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02 : 生命線

 「おっはよー、隼雄っ」
 登校途中の坂道で久保田隼雄の後姿を見つけた多恵子は、ダッシュで駆け上がり、彼に追いついた。
 多恵子を振り返った久保田は、一瞬、迷惑そうな顔をした。この2ヶ月でかなり慣れさせられたとはいえ、やはり完全には慣れ切れない―――この、素っ頓狂な外見をした、妙に馴れ馴れしい、痩せて小柄な生き物には。
 「…おはよ」
 朝からちょと疲れた声でそう応じる久保田の顔を覗きこみながら、多恵子は極めて上機嫌に笑ってみせた。
 「何、その、生活に疲れ果てたサラリーマンの親父みたいな顔」
 「…お前がさせてるんだろがよ」
 「僕が? なんで?」
 「…あのなぁ」
 大きな溜め息をついた久保田は、腰に手を当てて、はるか眼下の多恵子を睨み下ろした。
 「多恵子。お前、いい加減、誰彼構わずキスするその癖、やめられないか?」
 「―――ああ、なんだ。昨日の軽音楽部の飲み会の話か。ハハ、なに、隼雄、妬いてるの」
 「バカ! それ以前の問題だ! モラルの問題があるだろ、普通!」
 「何、モラルの問題って」
 「女にまでする奴があるか!」
 「だって、気に入ったのがたまたま女だったんだから、仕方ないよ。あの子だって、親愛の情の示し方だ、ってわかったら、喜んでキスし返してきたじゃん」
 「……」
 「隼雄、堅すぎ」
 ―――駄目だ。ついていけねー。
 久保田は、苛立ったように舌打ちすると、多恵子を無視してまた歩き出した。実際、少し急がないと1コマ目の講義に間に合わなくなってしまう。
 「それはそうとさ」
 多恵子は、久保田の心中などお構いなしに、いつもの調子で隣に並びかけてくる。
 「なんで隼雄、大学では空手やんないの」
 「…他に、いろいろやる事があるから」
 まだ憮然とした雰囲気は残しつつも、久保田は一応、そう答えた。
 「何? 隼雄、まだ1つもサークルとか部とかに入ってないよね。何やる気?」
 「サークルも部活もやらない。俺は、もっと将来見据えてんだよ」
 「将来?」
 入学式の日、佐倉もそんな事を言っていた。先を見越して経営学を学ぶことにした、と。久保田も、会社経営でもする気でいるのだろうか。
 「―――うちは、親もじっちゃんも、それぞれ俺に跡を継がせようと躍起になってるからな。あいつらに難癖つけて引っ張り込まれないように、究極のビジネスマン目指してるんだ」
 「何、隼雄んちって、社長とかやってんの?」
 「…まあ、そんなとこ」
 うんざり、という顔で眉を顰めた久保田だったが、
 「でもな。絶対に、どっちの仕事も継がねえ。久保田の息子だの久保田の孫だのと呼ばれるのだけは嫌だからな。俺は、俺の選んだ仕事を極めて、親父からもじっちゃんからも脱却してみせる。その為の準備期間だよ、この4年間は」
 そう言って、ニッと笑ってみせた。
 久保田のこういう自信満々なところは、多恵子が最も気に入っている部分だ。多恵子も、彼の真似をするように、ニッと笑い返した。
 「多恵子は? 昨日の軽音楽部、入るのか?」
 「うーん、軽音ねー。微妙だね」
 極楽鳥色の髪を掻き上げて、多恵子は、さっき久保田がやったように眉を顰めてみせた。

 軽音楽部に誘われたのは、ちょっとした偶然だった。
 第二外国語の講義でたまたま隣同士になった男が、実は先日軽音楽部に入部したばかりの奴で、多恵子の頭を羨ましそうに見ながら言ったのだ。
 『飯島の頭、いいよなぁ。オレ、先輩に言われたんだよね。ロックやパンクがやりたきゃ、まず外見をなんとかしろ、って』
 憂鬱そうに呟くそいつの頭は、真っ黒で、まるで高校球児のように短く刈り込まれていた。まだ伸ばしている最中なのだろう。
 服装や髪型で音楽傾向を決めるようなバカは、一度顔を拝んでおかなくてはいけない。多恵子は、講義が終わった後、久保田を無理矢理引き連れて、軽音楽部に顔を出した。
 顔を出した途端、部長に気に入られた。何も歌っても演奏してもいないのに気に入られたのは、おそらく多恵子のこの髪型のせいだろう。

 「けどお前、かなり歌上手いだろ」
 昨日、カラオケボックスで多恵子が披露していた“ハイウェイ・スター”を思い出しつつ、久保田が見下ろしてきた。ちょっとハスキーな多恵子の歌声はプロ級で、その場にいた部員全員が固まってしまうほどだったのだ。
 「上手いつもりだよ。昔からそう言われてきたし。でも、ロックやパンクをやる気は、あんまりない。僕が歌いたいのは、ブルースやジャズだから」
 多恵子がそう言うと、久保田の足がピタリ、と止まった。
 かなり意外そうな目で多恵子を凝視する久保田を、多恵子は訝しげに見上げた。身長差がかなりあるので、まさしく「見上げる」といった感じだ。
 「―――お前、ジャズが好きなのか?」
 「まあね。エラ・フィッツジェラルドのモノマネとか、昔からよくやってた。誰にもわかってもらえた事ないけど」
 「ほんとか! ちょっとやってみせろよ」
 普段落ち着いている久保田が、妙に嬉しそうに目を輝かせるのに、多恵子は思わず見入ってしまった。
 訊かなくてもわかる。久保田は相当なジャズ好きなのだろう。それ自体は、それ程驚く事でもない。

 見入ってしまったのは、その嬉しそうな顔に表れた、感情のストレートさ。
 久保田のこれまでの人生や芯の強さを証明するような、屈折した所のない笑い方。

 久保田の顔をじっと見たまま動かない多恵子に、久保田は不審げな顔をした。
 「…どうした?」
 「―――いや…隼雄って、生命力強そうだな、と思って」
 「はぁ?」
 一瞬感じた、憧憬と、羨望と、満足感と―――苛立ち。
 多恵子はそれらを、皮肉っぽい笑いの中に押し込めた。

***

 午後は講義がないので、多恵子は屋上に上がって、梅雨に入る前のどこか夏めいた空をぼんやりと眺めていた。
 ラッキーストライクを指に挟み、吸うでもなくそのまま煙を燻らせる。コンクリートで葺かれた屋上に大の字に寝転がり、頭上を移動していく大きめな白い雲を目で追う。あの雲は上空何千メートルだろう―――そんな事を、考えながら。
 朝、久保田の目を見てから、気分は一気に鬱に傾いている。
 理由なんてない。ただ、落ち込むだけ。心の中に空いてるブラックホールに、ストンと足を踏み入れてしまいそうな感じ。さっきから、ポーチの中にいつも持ち歩いているあの剃刀の事が、頭を何度も掠めている。

 鬱状態の自分が、多恵子は結構好きだ。
 鬱の時は、佐倉も久保田も、どうでもよくなる。他の気に入った連中もどうでもよくなる。呆れて離れていくなら離れていけばいい。その方が楽。地上に自分を繋ぎとめる奴なんて、いない方がいい。そう思えるから。
 今を楽しむ自分ではなく、潔く旅立つ自分が、大きくなる。
 地上から浮遊する自分が膨らみきれば、多分、憧れの地に辿り着くことが出来るのだろうけれど―――でも、まだ、中途半端。

 ―――弱い。
 生きる力が、弱い。
 地面を掴む力が、酸素を吸い込む力が、どうしようもなく弱い。自分の中に血が流れていると、胸の中央で心臓が動いていると、そう実感する力が弱い。
 だから、つい。
 確かめたくなる。

 多恵子は、すっかり灰が落ちてしまった煙草をコンクリートの床面に押しつけると、弾みをつけて起き上がった。
 傍らに放り出していたリュックを引き寄せ、中からポーチを引っ張り出す。ファスナーを開けて覗いた中身は、手鏡やコンパクト、それに口紅。そして―――お気に入りの剃刀。このメーカーの、この種類の剃刀が、多恵子イチオシの剃刀なのだ。
 剃刀を手に取り、まだ一度も使っていないその真新しい刃を、しばしじっと見つめる。痛そうだな、と思うあたり、生きる力だけじゃなく、まだ「飛ぶ力」も弱いのかもしれない。
 少し悩んだ挙句、多恵子はその刃の先端を、ほんの少しだけ、左手小指の先に押し当ててみた。
 注射針で刺されたよりも、僅かに強い、痛み。
 と同時に、赤褐色の血が、スポイトで落としたような小さな水玉を作った。

 …良かった。
 ちゃんと、血が流れてる。
 これも多分、要らない血。行き場を失った老廃物を、体外に運ぶための血。この指先から、要らない物がほんの少しだけ出て行く―――例えば、今朝、彼の目に覚えた感情とか。

 要らない物が混ざった血は、なんだか毒素を含んでるように見える。
 ―――舐めたら、死ぬかな。
 そんな馬鹿な事を考え、多恵子は小指の先に浮き出た血を、ペロリと舐めてみた。
 でも、塩辛い、鉄錆のような味がしただけ。化け物に変身する事もなければ、苦しくなってのたうち回る事もなかった。

***

 することが無いので、多恵子は、渋谷の街をぶらぶらと歩いて、時間を潰した。
 仕事の途中の人、自分と同じ大学生らしき人、主婦、OL、高校生、中学生―――雑多な人間が蠢く中にいると、鬱に傾いた気持ちがどんどん堕ちていく。さっき、血を見た時一瞬だけ実感しかけたものが、また遠くなっていく。
 ―――生きてるんだか、死んでるんだか、わからない。
 地面を蹴る踵の感触はあるけれど、これは本当に歩いてる状態なんだろうか。目には平日午後の賑やかな渋谷の街が映ってる気がするけれど、網膜には本当にこんな図が結ばれているんだろうか。
 …実は、ただの、脳内処理の誤変換だったりして。
 何も見てないし、どこにも行ってないのに、頭の中の信号がありもしない「渋谷の街」を紡ぎ出しているんじゃない?
 ほら。
 また、現実が遠くなる。

 実感のない現実の中を歩いていた多恵子は、ふと、道端に座り込む男を見つけ、足を止めた。
 歩道の隅っこに、レジャーシートも敷かずに座り込み、スケッチブックに鉛筆を走らせている男。美大生か何かだろうか。ちょっとしたアルバイトのつもりか、はたまた度胸試しのつもりか、いわゆる「似顔絵描き」をするために、そこにいるらしい。ふざけた色調の小さな立て札に「にがおえ」と書かれており、その隣には、絵葉書サイズの芸能人の似顔絵が、フォトフレームに入って飾られていた。
 「―――おにーさん、似顔絵やるの」
 無意識のうちに、そう声をかけていた。
 男は、驚いたように、鉛筆を握る手を止め、多恵子を仰ぎ見た。
 おそらく、一般常識で測れば「いい顔」の部類に入るであろう、顔。でも、腕も脚も、不健康に細い。そうそう、こういうのが軽音楽部に似合うんだよ、と、多恵子は突然そんな方向に頭が働いた。そして、思う―――確かに自分も、こいつに近い風貌かもしれない、と。

 ―――こいつも、弱そうだ。生命力が。
 隼雄のような安定感が、ない。風が吹いたら飛んでしまいそう。

 「1枚、いくら?」
 ちゃんと、立て札の下の方に「1枚500円」と書かれているのだが、多恵子はそれを無視して、訊ねた。
 「僕の似顔絵、描いてくれない?」

***

 結局多恵子は、それからの2時間あまりを、似顔絵描きの男の隣で過ごした。
 彼の名は、シンジと言った。大学生ではなく、フリーターなのだという。でも絵が好きなので、バイトがない日は、こうやって似顔絵描きをして過ごしているらしい。
 「絵で食ってく気あんの?」
 「いやー、オレ位の才能じゃ無理だと思うよ」
 「なら、なんでフリーターしてんのさ」
 「んー…なんか、意味ないでしょ」
 困ったような笑い方をしながら、シンジは着色する筆を更に走らせる。時折、確認するように多恵子の方をチラリと見ながら。
 「就職するのも、大学行くのも、なんかそれにどういう意味があるのかな、とか思うとね。景気良くて、ジュリアナ行けばこーんな短いスカート履いた子がヒラヒラ踊ってたりするじゃない。いい年したオヤジたちも、ガキがミニカー集めて喜んでるみたいに、外車ばっかり集めて喜んでるでしょ。あの中には入りたくないなー、って思う。あんな事して、何の意味あんの、ってさ。オレ、金なんていらないし、安定した生活なんていらないし、好きな事して楽しく生きてられりゃいいのよ。そのためには、親にも大学にも会社にも縛られたくないな、ってね」
 「ふぅん…」
 「多恵子は、何で大学行ってるの」
 「なんでかね。僕にもよくわかんない。多分―――ほかに行くとこ、無いからかな」
 抱えた膝の上に頬杖をついて、多恵子はぼんやりと、シンジの背後の雑踏を眺めた。

 あいつなら、何のために大学に通うのか、って訊かれたら、スラスラ答えられるだろうな―――。
 今朝見た、久保田の自信ありげな笑みを思い出して、多恵子は眉を寄せた。
 久保田は、生きる力が、強い。シンジが巨大な水槽の中をヒラリと泳ぎ回る熱帯魚なら、久保田は水槽を飛び出して海に泳ぎだそうとする逞しい大型の魚だと思う。
 そして自分は―――水槽の中すら、泳ぐ気力が無い、深海魚。水槽の底に貼り付いて、日がな一日じっと動かない。

 「ハイ、できたよー」
 筆を置いたシンジが、多恵子にスケッチブックを差し出した。
 そこに描かれていたのは、大きな目をした、ボーイッシュな女の子。多恵子そっくりな顔をした―――でも、多恵子よりも生きる力のありそうな、楽しそうな女の子だった。
 「―――サンキュ。気に入ったよ」
 ニッ、と笑った多恵子は、身を乗り出して、シンジの唇に軽くキスをした。
 「あんたも、気に入った」
 「……」
 ちょっと驚いたように目を丸くしていたシンジは、数秒後、照れたような笑みを浮かべて、まいったなー、なんて事を焦ったように何度か口にしていた。

 「あ。雨」
 シンジが着ているパーカーの上に、ぽつん、と水滴が落ちて広がっていくのを見て、多恵子が呟いた。2人して空を見上げたら、あんなに晴れていた空がいつの間にか灰色に変わっていた。梅雨のはしりのような湿った空気を感じる。これは、かなり降るかもしれない。
 「あちゃー。こりゃダメだな。店じまい店じまい」
 慌てて画材や立て札をリュックの中に仕舞い始めるシンジを眺めつつ、多恵子は、少し水滴を含み始めたオレンジ色の前髪を、指で摘んで遊んだ。
 「シンジ、これからどうすんの」
 「んー? 別に決めてない。多恵子は? 帰る?」
 「…帰るの嫌だけど、行くとこないなー…」
 その言葉に、シンジがくるりと振り返った。
 しばし、多恵子の様子を窺うように見ていたシンジは、やがて口を開いた。
 「なら、雨宿りしてく?」
 それまでと同じ、どこか力の抜けた、人なつこい喋り方。
 「どこで?」
 「どっか。2人きりになれるとこ」
 「もしかして、イカガワシイこと、考えてる?」
 「うーん。考えてるかも」
 「ふぅん…奇遇」
 多恵子は、そう言って、口の端を吊り上げた。
 「僕もちょうど、それ考えてたとこなんだ」

***

 多恵子があげた、頭に響くような甲高い声に、シンジは、ギョッとしたように目を丸くした。

 だって、それは、悲鳴で。
 どう考えても、どんなにいい方向に解釈してみても、悲鳴で。

 「た、多恵子?」
 「―――…ったぁー…っ」
 「ちょっ…あの、まさか、初めて!?」
 「だ…ったら、なにっ」
 「嘘っ! ご、ごめん! 最初に確認しときゃよかった」
 「バ…ッカ、も、いーじゃん、なんでも…っ。早く動きなよっ」
 動ける訳がない。ギリギリと唇を噛みしめて、大きな目いっぱいに涙を溜めてる多恵子を見たら。
 「オレ、女の子が痛がるのってダメなんだよ…」
 「バカ! 意気地なし! やりかけたんなら、最後までやれ!」
 「でも」
 逃げ腰になるシンジの肩をぐいっと引くと、多恵子は必死に、その肩にしがみついた。
 「いいから―――いいから、今、一人にしないでよ…っ!」


 痛い、痛い、痛い。
 体中が、悲鳴をあげる。腕が、脚が、胸が、内臓の1つ1つが、悲鳴をあげる。一瞬前までの、まるで綿雲の上にでも乗ってるようなたよりない快楽が押し流されて、痛みと悲鳴だけが残る。

 痛いと思う、自分。
 痛みを感じるってことは、生きてる証拠だ。
 実感が湧く。生きてる実感が。さっき指先を切った時の何百倍も。
 サディストでもマゾヒストでもないと思うけれど、この痛みは嫌いじゃない。むしろ、好き。目が覚める。世界がクリアになる。今目に映るものが、脳の誤変換じゃなく実体を伴っていると実感できる。
 だから、これは、喜んでる悲鳴。
 覚醒のための痛みに打ち震えてる、喜びの悲鳴。

 でも、なんでだろう。

 リアルに、生きてることを実感してる筈なのに。

 

 まるで、

 ゆっくり、

 死んでいくような感じがする―――…。

***

 自動ドアを抜けて、一歩踏み出したら、通り雨の最後の一滴が、ピタン、と頬を打った。
 「……」
 多恵子も、シンジも、何も話さない。虚ろな表情で、薄暗くなった渋谷の喧騒を眺める。
 「―――ごめん、シンジ」
 また、多恵子が、謝罪の言葉を口にする。
 ホテルの部屋を出てから、もう何度目の「ごめん」だろう。彼女が謝る度に、シンジの顔が、苦痛そうに歪んだ。
 「…だからさ。なんで多恵子が謝るのか、オレには全然わからないよ」
 「うん。でも―――謝ってると、気分が落ち着くんだ」
 「そういうもん?」
 「そういうもん」
 「―――なら、別に、止めないけどね」
 「優しいね」
 「それだけが取り柄だから」
 微かに笑ってそう言うシンジを見て、多恵子も笑みを浮かべた。
 「オレ、これから家帰るけど、ついてくる? 高校時代の同級生と、ヤローばかりの3人暮らしだけど」
 「楽しそうだね」
 「清貧を地で行く生活してるよ。…さっきみたいなのもまぁ楽しいけど、4人で鍋囲むのも楽しくない?」
 「…楽しそうだけど、やめとくよ。なんか、眠くなってきたし」
 「―――そっか」
 少し落胆したような顔をしたシンジだったが、無理強いはしなかった。多恵子のカラフルな頭を、芸術家っぽい細い指で撫でると、その顔を覗きこんだ。
 「オレ、火曜日はバイトがないから、大抵さっきの所で似顔絵描きやってるんだ。だから、暇できたら、またおいで。次は、多恵子の歌を聴かせてよ。な?」
 優しいだけが取り柄の、シンジ。
 女の子が痛がるのがダメで、多恵子に痛い思いをさせたことで罪悪感一杯なシンジ。
 やっぱり、弱い―――世俗にまみれて生きていくだけの力がないから、ふわふわと水槽の中で柔らかに生きている。これからも、よほどの事がない限り、こうやって漂って生きていくんだろう。
 「…うん。また、遊ぼう」
 小さい子供が、公園での鬼ごっこの約束でも取りつけるみたいに、多恵子はそう言って笑った。

***

 前日の雨が、屋上のコンクリートの床面を、すっかり濡らしていた。
 多恵子は、庇の下に辛うじて乾いた床を見つけ、そこに腰を下ろした。扉の前にいると、久保田が来た時、開いたドアで頭をぶつけそうだ。少し体をずらし、体を縮める。
 本当は、今日はサボってしまおうと思っていた。
 まだ、全身がだるい。昨日シンジと別れた時から今まで、動作の全てに実感が伴わない。あれほど生きている事を実感した筈なのに。眠りたい―――その欲求だけが、唯一実感を伴っていた。
 なのにこうして大学に来てしまったのは、多分久保田との約束のせいだ。
 今日は2人共、2コマ目の講義が空いている。その話を昨日したのがまずかった。
 「だったら明日、その時間に聴かせろよ。エラ・フィッツジェラルドのモノマネを」―――期待に満ちた目でそう言われ、多恵子はOKしてしまった。しかも、そんな約束、無視して休んでしまえばいいものを、律儀に登校して、しかも久保田を待ってしまっていたりする。
 前の講義が長引いているのか、それともいつものように教授から頼まれものをしているのか、久保田は約束した屋上にまだ姿を見せていない。多恵子は、すっかり青空にかわった空を見上げて、何気なく“サマー・タイム”を口ずさんだ。

 「Summertime , and the livin' is easy ……」

 ―――イージー。
 …そうかな。

 歌いながら、無意識のうちに指で唇を辿る。
 生きてる実感を探す。シンジに与えられた痛みをリプレイしてみる。体の中に血が流れてる事を思い出すために。ここに体はあるよ、あんたはまだここに居るよ―――その証拠を探す。

 でも、思い出したのは、痛みではなかった。
 妙に生々しい感触と、その快楽に浸りきっていた、昨日の自分。
 ぞわっ、と、全身が総毛立つ。思い出した途端、昨日与えられた痛みより酷い痛みが、心臓を(えぐ)った。

 ―――き…気持ち悪…、吐きそう…。

 要らないものが、体の中を、血液に乗って巡っている。
 汚い。今、全身を巡っている血は、酷く汚れている。穢れている。血液に混ざり込んだ毒は、全身に行き渡って、血管から体中の細胞の中に入り込んで、骨まで浸食するに違いない。
 そう感じ始めたら、止まらなかった。思わず全身を、指先で掻き毟る。多恵子の青白い腕に、くっきりと自分の爪の跡が残った。

 あっちに、行きたい。
 嫌だ、嫌だ。こんなの嫌だ。ここは嫌。あっちに行きたい。あっちへ行って、今流れてる血、全部入れ替えたい。この血を全部流して、浄化して、別の血を入れてしまいたい。
 飛びたい。
 飛ばせて。
 こんな所に、私を繋がないで―――!

 何かに急かされるように、多恵子はバッグの中から、お気に入りの剃刀を引っ張り出した。
 昨日、小指を切っただけの、まだくもりのない、刃。一瞬、その怜悧な輝きに見惚れる。

 そして。
 次の瞬間。
 多恵子は、手首に当てた剃刀を、一気に引いた。

 

***

 

 ガクン、という衝撃を背中に感じた。
 重たい瞼を、無理矢理上げる。けれど、あまり上がらない。体がいう事を聞かない。

 ―――また、未遂…?
 また飛び損ねたの? 私―――…。

 「多恵子!」
 名前を呼ぶ声が、近いような遠いようなところから、聞こえる。
 頑張って、もう少し瞼を上げたら、真上から多恵子の顔を覗き込んでいる、久保田の怒ったような顔があった。
 「…隼…雄?」
 「―――…っ、ば…、馬鹿野郎っ!」
 怒鳴られて、驚く。
 怒鳴られたせいで、少し頭がクリアになった。久保田以外のものも、視界に入ってくる。
 どうやら、救急車の中らしかった。何度か乗ってるから、すぐわかる。多恵子は担架の上に横たえられている。さっきの衝撃は車が走り出した時のものだったようだ。
 久保田は、多恵子の傍らに座っていた。剃刀を握っていた右手の方を握って。
 視線を巡らすと、久保田の白いシャツが、かなり血に染まっているのがわかった。更に視線を移すと、何かを巻かれた自分の左手が見えた。
 巻かれていたのは、久保田のハンカチだった。色も柄もわからなくなっているが、縁の特徴のある色に、見覚えがある。

 「な…んで…」
 震えてるような久保田の声に、多恵子は久保田の顔に視線を移した。
 「なんで、こんな―――…なんでだ!?」
 「……」
 久保田は、震えていた。
 久保田の唇も、肩も、多恵子の手を握る手も、震えていた。
 その震えを抑えるように、久保田はもう一方の手を口元に置いた。けれど、止めることが出来なくて、そのまま俯いてしまった。
 「…よ…良かった…間に合って」
 「…はやお…」
 「良かった…死ななくて…」

 ―――隼雄…?
 泣いてるの?
 いつも、呆れたような顔して、半分鬱陶しそうにして見る癖に―――泣いてるの?

 「―――バ…ッカじゃないの…」
 多恵子は、ニヤリ、と虚ろに笑ってみせた。
 「大の男が、こんなこと位で泣くなんて―――カッコ悪いよ、隼雄…」


 男が、本気で泣いてるとこなんて、初めて見た。

 ―――サイコーに…カッコイイかもしれない…。

 

 多恵子はまた、地上に繋がれた。

 やっぱり「そら」は、まだ、遠い。


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