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― 未来予想図 -2- ―

 

 『1日4時間、週2日からOK! あなたの生活に合わせてお仕事していただけます。大学生歓迎、初心者歓迎、土日祝来られる方大歓迎!』

 大学生で初心者の優也が目を留めたその広告は、優也もよく知る某ファーストフード店の求人広告だった。
 ―――ええと、制服は貸与で、交通費は上限1万円まで支給…そうかぁ、全額じゃないんだ。あ、でも、ここだったら、定期券の区間内だから問題ないか。3ヶ月間は研修で時給がちょっと下がるのか…うーん…。
 家庭教師に比べたら時給が随分低いし、本当に初心者歓迎なのだろうか、と不安な部分も多々あるが、他社の求人広告も似たりよったりだった。多分、これがファーストフード業界の平均的な条件なのだろう。
 やはり接客業には、苦手意識がある。が、他の仕事に比べて、ファーストフード店の店員というのは、喋り方や対応がきっちりマニュアル化されている印象がある。時々優也も利用する店では、いつ何時行っても、どの店員に当たっても、「いらっしゃいませ。店内でお召し上がりですか?」から始まる。何をどの順番で言い、どういう作業をすればいいのかが全て決まっている仕事ならば、自分にもこなせるかもしれない―――優也には、そう思えた。
 決意をするまで更に2日を要した。が、結局、優也は、この店に応募することにした。

 まずはお電話を、と書かれていたので、電話したところ、店ではなく本社に繋がった。笑顔が売り物の店というイメージとは違い、電話に出た採用窓口の女性は、非常に事務的な印象だった。
 『学生の方ですね。でしたら、履歴書を持って直接店舗に行っていただけますか?』
 「あ…、は、はい。ええと、いつ頃行けば…」
 『できれば午前でお願いします。店長にはこちらから連絡を入れておきますので』
 「…じゃあ、午前中にさせていただきますが、ええと…日にちの方は…」
 『明日でも大丈夫ですよ』
 そんなアバウトな話でいいのかな、と首を傾げた優也だったが、とりあえず、明日の午前中に行けるよう、大急ぎで履歴書を買ってきて記入した。
 ―――また学歴の年月で突っ込まれるのかなぁ…。
 書きながら、家庭教師の登録をした時のことを思い出し、ちょっと憂鬱な気分になる。大学の入学年が間違っている、と書き直しを命ぜられたのだ。
 人より1年早く大学に入ってしまったことは、真琴が言うとおり「1年余裕がある」とも言えるのだが、これまでのところ、むしろ誤解されたり変な注目を集めたりといった迷惑な部分の方がずっと多い。教師や両親が大喜びしていたので勧めに従ってしまったが、周りと同じにしておいた方が無難だったのかもしれない。
 ―――書き間違ってるよ、だったら別にいいけど、普通の進学年と計算が合わないからって、「嘘を書いてる」と思われたら嫌だなぁ。見るからに早熟で頭が良さそうで、いかにも飛び級で大学に行ったりしそうなタイプだったらまだマシだったけど、極々平凡だからなぁ、僕は。
 憂鬱な気分で履歴書を書いたせいか、少々字が小さめになってしまった。ため息をついた優也は、納得のいく履歴書を完成させるまで、更に2回、書き直しをしたのだった。

 しかし、こうした優也のこだわりも不安も、翌日、一瞬で木っ端微塵にされた。


 「ああ、はいはい、話は本社の方から来てます。えーと、履歴書はお持ちいただけましたか?」
 「あっ、は、はいっ」
 店員に案内された事務所スペースに足を踏み入れるなり、挨拶も早々に店長からそう言われ、優也は持参したB5サイズの茶封筒を彼に差し出した。どうもどうも、と封筒を受け取った店長は、封筒から履歴書を上半分だけ引き出し、名前と写真の部分をチラリと見た。
 「えー、秋吉、優也さん」
 「はい、よ、よろしくお願いします」
 緊張の面持ちで優也が頭を下げると、店長は意外な言葉を優也に投げかけた。
 「まず始めに伺いますが、火曜・水曜の午前11時から午後3時、仕事していただくことは可能ですか?」
 「…えっ」
 突然突きつけられた質問に、顔を上げた優也は一瞬、キョトンとすることしかできなかった。
 もう一度、言われた言葉を頭の中で繰り返してみて初めて、質問の意味を正しく理解した。そして、その質問が、優也にとってマイナスとなる質問であることにも気づき、優也の表情はますます強張った。
 「あ…あの、火曜と水曜は、ちょっと…」
 「あぁ、無理ですか」
 「あの、でも、火曜は2時以降なら大丈夫ですし、水曜も午前中なら、」
 「うーん、そうですかー」
 優也の言葉が耳に入っているのかいないのか、店長は眉根を寄せ、首を捻った。
 「うちとしては、やっぱり、お昼の時間帯が人手不足なんですよね。11時から3時、通して出勤できる人を優先して採用したいんで、火曜も水曜も通しては出勤できないとなると、ちょーっと面接はできませんねぇ」
 「え…」
 「せめて、どちらか1日だけでも、昼シフトに入れたらよかったんですけどね」
 ―――あの、話が違うんですが。
 優也が見た広告のどこにも、火曜と水曜の11時から3時に入れる人限定、なんてことは書いていなかった。その時間帯に働けない人は面接できません、なんてことも、当然書いていなかった。書いてあれば、火曜の午前と水曜の午後に大学に行かなくてはならない優也が、わざわざ履歴書を持ってこんな所まで来る訳がないのだ。
 「わざわざ来ていただいて申し訳ないんですが、そんな訳でして」
 半分引き出されただけの履歴書が、きっちり封筒の中に戻された上で、優也に差し出された。
 「……」

 履歴書、5枚入りで、250円だったんだけど。
 証明写真は、4枚で700円だったんだけど。
 しかも、写真撮りに行ったり書き直したり何だりで、昨日はこれのために、合計で3時間くらい費やしてるんだけど。
 僕は定期券の区間内だからまだしも、中には、わざわざ電車賃かけて来る人だっていると思うんだけど。

 そんな手間隙かけさせてるっていうのに、面接できない条件があるんなら、最初から書いといてくれればいいじゃないか―――…!!

 温厚な優也も、さすがに内心、ぶちキレそうになる。それでも優也は、怒りに震えそうな手を何とか宥めつつ、履歴書を受け取ったのだった。

***

 「夕飯だよ、ミルクパン」
 優也が声をかけると、まるで返事をするかのように、フェンスの上に陣取っていたミルクパンが「にゃあ」と声を上げた。
 ここに来た時は痩せ細った小さな子猫だったミルクパンも、今や、しなやかな体つきをした立派な若い黒猫だ。フェンスから飛び降り、キャットフードの入った皿へと歩み寄る姿も、なかなか堂々としていて優雅な感じがする。
 ―――いいなぁ、猫は。勉強も就職も進路の悩みもないもんなぁ。
 馬鹿なことを考えつつ、はぁ、とため息をついた時、廊下の方から物音がした。
 「……あ、優也君だったの」
 そっと顔を覗かせたのは、由香理だった。食事中のミルクパンが驚かないよう気遣いつつ、優也は立ち上がり、あたふたと頭を下げた。
 「こ、こんばんは。今日は外出じゃなかったんですね」
 「ん…、友達の予定が入っちゃってたし、今週は仕事が結構ハードだったから。昼過ぎまで寝て、随分体が軽くなったわ」
 確かに、数日前、出勤時の由香理と偶然廊下で会った時は、化粧をしていてもわかるほど疲れきった覇気のない顔だったが、今の由香理は、かなりスッキリとした、明るい顔をしていた。
 由香理は現在、今年入った新入社員の教育に必死になっているらしい。というのも、6月には会社を辞め、後の仕事の大半をその新人に委ねなくてはいけないから―――そう、由香理は、現在勤めている一流商社から、名もなきベンチャー企業に転職を決めたのだ。
 「引継ぎ、大変なんですね」
 優也が少し心配げに眉をひそめると、由香理は「まあね」と苦笑を返した。
 「3月決算で結構キツイ思いした後に、今度は新人研修、と立て続けだから。まあ…しょうがないわ。それに、自分がやってた仕事の範囲の広さとか重要性とかを再認識できて、案外悪い気分でもないしね」
 そう言う由香理の表情は、実際、まんざらでもない、といった風だ。
 ―――友永さんも変わったなぁ。
 常に毅然として、颯爽とスーツ姿で歩く友永由香理の、歪んで屈折した裏の顔を、優也は知っている。あの頃の由香理なら、せっかく掴んだ「一流商社のOL」という座を手放したりしなかっただろう。その上、引継ぎのために四苦八苦するなんて、完全にバカのやることと鼻で笑ったに違いない。
 何があったのか、どんな理由で転職を決めたのか、その辺の事情を、優也は何も知らない。が―――由香理が傷ついて泣いたことと、由香理の表情が自然で力みのないものに変わったこととは、きっと無関係ではないだろう。なんだか、そんな気がした。
 「そういえば、優也君って今年、就職活動よね。どう? 上手くいってる?」
 唐突に、今一番避けて通りたい話題を振られ、うっ、と思わず言葉に詰まる。辛気臭い顔をしてはまずい、と、優也は慌てて誤魔化し笑いをした。
 「そ、それが…まだ、進路を決めてなくて。大学院行くか、就職するか」
 「えっ。あ……あー、そうよね、優也君なら、そういう選択もあるんだったわ」
 目の前にいる平凡な学生が、国内の理系ではほぼ最高峰と言っていい大学に、人より1年早く合格した人物であることを思い出したのだろう。今度は由香理の方が、気まずそうな誤魔化し笑いを浮かべた。
 「まあ、優也君くらいになれば、卒業ギリギリになっても、企業から引く手数多でしょ。焦ることはないわよ」
 ―――そうでもないですよ。今日なんて、名前しか見てもらえずに、門前払い食らっちゃったし。
 それなりに頭を悩ませて書いた応募動機も、たった1文字書き損じたせいで丸々1枚書き直しになった趣味・特技欄も、何ひとつ見てはもらえなかったのだ。火曜と水曜が暇ではなかったという、ただそれだけで。
 蓮が言っていた意味が、今となってはよくわかる。どんなに頭が良かろうが、どんなに真面目な性格だろうが、「雇い主の希望を満たしてくれる人」でなければ、存在価値などない。火曜と水曜の11時から3時が空いていなかった優也は、あのファーストフード店では要らない人間なのだし、目つきが鋭く無口で、悪口を言わない代わりにお愛想も一切言わない蓮は、愛想のいい口の上手い営業マンを必要としている会社にとっては無用な人材なのだ。
 テストでいい点数を取れば無条件に合格できる入学試験とは、まるで勝手が違う―――そう考えると、入学試験には自信のある優也も、果たして自分が入社できる会社などあるのだろうか、と不安になる。3年のうちに内定をもらってしまおうと躍起になる学生の気持ちが、ほんの少しだけわかる気がした。
 「友永さんは、いつ頃、今の会社に決まったんですか?」
 参考までに訊ねると、由香理は少し天を仰ぎ、ええと、と記憶を辿るように眉根を寄せた。
 「そうねぇ…確か、今頃にはもう内定取ってたわよ」
 「そうなんですか」
 「今も景気は良くないけど、私の時は銀行破たんなんかで大騒ぎしてた時期だったから、1日でも早く不況に強そうな大手に落ち着きたいって切実に思ってたもの。そもそも、大学自体、特定の企業への就職率で選んだんだし―――私の大学生活って、つくづく、就職のため以外の何物でもなかったわね」
 そう言う由香理の口調は幾分自嘲気味だが、優也はむしろ、立派だ、とすら思った。学術だ研究だと学生の本分に情熱を傾たところで、いい会社に勤めて安定した生活を送った者こそが最終的な勝者なのだ、という考えは、ある意味真実でもあるのだろうから。
 「まあ、働くってのは、生活していくための手段なんだから、より楽しくてやり甲斐があった方がいいけど、稼げさえすれば何でもいいのよね、本当は」
 最後に由香理が口にした一言に、「進むべき道」なんて言葉は、若造の青臭い理想論でしかないのかもしれない、と優也は少しだけ思った。

***

 蓮のもとに、本命の会社からの採用通知が届いたのは、その翌週だった。

 「あんまり自信なかったから、ちょっと驚いた」
 届いた通知をまじまじと眺めて、蓮は照れの混じったような、なんともいえない笑みを浮かべた。感情をはっきり表すタイプではないが、抑えているからこそ余計に、蓮がどれほどこの採用を嬉しく思っているかが、優也には感じ取れた。
 本音を言えば、優也にとっては、少々意外な会社だった。蓮なら、バイクやスポーツ関連の企業を選ぶのではないかと、なんとなく思っていたから。けれど、よくよく最近の蓮の言動を思い起こしてみたところ、蓮がこの会社を選んだ理由が、朧気ながら見えて気がする。
 直接的には無関係だが、きっと無関係ではないのだろう。蓮が気づいているかどうかは別として、全ては繋がっている―――“あの人”に。
 「穂積は、どういう部署に就くの?」
 「入社から1、2年は、適性見るためにいろんな部署を転々とさせられるらしい。俺は、開発を希望してるけど」
 「開発かぁ…」
 コンピュータ画面に自分が作った解析ソフトの結果を映して、新商品についての意見を堂々と述べる蓮の姿がすぐに思い描けた。具体的にどんな業務をするのかは知らないが、なんとなく、蓮には合っている気がする。
 「友達が開発した物を使う、っていうのも、なんかちょっとワクワクするね」
 優也がそう言うと、蓮は笑顔で頷いた。そういえば蓮自身、父の開発する「お菓子のおまけ」に胸を躍らせる子供だったのだ、ということを、優也はその笑顔で思い出した。


 翌日、就職課への報告に行きがてら、2人揃って永岡教授の研究室を訪ねると、教授と一部の先輩たちは留守で、博士課程の先輩とその友人が留守番として居残っていた。
 「おおー、内定取れたのか。そりゃめでたい。教授が帰って来たら、さっそくお祝いしないとなぁ」
 「…いや、いいですから、お祝いなんて」
 蓮はそう言って断ったが、先輩2名はそれを遠慮と受け取ったらしい。
 「なぁに、元々今日は宴会の予定だったんだよ。ほら、修士課程1年の“学会デビュー”を祝って」
 「あ…そういえば…」
 教授が留守にしているのは学会に出席しているからで、真琴ら大学院1年目の学生は、教授のお供を仰せつかって、手伝いとして参加しているのだ。雑用係とはいえ、学問の第一線で活躍する国内外の識者が大勢出席する会合を直接見る機会を得られたのだ。十分お祝いするに値する経験だろう。
 「お前らのバイトスケジュールは把握済みだ。穂積は今日はバイトのない日だし、秋吉は今、バイトしてないだろ」
 「……」
 何故いつも、自分たちのアルバイトの日程が、先輩たちにバレてしまっているのだろう? どうにも腑に落ちない。思わず顔を見合せた優也と蓮だったが、
 「という訳で、学会組が戻るまで、お前らもちょっと付き合え」
 と話は勝手に進み、気づけば先輩たちが作ったプログラムのテスト作業を手伝うことになってしまっていた。
 「…学会って、何時に終わるんだっけ」
 「…確か5時って聞いた」
 ということは、教授らが研究室に戻って来るのは、6時前後―――それまで5時間あまり、プログラムテストをしなくてはいけない訳だ。ちょっとげんなりしつつも、2人は大人しく先輩方の言いつけに従った。

 作業を始めてしまえば、元々興味のある内容でもあるので、時間はあっという間に過ぎた。
 「あっ、お帰りなさい」
 先輩の声で初めて、教授たちが戻ってきたことに気づいた優也は、慌ててディスプレイから目を離し、あたふたと立ち上がった。
 「お、お帰りなさ―――…」
 そう言って、頭を下げかけて。
 10度ほど傾いたところで、優也の体は、完全に固まってしまった。

 誰? というのが、最初に頭に浮かんだ一言。
 そして、その見慣れない人物が誰なのかわかった途端、頭が真っ白になった。あまりにも、驚きすぎて。

 「おおおっ! 気合い入ってんなぁ、藤森!」
 留守番役の先輩も、さすがに驚いたらしく、即座に感嘆の声を上げた。何か書類でも入っているのか、紙袋を両腕で抱きしめるように抱えた真琴は、研究室中から自分に集中する視線に照れたかのように、えへへ、と笑った。
 「教授に恥かかせる訳にはいきませぬからね〜。お子様を連れてきた、と言われないように、ワタシも頑張ったのですよ〜」
 初めて見る、真琴のスーツ姿だった。
 髪は見覚えのあるポニーテールだが、チャコールグレーのシンプルなスーツ姿の真琴は、日頃中学生か高校生にしか見えない真琴とは、まるで別人だ。いや、服装もそうだが、それ以上に、多分……顔、が。
 もしかしたら普段もそれなりにメイクを施しているのかもしれないが、今日の真琴は、はっきりとメイクとわかるメイクをしている。ここに奏がいたら、きっと詳しく解説をしてくれるのだろうが、優也に言えるのは「口紅を塗っている」その1点だけだ。目も普段より少しくっきりして見えるので、目にも何かしているのかもしれないが、この手の情報に疎い優也には、どういう技術が加えられているのか全くわからなかった。
 子供が背伸びをして大人の格好をしているように見える、かと思いきや……極、普通。小さくて、童顔で、えへへへ〜、という脱力しきった笑い方なのに、いつもと違う格好をした真琴は、どう見ても中高生には見えない。年齢相応の―――優也より2つ年上の、大人の女性に見えた。
 「なんだなんだ、こんな時間まで居残りかー? そんなに学会の小難しい土産話が聞きたいのか」
 呆然状態の優也をよそに、教授は疲れた様子で首をコキコキ鳴らしつつ、留守番組に向かってノンビリとそう言った。小難しい話など御免被りたい先輩は、慌ててぶんぶん首を振った。
 「ち、違いますよ。穂積が内定決まったってんで、祝賀会開こうと思って待ってたんですよ」
 「おっ、そうか。決まったか」
 多分内心では、祝賀会なんて開かなくていいのに、と言いたいのだろう。話を振られ、蓮は微妙な表情で「はぁ」と答えた。
 「うむ、めでたいめでたい。それじゃあ久々に飲みに行くか」
 「ですよねー」
 単に飲めれば何でもいいのだろう、博士課程の先輩は、満面の笑みで教授の言葉に同意した。
 当然、飲み会のダシに使われた当人が抜ける訳にもいかない。諦めたようにため息をついた蓮は、帰る支度をしようか、と声をかけるために優也の方を見た。
 「秋吉」
 「……」
 「おい、秋吉」
 ドン、と肩を叩かれて、優也はようやく我に返った。
 「え…っ、な、何?」
 「…飲みに行くって。大丈夫か?」
 「あ…ああ、そ、そう。うん、大丈夫」
 「…大丈夫に見えないんだけど」
 「大丈夫だから、ほんとに!」
 精一杯、笑顔を作った優也だったが、明らかに引きつった笑顔は、蓮には逆効果だったようだ。ますます訝るような目になりつつも、蓮はそれ以上何も言わず、「そうか」とあっさり引っ込んでくれた。
 ―――し…しまった。今、一瞬、頭真っ白になってた。
 何故こんなに動揺するのか、自分でもさっぱりわからない。
 わからないけれど、優也は酷く動揺していた。動揺しすぎて、鞄に入れようとしたノートを2度も落としてしまうほどに。

 この段階で、既に、相当普通ではない精神状態だったのだろう―――後に、この日のことを振り返って、優也はそう思うことになる。
 だが、この時優也は、自分が普通ではなくなっていることに、気づいていなかった。
 いや―――こんな些細なことで動揺する自分が恥ずかしくて、気づかないフリをしていただけかもしれない。

***

 「おおっ、今日は脱ウーロン茶か!」
 「は、はいっ、いたただきますっ」
 普段なら乾杯用に一口程度しか注がないビールを、きっちりグラス1杯分注いでもらってしまったのは、どうしてなのだろう? 自分でもよくわからない。
 「おい…やめといた方が…」
 優也がいかにアルコールに弱いかを知っている蓮が、隣から控え目に忠告する。が、不自然なほど元気な笑顔を顔全体に貼りつけた状態の優也は、異様なハイテンションでその忠告を断った。
 「大丈夫! このところ落ち込むことが多かったし!」
 「……」
 飲みたくなる理由としては成り立っても、飲んでも大丈夫な理由としてはまるで成立しないセリフだ。蓮の目が、ますます「こいつ大丈夫か」という心配げなものになったが、優也はそれに気づかなかった。
 「ではでは、修士1年生の学会雑用デビューと、穂積の就職内定を祝って、かんぱーい!」
 幹事である先輩の掛け声で、教授も参加しての宴会は始まった。

 真琴が真向かいの席に座っているのは、わかっていた。が、目が合ってしまうのが何故か怖くて、話をするのがどうにも気まずくて、優也は終始、前を見ないようにしていた。
 幸い、教授が隣の席だったので、優也は、教授のありがたいお話に相槌を打ちつつ、ひたすらお酌をしていた。お酌の合間に、教授や先輩から「酌ばかりしないでお前も飲め」と言われるたび、ハイ、ハイ、とグラスを口に運んだ。
 乾杯のために用意したグラスが空になり、そこに最初と同じ程度の量のビールが注がれて、そのことにも気づかぬうちに、またグラスに口をつけて……そうやって、結局、何杯飲んだのだろう?
 顔が熱くなり、心臓がバクバクするのを過ぎた辺りから、次第に記憶が飛び飛びになり―――…。
 「お、おい、秋吉!!!」
 誰かの叫び声を最後に、完全に、途切れた。

 

 『…それは、先輩の勘違いですよ』

 ―――…勘違い…? 何が…?
 どこからともなく聞こえてきたセリフに、頭の片隅で、問いかける。
 どこか別世界を漂っているような、不安定で宙ぶらりんな気分―――上も下も、わからない。わかるのは、誰かが傍にいて、誰かと話していることだけだ。

 『秋吉は、先輩を尊敬してるんです』
 『うーん…あんまり、尊敬して欲しくないナリよ〜』
 少し落ち込んだような、ため息混じりの声が聞こえてくる。
 『秋吉君は、ワタシを買いかぶりすぎなのです。ワタシはただ、先のことをなーんにも考えずに、今やりたいことをやってるだけなのに―――将来のことを考えて、あれこれ迷っている秋吉君の方が、ワタシよりずっと大人で立派なのに、秋吉君はいつもワタシを見上げるばかりなのです。自分が上にいることに、気づいてないナリよ』
 『…どっちが上とか下とか、そういうものでもないと思いますけど…』
 『うん。本当はね、穂積君の言うとおり、上も下もないと思う。けど…秋吉君の視線は、いつも、ワタシを見上げてる気がする。ワタシだって、自信なんて全然ないし、先のこと考えて不安になることもあるのに、秋吉君の目にはそういうワタシは映ってないナリよ』

 ―――そんな、悲しそうな声、出さないで下さい。マコ先輩。
 すみません。わかってるんです。
 先輩だって、僕と同じように、悩みもするし迷いもする―――未来の自分が思い描けないのは僕だけじゃないって、わかってるんです。本当は。
 でも、先輩は、いつも楽しそうだから。
 三角形も、四角形も、三次元も四次元も、楽しい。ピラミッドも楽しい、万華鏡も楽しい、パズルも音楽も学食も研究室も楽しい。世の中のいろんなものが、いろんなことが、先輩っていうフィルターを通すと、とても楽しそうに見えるから。
 だから、就職だとか、進学だとか、社会だとか、世間だとか、そんな、僕が頭を抱えて袋小路に入ってしまいそうなものさえ、先輩の目を通すと、なんだか楽しそうな風景に見えるんです。いつも、いつも、いつも。

 前は、とても苦手だった筈なんだけど。
 僕にはついて行けないような発想とか、変化球だらけの会話とか、ポジティブすぎる思考とか…合わない、疲れる、苦手だ、って思ってた筈、なんだけど。
 思いっきり「世間」を意識して、胸を張って、ついでに肩肘も張って颯爽と歩く、友永さんみたいな女の人に、憧れていた時もあった筈、なんだけど。

 僕は今日、形式どおりのスーツを着て、教授に恥をかかせないように、なんて「世間」を意識したセリフを口にする先輩を見て、どうすればいいか、わからなかったんです。
 突然、先輩が、まるで違う世界に行ってしまったみたいな―――僕には見えていた筈の先輩の、先輩らしい未来が、突然、僕の知っている先輩とは違う未来に置き換わってしまったみたいに思えて……とても、寂しかったんです。

 マコ先輩。
 先輩には、いつもの先輩でいて欲しいです。
 いつもの調子で、僕や穂積を翻弄しながら、「秋吉君〜、地球はいつだって回っているのだよ〜、だからユーが悩もうと悩むまいと、嫌でも明日は来るナリよ〜」と言って欲しいです。
 先輩がそう言ってくれたら、家庭教師をクビになろうが、次のバイトが見つからなかろうが、履歴書が3枚もパーになろうが、いつかは何とかなるさ、と、僕にも思える気がしてくるから。

 『穂積君は、親友だから、秋吉君と同じ目の高さでいられていいなぁ…。羨ましいナリよ』

 

 ドーーーーーン!!!

 「……っ!!」
 なんだか聞き覚えのある騒音に、優也はギョッとして、飛び起きた。
 あたふたと周囲を見回すと、そこは、見慣れた自分の部屋だった。
 「あ…あれ…?」
 「…何、今の、すげぇ音…」
 眠そうな声が、斜め下から聞こえた。見ると、ベッド下の床に寝転んでいたらしい蓮が、目を開けようとしても開けられない、という感じの顔で、のそのそと起き上がっているところだった。
 「部屋揺れたぞ、多分。地震?」
 「あ…い、いや、多分、2階の木戸さん、だと、思う…けど」
 去年辺りは不気味なほど静かだったが、ここ最近はいつもの元気が復活したのか、恒例のフィットネス器具落下事故もたまに発生している。優也はもう慣れてしまったが、蓮にとっては初めて聞く衝撃音だろう。木戸が今の音の発生源と聞き、蓮は訝しげに天井を仰いだ。
 「一体、何してるんだ?」
 「…バーベルとかダンベルを、勢い余って落としてるんだよ。前、一宮さんと苦情言いに行った時、見た」
 「ああ…たまに壁が振動するのは、それか。壊れそうにないから、あまり気にしてなかったけど」
 壁が揺れたら、普通、もう少し気にするものではないのだろうか? いや、奏もあまり気にしていなかったから、下の階と隣の部屋とでは衝撃の伝わり方にかなりの差があるのかもしれないが。
 いや、そんなことより―――嫌な汗がじわじわと滲んでくるのを感じつつ、優也はベッドから身を乗り出し、まだ寝ぼけ眼の蓮の肩を掴んだ。
 「あ、あの、穂積」
 「ん?」
 「…昨日って、僕…」
 「…ああ」
 優也が訊きたいことを察したのか、蓮が軽く頷いた。
 「相当酔っ払ってたからな。鍵開けっ放しで帰る訳にもいかないから、ここで寝かせてもらった」
 「そ、そう。ありがとう、わざわざ」
 「…俺より、教授にお礼言っといた方がいいぞ」
 「えっ」
 「その様子じゃ電車は無理だろう、って言って、教授がタクシー呼んでくれたから」
 ―――さ…最悪…。
 こともあろうに、教授の手まで煩わせてしまったとは―――滲む程度だった汗が、一気にダラダラと背中を伝い始めた。
 「それと、11時過ぎに、携帯鳴ってた。誰からか知らないけど」
 「…あ…、うん」
 教授のことでまだ頭が混乱しているが、その片隅で、多分理加子だろうな、と考えた、その時。
 「―――それと、マコ先輩が、気にしてた」
 「えっ!!!!」
 マコ先輩、の一言に、心臓が変な具合に跳ねた。
 「秋吉の様子がおかしい、避けられてる気がする、って」
 「……」
 「よっぽどスーツ姿が変だったのか、ってガックリしてた」
 「…わ…わかった」
 タイムマシンが欲しい。
 今すぐ、昨日の夕方に戻って、全部やり直したい。
 泣きたい気分になりながら、優也は、一体何をどういう風にフォローを入れたらいいのか、途方に暮れた。

***

 「あーきーよーしー君っ」
 「!!」
 大学に着くなり、いきなり、真打ち登場。
 ドキドキしながら振り向くと、そこには、へらっとした笑顔の真琴が立っていた。
 「どしたのー? また1人?」
 「ほ…穂積はあの、しゅ、しゅ、しゅ、就職課に、書類出しに行って、行ってます」
 ―――あああ、落ち着けっ!
 こういう時、自分で自分が心底嫌になる。手のひらが異様に汗ばんでくるのを感じつつ、優也は真琴の方に向き直った。
 「そっか。それにしても、昨日は大変だったナリね〜。どぉ? 二日酔いとかならなかった〜?」
 「あ、はい、大丈夫……」

 ―――あ。
 いつもの、マコ先輩だ。

 あまり背の高くない優也から見ても、はるか眼下にある、真琴の顔。童顔な上に化粧っ気もないから、とても成人しているようには見えない。優也もよく知る、いつもの真琴の顔だ。
 当たり前のことなのに、何故か、改めて「ああ、いつもどおりだ」と思った。
 思ったら、何故か、胸のドキドキがすーっと凪いで、代わりに安堵にも似た暖かさがじんわりと体に沁みた。
 「? どーしたの? 何か顔についてる?」
 あまりに優也がまじまじと顔を見つめるので、真琴は少し焦ったように、自分の頬や口元を確かめるように触った。その様子が面白くて、優也の体から、一気に力が抜けた。
 「…いえ。いつもの先輩だなー、と、思って」
 「は?」
 キョトンと目を丸くする真琴に、優也はくすっと笑った。
 「昨日みたいな格好、似合うけど、なんだか別人みたいで、落ち着かなくて。いつもの先輩だなー、と思って、ホッとしたんです」
 「……」

 みるみるうちに真っ赤になる真琴の顔を見て、また心臓が変な風に暴れたけれど。
 自分でも、あの真琴にこんな顔をさせることができるのか、と気づいた分だけ、優也はほんの少し、愉快な気分になれた。


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