| Presents TOP |

はじめてのおつかい

 

 『大久保のおばさんが緊急手術になったので、付き添いに行きます。
  マリモが朝市で安売りをしているので、午前中のうちに買い物をお願いします。』

 目が覚めて、テーブルの上に妻からのそんな置手紙を見つけた健一郎は、まだはっきりしない頭をフル回転させて、書かれている内容を理解しようとした。
 「母さん、何度か声かけたんだぜ、父さんにも。でもなかなか目を覚まさないから、しびれ切らして行っちゃったんだよ」
 ネクタイを締めながら、息子が呆れたように言う。いつも8時ちょうどに家を出る息子がネクタイを締めている、ということは、現在7時50分台、といったところなのだろう―――と思いながら時計に目をやったら、案の定、7時53分だった。
 「緊急手術って、何があったんだ、一体」
 「昨日、階段から落っこちてさ。たかが骨折だろ、ってみんな楽観してたら、そうとうヤバイ骨の折れ方しちゃったみたいで、一刻も早く手術しないと、歩けなくなる可能性があるんだって。昌子さんしか家にいなくて、すっかりパニクっちゃってさ。それで母さんに連絡してきたんだって」
 「そりゃあ、いくら昌子さんでも、パニックにもなるだろう。確か今年85歳になるんだろう?」
 「この前誕生日きて、もうなったよ」
 なるほど、大久保のおばさんの容態については、わかった。命にかかわる手術じゃなさそうで、一安心だ。だが、まだ疑問はある。
 「…なあ、元彦」
 「んー?」
 「これ、意味わかるか?」
 そう言って、健一郎は、置手紙の一部を指差し、元彦に見せた。

 『マリモが朝市で安売りをしているので、午前中のうちに買い物をお願いします。』

 「意味、って…書いてあるとおりじゃねぇ?」
 「…いや、でも、マリモ、って…」
 当然、健一郎の頭には、阿寒湖名産の緑色のマリモが浮かんでいたのだが、元彦はケロリとした表情で答えた。
 「“マリモ”だろ? スーパーマーケットの」
 「そんなスーパー、この辺にあったか??」
 「ああ、駅前は駅前でも、JRの方の駅前にあるんだ。俺、たまーにJRからも帰ってくるから知ってるけど、父さんはあんまり使わないもんな、あっち」
 「ふーん…そんなもんがあったのか」
 「“スーパーマリモ”って看板出てるし、すぐわかるって。…っと、じゃ、行ってきます」

 いや、ちょっと、待ってくれ。

 とは、さすがに言えなかった。こんなことで、元彦の仕事の差し障りになっては大変だ。
 「おお、気をつけてな」
 と元彦を見送り、健一郎は、いつもより若干遅めの朝食をとり始めた。

***

 ここに、1つの家族がある。
 夫婦は、ちょうど団塊の世代。今年の夏定年退職した夫に、料理とジャズダンスが趣味、という妻。長女は既に結婚して家を離れており、長男は一番仕事が乗ってくる時期にさしかかっている。家族仲は大変よく、とりあえず今心配なのは、せいぜい、彼女のいる気配もない長男の行く末―――というか、結婚のこと位。それも、最近の結婚年齢の平均を見れば、まだ騒ぐほどのことじゃないか、といったムードが漂っている。
 健一郎は、そんな家族の、「夫」である。
 幸いにして、退職と同時に抜け殻化してしまう仕事人間ではなかった健一郎は、若い頃活動していたアマチュアバンドを、同じく定年を迎えた仲間で再結成し、「オヤジバンド」なんてものを始めていたりするので、結構毎日忙しい。それ以外にも、カメラだ鉄道模型だと多趣味な男なので、引退後の生活は大変充実している。
 それは現役時代も同じことで、休日は家族サービスや趣味で目一杯。休日は1日中テレビの前、なんて同僚の話を聞くと、よくそんな退屈な生活送れるな、と感心するような呆れるような気持ちにいつもなったものだ。
 そんな健一郎だが、たった1つ、人に誇ることのできない部分がある。
 それは、家事。炊事、洗濯、掃除―――全部、駄目である。
 そもそも妻が、家事が大好き、という人間なのだ。家をピカピカに磨いたり、手の込んだ料理を作ったりするのが大好きで、一番のストレス発散が「大きなものを洗濯して干すこと」だというのだから、凄い。一度、健一郎の帰りが遅くて喧嘩になったことがあったのだが、その時は家中のカーテンを一気に洗い出し、家中、夜になってもカーテンなし、という状態になった。曇りの日に洗うなよ、と家族全員から突込みが入ったが、妻自身は非常に満足そうだった。
 そういう妻を持ってしまったので、家事における健一郎の出番は、ほぼゼロ。妻が寝込んでも、妻と性格のよく似た長女が喜びいさんで家事をこなしてしまうので、一家の男どもの出る幕は、全くなかったのである。


 ―――そういやあ、買い物頼まれたのも、これが初めてかもしれないなぁ…。
 メモを片手に、使い慣れないJRの駅までの道を歩きつつ、健一郎はしみじみそう思った。
 妻が専業主婦だったので、よほどのことがない限り、家族に買い物を頼む、ということがなかった。あったとしても、頼むのは子供たちに、だ。
 家族で出かけた帰りに、郊外の大型スーパーに車で乗り付けたことは何度もあるが、その時も、健一郎は車から降りず、車の中でナイター中継などを聞きながら家族が帰ってくるのを待っているのが常だった。だから、スーパーという建物に入ることすら、もう随分前からなかったのである。
 定年退職し、お互い年も取ってきたので、そろそろ家事も覚えないとな、とは思っているのだが、相変わらずの多趣味ぶりで、なかなか暇がない。いや、暇があっても、やる気にならない。今の60なんてまだまだ若いし、そう焦ることもないだろう―――なんて思いつつも、内心、罪悪感が常にくすぶっている部分はあるのだ。
 「にしてもなぁ…」
 チラリとメモを見て、ため息をつく。
 常々、妻の作るものは手が込んでるな、とは思っていたが―――買ってくるものリストに、一部、健一郎には馴染みのない名称が並んでいるのが気になる。
 いざとなれば妻に訊けばいい、と考えて家を出たが、妻の行き先は病院……携帯電話は、禁止である。参ったな、と頭を掻いた健一郎だったが、まあ行けばなんとかなるだろう、と深く考えないようにした。

 そんな風にぶらぶら歩いているうちに、やがて、JRの駅が見えてきた。
 ―――えー、スーパーマリモ、スーパーマリモ…。
 なつかしのテレビゲームのような名前を心の中で繰り返しつつ、周囲をキョロキョロ見渡していると、ほどなく、目指す店が見つかった。

 『スーパーMARIMO』

 カタカナで書くなよ、と、一瞬妻に愚痴りそうになった。
 いや、それより、大問題発生だ。
 「……」
 開いてない。
 ガラス張りの自動ドアの向こうは、奥の方は電気が点いているが、手前は点いてない。そして、自動ドアの前に、何やら立て看板のようなものが立っている。この位置からでは読めないが、どうやら営業時刻が書いてあるらしい。
 そして何より、ぴっちり閉まったドアの前に、いかにも開店待ち、といった風情の人影が2つある。これでは、スーパーに馴染みのない健一郎でも、一目でわかる。まだ開店前なのだ。
 看板の字が読める距離まで駆け寄ると、そこには「しばらくお待ち下さい。営業時間:午前9時半〜午後9時」と書かれていた。腕時計を確認すると、現在、9時ちょっと過ぎである。
 ―――し…しまった…。
 食べ物を買うのはコンビニ、という生活に慣れ切っていたせいで、営業時間のことなど一切念頭になかったのだ。
 考えてみれば、昔は、9時台に開いてる小売店なんてほとんどなかった。早くて10時、デパートなんぞは11時から、が定番だった。だからこそ、コンビニエンスストアが登場した時には、時代もついにここまで来たか、と衝撃を受けたのだ。
 いや、今では24時間営業が当たり前のコンビニだって、セブンイレブンが登場した時には、その名のとおり朝7時から夜11時までだった。なのに、今や、日付が変わって「ちょっと酒のつまみでも…」と出向いたコンビニが閉まっていると、「なんでコンビニなのに閉まってるんだ」と憤慨する始末。いやはや……慣れとは、本当に恐ろしい。
 ふと見ると、“スーパーMARIMO”の数件隣にも、もう少し小さい規模のスーパーがあった。そちらは既に開店しているらしく、買い物客と思しき人影が出入りしているのが見えた。やはり、いつでも開いているコンビニに対抗すべく、スーパーも営業時間を変えつつあるのだろう。
 だが、妻が「買ってきて」と頼んだのは、飽くまで、本日安売りの“スーパーMARIMO”だ。
 ―――しょうがない。どっかで時間つぶすか。
 見れば、道路の反対側に、馴染みのコンビニがある。週刊誌の立ち読みで時間をつぶすことにした健一郎は、一旦、その場を後にした。


 サラリーマン時代から続けて読んでいる週刊誌の連載を読み終え、再び“スーパーMARIMO”に戻った健一郎だったが―――そこに、異様な光景を見つけ、思わず足が凍り付いてしまった。
 スーパーの前に列を成す、ざっと10人ちょっとの、開店待ちの客。どこかで見た光景だな、と考え、思い出す。ああ、パチンコ屋の開店前風景と似てるんだ、と。
 だが、パチンコ屋とは明らかに違う点が、1つ。それは、並んでいる客が、全部女だということだ。
 年齢層は、バラバラ。20代か30代か迷う辺りから、健一郎より確実に上と断言できる範囲までいる。ただし、全て、女性。誘い合って来ているのか、ぺちゃくちゃとおしゃべりに興じている者までいる。
 今までの自分を振り返ってみれば、平日の朝からスーパーの開店待ちをしている男など、老人以外では稀だと想像がつく。だから、当たり前と言ってしまえば当たり前なのだが……実際に目の当たりにすると、安売りの品を手に入れるぞ、という気合に満ちた主婦たちの列、というのは、なかなか近寄りがたいものがある。学園闘争だ反戦運動だ、と、当時は新人類扱いされた健一郎たちの世代だが、本音ではまだまだ「男子たるもの」といったプライドがある。最近見かける、女のハンドバッグをいそいそと持って歩くような、従者みたいな若い男とは、全然違うのだ。
 ―――…なにも、開店直後に行くこたぁないだろう。
 あの列に、たった1人男が並ぶのは、かなり抵抗がある。午前中に買えればいいのだから、何も急ぐことはない。もう少しコンビニで時間をつぶそう―――そう思った健一郎だったが、ハッ、と思い直し、手にしていたメモを確認した。

 『買ってくるもの』

 買い物リストの中には、玉子が含まれていた。
 玉子、と言えば、漫画やドラマのスーパーのタイムセールスシーンでの定番だ。「先着100名様に限り1パック50円」なんてことをやっていて、それ目当ての客が開店前から並ぶのだ。
 ―――“マリモが朝市で安売りをしているので”って、もしかして、玉子のことなんじゃないか?
 もし先着順なのだとしたら、悠長なことを言って出遅れてしまっては、妻の期待した値段では買いそびれてしまうかもしれない。

 男のメンツを取るか、それとも、家族の信頼を取るか。
 オーバーな、と思われても、その位、あの列に並ぶには、相当な勇気が要るのだ。で、結局、
 ―――よ…よし、ここで様子を窺っておいて、あの列が大体店の中に入ったな、と思ったところで駆け込めば、十分間に合うだろう。
 どっちも捨てられない、という結論に至った健一郎は、そう決めたのだった。

***

 何年ぶりだろう、と思うほど久々に足を踏み入れたスーパーマーケットは、自分が記憶しているものより、ずっと洒落た内装だった。
 開店間もないこともあり、従業員が忙しく行き交う姿の方が目につき、客の数は少なめだ。列になっている時はあれほど威圧感があったのに、バラけた途端閑散として見えるのだから、不思議なものだ。
 さて、いよいよ、本題である買い物なのだが―――…。

 『買ってくるもの:
   ・ナス(2本以上)
   ・サラダ菜
   ・ズッキーニ
   ・パプリカ(赤)
   ・たまご(茶色いやつ)
   ・とりもも正肉(400グラムくらい)
   ・うすあげ
   ・油(エコナ)
   ・ロリエ
   ・牛乳』

 ―――…なんて漢字が少ないんだ。
 改めて見直して、変なことに呆れる。まあ、急いでいたのだろうし(の割にカッコ付の説明までご丁寧に入っているが)、わざわざ「鶏」なんて面倒な字を書かなくても、理解はできるから問題ないが。
 どこに何が置いてあるかなんて、全くわからない。ひとまず、わかりそうなものから買っていくか、と考えた健一郎は、入り口脇にある買い物カゴの山から、1つ、手に取った。

 わかりそうなもの―――まず確実なのは、玉子だ。
 入ってすぐは、果物や野菜のコーナーで、玉子らしき姿は見当たらない。暫しウロウロと探し回ると、野菜と冷凍食品のちょうど境目になる通路のところに、まとめて置いてあった。
 「ん?」
 でも、そのコーナーに、安売りらしい表記は、一切ない。どれも普通に、棚に「○○玉子△円」と値札がついているだけで、いかにも安売り風なディスプレイは皆無である。
 ―――おかしいな。玉子はいつもの値段でいいのか?
 いや。もしこれで、他のコーナーで玉子が安売りしていたら、「ちゃんと探したの?」と冷たい目で見られること必至だ。
 念のため念のため、と繰り返しつつ、また少しウロウロしていると―――予感的中。玉子とは全然関係ない鮮魚コーナーの近くに、「本日限り!先着50名様」とデカデカと書かれた紙が、天井から吊り下げられていた。他にも色々置いてあるようだが、その中の1つが、妻ご所望の「茶色い玉子」だったのだ。
 1パック88円。安いのか高いのか、健一郎にはさっぱりわからない。が、主婦たちはせっせと茶色い玉子のパックをカゴに入れていく。オイルショックの時みたいな主婦大殺到といった様相ではないが、通りかかる客の大半が必ずカゴに入れているところを見ると、そこそこ安いのだろう。
 ―――へぇ…、この玉子って、“赤玉”っていうのか。
 妻が玉子の殻を植木鉢に置くので(植木の栄養のためらしい)、我が家の玉子は殻が白じゃなく茶色なんだな、とは日頃からぼんやり認識していたが、そんな専門用語があるとは知らなかった。しかし……、
 ―――だったら、“たまご(茶色いやつ)”じゃなく、“たまご(赤玉)”って書きゃあいいじゃないか。
 実際に知らなかったのだから、ムッとする筋合いではないのだが―――見くびりやがって、という、ちょっとばかり面白くない気分を味わいつつ、健一郎は玉子1パックをカゴの中に入れた。

 次に確実なのは、牛乳。
 やはり、どこにあるのか不明なため、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、牛乳らしき姿を探す。特売玉子の位置からスーパーの3分の1ほどを回ったところに、求める品を見つけ、一番安そうなものをカゴに放り込んだ。

 続いては、茄子。
 これは、店の入り口すぐの野菜売り場で、すぐに見つかった。2種類あったが、明らかに安売り扱いの「3本入り100円」の方を選んだ。
 同じ野菜つながりで、サラダ菜を探すことにした健一郎だったが、ここでふと、疑問に思った。

 サラダ菜。
 サラダは、当然わかる。週に3度は出てくる。菜、もわかる。こまつ菜とか菜っ葉とかいう、あの菜だ。サラダで菜といえば、レタス。勿論、レタスもわかる。以前、有名大出身の新人社員が、レタスとキャベツを間違えて周囲から失笑されたことがあったが、いくらなんでもあそこまで浮世離れはしていない。
 だが、サラダ菜。
 ―――って、なんだ??
 サラダに使う菜なんだから、レタスなんじゃないのか?
 ううーん、と唸った健一郎は、ひとまず、レタスを探すことにした。サラダ関連なら、きっとレタスと似た場所にあるだろう、という考えだ。
 そして、キャベツときゅうりの間にレタスを見つけ、思わず「おおっ」と小さな声を漏らしてしまった。
 サラダに入ってる、なんだか食感がレタスと似ているけれど、レタスよりやわらかく緑色が鮮やかで、最近お気に入りの葉っぱ。
 「これがサラダ菜だったのか…」
 ついでに、紫色したレタスっぽい葉っぱの名称がサニーレタスであることも、この瞬間、初めて知った。サラダ菜がレタスの仲間かどうか、レタスを見ただけでは判断がつかないが、サニーレタスとサラダ菜は似ている。ということは、やはりサラダ菜はレタスの一種らしい。
 ―――昔は、サラダっていったら、あの、いかにも葉緑素が少なそうなレタスが定番だったのに、今はいろいろあるんだなぁ…。
 レタスファミリーの隣に並ぶ、ベビーリーフやらスプラウトやらを眺め、ややこしいな、と健一郎はため息をついた。
 「ええと、次は……」
 サラダ菜をカゴに入れ、メモに目を落とした健一郎の顔が、僅かにひきつる。

 ズッキーニ。

 ……出た。
 メモを見た時から、ずっと気になっていたやつだ。
 プッチーニ、なら知っている。『蝶々夫人』なんかを書いた作曲家だ。ムッソリーニ、なら知っている。イタリアのファシスト党の党首だ。でも、ズッキーニは……。
 「…知らんなぁ…」
 肉なのか魚なのか野菜なのか調味料なのかすら、さっぱり判断がつかない。
 むむむ、とメモを睨んだ健一郎だったが、いくら考えても想像がつかないので、ひとまずズッキーニは保留することにした。
 「えー、次…」

 パプリカ(赤)。

 う、と、またもや健一郎の頬がひきつる。
 気になっていたやつ、第2弾だ。パプリカ自体わからない上に、後ろについている、カッコ赤、が気持ち悪い。
 ―――パ……パピルスなら、わかるぞ。エジプトの紙の原料だ。でも、えー、えー、パプリカ、パプリカ……。
 パプリカとパピルスでは「パ」しか合ってないじゃないか、と意味のない自己突っ込みを心の中で入れつつ、暫し思案する。が、やはりパプリカの正体も、さっぱりわからない。パピルスが紙であるように、パプリカも食材ではなく日用品なのかもしれない、と考えると、方向性を絞ることすら困難だ。
 ―――そうそう、ネピア、なんてティッシュペーパーがあるじゃないか。ああいう商品名かもしれないぞ。
 PAPURICA、などと書かれたティッシュペーパーの箱を想像し、ありそうだ、と考える。が、パプリカとネピアじゃ1文字も合ってないぞ、という自己突っ込みに、その想像は一瞬で消えた。
 「…えー、次…」

 とりもも正肉。

 ほっ、と安堵する。さすがにこれはわかる。健一郎は野菜売り場を離れ、そそくさと肉売り場へ向かった。
 ―――でも、この後ろにくっついてる「正肉」がよくわからんな。
 パッケージに書いてあるかな、と期待したが、正肉という字はどこにもなかった。とにかく、鶏のもも肉であることは間違いないぞ、と考え、400グラムを僅かに超えているパックをカゴに入れた。

 次は何だ、とメモを見ると、うすあげだった。
 また店内をグルグル回って、豆腐やこんにゃくと一緒に並んでいるあぶらあげを発見した。あげ、というからには、あぶらあげの一種だろう、と推理したのだが、どうやら正しかったようだ。というか、健一郎があぶらあげと認識していた物体が、うすあげだった。ようするに、厚揚げv.s.うすあげ、ということらしい。
 「ええと…次は油だな」

 油(エコナ)。

 エコナってなんじゃい、という疑問があるが、行けばわかるだろう、と、またグルグル店内を回る。そして、1回転半して、さっきのうすあげのすぐ裏側に調理用油を大量に見つけ、どっと疲れた気分になった。
 謎のエコナは、すぐわかった。どうやら商品名だったようだ。うちは油に指定銘柄があったのか、と、少々驚く。
 ―――ああ、そういやあ、なんか前に言ってたな。体に脂肪がつきにくい油がどうのこうの、って。それのことか。
 でも、ざっと見てみたら、エコナの近くに並ぶ若干値段の高めの商品には、全部「脂肪がつきにくい」と書いてあった。それどころか、下段に置いてある巨大な油のボトルにも、言葉こそ違うが、それらしきことが書かれている。
 何か違いがあるのだろうか、と疑問に思ったが、エコナの棚に貼られている「11月のお買い得品」という文字を見て、きっとこれが原因なんだろうな、と、なんとなく理解した。
 「えー、次……」

 ロリエ。

 「…………」
 出た。
 実は、これが一番気になっていたのだ。
 またカタカナ。でも、これは聞き覚えがある。ただし、健一郎が聞いた覚えがあるのは、テレビCMでおなじみの生理用品のブランド名だ。だから、多分、違う商品なのだろう。
 ―――けどなぁ…。知らんぞ、ロリエなんて。
 生理用品の名前になる位だから、食材とは思いにくい。サニーレタス、なんて名前の紙おむつがあったら嫌だし、赤玉たまご、なんて名前のトイレットペーパーがあったら、買い物を頼まれた方だって混乱する。
 じゃあ、何なのか。
 「……うううううーん……」
 むむむむ、とメモを睨むが、答えは出てこない。正味2分、調理用油コーナーに仁王立ちし続けた健一郎の目は、またメモの上の方へと戻った。

 ズッキーニ。

 プッチーニ、じゃないんだよな。

 「違う違う違う…!」
 何をやってるんだ俺は、と苛立った健一郎は、くるりと踵を返すと、スーパーの入り口へと戻った。果物と野菜の置かれているコーナーだ。
 メモの順は、なす、サラダ菜、ズッキーニ、パプリカ、ときて、間に玉子が入り、鶏肉である。
 最初に玉子を探し、次にいきなり牛乳を探したから混乱したが、よく考えると、特売じゃない玉子は野菜コーナーから肉のコーナーへ行く途中にある。つまり、このメモは、大体このスーパーの陳列順になっている可能性がある、ということだ。
 となると、ズッキーニとパプリカは、野菜か果物の可能性が高い。
 ―――仕方ない。全部見ていくか。
 覚悟した健一郎は、入り口から順に、並んでいる野菜や果物の札を、1つ1つ確認して回った。そして、捜索開始から1分。
 「えぇ??」
 先にパプリカを発見し、思わず情けない声を出した。

 これならさっき、確かに見た。
 あー、赤ピーマンも売ってるんだなぁ、このスーパー。…そう思って、名前も確かめずにスルーした、その赤ピーマンのところに、「パプリカ」と書かれた札が燦然と輝いていたのだ。
 ―――赤ピーマンなら赤ピーマンって書いておけよ、全く…! いや、待て、なんだか隣に黄色いのもあるぞ。なんだこりゃ。
 黄色いのも、パプリカなのだろうか。よくわからないが、妻のメモには赤とあるので、赤いのを1つ、カゴに放り込んだ。

 更に捜索を進めると、やがて、ズッキーニという文字も発見した。
 だが、これも、健一郎にとっては衝撃的かつ気抜けする結果だった。
 「…きゅうりじゃないのか、これ…」
 数日前に食べた炒め物にも、これが入っていた。いや、数日前だけじゃなく、過去何度も食べている。けれど健一郎は、この物体を、ずっときゅうりだと思っていたのだ。
 健一郎がそう思うのも無理はないほど、ズッキーニの見た目は、実にきゅうりっぽい。紛らわしい奴だな、とぶつぶつ口の中で言いながら、健一郎は、大ぶりなきゅうり然としたズッキーニを、カゴの中に投げ込んだ。
 さて、残るは―――…。

 ロリエ。

 「…………」
 1行前の油と、次の行の牛乳の間には、生活雑貨も麺類も調味料もレトルト食品も菓子類もパンもあった。
 ―――…駄目だ。
 降参。
 完全に諦めた健一郎は、ロリエ以外の入ったカゴを持って、一番空いているレジに並んだ。


 ちらちらと周囲を見ると、やっぱり、平日の朝っぱらからレジに並んでいる男など、健一郎1人だ。
 実を言えば、買い物を頼まれた時から、この「レジ並び」が一番気が重かった。新婚当時、妻とスーパーに行った時に、老人男性が1人でぽつねんと並んでいるのを見て「奥さん、亡くなったのかしら…気の毒ね」なんて妻とヒソヒソ噂していた記憶があるからだ。
 ―――いやいや、俺はまだ老人じゃないし、ぽつねんとも見えないぞっ。
 と思いはするものの、まだまだ若々しい健一郎の見た目が災いして、「平日から買い物してるなんて、リストラかしら。気の毒ね」なんて思われてしまう可能性もある。年齢相応に見られたとしても、「家でゴロゴロしてるから、奥さんに使いっ走りさせられてるのね」なんてクスクス笑われている可能性も―――…。

 嫌だなぁ、とますます鬱々とした気分になる健一郎だったが、実際のところ、周囲の主婦は、誰一人健一郎のことなど気にしていない。視線が突き刺さるなぁ、などと感じているのも、ただの自意識過剰だ。
 ともあれ、焦れるような思いで順番待ちすること、約2分。
 「カードはお持ちですか?」
 カゴを置いた途端、レジ係から、謎の言葉を投げかけられた。
 「は?」
 カード?
 ここはクレジットカード払いなのか、と一瞬思ったが、違っていた。健一郎のぽかんとした様子に、不慣れそうだな、と気づいたのだろう。レジ係はにこやかに言い直した。
 「会員カードはお持ちですか?」
 「あ…いや」
 多分、ポイントカードの類なのだろう。妻は持っているかもしれないが、当然、健一郎は持ってきていない。
 いちいち確認するのか、面倒だな、と内心愚痴る健一郎をよそに、レジ係はさくさくとレジ打ちを進め、再び謎の言葉を言った。
 「袋はご入用ですか?」
 「は?」
 袋?
 いるに決まっとろうが、袋なしでどうやって持って帰るんだ、という顔をする健一郎に、レジ係は再び営業スマイルを作り、
 「マイバッグはお持ちですか?」
 と質問を変えた。
 ―――ああ、そういやあ、最近のスーパーじゃ、そういうのが流行ってるんだったな。
 エコバッグとかマイバッグとか呼んで、袋持参で買い物をしよう、という動き。コンビニも一部やっているらしいが、はなから買い物をする気で出かけている訳ではない会社員たちには、この手のキャンペーンは不評なのだろう。コンビニでこんな確認をされたことは、まだない。
 それにしても、袋を持ってきているか、と確認するのではなく、レジ袋は要るか、と確認するのか。レジ袋の要る人間が大半で、エコバッグ派なんて一部だろう、と健一郎は考えていたのだが、現実は違うのかもしれない。
 「いや…持ってません」
 「大きい袋1つでよろしいですか?」
 「はい」

 くそっ。なんだか、面白くないぞっ。

 隣のレジに並んでいた主婦が、使い古された様子のエコバッグをささっと2つも広げているのをチラリと見て、健一郎は、僅かな敗北感を覚えたのだった。


***


 結局妻は、午後3時近くになって帰ってきた。

 「退屈だ、帰る、って騒ぐ元気があるんだから、心配ないわよ」
 術後の大久保のおばさんの様子をそう語った妻は、疲れた疲れた、と言いながらコートを脱いだ。
 「叩き起こしてくれりゃあ、病院まで送ってやったのに」
 ―――出かける前に話ができりゃあ、スーパーであんなに迷わないで済んだのに。
 ちょっと不満げに健一郎が言うと、隠された本音を見抜いたかのように、妻は困った顔で苦笑した。
 「急いでたんだもの、しょうがないでしょう」
 「…まあ、大事に至らなくて、よかったよ」
 「ほんとにねぇ。…あ、それで、お父さん。買ってきてくれました?」
 「ああ、うん」
 「どれどれ…」
 パタパタと台所に向かった妻を追い、健一郎も台所へとぶらぶら歩いて行きながら、言い訳するように付け加えた。
 「実はなぁ、1つ、買えなかったものがあるんだよ」
 「買えなかったもの? ああ、玉子、間に合わなかったの?」
 「いや、玉子は買えた」
 健一郎の言葉を裏付けるように、調理台の片隅に、他の買ってきたものと一緒に玉子のパックが置いてあった。
 「あら、ほんとね。ええと、パプリカ、ズッキーニ、茄子、サラダ菜……あ、鶏肉は、ちゃんと冷蔵庫に入れてくれた?」
 「当たり前だっ」
 その位わかるわい、とムッとする健一郎を無視して、妻は冷蔵庫を開け、ど真ん中に置かれた鶏肉のパックを手に取った。が、鶏肉を確認した途端、妻の眉が僅かに歪んだ。
 「あら、やだ。お父さん、角切り肉買ってきちゃったの?」
 「え?」
 「しょうにく、って書いておいたのに」
 「……」
 しょうにく?
 「あの、せいにく、って書いてあったやつか」
 「正しい肉、で、しょうにく、って読むのよ。ほら、鶏肉のソテーなんかは、ナイフとフォークで食べるでしょう? ああいう、1枚になってる肉を、正肉って言うの」
 「だったら“1枚肉”とか何とか書きゃあいいじゃないか。正肉なんて、わかる訳ないだろうが」
 「あら?」
 健一郎が憤慨する横で、今度は妻が、買ってきた牛乳を見て、眉をひそめた。
 「これは駄目よ、お父さん」
 「えっ」
 「低脂肪乳じゃないの。お父さん、成分無調整の牛乳でないと、甘ったるくて気持ち悪い、ってずーっと昔に嫌がったでしょう?」
 「低脂肪乳なんて、書いてあったか?」
 「あるわよ。ホラ」
 ぐいぐい、と妻に腕を引かれ、冷蔵庫の中を覗き込む。すると、商品名がデカデカと書かれている端っこに、確かに「低脂肪乳」と書かれていた。
 「こんなの、商品名がデカすぎて、気がつかんだろうがっ」
 「もー、しょうがないわねぇ…。まあ、ポタージュスープにでも使えばいいでしょう」
 ため息をついた妻は、更に、うすあげにチラリと目をやった。
 一瞬、またダメ出しされるのでは、とドキリとしたが、
 「うすあげ……は、あるわね」
 とだけ確認して、パタン、と冷蔵庫を閉めた。
 ―――し…心臓に悪いぞ。
 思わず、はあ、と息を吐き出す健一郎とは対照的に、妻は涼しい顔だ。
 「ええと、エコナはあるし、あとは―――あ、ロリエがないわね。売り切れてたの?」
 「……」
 ああ、と頷こうと思えば、頷けた。
 が、嘘をつき通す後ろめたさが苦手な健一郎は、一時の恥の方を取った。
 「いや、それが……わからなかったんだよ」
 「わからなかった、って?」
 「ロリエが、何か」
 幾分小声で白状すると、妻はキョトンと目を丸くし、暫し健一郎の顔をじっと見つめた。
 そして、またパタパタと小走りに食堂の隅へと駆け寄ると、ゴミ箱の中を漁り始めた。
 「あ、良かった。まだあったわ」
 「は?」
 「これよ」
 がさがさ、と妻がゴミ箱から引っ張り出して健一郎に見せたのは、深緑色をした小さな袋だった。その表面には、英語らしき文字と、どこかで見たような銀色っぽい葉の絵が描かれていた。
 「ロリエ。月桂樹の葉よ。ほら、ポトフやシチューに、時々かけらが入ってるでしょう? 香辛料というか、風味づけのためのものよ」
 「!!」
 確かに、絵と似たものが、煮込み系の料理に入っていた記憶がある。
 いや、それより、健一郎は別のところに反応した。
 「げ…月桂樹の葉だったのか!?」
 「? そうよ?」
 「だったらそう書けっ!」
 実は健一郎は、油を探していた時に、調味料・香辛料コーナーで、「月桂樹」と書かれた袋を、偶然目にしていたのだ。
 月桂樹といえば、オリンピックで金メダリストの頭にかぶせられる、あの冠の素材だ。へー、あんなもんも食材になるのか、と驚いたので、無関係なのに印象に残っていたのだが―――まさか、その月桂樹が、ロリエだなんて。
 「なんだよ、全く…! 月桂樹、って書いてありゃあ、俺でもわかったのに…」
 しきりに無念がる健一郎に、妻は、ちょっと呆れたような目をして、軽くため息をついた。
 「…そうは言うけど、あなた。もし“月桂樹”って書いてあったら、あなたのことだから、きっと切花コーナーとか園芸品店に探しに行っちゃうんじゃない?」
 「……」
 うぐ、と、言葉に詰まる。
 なにせ、今日、スーパーで初めて、月桂樹も食材になる、と知ったばかりだ。知る前なら、間違いなく、「スーパーに月桂樹なんて置いてないだろう」と考え、行きつけのホームセンターの園芸コーナーに行っていただろう。
 「お店の人に訊けばよかったのに」
 「…それは…」
 「男の人って、なんでいつも、人に訊けないのかしらねぇ…。道に迷った時も、“おい、訊いてきてくれ”でしょ? 自分から訊けないのって、やっぱり男のメンツだとかプライドなのかしら」
 「……」
 黙り込む健一郎に、妻は、どことなく嬉しそうに続けた。
 「それにしても、あなたって、おいしいおいしいって食べる割には、自分が食べてるもののこと、なぁんにも知らないのねぇ。いつも政治や歴史のことで、お前は本当に何も知らないんだな、なんて言ってるけど、これでおあいこね」
 「……」
 「日頃から、趣味にかこつけて買い物に付き合わないから、こうなるんですよ。買って来いとは言わないけど、たまには付き合ってくれないと」
 「…………」


 ―――まさか。
 まさか、これが言いたくて、わざと俺がわからなそうなもんばっかり書いたんじゃないだろうな。


 健一郎の疑惑は、その夜、買ってきた食材のうち「ナス」しか使われていない夕食を目の当たりにした瞬間、確信へと変わったのだった。


1800000番ゲットのとよさんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は、「はじめてのおつかい」―――まんま、タイトルです(笑)設定はあえて自由で、とのことだったので、多くの人が想像するであろう子供のおつかいではなく、おっさんのつかいにしました(天邪鬼…)。
他人に質問するのが苦手で、1本とかグラム買いとかみみっちい感じの買い物が嫌い(ケーキ1個でいいのに3個買うとか)。以上、父から学んだ「男性心理」です。ハハハ、カッコつけたいお年頃なんですね(違)
でも、昨今のかばん持ち男を見ていると、多少のカッコつけは必要だぜよ、とも思うのでした。プライドなさすぎも、ちょっと、なぁ…。


Presents TOP


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22