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Snowflakes

 

 世界が、真っ暗な闇に包まれた。

 …俺、死ぬのかな。
 死んだら、あいつに会えるかな。

 会って、一言、言えるかな。
 ごめん―――お前が生きるべきだったのに、俺が生き残ってしまって、ごめん、って。

 

***

 

 「お世話になりました」
 涼が深々と頭を下げると、この1ヶ月半を同室で過ごした男は、まるで自分が退院するかのように嬉しそうな笑顔を見せた。
 「よかったですね。予定より早く回復されて」
 「……」
 よかったのかどうか、正直、微妙なところなのだが―――複雑な顔をする涼に、彼は、その気持ちもちゃんとわかってるよ、とでもいうように、静かに一度、頷いた。
 「よかったんですよ」
 「……」
 「主は、お友達には“十分生きた”と言い、あなたには“もっと生きよ”と言われた。人々の目にどう映っても、それが神の御意思なのです。あなたのせいではありません」

 神の意思―――本当にそうなのだとしたら、神様というのは、随分残酷なことをする。
 どちらかが死ぬ運命にあったのなら、死ぬのは「彼」でなく、自分であるべきだったのに。

 「40も半ばを過ぎると治りが悪くて思いのほか長居してしまいましたが、わたしにもやっと、退院のお許しが出ました。週末には退院しますから、いつでも遊びに来て下さい」
 「―――はい」
 偶然同室になった彼の家は、普通の住宅ではない。「教会」という名の、今までの涼にはほぼ無縁に等しかった場所だ。
 無縁だったけれど、多分、これからはちょくちょくお世話になるのかもしれない―――なんとなく、そんな気がした。

***

 久しぶりに出勤した涼を、同僚たちは暖かく迎えてくれた。
 「沢木! お前…やっぱ、痩せたなぁ」
 「怪我の方は、もう大丈夫なのか?」
 集まってきて騒ぐ同僚らに、涼は曖昧な笑みを返した。
 「あ…ああ、まだボルトで固定してるけど、仕事はできるから」
 「そりゃ良かった。お前抜けてる間、大変だったからなぁ」
 「そうだよ。、さっそく今日からガンガン働いてもらわないと」
 皆、口々に明るい声でそう言ってくれるのは、多分、涼の気持ちを慮ってのことだろう。それが想像できるから余計、心苦しさを感じる。涼の表情は、辛うじて笑顔を保ってはいたが、やはり硬いままだった。
 「まずは社長んとこ顔出しとけよ」
 先輩に言われ、涼は「わかりました」と答えて、奥の社長室へ向かった。これから社長と対面しなくてはならないと思うと、数本のボルトが埋め込まれたままの脚が、普段以上に痛む気がした。

 「沢木です」
 社長室のドアをノックすると、中から「んー」という間延びした返事が聞こえた。入っていいぞ、という意味らしい。
 ドアを開け、中に入ると、社長というよりは山小屋の経営者といった風情の社長が、涼の顔を見て、ヒゲ面を安堵したようにほころばせた。
 「おお、無事退院したか。どうなんだ、体の方は」
 「はい、あちこち固定してますけど、手は動くんで―――あの、今回は、本当に、お世話をかけました」
 車の安全を保つ仕事の者が、自ら事故を起こしたのだから、クビにされても文句は言えなかったのだ。なのに、解雇せず、手術とリハビリが終わるまで待ってくれた社長には、感謝してもし足りない。膝に額がくっつくほど頭を下げる涼に、社長は苦笑を見せ、よせよせ、とでもいうように手を振った。
 「おれなんぞに頭下げてる暇があったら、1分でも早く仕事に戻ってくれ。ヴィンテージもののレストアがちょうど入ったところで、人手が足りないんだ」
 「はい」
 涼の職場は、近県のカーマニアなら誰もが知っている自動車整備工場だ。国産車だけでなく外車も扱っており、その腕の確かさから遠方からわざわざ車を持ち込む客も少なくない。整備工場としてはかなり大手だと思うが、一級自動車整備士の資格を持つ涼がいつまでも悠長に療養できるほど、人員の余裕はないのが実情なのだ。
 「…もう聞き飽きてるかもしれんがな、」
 ふと悲しげな表情になった社長は、癒えていない怪我に響かない程度の力で、涼の肩をポン、と叩いた。
 「あんまり、思いつめるんじゃないぞ」
 「……」
 「お前たちは、レースで戦ってたんだ。真剣勝負のレースに、プロもアマもない。ハンドル握ってコースに飛び出す連中は、誰だって死と隣り合わせだ。それも、あんな最悪のコンディションじゃあ…な。お前たちは不運だったんだ。おれに言わせりゃあ、家族が大切だと思うなら棄権すべきレースだったし、そもそもあの天候で中止を決定しなかったのは、主催者側の判断ミスだ」
 主催者側の判断ミス―――入院中、同僚から、仲間から、家族から、友人から、散々繰り返された言葉だ。かのサンマリノ・グランプリも、前日に死者を出していながら興行を優先した結果、世紀の天才ドライバー、アイルトン・セナの命を奪った。それに及ばずとも、あの大会も、天候を理由に中止すべきだったのかもしれない。
 でも…涼がハンドル操作を誤ったのは、動かしがたい事実だ。たとえ法的責任が主催者側にあろうとも、その事実は、永遠に消えない。少なくとも、涼の中では。
 「気に病むな、と言っても無理だろうが、全て自分のせいだと思うな」
 「…ありがとうございます」

 全てを自分のせいとは思うな。みんなそう言うし、そう考えねばとも思う。
 けれど、どうすればそう思えるようになるのか―――それが、涼には、どうしてもわからなかった。

***

 「信也、涼君が来てくれたわよ」
 信也の母がそう話しかけた先に、信也の姿はない。位牌と遺影、そして真四角の箱があるだけだった。
 荻原信也―――遺影の中の笑顔は、涼と彼が初めて出会った中学生の時の面影を、そのまま残している。童顔すぎると本人は気にしていたが、この人懐こい笑顔のおかげで、彼は誰からも好かれる存在であり続けたのだ。
 「急なことで、すぐには墓が用意できなくてね。まあ…私たちにしてみれば、1日でも長く信也を留め置けるのだから、むしろありがたい位なんだが…」
 「…そうだったんですか…」
 間もなく四十九日だ。なんとか四十九日までには荻原家を訪れ、謝罪と供養がしたいと思っていた涼だが、ギリギリその願いは叶えられた。
 ―――信也。遅くなって、ごめんな。
 遺影に手を合わせつつ、心の中で詫びる。が、遅かろうが早かろうが、もはや信也にとってはどうでもいいことなのかもしれない。多くの心残りがこの世にある信也は、きっと涼のことを恨みながら死んでいった筈だ。詫びたところで、許してくれなくて当然だ。
 「まだ怪我も大変な状態なのに、わざわざお越し下さって…ありがとうございます」
 線香をあげ終えた涼に、信也の両親は、そう言って丁寧に頭を下げた。
 「と…とんでもないです。本当なら俺なんて、こちらに顔を出せた立場じゃないのに…」
 慌てて涼がそう言うと、信也の母は、滲んだ涙をそっとハンカチで押さえながら、軽く首を振った。
 「いいえ。信也にとって涼君は、一番の親友でしたもの。涼君に来てもらって、きっと喜んでる筈です」
 「しかし…」
 「あ、琴絵さん」
 信也の父の言葉に、涼の肩が、ビクリと強張った。
 ぎこちなく振り返ると、そこに、見知った顔が立っていた。青褪めた顔で……今の涼以上に強張った、硬い表情をして。
 “なんで、あなたが、ここにいるの”―――琴絵の目が、涼をそう責めているように見える。居たたまれなさに、涼は思わず目を伏せ、頭を下げた。
 「琴絵さん、今ちょうど、沢木君が、信也のお悔やみに…」
 琴絵は、涼とも知人同士だ。同席させようと、信也の父が気遣ってそう言いかけたが、琴絵は、ふい、と視線を逸らし、
 「…買い物、行って来ます」
 と呟いて、立ち去ってしまった。
 信也の両親の間に、なんとなく気まずい空気が流れる。が、涼はむしろ、当然な反応をやっと見れた気がして、少し肩の荷が下りた気分だ。愛する人を失って、その原因を作った人間を恨まない訳がないのだから。
 「ごめんね、涼君。あんまり、急だったから…あの子も、誰かのせいにしないと気が治まらない部分があるのよ、きっと」
 申し訳なさそうにする信也の母に、涼は微笑とともに首を振った。
 「誠也君は、元気にしてますか」
 「ええ。元気に幼稚園に通ってますよ。社宅のご近所だから、ここからじゃちょっと遠いんだけど、せっかくお友達も出来たのに辞めさせるのも、ねぇ…」
 「信也がいないことはわかってるみたいだけど、死んだことまでは理解できない年頃だからね。変に環境を変えるより、今までどおりに過ごさせた方がいいだろう」
 「…そうですね」
 誠也は、現在4つ―――今年の冬で、5つになる。まだ死を理解していないようだが、いずれは真実を知る日が来るだろう。
 全てを理解した時、誠也が何を思うのか……そのことに思いを馳せ、涼は、唇を噛んだ。

***

 「一仕事終えた割に、冴えない顔ね」
 からかい気味に頬をつつく和佳の顔を、涼はちょっとむくれ顔で軽く睨んだ。
 「…一仕事、て…」
 「あら、家族を亡くしたばかりの家を訪ねるなんて、当事者じゃなくたって“一仕事”じゃない?」
 「……」
 「不謹慎、とでも言いたげね」
 涼の不満顔に、和佳はくすっと笑い、自分のグラスを口に運んだ。怪我のために強いアルコールは禁じられている涼に合わせて、和佳のグラスの中身も極々軽いカクテルだ。
 「誰かに会うなら楽しい用事の方がいいし、ネガティブな話題しか出そうにない用件は憂鬱で当然―――“苦痛”は、誰にとっても“苦痛”よ。宿題を忘れたことを反省してる子も何とも思ってない子も、先生のお小言が待ってる職員室のドアをノックするのは、憂鬱でしょ」
 「…そりゃあ…そうだけど」
 「そして、今目の前にいるのは、信也君の家族じゃなく、あなたの恋人なんだから―――やっと1つ、肩の荷が下りてよかったね、と言い合ったって、別に罰は当たらないんじゃない?」
 ―――こういうところが、和佳の凄いとこだよなぁ…。
 実に巧みに、涼の弱音を引き出してしまう。降参した涼は、苦笑とともに頷いた。
 「ああ―――やっと、少しだけ、肩の荷が下りた。通夜にも葬式にも出られなかったから、入院中ずっと焦ってたし」
 「みなさん、少しは落ち着いてた?」
 「両親はね。ただ…川口は…」
 結婚して“荻原”に変わった琴絵だが、昔からの慣れで、本人らの前以外では、つい旧姓で呼んでしまう。正直、琴絵が信也と結婚した時は、どう呼んでいいのか困った。奥さん、じゃ変だし、琴絵、と名前で呼ぶのはもっと変だし―――で、結局、結婚後の琴絵に話しかける時は「あのー」という曖昧な感じに終始している気がする。
 「まあ、暫くは仕方ないわよ。とりあえず、一番恨みやすい立場にいる涼に全部押し付けちゃってるんだろうけど、落ち着けば、事故に対してももっと冷静に判断できるだろうし、そうすれば、無理にレースを続行した運営側とか、妻子を残してさっさと死んじゃった信也君そのものにも怒りが向くようになるでしょう」
 「信也も恨まれちまうのか…」
 なんだかな、と涼が眉をひそめると、和佳は肩を竦め、事も無げに言った。
 「ただの事故じゃなく“カーレース中の事故”だもの。自業自得、と言われても仕方ないわよ。命が惜しいなら、レースから足を洗うだけで済んだんだから」
 「……」
 確かに―――琴絵は、信也がレースに出ることに、以前から反対していた。それを突っぱねたのは信也自身だ。和佳の言うとおり、いずれ琴絵が冷静さを取り戻したら、信也を恨む日が来るのかもしれない。
 「…和佳は、俺がレース出るのに、反対したことないよな」
 何とはなしに涼が呟くと、和佳は一瞬、キョトンと目を丸くした。
 「そうだった?」
 「ああ。…って、え? 本当は反対なのか?」
 和佳は、レース以外でも涼に付き合ってサーキットに遊びに行くような奴だ。だから反対していると思ったことなど一度もなかったのだが…もしかして、本音では、琴絵のように止めて欲しいと思っていたのだろうか?
 だが、少々焦った顔になる涼に、和佳はちょっと可笑しそうに笑った。
 「そんな訳ないでしょ」
 「…ほんとか?」
 「ほんとよ」
 きっぱりと言い放つ和佳の声に、迷いや誤魔化しは、一切なかった。
 「人間、大人になれば、果たさなきゃいけない義務も増えるし、我慢しなきゃいけないものも増えるのは事実よ。でも、義務や責任や世間体に縛られて、小さくなって息を殺して生きてるだけの人間なんて、ちっとも魅力的じゃないわ。勿論―――罪悪感に縛られて不幸そうに生きる人間や、自分が辛いからといって他人の笑顔を許せない人間も、ね」
 「……」
 一瞬、ドキリとした。
 信也はレースで死んだのに、信也は二度と走ることができないのに、信也の命を奪う結果となった自分がレースに復帰する訳にはいかない、琴絵だって、そんなことは許さないだろう―――涼は、カーレースを辞めるべきなのではないか、と考えていたのだ。
 和佳には、そんな涼の考えなど、とうにお見通しだったのだろう。その証拠に、涼が動揺を見せたのを見てとると、和佳は、不意打ちのイタズラが成功したみたいに、口の端をつり上げた。
 「それに、命を粗末にする奴はキライだけど、レーサーが命を粗末にしてるとは思わない。危険を避けて生きることと命を大切にすることは、必ずしもイコールじゃない……そう思わない?」
 そう言うと、和佳は、両手の親指と人差し指をピンと伸ばし、四角いフレームを作った。そして、片目を瞑って、フレーム越しに涼を見つめた。
 「私は、今を精一杯楽しんで生きてる人間が好きなの。涼が怪我をするのも死ぬのも嫌だけど、命がけの勝負に出る時の涼は、最高に輝いてるわよ。思わずカメラに収めたくなる位にね」
 「和佳…」
 ―――カメラ構えてる時の和佳の方が、その何倍も輝いてると思うけどな。
 カメラに収めたい―――それは、和佳にとって最高の賛辞だ。涼は柄にもなく、少し照れてしまった。

 和佳のような理解者がいてくれて、自分は本当に幸せだと思う。
 でも、自分の幸福を感じれば感じるほど……苦しくなる。

 罪悪感に縛られて不幸そうに生きる人間は、つまらない―――和佳の言うとおりだ。それは、わかっている。
 それでもなお、思わずにはいられない。信也を死なせてしまった自分がこんなに幸福でいいのだろうか、と。


***


 涼が、形ばかりではあるが何とかレーシングチームに復帰できたのは、11月も下旬―――事故から半年近くも経ってからだった。
 「ボルトはいつ抜けるんだ?」
 「普通は半年から1年位らしい。定期的に医者行って状態見てもらってるから、医者がゴーサイン出したら抜くことになるんだと思う」
 「そうか…じゃあ、まだまだレースは無理か。ハンパない箇所、骨折したんだから、まあ当然っちゃあ当然だが…」
 チームの仲間は、実に残念そうにそう言い、ため息をついた。
 レースは飽くまで個人の勝負ではあるが、強いドライバーが所属するチームには、支援を名乗り出てくれるスポンサーもつきやすい。チームの主力メンバーである涼が、長期間、主だったレースから外れてしまうのは、チームにとっても痛いことなのだ。
 「悪いな。でも、来年の第1戦には、必ず出るから」
 「おー、頼むぞ。約束だからな」

 『来年の第1戦は、俺も絶対出るからな』

 仲間と握手で約束を交わした途端―――思い出してしまった。

 

 地元のサーキットの今年度第1戦は、事故の約1ヶ月前―――4月の頭に行われた。
 涼は、学生時代からずっと、近県の愛好家で作るレーシングチームに所属している。なかなかタイムが伸びず苦労した時期もあったが、じわじわと力をつけ、今ではチームの主力レーサーとなっている。得意とするカテゴリーの主要大会には、時間の許す限り参戦しており、当然、この第1戦にも参加した。結果は4位入賞―――数少ないスポンサーを繋ぎ止めるには、ギリギリ合格ラインといったところだろう。
 一方の信也は、自身が勤める大手自動車メーカーのレーシングチームに所属している。マシンは自社提供、チームの運営費用に困ることもゼロという、涼たちから見れば羨ましいような環境だが、社にとって重要なのはやはり「F3000」などのメジャーなカテゴリーであるため、アマチュア大会がメインである信也のカテゴリーにはあまり力を入れてもらえず、結果、信也たちのチームの参戦率は低かった。
 それでも信也は「地元第1戦だけは落とせない」と意欲を燃やしていたのだが、残念ながら、今回は予選にすら参加できなかった。といっても、不参加の原因は、家族だ。妻が頑なに「今年は家族サービスを優先してよ」と言って反対したため、参加を諦め、決勝当日を家族旅行にあてたのだ。
 「来年の第1戦は、俺も絶対出るからな。涼も協力してくれよ」
 「わかったわかった。…で? 家族旅行の方は、どうだったんだ?」
 「ああ、自然が豊かで、なかなか良かった。あまりにも自然しかないんで退屈するかと思ったけど、少し行けば釣りのできる川もあったし、私設のミニ動物園みたいなのやってる人がいて、ウサギやらヤギやらと触れ合えたりするしな」
 「へえ。いい所みたいだな」
 「あ、そうそう」
 何かを思い出したのか、信也は、ビールの入ったグラスを置き、カウンター席の隣に座る涼の方に、体ごと向き直った。
 「涼、お前、覚えてるか? だいぶ前、和佳さんと一緒にうちに遊びに来た時、あいつが“誕生花辞典”持ってきて、和佳さんの誕生花調べたの」
 「ああ…なんとなく」
 あいつ、とは、信也の妻のことだ。昔から占いや花言葉といった「いかにも女の子」なものが好きな女性だったが、本棚から“誕生花辞典”が出てきた時には、和佳と2人して「そんなものがこの世に存在したのか」と驚いたものだ。
 「今回の家族旅行で、目的地の保養地に行く途中で、1ヶ所、綺麗な白い花が大量に群生してる場所があったんだ。その時はてっきりスズランかと思ってたんだけど、帰ってからデジカメで撮った花の写真で調べてみたら、スズランじゃなく、和佳さんの誕生花だったんだよ」
 「…なんだっけ。和佳の誕生花って」
 「バカ。5年も付き合ってる恋人なら、その位覚えとけよ。スノー…」
 「すのー?」
 「…スノー…なんだったかな」
 どうやら、信也もうろ覚えだったらしい。人に説教をしておいて自らこれだ。信也のこういうところが、意外に子供っぽくて憎めない部分だ。
 「とにかく、あれは必見だぞ。花畑見て感動するなんて、俺はほとんど経験ないけど、あの光景には感動した。人目につかない林の奥にひっそりとあるとこが、なんかこう神秘的で良かった」
 「へぇ…。和佳が喜びそうだな」
 和佳は、明るい陽射しの下のカラフルな花畑などより、森閑とした竹林などを撮る方を好むのだ。信也の言う光景を思い浮かべて涼が口元をほころばせると、信也は満足げに笑った。
 「俺ももう1回見に行きたいし、十分日帰りできるとこだったから、来月のレースが終わったら案内してやるよ」

 来月のレースが終わったら―――…。


 『ええと、和佳さんの誕生日の花は、スノーフレーク。花言葉は“純潔、無垢な心、記憶”―――あら、素敵じゃない。いいなぁ、花の名前も可愛いし、花言葉も綺麗で。羨ましい』

 

 「? どうした、涼?」
 「……いや」
 不審がる仲間に、涼は中途半端な笑顔しか返せなかった。

 事前に場所がわかっていたら面白くないだろ? と、信也は悪戯っ子のような笑顔で言っていた。
 あのレースの翌週、信也が案内してやると言っていた、スノーフレークの群生地―――そこがどこにあるのか、涼は、今も知らない。


***


 涼がチームに復帰した数日後は、信也の子供、誠也の誕生日だった。
 信也は毎年、誠也のために早くからプレゼントの計画を立てていた。が…今年の誕生日に、信也はいない。ミニカーが大好きで、一番のお気に入りの絵本が『せかいのくるま』だという誠也のために、涼は赤いラジコンカーをプレゼントに選んだ。
 「まあ…わざわざ気を遣ってくれて、ありがとう。誠也! 誠也君、ちょっといらっしゃい!」
 突然のプレゼントを喜んでくれた信也の母は、夕飯を食べ終えて居間でアニメを見ているという誠也を、わざわざ呼んでくれた。
 事故以来、誠也に会うのはこれが初めてだ。少し緊張したが、出てきた誠也は、涼の顔を見て、以前と同じ笑顔を見せてくれた。
 「あー、クルマのおじちゃんだ」
 誠也の中はで、涼は「クルマのおじちゃん」なのだ。涼が誠也と顔を合わせるのが、サーキットやパーツ屋、涼の職場など、いずれも車にまつわる場所ばかりだったからだろう。
 「こんばんは、誠也君」
 「こんばんはー。パパはいないよ」
 無邪気な誠也の言葉に、胸がチクリと痛む。が、涼は何とか笑顔を保った。
 「…知ってる。実は、パパに頼まれて、誕生日プレゼントを持ってきたんだ」
 「えっ、プレゼント?」
 はい、と誠也に渡した箱には、水玉模様の包装紙とリボンがかけられていた。当然、中身が何かは外見からではわからないが、「パパからのプレゼント」というだけで十分なのか、誠也は目を輝かせた。
 「ありがとう! ママに見せてくる!」
 「あ、誠也…」
 一瞬、信也の母が顔を曇らせ、誠也を呼び止めかけた。が、祖母の制止は全く耳に入らなかったらしく、誠也は「ママー」と言いながら、奥にいるらしい琴絵のもとへと駆けて行ってしまった。
 「―――何か、まずかったでしょうか」
 一瞬見せた表情の変化が気になり、涼が小声で訊ねると、信也の母は眉根を寄せ、言い難そうに答えた。
 「…琴絵さんには、見せない方がいいと思って」
 「え?」
 「琴絵さん、あの事故の後、誠也が集めてたミニカーのほとんどを捨てちゃったの。救急車とかバスとかは残したけど、誠也が気に入ってたスポーツカーとかのは、全部」
 「……」
 「…誠也が車に興味を持つのが、嫌みたい。気持ちはわかるけど、大好きだったミニカーがいつの間にか捨てられてて、誠也が随分泣いたから―――だから、ラジコンカーも、暫くは琴絵さんには内緒にして、私が誠也と公園に遊びに行った時なんかだけ、遊ばせてやった方がいいかと思って」
 「…そう、だったんですか…」
 プレゼントの中身が、スポーツカーのラジコンだと知ったら、琴絵がどうするか―――想像できる気がして、失敗したな、という気分が早くも頭をもたげる。と、その後悔を裏付けるかのように、奥から誠也の泣き声が聞こえてきた。
 ハッとして、涼と信也の母が居間へ続く扉に目を向けると、やがて、扉が開き、険しい顔をした琴絵が出てきた。そして、涼の顔を見つけるや、ぎりっ、と唇を噛み、足音も荒くこちらに歩み寄った。
 「か……」
 川口、と呼びそうになって、慌てて口を閉じた涼に、琴絵は、包装紙の破られたプレゼントの箱を、まるで投げつけんばかりの勢いで突きつけた。
 「持って帰って」
 「……」
 「持って帰って。こんなもの、受け取れないわ」
 「琴絵さん…」
 止めなさい、という口調で信也の母が小声で制したが、むしろ逆効果だったようだ。顔を歪めた琴絵の目に、みるみる涙が浮かんできた。
 「沢木君て、昔っからそうだった…車のことしか興味なくて、無神経でマイペースで…! 一体、どういうつもり!? 信也は車の事故で死んだのよ!? 誠也にまで、こんな危ないものに興味持たせないで!!」
 「琴絵さん!」
 「そもそも、沢木君がいなければ、沢木君が親友じゃなければ、信也は危ないレースなんてとっくに辞めてた筈だった! なんで沢木君が信也の親友なのよ!? どうしてあたしや誠也のために信也を説得してくれなかったのよ!? あたしたちの生活は、信也やあなたにとって、レースより軽い存在でしかなかったの!? どうして、」
 「こ、琴絵さん、落ち着いて…! ね、落ち着いて…」
 支離滅裂になりつつある琴絵を、信也の母が抱きとめるようにして抑えようとしたが、暴走しだした琴絵は、もう止まらなかった。
 「同じ事故なのに、どうして、信也が死んで、沢木君が生きてるの!? 不公平よ、こんなの……!」

 神の意思―――本当にそうなのだとしたら、神様というのは、随分残酷なことをする。
 どちらかが死ぬ運命にあったのなら、死ぬのは「彼」でなく、自分であるべきだったのに。

 理不尽とも言える琴絵の言葉が、突き刺さった。半年間、繰り返してきた痛みと共に。


***


 「本当に久しぶりですね。最後にいらっしゃったのは確か―――8月でしたか」
 「…そうですね」
 前回ここを訪れた時、テーブルの上に置かれたのは確か、冷えた麦茶だったと思う。ホットチョコレートを「どうも」と受け取りながら、涼は、季節の移り変わりをぼんやりと感じた。

 教会に併設されたこの小さな家を訪れたのは、過去2回だ。1度目は彼が退院して間もなく、退院祝いに好物だと聞いていたミルフィーユを持参した時。そして2度目は8月、特に用もなく、なんとなく立ち寄った時だ。
 神父とも牧師とも縁のない人生を送ってきた涼は、牧師が現代的な生活をしているところをどうにも想像し難かった。つい、レンガ造りのヨーロッパの片田舎にあるような建物だろうと想像してしまっていたのだが、実際の彼の家は、極普通の木造平屋建てだ。暮らしぶりも、極普通―――今、涼がいるダイニング兼リビングのような部屋は洋風な内装だが、牧師の話では、彼の寝室は和室で、布団で寝ているのだそうだ。
 テーブルの片隅には、作りかけの帆船の模型が置かれていた。プライベートな時間、こういった細かい細工の模型を作るのが、この牧師の趣味なのだそうだ。前回来た時は、ライト兄弟の時代のような飛行機が完成間近の状態だった。現在製作中の帆船は、まだ3割といった進み具合だろうか。

 「せっかくの趣味の時間に、わざわざ時間をとらせてしまって、すみません」
 木工用ボンドなどを手早く片付ける彼にそう詫びると、彼はちょっと可笑しそうに目を細めた。
 「いえいえ、とんでもない。この辺は、静かでいい住環境なんですが、一人暮らしだと夜は結構寂しいんですよ。特に、今日みたいな冷え込んだ、あまり天気のよくない日はね」
 「そういえば、冷えてるなぁ…初雪にはまだ早いかな」
 「明日も今日みたいな天気だったら、そろそろ降るかもしれませんね」
 ぽんぽん、と軽く手をはらった牧師は、大きく息を吐き出し、やっと涼の向かいの席に座った。そして、自分の分のホットチョコレートを、実においしそうに一口飲んだ。ケーキの趣味といい、かなり甘党なのだろう。
 「はー、寒い日に飲むホットチョコレートは、格別ですねぇ」
 しみじみとそう呟く様子が可笑しくて、涼は思わず吹き出してしまった。
 「おかしいですか?」
 「いえ。ただ、俺、聖職者ってのはもっとこう、ビシッとしてて隙のない、“孤高の人”って感じをイメージしてたんで」
 「ああ…、まあ、そういうタイプの人もいますけどね。どんな職業でも、タイプは色々ですよ。牧師には、結婚して子供をもうける人も多いですし、山登りが大好きなマッチョな神父も知り合いにいますしね」
 「はは…」
 マッチョな神父を想像したら、ちょっと笑えた。
 多分この、人を和ませる声のトーンや口調のせいだろう。彼と話すと、いつも自分を覆っている硬い何かが、1枚剥がれるような感覚になる。事故以来、和佳の前でしか出てこないような笑みが、自然と顔に浮かんでしまう。
 だから、つい―――吐露したくなってしまう。堅く閉ざした心の奥で、常に疼いているものを。
 この人とは、何の関係もない話なのだけれど、神に仕えているという、この人ならば、何らかの答えをくれるのではないか―――そんな、気がして。

 「…実は今日、ここ来る前に、信也の家に行ったんです」
 暫くの沈黙の後、涼が、呟くように口を開いた。
 「誠也の…信也の子供の、誕生日だったんで…あいつの代わりに、誕生日プレゼントを渡さないと、って思って」
 牧師は、信也を知らない。病院で同室になっていた間、事故のあらましと信也の名は話したが、それ以上のことは何も知らない筈だ。
 けれど彼は、唐突な涼の言葉に、特に口を挟むでもなく、ホットチョコレートの入ったカップを両手で包んだまま、軽く首を傾げるような姿勢で、涼の話を聞いていた。
 「誠也は、まだ幼稚園の年少組だけど、F1カー見てチーム名言えるほど車が好きで…だから俺、ラジコンカーをプレゼントしたんです。誠也は凄く喜んでくれたんだけど…」
 「…けど?」
 「…誠也の母親に、一旦誠也が受け取ったプレゼント、その場で突っ返されました。信也がレースで事故死したのに、スポーツカーのラジコンを贈るなんて無神経だ、と」
 苦笑いを浮かべつつ涼が語った話に、彼は初めて表情を変え、眉をひそめた。
 「それは、よくないですね。中身がどういうものであれ、そんな取り上げ方をしたら、子供が傷ついてしまうでしょう」
 「俺が、迂闊だったんです。彼女が元々、信也がモータースポーツを趣味にしていることを良しとしてなかったのは、十分知ってたのに―――…」
 そこで言葉を切った涼は、一瞬迷った挙句、少し気まずい思いでボソリと続けた。
 「…彼女、昔は、俺と付き合ってたんです」
 さすがに、意外な展開だったらしい。彼の目が、少し丸くなった。
 「もしかして、修羅場とか、泥沼とか? その手の話は、あまり得意なジャンルではないんですが…」
 「いや、まさか。そんなんじゃないです。付き合ってたのも別れたのも、まだガキだった頃の話だし」
 「ああ…それなら、安心しました。あなたの見舞いに何度も来ていた綺麗なお嬢さんが、辛い思いをするのは可哀想ですからね」
 牧師の言葉に苦笑を返した涼は、小さく息をつき、再び口を開いた。
 「…彼女は、中3の時の俺のクラスメイトです」


 実を言うと、涼は琴絵のことを、あまりよく知らなかった。川口、という苗字は知っていても、琴絵という名前は知らない、そういうレベルだ。
 付き合って下さい、と告白されて、正直、迷った。でも、可愛い子だな、とは思ったし、自分のような平凡で口下手な男を好きになってくれたのがただ単純に嬉しかったので、涼は頷いた。
 とはいえ、まだ中学生で、受験本番を控えている時期だ。一緒に登下校し、一緒に受験勉強をし、たまにファーストフード店で他愛もない話をしたり―――そんな感じの交際だ。好みも話題もさっぱり合わない同士だったが、そこそこ楽しい日々だったと思う。

 涼も信也も、昔から車が好きだった。
 幸運にも地元にメジャーなサーキットがあり、未成年者用のカートでコースを何度も回った経験のある2人は、当然ながら、プロのカーレーサーに憧れた。だが、自分たちにはプロになれるほどのずば抜けた才能はない、ということも、なんとなく自覚していた。
 元々機械いじりが好きだった涼は、レーサーが無理ならメカニックになりたい、と考え、目標を整備士の資格に据え、進学先として高専を選んだ。
 一方、レーサーに対する憧れが涼より強かった筈の信也は、何故か普通の高校に進学した。そして―――その高校は、奇しくも琴絵と同じ高校だった。

 涼は元々、器用なタイプではない。何かに没頭すると、それ以外に頭が回らない傾向が高めだ。案の定、進学し、専門的な勉強が増えるにつれ、学校の離れてしまった琴絵にまで神経が行き届かなくなった。
 1週間音沙汰ナシが当たり前の彼氏では、不安に思うのも無理はない。高1の夏、ついに琴絵がキレた。
 『どうせ、沢木君にとって大事なのは、車や機械だけなんでしょ!?』
 涼と琴絵の交際は、こうして終わりを迎え、それから間もなく、信也と琴絵が付き合い始めた。
 『実は、前から時々、川口の相談に乗ったりしてたんだ。俺は、涼と上手くいって欲しかったんだけど…別れたって聞いたら、なんか、放っておけなくなって…』
 信也は、酷く恐縮した様子だったが、涼は信也に対して怒りを全く感じなかった。
 それなりに悲しい出来事だったが―――ホッとした、という部分の方が、大きかった。


 「…俺は、信也みたいには、なれない」
 ふっと笑った涼は、視線を僅かに落とした。
 「友達も大切にして、彼女にも寂しい思いをさせないで、親の期待にも応えて、でも自分の夢は捨てないで―――少しずつ妥協したり努力したりしながら、全部を両立させられる。そういう奴なんです、信也は」
 「…器用な人なんですね、信也さんは」
 牧師の言葉に、涼は俯いたまま、頷いた。
 「信也は、地元の大学に進学したけど、それは、あいつが就職したがってた会社への就職率が、その大学が一番高かったからなんです。大手の自動車メーカーで、社宅もあるし給料も安定してるから、結婚も早くできる、その上、小さいけれどレーシングチームを持ってるから、上手くすれば自分もレースに関われるかもしれない……そう言って、笑ってました。実際、言ってたとおりの人生を送ってた―――希望してた会社に就職して、レーシングチームのメンバーにもなって、結婚して、子供も作って―――…」
 器用で賢い生き方のできる、信也。
 単純に「子供の頃からの夢を叶えた」という面だけを比較すれば、直接車とは無関係な部署に配属され、レースに出場する機会も少なめだった信也より、サーキットのメカニックも務まるほどの整備士になり、アマチュアの全国大会で上位に食い込むだけの走りを見せる涼の方が、より夢を叶えたことになるのだろう。
 けれど―――涼は、車が全てだ。給料の大半をモータースポーツに費やし、生活の全てが仕事とレースを中心に回っている。信也のように妻子を養うのは、経済的にもライフスタイル的にも難しいだろう。親友である信也がなまじ若くして結婚して子供をもうけているので、親から小言を言われることもしばしばだ。
 「…俺は、信也とは違う」
 ポツリとそう言うと、涼は、テーブルの上に置いた両手を、ぎゅっ、と握り締めた。
 「信也を尊敬してたし、あんな風に生きられる人間の方が幸せなんだろうな、って思うと、羨ましくもあった。けど…俺は、いつも1つのことしか出来ない人間だから。欲張らず、一番やりたいことをコツコツやってきた今までの人生は、正しい選択だったと思う」
 「……」
 「本当に、そう思ってるからこそ―――俺は、負けたくなかった。信也にだけは」


 『和佳さんて、俺たちより1つ上だろ? お前も、そろそろ覚悟決めて、身を固めた方がよくないか?』
 あのレースの前日―――サーキット近くのホテルに宿を取り、近くの定食屋で遅めの夕飯を食べながら、信也に、そんなことを言われた。
 無論、涼自身、和佳との結婚を意識していない訳ではなかった。というより…ここ最近、そのことをいつも考えていた。和佳以上の女性には二度と出会えないだろうという確信があったし、信也の家庭を間近で見ていて羨ましく思う部分もあったから。
 でも、自分の夢のためだけに生きてるような今の自分には、和佳にプロポーズする資格などない、家族を守るだけの覚悟も、それだけの器も持っていないのに、「結婚」の二文字を無責任に口にはできない―――涼は、そう考えていた。
 自分の生き方を肯定しつつも、やはり、信也に対して、引け目のようなものを感じていたのかもしれない。何ということはない信也のこの一言に、涼は、なんだかプライドが傷つけられたような気分になった。
 『…俺だって、一応、考えてるよ』
 愛想のない涼の答えをポジティブな答えと受け取ったのか、信也は笑顔で続けた。
 『なんだよ、だったらさっさとプロポーズしちゃえよ。今度の日帰り旅行なんか、絶好のチャンスじゃないか。和佳さんの誕生日の花が一面に咲き乱れてる中でプロポーズしたら、キャリア志向の和佳さんだって、一発で落ちるぞ』

 コンディションは、最悪だった。
 脱落者続出が懸念される中、それでもレースはスタートし、第1コーナーを回ったところで、5台が先頭を争う形となった。そして、めまぐるしくトップが入れ替わる中で1台のマシンが飛び出し、それを追う形で涼と信也のマシンが抜け出した。2人は、激しい2位争いを繰り広げていた。
 1周目最終コーナーで、涼は、かなり強引に、信也のマシンを追い抜きにかかった。ほんの少しだけ、涼の中に、いつもより意地になっている部分があったのかもしれない。
 無理矢理抜こうとする涼と、それを頑なに許さない信也。そのデッドヒートの中で、涼のわずかなハンドル操作の狂いから、涼のマシンはコントロールを失い、信也のマシンに激突した。
 弾き飛ばされ、スピンした信也のマシンは、路肩の砂袋に乗り上げ、転倒。涼は、体のあちこちを骨折する羽目になった。
 そして、フェンスに激突した上に、後続のマシンにも追突された信也のマシンは、跡形もなく大破し―――首を骨折した信也は、帰らぬ人となった。


 「あんなことになるなら……負けた方がマシだった」
 涼の目に、みるみる涙が浮かんで、こぼれ落ちた。
 「レースでは絶対に信也に負けたくないって、ずっと、ずっと思ってた。俺が子供の時から唯一貫いてきたことだから、信也のように生きられなくても、レースにだけは絶対勝つんだ、って……でも……でも、信也は、俺の、たった1人の親友だ。一生、サーキットで一緒に戦っていく筈の、俺の……」
 「……」
 「信也を、失うくらいなら―――負けた方が、よかった」
 「…沢木さん…」
 腰を浮かせて身を乗り出した牧師は、爪が白くなるほど握り締められた涼の拳を、なだめるように、ぽんぽん、と叩いた。
 「あなたが後悔しているのは、ハンドル操作を誤ったことではなかったんですね」
 「……」
 「あなたは、信也さんに負けまいとした、その心を、“罪”と感じていたんですね」

 ―――そう…か。
 俺を苦しめていた罪悪感の正体は、これ、だったのか。

 誰もが涼に「お前のせいではない」と言ってくれた。
 コンディションが悪かった、運営は中止を決断すべきだった、真剣勝負の中の競り合いだったのだから仕方ない―――言われれば「確かに」と思うことができた。けれど、涼の中の罪悪感は、軽くなるどころかむしろ重くなる一方だった。その理由が、どうしてもわからなかったが……今、やっと、わかった。

 涼だけが、無意識のうちに、確信していたのだ。
 あの時、2位を争っていた相手が、信也でなかったら―――あの事故は、起こらなかった筈だ、と。
 信也にだけは負けたくない、と、意地になって無茶な勝負に出た。だからこそ、あの事故は起きた。涼だけが、知っていた。信也の命を奪ったのは、雨に濡れた路面でもコンマ1秒を争う接戦でもなく―――“自分の心”だったことを。

 半年間、どうしても形にならなかったものが、牧師の言葉を触媒にして、ストン、と胸の奥に収まるのを感じた。コクン、と頷いた涼は、大きく息を吐き出し、やっと顔を上げて牧師を見た。
 「…前に、人の生も死も、神の意思だ、って言ってましたよね」
 「ええ」
 「…俺は、レースで死ねたら本望だと思ってます。両親や和佳が悲しむことを思うと辛いけど…両親には姉貴や弟がいるし、和佳にもこの先たくさんの出会いがあると思うから…もし、レース中の事故で死ぬようなことがあっても、レースに懸けてきた自分の人生を後悔することは、多分ないと思います」
 「…ボクサーが“リングの上で死にたい”と言うのと、似てますね」
 牧師の言葉に、涼は一瞬だけ、微かに笑みを浮かべた。が、その微笑は、すぐに消えてしまった。
 「でも…信也は、違う。まだ4歳の誠也を残して、突然、この世を去るなんて…多分、俺じゃ想像できないくらい、心残りだったと思う」
 「…そうですね」
 「―――どうして、俺じゃなく、信也なんだろう」
 「……」
 「もし、本当に“神の意思”なんてものがあるんだとしたら…信也が死んで、俺が生き残ったことは、神の“どういう”意思なのか―――俺がすべきことは何なのかを、俺は知りたいんです」
 「―――…」

 涼の問いかけに、牧師は暫し、黙ったまま静かに涼の目を見つめていた。
 穏やかなその目に、困惑や迷いの色は見当たらない。だから涼も、彼が何か答えてくれるまで、目を逸らさずじっと待っていた。
 そのまま、1分ほども過ぎただろうか。牧師は小さく息をつき、静かな笑みを口元に浮かべた。その微笑は、何故か、今までの彼のものとは、何か少し違っているように涼には感じられた。

 「…昔語りを、ひとつ、聞いていただけますか」
 「…え…?」
 「古い…とても、古い話です。あなたに、話したくなりました」
 彼の意図が、よくわからない。怪訝に思いつつも、涼は頷いた。
 「…わたしの家は、特に信じる宗教も持たない家庭でしたが、母だけはキリスト教徒でした。母の母…つまり祖母がオランダ人で、熱心なキリスト教徒だったんですよ」
 「え、じゃあ…」
 涼が何故目を丸くしたのか、すぐにわかったのだろう。牧師は苦笑し、答えた。
 「そう、こう見えて、4分の1はオランダ人なんですよ」
 「そうだったんですか…」
 「祖母は、子供たちに信仰を押し付けるような人ではなかったけれど、唯一の女の子だった母は、母親を慕う気持ちから、自然と一緒に教会に通うようになり、キリスト教徒になったんだそうです。でも、彼女もまた、わたしや兄弟たちに信仰を強いることはしなかった。だから、わたしも昔は無神論者でした」
 そこで一息つくと、牧師は更に続けた。
 「わたしの父は地元の高校の教師で、評判もいい立派な人物でしたが、十代の頃のわたしは、そんな父と上手くいっていなかったんです。特に高校生になってからは、東京に出て美術を学びたいと望むわたしと、地元の大学に進学するよう説得する父との間で口論になることもしばしばで―――結局、わたしは、父と大喧嘩をした挙句、家を出てしまったんです」
 「家出…」
 この、穏やかな顔をした、神に仕える人物が―――若かりし頃の話とはいえ、想像し難いものがあった。
 「真夜中に家を出ようとしたところを、母に見つかって……けれど母は、何も訊かず、大学進学のためにと貯めていた金の一部を、わたしに渡してくれました。その金を手に、わたしは東京に出て、住み込みで働きながら貯金して、美術学校の夜間部に通いました。…今にして思えば、随分と無茶なことをしたものです」
 そう言ってくすっと笑うと、彼は、当時に思いを馳せるかのように、視線をどこか遠くへと向けた。
 「家族にも一切の連絡をしないまま、無我夢中で1年すぎ、2年すぎ―――3年経ったある日、わたしは、夜間部の友人と一緒に、絵の題材を探そうと、とある町を散策しに行きました。そこで、偶然見つけた教会で……母くらいの年代の女性が、祈りを捧げている姿を、見かけたんです。勿論、母ではありません。でも…何故か、酷く、胸騒ぎを覚えました。何かに衝き動かされるように、わたしは、家を出てから初めて、自分の家に帰りました」
 「え……」
 「…3年ぶりに帰宅したわたしを待っていたのは、母の死でした」
 「……」
 「その日の朝、家族全員を笑顔で送りだした母は、無人の自宅で倒れ、学校から帰宅した妹に発見されました。すぐに病院に運ばれましたが、意識の戻らぬまま、帰らぬ人となったそうです。…胃がんでした。わたしを含め、家族の誰一人、そのことを知らなかった―――後悔、しました。母が体を病んだのは、もしやわたしが原因なのではないか、もっと早く家に帰っていれば…いや、電話の1本もかけていれば、母は死ななかったのではないかと」
 そこまで言うと、彼は、はあっ、と大きなため息をつき、改めて涼に目を向けた。
 「母は、正しい人でした。神を信じ、神を敬い、夫に誠実に尽くし、子供には慈愛を持って接してくれました。なのに、何故、わたしたち子供より先に、あんな悲しい形でこの世を去らなければならなかったのか―――母が通っていた教会の十字架を前に、幾度も神に問いました。何故あなたは、従順なあなたのしもべに、このような仕打ちをするのか、と」
 「…それで…」
 答えは、あったのか―――涼が目で問うと、牧師は苦い笑みを浮かべ、首を振った。
 「“ヨブ記”において、何故このような目に遭わせるのだ、というヨブの問いかけに、主はお答えにならなかった。わたしの問いかけにも、そして―――あなたの、問いかけにも」
 「……」
 「…主のなされることは、時に、無慈悲にすら映ります。けれど…母の死に顔は、とても穏やかでした。何故母は、あのような顔で死を受け入れることができたのか―――生前の母は、何を思い、何を拠り所にして生きていたのか。…それを、知りたい、と思いました。母の思いに寄り添い、母が大切にしたものを大切にしていけば、何かが見えるかもしれない―――そう思って、わたしは、牧師になったのです」
 なるほど、それで―――芸術家を目指していたというのなら、何故今、牧師などという立場になっているのだろう、と不思議に思ったが、キリスト教徒だった母の死がきっかけであるなら、なんとなく腑に落ちる。
 「主が、母や信也さんを天に召されたのは何故なのか……それは、わたしたち人間がいくら考えてもわからないでしょう。でも、主のおられる場所から眺めれば、何か意味があるのだと、わたしは信じます。もしかしたら、こうしてわたし自身が母の思いに寄り添うことこそが、神の御意思だったのかもしれません」
 「……」
 「沢木さん」
 牧師は、考え込むような目をした涼を真っ直ぐに見据えると、勇気付けるかのようにニコリと笑った。
 「主は、罪を認め、悔いている者に、罰を与えるようなことはしません。もしあなたが、自分が不幸になったり傷ついたりすることを“神の御意思”だと思っているのなら、それは間違いです」
 「……」
 「主はあなたに、“もっと生きよ”と言われた―――だから、もし、これから先に1つでも、今までのあなたでは成し得なかったことを成し、感じられなかったものを感じられたら、それこそが“神の御意思”であったのだと考えれば、それでいいのです」

 今までの自分では成し得なかったことや、感じられなかったもの―――…?

 「信じましょう。あなた以外の目にどう映ろうとも―――あなた自身が救われれば、それが、神があなたに示した御意思なのだ、と」


***


 子供たちの賑やかな声が聞こえる。
 昨晩からの急激な冷え込みは、日中になっても続いていた。歩くたび、冷たさが脚の骨にジンと伝わり、癒えきっていない傷を疼かせた。
 誠也が通う幼稚園は、ちょうど、親が次々に迎えに来る時間帯で、幼稚園の正門前には何組もの親子連れがいた。あまり長い時間幼稚園の周辺をうろつくと、不審者と間違われてしまうかもしれない、と思ってこの時間を選んだが、もしかしたら、判断ミスだったかもしれない。
 もう帰ってしまっただろうか、と焦りかけたその時―――正門をくぐって出てきた親子連れを見つけ、涼の足が止まった。
 「あっ、クルマのおじちゃん」
 琴絵より早く、誠也が涼の顔を見つけた。一瞬遅れて涼に気づいた琴絵は、さっと顔を強張らせ、その場に立ち竦んだ。
 本当は、琴絵が迎えに来る前に、誠也にだけ会って手渡せれば、ベストだったのだが―――こうなった以上、仕方ない。琴絵と話をするいい機会と思えばいい、と思い直し、涼は2人のもとへ歩み寄った。
 「…こんにちは、誠也君」
 「こんにちは」
 昨日の件が、まだ響いているのだろう。誠也はあまり元気がないようだった。涼まで暗い顔をしては意味がない。涼は、努めていつもの笑顔を作ってみせた。
 「昨日は、悪かったね。せっかく喜んでくれたのに、あんなことになってしまって」
 「…ううん」
 誠也の目が、チラリと琴絵の様子を窺う。琴絵に叱られるのを心配しているらしいが、当の琴絵は、硬い表情のまま押し黙っていた。
 「おじさんが、先にお母さんに相談しなかったのがいけなかったんだよ。だから―――今日、もう1回、プレゼントを持ってきたんだ」
 「えっ」
 「赤の、スポーツカーだよ」
 そう言って涼が差し出した紙袋の中には、昨日、琴絵が突っ返したあのラジコンカーが入っていた。途端、誠也の顔がパッと明るくなり、逆に琴絵の顔に困惑したような迷惑そうな表情が浮かんだ。
 「でも、いいの?」
 「いいよ。誠也君のためのプレゼントだから」
 「沢木君、それは…」
 口を挟もうとする琴絵に、涼は、昨日言えなかった一言を告げた。
 「信也が選んだんだ」
 「えっ?」
 「レースの前日、信也が俺に言ったんだ。誠也と約束したって」

 『実家で、俺が子供の頃遊んでたラジコンカー見つけて、妙にそれが気に入ったみたいでな。ボロボロだし、動きも悪いから、今年の誕生日に新品をプレゼントしてやろうと思ってこの前1人で下見に行ったんだけど―――いやぁ、高い高い。ピンキリだけど、俺が気に入ったやつは、子供のおもちゃレベルの値段じゃないのばっかだよ。まだだいぶ先だから、暫くは小遣い切り詰めて貯金しないと』

 苦笑しながら、でも幸せそうに、信也はそう言っていた。
 「だから―――これは、本当に、信也からのプレゼントなんだよ」
 「……」
 琴絵の顔に、動揺の色が走る。迷うように瞳を揺らした琴絵は、やがて、涼が差し出している手提げ袋に、そっと手を伸ばした。
 「…誠也」
 「えっ」
 「ママ、ちょっとおじさんとお話があるの。少しの間、マー君と遊んでてくれる?」
 「…でも…」
 誠也の目が、チラチラと手提げ袋を盗み見ている。苦笑した琴絵は、誠也の頭を軽く撫でた。
 「大丈夫よ。プレゼントはママが受け取っておくから、おうちに帰ってから開けなさい」
 「うん!」
 嬉しそうに笑った誠也は、友達がいるらしき教室の方へと、あっという間に駆けて行ってしまった。
 「いつもはマー君のお母さんが迎えに来るまで遊んでるのに、今日は先に帰ろうとしちゃったから、気にしてたのよ、あの子」
 どんどん遠くなる背中を見送りながら、琴絵がそう説明した。どうやら、さっきの誠也の暗い顔は、昨日の一件だけのせいではなかったらしい。
 「―――昨日は、ごめんなさい。酷いこと言って」
 琴絵同様、誠也の背中を見送っていた涼は、ふいに、琴絵のそんな言葉を聞き、慌てて琴絵に目を向けた。
 気まずそうな顔をした琴絵は、涼と目が合うと、小さくため息をつき、僅かに視線を落とした。
 「…お義母さんも言ってたとおり、あたし、ちょっと疲れちゃってて…。慣れない同居で気詰まりなことも多いし、実家は実家で兄さん夫婦がいて落ち着かないし。早く仕事を見つけたいけど、なかなか決まらなくて…」
 「…信也の会社に、何とか頼めないのか?」
 「全然。あんまり対応が冷たいから、頭にきて、遺族に許された猶予期間を過ぎる前に社宅を出ちゃったくらいだもの。大手メーカーならではの待遇も、信也がいたからこそよ」
 自嘲気味にそう言うと、琴絵は疲れたように、大きなため息をついた。
 「…あたしたちが、どれほど信也に守られてたのか…今更ながら、身にしみて実感するばかりよ」
 「……」
 罪悪感に、ズキン、と胸が痛む。
 「すまない。俺のせいで…」
 涼が言いかけると、琴絵はハッとしたように顔を上げ、慌てて首を振った。
 「ち、違う、沢木君を責めてる訳じゃ…」
 「いや、恨まれて当然だ。事故のきっかけを作った側の方が被害が少ないなんて、」
 「違うのよ。昨日、あんなこと言っちゃったのは、そういう意味じゃ―――…」
 そう言うと、琴絵は辛そうに眉根を寄せ、目線を落とした。
 「―――…生前、信也が、よく言ってたの。沢木君は凄い、それに比べて、自分はずるい、って」
 「……え?」

 凄い? 自分が?
 その上、信也が、ずるい?

 どちらも涼には初耳な言葉だ。驚いて目を丸くすると、琴絵は更に続けた。
 「努力しなくてもまあまあいい成績が取れたし、不得意な科目も少なくて、敵を作ることもほとんどなく、好き嫌いもあまりなかった。だから、必死に努力したり、誰かに嫌われたりするのを面倒がって、いつも楽な方へ、楽な方へと流れてきたする……そう、言ってた。何を学ぶかより偏差値で学校を選んで、何をするかより知名度と安定性で就職先を選んで、どんなチームであるかより維持運営の苦労の少なさで所属するレーシングチームを選んで―――そういう、より“無難”な道を選んできたにすぎない、その方が、楽ができるから、…って」
 「……」
 「…もし、子供の頃夢見たように、レーサーとして活躍しようとするなら、たくさんの苦労をしなくちゃいけない…親と言い合いにもなるし、あたしとも喧嘩になるだろうし…いい成績を収めるためには必死に練習しなくちゃいけない。自分は、そういう苦労を嫌って、いつも“こんなもんでいいか”と妥協してしまった、って」
 「……」
 「でも、沢木君は、違う。世間的なイメージなんかに振り回されずに、ちゃんと自分の進むべき道を見つけて、自分が避けてしまったような苦労も厭わずに、こつこつ、こつこつ、努力を積み重ねて―――合格率の低い難しい資格も取ったし、職場でもチームでも欠かすことのできない人間になった。所詮アマチュアレベルだ、なんて言い合ってた筈の実力も、いつの間にか全国大会の上位に食い込むほどになってた」
 そこで言葉を区切ると、琴絵は顔を上げ、疲れたような笑みを微かに浮かべた。
 「あいつは、凄い。欲張りで八方美人な自分は、あんな風には生きられない。今、幸せだから、自分の選択を後悔はしていないけど―――沢木君のように生きられたら、って時々思うって…そう、言ってたの」
 「……」
 琴絵の言葉は、到底、すぐには信じられるものではなかった。
 自分の選択に、後悔はないけれど、あんな風に生きられたら―――それは、まさに涼が信也に対して抱いていた思いだ。なのに、それと全く同じ思いを、信也が涼に対して抱いていたなんて……そんなことは、想像すらしたことがなかった。
 言葉を失い、ただ呆然とするばかりの涼の様子に、琴絵は視線を、どこか遠くへ向けた。
 「彼、あのレースのために家を出る時、1周でも2周でも構わないから、沢木君の前を走りたい、って言ってたの。実力差が開きすぎて、次にいつ同じレースで勝負できるかわからないから、って」
 「信也が…」
 思わず涼が呟くと、琴絵は涼の顔を見、悲しげに目を細めた。
 「…事故の詳しい状況を聞いてみたら、信也は最後まで、あなたに抜かせまいとして、スピードを落とさなかったんですって。ブレーキを踏んだのは、あなたのマシンと接触して、コントロールを失った後だったそうよ」
 「……」
 「事故を起こすまで、あたしや誠也のことは考えてくれなかったのかな、って―――そう思ったら、沢木君が恨めしくなったの。だって、最後の瞬間まで信也を走らせていたのは、沢木君ていう存在だったんだもの」

 最後の、瞬間まで―――…。


 ―――お前もなのか? 信也。

 俺が、お前にだけは負けたくない、って思ってたように―――お前もあの時、俺にだけは負けまいとしてたのか?


 と、その時。
 「危ない―――!!!」
 誰かの悲鳴のような声が、突如、辺りに響いた。
 驚いて振り返った涼が見たのは、車道のど真ん中で立ち竦んでいる、ピンク色のボールを抱えた小さな女の子の姿だった。
 ボールを追って、車道に飛び出してしまったのだろう。突如あがった悲鳴に、女の子自身もビックリしてしまったらしく、まるで棒切れでも呑み込んだような顔をして、完全に固まっている。そんな彼女めがけて、1台の自家用車が近づいてきていたのだ。

 考えるより早く、体が動いていた。
 けたたましいクラクションを聞きながら、涼は、ラジコンカーの入った袋を放り出し、女の子のもとへと駆け出した。
 琴絵が、悲鳴をあげたような気がする。それ以外の誰かも、悲鳴をあげたような気がする。急ブレーキの音が響く中、涼は、辛うじて女の子を抱え、ラグビーのタッチダウンか何かのように、歩道へと飛び込んだ。

 ガン、と、鈍い音がしたかと思うと、全身に激しい痛みが走った。
 うわ、失敗した―――どこかで頭を打ったな、と本能的に察すると同時に―――世界は、闇に、包まれた。

 

 ―――…真っ暗だ。
 上も、下も、わからない。何も聞こえない。俺1人だ。

 …俺、死ぬのかな。
 死んだら、あいつに会えるかな。
 会って、一言、言えるかな。ごめん―――お前が生きるべきだったのに、俺が生き残ってしまって、ごめん、って。

 …和佳…。
 こんな風に死ぬんだってわかってたら、この前会った時、もっといろんなことを話しておけばよかった。
 信也が連れて行ってくれるって言ってた、スノーフレークの群生地―――あれがどこにあるのか、2人で探しに行けばよかった。

 和佳―――もう一度だけでいいから、お前に、会いたい。

 

 『涼が怪我をするのも死ぬのも嫌だけど、命がけの勝負に出る時の涼は、最高に輝いてるわよ。思わずカメラに収めたくなる位にね』

 

 和佳の鮮やかな笑顔が脳裏に浮かんだ、その時―――頬に、ヒヤリと冷たいものを、感じた。
 1つ、また、1つ……その冷たいものは、涼の額に、鼻に、瞼に、冷たい足跡をつけていく。その冷たさに、涼は、目を開けた。

 開いた目に映ったのは―――雪。
 音もなく静かに、次から次へと舞い降りる、天使の羽根にも似た、白い……白い、雪だった。


 ―――…あ…、

 雪の結晶(スノーフレーク)、だ。


 今年初めて降る、雪。次から次へと舞い降りては、視界を白一色に埋め尽くしていく。その様は、まだ見たことのないあの場所を思わせた。


 『来月のレースが終わったら案内してやるよ』


 …信也…?
 もしかして、お前―――約束を守りに、来てくれたのか…?


 そして、再び…涼の意識は、闇に落ちていった。


***


 「ドジ」
 「…面目ない」
 ベッドの脇に立ち、呆れ顔で罵る和佳に、涼はボソリとそう返した。
 人助けをしたというのに、ボロボロな言われようだが、今回ばかりは涼も大人しく詰られ続けるしかない。大事故で重症を負い、その傷がやっと癒えてきたと思ったら、またこのありさまなのだから。
 あの後、涼は再び気絶してしまい、幼稚園の園長が呼んだ救急車によって、近くの病院へと運ばれた。パニック状態になった琴絵が、泣きながら和佳に連絡を入れ、驚いた和佳も慌てて病院に駆けつけた。
 ところが、和佳が病院に到着する頃には、涼も目を覚まし、ケロリとした顔をしていた。しかも―――…。
 「意識が戻らない、って聞いて頭が真っ白になったってのに―――熟睡してた、ってどういうことよ」
 「…はい」
 「バカ」
 「…はい」
 病室に飛び込んできた時の、和佳のあの真っ青な顔を見てしまった後では、何を言われても反論できない。好きなだけ罵倒してくれ、といった気分だ。
 救急車で運ばれた涼は、どこかの時点で気絶から熟睡に移行したらしく、よく眠ってスッキリした分、今朝より今の方が元気なくらいだった。脳波に異常もなく、診断結果は「全身の軽度の打撲」で済んだのだが、頭を打っているし前回の怪我に何か影響してしまっている可能性もあるので、念のため一晩入院する羽目になってしまった。
 「レースに関してはある程度覚悟ができてたけど、まさか、こんな形でまた入院騒ぎになるなんて、思ってもみなかったわよ。アマとはいえ、仮にもレーサーが、一般公道で事故死なんて、笑い話にもならないわよ」
 「…全くだ。俺も、考えてもみなかった」
 「そもそも、睡眠不足で反射神経が鈍ってるから、受身がとれずに縁石に激突したりするのよ。短時間でも熟睡できるのが特技な筈なのに、一体どうしたの?」
 涼が昨晩あまり眠れなかったらしいと知り、その理由が気になるらしい。和佳は、ちょっと心配げに眉をひそめた。
 が、涼はそれに答えず、いささか唐突に和佳に訊ねた。
 「なあ。…今度の日曜って、時間、空いてる?」
 「日曜? ああ…、うん、別に予定は入ってないけど?」
 「じゃあ、日帰りで、ドライブに行かないか」
 「いいけど……何、どうしたの、急に」
 怪訝な顔をする和佳に、涼は、何も答えず、ただ笑みだけを返した。


 今日、生まれて初めて、死にたくない、と思った。
 いつ死んでも後悔はない、と思っていた筈なのに、何故か―――死ぬのが、怖くなった。和佳を残して、死ぬことはできないと……そう、思った。
 涼の中で、何が変わったのだろう?
 信也の死が、涼を変えたのだろうか? それとも、信也が何を考えていたかを知ったことが、涼を変えたのだろうか?
 …わからない。わからないけど、最後の瞬間、必死の思いでブレーキを踏んだ信也が、きっと抱いたであろう、想い―――その一端を、涼も今日、垣間見た気がした。

 もしかしたら、これが、神の意思だったのだろうか。
 これを教えるために、神は、あえて涼を生き残らせたのだろうか。
 さっき、和佳の顔を見た時、涼が真っ先に思ったことは―――「生きていてよかった」ということだった。


 残してはいけない者のいる人生。そんな人生など、自分には似合わないと、ずっと思っていたけれど。
 死ぬのが怖くなった分だけ、生きていることが、嬉しくなったから。

 今度の日曜日、信也が言っていた、和佳の誕生花が咲き乱れる場所を、探しに行ってみようと思う。
 そして、真っ白なスノーフレークに囲まれながら、和佳に言おうと思う。不器用な生き方しかできない自分だけれど―――死ぬまで、和佳と、一緒にいたい、と。


2400000番ゲットの高校教師さんのリクエストにおこたえした1作です。
ご希望は、「感動して泣ける」。むむ……難しい。あざとい話なら書けそうだけど、意外に難しいですよ、このリクエスト。まあ、泣けるかどうかは個人差があると思いますので微妙ですが、とにかく感動系…か、な?そ、それすら微妙?あらら、どうしようかしら(ぉぃ)
何故か突如、文章の神様が降りてきて「さあ書け」と言ったので、書いた。真相はそれに近いです。そのせいか、やけに牧師さんが活躍しています。牧師さんの人柄が影響して、全体的にじんわり優しい感じの話になった気もします。


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