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「え!? 日本人がホームステイしに来る!?」
姉のアビーからの第一報を聞いて、さすがにロイも、目を丸くしてしまった。
「そうよ。あたしと同い年だから、19歳ね。男の人だっていうから、あんたも仲良くやんなさいよ」
日本人で、しかも、年上。
思わず、露骨に眉を顰める。
「…ええぇー…」
やだな、というのが、ロイの正直な感想だった。何故なら、移民の多いこのイギリスに生まれ育ちながらも、ロイは、日本人と接したことが皆無だったから。そして、観光客=言葉が通じない、というイメージが先行していたから。
けれど、続くアビーの一言に、少しだけ気が楽になった。
「あ、その人、聞き取りはまだまだだけど、喋る方は結構できるらしいから。ゆっくり喋ってあげれば、会話はそこそこ通じる筈よ。それに、ママがいるから、大事なことがママが伝えてくれるわよ」
言葉が通じるなら、ま、大丈夫か。
そう、楽観的に考えるロイだった。
***
ロンドン郊外に住むワッツ一家は、40代後半の夫婦に19歳の長女、17歳の長男の、計4人家族である。
家長であるワッツ氏は、ある程度名の知れた会計士で、出張で海外に出ることも時々ある。その出張先の1つに、日本もある。
今回、ホームステイすることになったのは、その出張時に懇意になった日本人ビジネスマンの息子で、夏休みを利用して、計22日間、語学の向上とイギリス文化の研究のために来るのだという。現在、外語大の2年生らしい。
海外からの学生受け入れなど経験のないワッツ氏が、この件を快く引き受けたのには、実は理由がある。
ワッツ氏の妻・ワッツ夫人は、結婚前の名前をメアリ・ヤマキという。そう、ワッツ夫人の父は、日系人なのだ。
母親はドイツ人で、ワッツ夫人は日独のハーフということになるが、生まれも育ちもイギリスであったため、家庭での会話は英語と日本語が半々だった。何故英語と日本語とドイツ語じゃないんだ、という点は―――まあ、ワッツ夫人の母親が何故イギリスにいたのか、という部分に関係するので、あまり詳しくは言えないが、とにかく、そんな事情から、ワッツ夫人はある程度日本語が話せるのである。
長女アビーが「ママがいるから大丈夫よ」と楽観的に言っていたのは、こういった事情があるから。しかも、相手もそれなりに英語が話せるというのなら、とりあえず会話での苦労は、他のホームステイのケースよりはずっと少ないに違いない。
そんな訳で、ワッツ氏は、日本の友の打診にOKと返事したのだ。
ワッツ夫人は、久々に日本語を本格的に喋るかもしれない事態に、慌てて復習などをし始めた。
年頃の娘でもあるアビーは、まだ見ぬ日本人のルックスにばかり興味がありそうだ。
そしてロイは、友達との夏休みの計画さえ邪魔しなければ、とりあえず寝て起きて飯食う人間が1人増えるだけだろ、というスタンスを取ることにした。
そうして、ついに、問題の日本人がやって来る日。
「はじめまして」
そう言って、一家の前に現れたのは、どう見てもロイより年下にしか見えない東洋人だった。
いや、東洋人は若く見えるというから、アビーと同い年でこの位なのは標準レベルなのかもしれない。でも、背丈もアビーと大差なく(アビーは160センチ台後半である)、ロイより確実に低い(ロイは180センチほどである)。ほんとに19歳か? と、疑いたくなってしまう。
縁のない眼鏡が、なんとなく日本人ぽいな、と思った。ちなみに、黒縁だと中国人っぽい。知人の中国人が、偶然2人とも黒縁眼鏡をかけているせいなのだが。
それ以外の見てくれに関しては―――よく、分からない。とりあえず、忍者モノの映画に出てくる俳優より、こっちの方が好感の持てる顔だとロイは思った。
ケン・ウツノミヤ、と彼は名乗った。
「これが初めての海外なので、よろしくお願いします」
そう言う彼の英語の発音は、予想していたより流暢だったが、どことなく日頃自分達が口にする母国語とは違って聞こえた。
―――そっか。これってアメリカ人の英語に似てるんだ。
思い出して、納得した。
なるほど、日本人が習っている英語の発音は、アメリカの英語なのか。確か日本は、戦後アメリカの植民地になっていた時期があったという話だから、その時の名残なのかもしれない。いや、植民地にはなっていなかったのか? 日本が独立したって話もあまり聞き覚えがないから、違うのだろうか。
「よろしくー。あたしアビー。あなたと同い年よ。建築の勉強をしてるの」
「よろしく」
「こっちが弟のロイね」
仕切り屋のアビーが勝手に紹介してしまったので、ロイは、少々バツが悪くなりながらも、ケンに手を差し出した。
「…よろしく」
「よろしく」
ニッコリ、と斜め下から向けられた笑顔は、やっぱり、日頃頭の上がらないアビーと同い年には、到底見えなかった。なんとなく、日本人はあまり笑わないのではないかと思っていたロイは、案外日本人て愛想がいいんだな、と少し驚いた。
―――まあ、でも。
G8どころかG7の時代から首脳会議に出席してる国なんだし。
言葉も通じそうだし、経済レベルに格差はないし、バックストリート・ボーイズは日本でもファンが多いと聞いたし、世界のクロサワは日本人だし、キリスト教を邪教としてるような国でもなさそうだし。
なんだかよく分からないが、イギリスと日本に、大差はない感じがする。
何も問題はないだろう―――そう、ロイは思ったのだった。
***
ところが、である。
ホームステイ開始からすぐに、ロイは首を傾げるようになった。
こいつ、今までどうやって生きてきたんだ? と。
「あら? ケンはまだお風呂からあがってこないの?」
ホームステイ初日の夜。ケンの姿が見当たらないことに気づいた母が、キョロキョロ部屋の中を見渡して、ロイに訊ねた。
「俺知らないよ」
「ちょっと見てきてちょうだい」
父は既に寝室へ行ってしまっている。女が様子を見に行くのは少々不都合なので、当然、ロイが行くしかない。見ていたテレビの続きが気になったが、仕方なくロイは立ち上がり、バスルームへと向かった。
すると、バスルームにたどり着く直前で、風呂上りのケンと出くわした。
「なんだ。随分時間がかかってたんだな」
ロイがそう言うと、ケンは、ロイには理解し難い曖昧な笑い方をしたが、口では特に何も言わなかった。けれど、その妙な誤魔化し笑いから、ケンが何やら戸惑っているムードだけは感じられた。
「? どうかしたのかよ」
怪訝そうにロイが訊ねると、ケンは、ちょっと困ったような顔をし、それからおずおずと口を開いた。
「―――ロイは、毎日、どうやってバスを使ってるの?」
「は?」
どうやって?
どうやって、って―――どういう意味?
普通に使ってる、としか言いようがないが―――ケンが求めているのは、そういう答えじゃないだろう。わけが分からないながらも、ロイは、喋る速度に注意を払いつつ、丁寧に答えた。
「まず、バスタブに湯を張って」
「うん」
「そこにバスジェル入れて、泡立てて」
「…うん」
「それで、体とか頭とか洗って」
「……うん」
「体拭いて、終わり」
「…………」
「普通だろ?」
全国共通の、風呂の入り方だ。
なのに、説明を聞き終わっても、ケンの表情は腑に落ちないという顔のままだった。もしかして、今の英語が通じていないのだろうか…とロイは懸念したが、どうやらそうではなかったようだ。
「…あの、泡って、落とさないの?」
「え?」
「泡を」
上手い表現が分からないらしく、ケンは、四苦八苦といった様子で、自分の頭や体をぽんぽん叩いてみせた。つまり、髪や体を洗った後の泡はそのままでいいのか、と言っているらしい。
「タオルで拭くから、別にいいんじゃない?」
「……」
「食器だってそうだろ?」
当然、という口調でロイがそう言うと、ケンは、大きく目を見開き、信じられないという顔をした。
「食器!? 食器も、泡を落とさないの!?」
「当たり前だろ。見たことないのか?」
食器も体も、泡だらけのお湯の中でザブザブ洗ったら、布で拭く。これが常識だ。そのことに目を丸くするところを見ると、どうやらケンは、食器の後片付けの手伝いなどとは無縁できた、おぼっちゃまらしい。
「少しは手伝いとかしておいた方がいいぜ。食器も洗えないようじゃ、将来一人暮らしした時困るだろ」
呆れたようにロイが付け加えた一言は、唖然としているケンの耳には届いていなかった。
その後、唯一、ケンの後にバスを使うことになったロイは、とんでもないことに気づいた。
家全体で使うお湯が入っているタンクに、お湯がほとんど残っていなかったのだ。
新たに湯が沸くまでの30分、バスタブには3分の1以上湯をためては駄目であること、浴室の床に敷かれたカーペットは濡らして駄目であることなどをくどくど説明した。ケンは、なんでカーペットなんて風呂場に敷いてあるんだ、と不思議がっていたが、ロイからすれば、何がそんなに不思議なのか、さっぱり理解できなかった。それより、何故バスタブいっぱいに湯をためようなんて考えたのか、ケンの頭の中の方がよっぽど不思議だ。
初日からズレたことで目を丸くしていたケンだったが、翌日以降も酷かった。
まず、横断歩道が渡れないのだ。
横断歩道で、いつまでもじーっと立ったまま動かないので、一体何してるんだ、とロイが訊ねると、ケンは「信号が“STOP”だから」と答えた。バカか、ボタンを押さなきゃいつまでも“STOP”に決まってるだろ、とロイが信号機下の押しボタンを押すと、間もなく車道側の信号機が“STOP”になり、歩行者側の信号機が“WALK”になった。
それを見てケンは、何故か「ここはそんなに田舎なのか?」と不思議がっていたが、ロイからすれば、何故ボタンを押して信号を変えることと田舎が結びつくのか、よく分からない。「ここは田舎じゃないし、ロンドンのど真ん中でも信号機は同じだ」と答えると、ケンは怪訝そうに首を傾げていた。
イギリス生活3日目に、そのロンドンの中心部に買い物に出かけたのだが、そこでも妙なことに驚いていた。
「ちょっと待って! 信号は、ボタンを押して待つんだろ?」
赤信号で歩き出そうとするロイのTシャツを引っ張って、ケンが慌ててそう言った。
「押しただろ、さっき」
「じゃあ、何で待たないんだ?」
「行けそうなら行っちゃっていいんだよ」
そこはオックスフォード・ストリートという、ロンドンでも1、2を争う繁華街だが、昨日説明したとおり、やっぱり信号は押しボタンである。ロイも、さっき押した。
が、車の流れが切れたなら、別に赤でも渡ってしまえばいいのだ。事実、ロイの横に立っていたタンクトップ姿の金髪美女2人組も、ダブルデッカーが通り過ぎた後、10メートルほど車が途切れていたので、すかさず赤信号を渡っていった。これで問題ないのである。
「車も、赤から青に変わる時の点滅信号でも結構突っ込んでくるから、大丈夫だよ」
実はこの「赤から青に変わる点滅信号」も、前日のケンは理解してくれなかった。「点滅信号は青が赤になる時だけだ」と主張する。が、実際、赤信号が点滅して青に変わるのを見て、納得したらしい。
とにかく、車も青になる前に発進するし、人間も青じゃなくても渡るのだ。お互い様なのである。気にするなよ、という気持ちでロイはそう説明したのだが、ケンの顔は、何故かしら少し青褪めていた。
「…イギリスは、紳士の国だって聞いたんだけど」
どこで聞いたんだ、そんな話。
第一、俺は結構、紳士だぞ。外食でレストランに行く時はちゃんとレディ・ファーストを徹底するし、アビーのために椅子だって引いてやる。赤信号で渡ったからって、何故紳士じゃないってことになるんだ。
と文句を言ったが、難しい英語過ぎたらしく、ケンには通じなかった。
4日目には、アビーの友人宅に呼ばれて、3人で連れ立って訪問した。
その家までは地下鉄で行ったのだが、切符を買う際、ケンは「コインが入らない」と言って、切符の自動販売機の前で困り果てていた。
見ると、お金を投入すべき前に押しておくべき目的地のボタンが押していなかった。先にボタンを押すんだよ、と教えたら、妙に感心したような顔をしていた。
何故、購入するチケットの値段も表示されていないのに、先にコインを入れようとしたのだろう? どうやらケンは、地下鉄の切符も買ったことがないらしい。いや、もしかして、日本には地下鉄はないのだろうか。
「え? 床に座って食べるの?」
アビーの友人が用意した昼食を、床に座って食べ始めたロイやアビーを見て、ケンがまた目を丸くした。
これに関してだけは、ちょっとだけ分かる気がしたので、アビーが説明してやった。
「あのね、うちはたまたま、ダイニングテーブルのある家だけど、イギリスではダイニングテーブルのない家庭もあるの。そういう家では、床に座って食べるのよ」
「なんでダイニングテーブルのある家とない家があるの?」
心底不思議そうにするケンだったが、そこにこの家の主であるアビーの友達が戻ってきてしまったので、さすがに説明できなかった。アビーは、後で説明するから、と言葉を濁した。
つまりは――― 一言で言うなら、「この家は労働者階級の家だから、ダイニングテーブルがないのが普通だ」ということだ。
最近ではあまり表立っては言わないものの、今でもイギリスには階級制度がある。会計士であるワッツ氏は、いわゆる中流階級で、イギリス全体の上位30パーセント以内に収まる位の暮らしをしているのだ。
「ケンは、当たり前のように大学に進学しているし、夏休みに遊びで海外に来れる位なんだから、中流以上の階級の家なんだろう」
というのが、ロイとアビーの共通認識だった。日本にも階級制度があるのかどうかは、知らないけれど。
だから、労働階級の暮らしぶりに唖然とするケンの気持ちは、少し分かる気がした。自分も子供の頃、友達の家に遊びに行って、驚いたことがあったから。
ただ。
「…これ、何ていう食べ物?」
昼食に出されたスパゲティを、不気味なものでも見るような目で見るケンのことは、理解できなかった。
「スパゲティだよ、ミートソースの。日本では食べないのかよ」
「ミートスパゲティは食べるけど…」
「? なんだよ」
「こんな姿はしてなかったんだけどなぁ…」
そう言いつつ、ケンは、皿の中のミートスパゲティを、フォークでつついた。
ケンはしきりに「柔らかすぎる」を連発していたが、ロイには、到底賛成できない。
ミートスパゲティといえば、思い切りふやかしたパスタを短くぷちぷち切って、ミートソースと心ゆくまで絡めまくって食べるのがおいしいのだ。スティーブの家も、ラルフの家も、ミートスパゲティはみんなそんな感じだった。だから、これが正しいミートスパゲティなのだ。
一体、日本のミートスパゲティは、どんな姿をしているのだろう? ミートスパゲティが結構好物のロイとしては、自分の好物をさも不可解な食べ物のような目で見るケンが信じられなかった。
ちなみに、この数日後には、ケンは、レストランで出てきたパスタを、フォークとスプーンで食べて、ロイやアビーを驚かせた。
パスタは、フォークとナイフで食べるに決まってるじゃないか―――よくそんな食べ方して不思議がられずに生きてきたな、と、ロイは驚くのだが、ケンは何故か、ナイフでパスタを切りながら食べているロイとアビーの方を不思議がっていた。
とにかく。
こんな感じで、ケンは、生活上の様々なシーンで、いちいち立ち止まっては、理解に苦しむ、といった顔で首を捻るのだ。
1週間もすると、ほぼ慣れてきたのか、ロイをイライラさせることも少なくなった。が、それでも時折、ロイにとっては「子供でも知ってるだろ」ということを知らなかったりして、いちいち驚いたり唸ったりする。
よほど何もせず生きてきた金持ちの息子なんだろうか、とぶつぶつロイが言っていたら、アビーが険しい顔をしてたしなめた。
「あのね。日本とイギリスで、生活様式が違うのは当たり前でしょ? 言葉が違えば、文化も違うに決まってるじゃない」
「けど、俺、移民の知り合いが何人かいるけど、インドの奴もアフリカの奴も中国の奴も、あんなことでいちいち驚いたり悩んだりしないぜ?」
「彼らだって、移民してきた当初は、今のケンと同じ反応だったと思うわよ。移民として生活する中で、こっちのスタイルに合わせてきたんだろうけど、ひとたび本国に戻れば、今とは全然違う生活スタイルで暮らしてる筈よ」
「ほんとかよ」
「全く…ロイってほんと、世間知らずなんだから」
「……」
世間知らずそうなケンを「世間知らず」と言って、逆に「世間知らず」と姉から言われるとは。
―――面白くねぇ。
と、少し膨れるロイだったが。
「イギリスの常識を世界の常識と考えてるなら、傲慢もいいとこよ。恥に思いなさい」
というアビーの一言には、さすがに口を噤むしかなかった。
***
きっと、日本と大差ない国だろう。
宗教色の強い国は、戒律だの宗教上の生活習慣だのがあって色々大変だろうけれど、イギリスはそういう心配はなさそうだ。ベッカムが許されているなら若者の服装は日本と変わりないだろうし、ガイドブックによれば日本食のレストランもイタリアンレストランもあるのだから、食文化もそう驚くようなものではないだろう。
言葉の不安は少々あるが、家の中でも靴を履いたままだってこと位覚えておけば、まあ何とかなるだろう。
宇都宮 賢は、そう思っていた。
実際に、イギリスの一般家庭の生活を体験するまでは。
そして、実際に体験してみて、思った。
いくら先進国同士だといっても、やはりここは外国。日本の常識では測れない“イギリス流常識”が一杯あるのだ、と。
洗剤がついたまま、ゆすがれることなく布巾で磨かれてしまう皿については、諦めることにした。誰も死んでないから、洗剤が口に入っても体に害はないのだろう、多分。
パスタとは呼べないほど膨れ上がり、しかもブチブチ短く切られているグチャグチャごった煮のスパゲティミートソースも、食えないことはないから、別にいい。ロイと2人きりの昼食だと、必ずそれを出されるのには辟易するが。
昼食が午後1時から、というパターンも、慣れればどうということはない。が、その昼食の量がやたら少ないこと、その割に一緒に出てくるポテトチップスやスナック菓子が異様に多いことは、ちょっと栄養的にどうなんだろう、とは思うが。
紳士淑女の国なのに、信号無視が当たり前なのも、その後ワッツ夫人が説明した「自己責任」という言葉で無理矢理納得した。この国では、赤信号だから渡っちゃ駄目、ということにはならないそうだ。赤でも歩行者は渡ってよし。ただし「自己責任」で。あの状況で誰も死なないのは、みんな「自己責任」が取れてるからなんだろう。きっと。
唯一、風呂だけは何とかしてくれと思ったが、それも、ほとんど泡立たない石鹸で体をごしごし擦り、僅かな湯で無理矢理洗い流し、その残り湯で頭を洗う、という方法でなんとか克服した。
渡英2週間も経つ頃には、賢は、かなりイギリスの生活に慣れてきた。
イギリスの人は総じて親切で優しく、賢が言葉の問題で上手く意志を伝えられずにいても、馬鹿にしたりイライラした態度を取ったりしない。
唯一、口調や態度がキツイのは、このワッツ家の長男・ロイだ。2つ下なのに態度の横柄な奴、と、初日からちょっと苦手意識を持っていたのだが、彼だって、ぶつぶつ文句を言いながらも、結果的には賢に色々教えてくれている。
通じ難いなりにちょっと訊いてみたが、ロイ曰く「困ってる人間がいたら助けてやるのがイギリスの文化」だそうだ。日本だってそうだぞ、と思うが、それが実際に出来てるかどうかは微妙だ。
うん。
悪い国じゃないじゃないか、イギリス。
この時代になってもまだ階級制度があったり、皇室自ら不倫だ離婚だとスキャンダラスなことばかりしている点などが「ちょっとなぁ」と思うものの―――生活習慣の違いさえ慣れれば、そう住み難い国でもないかもしれない。
イギリスの庶民生活について纏めた小論文を書く予定でいる賢は、最後の1行は「いずれ住んでみるのも悪くない」といった主旨で結んでもいいかもしれないな、と、半分位思うようになった。
しかし。
そんな思いが一瞬で吹き飛ぶような事件が、渡英17日目に起きた。
***
「いたたたた…」
夕食後、急に、ロイがおなかを抱えて苦しみ出した。
日中、友人宅に遊びに行っていたロイは、帰宅した時、既にあまり元気がなかった。が、口では何も言わないので、賢やその他の家族も特に何も言わなかった。今思えば、ロイは、外出している時からずっと、体に異状を感じていたのかもしれない。
「大丈夫? ロイ」
「…うー…」
家族が心配して声をかけても、ロイの返事は苦しげで、曖昧だった。相当痛いのか、脂汗が額に浮いている。
「もう診察時間は終わってるな。先生に直接電話してもらうか」
「そうしましょう」
ワッツ夫妻がそう言いあい、ワッツ夫人がどこかへ電話をかけ始めた。事情の分からない賢は、ただオロオロするしかなく、どういうことなのかアビーに説明を求めた。
「主治医の先生よ。ここから5分の所にある小さな診療所だけど、もう診察時間は終わっているから、お医者さんを電話で呼び出して、明日診てもらえるように手配してるの」
「明日?」
こんなに苦しがってるのに?
腹痛などよくある話だが、賢の目には、ロイの苦しみようは尋常ではないように思えた。
「他の病院で診てもらう訳にはいかないの?」
「ああ、それはできないの」
「えっ」
「ガイドブックに書いてなかった?」
「……」
そう言えば―――自分が丈夫な質なので、病院関係など一切読まずに来た。風邪薬と胃腸薬、鎮痛薬を結構な量持ち込んだので、それで安心していたのだ。
「とにかく、水を沢山飲ませて、安静にしておきなさい、って。明日の朝診てくれるそうよ」
電話を切ったワッツ夫人が言ったのは、それだけだった。
脂汗流して苦しんでるのに―――水飲ませて、一晩様子見?
ちょっと納得のいかない賢だったが、どうすることもできなかった。
どうしようもないので、自分の部屋に戻って、ガイドブックを読んでみた。そのガイドブックによると―――…
イギリスという国は、徹底した「かかりつけ医制度」だそうで、GPと呼ばれるかかりつけ医(町医者レベル)に、全国民が登録しているのだという。
どこか体に異常があれば、まずは、そのGPに診てもらう。診察は無料である。
GPでは手に負えん、となると、GPは紹介状を書く。それを持って、専門医や、国立の総合病院へ行く訳だ。そこで、本格的な治療が施され、場合によっては入院したりもする。この費用も、税金でまかなわれているので、無料である。
全部無料なのか、凄いな、と読みながら思っていた賢は、それに続く文章を読み進み、ちょっと眉をひそめた。
『ただし、GPから紹介を受けてから実際に診察を受けられるまで、相当な時間がかかります。
緊急の場合は、国立の緊急外来へ行くか、GPを通さず直接専門医を受診するかします。
GPを通さず専門医を受診する場合は、医療費は全額自己負担です』
相当な時間……。
「って、どの位?」
日本の大学病院などでも、酷いところだと3時間待ち、なんて話があるが…その位は待たされてしまうのだろうか。まあ、GPで治療できるような病気であってくれれば、別に問題ないのだが…。
―――あいつ…盲腸なんじゃないかなぁ。
ロイの様子を思い出して、眉を顰める。
賢も、高校生の時に、虫垂炎をやっている。あの時の自分の様子と、さっき見たロイの症状が、非常によく似て見えたのだ。特に、右の下腹辺りを押さえていた点が。
たかが虫垂炎、されど虫垂炎だ。中学時代の友達の兄が、受験を控えているから、と腹痛を我慢し続けた結果、盲腸が破裂するという最悪のケースになったことがある。あと数日遅かったら死んでいたと言われた、と、当時の友人は青い顔で言っていた。そう、下手をすれば、人間、虫垂炎で死ぬこともあるのだ。
心配になって、夜中、そっとロイの部屋に行ってみた。
ロイは、やはり痛みで眠れないらしく、体をくの字に曲げて唸っていた。
「大丈夫?」
声をかけると、返事をするのが辛いのか、ロイは顔を歪めつつ2度頷いた。全然大丈夫そうには見えない。賢なら即刻、救急車を呼ぶところだ。
―――忍耐強いなぁ…イギリス人は。
というか、いいのか? これで。
どうにも納得のいかない賢だった。
***
翌朝、焦れるような思いで、ロイをGPに連れて行った。といっても、連れて行ったのはワッツ夫人で、賢はただついて行っただけなのだが。
朝早い時間だけあって、待合室で待っている人間はゼロだった。が、本当に診療所という言葉に相応しいその規模に、賢は少々不安を覚えた。なんだか、学校の保健室と大差ないレベルにしか見えなくて。
ロイの容態はあまり変わっておらず、むしろ悪化しているようにすら見える。そんなロイを診察用ベッドに寝かせ、経緯はワッツ夫人がひたすら説明した。ネイティブ同士の会話なので、賢にはその内容がほとんど聞き取れなかった。
ただ、うんうん頷きながらカルテに何かを書き込んでいる医師は、かなりの高齢のため、喋る速度が遅かった。
「昨日の晩から…ふんふん。食事は? 今朝は食べてないと。水は飲んでるんですね。はいはい」
という医師の言葉から、そういうことをワッツ夫人が説明してるのが分かった。医師はいちいち頷きながら、最終的には、ロイの腹部を何箇所か上から軽く押さえたりしてみた。
結果。
「食あたりか、ウイルス性の腹痛の可能性が強いですね。処方箋を書いておきますので、薬を与えて様子を見て下さい」
「―――…」
採血も、レントゲンも、それどころか体温や血圧を測ることすらないままに、医師が下した診断が、これだった。
―――何を根拠にそういう診断下してるんだ? この医者は。
誰も、納得した顔をしていない。ロイ本人は勿論、賢も、そしてワッツ夫人も。
「ちょ…ちょっと、待って下さい」
慌ててワッツ夫人が、何事かを訴え始めた。かなり、必死の形相である。が、賢には何も分からない。
「…何て言ってるんだ?」
診察台に乗せられたままのロイに、小さく耳打ちすると、ロイは顔を顰めつつ、
「…そんな筈ない、って言ってる」
とだけ答えた。つまりは、過去に食あたりやウイルス感染をした時の症状とは全然違うということを必死に訴えているらしい。
が、その必死の訴えも、5分ほどで終わった。
「帰りましょう」
憤慨した様子で立ち上がったワッツ夫人に言われ、賢は慌てて、ロイを抱えて病院―――というか診療所、を後にした。
「ど…どうするんですか?」
「緊急外来に連れて行きましょう」
という訳で、急遽、3人はタクシーに乗って、緊急外来のある国立病院に向かうことになった。
***
ところが、である。
「…あの」
イライラしながら、隣に座るワッツ夫人に訊ねる。
「一体、いつになったら呼ばれるんでしょうか」
くどいようだが、緊急外来である。
緊急とは、緊急を要するからこそ付く名前である。日本で言えば、救急車で運ばれてくるパターンだ。
なのに、この待合室に座って、既に1時間半。心停止状態で運ばれてきた緊急の患者だったら、とっくの昔に死んでいる。
確かに、混んでいる。めちゃくちゃに混んでいる。でも、時折見かけるナースや医師の姿から、緊急、の2文字を思わせるムードは微塵もない。極普通の総合病院の待合室のようだ。
「どこでも大体、1、2時間はかかるのよ」
眉をひそめたワッツ夫人の説明に、GPのあんまりな診断には無言でいた賢も、さすがに呆れた顔で声をあげた。
「そんなにかかるんですか!?」
「仕方ないわよ。そういうものなんだから。GPが電話した翌日診てくれただけでも奇跡なんだから。3日以内になんて、なかなか取れないのよ」
「……」
あの、保健室レベルの診断のために、3日以上待つ?
マジ? てゆか、ここってイギリスだよな? 世界有数の先進国だよな? 無医村とか野戦病院とか、そういうんじゃないよな?
「普通の外来も、予約待ち1〜2週間なんて、よくあるし」
「……」
「歯医者が一番待たされるわね。今後数年予約が一杯、ってケースも多いみたいよ」
「…………」
数年。
虫歯の治療に数年かかるのか、この国は。
「だから、歯医者はほとんどの人が直接診察を受けるの」
「…自己負担ですよね」
「ええ。高いわよ、とっても」
タダより高いものはない。
いくらタダでも、病気のピーク時に診てもらえないんじゃ、全然意味がないじゃないか。手遅れで死んじゃったらどうするんだ。
賢は、青褪めた顔で、傍らでぐったりしているロイの顔を見た。その生気のない顔を見ていると、今にも盲腸が破裂して手遅れになってしまいそうに思える。
―――こ…これは、こんな所で待ってるより、金払って直接専門医に診てもらったほうがいいんじゃないか? でも、全額自己負担、って…盲腸だと、どの位の金額になるんだろう?
ちなみに、大体100万円近くなると思われるが、賢にその予備知識はない。ただ漠然と、自分が肩代わりできる金額じゃないな、とだけ考え、その案を口に出すのだけはなんとか飲み込んだ。
そうして、待つこと、1時間42分。
賢の我慢が限界に達しかけた時、ついに、ロイの名前が呼ばれた。
…のだが。
「食あたりか、ウイルス性の腹痛の可能性が強いですね」
「―――…」
さしたる検査もなしに、緊急外来の医師が発したこの一言に―――そう、あのヤブ医者っぽいGPの診断と一言一句違わないその診断に、賢は、とうとうキレた。
「何が…何が“ゆりかごから墓場まで”だよっ!!!! たいした検査もしないで、憶測だけでその場しのぎな診断下しやがって―――お前ら、ほんとに医者か!? そんな程度で税金使うんなら、その辺の学生でも医者のフリできるだろ、このボケッッ!!!!!」
英語ではないどっかの言葉で叫ぶ、患者との続柄不明の子供みたいな東洋人に、緊急治療室のスタッフは度肝を抜かれた。
大人しくさせようにも、相手は自国語を喚き散らすばかりで、一向に聞く耳を持たない。4人がかりで「落ち着け」と言って宥めたが、まるで効果はなかった。
患者とその母親は、あまりの彼の剣幕に唖然としていたが、その母親の方は、彼が喚いている言葉を理解していたらしい。
「あの…息子は絶対に虫垂炎だ、手遅れになって破裂でもさせたら、日本に帰ってマスコミに全部暴露してやる、嫌なら今すぐ息子のレントゲン撮影と血液検査をしろ、するまでは何が何でも帰らないぞ―――と言っています」
「―――…」
外国人の、意味不明なゴリ押し。
本来ならこんなもの、無視して終わりなのだが―――あまりにも彼が途切れることなく喚きたてるので、そのうるささに、スタッフは負けた。
こんな程度の腹痛、毎日何十人と診てるのになぁ、と納得いかない気持ちながらも、彼らは仕方なく検査を行ったのだった。
その結果。
賢は、ロイの命の恩人となった。
「…実は、3日前から、結構痛かったんだ」
と後にロイが告白したとおり、開腹手術してみた結果、ロイの盲腸はまさに破裂寸前―――その日のうちには破裂したであろう状態になっていたのだ。
***
賢がワッツ家を去る日、ロイはまだ退院できず、病室での別れとなった。
「ほんと、お前って、いい奴だなぁ」
自分のために、別人のようにキレて暴れてくれた異国の友人に、ロイは半ば涙を浮かべながらそう言った。
ロイを心配して、というより、病人を何時間(どころか何日間、何週間…いや、何年)も待たせるこの国の医療制度への怒りの方が強かった賢としては、その言葉は少々複雑な気分なのだが―――せっかく感謝してくれているのだから、何も水をさすことはないだろう、と考え、「ありがとう」と笑顔で返しておいた。
「こっちの習慣にも随分慣れたんだからさ。また来いよ、イギリスに」
「そうよ。また冬休みにでもいらっしゃいよ」
ロイとアビーに言われ、ちょっと、顔が引き攣る。
確かに、色々変な習慣はあったものの、いい国だった。
イギリス人はいい人が多かった。個人的には。ただし、職場に入った途端、どいつもこいつも日本ならあり得ないほど横柄で、金払うどころか金寄こせと言いたくなる輩が多かったが。たとえばウェイトレスとか、店員とか、医者とか医者とか医者とか。
ちょっと滞在するには、趣もあるし、適度なカルチャーショックもあって、とてもいいところ。
でも、長期滞在するには、恐ろしいところ。というか、絶対に病気になれないところ。
それが、賢が学んだイギリスだ。
「…えーと…、そうだ! どうせなら、今度はロイが日本においでよ」
「えっ」
「今度は僕が、日本を案内してあげるよ。ロイには色々、お世話になったから」
賢にそう誘われ、病床のロイは、期待に目を輝かせた。
「俺が日本に、かぁー…。それもいいな」
「うん。是非おいでよ」
「よし。大学受験終わったら、絶対行くからな。待ってろよ」
そう言って硬く握手するイギリス人少年と日本人少年の間に、そこはかとない友情が生まれた瞬間だった。
この数ヵ月後。
日本文化についてほとんど何も知らないまま日本を訪れたロイは、横断歩道で車にはねられそうになり、地下鉄の切符の買い方で戸惑い、風呂桶の中を泡だらけにして叱られ、パスタをナイフとフォークで食べて店内の注目を浴び、そして―――たかが鼻風邪ごときで2千円も取られる日本の医療制度に憤慨することとなるのだが。
それもまた、異国ならではのエピソード、ということで。
500000番ゲットのarcaさんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は、「英語圏への海外留学のお話。そして、国を超えた友情・ラブコメ。主人公はノンフレーム眼鏡で」。(ご本人がノンフレーム眼鏡だそうです)
一応、文中に出てくるイギリスの医療制度は、事実です(緊急外来の医者の診断も、あながちオーバーではないらしい…いくらなんでももうちょいマシな気はしてるというか、そうであって欲しいけれど)。
ロンドンは、是非もう一度行きたい街ですが、ついの住処にする気にはなれませんねぇ…。診察室で十何時間待ってギネス記録更新、なんて国だもの(^^;
友情は生まれ…たような、生まれかけただけのような。異国ノスゝメ・ロイバージョンも、それなりに面白いかもしれないけど…日本人にとっては、普通の話にしかならないか(笑)
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