹仲が悪い訳ではないが、和美は苑美に膨大なコンプレックスを抱いている。自分が一番苦手とする分野を、その分野のプロである苑美から教わるなんて、和美を余計に卑屈にさせるだけだ。

 「苑美ちゃん」
 話が途切れ、蓮も苑美も自分の食事に箸を伸ばしているところに、ちょうど苑美と同じくらいの年齢の男性が、2人のテーブルへとやって来た。
 「ごめん、ちょっと確認。…イトコ一同の花束渡すのって、どのタイミングだっけ?」
 「え? ええと…ドラジェサービス終わって、和美たちが席着いたら、だったと思うけど」
 親戚の紹介のようなセレモニーがなかったのでわからなかったが、どうやら、苑美と和美の従兄弟らしい。両家とも、親族の大半は親世代が出席しているようだが、穂積家側でも、親世代の都合がつかず、従兄弟夫婦が出席している家族が1組ある。彼もそういう事情なのか、もしくは、和美と特別仲のいい従兄弟なのかもしれない。
 それにしても、イトコ一同の花束贈呈とは、初耳だ。箸を置いた蓮は、従兄弟氏に目で断りを入れつつ、苑美に訊ねた。
 「花束、って?」
 「ああ…、実は、和美が一番仲良くしてる従姉妹が出席できなくて残念がってたから、面倒見のいい一番上の従兄弟が音頭を取って、和美には内緒でイトコ一同で花束贈ろう、ってことになったの」
 「へぇ…」
 「司会者さんに、確認してみたら」
 苑美がそうアドバイスすると、従兄弟の彼は「うん」と一度頷き、それから意味深な笑みを浮かべて腰を屈めた。
 「けど―――びっくりしたよ。式の時は気づかなかったけど、新郎って、苑美ちゃんの初恋の君じゃん。なんで秘密にしてたんだよ」
 「え…っ」
 苑美ではなく、蓮の目が丸くなる。思わず小さな声をあげる蓮をよそに、当の苑美は苦笑気味だ。
 「やだ、そんな大昔の話、よく覚えてたわね」
 「理解に苦しむよなぁ。苑美ちゃんもいるのに、和美に惚れるなんて」
 「人の好みは、それぞれでしょう。…あ、ほら、司会者さん、戻って来てるわよ」
 苑美に指摘され、従兄弟は「あ、ほんとだ」と言って去って行った。去り際、蓮にちょっと申し訳なさそうな笑顔を送ったのは、弟の目の前で兄のことを「理解に苦しむ」などと言ってしまったからなのかもしれない。
 いや、理解に苦しむ点では、蓮も同意見だ。問題はそこじゃなく―――…。
 「…苑美さん…」
 呆然とした声で蓮が呟くと、苑美はクスクス笑い、唇の前で人差し指を立ててみせた。
 「2人には、黙っててね」
 「…知らないんだ、2人とも」
 「だって、中学卒業から高1の夏くらいまでの、短期間の初恋だもの。恋に恋してた時期に、身近にいた男の子が、たまたま要君だっただけよ。男は女を守るものだ、女より強くあるべきだ、女は家庭を守るものだ、男より慎ましくあるべきだ―――っていう主義の要君に気づいちゃったら、仕事に夢を持ってる私みたいなタイプには、絶対無理」
 そう言うと、苑美は高砂席に目をやった。そこではちょうど、要の同僚が集団で押しかけてきていて、和美も巻き込んで俄か記念撮影会の様相を呈している。
 「その点和美は、要君にピッタリよ。価値観が同じだもの」
 「価値観?」
 「女らしくない、ってコンプレックスの裏返しなのか、和美自身が一番、“女はこうあるべき”って理想を持ってるのよ。男に守られて、可愛い可愛いされて生きたいから、寿退社も当たり前だし、1歩下がって男に従うのも当たり前―――要君も、そういう和美のいじらしい部分が好きなんじゃないかしら」
 「……」

 ―――価値観、か。
 確かに要は、典型的な封建的思想の持ち主で、苑美のように仕事に生き甲斐を感じているタイプの女性には、男尊女卑ととられかねない部分が多々ある。蓮も、どちらかというと、兄のそうした部分に批判的な方だ。
 でも、和美の視点に立ってみると、そこが一番、自分のフィーリングと合っているところ、なのかもしれない。
 じゃがいも1個に7分かける和美を見て、蓮なら「努力が足りない」とイライラするところを、兄は「俺のために一生懸命頑張ってくれている」と感じ、いじらしく思うのかもしれない。兄が嫌がるから、と陸上を辞めたことも、蓮から言わせれば「自分のない情けない奴」だが、兄から見れば「恋人を優先するけなげな子」なのだろう。
 和美自身も、男勝りだった子供時代を懐かしがってはいるが、現在の行動パターンは明らかに「男に従う」であり、それを「自発的に」やっている。兄に強制されている訳ではなく、全て、今の和美にとっての自然な行動として。
 蓮の目にはどれほどバカな選択と映っていても、苑美の目にはどれほど横暴な要求と映っていても、兄にとって愛しい選択であり、和美にとって心地よい要求であるなら、それが「2人にとっての正解」―――幸福、なのだろう。

 と、ちょうどそこに、次の料理が運ばれてきた。和洋折衷コース、とやらを選んだ、と兄から聞かされていたので驚きはしないが、お造りの後にテリーヌが出てくる、というのは、結構妙な感じだ。
 先ほどから、新しい料理が運ばれてくるたび、職業病丸出しでしげしげと料理を凝視してばかりいる苑美は、案の定、目の前に置かれた鴨だか鶏だかのテリーヌを、目を皿のようにして見つめた。ジャンルは違えども、料理人として興味津々なのだろう。
 ―――確かに、兄貴と苑美さんだと、見た目はお似合いだけど、実情はもの凄く不幸そうだな。
 と思ったら、理解できなかった兄と和美の結婚も、至極自然なものに思えてきた。
 どうやら、思いのほか早く、和美を家族の一員として受け入れることができそうで―――内心、ちょっとだけホッとした。
 「ところで、蓮ちゃんは?」
 テリーヌを食べようとフォークを手にしたら、突如、苑美からそう訊ねられた。
 は? という顔を蓮が返すと、苑美は悪戯めいた笑みを蓮に向けた。
 「一人暮らしもしてることだし、そろそろ彼女いてもおかしくないかな、って」
 「…いないって、そんなの」
 思わず、不機嫌な声になってしまう。それをどういう意味に解釈したのか、苑美は少し眉をひそめた。
 「そうなの? また蓮ちゃんのことだから、女の子の前でもこわーい顔しちゃってるんじゃないの? 女の子と付き合うなら、もうちょっと愛想よくしないと」
 「いらないし。彼女なんて」
 あっさりそう言い放ち、蓮は、テリーヌにフォークを突き立てた。
 その語調が、あまりにも「そんな話はしたくない」と拒絶しているように聞こえたので、苑美も反射的に口を閉じてしまった。

 それは、苑美にとっては、子供の頃から時折、見かけた光景で。
 だから、この話題は多分、蓮にとっては辛い話なのだろう、と―――“いらない”と言うしかない事情が何かあるのだろう、と感じて、それ以上、口にすることができなかった。


***


 「あれ、友永さん」
 「……あ、」
 雨を避け、エレベーターホールで佇んでいた由香里は、もう少し上で待っていればよかった、と少し後悔した。
 「どうしたの、こんな所で」
 折り畳み傘を鞄から引っ張り出しつつ、河原が明るく訊ねる。普段の河原と、何ひとつ変わらない態度―――だから、由香里は戸惑いながらも、つい笑顔を返してしまう。
 「智恵、待ってるの。食事行く約束してるから。河原君は?」
 「取引先に行って、そのまま直帰なんだ」
 「これから客先? 大変ねぇ」
 「先方がこの時間にしかいなくてさ。まあ、残業になるのはお互い様だから」
 「やっぱり営業って定時退社とはなかなかいかないのね」
 「うーん…時期にもよるけどね。今は、仕入れ相場が不安定で、毎日交渉交渉の連続で、結構キツイ時期かな。友永さんにとっての、給料日前や月末月初みたいなもん?」
 「うちは定期的に来るからいいけど、相場の動き次第ってのも、予定立て難くて辛いもんがあるわね」
 と言っている間にも、会社の人間がゾロゾロとエレベーターを下り、エントランスを抜けて行く。中には顔見知りもいるので、2人の会話の合間合間には「あ、お疲れ様です」というお辞儀が何度か挟まれた。
 ―――ほんと、拍子抜けする位、いつもどおりなのよね…。
 あまりにいつもどおりなので、つい、由香里も忘れてしまいそうになる。
 そして、忘れてしまいそうになる自分に気づいて―――自己嫌悪する。
 「河原君、連休はスキーだったわよね」
 「そう。ちょっと憂鬱だけどね。連中、上級者ばっかりだから。去年はいきなりハードなコース行かされて、山頂から転げ落ちそうになったし…。もうちょっと優しい奴らなら、友永さんたち誘えたんだけどなぁ」
 「ふふ…、ごめんね。詩織ともども、長野出身なのに初級者レベルで」
 「由香里ー」
 そろそろ長話もまずいかな、と思い始めたちょうどそのタイミングで、智恵が下りてきた。小走りに近づいてくる智恵に、由香里は手を挙げ、河原はニコリと笑顔を返した。
 「じゃ、また週明けに。智恵さんとごゆっくり」
 「あ、うん。お疲れ様」
 言うが早いか、河原はクルリと踵を返すと、自動ドアを抜け、パッと長傘を開いた。客との約束の時間が迫っているのだろう、客先へと向かう彼の足取りは、明らかに急ぎ足だった。
 それでも、立ち止まって、由香里と話してくれたのか―――そう思うと、胃の奥の方が、なんだかズシリと重くなった。


 「…で? 返事はした訳?」
 突き出しの品に箸をつけながら、智恵が回答を予見したかのような口調で訊ねた。
 当然、智恵の予想どおりの答えである。気まずさに視線を落としつつ、由香里は首を横に振った。
 「ちょっとー、もう年明けて9日よ? いくら河原が催促しないからって」
 「…わかってる。わかってるから、そんな大きなため息つかないでよ」
 あれは、クリスマスに起きたこと。
 ということは、2週間―――もう2週間も経つ訳だ。「結婚を前提に付き合ってもらえないか」……その返事を、保留にしてから。

 ただ単純に付き合うことすら、考えたこともなかった。なのに、結婚前提、なんて―――実際にその言葉を聞いてもなお、信じられなかった。そんな状態で、返事などできる筈もない。だから由香里の答えは、「暫く考えさせて」だった。
 そんな由香里に、河原は「返事は急いでないから」と言った。「これまでどおり、友達付き合いは続けたいから、その中で、気持ちが決まった時に返事してくれれば、それでいいから」と。
 そして事実、あの日以降も、由香里に対して今までどおりの態度で接してくれている。一瞬、あの告白は幻だったのではないか、と錯覚してしまうほどに。

 「どの辺で迷ってるのか、理解に苦しむなぁ」
 また盛大にため息をつきつつ、智恵が首を振る。
 「学歴・勤務先共に文句なし、社内成績も良好、生活面の問題点もなく、本人同士の気も合っている―――それ以上、何を望んでるの? ルックス?」
 「…ルックスも、嫌いじゃないわよ。いわゆるカッコイイタイプとは違うけど、清潔感があって誠実そうで、ちょっと可愛いところもあるもの。好ましい方だと思うわ」
 「じゃあ、何よ」
 「何、って…」
 ―――それがわかれば、苦労しないわよ。
 河原に何が足りない訳でもない。なのに、「はい」の一言が言えない。どうしてなのか、わかる人がいるなら、教えて欲しい。自分のことなのに、自分でも理由をわかりかねているのだから。
 「1年前の由香里なら、大喜びでオッケーしそうなものだけどね。あの頃言ってた結婚条件、全部クリアしてるじゃないの」
 「……」
 「その上、男見る目が鍛えられた“今”の由香里にとっても、悪い相手じゃないよね。ていうか、理想的じゃない? 恋愛感情とはまだ違うかもしれないけど、由香里だって河原のことは好きな訳だし」
 「そりゃ…好きは、好き、だけど…でも、結婚前提って言われると、そう生半可な“好き”程度でオッケーする訳にもいかないじゃない」
 「はぁ?」
 由香里の返答に、智恵は心底呆れたような声を上げた。
 「何言ってるの。ただの一時的な感情でくっついたり離れたりする恋人じゃなく、真剣に将来を考える相手だからこそ、河原はお勧めだ、って言ってるんじゃないの」
 「え?」
 「あのねぇ、由香里」
 パチン、と箸を置いた智恵は、オーバーな位にため息をつき、まるで子供を諭すみたいに説明を始めた。
 「私は、男の財力に頼る気ゼロだから、学歴だの勤務先のランクだのにこだわってた、あんたの“玉の輿願望”には、共感できない。けどね、“恋愛と結婚は別物”っていう意見には、大賛成。恋愛で重要なのは恋愛感情の大きさかもしれないけど、結婚に必要なのは“長年一緒に暮らしていけるかどうか”だもの」
 「……」
 「生活するにはお金がいる、だから無職より働いてる人がいい。安定した暮らしを持続するなら、当然、より安定した企業で、より良い成果を挙げている人がいい―――高学歴・高収入狙い、なんて言うといやらしく聞こえるけど、“一生を安心して添い遂げるパートナー選び”という視点で考えてみたら、至極まともな考えだと思うわよ。生活が不安定になれば夫婦間もぎくしゃくするし、逆に豊かになれば、心に余裕もできる。何十年も続くことだからこそ、足元のしっかりした人の方がいいに決まってるじゃない」
 「…うん」
 「極論を言えば、セックスするのが苦痛でない程度の好意があれば、恋愛感情なんてさほど必要ない訳よ。事実、恋愛感情で結婚に突っ走って、今になって“ときめきがない”とか言い出して、セックスレス夫婦になっちゃってるカップルが大量にいるじゃない。いずれ冷める恋愛感情より、人間愛を深めていける相手かどうか、ってとこが重要な訳よ。わかる?」
 力説され、慌てて頷いた由香里は、内心、なんとも言えない気分になった。
 いや、勿論、智恵の意見はもっともだ。由香里だってそう思う。が、智恵がやけに力説しているのは、自分の母親を反面教師にしているからだ、と、由香里は知っている。智恵曰く、熱烈な恋愛結婚をし、けれど10年弱で冷め、子供らも成人したから離婚したいけれど、今更女1人で食べていけるだけの働き口がないから、惰性で結婚を継続しているのだそうだ。
 ―――惰性だけじゃあないと、思うんだけどね…。
 長年連れ添った情だとか、それこそ人間愛のようなものが多少はあるから、離婚しないのだと思うのだが、やはり第三者と娘とでは見方が違う。いざ離婚時に自立できるだけの資金も持っていない女にはならないぞ、という訳で、智恵はバリバリ働く道を選んだのだから、なかなかに智恵の母も罪作りである。
 「そこで、河原よ」
 「…河原君なら、長年安定した生活を送るための条件もバッチリだし、性格もいいから、恋愛感情が薄くても上手くいく、ってこと?」
 「まあ、簡単に言っちゃうとそうなるけど―――何より大きいのは、由香里、あんたよ」
 「私?」
 「河原といる時の由香里、いつも自然体だから」
 「……」
 「気負ったりカッコつけたりムキになったりしない、ありのままの由香里でいられるって、最大重要事項じゃない? 自分を飾らなきゃいけない相手となんて、長続きしないじゃない」
 それは―――そうなのだ、けれど。
 けれど…何、なのだろう? 河原の人柄や肩書きにひっかかっている訳じゃないから、いくら説明されても、気持ちは晴れない。何に自分がひっかかっているのか、そこがわからないから、困っているのだ。
 反論できず黙り込む由香里に、智恵も、一方的に意見を押し付け過ぎた、と思ったのだろう。
 「…ま、理屈ではそうなるけど、人間の感情は、理屈じゃ説明つかない部分、いっぱいあるものね」
 とフォローを入れた。が、フォローだけでは終わらず、こうも付け加えた。
 「でも―――何も、結婚しよう、て言われた訳じゃなし。飽くまで“前提にしたお付き合い”なんだから、試しに付き合ってみるのも、悪くないと思うけどね」
 「えぇー…、試しに、なんて、なんかいい加減ぽくて、河原君に悪くない?」
 「催促ないのをいいことに、2週間も返答保留も、河原君に悪くない?」
 …むか。
 由香里の言葉だけじゃなく口調までも真似する智恵に、思わず眉をつり上げる。が、智恵と喧嘩をする気もないので、由香里は口を尖らせつつも、大人しく突き出しに箸をつけた。
 「もー、イライラするなぁ。成長したのはいいことだけど、決断力と思い切りの良さは、前の方が良かったわよ」
 せっかく由香里が大人な対応をしたのに、智恵はまだ文句を言っている。よほどイライラが募っているのだろう。勿論、智恵が苛立つ気持ちもわかるが、そこまでイラつかれる覚えもない。さすがに由香里も露骨にムッとした顔になった。
 「なんで他人の智恵がそんなにイライラするのよ。河原君自身が“返事は急がない”って言ってるんだから、河原君が待ってくれてる以上、どれだけ悩もうが、私の自由でしょ」
 由香里のその言葉に、智恵の箸が一瞬、ピタリと止まった。気まずそうに瞳を揺らした智恵は、反省したのか、視線を少し落とした。
 「…まあ、そうなんだけどさ」
 「……」
 「でも、見た目がああなんで、のほほん系だと思われがちだけど、河原って結構、自分からどんどん引っ張ってくタイプだと思うよ。由香里も、きつく見られがちだけど、本当はついていく、尽くすタイプだと思う。誤解されやすい同士が上手いこと出会えたってのに、引っ張りかねてる河原や二の足踏んでる由香里見ると、イライラする訳よ。そうやってウダウダしてるうちに…」
 「うちに?」
 眉をひそめる由香里に、智恵は、次の言葉を今にも発しそうな顔のまま、暫し沈黙した。が、結局、
 「…ま、とりあえず、前向きに考えてやんなさい。お似合いなのは保障するから」
 と、いまいち前後の繋がりのわかり難いまとめ方をした。
 ―――ウダウダと二の足踏んでるうちに……そのうちに、どうなる、っていうのよ?
 珍しくはっきり言わない智恵が気になったが、これ以上、智恵との間の空気が悪くなるのはごめんだ。智恵が他の話題を振ってくれたのを機に、由香里も二度と、河原との話は口にしなかった。

***

 「あれ…」
 改札を出たところで、なんだか見覚えのある後姿を見つけ、由香里はその背中に向かって小走りに駆け寄った。
 「優也君」
 「えっ」
 ビックリしたように振り返った優也は、由香里の顔を見て、ああ友永さんか、という笑顔になった。
 「あ…、どうも、こんばんは」
 「バイト帰り?」
 「いえ、友達のとこからの帰りです」
 「…もしかして、例の、ガールフレンド?」
 以前、映画を見に行ったという女の子の話を思い出し、訊いてみる。案の定、優也は困ったような笑顔になり、意味もなく眼鏡を直したりした。
 「え、ええ、まあ」
 「へー、家に遊びに行ったりするの。随分仲良くなったじゃない」
 「え? あ、いや、そうじゃないんです」
 慌てて首をぶんぶん振った優也は、由香里の目を見て話し難いのか、歩く自分のつま先あたりに目を落とした。
 「年末年始、全然連絡つかなかったんで、心配してたら、昨日やっと電話がかかってきたんです。なんでも年明け早々酷い風邪ひいて、昨日まで寝てたんだ、って。親元で暮らしてるけど、共働きで留守がちなんで、様子を見にお見舞いに」
 「あらら…、そうだったの。で、大丈夫だったの?」
 「もうすぐ大事な仕事控えてるから、万全の体調にしておかなきゃいけないのに、って焦ってました。まあ、熱も下がったし、咳も収まってたんで、あの分なら大丈夫だと思いますけど」
 そう言ってため息をつく優也の顔は、悪天候なのに登山を決行した大学時代の友人を心配していた時の河原の横顔と、どことなく似ている。
 心配している相手は、片や異性、片やむさくるしい同性―――けれど、どちらも“大事な友達”。この顔は、明らかに、純粋に親友を心配している“だけ”の顔だ。
 「…ねえ、優也君。ひとつ、訊いていい?」
 隣を歩く優也の横顔にそう言うと、優也は心配顔をキョトンとした顔に変え、由香里の方を見た。
 「? なんですか?」
 「うん。その…飽くまで、もしそんなことがあったら、っていう、仮の話だけどね」
 「はい…?」
 「もし、その友達から、“友達じゃなく彼氏になって欲しい”って言われたら……優也君なら、どうする?」
 由香里の質問に、優也は、眼鏡の奥の目を目一杯見開き、とんでもない、とでも言いたげな顔をした。
 「そ…っ、そんなの、絶対あり得ませんよ!」
 「だから、そのあり得ないことが“もし”起きたら、よ。“もし”いきなり億万長者になったら、と同じ。考えてもみなかった事態に出くわしたらどうする? って話よ」
 「ええぇ……う、うーん…いや、でも……うー…」
 “もし”だとわかっていても、具体的に想像するのが無理なのだろう。優也は、落ち着かなく上を向いたり頭を掻いたりしながら、意味不明な言葉をしきりに唸った。
 「じゃあ、もし彼女が、まだ友達になる前の、知り合い程度の付き合いの人だったら?」
 「…うーん…それだったら、とりあえず、OKする、かなぁ…」
 「付き合ってみる?」
 「あんな美少女から告白されるなんて、多分一生に一度しかないような出来事だから、もったいないし、それに、僕程度の顔が断ったりするのは、なんかおこがましい気が…」
 「そんなに可愛い子なんだ」
 「はあ。性格については賛否両論あるんですけど、外見は、よほどおかしな趣味の人でない限り、“美少女”って認識できると思います」
 一体どういう経緯でそんな美少女と知り合いになったのか、大いに興味が湧いてくる。が、今はそういう話をしている場合ではない。
 「知り合いなら、とりあえず、付き合うのよね。じゃあ、友達は?」
 「……うーん……」
 また難しい顔になった優也は、さんざん首を捻った挙句、ため息と共に、こう答えた。
 「…やめとこう、って言うかなぁ…」
 「やめとこう?」
 微妙なニュアンスだ。首を傾げる由香里に、優也はようやくきちんと由香里の目を見て、答えた。
 「この先、何かが変わって、付き合いたいって思うようになるかもしれないけど―――少なくともそれは、“今”じゃないな、って思うから。“今”は、やめておこう、って言うと思います。多分」
 「どうして“今”じゃないってわかるの?」
 「…うーん、そう訊かれると、自分でもわからないんですけど」
 困ったように頭を掻いた優也は、話し慣れない話題に気まずさを感じているのか、妙にボソボソとした口調で説明しだした。
 「確かに、彼女とは気が合ってるし、一緒にいてラクです。穂積といる時よりラクな位で。女の子に免疫がない僕が、あれだけリラックスできる相手って、とても貴重だと思うし……生理的にダメ、っていう部分も特にないから、恋人のような付き合い方なんて無理、とは思わないです。でも…」
 「でも?」
 「でも、一緒にいてラクな、貴重な相手だからこそ、このままでいたいって気持ちの方が、強いんです」
 「んー…、つまり、恋人同士になると、ラクじゃなくなる、ってこと?」
 「…僕は、女の子と付き合ったことないから、実体験ではわからないけど、」
 言葉を切ると、優也は由香里の方を見て、眉をひそめた。
 「友達なら許せることも、恋人だと許せなかったり、友達の時には必要なかった嫉妬を抱いたり、バカみたいに疑り深くなったり―――友達なら見せずに済んだ自分のマイナスな面を、恋人同士になると、嫌でも曝け出す羽目になったりしませんか?」
 「……」
 「…て言っても、マリリンさんの小説の、受け売りですけど。でも、恋人に対してより友達に対して寛容になれる、っていうのは、なんとなく想像つくんです」
 「…うん。確かに、あると思うわ」
 由香里も、過去の恋愛(と呼ぶのは気が引けるが)において、そんな場面を幾度か体験している。付き合ってみて、こんなに独占欲の強い人だったっけ? とウンザリしたこともあったし、二股疑惑を抱いて相手を詰ったこともあった。由香里の選び方が悪いのか、付き合わなければ好印象同士のままでいられたのに、と後悔したケースが大半だ。
 「ただの知人とは違って、なまじ、今いい関係でいられてるから、それが壊れるリスクは冒したくないんです。長年付き合っていったら、そのリスクを冒してでも恋人になりたい、って思う日が来るのかもしれないけど…とりあえず、“今”は、そんな気になれないです」
 「…優也君が、それ位彼女を好きになる頃には、彼女は別の人の恋人になってるかもよ? それでも?」
 「うー……うん、やっぱり、薔薇色かどうかわからない恋愛より、今の平和優先だなぁ、僕は」
 「平和…、ね」
 由香里がしみじみそう相槌を打つと、優也は突如、ハッとした表情になり、
 「あ…っ、で、でも、ラクな関係だった友達が、いい恋人同士になる、って例も、世の中にはたくさんあると思いますからっ」
 とフォローめいたことを言った。だが。
 「恋人になったことで起きるマイナス要素を補って余りある“好き”って感情があれば、今の平和を守ることなんて、どうでもよくなるのかもしれないでしょう?」
 優也のフォローは、フォローになっていなかった。要するに、相手に対する決定的な恋愛感情の欠如でしょ―――そう結論づけられたも同然だ。
 「そ、そうね。よく考えたら、友達から交際に発展するって、恋愛パターンの王道だものね」
 笑顔でそう答えつつも、由香里は内心、落ち込んだ。
 優也のようにお互い様なら、どれだけよかったことか―――でも、こちらは、河原の方は由香里にそれだけの好意を抱いてくれているのだ。この温度差に、キリキリ胸が痛む。

 ―――だったら断ればいいのに、きっぱり断れないのは、断ったことで河原君との友人関係も切れちゃうのが怖いのと……あと、やっぱり、どこかで「断るには惜しい」って考えが働いてるんだろうな…。
 結婚を前提にしているからこそ、絶対の自信を持って河原君を好きだと言えない限り、イエスとは言い難い。けれど…結婚を前提にしているからこそ、結婚相手にはピッタリであろう河原君が、惜しくなる。…その繰り返しばっかり。

 ただ単純に、自分の感情だけで、美少女との恋愛より今の気楽な平和を選べる優也が、羨ましい。由香里は、優也に気づかれない程度に、疲れたようなため息をついた。


***


 『しょーしゅーっ!』
 電話から聞こえた謎の言葉に、優也は一瞬、間違い電話かと思い、液晶画面に表示された名前を思わず確認してしまった。
 「…あの、マコ先輩?」
 『召集令状、召集令状発令、秋吉君、赤紙です、赤紙』
 「…ああ、“召集”、ですか」
 と言っても、当然、赴くのは戦地ではないだろう。この場合、召集先は、大学の研究室と相場が決まっている。
 「実験か何かの人手不足ですか?」
 見越して優也が訊ねると、真琴は「ブブーッ」と不正解のブザーを口真似した。
 『召集先は、展示会ナリよ』
 「展示会?」
 『我々“古代エジプト同好会”の展示会を見て欲しいナリよ』
 「…そんな同好会、入ってましたっけ」
 『むうぅ、知らなかったのですか! 後輩失格ですよ!』
 「…すみません」
 というか、そんな同好会、存在すら知らなかった。…本当に後輩失格かもしれない。
 『いいですか、もし暇なら、来るのですよ。あ、穂積君も誘うように』
 「はあ…。でも穂積は、」
 『トポロジスト以外でも楽しめるように、測ってみよう黄金比、とか、あなたも体験ピラミッド、とか、色々あるナリよ。召集召集』
 反論は無駄だと悟った。ついでに、実を言うと、ちょっと見てみたい気もした。結果、
 「…わかりました」
 と優也は答えたのだった。


 古代エジプト同好会の展示会は、社会人向けオープンキャンパスの行われている講義室の、隣の部屋で開かれていた。
 ―――うわ、知らない人しかいない。
 ちょっと覗いてみた段階で、見事に知っている顔が1つもないことに気づく。更には、同好会のメンバーらしき人間が4人しかいないらしいことにも気づく。優也が知らなかったのも無理はない、マイナー同好会だと察せられた。
 オープンキャンパス開始前の暇つぶしなのか、明らかに社会人らしき外見の人間が、結構な人数、会場内をウロついている。真ん中にどどんと鎮座している大きなピラミッドが、一番人気の展示のようだ。
 「あっ、秋吉君発見」
 入るか入るまいか迷っていると、その一言と共に、背中をいきなりドン、と叩かれた。
 思わずよろけ、半ばむせつつ振り返ると、いつもと同じような格好をした真琴がニコニコ笑って立っていた。真琴のことだから、もしやエジプトっぽいコスプレでもしているのでは…と少し不安だったのだが、まともな格好でホッとした。
 「来てくれて嬉しいナリよ〜。穂積君は?」
 「あー…、ちょっと遅れて来るみたいです」
 「む。いつも一緒なのに、どうしたの〜?」
 「実は昨日、お兄さんの結婚式で…その後の二次会かなんかで、相当アルコール飲まされたらしくて、今朝、頭が痛い、って…。家出る時声かけたら、“だいぶ良くなったしバイトもあるから、後から行く”って言ってましたけど」
 「バイトにも行かなくちゃいけないのですか。可哀想に」
 あまり同情しているとも思えない口調でそう言った真琴は、直後、何かをたくらんでいるような笑みとともに、優也の腕を掴んだ。
 「ところで秋吉君。ユーも古代エジプトしませんか」
 「えっ」
 「見てのとおり、わが同好会のメンバーはわたしを入れて5名で、同好会として存在できるギリギリの人数なのです。そのうち、1名がこの春卒業してしまうので、存続は風前の灯火なのです。だからこうして、大学祭でもないのに展示会を開いて、ちまちまちまちま勧誘活動をしないといけない訳です。ね? 二日酔いの穂積君以上に、気の毒でしょ〜?」
 「……」
 ―――要するに、勧誘するために呼び出した訳ですか。
 同好会の存続危機と二日酔いを同列に語るところは、さすが不思議言動の真琴ならでは、という感じだが、これで唐突な召集令状の意味はよくわかった。
 「えー…、とりあえず、どんな同好会か、見させて下さい」
 「うむ、よろしい」
 …なんで勧誘側が偉そうなんだろう。
 「まこっちゃーん! こっちお願い!」
 展示室内の同好会メンバーに呼ばれ、真琴は「じゃあね」と優也に手を振り、呼ばれた方へ走っていってしまった。本当は解説をお願いしようかと思っていたが、どうやら真琴にその暇はなさそうだ。仕方なく、入り口に近い展示から順に見て回ることにした。

 展示は、「古代エジプト文明に見る数字の不思議」というのがテーマだそうで、有名な「ピラミッドには円周率が隠されている」という話から始まっていた。この手の話が大好きな優也にとっては面白いが、さて…数学専攻以外の学生にとっては、どうだろう? という感じの、かなり数学に偏った展示のようだ。
 ―――でもこの、「4色定理にチャレンジ」コーナーは、エジプトとは関係ない気がするんだけどなぁ…。
 線で描かれた図形のコピーと4色の色鉛筆が置かれているコーナーの前で、思わず首を傾げる。エジプト同好会としてはどうかと思うが…まあ、数学に興味を持ってもらうには、いい展示かもしれない。
 この4色問題が証明できたら、数学者として名を残せるんだろうなぁ、などと考えていると。

 「おー、藤森。がんばっとるな」
 聞き慣れた声がどこかから聞こえ、優也の心臓が、軽く跳ねた。
 知らず、顔が緊張で強張る。恐る恐る振り向いた優也は、目だけを動かして、その人物の姿を探した。が、探し当てるのに、そう時間はかからなかった。何故なら、その人物は、優也から2メートルほどしか離れていない場所で、真琴と向き合っていたのだから。
 「あれぇ? 先生がいる。どーしたんですか?」
 キョトンと目を丸くする真琴に、永岡教授は展示物を見渡しながら、
 「忘れ物を研究室に取りに来て、そういえばエジプト同好会の展示の日だったな、と思い出したので、寄ってみたんだ」
 と、極めて簡潔かつ丁寧な返答をした。
 「で、どうだ? 新人は捕まりそうか?」
 「今、絶賛勧誘中です〜」
 「うむ。個性的な同好会が、このまま絶滅するのでは、面白くないからな。しっかり勧誘したまえ」
 と言うと、教授は真琴のポニーテール頭を、くしゃくしゃと乱暴に撫でた。当然、真琴のポニーテールは妙な具合に歪んだが、ひえー、と言いつつも、真琴は嬉しそうに、
 「全力を尽くします〜」
 と答えた。

 ―――…な…んだか…、
 なんだか、気分が、悪い。

 形容し難い“何か”が、胃の奥辺りで胸焼けを起こしている感じだ。冷や汗で手のひらが汗ばんでくるのを感じながら、優也はクルリと教授に背を向けた。が、しかし。
 「お、秋吉じゃないか」
 「……」
 さっそく、見つかってしまった。逃げ出したいのをぐっと堪え、優也は、つい今しがた背を向けたばかりの方向を振り返った。
 「ど…どうも」
 「来とったのか。うむ、勉強熱心で、感心感心」
 大いに満足、といった笑顔の永岡教授は、さっき真琴にやったのと同じように、優也の頭もぐしゃぐしゃと撫でた。おかげで、優也の頭は鳥の巣状態になり、眼鏡が派手にずれてしまった。
 「きょ、教授…、今日は確か、学会があるんじゃ…」
 「ん? あるぞ。この後、会場に直行だ。で、秋吉は何を見とったんだね」
 まさか、この格好のまま学会に出る気なのだろうか―――いつにも増して寝癖全開な教授の頭を見て、少々心配になる。もしかして学生の頭を片っ端から撫でて回るのは、鳥の巣頭の仲間を増やすためではないのか、と疑いたくなる。が、教授は優也の疑いなどよそに、優也が見ていた展示に興味津々の目を向けた。
 「ほー、4色定理か。証明できそうでできない、ってところが魅力だな、これは。先人がやった“コンピューターでしらみつぶしにして無理矢理証明”は、数学者として賛成できん。あれはロマンがない」
 「は、はあ…」
 「私は他の定理で手一杯なのでもうやらんが、先の長い諸君は、頑張ってチャレンジしてくれたまえ」
 ドン、と背中を叩かれ、優也はまた半分むせながら「が、頑張ります」と答えた。
 その後教授は、同好会メンバー全員に一言ずつ声をかけ、「さー、そろそろ行くかぁ」と言って、早々に展示会場を後にしてしまった。寝癖のことは一応気になっているらしく、出て行く時、忌々しげな顔で、一番目立っているハネ部分を手ぐして無理矢理押さえ込もうと試みていた。
 ―――ああいうとこが、教授の憎めないとこだよなぁ…。
 飾らないというか、自然体というか…はるかに年上な上に尊敬すべき人物だが、ああいう姿を見ると、思わず笑ってしまう。微笑んで、永岡教授を見送っていた優也だったが、
 「先生は、なんだかんだ言って、毎回来てくれるナリよ〜」
 ふいに、真琴のそんなセリフが耳に入り、せっかくの微笑が僅かに強張った。
 いつの間にやら、優也のすぐ隣に来ていた真琴は、優也同様教授の背中を見送りながら、くすぐったそうな、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
 「その度に、ああやって全員に必ず声かけて行ってくれるし。いい人ナリよ」
 「……」

 何故その時、やめておこう、と思ったことを、せずにはいられない気持ちになったのか。
 見なかったことにしよう、黙っておこう、そう自分を納得させた筈なのに―――何故か優也は、黙っていられなくなった。

 「…あの、マコ先輩」
 「ハイ?」
 「ちょ―――ちょっと、いいですか」
 さすがに、他人に聞かれるのは、まずい気がする。外に出られませんか、とゼスチャーで伝えると、不思議そうな顔の真琴は、「いいよ〜?」と言って、先に立って歩き出した。
 幸い、廊下は人影もまばらだった。それでも、講義室内の人に立ち聞きされてはいけないので、階段ホールの片隅を選んだ。
 「どうしたの、何か質問?」
 両手を腰に当て、なんでも聞きますよ、といった体勢で、真琴が訊ねる。改まってそういうポーズをとられると、かえって話し難いものがあるのだが……それでも優也は、意を決し、真琴に向き直った。
 「あの…、す、凄くプライベートなことなんで、気を悪くするかもしれないんですけど…」
 「? なぁに?」
 「…マコ先輩が、今、好きな人って―――永岡教授ですか」
 かなり小さな声で優也がそう訊ねると、真琴は目を大きく見開き、オーバーな位、びっくりした顔をした。
 「えぇ〜、よくわかったねぇ〜」
 「……」
 「ゼミの仲間にも、友達にも、話したことないのに〜。うーん、時々思うけど、ユーは、ノホホンとして見えて意外に鋭いですねぇ」
 「そ…っ、そんな、なんでもない風に言わないで下さいっ」
 声のボリュームは控えめながらも、思わずそう叫ぶ。が、言われた真琴は、キョトンとした顔しかしなかった。
 「なんでもない風に、って…、なんで?」
 「…写真…」
 「え?」
 「写真、偶然、見たんです。…年末、先輩が名古屋駅で荷物バラまいた時」
 「―――ああ!」
 ポン、と手を打った真琴は、やっと答えがわかって嬉しいのか、明るい笑顔になった。
 「だから、誰にも話してないのに気づいたのかぁ〜。ナルホド、納得」
 「先輩…」
 この人は、自分が何を問題としているのか、全然気づいてくれないらしい。はあぁ、と大きなため息をついた優也は、一番触れ難い点を、ストレートに切り出した。
 「永岡教授って、奥さんも子供さんもいるんですよね?」
 「うん。知ってるナリよ」
 「知ってて、どうして……教授だって、家庭も地位もあるいい大人が、なんであんな、恋人同士にしか見えない写真…っ」
 「…ああ〜」
 どうやら、ようやく優也の言わんとしていることが、察せられたらしい。苦笑した真琴は、優也の顔を覗きこんだ。
 「あの写真がそんな風に見えたから、ユーの頭からは、わたしが言った“片想い”という言葉が、綺麗さっぱり消えてなくなってしまったのですネ?」
 「…覚えてますよ。でも、だったらどうして、教授が先輩の肩抱いて、しかもツーショットで写ってるんですか。おかしいじゃないですか」
 「あの位のこと、先生は、男女問わず誰にでもしますよ? 第一、あの写真を撮ったのは、先生の奥さんなのデス」
 「えっ」
 ―――教授の、奥さんが?
 頬がくっつく位密着をしている、あのツーショット写真を?
 一体、どういうシチュエーションであれば、そういうことになるのやら―――思わぬ展開に呆ける優也に、真琴はちょっと得意気に胸を張った。
 「ちょうど去年の今頃、ゼミの仲間や先輩数名と一緒に、先生の家に招待されたのです〜。お鍋をご馳走になって、記念に全員、ツーショット写真をいただいたのです。それぞれ、先生に頭グリグリされてたり、プロレス技決められて助けを求めてたり、好きなポーズで撮ってもらったので、わたしはあーゆー写真にしてもらったのです〜」
 「…はあ…」
 「娘さんと、よくあーゆー構図で撮るって話ナリよ。みんなの前で娘自慢してノロけるから、じゃあ再現写真撮りましょう、ってなって……で、アレ。だから奥さんも笑顔でOKなのです」
 「いや、でも……奥さん、よく平気でしたね」
 「ふっふっふ、それはひとえに、わたしの才能ナリよ」
 「才能?」
 「大学生でありながら、いまだにたまーに小学生に間違われる才能ナリ〜」
 「……」
 ―――先輩…そこ、自慢するとこじゃないですから。
 「ゼミの先輩全員が“ひげ親父に拉致されてる小学生”判定したあの写真見て、ラブラブ写真と思ったのなんて、ユーくらいのものですヨ? 娘さんとのツーショットの方が、ちゃんと高校生に見える分、まだ恋人同士に見えたんじゃなカナ〜」
 そう言うと、真琴ははあっ、と息をつき、壁にもたれかかった。
 「お邪魔したのって、あの時1回だけだけど、楽しかったなぁ〜。奥さんも楚々としてて優しそうでー、娘さんはイマドキっぽくない初々しい高校生でー、飼い犬もとーっても人懐こくてー…先生の家族って、とっても、とーっても、ステキで」
 「……」
 「そんなステキな家族に囲まれてる先生見て、初めて―――先生が、先生じゃなく男の人に見えて、びっくりしちゃったナリよ」
 ―――男の人に…。
 また、胃の奥から、言いようのない不快感がせり上がって来る。
 こんな話、聞きたくなかった―――自分から問いただしておきながら、そんな思いがじわじわとこみ上げる。眉根を寄せた優也は、無意識のうちに胃の辺りを押さえつつ、うろたえる視線を足元に落とした。
 「見た目はあんなだし、歳も凄く上だし、まさか先生にトキメク日が来るとは、わたしも思ってなかったよ〜。そういうつもりで撮った写真ではないけど、あの写真は、わたしにとっては貴重な“恋に落ちた日記念日のツーショット”なので、いつも持ち歩いてるのさ」
 「……」
 「でも、勿論先生は知らないし、これからもぜーったい、言う気はないのです。どんなに好きであろうと、先生は既に奥さんのものだし、不倫をするだけの恋愛テクニックなどわたしは持ち合わせていないのです。だから、この前秋吉君に言ったとおり、この恋は片想いのまま、いつか消えてなくなる日をじーっと待ってれば、それでいいのです」
 「…なんで…」
 声が、掠れる。カサつく喉を唾を飲んで湿し、優也は俯いたまま、声を絞り出した。
 「なんで、よりによって、教授なんですか」
 「え?」
 「いくらでも、選びようはあるのに……なにもわざわざ、奥さんも子供もいる人なんか選ばなくても」
 「既婚者を好きになったら、ダメなのですか」
 初めて聞く理屈ですね、とでも言いたげな真琴の言葉に、一瞬、珍しいほど頭に血が上った。顔を上げた優也は、思わず真琴を睨んだ。
 「ダメに決まってるじゃないですかっ」
 「略奪する気も告白する気もない、勝手な片想いナリよ?」
 「それでも…っ、僕は、嫌です」
 「どうして?」
 「どうしてもです」
 「…意味不明ナリよ〜。秋吉君、ユーは数学者の卵なのですから、もっと理論的に話してくれないと〜」
 「だって、考えられないじゃないですかっ」
 駄々っ子の扱いに困っているような真琴の苦笑が、ふいに、ぼやける。
 何故だか、涙が滲んできていた。が、優也は、そのことにすら気づいていなかった。
 「も…もうとっくに人のモノで、僕らと大差ない歳の子供までいて…っ、僕にとっても、先輩にとっても、学問の師で、尊敬すべき人で、僕らよりずっと高みにいる人で…」
 「あ……秋吉、君?」
 「だから先輩も、僕と同じように、ただ純粋に教授を敬愛しているだけだと、そう信じてたのに、」

 信じてたのは、僕の勝手だ。
 先輩が教授を尊敬しようが憎もうが妬もうが、先輩の自由だ。なのに「信じてたのに」なんて言うのは、ただの僕のエゴだ。
 わかってる。
 わかってるのに。

 「同じ研究室の中にいて、先輩が…尊敬する先輩が、教授のことを、そんな目で―――異性を見る目で見てたなんて、幻滅じゃないですか…っ」

 なんで僕は、先輩にこんなこと、言ってるんだろう?
 尊敬する先輩の前で、なんで僕は、こんな身勝手で狭い自分ばかり、晒してしまっているんだろう―――…?

 憑き物が落ちたように、ストン、と冷静さが戻ってきた。
 そして―――同時に、一気に、後悔が襲ってきた。
 ―――…な…なんてこと言っちゃったんだろう、僕は。
 冷や汗が、急激に吹き出す。呆気にとられたような顔をしている真琴の顔を見た優也は、反射的に、もの凄い勢いで頭を下げた。
 「す、すみません…っ!」
 「……」
 「すみません、すみません、言い過ぎました……あ、あの、幻滅なんて、してませんから、ほんとに。ただショックだっただけで」
 「…うーん、別に、謝ってもらうほどのことも、ないけど〜」
 困ったように視線を彷徨わせた真琴は、ピタリ、と優也の顔に視線を定め、一言、付け加えた。
 「でも、秋吉君。ユーは、ちょっと、潔癖症すぎますネ」
 「…えっ」
 「ただ想いを寄せるだけのことが、そんなに罪でしょーか?」
 「……」
 「たとえ一方通行でも、好きな人がいる毎日は、幸福でしょう? その相手が、たままた、既に人のモノだっただけのことが、そんなに大事件なのでしょーか」
 「…………」
 「あ、穂積君」
 「えっ」
 唐突な真琴の言葉に、慌てて辺りを見回す。
 するとそこには、なんとも微妙な表情をした蓮が、気まずそうに立っていた。
 ―――…き…聞かれちゃった、かも…。
 エキサイトしすぎて、蓮が近づいてきていることに、全く気づけなかったらしい。しまった―――さっきとはまた違う種類の冷や汗が、優也の背中を伝った。

***

 「なぁ…、穂積は、どう思う?」
 駅へと向かう道すがら、優也が訊ねると、蓮はポケットに両手を突っ込んだまま、首から上だけ優也の方に向けた。
 「どう、って、何が?」
 「マコ先輩が、教授に片想いしてる件」
 「…どう、って言われても…」
 困ったような顔になった蓮は、暫しの沈黙の後、ぽそりと答えた。
 「…意外な気もするけど、マコ先輩らしい、とも思った」
 「マコ先輩らしい?」
 「上手く言えないけど、他のゼミの先輩たちの誰かを好きになるよりは、教授の方が、何倍も納得いく気がする」
 「―――…」
 …確かに。あの突き抜けた性格と頭脳で、ゼミ仲間レベルに恋をするなんて、むしろその方が不思議に思える。優也からしたら雲の上の教授も、案外、真琴にとっては、恋愛対象として十分考えられる位置にいるのかもしれない。
 「でも…わかんないなぁ。なんで、既婚者相手に、恋なんてできるんだろう?」
 はーっ、とため息をつき、優也は、少々愚痴めいた口調で、そう言った。
 「買い物に喩えると、既婚者は“非売品”で、恋人のいる人は“売約済み商品”だと思うんだけど、違うのかなぁ」
 「…は?」
 唐突かつ場違いな単語に、蓮が眉をひそめる。訝しげな蓮に、優也はポツポツと、考え考えしながら説明しだした。
 「たとえば、車を買いに行ったとするでしょう? 店中の車全部をザッと見て、一番気に入った車をよーく見てみたら、そこには“非売品”の札が。なんだ、非売品なのか―――普通、この段階で、その車は購入対象から外れない?」
 「…まあ、外れるよな」
 「でしょう? じゃあ仕方ないから、2番目に気に入った車を見てみたら、ドアに“売約済み”の貼り紙が。ああ、一足遅かったか、惜しいことしたなぁ―――この場合も、とりあえず、その車は購入対象から外れるよね?」
 「…本当の車なら、“売約済み”と同じ車を他の店に探しに行くけど」
 「う…、じゃ、じゃあ、強引だけど“全部世界で1台しかない車”って設定なら?」
 「……まあ、外す、かもな」
 「それと同じじゃないのかなぁ」
 そう言うと、優也は眉根を寄せた。
 「なんだ、結婚してるのか。ああ、もう付き合ってる人いるんだ。残念だなぁ―――普通は、そこで終わっちゃって、自然と恋愛対象から外れるものだし、そうするのがパートナーのいる人に対するマナーだと思うんだけど、違うのかなぁ…?」
 「……」
 「そりゃ、相手がいるって知らずに好きになった場合は、気の毒だと思うよ。それに、ああいう人がいいなぁ、って憧れる位はアリだと思う。けど、真剣に恋をする、ってのは……他の人に目がいかなくなるほど、“他の人のもの”に想いを寄せるなんて、なんか…ちょっと、なぁ…」
 渋い表情の優也の横顔を、蓮は、なんとも微妙な表情で見た。勿論、考えをまとめるのに必死な優也が、その視線に気づくことはなかったのだが―――結局、気まずそうに瞳を揺らした蓮は、ふい、と優也の横顔から目を逸らしてしまった。
 「想いを募らせたところで、自分が苦しい思いするばっかりなのも、手に入れるには誰かをもの凄く傷つけなきゃならないことも、好きになる前に重々承知してる筈なのに……わかってて、なんでわざわざそんな人選ぶんだろう? なにも異性はその人しかいない訳じゃないんだし、非売品マーク見つけた時点で、選択肢から外せば済む話なのに」
 「―――そうだな」
 前を向いたまま、蓮がポツリと、抑揚のない声で相槌を打つ。そして、すぐさまこう続けた。
 「でも、人間は、ロボットじゃないし」
 「……」
 「対象者が既婚だった場合はフラグオフして新規ルーチンを実行しろ、って条件文があったとしても、その命令どおり動けない奴がいても、仕方ないだろ」
 やけに投げやりに聞こえる蓮の声に、ハッとした優也は、慌てて彼に目を向けた。
 憮然としているようにも見える蓮の横顔に気づき、なんだか、嫌な具合に鼓動が乱れる。もしかして、何か、まずいことでも言ってしまっただろうか―――思わず、ゴクリと唾を飲み込んだ。
 「…誰だって、辛いよりは楽しい方が、苦しいよりは楽な方が、手に入らないよりは手に入る方が、いいに決まってる。秋吉がくどくど言うまでもなく、スイッチ1つで想いが消えたらどんなにいいだろう、って、先輩自身も思ってるさ」
 と、ここで言葉を切った蓮は、ようやく優也に顔を向けた。
 「それでも先輩は、好きな人がいる毎日は幸せだ、って言ってたじゃないか」
 「……」
 「隣のOLに片想いしてた時、似たようなこと言ってた秋吉なのに―――らしくもない。俺は、先輩が教授に片想いしてることより、秋吉の反応の方が意外だよ」
 「……」
 蓮の、言うとおりだ。
 言うとおりすぎて、一言も、反論ができない―――気まずさのあまり、優也はぎこちなく眼鏡を直しつつ、視線を逸らした。

 ―――本当だ。
 本当に、どうかしてる。
 感情は理屈どおりには動かない、ってわかっているのに、理屈に反することをしてるからって、先輩を非難するなんて。しかも、先輩の「幸せだ」っていう言葉を、素直に受け取れなかったなんて。
 第一、先輩が誰を好きになって、それでどんな思いをしようが、僕には関係ないじゃないか。なのに、何ムキになって、拒絶反応示してるんだろう…。

 理屈に合わないことをしているのは、むしろ自分の方じゃないか―――考えれば考えるほど、バカなことをしてしまった、という後悔ばかりが湧き上がってくる。視線を逸らした優也は、あっという間にうな垂れてしまった。そんな優也を見て、蓮は、ちょっと困ったような顔をした。
 実を言えば、何故優也がこうもムキになっているのか、その理由が、蓮にはなんとなくわかっている。が…今ここでそれを口にしても、優也は全力で否定するだろう、ということも、なんとなくわかっていた。
 そして、何より―――今は、優也に同情するような心のゆとりは、蓮にはなかった。
 「…秋吉がどう思うが、秋吉の勝手だけど」
 再び前を向きながら、蓮は、淡々とした口調で、再び口を開いた。
 「幸せも苦しみも、先輩の自由だろ。…片想いのままでいい、って本人が言ってるんだから、好きにさせろよ」
 「……」
 その言葉に、のろのろと顔を上げた優也は、少々不安げな顔で、蓮の横顔を窺った。
 「…穂積?」
 「ん?」
 「もしかして、怒ってる?」
 「…いや、別に」
 「……そっか」

 何故だろう。
 何故か、とっても―――とっても、穂積を傷つけてしまったような気がする。

 そう感じてしまう理由を、優也もまた、なんとなくわかっている。
 けれど、今ここでそれを口にしても、蓮は全力で否定するだろう、ということも、なんとなくわかっていたので―――優也はあえて、何も言わなかった。


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