| Presents TOP |

ある男の最高に危険で最高に不幸な1日

 

 男はその時、極限状態にあった。

 振り返ればそこには、たった今襲撃に失敗したコンビニエンスストアの店長が、鬼の形相で追いかけてくる姿。失敗したのに追いかけられるなんて、計算外もいいところだ。
 ―――俺は何も盗ってないし、脅しただけで危害も加えてねぇのに…。
 不条理だ、と、自分が立派な「強盗未遂犯」であることも忘れて憤る。

 男は、体力には自信がある。だから、見るからにスタミナがなさそうな店長を振り切るべく、より坂道の多い住宅街へと逃げ込んだのは、当然の行動だろう。
 そして、まるで天からの贈り物のように目の前に現れた喫茶店につい入りたくなったのも、いくつものアップダウンを越えてきた後だけに、いかに体力があるとはいえど、仕方のない行動だろう。
 喉が渇いた。
 振り返ると、もう店長の姿は見えない。諦めたか、振り切ったか、単に遅れてるだけか―――とにかく、今、この店に入って行っても、誰にも見咎められることはないということだ。

 彼は、ドアを開けてしまった。

 そこが、どんな喫茶店かも知らずに。


***


 カランカラン、とドアベルが軽快な音を立て、ドアは開かれた。
 店内にいたのは、この店のマスターらしき自分より若干年上に見える男と、冷めた表情をした高校生、その隣で何故かカウンターに突っ伏している大学生らしき男。以上の3人だけだった。
 「いらっしゃいませ」
 落ち着いた穏やかな声が、ドアベルに反応する。男は、まさか自分を犯罪者とは思っていないであろうマスターに罪悪感を覚えつつも、カウンターの一番端っこの席に腰を下ろした。
 「ご注文は?」
 「…アイスコーヒー」
 夏も終わり秋風が肌に冷たく感じる時期なのに、こめかみから汗を滝のように流してアイスコーヒーを注文する男の様子に、マスターは一瞬だけ不審げな目をした。
 何か言われるか、と思わず身構える。が、マスターは2秒後、にっこりと微笑み「かしこまりました」と言って水の入ったグラスを差し出した。

 水を一気飲みすると、やっと少しだけ落ち着いた。
 無意識のうちに、背後を振り返り、窓の外の様子に注意を向ける。あの店長が、まさかここまで追ってくるとは思えないが、実は見た目よりタフで、小休止を入れて根性で追いかけてきていないとも限らない。
 ―――まあ、そうなった時は、ここにいる奴ら人質にして、なんとか切り抜けてやりゃあいいか。
 作業服の内ポケットにしのばせた物を、服の上から確認する。さっきは、これを出す前に店長にカップラーメン5個を投げつけられて、つい怯んでしまったのだ。隣に座っている高校生は軟弱そうな外見だし、その向こうのいまだ顔が見えない男も、ヒョロヒョロと背が高いばかりで、到底屈強そうには見えない。マスターはひたすら温厚そうだ。なんとかなるだろう。

 「…だから、誤解を与えるような行動は慎んだ方がいいって、日頃から言ってたのに」
 隣の高校生が、溜め息混じりに呟く。
 誰に言ってるんだ、とそちらに目を向けると、高校生は、カウンターに突っ伏している男の方を、呆れたような顔で見ていた。眼鏡の奥の目が、やたらと冷やかだ。
 「俺の目から見ても、あれじゃあ、曜子さんと抱き合ってるように見えるのも無理はないですよ」
 ガバッ、と突如起き上がった男は、アイドルグループの一員だと言われたら本気で信じてしまいそうな位、芸能人な顔をしていた。が…その麗しい顔は、涙でぐしゃぐしゃになっている。
 「だからっ! あれは誤解なんだって! ヨーコが足もつれて転びそうになったから、オレが支えてやって―――そしたら、このボタンにあいつが着てたセーターのほつれてた部分が」
 「それは聞きましたって。ひっかかった糸がとれなくて、2人して試行錯誤してたんでしょう? でも、井原と律さんにそう受け取ってもらえないんじゃ、どうしようもないでしょ」
 「なんで受け取ってくれないんだよ〜〜〜〜っ!」
 「…まぁ、今頃どこかで曜子さんがうまくとりなしてくれてますよ」
 「あああ、もー、どこ行っちゃったのかなぁ、律っちゃん。この店じゃなかったら下のファミレスくらいのもんなのに、どっちにもいないなんて」

 ―――けっ、女々しい奴。
 うろたえまくる大学生を横目で眺めつつ、男はつまらなそうにカウンターに頬杖をついた。
 そんな程度で、男が大泣きするなんて、青いねぇ、ガキだねぇ、と嫌味の一つも言いたくなる。こちとら、まだ32だってのに、人生の浮沈みの大半は経験してるんだぞ。今日なんてとうとう、“犯罪”の領域に一歩踏み入れかけたんだから。
 ―――というか、“一歩踏み入れた”んだよな…。
 またそこに意識が戻ってしまい、男は落ち着かない様子で窓の外を見た。
 「お待たせいたしました」
 そんな男の思考を遮るように、マスターがアイスコーヒーをカウンターに置いた。
 氷の浮かんだ冷たそうなアイスコーヒーを、一瞬全てを忘れて堪能する。ああ極楽、といったところだ。
 グラスの半分ほどを一気に飲み、ホッと息を吐き出した男は、再び無意識のうちに背後に視線を走らせる。そして次の瞬間、男は、信じられない人物を窓の外に見つけ、顔面蒼白になった。

 そこにいたのは、疲れ果てた顔をしたコンビニの店長と―――どう見ても、警察官。

 「―――…!!!」
 思わずガタリ、と大きな音を立てて立ち上がってしまう。
 ―――ひ、ひ、卑怯だぞ! 自分ひとりじゃ太刀打ちできないと思って、警察官呼ぶなんて…!
 いや、卑怯なんじゃなく、強盗に入られて警察を呼ぶのは至極当たり前な事なのだが―――今のこの男に、そんな常識的な思考ができる訳もない。
 まさか店の中にまで気づく訳がない、もし覗き込んだとしても自分に気づくとは限らない…、そう言い聞かせた男だったが、そんな希望的観測はものの数秒で打ち砕かれた。
 窓ガラス越しに、店長の目と男の目が、ばっちり合ってしまったのだ。
 『あーっ!!』
 聞こえないが、店長がそう叫んだのは間違いない。“あ”の発音の口をして店内を指さした店長は、少し先を歩いていた警官の腕をぐいぐい引っ張り、あろうことかそのまま店の中に入ってこようとした。
 ―――おいおいおい、いきなり殴りこみか!? もうちょっと休ませろよ。こっちは何も盗ってねーんだからさ。
 パニック状態のため、こんな緊迫した場面だというのに、そんなノンビリした愚痴を心の中でこぼしてしまう。いやいや、休んでる場合じゃねぇぞ、と我に返った男は、舌打ちをすると、作業服の内ポケットに手を突っ込んだ。
 もう、やるしかない。
 できればこの手は使いたくなかったが、捕まるなんて死んでもゴメンだ。

 警官がドアを開けると同時に、カランカランとドアベルが鳴った。
 「あ、いらっしゃ―――」
 愛想よく声をかけようとしたマスターの肩を、男はカウンター越しにぐっと掴んだ。
 そして、驚きの声をあげる暇も与えずに、そのこめかみに突きつけたもの―――それは、拳銃。
 それを見て、マスターからではなく、ドアの向こうにいたコンビニ店長と、さっきまで泣いていた大学生が、同時に大きな悲鳴を上げた。
 「ぎゃーーーっ!!! けっ、拳銃ーーー!!」
 「うるせぇっ! 静かにしろっ!」
 ピタリと叫びが止む中、蒼白の顔をした警官は、うかつに動くとまずいと判断したのか、喫茶店の入口あたりで足を止めた。
 「ま…待て。落ち着け。馬鹿な真似はやめるんだ」
 どうやら、交番から急遽駆けつけた平和な“おまわりさん”らしい。こんな修羅場に遭遇するのは初めてなのだろう。落ち着けと言う声は、お前こそ落ち着けと言いたくなるほど、震えまくっている。
 「いいから早く出てけよ。この男の頭がふっとんでもいいのかよ」
 「やっ、やめるんだっ。お、お、お、落ち着けー、落ち着くんだぞー。傷害や殺人はちょっとやそっとじゃ刑務所から出られないんだからなー」
 「ごちゃごちゃうるせー! 早く出てけ!」
 語気を更に荒げると、あまり気が強い方とも思えない警官は、びっくりしたようにドアの外へと飛び退いた。勢いよく閉まったドアのせいで、ドアベルがガランガランと鳴った。
 「兄ちゃん、早く鍵かけてきな」
 「え…ええっ、オレ!?」
 指名された大学生は、あからさまに「いやです」という顔をした。が、男がギラリと目つきを鋭くすると、慌ててドアの方に走っていき、内側から鍵をかけた。

 ―――とりあえず、これで、逃げるだけの時間稼ぎができるな。

 実は、こんなことをしても時間稼ぎどころか余計逃げ難い状況になっただけなのだし、ただの「コンビニ強盗未遂」だったのが、いまや立派な「逮捕監禁の現行犯」だったりするのだが―――男はそれに、気づいていない。

 男は、ホッとしたようにガクリとうな垂れた。無論、銃口はマスターに向けたままで。
 その隣で、高校生が大学生に何やら耳打ちをしていることにも、男は全く気づいていなかった。


***


 「…あのー…」
 男がうな垂れた直後、非常に控えめに、マスターが声をあげた。
 何だ、という険悪な目を向けると、カウンター越しに服の背中近くをがっちり握られているマスターが、困ったような笑みを浮かべた。
 「この体勢、結構苦しいんですが…」
 「……」
 「マスター、こっち側に回ってくればいいんじゃないですか? それなら無理ない姿勢になるでしょ」
 それまで黙っていた高校生が、酷く冷静な声色で、酷く現実的なアドバイスをした。

 ―――なんなんだ、こいつ。

 状況わかってんのか、と、男は眉を顰めたが、高校生もマスターも、そのムードを感じ取ってはいないらしい。
 「あ、そうだね。すみません、ちょっと一度、離してもらえますか」
 「馬鹿か、お前は。離すわけねーだろっ。お前は人質なんだぞ、ひ・と・じ・ち」
 「わかってます、大丈夫です、ちょっとそっち側に回ったら、すぐまた捕獲してくれて構いませんから」
 ニコニコ笑うマスターは、そう言って、自分の服を掴む男の肘の辺りをポンポン、と叩き、
 「ね?」
 と駄目押しした。

 ―――なんなんだ、こいつら。

 男の困惑が、複数形に変わる。
 「マスターがこっち来る間、俺が人質になっててもいいですよ」
 相変わらず白けた表情をした高校生が、更にそう提案してくる。
 確かに、この姿勢は、男にとっても結構苦痛だ。ペースを狂わされるのは面白くないが、男はその提案に乗ることにした。
 「よ…よし、じゃあ、さっさと俺の隣の席に来い」
 マスターを離し、代わりに隣の高校生のブレザーを掴んで、銃口をその耳の辺りに向ける。銃口を向けられているというのに、まだ高校生の顔は白けたままだった。
 「すみませんねぇ、勝手なお願いしちゃって」
 こちらも相変わらずニコニコ顔のマスターが、そう言いながらカウンターを回り込み、男の隣の席へと移動してきた。お盆で殴るとか、何か物をぶつけるとかできた筈なのに、特にそうする素振りも見せずに。
 「…はい、お待たせしました。森下君、もういいよ、ありがとう」
 「別に俺が人質やってもいいんですけど」
 「そうはいかないよ。地元一の秀才君に怪我でもあったら、お姉さんに申し訳が立たないからねぇ」
 代役を名乗り出る高校生に、マスターは苦笑でそう答えた。すると、高校生の向こう側にいた大学生が、ちょっと心配そうな顔で更に名乗り出る。
 「でも、持久戦になったら、マスターじゃもたないよ、きっと。オレなら毎年留年スレスレだから、怪我しても誰も文句言わないからさ。オレ代わるよ」
 「大丈夫だって。拓人君だって、何かあったら律ちゃんが可哀想だろう?」
 その一言で、途端に大学生の顔が不幸一色に変わる。
 「…あああ、律っちゃ〜〜〜ん」
 「―――拓人さん、とりあえず今はその話、忘れましょうよ…」
 「けどなぁああぁあ、ほんとにどこ行っちゃったんだろう」
 「曜子さんや井原も一緒ですから、心配ないですって」
 「そうそう、大丈夫だよ拓人君。井原君だって、まさか森下君残したまま帰ったりしないだろう? 君らがここに居るのは想像つくだろうから、いずれここに来るよ、きっと」

 ―――おい。お前ら、状況わかってるのか。

 また落ち込んでしまった大学生を励ますマスターと高校生の様子に、一体自分はどこに拳銃を突きつければいいのやら、段々分からなくなってくる。男はだんだん、疲れてきた。
 「あ、とりあえず僕が人質になりますんで、彼、離してもらえますか」
 「……」
 もう何も言う気になれない。男は、マスターの求めに応じて高校生を離し、代わりにマスターの肩の辺りに銃口を突きつけた。こめかみなどのキッチリした場所に突きつける気力もなくなっていたのだ。
 「いや、どうも。―――それにしても、よく出来てますねぇ」
 「…何が」
 「このモデルガンですよ」
 マスターのその言葉に、男は目を剥いた。
 「はぁ!? 何言ってやがるんだ! これは正真正銘、本物の拳銃に決まってるだろーが!」
 「いや、でも…ねぇ?」
 男に噛み付かれて困ったような顔になったマスターは、そう言って高校生に目を向けた。
 白けた顔の高校生は、ちょっと眼鏡を掛け直すような仕草をし、軽く頷いた。
 「うん、間違いないですよ」
 「いやぁ、本物に見えたもんなぁ。オレってば大声あげちゃって、恥ずかしいよ」
 既に高校生にモデルガンだと聞かされていたらしい大学生も、弱っちゃったなぁ、という苦笑いを浮かべて頭を掻く。怒りに拳銃を握る手をプルプルさせながらも、男の心臓は、実は極限までドキンドキンいっていた。
 ―――な…なんでこんな簡単にバレたんだ!? 本物そっくり、見分けがつかねーのが、ここのモデルガンの“売り”なのに。
 そう。彼が持っている拳銃は、モデルガンである。
 元々この手のものに造詣が深い訳ではない。知人にこういうのを集めているマニアがいて、そいつに借りただけだ。本物そっくり、警察でも見間違う、という売り文句は、その知人から聞かされたし、実際、モデルガンの専門店の店先でもそういう売り文句を見た。
 なのに、一発でバレてしまった。

 ―――こいつら、何者。

 男はだんだん、目の前にいるノンビリした3名が怖くなってきた。元来、善良な小市民なのだから、怖くなるのも無理はない。
 「ところで、犯人さん。一体何して逃げてるんですか?」
 大学生が、やたらワクワクした顔をしてそう訊ねる。
 “犯人さん”―――なんちゅー呼び名だ、と思いつつ、男は面倒くさそうに眉を顰めた。
 「さぁな」
 「こんな立てこもり事件まで起こすんだから、実は凄い大犯罪を働いたとか?」
 「やだなぁ、拓人さん。そんな訳ないじゃないですか」
 相変わらず白けた顔で、高校生が溜め息混じりに言う。
 「政治犯とか快楽殺人犯が、こんな“いかにも犯罪を働きます”って顔してたら、すぐ捕まっちゃいますよ。大犯罪者は、見た目がインテリなんですよ。一見すると犯罪なんて全然無縁に見えて、結構女性にも持てそうな風貌なんかしてる人が、実は国際的なテロ組織から派遣された工作員だったりするんです」
 「へーえ。森下君、よく知ってるね」
 「趣味ですから」
 どんな趣味だよ、と内心ツッコミを入れる男を無視して、高校生は自慢げに、更に持論を展開する。
 「この犯人さんのような顔の人の場合は、もっと生活密着型の犯罪ですよ」
 「ふんふん、例えばどんな?」
 「ズバリ、スリ・ひったくり・強盗」
 男の顔が、一瞬、引きつる。
 「作業着を着てる上に、ご丁寧に会社名入りなあたりは、既にこの会社をクビになったのかも」
 「……」
 「リストラされて、奥さんや子供にも逃げられて、自暴自棄になった挙句に強盗に入って、でも結局失敗した―――そんなタイプに見えますね」
 「―――…」

 ―――なんで知ってるんだよっ!!!!!

 全くもって、その通り―――男は、半年前に、長年勤めてきた工場をクビになり、再就職にも失敗した。妻子は「とても生活できない」と言って実家へ帰ってしまい、ここ2ヶ月は、失業保険を貰いながらアパートで一人暮らしをしている。
 恐ろしいぞ、実写版名探偵コナン。いや、金田一少年か? なんでもいいが、とにかく男は、本気で寒気を覚え始めていた。

 「大変ですねぇ、不況ですから」
 銃を突きつけているマスターが、同情したように眉を寄せて男を見る。誰も今の推理が正解だなんて言ってないのに、すっかりそういう人間だと思い込んでしまったらしい。まぁ、事実、そうなのだが。
 「いや、実は、僕の同級生でもリストラされた奴がいましてね。そいつの地元は山梨なんですが、仕事がないからって言って、妻子を残して東京で一人暮らしですよ。ほんとに大変ですよ。家族を養うっていうのは」
 「……」
 ―――い、いかんいかん。何をホロリときてるんだ、俺は。
 でも、マスターの同級生とやらの話が、なんだか自分の境遇をそのまま鏡に映しているみたいに思えて、ついつい身につまされてしまう。マスターに向けているモデルガンの銃口が僅かに下がってしまったのだが、そのことにも気づかなかった。
 「そうだ、犯人さんも、マスターに人生相談してみたらどう? オレたちの大学じゃ、いい相談役として有名なんだよ、マスターは」
 まるで男を勇気付けるみたいに、大学生が明るい声で提案してくる。
 「…馬鹿か。立てこもり犯が、人質に人生相談するなんて話、聞いたことねーよ」
 「別にいいじゃない。世界初の“人質に人生相談した立てこもり犯”になれば。ギネスに載るかもしれないし」
 「…拓人さん、それは無理ですよ」

 すっかり、人質ペース。

 1分後。男は、やる気なさそうに銃口をマスターに向けたまま、この半年間の不幸について、ポツポツと語り始めていた。


***


 更に10分後。
 男は号泣していた。

 「あ、あんた達、ほんと優しいなぁ…。俺みたいに見ず知らずの人間に、そこまで言ってくれて」
 作業服の袖でぐしぐしと涙を拭いつつ、男は3人にそんな言葉を吐いていた。
 「マスターよりも若いんですから、自暴自棄になるのは時期尚早だと思いますよ」
 「そうだよ。オレと10こしか違わないじゃん。オレだってバイトをクビになったけど、こんなに明るいんだぜ? オレより大人なあんたが暗くなっててどーするんだよ」
 「まぁ、拓人君はちょっと明るすぎるけどねぇ…。でも本当に、ハローワークで仕事が斡旋されなかった位で、落ち込むことはないですよ。やろうと思えば、接客業だって何だってこなせます。僕だって、まさか自分に喫茶店のマスターが務まるなんて思ってなかったんですから」
 穏やかなマスターの口調に、男のささくれだった心も、次第に凪いでくる。

 ―――うん。確かに、自暴自棄になるにはまだ早かったよな。
 そう思うと、コンビニ強盗未遂も、人質立てこもり事件も、後悔の念でいっぱいになる。元々、スピード違反すら犯したことのない、超弱腰の男である。一旦、勢いで装ってしまった強気の態度を引っ込めてしまうと、後はひたすら、気の弱い部分ばかりが出てきてしまう。

 「まだ立てこもってから30分も経ってませんから、今出て行って自首すれば、幾分刑も軽くなると思いますよ」
 実写版少年探偵がそう言うと、男の心はその方向にグラグラ揺さぶられた。
 「うん。変な意地張って居座るよりは、潔く出てった方が、男っぽくてカッコイイと思うよな」
 大学生にもそう言われ、余計その方向へと傾く。
 そして、とどめが、マスターの菩薩様のような笑顔。
 「大丈夫。まだ、やり直しはききますから」
 「…そ…そうだよな」
 人質3名の強力な後押しを受けて、男はついに決意した。
 ここを出て、外で待機している筈のあの警官に、自首しようと。

 そして、自首の意欲満々で男が席を立った、その瞬間。

 バーーーーン!! という音と共に、喫茶店の入口が蹴破られた。

 「もりしたーーーっ!! 助けに来たぞっ!!」
 「えっ…」
 何事か、と、犯人と人質、合計4名は、目を丸くして入口の方を振り返った。
 そして、視界に飛び込んできたのは、隣にいる高校生と同じブレザーを着た少年が、木刀を持って乱入してきた姿だった。
 「う、うわ、井原…」

 「天誅ーーー!!!!」

 掛け声と共に振り下ろされた木刀は、見事、男の脳天を直撃していた。

***

 「えー、午後4時13分。強盗未遂および逮捕監禁の現行犯で逮捕する」
 「…ハイ」
 目を回していた男は、パトカーまで歩いていくことができず、喫茶店の中で手錠をかけられてしまった。
 カチャリ、という、手錠がはまる音を聞きながら、男は、疲れ果てた目を店の奥へと移した。
 そこには、例のアイドル顔の大学生が、小学生にしか見えない女の子にガミガミと怒鳴られ、うな垂れている姿。そしてその隣では、男に木刀をお見舞いした少年を、ショートヘアーの女子大生らしき人物が褒め称えている姿。あの名探偵少年は、その横で、興味津々で木刀の素振りをしていた。いずれ自分もやってみたいのだそうだ。

 ―――なんて喫茶店だよ、ここは。

 入るんじゃなかった、と後悔しても、もう遅い。
 完全にたんこぶになってしまった頭が、ズキズキと痛む。それでも警官に促され、男は渋々立ち上がった。

 「あ、ちょっと、犯人さん」
 警官に手を引かれて出て行こうとしたら、それをマスターが慌てて呼び止めた。
 今更何の用だ、と男と警官が振り向くと、人の良さそうなマスターは、ニッコリ笑って伝票を差し出した。
 「350円」
 「……」
 ―――アイスコーヒー代を払えってか?
 一気に疲れが倍増する。男は、作業服のポケットの中から小銭入れを出そうとして―――出せなかった。手錠をかけられているから。
 「…悪い。払えねーわ」
 男が手錠を見下ろしながらポツリと呟くと、マスターは残念そうな顔をした。
 「―――まあ、仕方ありませんね、この状況では」
 「警察の方にでも取りに来れば」
 「そうします。あ、それと、あと1つ」
 なんだ、まだ何か言うことがあるのか、と男が睨むと、マスターは更に笑みを深くした。


 「モデルガンの底に、値札がついたまんまですから、次回はちゃんと剥がした方がいいですよ」

 


 こうして、男の長い一日は終わった。



22222番ゲットの雪兎さんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は「お腹を抱えて笑えるような話」。主人公は社会人男性…まあ、失業してますが、社会人なので許して下さい(笑)
いやもう、なんだか、笑える話がさっぱり思い浮かばなくて。スランプですね、この方面。
内容はともあれ、メンバーは豪華絢爛です。拓人に森下にマスターだもの。最終的には井原も出てきたし。
というか、井原、何故木刀なんか持ってるんだ? 第一キミらは、一体どこで事件を知ったんだ!
…などなど、謎は残りますが、これにて一件落着。
関連するお話:「忠犬とご主人様の恋愛事情」「帰り道」「one on one」「crossover」などなど


Presents TOP


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22