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偶然立ち寄った居酒屋で彼を見た時、私は、どういう感情を抱いたのだろう。
秘密を握ってやった、という優越感?
結局あんたも真面目な学生なんてやってらんない不良の仲間なんじゃないの、という侮蔑?
それとも―――私が知らなかった一面を垣間見てしまったことに対するショックだったのだろうか。
「狭山…」
オーダーを取りに来た彼が、何故ここに、という顔で、私の名前を呟いた。向かいに座る男は、私と彼の間にある妙な空気に気づいたのか、どういう顔をしていいのか分からないような表情で私と彼を見比べている。
「ええと…小雪ちゃん? 知り合いかな?」
「―――知らないわよ、こんな奴」
驚くほどすんなり、その言葉が出てきた。
だって、こいつは、私が一番嫌いな奴で、かつ、一番私に近い奴。
だから、知らない。こんな―――私が見たこともないような、
「…お飲み物から先にお伺いします」
吉住は、一瞬見せた動揺の顔をあっという間に消し去って、居酒屋の一アルバイト然とした表情に戻った。だから私も、うちの高校はアルバイト禁止なんじゃないの、とか、居酒屋なんて高校生が出入りする店じゃないって言ってた本人がなんで店員やってんのよ、とか、そういうことを言うのはやめた。
「チューハイのグレープフルーツ」
「お、おいおい、小雪ちゃん…駄目だよ、お酒は」
「居酒屋来てジュースやウーロンを飲めって言うの」
私が軽く睨むと、向かいの席の男は文句を引っ込めた。第一、こんな店に連れて来た時点で、こいつの考えなんて読めている。どうやらいわくありげな店員の前で、一応年上ぶって説教してみただけだろう。
「…じゃあ、僕は、スクリュードライバーで」
「少々お待ち下さい」
吉住は、オーダーを素早く伝票に書き込み、その下端をちぎって残りをテーブルの上に置いた。去り際、顔を上げた私と目が合うと、彼は、冷ややかな目を僅かに
『―――誰にでもいい顔しやがって』
1年前―――入学式の日に聞いた吉住 暁の言葉が、耳の奥に蘇る。
今見た吉住の目は、あの日と同じセリフを私にぶつけてきていたような気がした。
***
「この前の大学生、どうしたの?」
「ああ…多分、もう会うことないと思う」
「また?」
ペットボトルのお茶を差し出したポーズのまま、冬美が、らしくない素っ頓狂な声を上げた。
「…そ、また」
半ばひったくるようにペットボトルを受け取ると、私はそれを一気にあおった。練習後の火照った体に冷たいお茶がすーっと沁みていく感じがして、最近はこの瞬間が一番好きだ。
春休みの学校は、部活動のある連中以外、顔を見せない。だから、弓道場に集まる変なギャラリーも少なくて、練習に存分に集中できる。もっとも、私は弓道部じゃ落ちこぼれだから、集中できることを喜ぶほどではないのだけれど―――帰りに誘おうと狙ってる輩がいない分、気分は楽だ。
「大人なら、頼れていいかなー、とか思ったのね。でも、未成年を居酒屋に連れてくんだから、魂胆ミエミエで嫌な感じだった。だから、散々おごらせて、全部の料理に文句つけて、いざって段階で逃げてきたの。それから一切音沙汰ナシ。あーあ…王子様までの道のりは、まだまだ遠いわ」
「…小雪…そのうち、男の人から恨まれて、酷い目に遭わされるわよ?」
心底心配そうに冬美が言う。冬美の心配は分かる。最近話題のストーカーって言葉、あの類の心配をしているんだろう、多分。
「目いっぱい下心アリで声掛けてくる方に非があると思うんだけど」
「それはそうだけど…振るにしても、もう少し優しい振り方してあげた方がいいんじゃない? 逆恨みってこともあるもの」
「大丈夫よ」
そういう事には、絶対にならない自信が、私にはある。その自信そのままの笑みを、冬美に返してみせた。
彼らが私に求めているのは、彼らが大好きな美少女ゲームに出てくる、男に都合のいいようなことしかしない、童顔で胸のデカい女の子(兄曰く)だ。
一度、兄貴所有のエロゲーをやらせてもらったけど、あれは変だ。確かに、外見は私に近い。小柄で、童顔で、やたら胸が大きい。でもなんで、鬼畜な真似しかしない男に、あんな溶けそうな顔で「ご主人様ぁ」なんて猫なで声が出せるんだ。あれを求められてるのかと思うと、ゾッとして鳥肌が立った。
ゲームの女の子は、間違っても、彼らが振ってくる話題に「そういうの、あんまり興味ないな」なんてそっけない返事は返さないし、「案外、面白くない人なんですね」なんて酷いセリフも吐かない。触られて「やだ、気持ち悪い、触らないでよ」なんてことも絶対言わない。でも―――そういうことを言っちゃうのが、狭山小雪という人間だ。
私に言い寄る男は、全員、目がふし穴だから、狭山小雪がエロゲーのキャラでないことを見抜けない。だからもれなく、付き合ってすぐにガッカリする。私が振ると、ホッとする。ホッとしながら、惜しかったなぁ、という顔をするのだ。
妄想から目の覚めた連中は、もう私に執着したりはしない。だから、粘着質に、どこまでも追い掛け回すような真似もしないのだ。それだけの根性があるなら、もっと簡単にやらせてくれる可愛い女の子にアタックした方がマシだと思っているに違いない。その通り。私なんか、二度と追いかけないで欲しい。こっちも迷惑だから。
「でも、これでも一応、少しは進歩したのよ? 見た目だけでも、多少は“いいなー”と思わない限り、OKはしないようにしてるもん」
「でも、デート1回でさようなら、が続くんじゃ、あまり意味ないんじゃないの?」
「んー…、でも、なんか、必死な態度とられるとね。この人は、他の人とは違うんじゃないか、って、ちょっと期待しちゃうのよね」
一度、永峰君という例外を見つけてしまった今は。
そういう人もいるのだと―――私を、都合の良いゲームキャラではなく、狭山小雪という人間として見てくれる人がちゃんとこの世にはいるのだと分かった今は、余計に欲してしまう。素の私を懸命に求めてくれる存在を。
冬美と永峰君のような関係になれる相手を、私も早く見つけたい。
でないと―――バランスを崩した私は、また、冬美を束縛してしまうだろうから。
「森下」
ふいに声を掛けられ、冬美と私は振り返った。
既に着替えを終えた永峰君が、そこに立っていた。その背後に、私服姿のあいつを見つけた時―――私だけでなく、冬美の表情も僅かに変わった。
「悪い。俺、今日は暁と帰るから」
「吉住君と?」
吉住は、永峰君の家の近所に住んでいて、前から仲は良かった。でも、春休みに出てくるような部活には属していない。何故彼がここにいるか、その事情が読めずに、冬美は少し不安そうな顔をした。その理由を…永峰君は知らないだろうけど、私は知っている。
「約束してたんだ。ごめんな、朝言っとけばよかった」
「そう…別に、構わないわよ。私は小雪と帰るから」
「そんな訳なんで―――狭山さん、森下のこと、頼むよ」
「…逆だと思うけど? 冬美が私のお守りをするんでしょ」
少し睨むようにして私が言うと、永峰君は苦笑し、「じゃあな」と手を振って歩き去った。その隣に並んだ吉住は、結局、冬美とも私とも一度も目を合わすことなく、背を向けてしまった。
「―――私たちも、帰ろうか」
遠ざかる2人の背中を見送る冬美に、遠慮がちに訊ねる。
冬美は、暫し黙って彼らの方を眺めていたが、やがて私に目を向け、少しぎこちない笑みで「そうね」と答えてくれた。
―――吉住の奴…。
苦い思いが、胸の奥に広がる。
やっぱり、あいつは、私と似ている―――嫌になるほどに。
***
吉住 暁と初めて会ったのは、この高校の入学式の日。
中学からの親友である森下冬美とクラスが分かれてしまった私は、正直、心細かった。他に友達なんて誰もいないし、冬美がここを受けるから受けた、という私にとっては、冬美のいない高校生活なんて想像がつかなくて。
入学式の式場でも、所在なげに椅子に座って縮こまっていたら―――男の子が何人か、声を掛けてきた。
「キミって3組?」
「うん」
「ラッキー。僕らも3組! なに、同じ中学から来た子、いないの?」
「いるけど…クラス、分かれちゃって」
そんなきっかけで、彼らと暫く話をしていた。そのうちの2人ほどは、目つきが既にいやらしくて、内心では迷惑していたのだけれど―――たった1人で放っておかれるよりはマシだと思って、私は彼らに笑顔で応対していた。
それを、遠くで、自分とは関係ない世界、って顔して眺めていたのが、吉住だった。
「おい、吉住! お前もちょっと来いよ!」
取り囲む連中の中に、彼の中学時代のクラスメイトがいたらしい。1人でいる吉住が気になったらしく、彼にそう声をかけた。
その時になって初めて、私は吉住 暁という男の顔を見た。
シャープな奴だな、というのが第一印象。目は吊り上ってるし、髪の毛もツンツン立ってるし―――正直、ちょっと怖い感じの奴。つまらなそうな顔でこっちを見てるから、余計そういう風に見えた。
周りを取り囲む男の子たちの背中越しに私と目が合うと、彼は、口元に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「俺は、よしとく」
「なんだよ、ノリが悪いなぁ」
「お前らとは好みが違うから」
そっけない口調で、奴はこう続けた。
「ヘラヘラヘラヘラ、誰にでもいい顔しやがって―――そういう女は、信用ならねーよ」
―――誰がヘラヘラいい顔したっていうのよっ!!!!
この瞬間、吉住 暁は、私が一番嫌いな奴になった。
私にとって、クラスメイトとしての吉住は、毒にも薬にもならない、普通のクラスメイトだった。
いろんな男の子が声を掛けてくる中、彼だけは私を完全に無視していた。時折目が合うと、その目はいつも私を蔑んでいた。尻軽女―――そんな声が聞こえた気がして、吉住と目が合った日は、1日、ムカムカしながら過ごしたものだ。
「吉住君て、カッコイイよね」
クラスの女の子が、そんな話をしているのを、何度か耳にした。
「ちょっと悪っぽいとこがいいよねー。彼女とかいるのかな」
「いるんじゃない? だって、女の子に全然興味なさそうな顔してるもん。彼女もちの余裕ってやつ? 他の奴らみたくがっついてないよ」
「経験値高そうだよなー…。あたし、付き合うんなら、経験豊かな男がいいな。リードしてもらえる方がいい」
―――見た目で決めてかかるのは、男も女も一緒か。
そういう会話に私が加わることなど絶対ありえないから、自分の背後で繰り広げられる妄想世界を耳にして、私は心の中でそうやって哂っていた。
吉住の経験値がどれほどのものかは知らないが、私もよく、周囲から「凄い経験いっぱいしてるんでしょ」なんて言われる。でも―――実は、キスより先の経験は、ほぼないに等しい。そこまで行く前に、終わってるから。見た目の印象なんて、そんなもんだ。
見た目で誤解されている、という点においてのみ、私は吉住に少し同情した。でも、その吉住が一番私を誤解してるんだから、そんな同情は、感じた次の瞬間、捨て去るようにしていた。
吉住との2度目の対峙は、1年の夏休み―――ちょうど私が、永峰君に片思いをして、少し荒れてた時期だった。
恋という初めての感情に、私はかなり不安定になっていた。しかも、その永峰君が誰を見ているか、なんとなく分かっていたから―――その相手があの冬美だと、認めたくないけど心の奥では絶望的に確信していたから、余計に不安定だった。
「見てらんねーなぁ、小雪のそういう顔。よし、今晩一緒に来い! うちの大学のコンパに、お前も連れてってやる」
兄貴にそう言われ、それも悪くないか、と思った私は、兄貴にくっついてコンパとやらに参加した。
大学生に囲まれて飲み食いするのは、結構楽しかった。勿論、兄貴がいるから、参加してた男の人も私には手出しできない。お酒だって飲ませてもらえなかったけど…でも、いい気晴らしにはなった。
けれど、そのいい気分を、コンパの会場となった居酒屋を出た途端、根こそぎ台無しにされたのだ。
店の外に、偶然、吉住がいた。
びっくりした。時刻は午後9時―――別段、吉住が繁華街をうろついててもおかしな時間ではないけれど、まさかこんな所でばったりクラスメイトと出くわすなんて、想像もしなかったから。
たまたまそこを通りかかったところだったらしい吉住は、私と目が合うと、その狐目をびっくりしたように丸く見開いた。が、私を庇うように肩を抱いている兄貴を見て、勘違いでもしたのだろう。直後、いつものあの冷たい目で私を睨んだ。
「…高校生が出入りするような店じゃないだろ、ここ」
意外なほど真面目な言葉に、私は一瞬、目を丸くして、続いて皮肉っぽく笑ってやった。
「あのね。何を勘違いしてるか分からないけど、この人、私の兄貴で、もう成人してる大人だから。普段の私は、こんな店になんて来ないんだから、勝手な想像しないでよね」
「……」
「吉住こそ、ここら辺て、高1のガキが1人でうろつくような場所じゃないと思うけど? 一体何してんのよ」
苛立っていたのもあって、かなり嫌味な口調だったと思う。でも、間違ったことは言ってない筈だ。
なのに吉住は、冷たい視線のまま、冷めた笑いでこう言った。
「お前に説明する義理はねぇよ」
まるで吐き捨てるようにそう言うと、彼はくるりと踵を返し、夜の街に消えてしまった。
やっぱり、いけすかない奴―――吉住の背中を見て、私はそう思った。
私の、吉住に対する認識が少し変わったのは、1ヶ月ほど前。
弓道部の部室の裏手から、突然駆け出してきた冬美―――真っ赤な顔に、半ば目に涙を浮かべていた冬美は、私の姿に気づくと、ハッとしたように立ち止まった。
「森下!」
冬美を追うように姿を現したのは、吉住だった。
奴らしくない、少し動揺した顔をしていた。冬美が泣いてしまったので、慌てたのかもしれない。私の顔を見て、更に動揺した顔になったけれど、吉住は立ち止まった冬美に必死に声を掛けた。
「ごめん―――悪かった」
「……」
「言うつもり、なかったんだ。…ごめん、忘れてくれ」
戸惑ったような顔の冬美は、それでも吉住の言葉に微かに頷くと、小走りに走り去ってしまった。私の存在も忘れて冬美が走り去ってしまうなんて、今まで一度もなかったことだ。
その一連の流れで、私にも理解できた。吉住と冬美の間に、何があったのか。
「…あんたが好きだったのって、冬美だったんだ」
遠ざかる背中を見送りながら、私は、どこか茫洋とした顔で吉住にそう言った。意外だった。吉住の想い人が、冬美だなんて。でも、納得でもあった。見た目よりはるかに生真面目でモラリストの吉住だ。冬美がただの「いい子ぶった優等生」なんかじゃないこと位、こいつにはちゃんと見抜けていたのかもしれない―――私が、「いい人」と言われてしまう永峰君の本当の男らしさに心惹かれたのと同じように。
「―――過去形、だよ。自分では、もうとっくに区切りつけたつもりだった」
決まりが悪そうに、吉住はそう言い、地面を軽く蹴った。
この時の吉住の気持ちが、私には、嫌という位によく分かった。それは、ついこの前までの私の気持ち―――冬美という親友の彼を、好きになってしまった私の気持ちと、同じものだから。
私だって、引きずっている。誰を見ても永峰君と比べてしまうし、冬美にいつも小さな罪悪感を抱いている…完全に諦めた、今でも。
「…狭山は、偉いな」
ふいに、吉住が、そんなことを呟いた。
驚いて奴に目を向けると、吉住は、どこか同病相哀れむ、といった目をして、私を見ていた。その目を見て―――その意味を理解して、ドキン、と、心臓が跳ねた。
「…い…言わないでよね、冬美には、何も」
「当たり前だろ」
ふっと笑った吉住は、直後、少し表情を険しくした。
「狭山も、言うなよ。
「―――当たり前じゃない」
悟。永峰君の名前。永峰君を名前で呼ぶ人は少ない。冬美だって、まだ永峰君、と苗字で呼んでいる。…永峰君と吉住は、そういう間柄なんだ。
…なんて、似ているんだろう。私と、吉住は。
似ているから余計―――苛立ったり、頭にきたりするのかもしれない。
***
「…吉住君、なんか、家がゴタついてるらしくて」
着替えながら、冬美が突然、そんなことを切り出した。
ちょっと驚いて振り返る。なんで冬美が、そんな話を知ってるんだろう?
「年明けからずっと、吉住君の様子がおかしいみたいで…永峰君、心配してるの。子供の頃からの付き合いなのに、何も話してくれない、って、永峰君落ち込んじゃって…」
「…そう」
それで、冬美は、黙っていられなかったんだ。1ヶ月前の、あの日―――永峰君に元気になって欲しくて、吉住に事情を聞こうとしたんだ。
なんだか、その場に居合わせたかのように、全てがクリアに見える。吉住が、好きだった女に触れられたくない話題を持ち出されて、どんな気持ちになったのか…自分のことのように、分かる気がする。私だって、弱りきってる時に永峰君に手を差し伸べられたら、きっと本心を隠し通すのは無理だ。たとえ、もう終わった恋でも。
「…で、吉住は、答えたの」
訊ねると、案の定、冬美は首を横に振った。
「ただ、永峰君の話だと、なんだかお金が絡んでそうだって。永峰君の友達が、見かけたらしいの―――吉住君が、アルバイト情報誌片手に、公衆電話から電話してるとこ」
アルバイト。
自分のことでもないのに、ギクリとした。うちの学校は、校風はのんびりしてるけど、バイトとか援交とか、そういう話には相当厳しい。バレれば即退学だ。なんだって公衆電話なんかから電話したんだか…肝心なところで抜けてる奴だ、吉住って。
もしかしたら―――家が、お金に困ってるんだろうか。
自分がそういう立場だったら…親の目のある家では、バイトの話なんて絶対しないと思う。親には心配かけないように、公衆電話とか携帯から電話しそう。だから、吉住も…案外、そういう事情なのかもしれない。
「…まあ、さ。冬美が心配して始まることじゃ、ないし」
数日前に見た光景は、冬美には到底言えない。バイト探しどころか、既にバイトしてるなんて教えても、冬美の悩みを増やすだけだ。
「永峰君が、吉住のことで落ち込んでるんなら、永峰君自身を元気付けてあげればいいんじゃない? 吉住の心配は、その…吉住が事情を話したくなるような相手が、なんとかしてくれるって」
「そうよね。…でも、なんか、嫌だなぁ」
ふーっ、と息を吐き出した冬美は、少し照れてたような笑いを見せた。
「私、ちょっと、吉住君に嫉妬してる。永峰君をあんなに落ち込ませられる人って、吉住君以外、見たことないから」
「…えっ」
「けど、永峰君から言わせると、私と小雪の関係も似たようなものみたい。小雪のことで色々心配事をこぼすと、すぐ言われちゃう―――小雪のことになると、お前はいっつも別人みたいに弱いな、って」
「―――…」
嫉妬? 冬美や、永峰君が?
ちょっとした、カルチャーショックだった。冬美や永峰君が、そんな汚い感情を抱く瞬間があるなんて。しかも…その対象が、同性の友達だなんて。
でも…私だって、冬美を盗られてしまった、と永峰君を恨んだから、そういう嫉妬の仕方があってもおかしくないのかもしれない。吉住は、やっぱり気に食わない奴ではあるけれど、そんな部分でも私と同じ立場にあるんだな、と、なんだか不思議な気がした。
***
例の大学生から連絡があったのは、その翌日だった。
『連絡待ってたのに、冷たいなぁ、小雪ちゃんは』
電話の向こうの奴は、ヘラヘラした口調で、そうのたまった。
―――うーん。新しいタイプかもしれない。
「ごめんね。春休みは部活で忙しいの。あー、新学期始まっても、大会あるから忙しいかも」
大会の選抜選手に選ばれる可能性なんてゼロなんだけど、一応そう言って誤魔化す。避けられてるって気づけよ、という本音を滲ませつつ。けれど、敵はその辺の心の機微を分かってくれなかったらしい。
『あ、じゃあさー、今からは? 今から小雪ちゃんの家の最寄り駅まで迎えに行くから、遊びに行こう。ね?』
と言って、彼は何故か、私の家に最も近い駅の名前まで口にした。
…ちょっと、待ってよ。私、駅の名前なんて言った覚え、ないわよ? 住所だって教えてないんだから、電話番号教えただけで。なんで知ってる訳?
気味悪さに、鳥肌がたった。そう言えば永峰君、前に言ってた。私の盗撮写真が出回ってる、って。冬美が犯人の1人を捕まえてお説教してたって。もしかしたら…私の住所なんかも売り飛ばされてたりして…そう考えたら、なんだか怖くなってきた。
『なに、都合悪い? 今何してんの? 家にいるんだから、暇してるでしょ』
「…そう、だけど」
『実はもう、家の近くまで来てるんだ。おめかしする時間位は待つから、駅までおいでよ』
「……」
―――かなり、怖い。
けれど、この誘いに応じずに突っぱねた場合…どうなるんだろう? 冬美が言ってたような変質者に変貌しちゃったりしたら困る。怖いし、気も進まないけど―――ちゃんと、話をつけた方がいいかもしれない。そうだ、住んでる場所を何故知ってるのか、情報の出所も聞いておかないと。
「…分かった。じゃあ、この前と同じ店、連れてって」
無意識のうちに、私は、吉住がバイトしているあの店を指定した。
相手の男は、店員に私の知り合いがいることを知っている。そんな店で、おかしな真似はしないだろう―――そういう計算が働いたのだろうと、私は自分の咄嗟の判断をそう分析した。
2時間後―――私は、来てしまったことを、少々後悔していた。
「あの…もう飲まない方がいいんじゃないの?」
既に焦点が合わなくなっている男にそう言うと、そいつはヘラヘラと笑って更にカクテルをあおった。
「だーいじょうぶ。さ、小雪ちゃんも、飲んで飲んで」
「や、私、一応未成年だし」
「あはははは、何硬いこと言ってんの!」
店中に聞こえそうな大声に、私はそれ以上文句を言う気力がなくなった。とにかくその場を丸くおさめるために、気の進まないお酒に口をつけた。
目の前の男の向こう側に、他のテーブルにビールの入ったピッチャーを運ぶ吉住の姿が、一瞬、見えた。吉住も、この前と同じ組み合わせでの来店にはとうの昔に気づいていて、時折、気遣わしげな視線をこちらに向けてくる。単に、店の一員として迷惑しているだけかもしれないけど。
「…あの、ところでさ。私の家に一番近い駅、どうして分かったの?」
一番気になってたことを訊ねると、男はにやり、と不敵に笑った。普通にしてれば結構好みなその顔も、酔いで目が据わってる上に不敵な笑いを浮かべられたんじゃ、正直、怖いとしか言いようがない。
「愛の力、かなー」
「…ふざけないで」
「あはは、冗談冗談。簡単だよ。学校からずーっと尾行したんだ」
「……」
「この前の態度で随分ガード固い子だな、と思ったけど、僕の尾行に全然気づかないなんて、案外小雪ちゃん、抜けてるねぇ」
―――ごめん…冬美。既に“ストーカー”ってやつになってるのが、ここに約1名、いたみたい。
ゾクッ、と、背筋に冷たいものが走った。そうと分かれば、人目があるうちに家に帰り着くことが先決だ。兄貴に迎えに来てもらおう―――そう決心して、私は席を立った。
「あれぇ? 小雪ちゃん、どこ行くの」
「え? あー、うん、予定より遅くなりそうだから、家に電話してくる。すぐ戻るから」
私は、半ば逃げるようにして、奴のいるテーブルを離れて、人のいないレジ前のスペースへと駆け込んだ。店内とは壁を隔てているから、どんな顔で電話してても見られる心配はないだろう。
それにしても―――変わってる奴だなぁ。私の見た目と中身のギャップを見せつけられても、まだ未練残して、家まで尾行してくるなんて。情緒のない女が実は好みだったとか? 変な奴ぅ…。
とにかく、電話だ。バッグから財布を取り出した私は、公衆電話の受話器を手に取り、家の電話番号を回し始めた。
と、その時。
「―――いけないなぁ、小雪ちゃん」
ガチャン、という音がして、公衆電話のフックが、強制的に下ろされた。
ギョッとして顔を上げると、そこに、完全に酔いが回って、目つきがすっかり危なくなった男が、立っていた。
「そういえば小雪ちゃん、大学生のお兄さんがいたっけね。雲行きが怪しいから援軍要請? 2度も逃げられると思ってるなんて、随分甘いんじゃない?」
「……」
驚きと恐怖で、声が出なかった。
手から受話器が滑り落ちたことにも気づかず、私は目を見開いてそいつを見上げることしか出来なかった。
「大体さ。キミに声かける目的って言ったら、1つしかないでしょ、普通。噂じゃ、そうやっていろんな奴と付き合ってきたらしいじゃない。今更、何純情ぶってるわけ?」
根も葉もない嘘だ、そんな噂。せいぜいキスまでしかいけない期間しか付き合ったことのない私が、そんなに経験豊富な訳がないじゃないか。
そう反論したかったけど、無理だった。足が竦んでしまって、その場でぶんぶん首を振ることしかできない。するとそいつは、薄ら寒い笑みを口元に浮かべたまま、私を壁際へと突き飛ばした。
「―――…ッ!!」
「あははは、ほんと、気が強い割には隙だらけだねぇ、小雪ちゃん」
愉快そうに笑ったそいつに、肩を掴まれた。まだ壁で打ちつけた頭がグラグラする中、アルコールの匂いのする口を強引に唇に押し付けられて初めて、やっと固まってた体が動いた。
「んーーーーっ! んぐぐぐぐぐーーーっ!!!」
財布を握った手でそいつの肩やら腕やらをバシバシ叩く。何すんのよ、離してよ、という抗議のつもりで発した言葉は、くぐもった声にしかならなかった。
そりゃあね、私だって分はわきまえてるわよ。
どーせ私を誘う目的なんてそればっかよ。あんた達から見たら、私は妙なゲームのキャラと同等なんだから。
それにしたって、今まで付き合った連中は、少なくとももっと紳士的だったわよっ! キス1つするにしても、もの凄く気を遣ってくれて、こっちが申し訳なくなっちゃう位だったんだからっ! だからいつも、こいつもそれ目的か、って幻滅しても、その必死さに負けて2、3回は会ってあげちゃってたのよっ!
それなのに―――なんなのよ、あんたはっ!? しかもあんた、大人なんでしょお!?
奴の肩にぶつかった財布から、小銭がこぼれ落ちて、床の上でチャリチャリと軽快な音をたてた。
その音に、一瞬気を取られた、次の瞬間―――突然、強制的なキスが、中断された。
「……っ、はあっ!」
何より息苦しくて、自由になると同時に一気に息を吐き出し、激しく酸素を吸いこんだ。そんな私の目の前で、男の顔が、何かに引っ張られるように急速にのけぞった。
「―――てめえ、何してやがる」
低い、ドスの効いた声。
その声が、吉住のものだと気づいて、私は一瞬で我に返った。
吉住が、男の伸ばしすぎな髪を引っつかんで、引っ張っていた。
体格で一回り男より優勢にある吉住は、一気に酔いが醒めたような男の顔を覗き込み、今にも殺しそうな勢いで睨んでいた。男の髪を掴んでいる手が、怒りで震えてさえいる。
「き、キミ、店員が客にこんな真似」
自分の暴挙そっちのけで、震える声で男がそう言いかけると、吉住の顔に更なる殺気が走った。
「うるせえ! 貴様みたいなの見てると、虫唾が走るんだよ! 客だからって遠慮してられるかっ!」
「あ、あのね、これは僕と小雪ちゃんの問題で、プライベートなことだから、キミには関係」
まだ減らず口をきく男に、吉住が切れた。
髪を掴んでいた手を離し、男のジャケットの胸倉を掴む。その態勢から、次に吉住が取るだろう行動を察知した私は、ハッとして、慌てて吉住の腕を掴んだ。
「やめて、吉住! 殴っちゃ駄目!!」
「…っ、バカ、離せって! お前、自分が何されようとしてたか分かってんのか!?」
怒りで沸騰したような吉住の目が、私の方を向く。それでも私は、必死に吉住の腕に取りすがった。
「分かってるけど、やめて! 殴って、警察にでも通報されたら、学校にバレちゃうじゃない、バイトしてんのが!!」
「―――…」
その言葉に、吉住の顔色が、変わった。
***
結局その男は、吉住が「酔っ払って暴れた客」として、店側に突き出した。
ちょうどバイトの上がる時間の迫っていた吉住は、30分ほど私を店内で待たせ、バイト終了と同時に私を連れて店を出てくれた。家まで送る気でいるらしい。
兄貴を呼ぶって言い張ったけど、滅多なことじゃ兄貴に迎えにきてもらったりしない私が呼べば、兄貴はきっと心配する。そうしたら―――何があったか、言わなくてはいけなくなる。悔しいけれど、吉住の申し出は、ありがたかった。
「―――前からバカだと思ってたけど」
夜の繁華街を並んで歩きながら、吉住が、憮然とした口調で切り出した。
「お前、とことん、バカだな」
「…悪かったわね」
言い返す気にもなれない。今回のは、完全に私の考えの甘さが引き起こしたことだ。住所を知ってた段階で、兄貴なり親なりに相談すれば良かったのに―――バカだった。本当に。
「…ごめん、吉住。あんたにも、店にも、迷惑かけちゃった」
ポツリと呟くように言うと、頭上の吉住が微かに苦笑するのを感じた。
「…バカ、そのことを言ってんじゃねえよ」
「?」
「俺のこと庇って警察呼ばないなんて、正気の沙汰とは思えねーってこと」
「…ああ」
なんだ、そんな話をしてたのか。
「だって吉住、なんか事情があってアルバイトしてるんでしょ?」
当たり前という口調でそう言って吉住を見上げると、吉住は、ちょっと驚いたような顔をした。
「冬美から、ちょっとだけ聞いた。何か事情抱えてそうで、永峰君が心配してるって」
「…でも…」
「それに―――冬美といい勝負って位に超生真面目なあんたが、夜の居酒屋で禁止されてるバイトをするなんて、ちょっと信じられなかったもの。そうしなきゃならないだけのよっぽどの理由があるんだな、って、少し考えたらそう思えて…だから、学校にバレたらまずい、と思ったの」
ある程度、事実を指摘していたんだろう。吉住の顔が、少し動揺した。
「―――なんでお前が、俺を庇う義理があるんだよ」
「じゃあ吉住は、なんで私を助けたのよ。私のこと、すんごい嫌ってたくせに」
「質問に質問で返すな」
「はいはい。…うーん…なんでだろう? 仲間意識?」
「は?」
「あんたと私って、なんか似てるなー、と思って。私も冬美が大好きだし、あんたも永峰君が大好きでしょ。あたしもあんたも、相当遊んでるって周りから思われてるけど、あんたってこんな奴だし、私も…まあ、吉住から見たら、遊んでるのかもしれないけど、こう見えても」
「―――キスより先はさせたことないんだから、だろ」
セリフの先を吉住に取られて、思わず立ち止まった。
驚いて吉住を見上げると、同じく立ち止まった吉住は、凄く気まずそうな顔をしていた。私と目が合うと、少し視線を泳がせて、ふいっとそっぽを向いてしまう。
「…そりゃ、最初は噂を信じてたさ。お前と付き合った奴、みんな自慢げにあることないこと並べ立ててたからな。けど―――森下が気になりだして、あいつの姿を目で追うようになったら、嫌でもお前がおまけみたいに視界に入ってくるだろ。…だから、分かった。お前が、俺が思ってたのとは違う種類のバカだって」
「…何よ、違う種類のバカって」
「誰にでもいい顔しちまうバカじゃなくて、誰にも冷たい顔できないバカだって」
「……」
「ホントはアイドル扱いなんてうんざりだけど、自分を好きだと言ってくれる奴に最初から冷たい態度とれるほど、クールに出来てないんだよ、狭山は。バカがつくほどのお人よし。連中の狙いなんて読めてるのに、いざとなったら逃げるだけの腕力もない癖に、それでもその場を丸くおさめるためについてっちまう大バカ野郎だ」
―――否定、できなかった。1つも。吉住に助けられた後だから、余計に。
「だから、違う男と歩いてるの見るたび、イライラした。本当は嫌なのに、何無理してんだよ、アイドルだなんてバカにするな、ってキレちまえよ、って。そう思ってただけで…別に、嫌ってた訳じゃない」
不貞腐れたような口調でそう言った吉住は、そっぽ向いたまま、目だけを私に向けた。
「…奇遇だな。俺も思ってた。森下の傍で必死に悟を諦めようとしてるお前見て、まるで俺みたいだな…って」
「―――…」
次の瞬間。
吉住が、笑った。いつもの冷ややかな笑い方じゃなく―――柔らかな笑みを、口元にたたえて。
「サンキュ。…さっき、本当に助かった。あと少しで、本当に殴っちまうとこだった」
―――吉住って、本当はこんな笑い方するんだ。
…この笑い方は、嫌いじゃないかもしれない。
「…私も助けてもらったんだから、お互い様じゃん」
ポン、と軽く吉住の腕を叩くと、吉住も私の頭を軽く小突いてきた。何が可笑しいのか分からないけど―――なんだか可笑しくて、2人して、少し笑ってしまった。
その日、私は、吉住の父親が事故で長期入院してしまったこと、妹が受験を控えていたこと、父の退院までの間家計を支えるためにバイトをしていることを、吉住の口から初めて聞いた。
それは、吉住が誰にも明かさなかった、吉住の秘密―――冬美も、永峰君さえも知らない秘密だ。
私は、この瞬間に、吉住の「事情を話したくなるような相手」になれたんだと思う。そして私も…吉住に、いろんなことを話したいって思った。
まだ、恋人なんて呼ぶには早すぎるのかもしれないけれど。
こんな関係って、結構、素敵かもしれない。
80000番ゲットのkazuyaさんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は「高校の入学式で出会い、第一印象は最悪で、そこから何かの機会にお互いを意識するようになり、告白」。王道です。
てな訳で、皆様からご希望があった、「Confusion」の小雪ちゃんのその後。やっと永峰弟の名前が出せました(笑)
逆算したら、これ、98年頃のお話なので、まだ高校生に携帯電話は今ほど普及してません。そんな訳で、珍しく公衆電話大活躍です。ストーカーもやっと認知された頃ですね。
なんだか、付き合うことになるのかどうか不明なまんまの終わり方ですが、多分そう遠くない未来に付き合うことになるでしょう。勿論、外見無関係に、中身でつながりあった2人として。
関連するお話:「Calling me, Callyg you」「Confusion」
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