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あなたの向かい側

 

 彼の向かいの席には、いつも同じ人が座っていた。
 小さくて可愛い、砂糖菓子みたいな女の子。話したことはないけれど、時々聞こえる鈴を振るみたいな綺麗な笑い声に、少し憧れた。
 彼女が笑うと、彼は、目を細めて嬉しそうに微笑む。

 私は―――彼のその笑顔に、恋を、していた。


***


 「寒いなぁ…」
 耳を切るような空気の冷たさに、首に巻いたマフラーを口元すれすれまで引き上げた。
 「ね、寒いよね。ああ、帰ってからも勉強かと思うと、余計足が重くなっちゃう」
 「川村さん、四大志望だったっけ」
 私が訊ねると、川村さんは少し眉を寄せた。
 「うん。あたしは短大でいいと思ってたんだけどね。うち、お母さんが四大出てるから、親より学歴低いのはダメとか訳わかんないこと言うんだ」
 「ふーん…大変だね、頭いい親持つと」
 「松澤さんは、短大?」
 「うん。1校に絞ってるから、1月末で受験戦争はおしまい」
 「いいなー」
 「でも、落ちてたら地獄だよ」
 「それはやだなー」
 クスクス笑いながら軽口を叩き合っていると、交差点にさしかかった。
 「じゃ、ここで」
 「うん、また明日ね」
 駅へと向かう坂道を下る川村さんと手を振って別れると、私はもう一度マフラーを引き上げ、反対に坂道をのぼり始めた。


 ドアを押し開くと、カランカラン、という軽快なドアベルの音が鳴った。
 「ただいまぁ」
 と言っても、家じゃないんだけど―――でも、私がそう言うと、カウンターの向こう側でコーヒーカップを拭いていたお父さんは、
 「お帰り」
 とにこやかに出迎えてくれた。
 軽く店内を見渡すと、お客さんは、見覚えのないサラリーマン風の男性1人だけだった。店の一番奥の席で、コーヒーを飲みながら書類を難しい顔して眺めてる。寒いし、雲行きも怪しいから、お客さんの入りが悪いのかもしれない。
 「あー…、あったかい」
 お店の空気の暖かさに、風に晒されて冷え切ってた頬がじんわりと緩んでいく。はぁ、と一息ついたところで、私は鞄をレジの下に押し込んで、学校指定のトレンチコートを壁際のハンガーに掛けた。
 ゴムで、髪の毛を後ろで1つに束ねる。エプロンをつけた私は、台拭き片手に、せっせとカウンターを磨き始めた。


 この店は、お父さんの喫茶店。駅と、坂の上にある大学とを結ぶ長い坂道の、ちょうど真ん中辺りにある。
 私が通う高校からも程近い場所にあるので、ここ半年ほど、私は、学校帰りにはお店に寄るのが習慣となっている。
 うちは父子家庭で、兄弟もいない。お父さんと私、2人だけの家族だ。兄弟の多い川村さんは「家に誰もいないんなら、受験生には理想的な環境じゃないの」と言うけれど、寂しがり屋の私は、誰もいない家で参考書を開いてもちっとも勉強がはかどらない。で…受験が終わるまで、お父さんの店の一角を、勉強スペースとして借りている。
 カウンター席の一番奥が、私の定位置。勿論、お客さんの邪魔をしないこと、手の空いた時は手伝うことを条件に、だけれど。


 ちょうどカウンターが拭き終わった頃、背後で、軽やかにベルの音が鳴った。
 振り向いて、ドキンとした。外の寒さに背中を丸めながら入ってきたのは―――彼と、彼女だったから。
 2人は、窓際の定位置の席に向かう。北風で乱れてしまった彼女の髪の毛を、さりげなく直してあげる彼の手が見えた。大切にしてるんだな、ってのが、動作の端々からよく分かる。
 彼が、入り口に近い方の席に座る。その向かい側に、彼女。私は、氷の浮かんだ水の入ったグラスを2つお盆に乗せると、2人のもとへと行った。
 「いらっしゃいませ」
 精一杯の笑顔でオーダーをとりながら、私は少しだけ、胸を痛めていた。


***


 『女の子はね、笑った顔が一番なのよ。多少目鼻立ちがどうであっても、笑顔が綺麗な女の子は、どんな美人より価値があるの』
 あーちゃん、知らないでしょう? あーちゃんの笑顔って、普段の顔の何倍も可愛いのよ。だから、落ち込んだり不安になった時ほど、笑顔でいるようにしてごらんなさい。

 小6の時、クラスの男の子に初恋をして、でも取り立てて綺麗でも可愛くもない平凡な自分に落ち込んでいたら、近所のおばさんにそう言われた。
 だから私は、がんばってニコニコするように心がけるようにした。そしたら…卒業前のバレンタイン、思い切って渡したチョコレートを、その男の子はちゃんと受け取ってくれた。結局、中1の途中で転校してしまって、短い恋で終わったけど…おばさんが言ってたことは間違いじゃなかった、って、チョコを受け取ってもらえた時に思った。

 笑顔でいるのって、結構、難しい。笑顔でいることを意識するようになってから、そんなことに気づいた。
 情けない顔になりそうな時ほど、笑顔でいるようにしなくちゃいけないんだけど…そういう時ほど、笑顔を作るのは難しい。年がら年中ニコニコしてる人って、きっと、何も悩みのない幸せな人か―――もの凄く、努力をしてる人だと思う。
 そんなことを実感したせいか、私は、笑顔の綺麗な人にとっても弱い。
 彼を―――特別ハンサムでも目立つ容姿でもない彼を好きになってしまったのも、やっぱり笑顔のせいだった。


 初めてお店で彼と彼女を見かけたのは、夏ごろ。
 多分、坂の上にある大学の学生同士なのだろう。砂糖菓子のような可愛い彼女と、そんな彼女を大事に守ってるような彼氏。…そんな、誰が見ても平凡な、ありふれたカップルに、カウンターで受験勉強をしていた私は、目を奪われてしまった。
 だって、彼の笑顔が、あまりにも優しげで、幸せそうだったから。
 彼女がコロコロと笑うと、彼も笑う―――嬉しそうに、幸せそうに。この時間を愛おしんでいるように、まるで包み込むように微笑む。笑いかけられているのは、彼女なのに―――あの笑顔は、彼女にだけ向けられているのに。それでも私は、心惹かれずにはいられなかった。

 彼が、暗い顔や怒った顔を彼女にしている場面を、一度も見たことがない。
 彼女の方は、時々拗ねたような顔をしたり機嫌が悪そうにしてたりするけれど、そんな時でも彼は、つられて不機嫌になったりはしない。彼女のご機嫌が治るのを静かに待ってるみたいに、薄く微笑んで見守っている。
 悩みが何もない訳じゃないと思う。高校生の私でも、もう沢山の悩みを抱えてる。私より長く生きてる人は、それより多くの悩みを抱えてて当然だから。
 だからきっと、彼は、とても努力をしている人なんだと思う。いつも笑顔でいられるように―――いっぱい、いっぱい努力をしてる人なんだと思う。笑顔をキープする大変さを知っているから、私は彼に尊敬の念を抱いた。

 ううん―――本当はそんな理屈、どうでもいい。
 ただ、あの包み込むような優しい笑顔が好きなだけ。見ていて、私も幸せを感じるだけ。
 彼の笑顔を見ると、私も元気になれる気がする。だから、受験勉強の合間に2人の笑いあう姿を見て、元気をもらっているだけ。2人を眺めていれば、私も幸せ。だから―――2人がお店に来るのを、私は楽しみにしていた。


 夏の暑い日、彼女は日傘をさしている。彼は眩しそうに、手のひらで太陽の光を遮っていた。
 秋の気配がした頃、手を繋いで坂道を下っていくのも見た。彼女の手には、もう日傘がない。小さな彼女は、まるで彼に手を引かれるみたいにして、でも凄く嬉しそうに歩いていた。
 落ち葉が目立ち始めた頃、2人はいつもの席で画集を眺めていた。ああ、この人たちも絵が好きなんだ、と思って、絵が好きな私はちょっと嬉しかった。
 木枯らしが吹いた午後には、寒そうに肩を竦める彼女に、彼がマフラーを貸してあげていた。大きな手に肩を抱かれて、彼女は幸せそうだった。そんな彼女を、彼は、いつもの優しい笑顔で見下ろしていた。


 ―――ねえ、神様。
 私は、あの人の笑顔を見て、こんなにも幸せを感じているのに―――どうして笑顔になれないんでしょう?

 笑顔になりたい、って思う私は、間違ってますか?

 あの人の向かい側の席に、私が座りたいって―――あの砂糖菓子みたいな彼女じゃなく、私が座りたいって思うのは、間違ってるんでしょうか…。


***


 お父さんとケーキを食べるだけのクリスマスが終わり、冬休みも終わったある日。
 学校帰りにお店に寄ったら、あの人が1人でいつもの席に座っていた。
 「お帰り」
 「ただいまぁ…」
 初めて見る1人きりの彼に、私は、お父さんの声にも生返事になってしまった。本を読みながらコーヒーを飲む彼の前には、誰もいない―――なんだかそれは、酷く不安定な絵に見えた。
 ―――彼女、遅れて来るのかな。
 そう思って、勉強をしながら時々背後の様子を窺ったけれど、あの砂糖菓子みたいな人は、なかなか現れない。
 …何か、あったのかな。
 彼女来ないと、あの人も笑わないから―――来て欲しいな…。

 気もそぞろで勉強を続けていたら、背後で席を立つ音がした。
 彼、だった。特別、落胆した顔も苛立った顔もせず、いつも通りの顔でレジに向かい、お父さんにコーヒー1杯分の料金を支払って、店を出て行ってしまった。
 結局―――この日、彼女は、閉店まで姿を現さなかった。


 次の時も、またその次の時も。
 彼は、1人だった。たった1人でお店にやってきて、いつもの席で本を読みながらコーヒーを飲み、そして帰って行く。砂糖菓子の彼女は、一度も顔を見せなかった。
 最後に彼女を見たのは、いつだっただろう? クリスマス前には、確かに見た記憶がある。でも…その後は、大学が冬休みになってしまったから、学生さんそのものをあまり見なくなった。そして年が明けてからは…彼しか、見かけていない。
 どうしてしまったんだろう。
 大学、辞めたとか。まさか、病気で入院してるとか…? 様々なことを想像するけれど、一番あり得る結論だけは、何故か考えなかった。だって―――あんなにも、幸せそうだったんだもの。あの人も、彼女も。
 受験本番の日は、確実に迫ってくる。
 それどころじゃない筈なのに、私は、ぽっかり空いたままの彼の向かいの席が、気になって気になって仕方なかった。

 だって、笑顔が見られないから。
 ひとりぼっちじゃ、あの人、笑ってくれないから―――苦しい。彼女に、早く帰ってきて欲しい。


 でも、それは無理なんだってことは、間もなく分かった。

 それは奇しくも、1月の終わり―――私が志望校の短大を受験する、前日だった。

***

 「いよいよ明日だよね。がんばってねー」
 「うん。また明後日ねー」
 いつもの交差点で川村さんと別れて、私は坂道を上り始めた。
 身を切るような寒さに、耳がじんじん痛む。重苦しい雲が広がってるな、と思ったら、やっぱりぱらぱらと雪が降ってきた。積もる前に止んでくれないかな。もしも雪が積もって凍ったりしたら―――ダメダメダメ、受験生には一番の禁句になっちゃう。
 危ない連想に思わずふるふる首を振って、マフラーを耳が隠れそうな位まで引き上げた。その時―――うちの店の入り口からすぐの場所に立つ、あの人の姿に気づいた。

 彼の横顔は、少し、強張っていた。
 彼の目の前に、彼女が―――砂糖菓子みたいな、あの可愛い女の人が立っている。その横顔は、彼以上に強張っていた。寒さのせいか、蒼褪めてすらいるように見えた。
 彼女は、1人じゃなかった。彼とは顔立ちも、ムードも、服装も、全部正反対って言ってもよさそうな男の人と一緒だった。その人の手は、彼女の肩に回っていた。そう…まるで、恋人に対してそうするみたいに。
 どうして―――どんな言葉より、その言葉が頭に浮かんだ。どうして、どうして、どうして―――あんなに、あんなに幸せそうに笑ってたのに。つい1ヶ月前まで。

 彼女が、彼に何か言っているようだった。でも、距離がありすぎて、その内容までは聞こえない。それに対して彼が答えた言葉も、私には聞こえなかった。私は、マフラーを握り締めたまま、その場から動けずにいた。
 「もう、行こう」
 少し激しくなった雪の中、風向きが変わったせいで、彼女の肩を抱く男の人の声が耳に届いた。
 「待って!」
 まるでその場から彼女を引き剥がすように歩き出そうとするその人を、彼が呼び止めた。
 「これ」
 そう言って彼が差し出したのは―――折り畳み傘だった。
 「返さなくて、いいから」
 「……」
 「風邪、ひくよ。君も…この人も」
 男の人は受け取らないだろうと察しているのか、彼は彼女にその傘を差し出した。そして、戸惑ったような、苦悩してるような顔をしている彼女の手を取ると、その手の中に押し込んだ。
 「…どうして…?」
 折り畳み傘を握り締めた彼女の顔が、悲しげに歪んだ。泣き出しそうなその顔に、心臓がドキンと跳ねた。
 「どうして? なんで引き止めてくれなかったの…?」
 「おい、もう行こうって」
 「どうして? 答えてよ…!」

 それは、彼女の悲鳴だった。
 決して強い語調じゃないけれど―――その声は、間違いなく、心があげた悲鳴だった。
 多分、裏切ったのは、彼女の方。傷ついたのは、あの人の方。でも…彼女は、戻りたがってる。彼の向かい側の、あの席に。ううん、一度だって離れてしまいたいと思ったことはなかったのかもしれない。引き止めて欲しいって思いながら、この1ヶ月を過ごしたのかもしれない。

 今にも泣き出しそうな彼女に、彼は暫くの間、どうすればいいか分からないような顔をして、佇んでいた。
 やがて―――彼は、微笑んだ。いつものあの、包み込んでくれるみたいな、優しい笑い方で。
 その時、坂道を駆け下りてきた強い風に邪魔をされて、彼が何と彼女に答えたのか、私には聞こえなかった。思わず眉をひそめる私の目の前で、彼女は、とても悲しそうな顔でうな垂れた。そして…私の知らない男の人に促されるがまま、大学のある坂の上に向かって歩き去ってしまった。
 その結末を見て、分かった。
 何と言ったかは分からないけれど、とにかく―――彼はやっぱり彼女を引き止めなかったんだ、って。
 だんだん小さくなる彼女と新しい彼の後姿を見送りながら、私は、体中の力が抜けていくのを感じた。よろけて、ガードレールにぶつかりそうになった時、2人を見送っていた彼が、大きなため息と共に顔を元に戻した。
 彼は、もう、笑っていない。
 寂しげな、どこか気が抜けてしまったような顔で、雪がアスファルトの上に落ちてすうっと融けていくのを見下ろしている。その横顔を見て、私は胸が痛くなった。
 さっきのあの笑顔は、あの人が、精一杯努力して作った笑顔だったんだ―――それが分かるから、胸が痛くて痛くて、苦しくなった。

 ふいに、彼は顔を上げ、こちらを見た。
 突然のことだったので、私はうまく誤魔化せなかった。いつの間にか頬に伝ってた涙を隠すこともできず、マフラーを掴んだまま、彼の顔を凝視することしかできなかった。
 私が泣いてることにビックリしたのか、彼は動揺したような顔をした。そして、辺りをきょろきょろ見回して、その原因がどうやら自分にあるらしいことを察して、余計動揺した。言葉もないままにあたふたする姿は、無声映画みたいに見えた。
 躊躇いがちに近づいてくる彼に、私は慌てて、顔を背けた。泣いてる顔なんてみっともないってことに、やっと気づいたから。
 「…ごめん…君のお店の前で」
 申し訳なさそうな声と同時に、頭の上に、ぽん、と大きな手が乗っかる。私の顔、覚えていてくれたんだ…と頭の片隅で思いながら、私は必死に首を横に振った。
 「違う…違うんです。―――ただ、悲しかったんです」
 「…君が泣くことじゃないよ」
 「ごめんなさい…」

 注文を聞く以外で初めて言葉を交わせた、という嬉しさよりも。
 目の前で、1つの恋が消えてしまった、という事実が、悲しくて悲しくて―――私はその日、なかなか泣き止むことができなかった。


***


 私は、あの日の寒さに風邪をひくこともなく、翌日、無事に受験を終えた。
 もう受験は終わりだけれど、落ちてる可能性もあるから、気は抜けない。受験の翌日以降も、私は学校帰りに、お父さんのお店に寄る日課を続けた。
 あの人は、それからも、2日に1度の割合でお店に来た。勿論、1人で。
 「いらっしゃいませ」
 お水を置きながら笑顔で言うと、彼も笑顔で応えてくれる。彼女に見せたのとは違う笑顔だけど―――でも、あの日見た切なすぎる作り笑いとは違って、彼が本当に笑ってくれてるのだと感じるから、私はなんとなく幸せだった。
 コーヒーを注文し、単行本を広げると、彼は1時間ほどの時間をうちのお店で過ごしていく。座る席は、これまでと同じ窓際の席―――向かい側の席は、やっぱり空席のままだ。


 神様。
 私、あの人のこと、何も知らないけど―――あの人も多分、私のこと、何も知らないけど―――私、彼のあの笑顔が、もう一度見たいんです。
 彼女に向けていた、あの笑顔が、もう一度―――どうしても、見たいんです。
 でも…その笑顔を向ける相手が自分以外の女の人だった時、私は多分、もう無理矢理にでも笑うことはできないと思うから。

 あの人の前の空席―――私が座っても、いいですか?


***


 「ただいま」
 ドアベルを鳴らしながら私が入ってくると、お父さんは何故か、もの凄くホッとしたような顔をして、カウンターから出てきた。
 「お帰り。待ってたんだよ」
 「え? どうしたの?」
 「ちょっとお昼にグループのお客さんが重なっちゃってね。牛乳と卵が危なくなってきたから、そろそろ買いに行きたかったんだ」
 「ふーん…いいよ。私が店番しててあげる」
 「そう。あ、ブレンドコーヒーがオーダー入ってるけど、ちょうどあと注ぐだけになってるから」
 よほど気が急いてたらしい。お父さんは、普段ならあり得ないほどの早口でそう言い残すと、慌てて外へと飛び出して行った。
 オーダーが入っているんじゃ、急がなくちゃいけない。大急ぎで身支度をした私は、カウンター裏に回りこんで、セットしてあったブレンドコーヒーを、温めたコーヒーカップに注いだ。そして―――コーヒーカップをお盆に乗せる段階になって初めて、自分の置かれた状況に気づいた。

 店内には、お客さんは、1人だけ。
 窓際の席で、私が持ってるブレンドコーヒーを待っている、あの人だけだった。

 「―――…」
 急激に、心臓がドキドキ言い始める。
 覚悟はしてたけど―――実は昨日から、今日のことを思って眠れなかった位だったんだけれど―――まさか、いきなり、しかもこんな場面で、とは思ってなかった。
 でも…よく考えたら、まるで神様が私に授けてくれたプレゼントみたいに、絶好のチャンスかもしれない。心臓のドキドキを宥めるように深呼吸をした私は、エプロンの右ポケットに入っているものをエプロンの上から確認し、1歩踏み出した。

 「…お待たせしました」
 テーブルに置いたコーヒーカップが、カチャン、と音を立てた。
 それまで、手元の本に注がれていた彼の視線が、私の方を向く。そして彼は、親しげな笑みを浮かべた。
 「ありがとう」
 その笑顔に笑顔で応えた私は、その後の彼の行動が怖くて、余裕なく踵を返し、カウンター奥へと戻った。怪訝そうな視線を背中に感じたけれど、振り向くのも怖かった。
 飛び出しそうな心臓を抑えながら、チラリと肩越しに後ろを見ると、ちょうど彼が、コーヒーにミルクを入れようとミルクピッチャーを手にしたところだった。そして―――彼の視線は、コーヒーカップの10センチ左で、止まっている。

 赤い包み紙に包まれた、真四角の箱。
 何が入っているかなんて、勿論、外側からは分からないけど、誰だって予想はつく筈。
 だって今日は、2月14日―――バレンタイン・デーだから。

 たくさんの、不安と、後悔。なんだか泣きたくなってきた。彼の反応が怖い―――だって、あの人のこと、私全然何も知らないんだもの。
 包みを解いてるガサガサって音が聞こえるけど、絶対振り向けなかった。私は、できるだけ彼の席を視界に入れないようにしながら、いつも通り、カウンターの一番奥の席に腰掛けた。せめて彼が、チョコレート嫌いでありませんように―――それだけ祈りながら。
 集中できる筈もない参考書を広げ、無理矢理鉛筆を握る。その時―――背後で、カタン、という席を立つ音がした。
 振り向きたかったけど、振り向けなかった。近づいてくる足音の主が誰かなんて、分かりきってるけれど…その意味が分からないから、振り向けない。中途半端な位置で鉛筆を止めたまま、息まで止めてしまった。

 「よ…っ、と」
 カチャン。
 左隣で立てられた音に、心臓が跳ねた。
 目だけをそちらに向けると、さっき私が彼の前に置いたコーヒーカップが、私の隣の席に置かれていた。
 慌てて顔を上げると、彼が、ジャケットやら荷物やらを、苦労しながら私の2つ隣の席に置いているところだった。チョコレートの箱は、包装紙を解いた状態で、既にカウンター席の上に置かれていた。
 「……」
 私が呆然とその様子を見守っていると、彼は私の隣の席の椅子を引き、そこに腰掛けた。そして、やれやれ、という風に息を吐き出すと、私の方に顔を向けて、ニコリと笑った。
 「これ」
 そう言って彼が私の目の前に差し出したのは、さっきのチョコレートに私が添えていたカード。


 『あなたの向かい側の席、これから私が座ってもいいですか?』


 自分の書いた字を突きつけられて、顔が熱くなる。昨日、これを書く手が震えそうになったことが、やたら鮮明に思い出される。
 「あの席に座るの、今日で最後にしようと思ってたから、ちょっと叶えられないなぁ」
 「…えっ」
 胸の奥が、ヒヤリと冷たくなった。もしかして、もうここに来ないんだろうか―――鉛筆を握る手が震えそうになったことに気づいたのか、彼は少し、苦笑した。
 「彼女と付き合って、今日でちょうど1年なんだ。ちょうどいい節目だから―――あの席は今日で終わり」
 「……」
 「ここ1ヶ月、色々辛かったけど、ここ来るといつも君が目いっぱい笑って迎えてくれるから、随分救われた」
 一瞬目を伏せた彼は、目を上げると、今座っているカウンター席をトン、と指で叩いた。
 「だから、向かい側の席は無理だけど、隣の席でもいいかな」
 「―――…」

 ―――どうしよう。
 本当に、泣いてしまいそう。

 「…ホントに君って、表情が豊かだなぁ…」
 短時間の間に、真っ赤になったり不安そうになったり泣きそうになったりする私を見て、彼は可笑しそうに笑ってそう言った。
 「でも、名前位書いといてくれないと、僕も困るよ。さっき、名前呼ぼうとしたけど、どこにもないし」
 「あっ!」
 そ、そうだ、名前―――書いてなかった。彼の名前が分からなかったから、自分の分も書くの忘れてたんだった。
 「ご、ごめんなさい。昨日、いっぱいいっぱいで…っ」
 「あはは、いいよ。君も僕の名前、知らなかったんだし」
 彼はそう言うと、少し姿勢を正して、軽く会釈した。
 「―――渡会 聡、です」
 「…わたらい、さん」
 「うん。君は?」
 「松澤 葵…です」
 「花の名前だね」
 花好きなのか、彼はちょっと嬉しそうだった。
 「タチアオイの花は、英語でHollyhockって言うんだ。聖地っていう意味だよ―――綺麗な名前だね」

 そう言った渡会さんの笑顔に、ふわりと、心の中に優しいものが浮かんでくるのを感じた。
 その笑顔は、間違いなく、私がずっと私に向けて欲しいと思ってた、あの優しくて包み込むような笑顔だった。


110000番ゲットの保乃可さんのリクエストにおこたえした1作です。ちとキリ番飛ばしてしまいましたが、バレンタインにアップしたかったので(^^;
リクは「片思いで切ない想いをしている高校生のお話」。お読みになればお分かりのとおり、渡会マスターと葵さんの出会いのお話です。こんな出会い方してたんですね、あの2人。
この後、彼らが辿る人生は、実は波乱万丈、少々厳しいものなのですが―――せめてこの物語の中だけでも、ハッピーエンドで。
関連するお話:「Blue Daisy, Blue.」


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