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crossover ― クロスオーバー・2 ―

 

 最初、俺は、道端に転がってるそれの正体がわからなかった。
 灰色をした、ぼろきれのような物体。冬の時期だけに、学生の誰かが上着でも落としたんだろうか、と一瞬思う。けれど、遠目に見てもゴミとしか思えないみすぼらしさは、落とし物にしてはおかしすぎる。
 更に近寄って見てみると、それは、微かに動いているみたいだった。
 何だかわからないけど、生き物だ。
 そう思った瞬間、やっと脳が事態を正しく認識した。

 ―――何かわからねー生き物が死にかけてる…!

 猛ダッシュでその物体の傍に駆け寄る。荷物を地面に投げ出し、そいつの傍にしゃがみこんで、一体何なのか、そして状態はどうなのか、注意深く観察した。
 近くでよく見てみたら、ぼろきれに見えたそいつは、灰色の毛並みをした犬だった。
 種類は何だろう…九州の実家で飼っていた秋田犬とは明らかに違う、外国生まれっぽい姿をしている。毛は短く、筋肉質で、敏捷性に優れてそうな容姿なのに、何がどうなっているのか、その犬はズタボロになっていた。
 足が折れてるような気がする。毛が一部毟られたようになっていて、痛々しい赤い傷口が見えている。他はもうよくわからないが、だらんと舌を出し、なんとか息をしている、といった感じで喘いでいる。

 …さて、どうする。
 いくつかの選択肢が頭に浮かぶ。
 救急車―――いや、違う。それは人間しか運ばないぞ。
 保健所―――それは、まずい。この犬は首輪をしていない。多分、野良犬だろう。しかも瀕死状態…始末されるに決まっている。託せば確実にぶっ殺されると分かっている相手に、まだ死んでない犬を渡す訳にはいかない。
 獣医―――どこにあるんだ、獣医。駅の周りでは見た事ねーぞ。
 自宅に連れ帰る―――馬鹿か俺は。うちのアパート、ペット類一切禁止で、坂上さんとこなんて金魚飼ってただけで大家が怒鳴り込みに来たばっかりじゃねーか。こんなでかい犬連れ帰ったら、まず追い出される。
 このまま置いて帰る。
 …それだけは、絶対、できない。俺の性格上。

 悩みに悩んだ俺の脳裏に、ある案が浮かんだ。
 チラリと目を上げれば、ここから僅か10メートル先に見える、見慣れた黒板のメニュー。
 俺は、着ていた厚手の上着を脱ぐと、慎重にその犬をそれで包んだ。抱き上げてみた感じでは、姉貴が送ってくる10キロ入り米袋よりかなり重いから15、6キロ位だろうか。
 ぐったりした犬を横抱きにし、俺は10メートル先にあった喫茶店の扉を、肩で押して開けた。カランカラン、とドアにつけたベルが鳴り、香ばしいコーヒーの香りが流れてくる。
 「あ、久保田君、いらっ…しゃ…い!?」
 カウンターの向こうの渡会さんの声が、変な具合にひっくり返る。当たり前だ。ここは飲食店、瀕死の犬を連れ込むには適さない場所だから。

 「渡会さん、すまねーっ! 知り合いの獣医呼んで、大至急!」


***


 「オーストラリアン・キャトルドッグだって」
 「…聞いたこともねーなぁ…」
 「…まぁ、明日、犬の図鑑でも持ってくるよ。葵さんの部屋にあった筈だから」

 今、獣医に手当てしてもらった犬は、渡会さんの喫茶店の裏にある犬小屋におさまっている。
 幸い骨折は免れていたらしいが、体力が弱っているのと打撲や切り傷が酷いので、ほとんど動けない状態であることに変わりはなかった。入院させる必要はないと思う、と獣医が言うので、とりあえずはここに住まわせることにしたが、本当に大丈夫なのかと心配になるほどの衰弱振りだ。


 俺がこの喫茶店の先にある大学に入学した当初、この犬小屋には、愛嬌のあるビーグル犬が住んでいた。
 当時のこの喫茶店のオーナーだった葵さんが飼っていた犬で、犬と一緒にこの喫茶店に出勤し、また帰る時は犬を連れて帰る。つまりこの犬小屋は、その犬の日中の住みかだった訳だ。
 そのビーグル犬は、俺が大学2年の冬、飼い主の葵さんと一緒にトラックにはねられて、この世を去った。
 葵さんの方は、一命はとりとめたが、あれから2年経った今も、まだ目を覚まさない。目を覚まさない葵さんの代わりに、この喫茶店を引き継いだのが、葵さんの婚約者だった渡会さんだ。
 ラッキーという、皮肉な名前の犬だった。
 「ラッキーが葵さんを守ってくれたのかもしれないね」―――ラッキーの墓を喫茶店の裏に作った時、渡会さんはぽつりとそう言っていたという。


 「事故かねぇ…随分とズタボロだったけど」
 犬小屋の中を覗き込みながら、渡会さんは溜め息をついた。
 「跳ね飛ばされて、道端に落っこちたって可能性もあるからねぇ。表通りならわかるけど、こんな住宅街で犬にこんな怪我負わせるほどのスピード出してたなんて、ちょっと許せないな」
 水の入った皿を、犬の口元すぐのところに置いたが、一向に飲む気配すら見せない。
 …あの獣医、本当に信用できるんだか…だんだん怪しくなってきた。
 「明日の朝来たら死んでた、なんてオチになってそうで怖い」
 「大丈夫だよ。あの獣医さん、ラッキーの主治医だった先生なんだから。一晩ここで寝かせても問題はないよ」
 「けど、冬だしなぁ、まだ…。こいつ、寒がるんじゃねーかなー…」
 「なら、犬小屋の中に、いらない布でも詰めとこうか」
 「そうだな…何もしないよりはマシかもしれない」
 渡会さんは、店の模様替えの時に撤去した古いカーテンを、店の奥から持って来た。俺たちはそのカーテンをいくつかに引き裂いて、犬小屋の隙間に詰めてやった。
 「早く元気になれよー」
 頭を撫でてやったが、犬は、目を開けることすらしなかった。


***


【オーストラリアン・キャトルドッグ】
 飼い主に対しては従順、それ以外の人間には懐かない。持久力、敏捷性ともに抜群。
 警戒心が非常に強く、他の犬や知らない人間に警戒心を抱きやすいので、攻撃的にならないよう、子犬の段階からしつけなくてはいけない。

 ―――飼い難そうな犬だなー…。
 渡会さんに借りた「ペット大図鑑」を見ながら、俺は眉を顰めた。
 生来の野良なのか、飼われていた犬が逃げたか捨てられたかしたのか、その辺は定かではない。が、大きさから言ってどう見ても成犬だ。この年齢から、新たな主従関係なんて結べるんだろうか。
 「へぇ…。これが、あんたが拾った死にかけの犬か」
 犬小屋の前にしゃがみこんだ瑞樹が、まだぐったりしている犬を無表情に見下ろし、そう言った。
 犬の状態は、今朝見た時と大差ない。生きてるんだか死んでるんだか、と不安になるほど、目を瞑って伏せの姿勢のまま、声をかけようが水を差し出そうがさっぱり動かない。怪我の状態よりも、脱水症状や空腹の方が心配になってくる。
 「全然動かねーじゃん、こいつ。死んでんじゃねぇの」
 「馬鹿野郎っ! 縁起でもないこと言うんじゃねえっ! ちゃんと生きてんだよ、腹のあたり見ろよ、動いてるだろがよ、ちゃんと!」
 「…冗談だって。熱くなるなよ」
 呆れたような顔で眉を上げた瑞樹は、見ていても全然変化のない犬に飽きてしまったのか、よっ、と反動をつけて立ち上がった。
 「んで? どうすんだよ、こいつ」
 「…まあ、暫くは、ここで飼うことになるけどな。いずれはちゃんとした飼い主、見つけてやらないと、と思ってる。けどなぁ…扱い難そうな犬種なんだよなぁ、こいつ」
 開いたままだった「ペット大図鑑」を瑞樹に突きつける。それを軽く流し読みした瑞樹は、視線をまた犬に戻した。
 「こいつが何も食わないのって、人間を警戒してるからなんじゃねぇの」
 「―――そんなこと言われても…じゃあ、どうやって餌をやりゃあいいんだよ」
 「届く範囲に餌置いたまんま放置すりゃいいだろ」
 「食うかどうか気になるじゃねーか」
 「気にしなくたって、腹減ってりゃ食うし、満腹なら食わねぇよ」

 ばっさり。
 そんな効果音が聞こえてきた気がする。
 情け容赦ないセリフ―――けれど、一理ある。
 俺たち人間なんかより、この瀕死の犬は、数十倍も数百倍も強い生きていく力を備えている。電気ガス水道が揃ってないと生きていけない軟弱な都会人より、川の水を汲んで薪で火をおこしランプの明かりで夜を過ごす人々の方が、生きていく力が強いのと同様に。
 生きる力が強い。それは、本能が正常に機能してるってことだ。
 腹が減れば、食う。満腹なら、食わない。腹が減ってもいないのに食う人間とは違って、こいつらは自然のサイクルに従って生きてるに違いない。

 「…そうだな。お前の言う通りかもしれない」
 パタン、と「ペット大図鑑」を閉じた俺は、ちょっと離れた所に置いておいた水を、犬がちょっと首を伸ばせば届く所へ移動させた。
 「せめて水くらい飲めよー」
 そう声をかけたところで、はた、と気づいた。
 いつまでも犬、犬と呼ぶのも不便だと。
 「なあ、瑞樹。この犬の名前、何がいいと思う?」
 瑞樹を仰ぎ見、訊ねる。極普通の質問をしたつもりだったのに、瑞樹はもの凄く不審げな顔をした。
 「…なんで名前なんてつけるんだよ。あんたの飼い犬じゃないんだろ」
 「いや、でも、不便だろ」
 「“犬”でいいだろ、他に犬いないんだし」
 「なんかそれって、迷子に対して“おい、人間”て言ってるみたいで、気分悪くねーか?」
 「…そんなもんかね」
 「そんなもんだ」
 どこか納得のいかない顔のまま、瑞樹は、ちっとも動かない灰色の犬を見下ろした。
 眉間に皺を寄せてじーっと犬を睨んでいた瑞樹だったが、15秒後、名前が決まったらしく、俺の方に視線を向けた。
 「ハン・ソロ」
 「―――なんでいきなり“スター・ウォーズ”なんだ?」
 「眉間の辺りが似てる」
 「……」
 「じゃ、俺、バイトあるから」
 ふらりとその場を立ち去ろうとする瑞樹をよそに、俺は思わず、犬の顔を凝視してしまった。眠ってるのか狸寝入りなのか、目を閉じてしまっている顔は、あの大スター、ハリソン・フォードに似てるかどうかなんて、俺には判別がつかない。

 「―――冗談だって。いちいち真に受けんなよ」

 呆れたような声が背後から聞こえて初めて、俺は瑞樹にからかわれたのだと気づいた。


***


 その犬の名は、なし崩し的に「ハン・ソロ」になってしまった。

 ハン・ソロは、名前がつけられた翌朝見てみたら、うっすら目を開けていた。前日置いておいた水の入った皿は、半分位まで減っていた。どうやら、夕方か明け方に飲んだらしい。
 この日は試しに、ドッグフードと水を並べて置いてみたが、まだ無理なのだろう、翌朝見たら水だけ減っていた。
 元気になったら絶対洗わせてはもらえないと思うので、4日目の夕方、喫茶店の終わった渡会さんに協力してもらって、全身を洗ってやった。やつは、終始不愉快そうな顔をしていたが、反抗するだけの体力はないらしく、黙って洗われていた。
 「洗っても灰色だなぁ。元々こういう色なんだろうな」
 いまだ「ペット大図鑑」が手放せない渡会さんが、そう言いながら、ドライヤーをかけ終えたハン・ソロの毛並みと図鑑を見比べる。図鑑にあるオーストラリアン・キャトルドッグの写真より、ハン・ソロの毛は若干薄い色をしていた。
 「こいつの飼い主、どうやって探すかな…。渡会さん、なんか、つてとかある?」
 「あの獣医さん位だよ。元々、僕は犬飼ってた経験ないし、周囲で犬飼ってたのは葵さんだけだしなぁ」
 「引き取る気あるんなら、診察に来た段階で連れて帰ってるよな」
 「だねぇ。久保田君は、誰か心あたりない?」
 「心あたりかー…」
 ハン・ソロの毛をブラッシングしながら、色々な顔を思い浮かべてみる。
 瑞樹…は、駄目だな。あいつのアパートもペット禁止だし。多恵子の家なら庭があって良かったのに、あいつ、マンションに引っ越しちまったしなぁ…。大塚んちはでかいシベリアン・ハスキー飼ってて、餌代がばかにならないってぼやいてたし、晴彦んとこは妹が動物アレルギーだし…。

 ―――あ、そうだ。

 「1人だけ、心あたり、あるかもしれねー…」


***


 「これ? 久保田君の言ってた犬」
 「そう」
 俺がハン・ソロを拾って1週間後、佐倉が、ハン・ソロを見に来た。
 大学生でありながらプロのモデルもやっている彼女は、今日はびしっと決めたスーツにピンヒールを履いている。ハン・ソロが、いきなり飛びついたりしたらまずいな、と一瞬思ったが、佐倉は構うことなくハン・ソロの目の前にしゃがみ込んだ。
 ハン・ソロは、ドッグフードを僅かばかり食べる位にはなっていた。日中は、犬小屋から出てきて、むき出しの地面に寝そべっている。さすがに放しておくのはまずいので、首輪とリードをつけているが、人間に飼われてる象徴のようなそれらのアイテムは、なんだか奴にはあまり似合わなかった。
 「ハン・ソロっていうんだ」
 「は? なんでまた」
 「…知るかよ。瑞樹がつけたんだよ、この名前」
 「へー、成田がねぇ」
 佐倉は、感心したような声をあげ、地面にべったり伏せているハン・ソロの顔をまじまじと見つめた。ハン・ソロの方は、面倒そうに目を開け、無関心な目を佐倉に向けている。
 「なんて言うか…愛想のない犬ね」
 「警戒心が強いんだよ」
 「うーん。あたしは嫌いじゃないけどね、こういう無愛想な顔。でも、日中、家には弟か母親しかいないじゃない。小型犬ならまだしも、こいつそこそこ大きいし、しかも顔怖いし、ちょっと無理かも」
 「そうかぁ…」
 昔犬を飼ってた、と聞いてたから、もしかしたら、と思ったけど―――どうやらハン・ソロの外見が問題だったようだ。
 俺たちの会話が分かった訳ではないだろうが、ハン・ソロの顔が、なんだか不機嫌になったように見えた。まだじっと見据える佐倉の視線から逃れるように、面倒くさそうに顔を横に向けてしまう。
 「マスターに頼んで、店に“犬譲ります”の貼り紙でもすれば?」
 「そうだなぁ。それぐらいしかねーかぁ…」
 「しかし、久保田君も、厄介な奴ばっかり面倒みたがるわねぇ。多恵子といい成田といいこの犬といい…もしかしてマゾ?」
 「…うるせー」
 「それにしてもこの犬、誰かに似てる気がするわねぇ…」
 ハン・ソロの顔を、さっきより離れた角度で眺めた佐倉は、ポン、と手を打って、満面の笑みで俺を振り返った。

 「そうよ。こいつって、成田に似てない?」


***


 「―――なんだよ」
 「え?」
 「さっきから、人の顔をジロジロジロジロ…」
 中庭のベンチに腰掛けてマルボロを口にくわえた瑞樹が、不愉快そうな顔で俺を見上げた。
 ―――似てる…。
 そう思った瞬間、笑いが奥底からこみ上げてきてしまった。
 思わず、体を折って笑いを噛み殺す俺を、瑞樹は、変なヤツ、という顔で睨んでいる。けれど、問いただすのも面倒なのだろう。ライターを胸ポケットに放り込むと、瑞樹は煙草の煙を吐き出し、中庭に四角く切り取られた空を見上げた。
 確かに、似てる。顔がどうのこうの、というよりも、ムードが。

 ハン・ソロは、一応子犬時代のしつけが良かったのか、俺や渡会さんに噛み付くこともないし、「わー、犬だ犬だ」と手を出してくる近所の子供に唸り声をあげることもない。
 ただし、愛想は悪い。尻尾を振らないのは犬種のせいかもしれないし、怪我がまだ癒えてないからかもしれないが、それを引き算してもまだ愛想は悪い。真っ黒な瞳は、ちょっとの間人の目をじっと見るのに、すぐに「どうでもいいや」という感じに視線を逸らしてしまう。そのくせ、手で触れようとすると、ぱっと顔をこちらに向けて睨みつけてくる。触られるのが嫌いらしい。
 それに、ハン・ソロの鳴き声を、俺はこの1週間、一度も聞いていない。勿論、吠える声も。もの凄く無口なやつなのだ。

 瑞樹も、もの凄く無口なやつだ。
 人の目を見る時、瑞樹の視線はいつも真っ直ぐだ。相手を魅了してしまうような目つき―――男女関係なく、どこか寂しげな瑞樹の目に魅入られる奴は多い。なのに、瑞樹自身は誰にも懐かなくて、ちょっとでも立ち入ろうとすると、迷惑そうな顔をして距離を置いてしまう。しつこすぎる相手には、冷酷に噛み付いてくる。

 「…似てるよなあ、ほんとに」
 「誰に」
 「…いや、いい。言うとお前、多分怒るから」
 ますます、変なヤツ、という顔をする瑞樹を、俺はまだ笑いをこらえながら眺めた。
 俺のすぐ傍で、のんびりと煙草を燻らせている瑞樹を見ているのは、嫌いじゃない。その気分は、この間ハン・ソロの毛をブラッシングしてやった時の気分と、どこか似ているような気がした。


***


 2週間もすると、ハン・ソロはほぼ回復した。
 朝、大学に向かう際に立ち寄ると、既に犬小屋から出て寝そべっていたりする。帰りに寄ると、リードの届く範囲でのそのそ歩き回っていたりする。置いていく水やペットフードも、毎日綺麗に平らげられるようになった。
 ハン・ソロの過去については、渡会さんといろいろ推理した結果「飼い犬で、飼い主の都合により捨てられた」とほぼ断定された。しつけの良さが飼い犬であったことを証明しているし、もし自分で逃げ出したのなら首輪をしたままの筈だから。
 元飼い犬であれば、人間に飼われることに、あまり抵抗感は無い筈だ。そろそろ、本気で飼い主を探さなくてはいけないかもしれない―――俺は、里親探しのためのチラシを作り始めた。

 

 ある午後、作り終えたチラシを貼り出そうと渡会さんの店に行くと、店の裏では、妙な光景が展開していた。

 犬小屋の前の空き地に、瑞樹が胡坐をかいて座っている。
 ハン・ソロは、その瑞樹と向き合うようにして座っている。
 瑞樹は、手に小さなゴムまりを持っていた。昔、駄菓子屋なんかに売ってたような、カラフルなやつだ。
 瑞樹はそれをポン、と軽くハン・ソロの方へと放った。コロコロと、のんびりしたペースでゴムまりが転がる。すると、ハン・ソロは、足元に転がってきたそのゴムまりを鼻先で止めた。
 今度はハン・ソロが、前足や鼻を使って、ゴムまりを瑞樹の方へと転がす。また、のんびりしたペースでゴムまりが転がる。それを、瑞樹が手で受け止めた。
 ゴムまりが、瑞樹とハン・ソロの間を、コロコロコロコロ、行ったり来たり行ったり来たり―――延々、その、繰り返し。
 「―――…」
 …なんて、テンションの低い遊び方―――…。
 実家にいた秋田犬とプロレスをした思い出のある俺から見ると、老人会のゲートボール並のテンションだ。
 「…何してんだ、お前」
 思わず声をかけると、ちょうどゴムまりを受け止めた瑞樹は、首を傾けるようにして俺を振り返った。
 「久保田さんこそ、何してんだよ」
 俺は、瑞樹のこの“久保田さん”という呼び方が、前から気に食わなかった。自分と俺との間に、すっ、と線を引くような呼び方―――瑞樹曰く、先輩である以上は“さん”付けでしか呼べない、との話だが、それでもなんだか気に食わない。
 「俺は、ハン・ソロの引き取り手探すチラシ作ったんで、貼りに来たんだよ」
 「あんた、そんな暇あんのかよ。もうすぐ卒業だろ?」
 「こんな卒業間際に、一体何やる必要があるってんだよ。もうやる事なんか残ってねーって」
 「ふぅん…」
 またゴムまりを転がしながら、瑞樹は、関心のなさそうな相槌を打った。
 「で、お前は何をしてるんだ?」
 「見ての通り」
 「ハン・ソロとキャッチボールやってるのは分かるけど、わざわざ持ってきたのかよ、そのゴムまり」
 「いや。ここに転がってた」
 「へえ…でも、お前凄いな。ハン・ソロとこんなこと出来るなんて」
 俺の言葉に、瑞樹は、どういう意味だ、と問うように、訝しげに眉をひそめた。
 「こいつ、まだ俺や渡会さんの目の前で水飲んだりドッグフード食ったりしねーんだよ。まだ相当警戒してるらしくてな。そんなこいつとキャッチボール出来るなんて、ちょっと驚いた」
 「…別に。本人が付き合えって言うから、付き合っただけだよ」
 「……」
 本人が付き合えって言うから―――?
 俺は、ゴムまりを早く投げてよこせ、という感じに、前足を細かに前後させて揺れているハン・ソロを見た。こいつが、喋った? …んな訳ねーよな。俺はまだ耳にしたことはないが、もしかして吠えたり鳴いたりしたんだろうか。
 俺がじっとハン・ソロの顔を凝視していると、瑞樹がまた呆れたような声をあげた。
 「―――冗談だって。なんですぐそうやって信じるんだよ、あんたは」
 「…瑞樹。お前、性格悪いぞ、ほんとに」
 「あんたが単純すぎんだよ」
 ハン・ソロの催促に応じるように、瑞樹がまたゴムまりを放る。低いテンションのやりとりが、また始まった。
 「ちくしょー、なんか悔しいなぁ。お前の方が懐かれてるなんて」
 「懐いてねぇよ。こいつから見たら、俺はただの“ゴムまりピッチングマシーン”だろ」
 「それでもだよ。俺、“自動餌やリ機”だと思われても構わねーから、自分の手からこいつに犬用ビスケット食わせてやったり、頭撫でたりしてやりてーなぁ…」
 思わず俺がそう言うと、瑞樹は、ハン・ソロが蹴って寄こしたゴムまりを投げ返そうとした手を、ピタリと止めた。
 俺を仰ぎ見た瑞樹の顔は、ちょっと険しかった。俺の心臓が、一瞬、ドキリとするほどに。
 「あんた、この犬飼う気はないんだろ」
 「え? あ、ああ…ない、っていうか、物理的に不可能だな」
 「じゃあ、なんでそんな事言うんだ?」
 「は?」
 「こいつに自分の手で餌やりたいって、何でそんな事を思うのか、ってんだよ」
 なんで、って―――…。
 そう言われても、困る。瑞樹の質問の意図が、よく分からない。
 「普通にある人間と犬のスキンシップが欲しいだけだろ」
 「普通のスキンシップじゃねーよ、そんなの。あんた、こいつをそういう風に手懐けたくて面倒見てんの?」
 「……」
 「俺、前に何度か、こいつがうろついてんの見たことある。小学生のガキに、おもちゃのバットで殴られてた―――今回の怪我も、そういう馬鹿な連中がやりすぎたせいかもしれない。…こいつの目に、人間がどう映ってるか、わかるだろ」
 瑞樹の言葉は、衝撃的だった。
 考えてもみなかった。この、いかにも敏捷そうで強そうなハン・ソロが、子供たちに苛められていたなんて。
 「忠誠心の強い犬が、主人に捨てられてショックを受けない訳がねぇよ。その上、ガキどもに暴力ふるわれるし―――こいつ、もう人間なんて信用してねーと思う。だからあんたも、自分が飼う気がないんなら、こいつに変な期待もたせんなよ」
 瑞樹は、どこか冷たい口調でそう言うと、反動をつけて立ち上がった。ゴムまりが手を離れ、地面でポンポンと跳ねる。
 「…期待すると、裏切られた時、こいつが辛い思いするからな」
 そう言った瑞樹は、ふっと口元だけで笑うと、もう興味を失くしたみたいに、俺の横をすり抜けて行った。
 ハン・ソロは、そんな瑞樹をちょっとだけ見送ったが、瑞樹よりゴムまりの方に興味があるのか、視線を地面に落とし、リードの届かない範囲に転がる蛍光色のゴムまりをじっと見つめていた。


***


 「…俺ってやっぱ、偽善者に過ぎねーのかなぁ…」
 ほんの少しだけクリームを入れたコーヒーを掻き混ぜながら、溜め息をつく。
 「どうしたんだい、急に」
 カウンターの向こう側でコーヒー豆を挽きながら、渡会さんが不思議そうな顔をする。その渡会さんの肩越しに、さっき俺が貼った“成犬譲ります”のチラシが見え隠れする。
 「瑞樹君に、何か言われた?」
 「…ああ、言われた。あいつが俺に言うことは、いつも辛辣なんで、結構へこむ」
 「凄いね。自信満々の久保田君をへこませられるとは」
 くすくす笑う渡会さんを、思わず睨んでしまう。
 何と言われたのか、と訊ねる渡会さんに、俺は、瑞樹に言われたことをひと通り説明した。すると渡会さんは、苦笑いを浮かべて「なるほどねぇ」と言い、こめかみを掻いた。
 「そう言えば、瑞樹君がまだ1年生の頃、僕もよく言われたなぁ。“生きようが死のうが関係ない人間なのに、なんでそんなに世話を焼きたがるんだ”って」
 挽き終えたコーヒーの粉を缶に移し変えながら、渡会さんがゆっくりした口調で語り始めた。
 「僕としては、あの子がなんかとても寂しそうに見えたから、気になっただけなんだけどね。ちゃんと食べてるか、困ってることはないか、って心配する僕や葵さんを、瑞樹君は結構迷惑がってた。一人で何でも出来るし、飢え死にもしない。だから放っといてくれ、って」
 「…あ…あいつ、渡会さんに失礼なことを…」
 「え? あ、いや、別にそうは思ってないよ」
 恐縮しかかった俺を、渡会さんは慌てて制した。
 「それに、瑞樹君がそう思う心理も、ちょっとわかる気がする。親切の押し売りは、その見返りを期待しているように見えるんだと思う」
 「…けど、渡会さんは…」
 「…いいや。僕も、葵さんも、結局は見返りを期待してたんだよ」
 まさか。咄嗟に、そう否定する。
 そんな打算で親切をするような人でないことは、俺にだってわかる。打算で動くなら、今、ここのマスターなんてやってる筈がない。
 俺が眉をひそめると、渡会さんは困ったように笑った。
 「久保田君にわかるかどうか、ちょっと不安だけど―――僕も、葵さんも、確かに見返りを期待して、瑞樹君に親切の押し売りをしてたんだ。“瑞樹君に、僕たちに懐いて欲しい”―――そういう見返りを期待して」


 ドキン、と、心臓が音を立てた。

 その心理は、ちょっとわかる。
 ハン・ソロに対しての俺が、そうだ。
 よしよし、と頭を撫でたいと思うのは、それに応えて尻尾を振るあいつを見て満足したい部分があるからだ。どこか広い所であいつとフリスビーでもやりたいなぁ、と考える時、俺が投げたフリスビーをちゃんとキャッチしてくれるあいつの姿が頭にある。そういう反応を期待してるから、そうしたいと思うんだ。
 何かをしたい訳じゃない。ただ、懐いて欲しい。
 そうか―――そういうのも、見ようによっては、“見返り”か。


 「でも、瑞樹君は、ほんとに心配する必要なんかない位、自立してるんだ。ハン・ソロも、自立してる―――ちゃんと1人で生きていける」
 「けど…野良犬だろ? 残飯漁って生きてくなんて、可哀相じゃねーか」
 「確かに、残飯漁りが幸せとは僕も思わないけど―――リードに繋がれた生活とどっちが幸せか、と訊かれたら、僕も答えられない。瑞樹君の、人の優しさを拒否したような生き方も、それが幸せとは思えないけど、そうじゃないとも言い切れない。幸せは、本人が決めるものだから」
 「……」
 「なのに、わかったふりして親切を押しつけるから、瑞樹君に嫌がられたんだね。僕たちは、アプローチの仕方をちょっと間違ってたんだよ。最初から、もっと対等に接するべきだった。“面倒を見てやる”なんて上から見下ろす立場じゃなく、同じ目線に立った友達として“仲良くしよう”って」


 同じ目線―――…。

 瑞樹が何故、俺を“久保田さん”と呼ぶか、この時、少しわかった気がした。
 俺が、あいつと同じ目線に立ってないのか、あいつが、俺と同じ目線に立ってないのか。とにかく―――俺たちの目線の高さは、同じじゃないんだ、まだ。
 先輩と後輩の立場だからか? それとも、無意識のうちにあいつに“親切の押し売り”をしてたか? 懐いて欲しい…そんな見返りを期待して。


 「…まあ、とにかくさ。僕も、瑞樹君に賛成だよ。この先、ハン・ソロの“主人”になるつもりがないなら、“主人”のするような真似はしない方がいい。ハン・ソロが久保田君を主人と認識しちゃったら、いざ離れることになった時、きっとハン・ソロは“裏切られた”って思うからね」
 渡会さんは、そう言って微笑むと、余りもののクッキーの乗った皿を、俺のコーヒーの横に置いた。俺も、そんな渡会さんに笑い返した。
 「―――ああ。俺も、そう思う」


 “主人”になりたい訳じゃない。

 俺はただ、対等な“友達”になりたいんだ。「あいつ」と。

 

 

 その後、ハン・ソロがどうなったか。
 実は、その結末を、俺は知らない。
 瑞樹とハン・ソロがキャッチボールをした日から数えて、10日後。朝、俺が喫茶店の裏に行ってみると、そこにはハン・ソロの姿はなかった。
 犬小屋の傍に打ち付けた杭に、食いちぎられたリードの残骸がぶら下がっていた。
 前の日の夕方置いていった水とドッグフードが、きっちり平らげられていたのが、なんだか無性に可笑しかった。

 ハン・ソロは、窮屈な飼い犬生活に飽きたらしい。

 その後、ハン・ソロに会うことは、二度となかった。

 

****

 

 ハン・ソロがいなくなって間もなく、俺は大学を卒業した。

 卒業式の日の空は、抜けるような青空だった。
 俺は、最後の最後まで忙しく走り回らねばならない運命らしい。3年が企画する「卒業生追い出し会」の、卒業生側の調整役として、卒業式当日もバタバタせざるを得なかった。
 やっと一息つき、学食で多恵子や佐倉とバカ話をしているところに、ちょうど瑞樹が通りかかった。あいつも、「卒業生追い出し会」のために登校していた訳だ。

 多恵子に、半ば無理矢理呼び止められた瑞樹は、呼び止めた多恵子を無視して俺の方を向いた。いつもよりか、幾分穏やかな表情で。
 「久保田さん、卒業おめでとう」
 ―――こいつ…まだ“久保田さん”かよ。
 「…なぁ、瑞樹。一体いつになったら名前で呼んでくれんだ、お前は」
 うんざり、という口調でそう言うと、瑞樹は訝しげに眉をひそめた。
 「卒業したらって言っただろ、前に」
 「卒業したぞ? 今日」
 そう指摘すると、瑞樹は軽く眉を上げた。
 この反応は、一本とられた、と悔しがっている反応。それを察して、俺はちょっとだけいい気分になった。
 何か反論してくるかな、と思ったが、瑞樹はふいに表情を和らげると、僅かに微笑んだ。

 「隼雄、卒業おめでとう」

 「―――…」

 “隼雄”。
 そう呼ばれて。
 俺は、柄にもなく、激しくうろたえてしまった。
 自分でも、顔が赤くなっているのがわかる。ガタガタと学食の机にぶつかりながら、椅子に座り込んでしまう。腰砕けってこういうのを言うのか、と頭の隅で思った。そんな俺を、瑞樹はいつもの「変なヤツ」と言いたげな顔で見下ろしていた。


 でも。
 この時の俺は、ちょっと、感動してたんだよ。

 やっと瑞樹に、対等な“友達”と認められた―――なんだか、そんな気がして。



20000番ゲットのKOJIさんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は「渡会の喫茶店に瑞樹か久保田が登場させて下さい」。わははは。まさにそういう裏ネタだただけに、バレたか、とぶっとんだリクですね。
久保田が拾った犬のお話。ハン・ソロという名前になった理由は、結城も知りません。瑞樹に訊いて(笑)
瑞樹にとっては、犬だろうが人間だろうが、とにかく全ては「本人の意思を尊重する」が基本なんでしょうね。野良犬がいいとは思わないけど、その点は賛成。
で。前回のクロスオーバー作品「crossover」とは違い、これはある程度「そら」もしくは「Step Beat」を読んでる人向けに書きました。
瑞樹も久保田も知らん、という人には、ちょっとキャラの把握が厳しいかもしれません。
あと、最後のシーンは「そら」の第13話「約束のkiss」の最後の部分ですね。
前から、久保田から見た瑞樹の存在を描いてみたかったので、ちょうど良い機会でした。
関連するお話:「crossover」(Presents内では)


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