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私には、ずっとずっと昔から、好きな人がいる。
でも、きっと永遠の片思い―――私の思いが届く日が来ることは、一生、ない。
***
窓ガラス越しに店の中の様子を窺うと、ちょうどお客さんの切れ目だったようで、1組のカップルがいる以外は空席だった。
すうっ、と深呼吸してから、扉を開ける。ドアベルが軽快な音を奏でて、その音にカウンターの向こうの渡会さんが顔を上げた。
「やぁ、のぞみちゃん」
「こんにちは」
向けられた春の陽だまりみたいな笑顔に、緊張が緩む。渡会さんのこの笑顔に、私は昔から弱い。つい子供の頃みたいに、へらっと笑い返してしまう。
「何にする?」
「んーと…ダージリン」
「ダージリンね」
慣れた手つきでカップを準備する渡会さんの手元を見ながら、カウンター席についた。私の指定席は、カウンターの一番奥。ここが一番、渡会さんの手元を見やすいから。
いつも絵が飾ってある壁を見ると、先日までの絵とは違う絵がかかっていた。この前までは風景画が飾ってあったのに、今は青色を基調としたパステル画の女性像。
「いつ、絵が変わったの?」
「3日くらい前かな」
「前の風景画、私、凄く気に入ってたのになぁ」
「うん。僕も割と気に入ってたよ。でも、この絵も気に入って譲ってもらっちゃったからね。だからあの絵は、葵さんのとこに飾ることにしたんだ」
「…そうなんだ」
思ってもみなかった位、沈んだ声になってしまって、焦る。でも、どうやって誤魔化せばいいかわからなくて、ついうつむいて、意味もなくリボン・タイを解いたり結んだりした。
しばらくすると、ほどよい色合いのダージリン・ティーが注がれたティーカップがカウンターの上に置かれた。でも、今日は、それ以外にも小さなお皿がついてきた。
「はい、お待たせ。このクッキーは、サービス。余り物だけど、良かったら食べて」
「わ、嬉しい」
クッキー1枚で、さっきまでの沈んだ気分が治っちゃうんだから、私ってやっぱり、まだまだ子供なんだなぁ、って思う。
でも―――どんなに大人ぶったところで、渡会さんの目には、高1なんて子供にしか映らないだろうな。
コクン、と喉を通ったダージリンは、渋みがまだ苦手な私向けに、少し蒸らし時間を短くしてあった。そんなところにも、渡会さんは「大人」で私は「子供」だっていう現実が、しっかりと根づいていた。
私がこの喫茶店に初めて来た時、私はまだ小学校に入ったばかりだった。
お父さんに連れられて毎週土曜日に来ていたこの店は、当時は女の人が切り盛りしていた。葵さんという人で、笑顔が真夏に咲くひまわりみたいな、ただそこに居て笑ってるだけで周りが癒されちゃうような人だった。
私もお父さんもお母さんも、葵さんが大好きで―――葵さんも、子供客は珍しいせいか、私を凄く可愛がってくれた。
お父さんのお気に入りは、カウンター席。紅茶やコーヒーを淹れる手元を見るのが楽しいんだ、っていつも言ってた。
日頃、忙しい忙しいって言ってゆっくりご飯を食べる暇も無いお父さんが、この喫茶店では、お茶の香りを楽しみながら、のんびりと紅茶を味わう。日頃話ができない分、私やお母さんの話を一杯聞いてくれる。
プリンアラモードなんかを食べながら、そういうまったりモードのお父さんといると、なんだか凄く幸せな気分になれた。
だから私は、葵さんと同様に、この店そのものも大好きになった。
渡会さんも、当時はお客さんの立場だった。
でも、私はすぐに、渡会さんの顔を覚えた。だって、渡会さんが来ると、葵さんの笑顔が5割り増しになるんだもの。特別なお客さんなのかな、と思ってたら、お母さんが看護婦仲間から聞いた話を教えてくれた。
「あの証券会社のお兄さんは、葵さんの婚約者なんだって」
「こんやくしゃ?」
「結婚を約束してる人ってことよ」
そう聞いて、不安になった。葵さんが結婚しちゃったら、あの店はなくなっちゃうんだろうか、と。
でも、それはただの杞憂だった。
「何があっても、このお店だけは閉めませんから、これからもご贔屓にして下さいね」
葵さんは、そう言ってニッコリ笑った。一番のご贔屓だったお父さんは、それを聞いてホッとしたような顔をした。
「閉めてもらっちゃ困るよ。毎週土曜日、ここに来るのが、僕の一番の気晴らしなんだからさ。これからもずっと来るよ―――のぞみと一緒に、ね」
そう。
その頃は、みんなそういう未来を、思い描いていた。
でも、実際には…そんな未来は、来なくて。
「のぞみちゃん?」
渡会さんに声をかけられて、私は我にかえった。ティーカップを持ったまま、ぼんやりしていたらしい。
「おいしくなかったかな? 今日のダージリン。時間おきすぎた?」
「う、ううん。おいしい。渋すぎないし、でも香りはしっかりしてて、さすがは渡会さんの淹れた紅茶って感じだよ」
「あはは、褒めすぎだよ」
渡会さんは困ったように首筋を掻きながら笑った。ああ。この癖も、証券マンやってた頃から、全然変わらないなぁ…。
カウンターの色も、壁紙の模様も、並んでいる葵さんご自慢のカップ&ソーサーたちも、あの頃のまま。
なのに。
今、この喫茶店には、葵さんも、お父さんも、いない。
代わりに、渡会さんと、私がいる。まるで、葵さんとお父さんの代役を務めてるみたいに。
***
ナースステーションを覗き込んで、コンコン、とノックしたら、何かを書いていたお母さんが振り返った。
「あら、のぞみ?」
「えへへ、来ちゃった」
手に持った紙袋を掲げてみせ、ほんのちょっとだけ中に入った。他に2人看護婦さんがいたけど、みんな顔見知りなので、笑顔で挨拶してくれた。本当は、部外者がこんな所入っちゃいけないんだろうと思うけど…。
「これ、さっき焼いたから、お腹空いたら食べて」
紙袋の中身は、お手製のマドレーヌ。匂いでわかったのか、お母さんの顔がぱっと明るくなった。
「ありがと〜。時間ない時に助かるのよ、あれ」
「今日ってこのまま夜勤入っちゃうんでしょ?」
「そうよ。一番キツいシフトだから、糖分補給して頑張らなくちゃ」
あはは、と笑うお母さんは、この病院の婦長さんをしている。後輩ナースたちの信頼も厚くて、いつもハキハキとした笑顔を見せるベテランナース。貫禄のあるふっくら丸い体型だけど、やっぱりここ半年で、ちょっと痩せたみたいだ。
少しの間、お母さんや看護婦さん達とお喋りをする。と、看護婦さんの一人が、ナースステーションの外を通った人影に気づいて、少し声を低くした。
「あの人って、坂の上の喫茶店のマスターよね」
一瞬、心臓がビクン、と跳ねた。
慌てて振り向くと、いつも渡会さんが着ているベージュカラーのジャケットの背中が、少しだけ見えた。
―――葵さんのところに来たんだ。
「よく続くわよねぇ…毎日毎日。207号室の患者さんの婚約者なんでしょ、あの人」
「あれだけ想われるなんて、ちょっと羨ましいなぁ。…あ、勿論、気の毒だとは思うけどね」
若い看護婦さん2人が、そんな話をする。私は、それを聞きながら、曖昧な笑顔を見せるしかなかった。
もう何年経つんだろう―――葵さんが、信号無視で突っ込んできたトラックにはねられて、昏睡状態のまま意識が回復しなくなってから。
証券マンだった渡会さんは、それまでの安定した会社勤めの生活を捨てて、あの店のマスターになった。目を覚まさない葵さんの代わりに、あの店を守ってる。
そして、1日が終わると、葵さんに会うために病院を訪れる。毎日、毎日…365日、欠かすことなく。
葵さんが事故に遭った時、私はまだまだ小さかったので、渡会さんの決意したことの重さは全くわからなかった。でも、成長するにつれて、それがいかに大変なことなのか、実感するようになった。
どうしてそこまでするの? って質問をしたのは、中学にあがった頃だったと思う。そしたら、渡会さんは、いつものように優しい笑顔を浮かべた。
「葵さんが、命の次に大事にしてたお店だもの。3番目に大事にされてた僕が守らなくて、誰が守るんだい?」
いつ頃からか抱いていた、渡会さんへの淡い恋心。でも、それは永遠に片思いでしかありえないって、あの時、確信した。
渡会さんは、永遠に、葵さんのものだ。このまま目覚めなくても―――そしてたとえ、この世を去ってしまっても。
あの日から私は、学校帰りに必ず、ご近所の教会に寄るようになった。
誰もいない礼拝堂の木の椅子に座って、少しの間だけ、祈る。
神様。
葵さんを生かして下さい。
渡会さんから、葵さんを取り上げないで下さい―――、と。
***
「え? アルバイト?」
渡会さんは、驚いたように目を丸くした。でも、少し声のボリュームが抑え気味なのは、私が制服を着ているせいだろう。他のお客さんに聞こえたらまずい、と、気を使ってくれているらしい。
「うん。駄目かなぁ? お店の後片付けだけでもいいし、外の掃除だけでもいいから、ここで使ってもらえない?」
「どうしたんだい、急に。お小遣いが足りないとか?」
「ううん。お小遣いは十分もらってるよ。でなけりゃ、紅茶飲みにここに来たりできないよ。お小遣いが足りないとか、何かを買いたいとか、そういうんじゃないの」
「第一、のぞみちゃんの学校、アルバイト禁止でしょう」
「―――うん。だから、渡会さんにお願いしてるの」
私がそう言うと、渡会さんは眉をひそめ、拭いていたお皿を傍らにカタン、と置いた。
「のぞみちゃん。あの女子高、小学生の頃からの憧れだったんだろう? ご両親も応援してたし…。合格して、泣いて喜んだのだって、まだほんの半年前じゃないか」
「…うん…」
「だったら、今のぞみちゃんがすべき事は、充実した学校生活を送ることなんじゃないかな」
「……」
「しっかり勉強して、友達いっぱい作ってさ。嫌でも大人になれば働かなくちゃいけないんだから、校則破ってまでアルバイトをする意味なんて、無いと思うよ」
まるで、自分の子供を諭すみたいな声に、私は、結局小さく頷くことしかできない。
「学校が楽しくないとか?」
「ううん、学校は楽しい。友達もいっぱい出来たし、勉強も面白い」
それはよかった、という風に、渡会さんが笑う。
―――でもね、渡会さん。
うちの学校、お嬢様学校だから、入学金も授業料も、結構高いんだよ。
楽しい学校生活には、他の学校に通ってる友達よりずっとずっと高いお金がかけられている。それがわかっていながらノホホンとしてられる訳がない。まだ大人じゃないけど、1万円の価値を知らない程子供でもないんだから。
私がアルバイトしたって、たかが知れてる。でも、1円でもいいから自分で稼げば、今抱えてるもどかしさを、少しは解消できる気がする。本当に僅かで構わないから、お母さんを助けてあげたい。
それに―――渡会さんの事も、助けてあげたい。
本当は、渡会さんの「仕事」じゃなくて「生活」を手伝ってあげたい。一人暮らしの渡会さんのために、ご飯作ったりとか、掃除したりとか。でも…それは、葵さんのための場所だから、私は入り込んじゃいけないんだ、って、いつも思う。だからせめて、お店を手伝ってあげたい。
だって。
私が後片付けを手伝えば、渡会さん、もっと早く葵さんの所に行ってあげられるでしょう?
大人は、働いたり生活したり、毎日凄く大変な思いをしてる。
私は、まだ子供で、お金の心配も生活の心配もせず、楽しい学校生活を無邪気に満喫していればいい存在。
…だけどね。
子供にだって、誰かを助けたいって気持ちは、ちゃんとあるんだよ…?
***
学園祭の準備で、いつもより遅く帰ってきたら、家の留守電のランプが点滅していた。
留守番電話なんて、珍しい。なんだか嫌な予感を覚えながら、再生ボタンを押した。
『あ、のぞみちゃん? 私、池原総合病院の福島です。実は今日、お母さんが勤務中に倒れてしまわれて、今、空いてるベッドに寝かせて点滴をうってるところなの』
頭の中が、真っ白になった。
福島さんの声はまだ続いていたけど、頭の中に入ってこない。お母さんが倒れた、っていう事だけが、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。
一刻も早くお母さんの所に行かなくちゃ、って、焦りばかりがこみ上げてくる。気がつくと、お財布と家の鍵だけを握り締めて、家を飛び出していた。
家から病院までは、いつものペースの歩き方なら、20分。私はその道のりを、全速力で走った。後で考えれば自転車を使えば良かったんだけど、その時は、そんな簡単な事すら思い浮かばない。すっかり暗くなってしまった住宅街を、唇を噛みしめながら、ただただ必死に走った。
いろんな事が頭をよぎる。葵さんの事、渡会さんの事、学校の事―――そして、お父さんの事。
もしも、お母さんが悪い病気だったりしたら、どうしよう? 倒れたまま、もう目を開けてくれなかったら、どうしよう?
そんな筈はない、って思いながらも、ついそんな事を考えてしまう。そして、その考えに、背筋が凍る思いがした。
自動ドアが開くのももどかしく、病院に飛び込んだ。
「あら、のぞみちゃん」
顔見知りのナースが、私が飛び込んできたのに気づいて、声をかけてくれた。
「おっ、お母さんは!?」
「え?」
「福島さんから、電話もらったの! お母さんは!? どこにいるの!?」
挨拶もそこそこに私がそう言うと、そのナースは、苦笑を返した。
「そんな顔をしなくても大丈夫よ。ついてきて」
促されるままについて行った先は、1階の一人部屋だった。ちょうど、今朝、患者さんが退院したばかりで、偶然空いていたのだと言う。
扉を開けてもらって、中を覗き込むと、ベッドの上に、お母さんが横たわっていた。傍らには、電話をくれた福島さんが付き添っていた。点滴中らしく、細いチューブが、お母さんの腕に取り付けられている。
「お母さん!」
思わず走り寄ると、福島さんがびっくりしたような顔をした。
「のぞみちゃん? やだ、わざわざ来ちゃったの? 目が覚めたら送って帰るから、って留守電に入れたのに」
そんな部分は、多分、再生はしてても耳に入ってきてなかったんだと思う。でも…もしちゃんと耳に入ってても、やっぱり私は家を飛び出してたに違いない。
見下ろした先の、点滴を受けながら眠っているお母さんは、ちょっと疲れたような顔に見える。昔は夜勤明けでもツヤツヤしてた顔も、なんだか張りがなくて、くすんで見える。それを見てたら、なんだか泣きたくなってきた。
「お母さん、病気なんですか?」
傍らに立つ福島さんに訊ねると、福島さんは小さく首を振った。
「違うわよ。ただの過労。最近、夜勤シフトが結構続いちゃったから、やっぱり無理がきちゃったのね。栄養たくさんとって、しばらく寝てれば大丈夫だって先生もおっしゃってたから、心配ないわよ」
「過労…」
やっぱり…無理してるんだ、お母さん。
私の前では元気いっぱいなフリしてるけど、本当は働きすぎなんだ―――そうだろうとは思ってたけれど、やっぱり現実を突きつけられると、平静ではいられない。
「まだしばらく目を覚まさないと思うから、待合室で待ってたら? 目が覚めたら、呼んであげるから」
「…そうします…」
本当はお母さんの傍についていてあげたいけど、このままお母さんの顔を見てたら、きっと泣いてしまう。私は、うなだれたまま、病室を出て行った。
なんだか、頭が、うまく働いてくれない。
大した病気じゃなかった、っていう安心感と、お母さんが無理して働いているっていう現実に対する苦しさが、私の体の中でぐちゃぐちゃに混ざって暴れている。ほっとしていいのか、打ちひしがれればいいのか、自分でもよくわからない。
寒々しい廊下を歩きながら、ふと右手が痛いことに気づく。手のひらを開いてみると、ぎゅっと握り締めていた家の鍵が、手のひらに食い込んでいた。それを見てようやく、体中にガチガチに力が入っていたことがわかった。
「―――のぞみちゃん?」
急に、真正面から声をかけられ、はっと我に返って顔を上げた。
百合の花束を持った渡会さんが、廊下の先に立っていた。2階にあがる階段の下―――葵さんの病室に行くところなのだろう。
「どうしたの。顔色悪いよ?」
「渡会さん…」
ちょっと眉をひそめた渡会さんの顔を見たら、急に、体の力が抜けてしまった。
それと同時に、耐えていた涙が、どんどん溢れてきてしまう。もう一人では立っていられなくて、私は渡会さんのもとに駆け寄り、力いっぱい抱きついてしまった。
「の、のぞみちゃん???」
びっくりしたような、渡会さんの声。顔は見えないけど、どんな表情なのか、その声ですぐわかる。
驚いてるんだろうな…。
でも、ごめんなさい。
今、私、一人じゃいられないよ。
「…お父…さん」
泣きじゃくりながら、無意識のうちに口に出てきたのは、渡会さんの名前じゃなかった。
私が言いたい事がわかったのだろうか。ただただ驚いていた渡会さんは、少しだけ、私を抱きしめ返してくれた。渡会さんの手は、ちょうど大きさや温かさが、お父さんの手と似ている。そうしてもらえると、お父さんに抱きしめてもらってるような気がしてくる位に。
お父さん、お父さん、お父さん。
どうして?
どうして、死んじゃったの?
こんな時、私ひとりでどうすればいいのか、全然わからないよ―――…。
***
渡会さんが開けてくれた扉の向こうは、枕元の灯りだけがついていて、室内の灯りは落とされていた。
その、枕元の灯りにほんのりと照らされた中に、数年ぶりに見る葵さんがいた。
「―――痩せちゃったんだね…」
ふっくらと丸顔だった葵さんは、頬の肉が随分落ちてしまっている。葵さんも点滴の時間らしく、腕を布団の上に出されて点滴の針を刺されていた。その腕も、折れちゃいそうな位に細くて、痛々しい。
でも、見つけた。
その指に、ちゃんと渡会さんの婚約指輪が光っているのを。
「…渡会さん」
「何?」
「葵さんは、必ず目を覚ましてくれるの?」
「―――さあ。どうかな。でも、僕は信じてるよ。何十年先になるかは、わからないけどね」
「…私もね、そう思ってた。お父さんが死ぬ前は」
百合の花束を枕元のテーブルに置いていた渡会さんが、訝しげにこちらを見た。
「私、前は、教会で毎日毎日祈ってたの。神様、葵さんを連れて行かないで下さい、渡会さんから葵さんを取り上げないで下さい、って。渡会さんがこんなに信じてるんだし、私もこんなに祈ってるんだから、葵さんは絶対目を覚ます、いつかはきっと目を開けてくれる、って信じてた」
「…今は?」
「―――渡会さんが、早く葵さんを諦めてくれないかな、って、心のどこかで思ってるの」
一旦おさまりかけた涙が、また溢れてきた。
「お父さんが死んでから、そう思うようになっちゃった。だって―――お医者さん、言ってたんだもの。のぞみちゃんのお父さんは、きっと助かるよ、って。今は眠ってるけど、きっと目を開けるよ、って。…でも、嘘だった。私が高校の試験受けに行ってる間に、お父さんは息をひきとっちゃって…私、最期の瞬間に間に合わなかった。結局お父さん、ただの一度も目を開けなかった―――会社で倒れて、病院に運ばれてから、最期まで」
ぽたん、と涙が零れ落ちる。無意識のうちに、それを手の甲で拭っていた。
「凄く凄く、辛かった。私も一緒に死んじゃいたい位に、悲しかった…お父さんが大好きだったから。でも…お母さんは、私の何倍もお父さんの事が好きだったから、きっと私の何十倍も悲しかったと思う。涙も流せないで床に座り込んでいるお母さん見て、私、思ったの―――もし、葵さんがこのまま目を覚まさずに死んでしまったら、渡会さん、お母さんの何百倍も、ショック受けるんじゃないかな、って」
「…のぞみちゃん…」
「―――あんな辛い思い、渡会さんには、させたくないよ…」
神様。どうか葵さんの目を覚まさせて下さい。
でも、もしもこのまま目を覚まさずに死んでしまう運命なら―――渡会さんに、葵さんを諦めさせて下さい。
私の事を好きになってくれなくてもいい。他の人と結婚してしまってもいい。
でも、渡会さんが、好きだから。いくら渡会さんが葵さんを好きでも、私はやっぱり、そんな渡会さんが大好きだから。
だから―――渡会さんを、私が大好きな人を、傷つけないで下さい。
最近の、私の祈り。
もう、知ってしまったから―――意識の戻らないまま、愛する人を置いて逝ってしまう人がいるのだ、という現実を。
わかってしまったから。拠り所とする別れの言葉すら貰えないまま、その後の日々を生きていかなくちゃいけない人達の辛さを。
「―――ありがとう、のぞみちゃん」
凄く残酷な話をしたのに、渡会さんの声は、とても穏やかだった。
俯いていた顔を上げると、その声同様、穏やかに微笑んでいる渡会さんが、そこにいた。葵さんの細い手を握って、私の方を見て微笑んでいる。
「でも、のぞみちゃんは、その痛みに耐えたんだろう?」
「……」
「のぞみちゃんのお母さんも、その痛みに耐えたんだろう?―――だったら、僕も耐えてみせるよ。耐えられなくちゃ、格好悪いからね」
「…渡会さん…」
「僕はね。結構、しつこいんだ」
渡会さんは、そう言って、くすっと笑った。
「葵さんは、もう二度と目覚めないかもしれない。案外、僕の方が先に死んじゃって、僕がいなくなってから目が覚めるかもしれないね。―――でも、そういう“もしかしたら”のために、今やりたい事を諦めてしまうのは嫌なんだ。いざその時が来たら、のぞみちゃんよりもっと泣くかもしれないけど…それで、構わないんだよ」
そう言う渡会さんの顔は、本当に、今の自分に満足しているみたいだった。
葵さんを見下ろす目は、凄く温かくて、優しい。傍目には「葵さんの犠牲になっている」って思えるような今の生活だけど、この目を見ればわかる。お店を続ける事も、葵さんとの婚約を破棄しないのも、全部渡会さん自身の希望なんだ、って。
こんな時、嫌という程思い知らされる。私の恋は叶わない、って事を。―――でも、こんな目をする渡会さんだからこそ、私は好きなんだと思う。
そして、今、ふと気づいた。
こんな目、私、知ってる。
お母さんの目だ。
夜勤明けで疲れて帰ってきたお母さんは、いつも私に、今の渡会さんと同じ目を向ける。「昨日、学校でどんな事あったの?」って訊くお母さんは、どんな瞬間より楽しそうだ。
―――お母さんは、私の犠牲になってる訳じゃ、ないのかな。
お父さんとお母さんの希望でもあったあの高校に通う事は、お父さんがいなくなった今も、お母さんの夢なのかな…。
***
お母さんのいる病室に戻ったら、お母さんはもう目を覚ましていた。
「やだわ、のぞみ。迎えに来るなんて、オーバーじゃないの」
照れたような困ったような笑顔を見せながら、お母さんは帰り支度を始めた。以前より少し小さくなった後姿に、やっぱり心が痛まずにはいられない。
―――…でも。
「ね、お母さん。何か私にして欲しいこと、ある?」
そう訊ねたら、お母さんはキョトンとした顔をした。
それから、オーバーな位悩むポーズをしてみて、最後にポン、と手を打った。
「のぞみお手製の、マドレーヌが食べたいな。あれ食べると、元気が出るのよ」
そう言われてみれば、お母さん、マドレーヌの差し入れがあった日が、一番元気かもしれない。なんだ、そんな事なのか、って拍子抜けするのと同時に、私にしか作れないマドレーヌが「一番」だったことに妙な誇らしさを感じて、私はついニッコリと微笑んでしまった。
「…うん。わかった。帰ったら、たっっっくさん、作るからね」
私はまだ、大人ではなくて。
でも、無邪気でいられるほど、子供でもなくて。
自分の力の無さと、何かをしたい、っていう思いとの間で、毎日毎日、苛立っている。
でも、1個のマドレーヌでもお母さんの心の糧になるのなら、私に出来る事はいくらでもある筈だ―――今の私には、そう信じることができた。
3000番ゲットの望さんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は「喫茶店のマスターを慕う高校生の、切ない話」。「Blue Daisy, Blue.」のサイドストーリーをイメージされたそうです。
テーマはずばり、「無償の愛」。(あっ、殴らないでっ(^^;)
渡会を振り向かせたい、というよりも、渡会に幸せになって欲しい、という想いをなんとか描こうとしたんですが…描けたかなぁ?
むしろ、母に負担をかけたくない、という想いの方が、色濃く出てる気がします。ううう、ごめんなさい。
なお、時期的には「月のかけら」のユウ(高校1年生時代)の後頃。最初に出てくるパステル画でお気づきかもしれませんね。
関連するお話:「Blue daisy, Blue.」
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