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Blue Daisy, Blue.

 

 その喫茶店は、大学の正門から続くゆるやかな坂道をしばらく下ったところにある。

 ドアの横の壁にかけられたハンギング・バスケットには、手入れされたブルー・デイジーがいつも咲いている。営業中は外のイーゼルに黒板が出ているので、すぐわかる。「OPEN」や「CLOSED」の掛札よりも、専ら学生たちはその黒板を営業中かどうかを見分ける目安にしている。遠目でもわかるからだ。
 ブルー・デイジーに水を遣り、よいしょ、という掛け声と共に黒板をイーゼルに乗せた彼は、最後に掛札をくるっとひっくり返して「OPEN」にした。
 これで準備完了…と、いきたい所だったが。
 ―――しまった。サントスがあと1缶しかないんだったな。
 昼来る事になっている仕入先の業者に、急いで追加注文の電話を入れ、ほっと一息ついた。

 開店間もなく、1人の大学生が入ってきた。本日1人目の客だ。
 「あれ? どうしたんだい、こんな早くから」
 マスターは、息を切らして店に飛び込んできた1年生に、目を丸くした。まだ午前10時過ぎ。講義のある時間の筈だ。
 「講義の合間に、走って来た。早く渡そうと思って」
 彼はそう言って、1枚のパステル画をマスターに手渡した。手馴れた線で描かれた、ブルー・デイジーのスケッチだ。
 「ああ、例の絵の代わりか。なんだ、帰りで構わなかったのに」
 「だってそこの壁、寂しいだろ? 一旦あげた物を無理言って返してもらっちゃったからさ。もう、1時間でも早く何か飾ってもらわないと、気になって気になって」
 マスターは彼を高校生の時分から知っているが、当時から律儀な少年だった。背も伸びぐっと精悍になった彼の変わらない一面に、つい顔が綻ぶ。マスターはありがたく絵を受け取り、早く戻れよ、と彼をせかした。

***

 「ねー、マスターって、歳いくつなの?」
 講義の終わった常連の学生が、カウンター席に陣取って、そんな質問をしてきた。女の子ばかり3人組。こうしてカウンター席に座った日は、必ずマスターの困るような質問をしてくる。
 「さてねぇ。いくつに見える?」
 「案外若いよね、きっと。無精ひげ風にしてるけど、それ、結構ちゃんと手入れしてるでしょ」
 「そうそう。オヤジっぽさがまだ感じられないよね」
 「ズバリ、28歳と見た! どう? 合ってる?」
 「いや〜、惜しい。凄く惜しいねぇ」
 「えっ、嘘、ホントに近い?」
 「ううん、ぜんっぜん、違うよ」
 マスターの本当の年齢は、36歳だ。
 45歳でしょう、と言われた事もあるし、今みたいに30前に見られる事もある。要するに年齢不詳。つい最近、そろそろお嫁さんなんかどぉ? と近所の主婦が見合い写真を持ってきた事があったが、相手が22歳と聞いて、手にしていたコーヒーサーバーを落しそうになった。やむなく、その主婦にだけは実年齢を正直に告白しておいた。
 「ねぇねぇ、独身?」
 「独身ぽいよね。生活臭がないもん。浮世離れしてるっていうか」
 「結婚してても、奥さんも働いてて子供もいないとか。なんかこう、家庭の存在を感じさせないよね」
 ―――勝手な事言ってくれるよなぁ…。
 苦笑しながら、マスターは彼女達のためのコーヒーをカップに注ぐ。いつもより少し苦めにしてやろうかと思ったが、やめておいた。
 「ねえってばあ、マスター。白状しちゃいなよ。独身? 彼女いるの?」
 「おいおい、質問がなんだか増えてるよ?」
 「いいじゃん〜、教えてよ〜。同じゼミにマスターのファンがいるんだってば。偵察してきてって頼まれちゃってるんだからさぁ〜」
 マスターは、しょうがないなぁ、という風に溜め息をつき、ワクワクした目の3名を見据えた。
 「じゃ、特別に教えよう」
 「うんうん」
 「独身だけど、売約済みなんだ」
 6つの目が「?」という感じに、丸くなる。
 「…ごめん。マスター、あたし達おバカだから、意味全然わかんないよ」
 「僕の恋人はね、この店。午前10時から午後7時まで、月曜日から土曜日まで、僕の人生のパートナーはこの店だから、女の子の入る隙間はないんだよ。ファンがいてくれて嬉しいけど、そう伝えといてね」
 じゃあ日曜日は? 午後7時以降は? と更に食い下がる3名を適当にかわしつつ、マスターは、お勘定をしに来た他の客に小声で「うるさくて済みませんね」と苦笑混じりに謝っておいた。

***

 3年生は、そろそろ就職について頭を悩ませる時期になる。マスターはこんな時も、良き兄貴分として、学生の相談に乗ったりする。
 「マスターって、うちの卒業生なんだって?」
 経済学部に通う男子学生の2人組が、サンドイッチを頬ばりながら訊ねる。
 「そうだよ。キミらと同じ経済学部」
 「卒業して、すぐ喫茶店のオーナーになったの」
 「いや。昔はこれでも、バリバリの証券マンだったんだよ」
 「嘘っ! 信じらんねーっ! そんな面影、どこにもねーじゃん」
 「ホント。バブルが弾ける前だから、結構羽振りも良かった。今は銀行や証券は大変だよねぇ。合併だ倒産だって慌しくて」
 「もしかして、バブル弾けて羽振りが悪くなったから、喫茶店のマスターに転職したの?」
 「あははは、違うよ」
 彼がマスターになった時、世間はまだ好景気に沸いていた。証券会社を辞めて喫茶店をやる、と言えば、誰もが反対した時代だ。そう―――彼自身ですら、まさか自分が喫茶店のマスターになるなんて、それを決断する1ヶ月前までは予想だにしなかったのだ。
 「まぁ、人間、一度の就職で人生が決まったりしないって事だね。大手企業に入社した仲間が、リストラの憂き目にあって住宅ローン返済に苦慮してたり、当時1社も内定もらえなかった奴が、その後起業して今はITベンチャーの社長だったり」
 「喫茶店のマスター業って、面白い?」
 「面白いよ」
 「どんなとこが?」
 俺たちには理解不能、という顔で答えを待っている学生を見て、マスターはなんとも言えない笑顔を見せた。

 ―――ああ、僕もそうだったよな。
 喫茶店を経営するなんて面白くもなんともない…そう主張してたのは、むしろ僕の方だった。

 

***

 

 「何がそんなに面白いの」
 「渡会(わたらい)さんには、わかんないかもね」
 (あおい)はそう言って笑いながら、洗い終わったコーヒーカップを丁寧に拭いた。
 閉店間際の喫茶店。渡会以外に客はおらず、彼は少し早めの夕食をとっていた。ピラフとサラダという昼食のようなメニュー。今日もどうせ会社に帰ってからが長いので、帰りにラーメンなどを食べる羽目になる筈だ。
 「わからないなぁ…それに、この店建てた借金って、まだまだ残ってるんだろう? 葵さんの細腕じゃあ大変なんじゃないか?」
 「大変よ。常連さんはそれなりにいるけど、1日の売上なんて知れてるし」
 「やっぱり」
 「渡会さんは、反対なの? 私がお店続けるの」
 面白くなさそうな顔の渡会を見て、葵は少し不安げな顔をした。渡会は、そんな彼女を気遣いながらも、つい本音を漏らしてしまった。
 「やっぱりさ、ちょっと面白くないよね。自分の奥さんが学生たちの間で“マドンナ”なんて呼ばれてるのを見るのはさ」
 「“マドンナ”? なぁに、それ」
 「葵さん、気づいてないだろうけどね、男性客の間でかなり人気があるんだよ? 可愛くて溌剌としてて、いつも笑顔だから癒されるって」
 「あら、そうなの? 知らなかった。今度から男の子にはもっとサービスしなくちゃ」
 「…葵さん…」
 「やだ、そんな顔しないでよ。冗談に決まってるでしょ」
 悲しげな顔になった渡会の頭をからかうように撫でると、葵はエプロンを取って、渡会の隣に座った。こういう時の葵は、渡会より2つ下の筈なのに、まるで母親のような振舞いをする。
 「何お客さんに妬いたりしてるの? 渡会さんにその時計を贈ったのは、誰?」
 「―――葵さん」
 「この指輪贈ってくれたのは、誰?」
 「―――僕」
 渡会の手首には銀色の時計が、葵の薬指には小粒のダイヤモンドの指輪が光っている。この春、結納を交わした時に交換したものだ。
 「…ねぇ、渡会さん。続けちゃ駄目? お店」
 「…でもさ…僕の収入で、十分家計はやりくりできるよ? 葵さん、フラワーアレンジメントの講師になりたいって、昔よく言ってたじゃないか。専業主婦になって、そっちの勉強するのもいいんじゃない?」
 「うん。確かにね。3年前まではそう思ってた」
 葵はくすっと笑い、木のぬくもりのするカウンターを指でなぞった。
 「3年前、お父さんが死んでこの店を残された時ね、周りの人は―――渡会さんもだけど―――この店売り払って借金返済した方がいいってみんな言ったの。私ももう疲れちゃってたから、一瞬そうしようかなって思った位。でも、いざ契約書にサインする段階になったら、思い出しちゃったの」
 「何を?」
 「お父さんがいつも言ってたこと」
 「おじさんが、言ってたこと…?」
 「喫茶店やるのは、楽しいよ、って」
 頬杖をついた葵は、ちょっと夢見るような目をして、語り続けた。
 「普段、出会える人なんて限られてるじゃない? 年齢も性別も。このお店の近所には、大学も高校も中学もあるし、少し歩けば会社も多いし、お年寄りも結構住んでるでしょ? ここにいるとね、いろんな人が向こうから来てくれて、いろんな人生を見せてくれるの。この狭い店の中で、恋をしたり、人生に悩んだり、泣いたり笑ったり―――そんな人達の人生ドラマのワンシーンに、自分が加われるなんて楽しいじゃないか、って、お父さんよく言ってた。時には恋愛相談に乗ったり、寂しそうなおじいさんに声かけてみたり、失恋気分にどっぷり浸ってる男の子のために、ちょっとせつないBGMを選んでみたり、ね」
 「おじさんらしいなぁ…」
 「私もやっぱり、お父さんの子なのよね。お父さんが磨いたこのカウンターを私も磨いて、ブルー・デイジーの手入れをして、コーヒー豆を毎日挽いて…学生さんの愚痴を聞いたり相談に乗ったり、時には一緒に泣いたり、笑ったり。―――そうするのが、楽しくて仕方ないの」
 ちょっと舌を出して肩を竦めた葵に、渡会も仕方ないな、という笑いを見せた。確かに葵は、父親譲りの性格をしている。人間が大好きで、人情家で涙もろくて。客商売向きといえば、そうなのかもしれない。
 「どれだけ大変でも、楽しくて仕方ないのか…。なら、仕方ないよなぁ」
 「ゴメンネ」
 ポニーテールにした頭を軽く撫でると、葵はくすぐったそうに笑った。
 「あ! 渡会さん、日曜日の打ち合わせって、何時からだっけ?」
 「えーと…2時からだったかな。何決めるんだった? 衣装はこの間やったよね」
 「招待客リスト出して、料理の説明受けるんだったかな。…なんか、ちょっと実感わいてくるね」
 楽しげに笑う葵に、渡会の顔も笑顔になる。
 そう、葵の笑顔は、人を元気にするパワーがある。渡会もこの笑顔に何度も元気をもらった。
 きっと客たちも、コーヒーの美味さと葵のこの笑顔に惹かれて、この店に来るのだろう。葵の天職は喫茶店のマスターなのかもな、と、渡会は思った。

 

***

 

 「あ、しまった。もうお店終わりなんだよね」
 マスターが店の掛札を裏返して「CLOSED」にしてる最中、後ろから声をかけられた。いつもひいきにしてくれている、大学の助教授だった。
 「うち、閉める時間だけはキッチリしてるんで」
 ちょっと済まなそうに笑うと、助教授は頭を掻きながら苦笑した。
 「まあ、仕方ないよ。じゃあ駅前のミスドにでも寄るかなぁ…。この辺、この店以外まともなコーヒー出す店ないから、結構つらいよね」
 「明日は7時より前に来て下さいよ。先生が好きな豆、また入れておきましたから」
 「それは教授と相談しないとなあ。あの人、ほんと人使い荒いよ」
 そういう軽口を叩ける位、教授との関係は良いのだろう。助教授はひらひらと手を振り、坂道を下りていった。
 マスターは、その背中をしばし見送り、ほっと息を吐き出すと店の扉に鍵をかけた。きちんと鍵がかかっているか2、3度確認し、両手をジャケットのポケットに突っ込むと、少し急ぎ足で歩き出した。その小脇には、今朝届けられた新しいパステル画が抱えられている。作者の願い通り、届けられてすぐに空いていた壁に飾り付けておいたのだが、それを額ごと取り外して持ってきたのだ。
 半ば走るようにしながら彼が向かったのは、喫茶店から歩いて10分ほどの所にある、とある病院だった。
 「こんばんは、渡会さん」
 受付担当をしている看護婦が、いつものように挨拶してくる。
 「こんばんは。何か変わりあった?」
 彼がそう訊ねると、看護婦は少し眉を寄せて、残念そうに首を振った。でも、彼は別に落胆はしない。もう何年も繰り返されてきた日常だ―――それが1日伸びようが1ヶ月伸びようが、あまり大差はない。
 階段を1段抜かしで駆け上がり、2階の廊下の一番奥の扉へと急ぐ。毎日毎日、365日ノックし続けているドアを、彼は今日もノックした。
 中から、返事はない。
 ドアを開けると、昨日活けておいたスイートピーの甘い香りが鼻をくすぐった。枕元のライトが控えめにつけてある。担当の看護婦が気を利かせていつもつけておいてくれるのだ。
 「葵さん、ただいま」
 渡会は、ベッドで眠る葵にそう声をかけ、ドアをパタン、と閉めた。
 葵は、うっすらと微笑んでいるように見える。ブドウ糖の点滴が終わった後のせいか、若干頬に赤みがさしているような気がした。…勿論、それも気のせいなのかもしれないが。
 渡会は、パイプ椅子に腰掛け、傍らの葵に見せるかのように、例のパステル画を掲げた。
 「これ、ユウ君が今日持ってきてくれた、新しい絵だよ。うちの店のブルー・デイジーを描いてくれたんだって。上手くなったよねぇ」
 見える筈もない。葵は、ここに運ばれてから、まだ一度も目を開けていないのだから。
 それでも渡会は、葵の髪を指で梳きながら、ゆっくりと話を続けた。
 「岡本君は、バイト先の先輩と仲直りしたみたいだよ。それと、安川のおじいちゃんが、初孫が出来たって写真持ってきた。女の子でね、目がぱっちりしてて、可愛かった。そうそう、昨日店で大喧嘩してたカップルがいただろ? あの時の男の子の方が、今日も店に来たんだ。カウンターで大泣きされて、僕もさすがに困っちゃったよ。ああいう時、葵さんならどうやって慰めるかなぁ…僕もまだまだ、葵さんのようなマスターには程遠いね」
 そんなことないよ、と、葵の声が聞こえた気がした。
 「―――そういえば、葵さんが事故にあった、あの交差点。やっと押しボタン式の信号機から時差式信号機に変わったらしいよ。人身事故が絶えなかったから、やっと行政も動いてくれたんだね。―――葵さんにとっては、少し、遅すぎたけれど」
 穏やかにそう言った渡会は、葵の枕元にいつも置いてある、1通の封書に目を向けた。
 そこに入っているのは、あの日、結婚式場に持っていく筈だった招待客リスト―――そして、葵の署名欄だけ空白なままの、婚姻届。
 「葵さん」
 渡会は、薬指に嵌めた婚約指輪が今にも抜け落ちそうな程にすっかり細くなってしまった葵の手を、緩やかに握った。
 「早く、目を覚まして、一緒に新しい招待客リストを考えよう」

 その日までは―――僕が、君のかわりに、あのカウンターを磨き、ブルー・デイジーの手入れをし、コーヒー豆を毎日挽こう。学生の愚痴を聞いたり、相談に乗ったり、時には一緒に泣いたり、笑ったり―――君がしてきた事を、僕がかわりにしよう。
 そうして、その日1日あった事を、全部全部、君に話してあげよう。

 ―――葵さんほどのマスターには、一生なれないかもしれないけどね。

 いつか2人であの店のカウンターに立つ日を夢見て、渡会は微笑みながら、もう一度葵の手をぎゅっと握りしめた。



1111番ゲットのakiさんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望はただ1つ「喫茶店の店長の話」。何故かこういう不可思議で曖昧なリクの方が書きやすいのは何故(^^;
もうお気づきとは思いますが、1000番キリリク「月のかけら」に出てきた、あの喫茶店です。冒頭で絵を持ってきた1年生は、ユウですね。
この後の顛末は、皆様のお好きなように想像していただければいいと思います。
私は楽しい未来を想像したいので、2人が並んでカウンターに立ってる姿を想像してます。


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