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アインシュタインの恋人

 

 宇多川(うたがわ)・兄は、4歳の時、将来の夢についてこう書いた。

 『ぼくのゆめ:NASAに入って火星たんさきを作りたい』

 ちなみに“たんさき”とは“探査機”のことである。漢字で書けないのが許せなかったのか、“探さ器”という非常に惜しい字を一度書いて消した跡が、紙には微かに残っていた。

 その3年後。4歳になった宇多川・弟は、将来の夢についてこう書いた。

 『ぼくのゆめ:ちかちゃんとらぶらぶになりたい』

 ちなみに“ちかちゃん”とは隣に住む1つ年上の女の子のことである。移り気な彼は、こう書いた数日後には「なおちゃんとらぶらぶになりたい」と思ったりするのだが。

 それから12年の月日が流れ―――宇多川兄弟は、幼い頃の性格そのままに成長した。19歳の真面目で研究熱心な大学生と、16歳の陽気で移り気な高校生に。

 そして、高校3年生のヒナ子が恋に落ちてしまったのは―――NASAに入って火星探査機を作りたい、兄の方だった。

 

 

 「ヒナ、絶対趣味おかしいよ。なんで弟の方じゃなくて兄貴の方なのよ」
 マックシェイクをずずずっと吸い上げつつ言う友人に、ヒナ子はむっと眉を顰めた。
 「どこがおかしいのよ」
 「だって、宇多川兄って、見るからに恋愛とは無縁じゃない。今時あんな眼鏡掛けてる奴、宇多川兄しかいないよォ? その点、弟君はサッカー部のルーキーで、人気者だし」
 「確かにねー。でも、和史(かずし)君は、分かりやす過ぎてつまんないもん」
 「…あんた…仮にも友達なら、つまらないとか言うもんじゃないよ」
 そう。宇多川弟―――宇多川和史は、放送委員の後輩で、ヒナ子の友人だ。基本的にノリが似ているので、一緒にいて楽なことは楽だ。和史の方もそう思っているらしく、「ヒナ子さん、ヒナ子さん」とよく慕ってくれる。
 「和史君には、トキメキ感じない。可愛い弟ではあるけど、恋愛対象としてはイマイチ」
 「そう感じるのはヒナだけだって。弟君、結構モテるの知ってんでしょ? 向こうは結構ヒナに気がある感じなのに、もったいないよ」
 「だーめ。あたしはハカセがいいのっ」
 「ハカセ? …ああ、そう呼ばれてるんだっけ。宇多川兄」
 “ハカセ”というのが、宇多川兄のあだ名である。本当の名前は“ひろし”―――でも、漢字で書くと“博士”。小学生の時には、既に誰も彼を“ひろし”とは呼ばなくなっていた。あまりに定着しているので、教師までもが間違えて“宇多川博士”を“うたがわハカセ”と読んでしまうほどだ。
 「ヒナなら、他にいくらでも選びようがあるだろうに…分かんないなぁ。一体あの兄貴のどこがいいの?」
 「ふふふっ。ひ・み・つ」
 ―――ぜぇったい、秘密だもんね。下手にハカセのいいとこ教えて、こいつまでその気になっちゃったら、ライバル増えちゃうもん。
 意味深な笑いを浮かべたヒナ子は、上機嫌でコーラをすすった。


***


 とは言うものの、ヒナ子だって、博士の第一印象は決して良くはなかった。

 博士と初めて会ったのは、今から2ヶ月前、和史を含めた友人数名で、駅前のファミレスでどうでもいい話を繰り広げていた時だ。
 「あれ、兄貴だ」
 偶然、外を通りかかった人物に目を留めた和史が、そう言って席を立った。
 何か用事があるとかで(この辺り、ヒナ子はもう覚えていない)、和史はファミレスを飛び出し、兄を捕まえた。兄弟で何やら話をしている様子を、店内に残されたヒナ子達は、窓ガラス越しに眺めていた。
 180近い長身の和史に比べ、博士は170センチほど。
 がっしりした体格の体育会系な和史に比べ、博士はヒョロッとしていて、いかにも文科系。
 クルクルしたドングリ眼がチャームポイントの和史に比べ、博士は度のキツそうな銀縁の眼鏡をかけている。その奥に見える目は、どんな大きさなんだか分からないが、三白眼気味で、ちょっと怖そう。
 「…似てない兄弟だなー、和史んとこ」
 「どういうDNAの組み合わせで、ああいう兄弟になるんだろ。両親の顔、見てみたいよな」
 本人には聞こえないのをいいことに、仲間同士で好き勝手なことを言っていた。その内容に、ヒナ子も概ね賛成だった。
 ―――なんか、堅物が服着て歩いてるような人だよなー…。
 それが、ヒナ子にとっての博士の第一印象。堅物なんて、ラテン系な性格のヒナ子からすると「理解不能な人物」の典型だ。そんな訳で、宇多川博士の第一印象は、どちらかというと苦手、という感じだった。


 それが突然変わったのは、半月前―――和史に誘われて、仲間数名で和史の家に遊びに行った時だ。
 和史の部屋で、対戦物のゲームに仲間が熱中する中、あまりこの手のゲームが得意ではないヒナ子は、ちょっとあぶれてしまっていた。それでも、膝を抱えて仲間同士の対戦の様子を見ていたら、ふいに、半開きになっていた和史の部屋のドアから、博士が顔を覗かせたのだ。
 「和史」
 その声に、テレビ画面に目を向けていた全ての人間の中で、真っ先にヒナ子が振り返った。
 そして、ドアの隙間から顔を覗かせているのが和史の兄だと分かると、目をまん丸にした。
 ―――ひ…っえー…。声優さんみたいっ。
 博士の声は、その外見とはそぐわないほどに、滅茶苦茶美声だったのだ。ちょっと渋みのある、よく通る声―――その声は、ヒナ子が子供の頃から大好きだったアニメキャラの声と、よく似ていた。
 「んあ? 何、兄貴」
 「下のテレビ借りるけど、いいか?」
 「いいよ」
 和史の返事を聞くと、博士はあっさり、廊下へと去って行ってしまった。仲間や和史も、用件が終わればすぐに興味はゲームに向いてしまい、何事もなかったかのようにまたテレビ画面に目を向けてしまった。
 ―――ゲームより、お兄さんだな。
 興味が湧けば、即行動。ヒナ子は、博士が完全に1階に下りるのを待って、他の仲間の気をひかないようそーっと足音を忍ばせて、和史の部屋を出た。
 下のテレビ、と言っていたのだから、居間にいる筈。そう思って、こっそり階段を下り、廊下から居間の様子を窺ってみた。案の定、ドアにはめ込まれた磨りガラスの隙間から、テレビの前で何やらやっている博士の後姿が確認できた。
 暫く、そのまま様子を見ていると―――やがて、なんだか聞き覚えのある音楽が、居間から聞こえてきた。
 何て曲だったかな、クラシックだったよね…と記憶の発掘作業をしていたら、突如、居間に続くドアが開いた。
 「わっ!!!」
 ドアのすぐ横に立っていたヒナ子は、思わず大声を上げてしまった。が、声は上げなかったものの、中から出てきた博士の方が、その数倍驚いていたに違いない。誰もいないと思っていたら、そこに、見覚えのない女が立っていたのだから。
 ビン底眼鏡に限りなく近い眼鏡の向こうから、目つきの悪い目が、胡散臭そうにヒナ子を見る。その迫力に、さすがのヒナ子も後退った。
 「…和史の、友達?」
 「は、ははははい、そう、です」
 「何してるんだ、こんな所で」
 「…あの…上、みんなテレビゲームやってて…あ、あたし、暇になっちゃったんで」
 「で?」
 「…お兄さんがテレビ見るんなら、あたしもご一緒させて欲しいなー、とか思ったり」
 「…テレビじゃなくて、映画のビデオだけど」
 「いいですか?」
 「どうぞ」
 あっさり。
 もうちょっと色々言われるかと思ったのに、あっさりOKされてしまった。へっ? こんなんでいいの? と思いながらも、ヒナ子は、居間を出て行く博士と入れ違いに、居間の中に体を滑り込ませた。
 テレビ画面に映しだされていたのは、いかにも原始人な猿っぽい生き物。“猿の惑星”かな、と思ったヒナ子だったが、なんだかそういう雰囲気でもない。忘れているだけかもしれないが、見覚えのない映画だった。
 どうすればいいのか分からず、居間のソファの隅っこに腰を下ろし、暫くテレビ画面を眺めた。が、自分とは入れ違いに出て行った博士が気になって、あまり映画の内容には集中できない。そうこうしている内に、ヒナ子の背後で、居間のドアががちゃりと開いた。
 「あいにく、麦茶しかないけど」
 そう言って入ってきた博士の手には、麦茶の注がれたコップが2つ乗ったお盆があった。どうやら、飲み物を取りに台所へ行っていたらしい。それを見て、ヒナ子は慌てふためき、オロオロと立ち上がった。
 「あっ、す、すみませんっ、お気遣いなくっ」
 ―――意外だなぁ…。こうやって気を遣ってくれるようなタイプには見えないのに…。
 ちょっと、好感度アップ。ヒナ子はこういう部分では、結構単純だ。
 ヒナ子の前に麦茶を置くと、博士は、その向かい側のソファに腰を下ろし、自分の分の麦茶を口に運んだ。元々、喉が渇いたので、自分のために麦茶を取りに行くところだったのだろう。ホッと一息ついた博士は、自分をじっと観察しているヒナ子にも気づかず、すぐにテレビ画面に目をやってしまった。
 さっきまで、原始人か類似猿か分からない生き物が画面を埋め尽くしていた映画は、今は突然場面が飛んで、宇宙を進む宇宙船の映像に切り替わっていた。一体どういう映画なんだか、さっぱり分からない。
 「あのー…」
 躊躇いがちに声をかけると、博士がヒナ子の方を見た。
 「これ、何ていう映画なんですか?」
 「“2001年宇宙の旅”だけど」
 聞き覚えだけはある。でも、やっぱり知らない映画だ。
 「お兄さん、この映画好きなんですか?」
 「いや、別に」
 「え? じゃあ、なんでわざわざビデオに録ってまで見てるんですか?」
 「研究のために見てるんだ」
 もの凄く真顔でそう言われ、ヒナ子の頭の中に、沢山のクエスチョンマークが飛び交った。
 「研究、って、何の…」
 「この映画にどんな形で相対性理論が反映されているかの研究だよ」
 ―――そうたいせいりろん?
 「…あのー…、そうたいせいりろん、って、何でしょう」
 「何、って…」
 博士の顔が、少し困り顔になる。
 「君って、和史の同級生かな」
 「いえ、1つ上です。花の受験生」
 「高校3年生なら、アインシュタインの名前くらいは知ってるよな…」
 「あ、知ってます。原爆作った人ですよね」
 「作った―――微妙に違う気はするけど…まあ、それは置いといて。そのアインシュタインが提唱した理論が、相対性理論だよ」
 「へーえ。それって、どういう理論なんですか?」
 「……」
 ヒナ子は、気になると、とことん調べなくては気が済まない性格なのだ。目の前の堅物君は、一体何を勉強してるんだろう―――ただそれだけの興味と徹底的な無知が、こういう質問をヒナ子にさせている。
 しかし、この質問は、かなり無茶な質問だ。
 相対性理論とは何ぞや、ということを、相対性理論という単語すらよく知らないヒナ子に説明しろというのだから。
 「…ええと…」
 しかし、博士は、質問をされたら必ず答える、というポリシーの持ち主だった。眉間に皺を寄せて暫し考えた博士は、おもむろに席を立ち、マガジンラックに無造作に放り込まれていた新聞広告の束とボールペンを手にして戻ってきた。
 スーパーのチラシの裏側の白紙に、何やら図を描き出す。
 「たとえば、この点が、君だったとする。君は今、時速30キロで走ってるんだ」
 「え!? そんなに速く!?」
 「…分かった。じゃあ、時速10キロで走ってるとして―――…」


 それから、延々、1時間。
 博士による「相対性理論とは何ぞや」講義は繰り広げられた。
 映画は、完全にそっちのけ。博士もヒナ子も見ていない。どう説明してもヒナ子が理解しないので、そのうち置いてあった広告だけでは足りなくなってきて、印刷面の余白まで使う羽目になった。
 実際のところ、ヒナ子は、これだけ説明されても、相対性理論が何なのか分からなかった。けれど、1時間の講義の末、1つだけは分かった。


 「あーっ! い、今のは、分かりました! つまり、同じスピードで併走してる車は、道端で見てる人には2台とも猛スピードで走ってるように見えてるけど、運転手はお互いに止まってるように見える、ってことですね!」
 もの凄く嬉しそうに手を叩いてそう言うヒナ子に、博士も少しホッとした顔になった。
 「そうそう。そういうこと」
 「ふーん、相対性理論って、そういう話なんだ」
 感心したようにヒナ子が言うと、博士の安堵顔が引きつった。
 「…いや…今のはまだ、相対性理論に入る前の話なんだけど…」
 「―――…」
 ローテーブルを挟んで、2人は、少し途方に暮れた顔で顔を見合わせた。
 あんなに説明してくれたのに。
 もの凄く丁寧に、素人のヒナ子でも分かるように、言葉を選びながら説明してくれたのに―――それでも、まだ入口にも立っていないなんて。
 「…ごめんなさい〜〜〜っ、あたし、バカだから、死ぬまでかかっても無理かも〜〜〜〜」
 泣きそうに顔をくしゃくしゃに歪めるヒナ子に、さすがに博士も慌てた。
 「い、いや、そう卑下しなくても…アインシュタイン自身“これを理解できる人物は世界中に12人より多くない”と言った位だし…」
 「じゃあお兄さんはその12人の中の1人なんですかぁ?」
 グスグスいいながらそう訊ねると、博士がうっ、と言葉に詰まった。
 ボールペンを握る手が、小刻みにふるふると震える。答えに窮した様子だった博士は、やがて、ローテーブルに手をつくと、ガクリとうな垂れた。
 「…だ…駄目だ。僕のレベルでは、まだ12人の中には入っていない…」
 「……」
 「済まない。僕がもう少し深く理解していれば、1時間で君に相対性理論の概要位は教えてやれたかもしれないのに…っ」
 本当に済まなそうな、悔しそうな声でそう言ってうな垂れる博士の様子に、ヒナ子は、まだグスグスと鼻をすすりながらも、半ば呆気にとられてしまった。


 ―――なんて、いい人なんだ。
 そもそも、ちょっと質問しただけで、こんなに必死になって教えようとしてくれるなんて。
 しかも、あたしが理解できなかったのは、あたしがおバカだからで、お兄さんのせいじゃないのに―――こんなに責任感じて落ち込んじゃうなんて。

 …ていうか。
 見た目よりお兄さん、全然可愛いじゃんっ。


 元々、必死に相対性理論(の入口の手前)の説明をする博士の、声優並みの美声が、かなりツボだった。
 それに加えて、こんな意外な反応を見せられてしまったヒナ子は、久々に激しく攻略意欲を刺激されてしまった。
 「あのっ、あのっ、全然っ! 全然お兄さんのせいじゃないですっ! 時間が足りなかっただけです、絶対! ほら、あたし、物理とか全然ダメだし、数学もボロボロだし、そもそも土台が全然なってなかったから…」
 ゴクリ、と唾を飲み込んだヒナ子は、ここぞとばかりに身を乗り出した。
 「ですから、お兄さん―――あ、あたしの家庭教師、やってくれませんか?」
 「……は?」
 唐突な話に、うな垂れていた博士が少しだけ顔を上げる。眼鏡のフレームを通さずに斜め上から見た博士の目は、思ったより怖くなかった。
 「じゅ、受験で結構、苦労してるんですっ。お兄さんの教え方、分かりやすかったんで―――是非、数学難民のあたしを救って下さいっ!」

 ―――ああ。今ほど自分が「頭の悪い受験生」であったことに感謝したことって、ないかもしれない。

 ちょっと動機が不純すぎるところが問題ではあるものの。
 とにかくヒナ子は、博士に家庭教師を願い出た。そして―――勉強関係で頼られると断れない性格の博士は、その依頼をすんなり受けてくれたのだった。


***


 そんな風にして、ヒナ子のアタックの日々は始まったのだが―――そう簡単にいく訳がないのが、恋の道。


 「ハ…っ、ハカセ〜〜〜〜、これ20分じゃ解けないです〜〜〜〜」
 博士お手製の数学プリントを見て、ヒナ子が泣きを入れる。が、毎度のことなので、博士もそれには一切耳を貸さない。
 「それが20分で解けないんじゃ、センター試験で時間内に全問解くのは無理だ。解けなければ落ちると思って取り組めば、できない難易度じゃないだろう」
 「そりゃそーですけどぉ…」
 ―――ちょっと位、気が散るとかそういうの、ないのかなぁ。
 仕方なくプリントの皺を伸ばしながら、涼しい顔で難しげな本を読んでいる博士の顔をチラリと窺う。そんなヒナ子の服装は、夏ということもあって、マイクロミニのスカートにタンクトップだったりする。勿論、博士の気を惹きたくて選んだファッションだ。
 数学を見てもらうようになって、1ヶ月。夏休みに入ったものの、様々なヒナ子の努力も、博士には効果がないらしい。本当に勉強の話以外、ほとんど会話はゼロだ。

 プリントを解き始めて間もなく、部屋のドアがノックされた。
 「兄貴ぃ、ヒナ子さん、来てる?」
 そう言って、ドアをガチャリと開けたのは、夏休みでもサッカー部の練習のため学校に行っていた、和史だった。が…、居間のカーペットに直接ぺたりと座って必死にプリントを解いているヒナ子を見た途端、その日に焼けた顔が一気に蒼褪めた。
 「あ、和史君、お帰りー」
 よっ、とヒナ子が手を挙げるも、和史はその場にフリーズしたまま動けない。一旦蒼褪めた顔は、見る見る真っ赤になっていった。
 「な…っ、なんつー格好してんの、ヒナ子さんっ!」
 「毎日暑いからね〜。あ、和史君、愛ちゃんと仲良くやってる?」
 愛ちゃんとは、サッカー部のマネージャーで、夏休み前から付き合い始めた和史の彼女。ヒナ子が知る限り、和史の彼女はこれで3人目―――どうにも飽きっぽい和史なので、付き合ってもいつも3ヶ月が限界なのだ。
 ヒナ子の口から愛ちゃんの名前が出ると、和史の顔がますます赤くなった。
 「ま、まー、それなりには―――…って、今はそんな話じゃないだろっ!? か、仮にも男に勉強教わりに来るのに、そんな刺激的な格好して…」
 「残り15分」
 和史の言葉を遮るように、博士の冷静な声が無情に響く。途端、ヒナ子の肩がビクリと跳ねた。
 ―――や、やばいっ。20分以内に終わらないよっ。
 タイムオーバーになると、ペナルティで更にもう1枚、プリントを解かされるのだ。ヒナ子は慌ててシャープペンを握り直し、和史には目もくれずに再び問題を解き始めた。
 「兄貴もさぁ、少しは注意してやれよ。一応、ヒナ子さんも年頃の女の子なんだから、こういう服装はヤバいって」
 胸元も腕も太ももも思いっきり露出状態のヒナ子を前にして、全くの平静状態の兄に、和史はそう苦言を呈する。弟としては、至極常識的な進言―――しかし、博士の反応は、非常識だった。
 「この暑さの中、無理に暑苦しい格好をして頭の回転が悪くなるよりは、涼しい状態で効率よく頭を働かせた方が合理的だよ。クーラーの温度設定も高めで大丈夫だから、電気代の節約にもなるし、地球にも優しいだろ?」
 「……」
 ―――兄貴よ…もうちょい、女心を分かってやれ。
 呆れる弟の目前で、プリントの端を押さえるヒナ子の手が、いつの間にかパーからグーになっている。でも、こんなこと位でめげるヒナ子ではないのだ。
 「…ハカセー。問6、ヒント下さいー」
 棒読みのようなトーンで、博士に助けを求める。
 博士は、本から目を離すと、ヒナ子のプリントを覗き込んだ。普通の男なら、この体勢だとプリントよりヒナ子の胸元に目が行くところだが―――勿論、ヒナ子の狙いもそこにあったりするのだが―――博士の目は、プリントの問6にしか行かなかった。
 「ああ、それか、その問題は、“ミラクルXの法則”を思い出せばいいよ」
 「あっ! なるほど」
 実際、分からなくて訊いた問題でもあった。ポン、と手を叩いて喜ぶヒナ子は、こういう部分でも結構単純である。

 再び黙々とプリントを解き始めるヒナ子と、真剣な顔で本を睨んでいる兄を、和史は複雑な思いで見下ろしていた。
 ―――“ミラクルXの法則”って、何?
 まさか、3年生になったら習う法則、という訳ではないだろう。多分、兄が教えた便利な解法にヒナ子がつけた名前だと思われる。どんな解法かは想像すらできないが、とにかく、2人の間では、その名前で話が通じているのだ。

 …面白くない。
 なんか、滅茶苦茶、面白くないぞ。
 大体、ヒナ子さんは元々、俺の友達なのに…そりゃ今は愛ちゃんと付き合ってるけどさっ、俺、ヒナ子さんのことは前からかなり気に入ってたのに…。
 面白くないっ、断然面白くないぞっ。

 俄かに、ちょっとした三角関係の様相を呈してきた中、博士だけはそのムードをさっぱり感じ取れずに、今読んでいる本の世界に没頭しているのだった。


***


 「ねー、和史君。何かいい方法ないかなぁ?」
 マフラーをぐるぐる首に巻きつけながら訊ねるヒナ子に、和史は少々苛立ちながらも、ぶっきらぼうに答えた。
 「…だからさー。兄貴は無理だって。女になんて全然興味ないんだから」
 「ってことは、あたし以外にも興味ないってことでしょ、今は。だったら尚更、今がチャンスじゃんー」
 季節は冬になろうとしているが、相変わらず博士は、ヒナ子の勉強にのみ興味を持っていて、ヒナ子自身にはあまり興味を示してくれない。いまだヒナ子は博士の「良き生徒」のままだ。
 ファッションに気を遣ってお色気攻撃をかけてもあの反応だし、日頃のお礼だと言って映画に誘っても全然誘いに乗らない。誕生日にプレゼントをあげたらお返しをくれたのだが、そのお返しが参考書とくるから、これまたへこむ。万事がこの調子で、2人きりでいても全然いいムードにならないのだ。
 「諦めた方がいいって。もういいじゃん。ヒナ子さん、兄貴に教わるようになって、数学の成績メチャメチャ良くなったんだろ?」
 別にやましい気持ちはないぞ、と自分に言い訳しながら、和史がそう言う。するとヒナ子は、パッと表情を明るくして、隣を歩く和史の背中をバン! と叩いた。
 「そーよ、聞いてよ! この前の模試なんてね、数学で初めて、全国50番以内に入ったんだから! もー、さすがはハカセっ! 頭のいい人は教え方も上手だわーっ」
 ―――兄貴の教え方より、“恋の力”が大きいんじゃない。
 イライライラ。だんだん胃が痛くなってくる。しかも、こういう時に限ってヒナ子は、和史のそのイライラに更なる拍車をかけるのだ。
 「ねえ。全国10番以内に入ったら、あたしの愛を感じてくれるかな」
 「…さあねー、どうだろねー」
 「むー…、何、その投げやりな返事っ。自分が薫ちゃんとラブラブだからって、あたしとお兄さんの幸せはどうでもいいような顔してぇ」
 現在、和史の彼女は、愛ちゃんではなく薫ちゃんである。やっぱり、3ヶ月でなんとなく上手くいかなくなって、破局。でも、すぐに告白してくる女の子がいるから、常に彼女持ちではある訳だ。
 ―――ホントはなぁ…。ヒナ子さんが良かったんだけどなぁ…。
 という本音は言えない。なにせ、自分から告白した経験のない和史である。兄に盲目状態のヒナ子を振り向かせようにも、ヒナ子のパワーに押されて、そんな勇気は欠片も出てこないのだった。
 「…まー、兄貴はあの調子だから、他の女に靡くとも思えないしさー。気長にアタックすれば?」
 などと、弟の鏡のようなアドバイスをしてしまうのである。ああ、なんて馬鹿、と自分で自分の頭を殴りつけたくなる。
 「そうね。こうなったら持久戦だわ。見ててよ、和史君。あたし、がんがん勉強して、ハカセと一緒にNASA目指すからっ」
 「はぁ!?」
 「だから和史君、ハカセには、これからもあの眼鏡掛けさせておいてよ。コンタクトなんて勧めちゃ絶対ダメだからね」
 「???」
 NASAを目指す発言にも驚かされたが、眼鏡の件は訳が分からない。
 「なんで?」
 眉をひそめる和史に、ヒナ子はにんまりと笑ってこう言った。
 「だってハカセ、眼鏡取ると思いのほかいい男なんだもん。ハカセの大学、女の子もいるんでしょ? まずいまずい、あたしよりNASAに近い女にハカセを狙われたら、たまったもんじゃないよっ」
 「……」
 恋は盲目―――眼鏡が必要なのは、ヒナ子の方なのではないだろうか。

 ―――ちくしょー、面白くないなー。
 でも、こういう一直線なヒナ子さんが好きだから、邪魔する気にもなれないし。…ああ、俺ってばほんとに、損な役回り。

 帰ったら薫ちゃんに電話して、憂さ晴らしにパーッとカラオケにでも行こうかな―――和史は、現在の彼女の顔を思い浮かべ、そんなことを思うのだった。


***


 「ハカセ、最近、借りる本の種類が変わったなぁ。どうしたんだ?」
 大学の仲間が、博士が図書館から借りてきた本を見て、珍しいものでも見るような目をした。
 「開発者から教師に鞍替えか?」
 友人がそう言うのには理由がある。博士が抱えているのは、いずれも教育関係や受験関係の本だったのだ。博士は眼鏡を押し上げると、相変わらずの無表情を友人に返した。
 「教師になる気なんてないよ。ただ、家庭教師の教え子が、そろそろ受験勉強も追い込みなんだ。更に効率のいい勉強のさせ方を考えないと」
 「おお、すげー。いい先生してんなー、お前」
 「当然だ」
 「あっ、さては、よっぽど可愛い子なんだろ。だからお前、張り切って勉強方法の研究までしてるんだな?」
 「…失敬な。そんなんじゃないぞ」
 「じゃあ、どんな子なんだよ」
 興味津々の顔をする友人に、直前まで眉間に皺を寄せていた博士は、ほんの少しだけ表情を緩めた。
 「今時珍しい位、勉強熱心で、真面目な子だよ」
 「へー。そんな“生徒の鏡”みたいな女子高生、まだいるのか」
 ちょっと驚いた顔をする友人だった。勿論、友人が思い描くのは、一時代前のおさげ髪にセーラー服の女子高生だ。間違っても、茶髪に丈の短すぎるプリーツスカートなんていう、今時の女子高生ではない。実際のヒナ子は、どちらかと言うと茶髪にミニの方に近いのだけれど…。

 けれど、博士の目には、ヒナ子は本当に「真面目で熱心な女の子」と映っていた。
 確かに、ヒナ子は真面目に博士に教えを請うし、その勉強態度は非常に熱心だ。ただし、その裏には幾多の下心があるのだし、かなり積極的に迫ってみたりもしているのだが―――そうしたヒナ子の行動は、博士の目にはこう映っているのだ。


 ―――ヒナ子さんて、いつも薄着だよな。冬でも二の腕出してるし、襟ぐりが異常に開いた服着てるし。その割には風邪ひいたり寝込んだりしない所が凄いよなぁ。うん、健康はどんな美徳にも勝るからな。いいことだ。
 日頃のお礼に、あちこち遊びに連れ出そうとしてくれるけど、そんなに気を遣うこともないのに。きっとタダで教えてもらってるから、気にしてるんだろう。弟の友達なんだから、1教科教える位、どうってことないのに。慎ましやかな子だなぁ。
 それに、僕の好みもよく分かってくれてる。誕生日にアインシュタインの伝記本くれたもんな。気のつく子だよなぁ。それに比べて僕は、ヒナ子さんの好みが全然分からないから、結局参考書しかお返しできなかったけど。


 なんて真面目で気のつくいい子なんだ、と、博士は思っている訳だ。その上とっても健康だなんて素晴らしい、とさえ思っている。ヒナ子の思惑とは悉くズレているのだが、とにかく、博士の目にはどの行動も好意的に映っているのは間違いない。
 そして何より、博士にとってポイントが高いのは、出会った日のあのことだ。


 ―――なんと言っても、ヒナ子さんだけだもんな。相対性理論を、本気で理解しようと努力してくれた人は。
 普通なら5分で諦めちゃうところなのに、1時間も努力してくれるなんて―――あれには感動したなぁ。


 そんな訳で、博士は目下、ヒナ子に大いに好意を寄せているのである。ヒナ子は全然気づいていないが、実は博士とは相思相愛なのだ。
 だったらデートにでも誘って付き合ってしまえ、というのが、普通の発想。でも、博士の発想は、ちょっと普通とは違っている。

 

 よし。頑張ってヒナ子さんに勉強教えて、うちの大学に合格してもらおう。

 そしてゆくゆくは、2人でNASAを目指すぞっ。

 

 まるで釣り合わないように見えるこの2人―――実は、かなりお似合いのカップルであることに、本人たちもまだ気づいていないのだった。



60000番ゲットのmayukiさんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は「16才と19才の兄弟の恋愛」。
……ごめんなさい……多分、ご期待に沿えてないと思います(滝汗) もっと切なくて甘いのを期待されていたのだろうと……。
何故、なんだってこんな話になっちゃったのか、結城にもよく分からないんですよ〜〜〜。「二十四季」完成直後で、ちょっと弾けてみたかったのかなぁ?
和史だけはそこそこ、普通の高校生してる気もします。なんか可哀想かな、とも思いますが、やっぱりヒナ子にはハカセが似合うなぁ、と思うのは筆者だけ?


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