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Stockholm

 

 これが悪夢なら、今すぐ覚めて欲しいと思った。


 「なんだ。意外にあっけないな」
 足元に転がった、もう動かない人間をつま先で小突いて、男は拍子抜けしたようにそう言った。
 一瞬の出来事だった。
 いつも大学帰りに護衛をしてくれる、身長190センチ、体重100キロ超のボディガード。バチッ、と音がしたと思ったら、それで終わり―――体を痙攣させて、地面に崩れていた。あっけない……本当に、あっけなかった。
 「…さて、お嬢ちゃん」
 ボディガードをスタンガンで捻じ伏せた男は、背後から別の誰かに羽交い絞めにされている私に目を向けた。
 「なんでコレであんたを倒さずに、こっちのウドの大木だけ倒したのか、不思議に思ってるだろ」
 「……」
 答えられる訳がない。私は今、口を塞がれている。それでも、私の疑問は視線から伝わったらしい。男はニヤリと笑い、倒れているボディガードの傍らに膝をついた。
 「あんたには、俺達の目的が果たされるまで、生きててもらわなきゃならない。それに俺達は、女子供は殺さない主義だ。大人しく言う事を聞いてもらうためには―――俺達の本気の度合いとやらを知ってもらわないとなぁ」
 「……っ!」
 やめて。
 叫びそうになったけれど、声が出なかった。
 男が笑いながら懐から取り出したのは、明らかに拳銃だった。彼はそれを、動けないボディガードのこめかみに突きつけた。

 “その瞬間”は、反射的に、目を瞑った。
 サイレンサーのついた拳銃は、気が抜けるほど軽々しい音しかしなかった。

 「さて――― 一緒に来てもらおうか」


 こうして私は、誘拐された。


***


 目が覚めると、車の中だった。
 さして大きくない車の後部座席に、私は投げ出されていた。なんだか腕が重い、と思ったら、両手首に頑丈そうな手錠が嵌められていた。
 「……」
 のそり、と、体を僅かに起こす。手錠についた鎖がジャラリと音をたてた。薄暗くて見えないけれど、手錠と手錠を繋ぐ鎖に、更にもう1本、鎖がついているらしい。その先がどこへ伸びているのかまでは、混乱した頭と暗さに慣れない目ではわからなかった。
 「気づいたかい」
 運転席から声がした。その声に、背筋が冷たくなる。
 あの男、だ。笑いながら人の頭を撃ち抜いた、あの男―――…。
 「い…いや…っ」
 半ばパニック状態になって、シートの上で身じろぎする。けれど、手錠から伸びた鎖にあまり“遊び”がないのか、シートの背もたれに背中をくっつけたところで、鎖が伸びきり、動きがとれなくなった。
 「おいおい、どこへ逃げようってんだい、え? 走ってる車から飛び降りても、怪我するか死ぬかのどっちかだぜ」
 「……」
 「大人しくしてりゃ、あんたは殺さねぇよ。勿論、騒いだり逃げようとしたら、あの大男同様、額に1発ズドン! だけどな」
 「こ…殺さないで…」
 怖くて、涙が出てくる。哀願する声も震える。
 ただの脅しとは思えない。だってこいつは、私の目の前で1人、実際に殺している。私を誘拐するために、抵抗する力を奪われて倒れてるだけだったボディガードを、笑いながら殺したんだ。
 歯向かったら、絶対、殺される―――それが一番怖かった。
 「殺さないで…っ。お、お願いっ」
 「はいはい、殺さねーよ。だから大人しくしてな」
 男はどうでもよさそうにそう言うと、それっきり、黙ってしまった。話をするのが面倒そうなその口調に、これ以上何か言えば男の不興を買う気がして、私も唇を噛んで黙る以外なかった。

 なんでこんな目に遭っているんだろう。
 彼の目的は何なんだろう。
 今この車はどこへ向かって走っているんだろう。
 頭の中で、いろんな疑問がグルグル回る。でも、その疑問が、口から出てくることはなかった。詮索しても、殺される。そんな気がした。
 私は、泣き声を必死に飲み込み、震えながら後部座席に転がったままで過ごした。

 

 それから、どの位の時間、走っただろうか。
 窓の外はとっくに暗くなっていた。時折、転がったままの位置からでも見えるネオンや外灯が窓を掠めるたび、車の中が一瞬明るくなる。その様を、私は半ば放心状態で、何も考えずに見ていた。
 やがて、車がどこかに入った。
 明るい蛍光灯、僅かに見えるコンクリートの壁。何かの施設の駐車場らしかった。
 「降りるぞ」
 男の声と同時に、手錠に繋がれた鎖がぐいっ、と引かれた。
 抵抗もままならず、そのまま体を起こす。先に運転席を下りていた男は、運転席側の後部ドアを開け、腕を伸ばして鎖を短く持ち替えた。
 よろめくように車外に出ると、やはりそこは、駐車場だった。あまり広くはないが、止まっている車はまばらだ。一番奥の蛍光灯が切れかけていて、不吉な点滅を繰り返していた。
 男は、手錠の嵌った私の両手に上着を被せた。彼は上着を着たままなので、また別の上着が用意されていたらしい。
 「中で握ってろ」
 「……」
 逆らう気力は、なかった。言われたとおり、上着の一部をしっかり握る。すると男は、握っていた鎖の端をズボンのベルトに通し、余分な長さをズボンのポケットの中に入れた。
 肩を抱かれ、ぐい、と引かれる。有無を言わさず、私は駐車場の奥にあるドアへと連れて行かれた。
 ―――…なんか、怖い。
 嫌な予感がする。あそこへ入っちゃ駄目だ。そう思うけれど、体はいうことを聞かない。1歩、1歩、私の意志とは無関係に踏み出される足は、力が入らず、絶えずガクガクと震えていた。
 ドアを開けた先は、ホテルの廊下みたいな所だった。人目を避けるためか、男は、やたら早足で私を急かした。
 「ほら、ちゃんと歩けよ」
 そんなの、無理。
 必死に首を振るけど、無駄だった。舌打ちをした彼は、力づくで私を連れて行き、長い廊下の先にある部屋に押し込んだ。
 ガチャリ、と鍵のかかる音が背後でしたと思ったら、男は私の背中を押し、否応なしに部屋の中へと押しやった。
 「…ッ、な、何、するのっ」
 よろけた私は、あっけなくベッドの上に突き飛ばされた。男に押し倒されて初めて、頭の一部がヒヤリと冷たくなった。
 「い…いや! お願い、助けてっ! こ、こんなことしなくても、私、あなたのこと警察に言ったりしないっ、言ったりしないから…っ!」
 「うるさい、黙れ」
 「いや! レイプされる位なら、死んだ方がマシよっ!」
 「ああ、そうかい! そんなら死んでみるか? え!?」
 鋭くなった男の目に、声が、出なくなる。

 こめかみから血を流して倒れているボディガードの姿が、嫌になるほど鮮やかに、脳裏に蘇る。
 …死んだ方がマシだ。本当に。でも―――レイプされたからって、死ぬ訳じゃない。

 悔し涙が、両目から溢れる。
 私が観念したのを察したのか、男はため息をつき、腕を掴む力を少しだけ緩めた。
 「勝手に妄想してんじゃねぇよ。写真を撮るだけだ」
 「……」
 「あんまり怒らせんなよ。でないと、ほんとにヤるぞ」
 再び目を鋭くした男は、まるで事務作業をやるかのような淡々とした態度で、私のセーターを乱暴にたくし上げた。

 レイプされずに済むと聞かされて拍子抜けした私は、その瞬間は、「たかが写真」と思った。
 けれど、それからの時間は、人生最大の屈辱の時間だった。
 手錠をかけられたまま、服を半端に脱がされて転がる私は、まるで犯された後みたいに見えたに違いない。あまりの格好に再び逃げ出そうとして、男にしたたか殴られた。むき出しにされた体は、隅々まで写真に収められ、口の端から血を流した私の顔も、容赦なくフラッシュに晒された。
 しかも男は、更に、信じられないことを私に強要してきた。

 「さっさと口開けな」
 「……」
 あまりのショックに、言葉が出ない。無言で首を振ると、苛立ったように男に髪を掴まれた。
 「ほら、さっさと開けよ」
 「い、いやっ、絶対いや!」
 「じゃあ本当にヤられた方がマシか? 一流大学に通ってる彼氏がいるんだってな。その前はどこぞの御曹司だったか。それ以外にも結構派手に遊んでるって聞いたぜ。さすがはお嬢様、口じゃ物足りないってか。え!?」
 「……」
 「それともまた“死んだ方がマシ”か」
 男の言う通りだ。私は、男性関係は派手だ。彼氏じゃなくても、コンパなどで気が合った人と平気で遊んだりしていた。そんな素行も知られていたなんて―――何をどこまで知っているのかわからない男に、改めて背筋が冷たくなった。
 ―――こんな、こと…別に、初めてでもなんでも、ないし。
 死ぬよりはマシだと、割り切ることにした。
 望みもしない淫らな行為をさせられる私の姿も、当たり前のように、カメラに収められた。ネットに流したりする目的だったら、どうしよう―――吐き気に耐えながら、ずっとそんなことを考えていた。口や顔を汚されることはなかったが、そんな姿を撮られなくてまだラッキーだった、と思うのはさすがに無理だった。

 「おい」
 全てが終わり、呆然とする私に、男は小型のボイスレコーダーを突きつけた。
 「親父に、助けを求めろ」
 「……」
 引きつったような泣き声しか、口からは出てこなかった。その口元に、男は更にボイスレコーダーの内蔵マイクを押し付ける。
 「せいぜい惨めそうに、哀れそうに訴えろよ。あんたの演技次第で、家に帰れる日が早まるかもしれねーんだ」
 それでやっと、朧気ながら、男の一連の行動が繋がった。
 私は、パパを脅すために、誘拐されたんだ―――男の目的は、パパなんだ。
 カチリ、と、ボイスレコーダーのスイッチが入る。
 ほら、と目で促され、私は、震える唇を開いた。
 「…パ…パパ、助けて…っ」
 ひくっ、と、喉が震える。ひきつけを起こしたように何度もしゃくりあげながら、私は必死に訴えた。
 「パパ、お願い…っ、私、酷いことされたのっ、こ…このままだと、し、死んじゃう、殺されちゃうっ。お願いパパ、早く助けて……!」


 脅すための材料を全て手に入れると、男は手錠を外し、私をバスルームに突っ込んだ。
 服を脱ぎ、シャワーを浴びている間、私はずっと放心状態だった。何を考えればいいのか、これからどうすればいいのか、何ひとつ頭に浮かんでこなかった。
 バスルームから出ると、バスローブを着せられ、また手錠をかけられた。ベッドに私を寝かせた男は、手錠から伸びる鎖の端を、重たそうな備え付けのデスクの脚にくくりつけた。
 私を置いて、男はシャワーを浴びに行ってしまったが、手錠を外したり、鎖を解いたりするのを試みるだけの気力は、もう私にはなかった。ベッドの端ギリギリに寝転がったまま、ぼんやりと、壁に映る自分の影を見つめ続けた。

 ―――殺してやりたい。

 バスルームから聞こえる水音に、ふつふつと、殺意が湧いてくる。

 許せない、許せない、絶対絶対殺してやる。
 いつ殺してやろう、どうやって殺してやろう―――私はこの日、一睡もせずに、一晩中そんなことをずっと考えていた。


***


 ―――コン、コン、

 遠くで、ノックの音が聞こえた。
 ハッ、として、目を開ける。ベッドがきしみ、背後にいた筈の重みがなくなる気配に、私はいつの間にかウトウトしていたらしいことに気づいた。
 虚ろな目に、何かを手にドアへと向かう男の背中が映る。
 魚眼レンズでその顔を確認した男は、ドアを開け、来訪者と何やら話を始めた。もしかしたら、昨日、私を羽交い絞めにしていた男かもしれない、持って行ったのは昨日の写真と録音テープかもしれない―――ぼんやりする頭の中で、そんなことを考える。
 男と来訪者の会話は、ものの2、3分で終わった。ガチャリ、と鍵のかかる音がして、男はまた戻って来た。その手に、ボストンバッグを持って。
 「なんだ、起きてたのか」
 「……」
 男の顔をしっかり見たのは、これが初めてかもしれない。
 昨日は恐怖のあまり、見てはいてもその顔をきちんと認識するだけのゆとりがなかった。ボディガードに拳銃を突きつけた時の冷ややかな笑いと、私を陵辱した時の妙に冷静な目以外、昨日の彼を思い出そうとしても何も思い出せなかった。
 男は、30前後だろうか。意外に若かった。目を見張るほど美男子でもない代わりに、生理的に嫌になるほど醜くもなかった。案外、普通―――それが、男に対する私の印象だった。
 男は、ボストンバッグを床に放り出すと、冷蔵庫からビールを1缶取り出した。
 「…私…、どうなるの」
 ベッドの上に転がったまま、力なく訊ねる。
 「昨日言っただろ。俺達の目的が果たされるまでは付き合ってもらう」
 そう言って男は、ビールをあおった。喉が渇いている私には、男が喉を鳴らす音が、妙に羨ましく感じられた。
 「あんたも、少しは知ってんだろ? あんたの親父が、裏で何してるか」
 「……」
 「相当悪どいことをしてるぜ、あの男。俺達はいわば、その被害者だ。だから、あんたが誘拐されたって、絶対に警察には届けねーよ。犯人の心当たりを訊かれたところで、困るのはあっちの方だからな」
 口から出まかせ、とは、悲しいけれど、思えなかった。
 パパは、一流企業の社長をしていて、政財界とも関係が深い。でも…それだけじゃないことは、少し前から漠然と気づいてた。でも私は、その件をわざと考えないようにしていた。考えるのが怖かったから。
 「俺達を消しにかかるか、要求に応じるか、だ。…こっちも命かかってるから、頭使わねーとな」
 吐き捨てるように言うと、男は残りのビールを全部飲み干した。そんな姿を見ていると、余計、喉が渇く。
 考えてみたら、誘拐されてから今まで、飲まず食わずだった。おなかが空いてて当たり前の筈なのに、空腹感はまるでなく、むしろ吐き気の方が強い。唯一、喉の渇きだけが、命を繋ごうとする本能が発してるシグナルのように思える。
 男は、ビールの缶を握りつぶすと、無造作に冷蔵庫の上に置いた。その動きを目だけ動かして見ていた私は、力の入らない体に鞭打って、なんとか口を開いた。
 「……の…ど…、渇いた」
 たったこれだけの言葉を口にするのも、困難だ。
 無視されたら、どうしよう―――そう思ったけれど、男はあっさり、冷蔵庫からウーロン茶の缶を出し、私の目の前に放り投げた。
 ズルズルと体を起こし、缶を握る。手錠の左右を繋ぐ鎖は肩幅程度の長さしかないので、たかがプルトップを引くだけの作業も大変だ。それでもなんとか缶を開け、顔の方を缶に近づけるようにしてウーロン茶を飲んだ。
 「着替えと食い物の差し入れがあった。…支度ができたら、出るぞ」

 私に、拒否権などある筈もなかった。


***


 誘拐2日目。
 私の指定席は、やっぱり後部座席らしい。寝転がった私の手は相変わらず手錠で繋がれ、鎖の先はどこに続いているのか見えない。多分、少しでも動けば男にその動きが伝わってしまうようになっているのだろう。私が動くたび、運転席の男がこちらを窺うような気配がした。
 狭い車内で、男は、ほとんど話さない。時々煙草を吸うために窓を開ける。あんな無茶苦茶をする奴なのに変なところで潔癖症だな、と頭の片隅で思った。
 私も、何も話さない。訊きたいことは一杯あったけど、訊けるムードでも気分でもなかった。パパは今頃どうしているだろう、ママは泣いてるだろうか…そんなことを考えながら、どうすれば男の隙をついて逃げられるか、そればかりを頭の中で模索していた。
 男には、隙がない。
 パパが関わっているらしい「裏社会」の人間なのだろうか。その割に、時々家に出入りしていた怪しげな連中とは、風貌も服装も随分違う。やっている事はれっきとした犯罪だが、男の風貌は一見、普通の会社に勤める当たり前の会社員のように見える。でも…その割に、隙がなさすぎる。
 ―――何者なの。この人。
 当たり前すぎる疑問をやっと持てたのは、昨夜泊まったホテルを出発してから3時間ばかり経った頃だった。

 車が、止まった。
 「ど…どこ、行くの」
 男が何も言わず車を降りようとするので、思わず上半身を浮かして訊ねた。
 「昼飯を買ってくるんだよ。あんたはここにいろ」
 「…ト…トイレ、行きたいんだけど…」
 実は少し前から、それが言いたくて仕方なかった。まさに最高のタイミングで車が止まってくれたのだ。舌打ちした男は、昨日ホテルに入る時と同じようにして、私を車外に連れ出した。
 視界に入った風景は、全く見覚えのない風景だった。
 さびれたドライブインが1軒あって、併設して公設らしきトイレもある。昼食時を過ぎているのか、人影はほぼゼロ―――がっかりしたような、ホッとしたような、複雑な心境になる。
 私が用を足す間も、男は鎖を放す気はないらしい。ジャラジャラと彼のポケットから出てきた鎖は、予想外の長さがあった。
 「俺は入り口で待ってる。一番手前の個室に入れよ」
 「…空いて、なかったら?」
 「そのまま戻って来い」
 そんな、無茶な。
 けれど、ここでも私には拒否権はない。おずおずと女子トイレに入ると、幸い、中には誰もいなかった。ここでも私は、がっかりしたような、ホッとしたような気分になった。
 用を済まし戻って来た私を、男は車に戻し、鎖をどこかに固定した。そして、今度こそ1人で出て行った。

 1人きりの車内で体を丸めながら、ますます複雑な心境に陥る。
 たとえば、さっきのように外に出た時、大声で助けを求めれば―――通りかかった人が、今、偶然車内を覗き込めば。そうすれば、助かる筈だ。…いや、助からないかもしれない。最悪の場合、死人が更に増える。ボディガードを殺したように、男は目撃者も殺すかもしれない。
 それに、この手錠で繋がれた姿を人目に晒すのも怖い。さっき、人がいなくてどことなくホッとしたのは、この異常な状況を誰かに目撃されるのを、私のプライドが恐れたからだ。
 ―――バカ、プライドなんて言ってる場合!? 命がかかってるのよ。さっさと助けを求めるべきじゃないの!
 …でも、失敗したら? 私に関わったばっかりに、罪もない人が殺されちゃったら? 挙句に逃げることができずに、今度こそ完全に怒った男に、もっと酷い仕打ちをされてしまったら……?

 そんな私の葛藤は、そう長くは続かなかった。
 イチかバチか、体を起こして窓を叩く位はしてみようか―――やっとそう思いかけた時、運転席のドアが開いたのだ。
 「食え」
 「……」
 男が、白いビニール袋を、後部座席に突き出す。
 おそるおそる受け取り、中身を確認すると、そこにはおにぎりが2つとペットボトルのお茶、菓子パンが1つ入っていた。どうやら男は、私を餓死させるつもりはないらしい。
 男も運転席に戻り、何やら自分用に買ってきたらしいものを、無言で食べ始めた。実際、空腹を覚え始めていた私は、与えられたものを大人しく食べる道を選んだ。

 そう―――焦ることはない。
 少なくともこの男は、私の生理的欲求を無視して連れまわすような真似はするつもりがないらしい。何をされるかわかったもんじゃないけど、とりあえず、大人しくしている分には命の危険はなさそうだ。
 私は、時の運を待つことにした。

 

 再び走り出した車は、やがて、1軒のモーテルに入った。
 昨日のラブホテルもそうだが、こういう所は、従業員と顔を合わせずに泊まることができる。どうやら男がこういうホテルばかり選ぶのは、そういう理由らしい。
 昨日のホテルよりも少し狭い部屋に入り、男がまずしたのは、手錠についている鎖を取り替えることだった。
 今朝、着替えや朝食を入れて仲間の男が持ってきたボストンバックからは、相当な長さの丈夫なワイヤーロープが出てきた。男は、私の手錠の鎖にそのワイヤーロープを通し、南京錠でロックした。
 ワイヤーロープのもう片方を、備え付けのワードローブの取っ手に同じように取り付けた彼は、
 「ちょっと、ぐるっと1周、歩いてみな」
 と私に言った。
 意味もわからずノロノロ歩いてみると、この長さがあれば、部屋中どこへでも―――そう、トイレのあるバスルームにでも行けることがわかった。男が鎖を取り替えた理由がわかると同時に、やはり随分と用意周到な連中だ、と改めて思った。

 男は、部屋中のあらゆるものを、私には届かない範囲に移動させると、部屋を出て行ったり戻ってきたりを頻繁に繰り返した。仲間と連絡を取ったり、物や金の受け渡しをしているのかもしれない。
 夜には夕食としてお弁当とお茶を買ってきた。
 「…パパには、あの写真とテープ、届いたの」
 お弁当を食べながら、やっとそれだけを訊ねると、男はそっけない態度で、
 「あんたが気にすることじゃねぇよ」
 とだけ答えた。パパやママがあの写真を見たら―――そう思うと、胃が縮んで、また吐き気がこみ上げてきた。

 また今夜も何かされるんだろうか、と警戒していたけれど、男は夕食を終えるとまた出て行ってしまい、私がウトウトしかけるまで戻ってこなかった。そして、戻ってくると、シャワーを浴びてさっさと寝てしまった。
 ―――この隙に逃げられたらいいのに。
 南京錠を動かして、なんとか抜け出そうともがいたけれど、無理だった。それに、危害を加えられないのであれば、パパが彼らの要求に従うか、彼らがパパの部下達に「消される」のを大人しく待っていた方が得策に思えてきた。考えるのも面倒になって、私も眠ってしまった。

 そうして、誘拐2日目は終わった。

***

 3日目になると、男も私も、イライラし始めた。
 モーテルを出て、また車で移動する。情報が入るのを警戒してか、男は、部屋でも車内でもラジオやテレビの類を絶対つけない。そんなことしなくても、私はもう、今自分がどこにいるのかを確かめるだけの気力もないというのに。
 狭い空間に、2人きり。言葉も交わさないで何時間も一緒にいると、退屈だし、息が詰まる。男は、煙草の本数が増えだした。
 前日より早い時間に別のモーテルに入り、また1人で部屋を出て行った彼は、やがて、何冊かの雑誌を手に戻って来た。
 「暇なら読みな」
 ぽい、と放り出されたそれは、当たり障りのなさそうなファッション雑誌だった。
 男の方も読むものを買ってきたようだが、その文庫本にはカバーが掛かっていて、タイトルもわからない。早々にベッドに寝転がり、本を読み始めてしまった彼をチラリと見た私は、あまりの退屈さに負けて、投げ出された雑誌を手に取ってしまった。

 その日の夜、男が「かなり長引きそうだな」と言った。
 「…どう、なってるの」
 躊躇いがちに私が訊ねると、男は本から目を離さず、苛立ちを抑えたような声で答えた。
 「仲間が、交渉中だ。あんたの親父、俺達の正体を掴もうと、先延ばし作戦に出てんだよ。テープだけじゃ足りないみたいなだな」
 「……」
 「明日中に動きがないようなら、悪いが、使わせてもらうからな。あの写真」
 「…………」

 パパは……私が何日も誘拐されっぱなしで、平気なんだろうか。
 あんなに必死に訴えたのに―――パパは、1秒でも早く私を助け出すことより、こいつらを見つけ出して殺すことの方を優先してるんだろうか。
 色々問題のある人だけれど、私にだけは甘い人だと思っていた。ママだってそうだ。褒められた母親じゃないけど、その分、私の希望には一切反対しないし、いつだって笑顔で「あなたの好きになさい」と言ってくれる人だった。私のあんな悲鳴を聞いて、ママも何も思わないんだろうか…。

 心細くなって、思わず、涙が目に浮かぶ。
 「だから言ったろ。あんたの親父は悪どい奴だ、って。ったく、計算違いだよなぁ…子煩悩だって話だったのに、あのテープでも折れねぇなんて」
 涙する私にうんざりしたのか、男は突き放すようにそう言って、寝てしまった。

***

 4日目、朝早い時間に、男は出て行った。
 昨日や一昨日は、男は、朝食を調達したらすぐ戻って来た。なのに―――この日はなかなか戻って来なかった。
 ―――おなかが空いた…。
 冷蔵庫の中にジュースがあるのは知っていたが、勝手に飲んでいいのかどうか、わからない。私は、ベッドに寝転がったり、部屋の中を歩き回ったり、雑誌をペラペラめくったりしながら、焦れるように男が帰って来るのを待った。

 時計が11時を指す頃になって、だんだん、不安になってきた。
 もし、このままあの男が戻って来なかったら―――私は、どうなるんだろう?
 据え置きの電話も隠されてしまっているし、外との連絡手段は何もない。食べるものもない。今、私の生活は、あの男がいないと成り立たなくなっている。こんな状態で、このまま放置されたら……。

 不安がピークに達した頃、やっと、ドアが開いた。
 「悪い。遅くなったな」
 「……」
 この4日間ですっかり見慣れた顔が覗き、情けないことに、私は安堵のあまり座り込んでしまった。
 「? なんだ、どうしたんだ」
 「…お…置いて行かれたかと…」
 「アホか。人質置いて、どこに行くんだよ。人質放したら終わりだろうが」
 呆れたようにそう言う男の声は、初日に比べると、随分気さくになっている気がする。私も、男の言動にいちいち怯えたりパニックになったりはしなくなっていた。
 「今日は、このまま動かない。1日ここだ」
 「…どうして?」
 「余計なこと訊くな」
 不機嫌に言うと、男はベッドの上に、買ってきた朝食を広げた。床に置かれた買い物袋の中には、まだ食料が入っている。どうやら言葉通り、今日は1日ここでカンヅメ状態になるらしい。


 朝食と昼食を兼ねた食事が終わると、また暇になった。
 読む雑誌はまだあるけれど、男が読んでいた本の方が先に終わってしまった。かと言ってファッション雑誌など読む気にもなれず、男は暇を持て余して、イライラしている様子だった。
 でも―――不思議だ。
 こうしてモーテルやラブホテルに泊まるのにも、いちいちお金がかかる。食事もそうだし、本もそう。車での移動だから、ガソリン代だってかかるだろう。彼らが全部で何人いるのか知らないが、随分お金をかけて誘拐しているように思う。
 「…あなた達の要求って、何なの?」
 雑誌から目を上げて私が訊ねると、小さな窓から外の様子を窺っていた男が、こちらに目を向けた。
 「そんなもん、聞いてどうする」
 「パパが…子煩悩だと思ってたパパが、4日目になっても呑めない要求って、何なんだろう、と思って」
 「―――簡単には説明できねぇよ」
 男はそう言って、ベッドに戻って来た。疲れたように仰向けにベッドに倒れこむと、ぼんやりと天井を見つめた。
 「これは、復讐だ」
 「復、讐?」
 「ああ。あんたの親父に対する、俺達の復讐だ。戦争なんだ」
 「……」
 「たとえば、この前俺が殺したボディガード。あいつが生きてる間に殺した人数と半殺しにした人数足すと、あんたの年齢を軽く超える。知ってたか?」
 驚いて、首を振った。知らない―――私は、総合警備会社の社員だと思っていた。生傷が絶えないのも、私のボディガード以外の警備の仕事がハードだからなのだろう、位にしか思っていなかった。
 「あんたの親父は、絶対に自分の手は汚さない。俺達やあのボディガードみたいな奴を金で雇って、汚い仕事はそいつらにさせるのさ。俺達は、自分の手を汚すことで結束を強めてるようなもんだ―――自分に後ろ暗い部分があれば、明るい世界に出て行くのは難しくなるからな」
 「じゃあ…あなた、あのボディガードと、仲間だったの」
 「…親友(ダチ)を殺されるまではな」
 「……」
 「俺とそのダチは、一緒に組織を裏切った。で、捕まって、半殺しの目に遭って―――ダチは、持たなかった。病院に運ばれる前に、ボロ屑みたいになって路地裏で死んだんだ。…俺はあんたの目の前であいつを殺して見せたけどな、ああやって恐怖で捻じ伏せるやり口は、俺じゃなくあんたの親父の得意技だよ」
 天井を睨む男の目が、これまでで一番、鋭くなった。
 「今回の計画には何人も加わってるけど、全員、あんたの親父についていけなくなって、組織を抜けようとして酷い目に遭った奴ばかりだ。今でも命を狙われている奴もいる。あんたの親父、風俗も経営してるって知ってたか? そこで妹を働かされてる奴だっているんだ。…身代金を何億積まれたって、納得できねぇ」
 「―――…」

 パパが、そんな人だったなんて……知らなかった。
 信じたくない。こいつの勝手な思い込みだって思いたい。でも―――私は、今回の誘拐劇がこいつ1人の計画じゃないことを、身を持って知っている。羽交い絞めにした男は大柄な男だったし、昨日チラリとだけ見かけた男は小柄な男だった。最低でも3人―――ううん、手間のかけ方から見て、もっといる筈だ。
 それだけの人が、パパを恨んでる。
 それだけの人に恨まれて当然なことを、私のパパがやってたんだ……。

 「…なんで、あんたが泣くんだ?」
 不審気に男に言われて初めて、自分が泣いていることに気づいた。私は、手錠をジャラジャラいわせながら、頬に伝った涙を忙しなく拭いた。
 「だ…だって、可哀想で…」
 「カワイソウ?」
 「そんなにたくさんの人が、パパのせいで苦しめられてたなんて……可哀想」
 「―――お嬢さんは、優しいんだな。父親に似ず」
 皮肉っぽい笑い声を立てて、男がそう言った。私の言葉を、まるっきり信じていないらしい。
 でも、私は心から、彼らに同情していた。涙を拭いながら首を振り、必死に続けた。
 「私…知ってるもの。表でもパパは、強引でワンマンで圧制主義だって。うちのメイドだって、パパの逆鱗に触れて何人も辞めさせられてる。パパの一言で取引停止になった町工場のおじさんは、借金がかさんで一家心中したって聞いた。それを聞いてもパパは平然としてたって―――私は、経営者ならその位ドライでなけりゃいけないんだ、って思ってたけど…」
 「…フン、あの男らしいぜ」
 「パパは、今の地位と財産が、一番大事なんだ。それを守るためには、私の命も、あなたの友達の命も、どうなってもいいんだ」
 「……」

 それから私は、随分長いこと、泣き続けた。
 男は、何も言わなかった。殺された友達のことや、それ以外の仲間のことを思い出しているのか、険しい顔でずっと天井を睨んでいた。


 1日中モーテルに篭ってたこの日、私と男は、ぽつりぽつり、色々なことを話した。
 「へえ…、さすがお嬢様大学だな。金持ちだらけか」
 「うちなんて、まだ可愛いもんよ。政治家の娘もゴロゴロしてるんだから。大学に入ったって、勉強してる奴なんて一握りよ。みんなパーティーとコンパ三昧―――遊ぶために大学に入ったようなもんだわ」
 「いいご身分だな。…俺は大学に行く金なんてなかった」
 「貧しかったの?」
 「…結構な。兄弟が多かったし、親父は酒乱だったし。ガキの頃はそれでも、親恋しさに泣くだけの可愛げがあったけどな。中学卒業する頃には完全にアウトローだ。悪いことして巻き上げた金も、親父に殴られてぶん取られるのさ。ハ…、高校出られただけでも奇跡だぜ」
 「…そう」
 「お嬢様にはわかんねーな、こんな世界は」
 「…そうね。でも、親を信じられない気持ちは、私にもわかる」
 「え?」
 「…パパもママも、私がまだ小さい頃から、それぞれ愛人を作って、平気で家を留守にしてたのよ。私のことは可愛がってくれたけど、それは大抵、お金を渡してくれたり、好き勝手させてくれたりするだけ―――友達の父親が、友達が帰宅が遅くなった時に、心配して泣きながら友達をひっぱたいたの見て、私…ちょっと、羨ましかった。だから、同じように心配して欲しくて、関心持って欲しくて、夜遊びを繰り返すようになったのよ。なのに……私を叱るのは、パパの部下だけ」
 「ふーん…。あの親父と母親は、どういう反応すんだよ、そういう時」
 「2人とも笑顔で“まあ、いいじゃないか、今は遊びたい盛りなんだから”で終わり。自分達は世間の親より娘に理解のある親だ、って自負してるわよ。…バカみたい」

 私―――なんで、こんなこと、話してるんだろう。
 私を誘拐した、犯人に。
 人を1人、あっさり拳銃で撃ち殺した、殺人犯に。
 私にレイプまがいのことをした上、屈辱的な写真まで撮った奴に。

 でも、何故だろう。私は今、世界中の誰より、この男が一番、私に近い人間に思えた。
 友達にも彼氏にも話したことのなかった、漠然とした親に対する不満、不安―――そんなものも、この男になら話せた。自分でも驚く位に、素直に。そして、男の話す貧困と暴力にまみれた彼の過去に、心から同情し、涙することができた。


 誘拐4日目の夜。
 私の中で、何かが、変わった。
 憎むべき誘拐犯に対する不思議な親近感が増えた分―――パパやママを恋しく思う気持ちや、あの写真を見られることへの抵抗感が、何故か薄まっていた。

***

 5日目は、早朝にモーテルを後にした。
 私はもう、手錠をかけられているだけで、鎖には繋がれなかった。それでも、後部座席に伏せるというスタイルだけは崩せなかった。
 下手に助手席に座ったりすれば、偶然パパの知り合いが通りかかった時、顔を見られてしまう。私が誘拐されたことをその人が知っていれば、ただちにパパに通報されるだろう。見つからないよう、私は常に窓より下に伏せていなくてはならない。私は、車が渋滞や信号で止まるたび、誰かが覗き込まないかと警戒しながら、なるべく身を縮め、見つからないように隠れるようになっていた。
 次に入ったモーテルでは、手錠も外された。
 さすがに、男が部屋を空ける時だけは手錠をかけられたが、彼が部屋にいる間は、自由に部屋の中を動き回れたし、好きなように手足を動かせた。途中で新たに購入した本や雑誌を読んで、2人して暇を潰した。
 私は、男が視界にいることに、慣れてきていた。逆に、男が自分の目の届く範囲にいないと、不安を覚えるようになった。それは、彼が唯一のライフラインであるからでもあり、それ以上に―――彼が私にとって、この5日間で唯一言葉を交わせた相手であり、この息の詰まるような逃避行を共にしている“仲間”だからかもしれない。

 その夜は、彼がパパの下でやっていたという仕事の詳しい話を聞いた。
 ライバルを蹴落とすために、パパが何をしたのか。蹴落とされた相手がどうなったのか。その悪事に手を染めた彼の仲間が、一体どうなったのか―――…。
 私は、彼と一緒に憤り、彼と一緒にパパを憎んだ。
 何故、こんなに共感できるんだろう―――私はパパの娘なのに。本来なら、パパの味方をすべき立場なのに。
 ちょっと考えれば、パパに蹴落とされた方も結構悪賢かったり、彼の仲間も過去に家族を散々泣かせていたりして、同じ穴のムジナ、と言えなくもなかった。パパ1人が全て悪い訳じゃない―――頭の中の冷静な部分がそう主張していたけれど、私の彼に対する共感は消えなかった。

 パパは許せない。
 今回のこれは、パパに苦しめられた人々の、正義の戦いだ。

 今、この瞬間、私ほど彼らのことを理解できる人間はいない―――そう思えるほど、私は彼に共感していた。金と権力だけを愛して、部下や子供を顧みることのない男に対して、激しい怒りを覚える「同志」として。

***

 6日目も、前日同様、早朝にモーテルを出た。
 手錠のせいで、私の手首はそろそろ限界に達していた。赤く擦り剥けた手首を見て、男は車内でも手錠を外してくれるようになった。その代わり、ということで、私は靴と靴下を取り上げられた。逃げるつもりはなかったけれど、彼がそうする気持ちはわかるので、私はそれに素直に応じた。
 この日、男は、頻繁に車を止めた。いよいよ、交渉が大詰めに近づいているのだろう。公衆電話で、仲間としきりに連絡を取っているようだった。
 車に戻ってくる男は、一様に厳しい表情をしていた。「どうなったの?」と私が訊いても、一切何も答えてくれない。そのことが、お前には関係ない、と言われているようで、なんとなく悲しかった。

 ―――私、絶対、おかしい。
 本当なら憎んで当然なこの男に、なんでこんなに同情したり共感したりするんだろう? 何故この男に無視されると、悲しいんだろう?

 …もしかして、好きになってしまったんだろうか。

 別に、好みの顔じゃない。歳だって、まだ19の私とは10近く離れているだろう。これまで付き合ってきた彼は、一番年上でも3つ上だ。女子高生だった去年までは、30近い男なんて「オヤジ」扱いしてた。
 でも―――この男には、今までの彼にはない、確固たる信念てやつがある。正義心と、その正義心を貫くだけの強さと、そして圧倒的な腕力がある。強い男に惹かれるのは、動物としては当然の本能だ。ライオンだってトラだって、強いオスだけが多くのメスを従えられる。
 私も……動物の本能で、彼に惹かれてしまったんだろうか。
 …わからない。ただ、自分の中で確信していることが、1つだけある。

 私は、この計画が、完璧な成功で終わることを望んでる。
 彼らの要求が全て叶い、パパがもう二度と立ち上がれないほどのダメージを負うことを望んでる。思い知ればいい、自分が蔑ろにしてきた人間たちの怒りを―――自分がパパの娘であることも忘れて、本気でそう思っている。
 私の中では、私はもう「被害者」ではなかった。


 昼前に、山間のモーテルに入った。
 男は、落ち着かない様子だった。ずっと入り口のドアを気にして、部屋をウロウロしていた。
 ―――何が、起こっているんだろう。
 私も不安に耐えかねて、いよいよその疑問を口にしようとした時―――ドアが、ノックされた。
 「―――…!」
 男は、弾かれたように振り向くと、急ぎ入り口へと向かった。来訪者を確認し、ドアを開ける。彼の肩越しに、私を羽交い絞めにしたあの男の顔が一瞬だけ見えた。
 2人が話し合っていた時間は、僅かだった。
 ドアを開けたまま、振り向いた男は、これまで見たこともないほど目を生き生きと輝かせ、背後の私に向かって言った。
 「用意しろ。出るぞ」
 「え…っ、ど、どこ、行くの」
 驚いて訊ねると、彼はニヤリと笑った。
 「最終地点だ」


***


 車の中で、男は終始、機嫌が良かった。
 「クックッ……ザマぁねぇぜ、あの男。さっさと要求飲みゃあいいのに、最後まで悪あがきしやがって」
 そんなことを喉の奥で呟きながら、また一人ほくそ笑む。私には何の説明もないけれど、そんな風に男が呟く言葉から、事態は私の望んだ方向に向かっているらしいことを私も察した。
 パパが、負けたんだ。
 当然だ。娘のあんな悲惨な姿を見せられて、それでも平然としていたのだとしたら、もう親じゃない―――いや、人間ですらない。鬼か悪魔だ。
 きっと今頃、パパは、私がレイプされてボロボロになったものと思っているだろう。顔を合わせたら、せいぜい惨めな様子を演じて、パパを目一杯後悔させてやりたい―――暗い想像に、私の口元にも笑みが浮かんだ。

 車は、山の中へと入っていった。
 結構ガタガタする山道を、どの位登っただろうか。車がようやく止まり、私は降ろされた。
 まだ日没まで間がある筈なのに、周囲を覆う木々のせいで、辺りは少し薄暗かった。そんな中に、木造の作業小屋らしき建物がぽつん、と建っていた。
 「来いよ」
 ぐい、と私の腕を掴み、男はその小屋へと向かった。踏みしめる落ち葉が、カサカサと音を立てた。
 男は、粗末な造りの扉の前で足を止めると、何故か、扉をノックした。
 トントン、トトン。
 独特な、合図のようなノック。
 暫くして―――扉が、ガタガタと開けられた。

 木戸の向こうから顔を出したのは、女だった。
 こんな山の中には不釣合いな、華やかな風貌の美女―――私より、歳はだいぶ上だろう。大人の女の色香を感じさせる、とても魅力的な人だ。
 一体、誰…?
 思いがけない人の登場に、私は、混乱したように、男と彼女の顔を交互に見比べた。

 彼女が、大きく見開いた目に涙を滲ませながら、嬉しそうに微笑む。
 彼の方も、まるで別人みたいな笑みを浮かべ―――そして、2人は、耐えかねたように抱き合った。
 「会いたかった―――…!」
 「…俺もだ。心配かけたな」
 まるで、映画のワンシーンみたいな光景。
 そこに、ただ1人、場違いに佇む私は、その光景に何の反応も示すことができなかった。

 ―――これは、何の冗談?
 何なの、この女は。どういうことなの、これは。

 どう見たって、目の前で抱き合い、熱いキスを交わす2人は、恋人同士としか思えない。そんな……そんな女がいるなんて、この男は、一度だって私に言わなかった。
 つい2時間前まで、私と彼しかいなかった世界に、見も知らぬ女がいる。
 私が一番彼に近いと思っていたのに、今は、及びもつかないほど近いところに、彼女がいる。否応なく見せつけられる―――彼女こそが本当の「同志」であり、私は付け焼刃に過ぎない、ということを。

 「…あいつは?」
 「上に10分ほど行ったところよ。あなたからネガを受け取ったら、反対方向から山を降りることになってる」
 その場に凍りつく私の前で、そんな会話を交わした2人は、抱き合った腕を解き、やっと私の方を見た。
 ―――なんでそんな晴れやかな顔をしてるの?
 何なの、その、可哀想な子を見るような目は。何いまさら、悪いことしたな、なんて顔してるのよ。
 「あんたには、悪いことしたな」
 表情そのままのセリフを口にして、男は私の頭をぽんぽん、と叩いた。
 「予定外の長丁場になっちまったけど、これでやっとゲーム・セットだ。あんたは自由の身だよ。もっとも、俺達が無事逃げおおせてからだけどな」
 「……」
 「俺は、ネガを届けに行ってくる。それまで、この女があんたを見ててくれるから」
 「……」
 「じゃ、頼んだぞ」
 男の視線が私から外れ、彼女に向く。彼が小声で確認すると、女は美しく微笑んで頷いた。
 もう一度軽くキスを交わすと、男は今来た道を戻り、車に乗り込んだ。エンジンのスタート音を聞いていた私の腕を、女の細い指が掴んだ。
 「さ…、中、入って。ここじゃ寒いわ」
 私は、まるで人形にでもなったような気分で、彼女の促すまま、小屋の中へ入った。


 「…何が、どう、なったの」
 小屋に入ってすぐ、彼女に訊ねた。
 小屋の扉は、閉めないらしい。山仕事の道具が一杯置かれている中、一番奥に置かれた椅子に私を座らせると、彼女は自分の座る椅子も引き寄せ、腰掛けた。
 「彼が持って行ったネガは、仲間がふもとの町で明日10時着の宅配便で送るの。ここの地図を同封してね。明日10時には、あなたのパパが受け取り、あなたを助けに来てくれる―――その頃には、あたし達はさっさと国外逃亡している、ってわけ」
 「…こ…国外?」
 「勿論、バラバラにね。あなたは、大人しくここで助けを待てばいいの。暖房のためのストーブも食料も、明日の夜までは十分足りるように用意してるわ」
 彼女の言う通り、小屋の隅には、食料が入っているとおぼしき袋と、古びたストーブが1つ、置かれていた。
 「わかるわね? ここの山は、地図なしでは歩くのは危険よ。あたし達はもうすぐここを後にするけど、あなたは逃げ出したりせず、ここに留まっていて。あたし達、あなたのパパと会社が憎いだけで、あなたを憎い訳じゃないのよ」
 「……あ…」
 「え? 何?」
 上手く、声が、出ない。
 ゴクリ、と唾を飲み込む。心臓の奥の方が、微かに震えている気がした。
 「あ…あの…っ、わ、私もっ」
 「え?」
 「私も、一緒に行かせて」
 「―――は?」
 彼女の目が、もの凄く大きくなった。
 何言ってるのこの子、というその目は、私を凄く馬鹿にしていて、凄く子供扱いしている目に見えた。負けじと、私は椅子を蹴って立ち上がった。
 「私はもう、あの人やあなたの側の人間なの。パパみたいな奴は許せない―――あんな奴の家に戻るなら、あなた達のように正義を貫く側にいたい」
 「せ、正義、って……ちょっと待って。あなた、彼に何を吹き込まれたの?」
 「吹き込まれたんじゃない。私は理解したのよ、彼の怒りや彼の憤りを」
 「ちょっと、」
 「6日間一緒にいて、私達、お互いを理解し合ったのっ。私は監禁されてたんじゃないわ、自分の意志で彼といたのよ、あの人と私、」
 「ちょっと!!」
 女の声が、鋭くなった。
 不愉快さを僅かに滲ませた眉―――それは、訳のわからない事を言い出した「お嬢様」に対する感情、というより、恋人と2人きりの6日間を過ごした「女」に対する不愉快さのように、私には見えた。嫉妬してるんだ、と思ったら、僅かばかりの小気味良さを覚えた。
 大きなため息をついた彼女は、腰を浮かし、私の肩に手を置いて、再び椅子に座らせた。その仕草が妙に慣れていて、私は、対抗意識を燃やしていたにもかかわらず、素直に腰を下ろしてしまった。
 「―――いい? よく聞いて。彼が、自分の行動をどの程度美化したかは知らないけど……あたし達は、革命家でもなければ、思想家でもない。ただ、あなたのパパの下で良からぬことをやっていて、都合が悪くなって使い捨てられて、ムカついたから結託してあなたのパパに一泡吹かせてやろうってことになった、それだけなの」
 「……」
 「確かに、あなたのパパは許せないわよ。でも、私達は一生遊んで暮らせるほどのお金を手に入れたし、今後の命の保障も手に入れた。家族も安全だし、顔を整形して、二度と命を狙われることなく、海外で幸せに暮らすの。正義の何のと言う気はさらさらないのよ。もうあの男に対する復讐は十分終わった―――あなたがついてきたところで、もう何もすることはないわ」
 「……違う…、わ、たしは、あの人を」
 「愛してるとでも言うの」
 女が、睨みすえるように私を見る。
 「それは、錯覚よ」
 「……」
 「あなたはただ、一時的な依存症に陥ってるだけなの。“ストックホルム症候群”ってやつよ」
 「…ストックホルム…症候群?」
 耳慣れない言葉に、眉をひそめる。
 「監禁・軟禁状態にある犯人と人質が、長時間、閉鎖された空間を共有することによって、過度な同情や共感を持ってしまうこと―――昔、ストックホルムで起きた銀行人質事件で、人質になった行員が犯人を庇うような証言をして、挙句にその中の1人が、犯人グループの1人と結婚までしたことからついた名前よ」
 「……」
 「あたし、こう見えても、大学で心理学を学んだの。実際にその患者に会ったことはなかったけど―――参ったわね。まさか自分達の起こした誘拐事件で、本物のストックホルム症候群に出くわすなんて」

 ―――違う。
 違う。私は、違う。私は、一時の気の迷いなんかじゃない。

 私は、彼を本当に理解してるし、信頼してる。彼の不幸な生い立ちも、社会の不条理に対する憤りも、富める者に対する怒りを、まるで自分のことのように感じて、一緒に涙することができた。
 彼だって、私の孤独を理解してくれた。お金や物に恵まれた中で、いつもいつも目を逸らそうとしていた孤独―――あの非情な親からは、真の意味では愛されていない、という現実。それを彼は理解し、同情してくれた。

 「…私は、あの人を愛してる」
 絞り出すように私が言うと、女がまたため息をつく。
 「―――いい加減にして。あなたを拉致・監禁して、体も心も傷つけた男よ」
 「でも、」
 「あのね」
 最後通告、という声で、女は私の言葉を遮った。
 「はっきり言っておくわね。彼が、あなたをコントロールするために何を言ったかは知らないけど―――この計画が失敗した時は、あなたは、殺される予定だったの」
 「―――…」

 こ…ろ、される…?

 頭が、冷たくなった。
 殺される筈だった? 私が? 計画が失敗したら、って、つまり……彼らの仲間が「消され」て、要求が受け入れられる見込みがなくなったら、ってこと…?

 「勿論その場合、あなたを殺すのは彼の役目だった。あなたの口から、あたし達のことが絶対に漏れないようにね。要求が通らなければ、そうするしかなかったのよ。そういう計画で、彼はあなたを監禁してたの。わかる?」
 「……」
 「悪いことは言わないわ。こんな目に遭わせておいて言うセリフじゃないかもしれないけど―――早く健康な心を取り戻して。あたし達はもう、あなた方とは関わらないし、あなたのパパからも解放される。だから、専門の先生にかかって、きちんとカウンセリングを受けて。…ね?」
 「…………」
 「…寒くなってきたわね。ストーブ、つけましょうか」
 女はそう言うと、席を立ち、壁に掛けあったバッグから、マッチを取り出した。その一連の動作をぼんやり目で追いながら、私は、半ば放心していた。


 ―――混乱、する。
 思考が、バラバラになる。

 当たり前のことが、わからなくなる。
 善と悪、親と子、男と女、敵と味方―――区別がつかなくなる。混ぜこぜになって、頭が撹拌される。私は、何を信じたらいいの? 今、何を考えたらいいの?


 虚ろな私の目に、ふと、あるものが映った。
 小屋の片隅に、無造作に転がっている、それ。
 「―――…」
 それを見た途端―――すべきことが、わかった気がした。

 女は、ストーブの前にしゃがみこんでいた。
 そっと足音をしのばせ、私は席を立つ。そして静かに“それ”を手にし、硬い柄をしっかりと握る。

 「…あなたは、ただ私に嫉妬してるだけだわ」

 多分、女には聞こえないほど、小さな小さな呟き。その呟きと共に―――私は、“それ”を振り上げた。


***


 予定より少し遅れてしまった。作業小屋前から少し離れた所に車を止めた男は、何故か胸騒ぎがしていた。

 ―――やっぱりあの子、始末しとくべきだったかな。
 計画は、完璧だった。長い時間をかけて練りに練った計画は、実際、その計画通りの成功に終わった。唯一の懸念事項―――憎むべき男の、娘。あの女を生かしておくことだけは、当初の計画の外だ。
 学もあり、人情にも篤い恋人が「成功したら生かしておいてあげて」と最後まで頼んだので、目的が果たされたら無傷で返してやろうと全員一致で決めたが―――仲間の大半が、危険だから始末しておいた方がいい、と言っていたのだ。そして男も、その意見に賛成だった。
 ―――念には念を入れた方がいいかもしれねぇな。
 心優しい恋人を悲しませたくはないが―――恋人を先に車に乗せ、その後で、気づかれないように片付けてしまえばいい。もう二度と、日本に戻るつもりはないし、あの親子に関わる気はもうない。恋人には、自分さえ黙っていればバレることはないだろう。
 男は心を決め、車を降りた。

 小屋の扉は、事前の約束通り、扉が開け放たれていた。
 「おーい」
 日が傾いてきて、小屋の中は随分暗くなっている。男は扉に手を掛け、中を覗き込んだ。
 そして、そこに、恋人が倒れている姿を見つけ―――慌てて中に駆け込んだ。
 彼女は、頭から血を流していた。
 いや……そんな生易しい状態ではない。頭がぱっくりと、何かで叩き割られていた。この状態で生きているとは思えない。実際、慌てて抱き上げた体は、生きている人間とは思えない不自然な角度に捻れていた。
 声が出ない。
 嘆きの声も、怒りの声も、一体誰が、何故、という訴えも出てこない。男は驚愕に目を見開いたまま、一瞬、何も考えられずに彼女の亡骸を呆然と見下ろしていた。

 あまりのショックのせいだろう。
 これまで一切の隙を見せなかった男も、この時ばかりは、隙だらけだった。背後に忍び寄った気配に、直前まで気づけないほどに。
 「―――…」
 影のように近づいてきた気配に、男はようやく気づき、ハッとして振り返った。

 そこに立っていたのは、つい30分前、恋人に託した筈の、人質。
 手斧を手にした彼女は、唖然としている男を見下ろし、場違いなほどに静かな、美しい笑みを浮かべた。


 「―――あなたが悪いのよ」


 その言葉の直後―――男の脳天目がけて、手斧が振り下ろされた。

 

***

 

 「それで―――…?」

 「…連れまわされている間中、毎日、あの男に犯されました。抵抗すれば殺すと言われて、大人しく従った方がいいと思ったので、我慢して応じていたけど……私…私…っ」
 「大丈夫―――大丈夫よ。あなたはもう安全なんですから。ね? 落ち着いて」
 「…は…はい…すみません」
 「少し休む? 続きは後にする?」
 「いえ、大丈夫です。すみません。それで―――毎日一緒にいて、体の関係を持っていたせいか、彼…私に情が湧いちゃったみたいで。彼女とあの小屋で落ち合った時……殺すのはやめないか、って彼女に言ってくれたんです」
 「彼は、あなたを助けるつもりだったのね?」
 「はい。でも…彼女、私に嫉妬したみたい。彼がちょっと離れた隙に、突然、人が変わったみたいになって…」
 「何をされたの?」
 「…斧を…」
 「現場にあった手斧を、持ち出したのね」
 「わ…、私、怖くて―――無我夢中で逃げて、な、何があったかわからなくて…っ、き、気がついたら、彼女が……」
 「血を流して、倒れてた」
 「……はい。彼は、その直後、戻ってきたんです」
 「それで、どうなったの?」
 「床に倒れている彼女を見て、逆上して―――拳銃を、懐から出したんです。銃口を私に向けたまま、彼女のこと抱き起こして……し…死んでる、って確認、して、私を撃とうと…」
 「ええ。発見された犯人の手には、撃鉄の倒された拳銃が握られてました。あと少しで撃たれそうだったのね?」
 「…私、殺されると思って…」
 「大丈夫よ。あなたは正しい行動をとったの。自分の命を守っただけよ」
 「……私、殺人罪で、死刑になっちゃうんでしょうか……」
 「安心して。あなたは強姦された上に、殺されそうになった。あなたの行動は、正当防衛よ。脅迫状や脅迫のための写真やテープも提出いただいたし、矛盾はありません。未成年ですし、罪には問われないでしょう」
 「ホントですか…?」
 「辛い目に遭ったわね―――よく頑張ったわ。あなたは正しいことをしたのよ。自信を持って。ね?」

 

 警察なんて、チョロいもんだった。
 あの男が倒れた直後、すぐに拳銃を握らせたことが、こんなに上手くいくなんて。撃鉄を倒しておいたことが良かったのね、きっと。もし撃鉄が立ったままだったら、撃つ気がなかった、と思われたかもしれない。
 彼らの仲間は、今頃、国外に逃げているだろう。
 彼と彼女が逃亡していないことを知れば、何かあったと気づくかもしれない。でも―――きっと、何も言ってこないだろう。彼らは「犯罪者」なんだから。

 『あんたが誘拐されたって、絶対に警察には届けねーよ。犯人の心当たりを訊かれたところで、困るのはあっちの方だからな』

 ―――ええ、その通りよ。
 今回の誘拐事件は、あなたと彼女の、身代金目的の犯行ということで、丸く収まった。それで誰も文句は言わないの。パパも、警察も、私も―――そして、あなた方の仲間もね。

 私には、わかってる。
 あの女が言ったことは、正しかったかもしれない。でも、あなたが本当に素顔を見せてくれたのは、私の前でだけだって。
 あなたの言う「正義の戦い」は正しかった。
 あなたの本当の苦しみ、怒り、憤り、悲しみを、唯一理解していたのは私だけ―――あの女じゃなく、私だけよね?


 「辛い思いをさせたね…」
 事情聴取が終わった私を出迎えたパパが、そう言って私の頭を撫でた。その顔は、最後に見た時から、随分とやつれてしまっていた。
 金策に明け暮れたせい? それとも、今の地位を失うことに対する恐怖のあまり?
 どっちにしろ―――私の身を案じてではないわね。
 私は、ボイスレコーダーに向かって、本当に死にそうな思いで叫んだのよ―――助けて、パパ、助けて、って。
 なのに、あなたは動かなかった。
 今になって、いくら悲しそうなやつれた顔をしたって、もう遅いわ。あなたは、自分可愛さに、助けを求める私の声を無視した―――それが、私にとっての全て。
 「もっと早く助けてやれればよかったのに―――本当に済まない。でも、もう大丈夫だ。お前を傷つける犯人は、もういないからね」
 私を抱きしめて、パパが言う。
 「早く、家に帰ろう。ゆっくり休むんだ。この6日間のことは早く忘れよう―――いいね?」
 「……ええ、パパ」


 先にあの世へ行ってしまった、あなた。
 安心して。あなたの「正義」は、私が貫いてあげる。
 金と権力にものを言わせて、子供や部下を蔑ろにしたこの男が、あなたが死んだ後も、のうのうと生きてるなんて、許せないでしょう―――…?

 早く家に帰って、計画を立てなくては。
 絶対に怪しまれない、彼らの計画を超えるだけの、完璧な計画を。

 パパの腕の中で、私は無意識のうちに、残酷極まりない笑みを口元に浮かべていた。



100万番ゲットの斑目さんのリクエストにおこたえした1作です。ミリオン記念て訳じゃないけど、やたら長くなりました。
ご希望は『ラストで、「おまえが! おまえがアァァーッ!」と叫びながら、女が男に手斧を振り下ろすホラー』。…これが、2005年のクリスマスに神様が結城にくれたプレゼントでした。呪われているとしか思えません。
そんな訳で、ダークすぎるR15作品。ホラー…かな? その辺は微妙かも。登場人物、全員名無しです。もし同名の方がいたら絶対イヤだろうから(笑)
「おまえが〜」は、なんかコントチックになってあまり怖くないので、セリフは変えさせていただきました。ごめんなさい(^^;


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