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コンナ恋ノハナシ

 

 悪魔からの電話は、俺の大学進学が決まった直後、かかってきた。

 「はぁ!? なんだそれ!」
 『ねー、お願いっ! 頼める人、(かい)しかいないんだもんっ』
 電話の向こうの女は、5歳の頃から、あまり喋り方が変わらない。そう、俺は5歳位からこいつを知っている。でもって、こいつの性格も、5歳からあんまり成長してない気がする。
 「事情説明しろ、事情」
 『えー、だって、めんどくさい』
 「めんどくさい、じゃねぇっ!」
 『うー…』
 やだなー、とか、また海ったら怒るなー、とか、ぶつぶつぶつぶつ一人で呟いた後、奴は、ようやく説明を始めた。
 『あのね、森下君がね』
 「……またかよ」
 続きを聞く前に、げんなりした。
 “森下君がね”、は、この女の口癖に近い。俺に電話してくる時、その用事の大半は、この“森下君がね”に関わることだ。
 『またかよ、ってことないじゃないっ』
 「はいはいはい。森下君がどうした」
 『森下君が、バイト始めたの。居酒屋さんで』
 「え、あの秀才君が? 似合わねー…」
 『社会勉強のため、だって。うちの高校、バイト禁止だったし、特に部活もしてなかったから、森下君の高校生活って勉強オンリーだったじゃない? 前期はバタバタしてて考えられなかったけど、この時期に来てやっと、バイトもやってみるか、って思ったみたい』
 「ふーん…。話の流れから察するに、お前がさっき言ってた“居酒屋”って、森下のバイト先だな」
 『ピンポーン』
 いきなり第一声が「海、お願い、居酒屋でバイトして!」だから、何がなんだかさっぱり分からなかったが、ここにきてようやく話が見えてきた。つまり、この電話は、俺にその“森下君”と同じ居酒屋でバイトしてくれ、という用件な訳だ。
 「で? なんで俺が?」
 『実はね、』
 受話器の向こうの声が、途端に、悲しげになる。
 『その居酒屋さんに、すごーーーーくデンジャラスな人がいるの』
 「…でんじゃらす?」
 『森下君が褒めるのっ』
 おい。泣きそうな声になるな。
 『今年の春、短大を卒業したばかりのお姉さんでね、森下君のバイトの時間帯と大体同じ時にフロアに入るんだけど、森下君、その人のこと、凄く凄く褒めるのっ。あの、滅多に人を褒めない森下君がよ!? 弱きを助け、強きを挫きまくってばったばったとなぎ倒すのが趣味の森下君が、自分より目上の女の人を褒めるなんて、信じられる!?』
 「…お前…なんか、話が錯綜してねぇ?」
 確かに、こいつの彼氏・森下は、ムカつく奴相手だと、たとえそれが目上であっても、表向き優等生の顔して礼儀正しく接しながら、冷ややかな笑みを浮かべてサクッと相手の嫌がる所を一刺しするタイプだ。でも、そのことと「年上を褒めるなんて」は、全然方向違いな話なんじゃないか?
 『とにかく、心配なのっ。だって、私といる時間より、そのお姉さんと一緒の時間の方が長いんだよ? この前、ちょっと見に行ったら、か…かなり、可愛い人、だったし…』
 「だったら、お前がそこでバイトすりゃいーじゃん」
 『…森下君が“同世代の男が酔っ払うような店でバイトするんじゃない”って言って、許してくれない…』
 「…あー、そー」
 勝手にやってろ。
 『ねーえー。高校卒業までの間でいいから、ちょっと見張っててよー』
 「……」
 『お願いー。海、附属高だし、もう大学進学決まったんでしょお?』
 「…これから、忘年会シーズンじゃん…。居酒屋なんて、重労働だぞ」
 『おじさんに内緒で、久保田の千寿、差し入れてあげるからー』
 「…千寿かよ。萬寿なら手ぇ打つぞ」
 『やだ。高い。紅寿なら?』
 「…また微妙な線を…」
 『うう…、エロビデオ1本なら?』
 「いらねーよっ!」
 『海ぃ』

 あー、もう。
 なんでこいつは、すぐ俺を振り回すんだろう。
 でもって、なんで俺は、すぐこいつに振り回されるんだろう。

 「―――…分かった。紅寿で手ぇ打っといてやる」

 結局俺は、今回も、こう答えてしまったのだ。

***

 俺を振り回す女・鈴木鈴音は、俺より1つ年上(あれでも)のイトコだ。
 家が近いせいもあって、俺は、物心ついた頃からずっと、鈴音に振り回されていた。

 「海〜、みおちゃんに貰ったお人形、壊れちゃった。直して〜」
 「うわーん、夏休み、もう明日1日しかないのに、絵日記が半分しか書けてないよー。海、何か考えてー」
 「サッカー部の吉野先輩にラブレター渡したいの。海、渡してきてっ」
 「にんじん嫌い。海、食べて」

 えーかげんにせーよこの女、とこめかみに血管浮かせながらも、結局は鈴音の言いなりになってしまうのは、多分、幼い頃から植えつけられた習性だろう。ついでに……まあ、中学生の頃、ちょっと好きだった、という、あまり思い出したくない事情もあったりする。そのうち目が覚めて、淡い恋心などキリマンジャロの向こうまで飛んで行ってしまったが―――初恋の相手というのには、やっぱり弱い部分があるらしい。
 で、その鈴音に彼氏が出来たのは、今から2年前の、高2の時。
 以来、俺が振り回されるネタの大半は、鈴音の彼氏・森下がらみとなった。

 「やーん、信じられない! 森下君と両想いになっちゃったよー! 海ーっ! どーしよー!」
 どうとでもせい。

 「ねぇねぇ、やっぱり彼女になったからには、彼氏にクッキーとかケーキとか焼くんだよね。海なら、何食べたい?」
 そういうセリフは、まともに卵が割れるようになってから言え。

 「ううう…、森下君が受ける大学、すんごいレベル高くて、私、受かりそうにないよー。海、数学得意だよね? 教えて!」
 馬鹿者。高3が高2に数学教わるな。

 「うわーん、やっぱり大学離れちゃったよーっ。ねぇ、海っ! 裏口入学って、どーやってやるの!?」
 おい。いい加減、頭冷やせ。

 さすがに裏口入学の方法を調べるのに付き合うほど、俺もバカではないが―――それ以外は、結構付き合ってしまった気がする。鈴音が焼くクッキーは俺が教えたレシピ通りだしなぁ。なんか間違ってるよなぁ。(ちなみに数学は秀才の森下が教えた。最初からそっちに頼めよ…)

 

 「それでは元気よくー、“いらっしゃいませ”!」
 「いらっしゃいませぇー!」
 掛け声に合わせて、作り笑いで深々と頭を下げる。
 なんだかんだで、振り回されるままに、バイト初日。お揃いの制服に身を包み、俺は「今日から入ったアルバイトです」と紹介された。
 鈴音の彼氏・森下は、俺の顔を見るや、眼鏡の奥の目をギョッと丸くした。が、さすがはクールな秀才、一瞬でそんな表情は消し去って、淡々と恒例の挨拶復唱に励んでいた。

 「じゃ、キミは、森下君について仕事教えてもらって」
 多分、アルバイトとしても秀才君なのだろう。まだ新人な筈の森下が、俺の教育係になってしまった。森下は、表面上穏やかにそれを引き受けていたが、解散して2人きりになった途端、呆れたような顔で小声で囁いてきた。
 「―――本当に来るとは予想外だったぞ、高校生」
 「なんだ。鈴音から聞いてたのか」
 「鈴木が俺に隠し事ができると思うか?」
 「…思わねー…」
 考えてることが全部顔に出る鈴音と、考えてることを必死に隠してもあっさり読み取ってしまう森下のコンビでは、まず無理だろう。それにしてもこの2人、まだ“森下君”に“鈴木”かよ。変な奴らだなぁ。
 「そんで? 鈴音の心配の種は、どの人?」
 どうせここに来た事情も全部知ってるんだろうな、と思って俺が訊ねる。案の定、森下は「何の話?」とは言わなかった。
 「ああ。あの人」
 森下が、目線で1人の女性店員を指し示す。その視線を追うと―――予想とはかなり違う人物が、せっせとカウンターを拭いていた。

 今年短大を卒業した、ってことは、俺より3学年上。だから俺は、鈴音の話を“お姉さん”というイメージで捉えていた。鈴音も“お姉さん”て言ってたし。
 ところが、カウンターをごしごし磨いてる女は、全然“お姉さん”じゃなかった。
 化粧っ気ほとんどないし、髪もブリーチもマニキュアも無縁のナチュラル、しかもパーマっ気ゼロで後ろで1つに括ってるし。鈴音レベルに小柄な上に、鈴音よりはるかに華奢な体型なのも、彼女を“お姉さん”から遠ざけているかもしれない。
 これが21? マジ? 今時中学生でもこんなの珍しいぞ。鈴音、なんか情報間違ってるんじゃないか?

 でも、鈴音情報は、間違いではなかったらしい。何故なら、森下がこう説明したのだ。
 「短大は卒業したけど就職浪人なんだそうで、夕方から閉店までの時間帯は、大抵毎日出勤しているんだ。あの通りよく働くから、そのまんま褒めただけだよ、俺は」
 「なのに“いやーん、どーしよー、森下君が心変わりしちゃうー”となった訳かぁ…」
 「…無駄に鈴木の真似が上手いな、高校生」
 ええ。一部、DNAが被ってますから。なにせ、イトコなんで。

 全く―――何しに来たんだか、よく分からないけど。
 とにかく、あの人が森下にちょっかい出したら(出すとも思えないけど)俺が割って入ったり、逆に森下が浮気心起こしたら(起こすとも思えないけど)俺がどついたりすりゃいい、ってことだよな。バイト代入るし、そう長い期間でもなさそうだし……ま、いっか。


 こうして、俺のバイト生活はスタートした。

***

 問題の彼女は、名を「西野」といった。

 森下が褒めるだけのことはあって、西野さんは、とてもよく働く。
 誰よりも早く店に入り、誰よりも遅くまで残っている(残ってる方は、一度遅番になったことのある森下からの情報で、俺はまだ見たことがない)。結構足には自信のある俺が、学校終わって速攻で着替えて飛んできても、西野さんより早く店に着くことはできなかった。
 業務も、すこぶる真面目だ。
 夕方5時半の開店直後は、まだ客もまばらだから、バイト連中は壁際やカウンター脇にたむろって、結構私語に夢中になっていたりする。そんな時も、西野さんはホール中をちまちまと動き回り、少し曲がっている椅子を真っ直ぐにしたり、紙ナフキンの予備をせっせと折ったりしている。そして、お客さんが来れば、真っ先に「いらっしゃいませー!」と声をあげる。
 俺や森下だって、かなり真面目なアルバイトだと思う。少なくとも、私語に夢中になって客にも気づかない、なんて連中とは違う。客が少なくても、それとなくホールの中をうろついて注意を払ったりしている。でも―――なんていうか、俺達が気づかないような小さな乱れにも、西野さんはあっさり気づくんだよな。やっぱりあれって、男女の神経の細やかさの違いなんだろうか。

 「西野さん、なんでそんな細かいところに気がつくの?」
 不思議に思って、ちょっと暇な時間帯に、本人に訊いてみた。
 すると西野さんは、一瞬キョトンとした後に、極めて当然といった笑顔でこう答えた。

 「私が居酒屋さんとか行く時、テーブルがきちんとしてると、ああ、いいお店だなー、っていつも思うから。だから、テーブル回る度に、自分がお客さんになったつもりで見るの。そうすると、なんかだらしないな、って思っちゃう部分が自然と見えてくるの」

 プライベートで居酒屋に行ってる西野さん、というのが、そもそも想像できないが―――この返答も、ちょっと想像してなかった答えで、正直、驚いた。
 試しに、俺もやってみた。さすがに居酒屋利用経験はもの凄く浅いから、ファミレスとかファーストフードに入ったつもりで。
 そしたら…見えてきたのだ。確かに。
 割り箸が入ってる箱が、適当に置かれてたり。テーブル拭いた時の水滴が、そのまま、客の服が触れそうな場所に残ってたり。用意する側の目線でいた時は“許容範囲”だったことが、客の目線になると不愉快な範囲になるのだと、初めて思い知らされた。

 すげー、と、素で感心した。
 バイトの女性陣では、多分一番年齢が下に見えてしまう西野さんだが、中身は、やっぱり年上だけのことはある。凄い。さすがは成人した大人だ。


 かく言う俺は、最初の2日ほどは、森下にくっついて基本的な仕事を教わったが、3日目からは他のバイト同様にせっせと働いた。バイトの仲間とも少しずつ仲良くなり、暇な時間は冗談を言い合える位にはなった。
 森下は、はなから親しくなりたくないと思っているらしく、なるべくバイトが固まってない場所を選んで休憩したり客待ちしたりしていた。こっそり聞いたら「女どもが、目の周り真っ黒で、唇の色が不自然で、髪の色がありえなくて、一緒にいたくない」のだそうだ。…その気持は、ちょっと分かる気がする。鈴音は、アイプチもマスカラもグロスもしてないもんなぁ。
 そんな訳で、森下の傘下(と周囲からは思われてるらしい。知人だってバレちゃったし)である俺も、なんだかんだ言いながら、森下の周囲をうろつく時間が多かった。
 そして西野さんは、休憩する素振りも冗談を言い合う素振りもなく、ずっと店の中を忙しく行ったり来たりしていた。

 

 「ねー、海君。この後、カラオケ行かない?」
 と、バイト仲間の女の子達から誘われたのは、バイトを始めて1週間経った頃だった。
 森下や俺同様、20時で上がる連中で行かないか、ということだった。森下は休みだったが、俺はちょっと迷った末、誘いに応じた。職場のコミュニケーションも大事だよな、と思ったから。

 ところが、である。

 「…あれ? 確か今日、閉店までだったんじゃ…」
 通用口外に集まったメンバーの中に、この時間にはまだホールで働いている筈の女子大生の顔を見つけて、俺は思わず眉をひそめた。
 すると彼女は、悪びれた風もなく、あはは、と笑って答えた。
 「あー、大丈夫。西野さんが代わってくれたから」
 「え?」
 西野さんのシフトは、今日は20時までだった筈だ。だから、このカラオケにも来るだろうと、俺はちょっと期待してた。いや、期待、っていうと下心あるみたいだけど、仕事以外であんまり話したことないから、普段てどういう感じなのかな、と興味は持っていたから。
 一体、どういうことなんだろう、と不思議に思う俺をよそに、他の連中はあっけらかんと言い合った。
 「ああ、あの人、自分が早いあがりの日でも、頼めば代わりに残ってくれるよね」
 「オレも、おととい代わってもらったよ。彼女とデートだ、って言ったら、二つ返事で交代してくれて、助かっちゃったよ」
 「よほど夜の予定がないんだよね、あの人」
 「だよねぇ。毎日毎日、正社員でもないのに遅くまで働いててさ。もしかして、ああやって働いてたら正社員として採用されるとか思ってるのかな」
 「無駄にホールをうろついてるのも、点数稼ぎっぽくて嫌だよね」
 「ま、いいじゃん。そのおかげて、あたし達は自由に出来てるんだし」
 「―――…」

 なんだか、もの凄く、嫌な気分だった。

 その日、カラオケに集まった連中は、俺と同じ高3が1人、残り3人は大学生で、うち1人は西野さんより年上の4回生だった。就職の内定も決まってて、可愛い彼女がいるんだそうだ。カラオケやってる間も、その彼女から何度も携帯にメールが入り、カラオケそっちのけで携帯を操っていた。
 西野さんと同い年の女子大生は、西野さんにシフトを代わってもらった奴だった。やたら俺に興味を持っているらしく、フリードリンクのカクテルに酔っ払ったフリして寄りかかってくるから、面倒だった。
 「ねぇ、海君、彼女とかいるのぉ?」
 「…いないっすけど」
 そもそも、海君、て呼ばれ方もやだよなぁ。森下だって、日頃は海って呼ぶけど、ホールではちゃんと苗字の「安藤」って呼んでるぞ。(そう、鈴音と俺は、苗字が違うのだ。鈴音の母親の兄弟が、俺の親父だから)
 「えぇー、本当? 海君、大人っぽいから、絶対モテるでしょぉ」
 「…いや、マジで」
 「あっ、ねえねえ、それなら、あたしとか、どお? 年上って、イマイチ?」
 「……」

 ……ウザい。

 俺は、カラオケについてきてしまったことを、もの凄く後悔した。
 そして、今頃、この酔っ払いの代わりにホールでクルクルと忙しく働いているであろう西野さんの姿を思い浮かべて―――なんだか、激しい罪悪感を覚えた。

***

 年も明け、バイト生活も1ヶ月を迎えると、俺も結構この仕事に慣れた。
 18歳から採用してくれるこの店も、高校生には一応配慮していて、最初の1ヶ月は俺には遅い時間帯のシフトは組ませなかった。でも、学校にはほとんど自習のために行ってるに等しくなってきたので、俺は店長に「閉店まででも構いません」と言っておいた。
 結構、この仕事も面白くなってきたし、バイト代が入ってきたことでちょっと欲が出た、という面もある。もうちょい稼いで、バイク買う頭金にしたい、なんてことを考えてしまったのだ。
 そうしたら、今まで、あまり実際にはお目にかかることのなかったシーンに出くわす羽目になった。

 「ごめん! 西野さん、今日、ラストまで代わってもらえる? 大学のサークルの集まりがあって、どうしても顔出さないといけないの」
 「西野さん、明日って、何時まで? え、21時あがり? 悪い、またどっかで埋め合わせするから、オレのシフト分、代わってくれるかな。卒論がダメ出し食らって、明日から3日位、死ぬ気でやらないとまずいんだ」

 ロッカールーム外の廊下で繰り広げられるこんな会話を耳にする度、俺は、なんだか釈然としない気分になった。
 そりゃ、大学のサークルも大事だろうし、卒論はもっと大事だろう。本人にしたら、バイトより大事なんだろうな、ってことは、俺にも分かる。でも……やっぱり、釈然としない。
 けれど、西野さんは笑いながら、
 「うん、いいよ。気にしないで」
 と答えるのだ。誰に頼まれても。
 代わってもらった奴らは、「ごめんね」とか「恩に着るよ」とか言って、一応は西野さんに感謝する。けれど―――俺は知っている。その後、奴らが彼女について、何と言っているか。

 「まあ、考えてみたらさ。西野さん、学校行ってる訳でも会社行ってる訳でもない、いわゆるフリーターでしょ?」
 「そうそう。バイト以外、用事ないもんね。あの働き方からすると、友達も少なそうだし」
 「彼氏もいないんだろうなぁ…。いたら、夕方5時半以降が毎日バイトで埋まってるなんて、ありえないっしょ」
 「暇なんだから、いいんじゃない? あたし達の代わりしてくれても」

 暇? 西野さんが?
 暇人なのは、お前らの方なんじゃねーの。

 ムカついた。
 ムカついたけれど―――あまりに彼女が笑顔であっさり引き受けるから、俺は、その苛立ちをどこへ持っていけばいいのか、よく分からなかった。

***

 「ごめーん、西野さん!」
 20時という中途半端な時間に出勤した俺は、聞き覚えのあるフレーズを耳にして、通用口のドアを開けようとした手を、一瞬、止めた。
 ドアの隙間から外の廊下を窺うと、案の定、西野さんと、あの女がいた。西野さんと同い年の、広田とかいう名前の酔っ払い女―――勿論、年上云々の問題以前に願い下げなタイプだったので、冗談のフリして切り抜けたけど。
 広田さんは、自分より小柄な西野さんに、拝むようなポーズで頼み込んでた。その手に携帯が握られているのが、ちょっと気になった。
 「なんか、弟が高熱出して倒れたみたいで―――今日、家族が全員留守にしてるから、家に弟1人でいるらしいの」
 「ほんと? 大丈夫なの?」
 西野さんの声は、心底心配していた。そりゃそうだ。俺だって、そんな話は心配する。
 「うん、多分…。でも、早く帰ってやらないとまずいと思うんだ。だから―――もう、あがっちゃっていいかな」
 そう言う広田さんは、今日は閉店までのシフトの筈だ。でも、まあ…そういう状況じゃ、仕方ないのだろうか。どっちにしろ、西野さんの答えはひとつだ。
 「分かった。マネージャーには私が言っておくから、早く帰ってあげて」
 「ありがとー。助かるー」
 そこまで話がついたのを見届けて、俺は、ドアを開けた。
 「お疲れ様っす」
 俺が挨拶すると、2人は振り返り、それぞれに笑顔で挨拶を返してきた。同い年の筈の2人だが、西野さんのピュアすぎる顔のせいと広田さんのばっちり決めたメイクのせいで、2人は5つも年が離れて見えた。
 「じゃ、お先失礼しまーす」
 「はい、お疲れ様」
 さっそく帰るらしく、女性用ロッカールームに消える広田さんに、西野さんはニッコリ微笑んで、軽く頭を下げた。うーん、見た目はこっちが子供みたいだけど、中身はこっちの方がしっかりしてて大人っぽいよなー、なんて思いながら見ていた俺は、ふと違和感を感じて、西野さんの横顔を思わず凝視した。
 「……」
 その視線に気づいたのか、西野さんは、こちらに目を向け、少し不思議そうな顔をした。
 「? どうかしたの、安藤君」
 「えっ、あ…、いや」
 面と向かって問われると、困る。あたふたした俺は、慌てて「何でもないっす」と首を振った。
 西野さんは、なおも不思議そうな顔をしていたが、あえて問い質すこともなく、そのままホールへと戻っていった。その後姿を見送って―――やっぱり、違和感。

 …気のせいかな。
 なんか、西野さん、元気がないように見えるんだけど。
 余計なこと、訊かない方がいいかな、なんて思いながら、俺も男性用ロッカールームのドアを開けた。すると、隣の女性用ロッカールームから、微かな声が聞こえてきた。

 「…あ、あたし。うん。うん、大丈夫、今バイト終わったところ」
 広田さんの声だ。弟に電話してるんだな、と思った俺だったが―――次の瞬間、信じられない言葉が、耳に飛び込んできた。
 「10分で行くからさ、あたし着くまで待っててよね。えーと、ジンライム頼んどいてくれる?」
 「……」
 ―――…はい?
 「え? あー、いいっていいって。代わってくれた人いたから、気ぃ遣わないでよ。それより、ありがとー、あたしっていい友達持ったぁ。向こうって何人? 3人? 4人?」
 「……」
 「うっわ、そーなんだ。あはは、分かった。じゃ、10分後ねー」
 「…………」

 血管がぶち切れる、って、こういうのを言うのかもしれない。
 俺は、ロッカールームのドアを掴んだまま、怒りのあまり、動くことすらできなくなっていた。女子ロッカールームのドアを蹴破って怒鳴り込まなかっただけでも、まだマシだと褒めて欲しい。本当は、マジでそこまでする位、はらわたが煮えくり返っていた。

 1分、2分―――どの位経っただろうか。俺が怒りに震えてる間に、着替え終わったらしい広田さんが出てきた。
 「あれ? 海君、まだいたの?」
 「……」
 いけしゃあしゃあと笑顔でそう言う広田さんを、思わず、ギロリと睨む。真冬の1月末だってのに、短いファーのコートから覗くスカートは超ミニ丈。そういう服装も、なんだかコンパ仕様っぽくてムカつく。いつでもお誘いがあれば馳せ参じよう、ってことで準備してるのか、と頭の片隅で考えて、余計ムカついた。
 そういう俺の鋭い視線に、電話が聞かれてしまったことを察したのだろう。ああ、と、広田さんは思い当たったような表情をした。
 だが。
 「ご・め・ん。西野さんにはナイショね」
 「……」
 「だってK大とのコンパのお誘いなんて、次いつあるか分からないんだもん。西野さんにとっては、いつものことじゃん。1回位、目つむってよ。ね?」
 「……」
 「じゃ、お疲れ様ぁ」
 「……お疲れ様」

 ちっっっくしょーーーー、本格的に腹立った!!!

 分かったよ。西野さんには内緒にしてやるよ。
 その代わり、マネージャーに全部ぶちまけてやるけどな。
 明日になって真っ青になっても、俺は知らねぇ。自業自得だ、K大男と心中しろ。

 という言葉は、口では言わない。俺は、心の中でだけ静かに誓って、広田さんの寒そうな脚を見送った。


 悔しい。
 自棄になったように着替えながら、滲んでくる涙を拭う。この悔し涙は、何だろう? 自分が広田さんの代わりに居残る訳でもないのに。
 もの凄く、西野さんを馬鹿にされた気がした。
 なんで分からないんだ、なんでそんな風に馬鹿にできるんだ。悔しい、悔しい、悔しい。許せない。こんなのがまかり通っていい訳がない。
 でも、一番腹が立つのは、あんな広田みたいな女の嘘をあっさり信じて、ニコニコ代わってやってしまう、西野さんの人のよさかもしれない。
 人がいい、って、褒め言葉だけど、それにも程があるんじゃないか? 人のことばっか優先して―――西野さんの“自分”は、どこにあるんだよ? それでいいのかよ、本当に。


 「…あー、畜生っ」
 ダメだ。こんなイライラ状態で、ホールに出たらまずい。パン! と両頬を掌で叩いて活を入れた俺は、深呼吸して、店に続くドアを抜けた。

 「安藤入りまーっす」
 「お疲れさんでーす」
 厨房スタッフの声を受けて店内に入ると、真っ先に、カウンター傍で食器を片付けている森下と目が合った。森下は21時あがりだった筈だな、とシフト表を思い出しながら、俺達は目だけで挨拶をした。
 「オーダー入ります! お造りB1つ、山菜ピラフ1つー」
 「了解ー」
 条件反射的に、他のスタッフと一緒に返事をしながら、俺は、今の声が西野さんであることに気づき、思わず足を止めた。
 カウンター越しにオーダーを告げる西野さんは、一見、いつも通りだった。髪をひとつに括り、明るい笑顔でオーダー票をカウンター内のクリップに一発で挟む。そして、休む間もなく、カウンターの向こう側に入り、ビールジョッキを取り出して、オーダーされた生中2つを準備する。よどみない動きは、西野さんそのものだ。
 でも―――…。

 店内では、まずい。ここの方が目立たないだろう。俺は、カウンターを回り込み、ビールをジョッキに注ぎ終えた西野さんの顔を覗き込んだ。
 「西野さん?」
 「えっ? …っと、うわ、」
 驚いたように顔を上げた西野さんの手から、一瞬、ビールジョッキが離れかける。慌てた西野さんは、すぐに顔を戻し、泡がこぼれる寸前で傾いたジョッキを立て直した。
 「あ、ごめん。タイミング悪かった」
 「い、いいけど―――何? どうかしたの、安藤君」
 「ちょっと、ごめん」
 かなり失礼な気もしたが、どうせ西野さんのことだ。本当のことなど、自分からは絶対言わないだろう。俺は意を決し、西野さんの額に手を当てた。
 「ちょ…、っ、あ、安藤君」
 「―――やっぱり」
 微熱、なんて言い訳は通用しないレベルだ。38度はありそうな熱い額に、俺は思わず大きなため息をついた。
 「西野さん、もうあがっていいですよ。俺、西野さんの分も動きますから」
 「え、そんな、いいよ。多少の熱くらい」
 「多少じゃないでしょう、これ」
 「大丈夫だから」
 そんな筈ないのに、西野さんは、俺を見上げてにっこり笑った。
 「この位の熱、だから、大丈夫―――心配してくれてありがとね」
 「……」

 ―――全く。
 一体、どこまで自分を犠牲にするんだ、この人は。

 舌打ちした俺は、素早く傍の流しで手を洗い直すと、西野さんの手からビールジョッキを奪った。
 「あ、安藤君!」
 「何番っすか、これ」
 「い、いいから、私、」
 「何番テーブルですか」
 歩き出しながら、頑なに同じ言葉を繰り返す。それで、さすがに諦めたのだろう。
 「……5のC」
 「りょーかーい」

 5のCへとビールを運びながら、俺は、ホール中に視線を走らせて、森下の姿を探した。
 森下は、21時あがりだ。ただでさえ広田さんが抜けた分、スタッフの人数は減っている。この上、西野さんと森下両方がいなくなれば、かなりまずいだろう。
 無事ビールを運び終え、レジ傍に森下の姿を見つけた。俺は、大急ぎで森下の所に駆け寄ると、その制服の袖をくいくいと引いた。
 何、という顔で振り返る森下に、素早く告げる。
 「ごめん―――ちょっと、頼みごとあるんだ」


***


 休憩室のドアをそっと開けると、畳敷きの小さな部屋の中央に寝ていた西野さんが、もぞもぞと動いた。
 「―――西野さん?」
 「…うん」
 僅かに頭を上げた西野さんが、俺の顔を見て、薄く微笑む。熱が上がってきてるのかもしれない。かなりだるそうだ。
 「安藤君、お店の方、大丈夫なの?」
 「あー、うん。団体さん帰って、かなり客減ったから。森下も残ってくれてるから、大丈夫」
 「…ごめんね」
 そう呟く声が、とてつもなく申し訳なさそうで―――こんなキツい時まで気を遣うなよ、と焦れた気分になる。
 「あと1時間であがりだから、俺と森下で送るから」
 「い、いいよ。そこまでしなくても。少し眠って、楽になったし」
 本当に……なんだってこの人は、こうも自分より人のことばかり考えるんだろう。そのまま1人で歩いて帰れないほどに、フラフラの状態になっていたってのに。ため息をついた俺は、ドアを閉めて、一段高くなった畳の端っこに腰掛けた。
 「―――言いたくないけどさ。西野さん、人よすぎるよ」
 「え…?」
 「他の奴らに対してだよ。大した用事でもないのに、決まったシフトを平気でサボって、それを全部西野さんに押し付けて」
 「……」
 俺のダウンジャケットを被った西野さんが、少し悲しそうな目で、俺を見上げる。その目にちょっとドキッとさせられるけど、さすがに今日はもう黙っていられない。
 「さっきの、広田さんもさ。弟が病気で寝込んだ、なんて言ってたけど―――それ、本当に信じてんのかよ。弟心配してる姉貴が、あーんな嬉しそうな顔で帰るか? 普通。あれがもし嘘で、合コンとか、ただ単にサボりたいから、だったら、どうすんの?」
 「……」
 「西野さんが、あんまり笑顔でホイホイ引き受けるから、どいつもこいつも“それでいいじゃん”てムードになってて、新人の俺がとやかく言える雰囲気じゃなくなってるし…」
 「……」
 「なんか…俺、見てらんないよ」

 視線が、畳の上に落ちる。言葉だけじゃなく、なんか、本当に見てらんない気分で。
 いつものような元気が欠片もない、頼りなく横たわってるだけの西野さん。でも…本当にいつも、元気だったんだろうか。今日だって、俺が気づくまではマネージャーですら気づかなかったんだ。これまでだって、体がきつい時も、他に用事がある時も、元気なふりして笑顔で何でも引き受けてたんじゃないか―――そんな気がして、弱々しい西野さんを、とても見ていられない。

 西野さんは、暫く、何も言わなかった。
 2枚の扉を隔てて、店内でかかってる音楽だけが、小さな休憩室の中に微かに響く。気まずさに、俺がなんとか口を開こうとした時。
 「―――…ありがとね、安藤君」
 ポツリと、西野さんが、そう言った。
 少し驚いて顔を上げると、俺の方見てた西野さんと、ばっちり目が合った。そのことに俺がアタフタしてるのを見て、西野さんは少し気だるそうにくすっと笑った。
 「でも私、無理してる訳じゃないんだよ」
 「…無理してなくても、理不尽な穴埋めをやらされてるじゃないか」
 「理不尽……かなぁ…?」
 「違う? どう考えたって、あいつらのわがままだろ?」
 「わがまま、かぁ…」
 何かに思いを馳せるみたいな声でそう言うと、西野さんは大きなため息をつき、ごろんと頭を動かして天井を見上げた。
 「…いいなぁ…」
 「え?」
 「みんな、その位、優先したいものがあって」
 西野さんの謎の言葉に、俺は、怪訝そうに眉をひそめることしかできない。優先したいものがあって、いいなぁ、って……?
 「私には、ないの」
 「……」
 「人に迷惑かけたり、人に悪口言われたりする覚悟をしてでも、どうしてもそれがやりたい、って思うようなこと、私にはないんだ」
 「…あの…、あいつらがバイト早退してるのって、そんな崇高なことじゃないと思うぜ?」
 「うん、分かってる。デートしたり、コンパしたり、友達と飲んだり遊んだり……そんなことだよね」
 「だと、思う」
 「それでも、羨ましいよ。私には」
 「……」
 「人より優先したいような“自分”が、ないの」

 少し、抑揚のない声だった。
 天井を見つめる西野さんは、俺に言うでもなく、自分に言うでもなく、淡々とした声で、ゆっくり、ゆっくり、続けた。

 「…友達もいるし、一緒に遊べばそれなりに楽しいけど、でも、バイト休んでまで会いたい、って思うほど楽しい訳じゃない。…彼氏がいても、彼氏が友達との約束がある、って言えば、じゃあそっちを優先していいよ、ってなっちゃう。友達との約束破ってでも私と会って、とは思わない。……おいしい食べ物も、素敵なプレゼントも、他に欲しい、って人がいるなら、その人に譲っちゃうの。その人は、私を押しのけてでもそれが欲しい、って思ってるけど―――私は、他に欲しい人がいるなら私はいいや、って程度にしか、いつも思えないから…」
 「……」
 「…つまらない人間だよね、私って」
 自分で自分のこと笑うみたいに、小さく笑って。
 西野さんは、僅かにこちらに顔を向けて、力ない笑顔を俺に返した。
 「だから私、他の子にそんなに優先したいことがあるなら、私が代わりに仕事するのは当たり前だ、って思うの。だって、私には、何もないから。…でも…」
 「……」
 「…そんな風に、からっぽな人間だから……いくら就職活動やっても、受からないのかな」
 「……」
 「…そんな風だから……彼氏も、他の女の子にとられちゃったのかな―――…」
 「…西野さん…」


 『まあ、考えてみたらさ。西野さん、学校行ってる訳でも会社行ってる訳でもない、いわゆるフリーターでしょ?』
 『そうそう。バイト以外、用事ないもんね。あの働き方からすると、友達も少なそうだし』

 考えてもみなかった。この人が、バイトのない日中の長い長い時間を、どんな風に過ごしているのか、なんて。
 どんなに早く来ても、西野さんより早くは来られなかったから、西野さんの出勤スタイルなんて、ほとんど知らない。でも…確かに1度、不思議に思ったことがある。いつもラフな服装の西野さんが、靴をハイヒールからスニーカーに履き替えているのを見かけて。
 彼氏がいるとかいないとかも、想像すらしたことがなかった。いつ、そんな悲しい目に遭ったんだろう? つい最近? それともずっと前? いつも元気で明るい西野さんだから、それがいつだったかなんて、きっと誰にも分からないだろう。
 就職先が受からない理由は、俺からすれば、全然分からない。バイトでの仕事振りを見る限り、西野さんほど優秀な店員はいないんだから。でも―――もしかしたら、西野さんの自信のなさが、面接とかで響いてるのかもしれない。私は大した人間じゃないんです、他に優秀な人がいたら諦めます―――そういう空気が、面接官の目を曇らせてるのかもしれない。

 多分、西野さんの言ってることは、間違ってる。
 西野さんを押しのけてでも“それ”を手に入れようとする奴らは、本当は、西野さんが真剣に考えるほど“それ”を欲しがってる訳じゃない。“それ”を欲しがる連中のさもしい姿を見て、西野さんがそう勘違いしてるだけだ。
 簡単に手に入るから、西野さんみたいな優しい人がいるから、わがままを押し通して労せず手に入れようとしてるだけ。
 そんなずるい奴らでも―――人を押しのけてでも優先したい“自分”があるだけ、自分より奴らの方が上だと、西野さんは本気で思ってるんだろうか?


 さっきまでの悔しさとは、また別の悔しさがこみ上げてくる。

 …なんだろう、この悔しさ。
 西野さんの顔を、呆然と眺めながら、自問自答する。何が悔しいんだ? 何にショックを受けてるんだ? と。

 そして、気づいた。その正体に。
 気づいて―――余計、呆然とした。


***


 「どうだった、西野さんの様子」
 ホールに戻るとすぐ、森下が声をかけてきた。
 「…あー、なんか、だるそうだった」
 「そうか。あと1時間、寝かせといても大丈夫かな」
 「うん……」
 半分上の空の返事をする俺に、森下は、怪訝そうな顔をした。
 「どうかしたのか」
 「え?」
 「ボケた顔をして」
 「……」
 森下の、居酒屋には全然似つかわしくない学者風のクールな顔を見てたら、やっと頭がまともになってきた。
 まともになった途端―――俺の口元に、かなり不吉な笑いが、じんわりと浮かんできた。それを見て、森下が、ギョッとしたように一歩退く。
 「森下」
 「な、なんだ?」
 「鈴音に言っといて。もうなーんにも心配することないって」
 「は?」
 「西野さんのことだよ」
 要領を得ない森下にずいっ、と詰め寄った俺は、とどめにニンマリと笑ってみせた。

 「西野さんは、俺がもらうから―――間違っても森下にとってデンジャラスな女にはなんないから、一生安心してろ、って伝えといて」

 

 『お…俺が、なってみせる!』

 いっぱいいっぱいの状態で、西野さんに放った一言。

 そう―――俺は、西野さんの言葉にショックを受けていた。悔しかった。
 何故ならそれは、西野さんにとっては、「俺」すらも“他の人より自分を優先したい対象”ではないと、そう思い知らされたからだ。
 当たり前といえば、当たり前だ。俺は、西野さんの何でもない。ただのバイト仲間だ。でも…ショックだった。広田さんにちょっかいをかけられた経験があるだけに、余計に。
 もしこの先、西野さんが俺に好意を持ってくれることがあったとしても―――広田さんが「あたしも海君、好きなんだ〜」などと軽い調子で口にしたら、西野さんはあっさり、俺を諦めるだろう。
 そういう図が、ぽん、と頭の中に浮かんで……ショックだった。そういう目に遭った訳でもないのに、激しくショックだった。

 そのショックの正体は、すぐ分かった。
 俺は―――西野さんのことが好きになっていたんだ。
 マネージャーですら気づかない異変に気づくほど、いつもいつも、無意識のうちに西野さんの姿を目で追っていたんだ。それほどに、西野さんに心を奪われていたんだ。いつの間にか、自分でも気づかない間に。

 ぽかん、とした西野さんの顔は、正直……かなり、可愛かった。その可愛い顔にクラクラしつつ、俺は再度、宣戦布告した。

 『西野さんが、“他人を押しのけてでも優先したい相手”に、俺がなる。なってみせる。他の女が俺に言い寄ってきた時、西野さんが“はい、どうぞ”なんて絶対言えないような―――もう、泣いて縋って、俺でなきゃダメ、とか言う位の男に、俺がなる!』


 だから。
 付き合って下さい。


 ものすごーく、短絡的な俺の告白に―――まだ事態がよく飲み込めてない西野さんは、圧倒され、気迫に呑まれた顔をしながらも、

 ―――…はい。

 と答えたのだった。

 

***

 

 コール3回で、電話は繋がった。

 「鈴木?」
 『…うん。…ふああぁぁあ…ねむー。どーしたの、森下君、こんな時間に』
 「今、バイト終わったところ。これから帰る」
 『あ、そーなの? お疲れ様ぁ』
 「で、海から伝言」
 『海から?』
 「“西野さんは俺がもらう、だからもう心配するな”だそうだ」
 『―――……』

 沈黙が、流れる。

 多分、受話器の向こうでは、鈴音の口元ににまーっとした笑いが浮かんできているのだろう。
 ちなみに、受話器のこっち側では、森下の口元に同様の笑いがじわじわと浮かびつつある。

 『ほらねー。私が言ったとおりだったでしょー? あのお姉さん、絶対海にピッタリだと思ったもんー』
 「こら。最初に言ったのは俺の方だぞ。海は男気のある奴だから、3つの年の差なんて大したことないだろう、って」
 『むー、そうだけどー』
 「とにかく、そういうことだから。無事お前の望むとおりになったから、もう変な嫉妬や勘ぐりはよせよ」
 ため息混じりに森下が言うと、鈴音は余計膨れて反論した。
 『それは私のセリフですよーだ。森下君こそ、もう二度と変な勘ぐりはやめてよねー。海はただのイトコなんだからっ』
 「…お前の“ただのイトコ”に対する扱いは、常軌を逸してるんだよ」
 『えー、そぉ? 小さい頃には一緒にお風呂に入った仲だもん。一緒に寝たって、ソフトクリーム2人で半分こしたって、別に変じゃないよぉ?』

 いや、変だって。

 過去にも鈴音から聞かされた海と鈴音の逸話に、森下の背筋が寒くなる。そりゃ、小学校中学年位までなら、微笑ましい話だろうが―――19歳と18歳の男女が同じ布団で寝たり、食べかけのソフトクリームで間接キスしたりして、何も疑問を抱かないのは、かなりおかしい。
 『私と海より、森下君の“西野さんて偉いよ”延々リピートの方が、絶対おかしかったっ』
 「…はいはい。とにかく、西野さんはもうデンジャラスじゃないし、海ももう怪しくないから、満足しただろ?」
 『うん』
 そう答える鈴音の声は、もの凄く満足そうに弾んでいた。
 『あ、そうだ。海って、西野さんの下の名前、知ってるの?』
 「え? ああ、いや、知らないんじゃないかな」
 『そっかー。じゃあ、これから知ったら、凄くびっくりするだろうねー』


 西野さんの下の名前は、渚。

 海と、渚。

 「海には絶対、あのお姉さんが似合う!」と鈴音が豪語した理由は、実はこれだったりする。

 …人が人を紹介したりくっつけようとしたりする動機なんて、案外、こんなものなのだ。


 勿論海は、自分が居酒屋でバイトをさせられた理由が「森下が西野さんとくっつかないように」ではなく「海が西野さんとくっつくように」だなんて、全然知らない。

 安藤 海、18歳。
 とことん、イトコに振り回される運命の、可哀想な男である。


700000番ゲットのペペさん、750000番ゲットの李緒さんのリクエストにおこたえした1作です。またしても合同(笑)
ご希望は、「彼氏もちの女の子の相談相手にばっかりなっているある種都合のいい扱いの高校生の男の子が振り回されてるうちに…」(ペペさん)と「自分より他人を優先させてしまう人の話」(李緒さん)。
並んだ時、「なんか似たリクエストだなぁ」と思ったことから、よし、だったら合同にして1つの作品にしよう! と思い立ったのでした。
そこに森下&鈴音コンビが絡んできたのは……うううううん、何故なんでしょう(^^; それにしても、彼らが出てくると、会話のテンポが一気にハイテンションになるなぁ…。


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