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07 : イノセント

 「また眠れないの。葛柳(くずりゅう)先生に、連絡取ってもらえないかなぁ…?」
 朝食の食卓で、だるそうに髪を掻き上げながら多恵子がそう言うと、トーストにマーガリンを塗る母の手がピクリ、と止まった。
 「―――多恵子。お母さんが、そんな事言われて“はい”って言うと思ってるの?」
 眉をひそめる母に、多恵子は苦笑を返した。
 「大丈夫。もう、あんな真似しないから」
 「前回もそう言って、葛柳先生からお薬をせしめたでしょう。ちゃんと飲んでるって言うから信用してたのに、何日分も飲まずに溜め込んで―――もう誰も、多恵子には睡眠薬なんて渡しませんからね」

 母は、元看護婦である。精神科の葛柳医師も、彼の前に多恵子を診察した精神科の医師も、みんな看護婦時代からの母の知り合いだ。多恵子の自殺未遂の件は、しっかり知れ渡ってしまっている。母の言う通り、もう誰も多恵子に睡眠薬を渡してくれはしないだろう。
 でも、欲求は深刻だ。
 眠りたい―――深く、深く眠りたい。
 夏の始まりに飛び損ねて以降、期末試験やレポート、アルバイトや客演ライブにかまけて忙しく過ごしたから、何も考えずに眠る事ができた。でも、秋になると、また眠れなくなった。多恵子は、慢性的な睡眠障害を抱えている。眠れないのが通常の状態なのだ。
 週末は、まだいい。シンジがバイト先を変え、多恵子と同じ週末休みになったので、ここ1ヶ月ほどの週末は、佐倉の家に泊まると母に嘘をついて、シンジと一緒に過ごしているのだ。
 週末は、シンジの体温が、辛うじて多恵子を眠りに引きずりこんでくれる。でも―――平日は、地獄だ。

 「…お願い。葛柳先生に連絡取ってよ。トリアゾラムでいい。ないよりマシ。あれなら、自殺図ろうにも無理だから、安心して」
 「多恵子…」
 うな垂れる多恵子を見ていた母の顔が、辛そうに歪む。母は、席を立って多恵子の傍へ行き、その紫色のメッシュに彩られた頭を胸に抱き寄せた。
 「―――もう嫌よ? あんな思いするの。…お願いだから多恵子、お母さんを置いていかないでよ? 多恵子は、お母さんの命より大事な命なんだから。…ね?」
 「…うん…ごめん」
 らしくないか細い声でそう返事する多恵子の脳裏には、あの時の久保田のセリフが響いていた。

 ―――“生きろよ、もっと”。

 大学2年の、秋。多恵子は、僅かでもその言葉を実践しようと、あがいていた。

***

 「飯島センパイ」
 佐倉と学食で昼食を食べていたら、可愛らしい声が、背後から声をかけてきた。
 なるとを口に放り込みながら振り向くと、そこには、小柄で可愛い女の子が立っていた。
 なんというか―――ふっくらと、柔らかい感じのする女の子。伏し目勝ちで、睫毛が長くて、色素の薄い栗色の癖っ毛がくるくると耳の下で巻いている、お人形のような子。引っ込み思案なのか、多恵子に声をかけながらも、もじもじと落ち着きのない様子で、頬を赤く染めている。
 ―――かーわいー…。
 箸を口の中に突っ込んだまま、しばし見惚れる。が、このままでは一向に話が進まないので、もじもじする彼女に代わり、多恵子の方が口火を切った。
 「なに? 何か用?」
 「…あ、あの…。私、英語学科1年の、中西沙和(さわ)って言います。ドイツ語学科の、飯島多恵子センパイですよね?」
 「うん。確かに僕が、飯島多恵子だよ?」
 「あのー…」
 「―――ねえ、多恵子。座ってもらえば?」
 サラダを頬張っていた佐倉が、多恵子の隣の席を目で指し示した。
 確かにそうだ。多恵子が椅子を引いて、隣に座るよう促すと、中西沙和は、やっぱりもじもじしながらも、ストンとそこに腰を下ろした。
 「―――で、何?」
 「はい。あの…飯島センパイは、成田君と親しいって聞いたんですけど、本当ですか?」
 「なりた?」
 多恵子の周囲で成田と言ったら、一人しかいない―――成田瑞樹。
 キョトン、と目を丸くした多恵子は、思わず佐倉と顔を見合わせてしまった。
 「―――親しいって言うかね、僕の場合…」
 「…親しいって言うより…嫌われてるんじゃないの。多恵子の場合」
 「あ。そこまではっきり言う?」
 「…親しくないんですか?」
 窺うように、じっと多恵子の目を見据える沙和の目に、思わずどぎまぎする。
 「あー、えーと…親しいってほど、親しくないけど、時々顔は合わせるよ。言うなれば、喫煙仲間? ハハハ…」
 親しくない。全然。むしろ、佐倉が言う通り、嫌われている。
 ―――よっぽどまずかったんだな、あの時やった事が。
 多恵子は5ヶ月ほど前の出来事を思い出していた。殺される―――そうリアルに感じた瞬間を。
 あれ以来、瑞樹は基本的に多恵子を無視している。屋上に煙草を吸いに行くと、3回に1回程度の割合で顔を合わす羽目になるけれど、ほとんど口もきかない。久保田といる時だと、社交辞令的に多少は言葉を交わすが、それだけだ。この5ヶ月の間で最も多く口をきいたのは、多恵子が7月に自殺を図った後に会った時位だろう。
 「また死に損なったんだってな。…相変わらず、半端なヤツ」―――そう言って、瑞樹は、馬鹿にしたように笑っていた。思い出すと、こめかみの辺りが怒りで痙攣してくる。
 「じゃあ、成田君とお話する機会とか、あるんですよね?」
 期待いっぱいの目で、沙和がそう迫ってくる。
 「ま、まあ…、他の奴らよりは、あるかな。隼雄の方がもっとあるだろうし、写真部の連中の方が更にあると思うけど?」
 「男の人はダメなんです。その…恥ずかしいから」
 そう言ってぽっ、と顔を赤らめる沙和を、多恵子も佐倉も、感心したような目で眺めた。
 “希少価値”。“天然記念物”。―――そんな単語が頭をよぎる。
 「それで、あの―――飯島センパイ」
 「ハイ」
 「私を、成田君に、紹介してもらえませんか?」
 「紹介?」
 と言っても、単純な“紹介”ではないだろう。つまり、告白に立ち会ってくれ、ということらしい。
 「…沙和ちゃん、成田と同じ英語学科で、1年だよね? チャンスなんて、ゴロゴロ転がってんじゃないの」
 「は…あ。確かに講義はよく一緒になるんですけど、その…話しかけられなくて…」
 「―――あいつの噂って、知ってるよね?」
 「知ってます」
 「沙和ちゃん向きじゃないと思うんだけど…」
 「―――でも、好きになっちゃったものは、仕方ないです」
 沙和はそう言って、思いつめたような顔で俯いた。好きになった相手が瑞樹、というのは、結構辛いだろうな、と多恵子でも思う。思いつめたような表情は、その辛さを表しているように見える。
 ―――うーん。やっぱり、可愛い。
 多恵子は、ニッ、と笑うと、俯いてしまった沙和の頬に手をかけた。
 「おっけー。わかった。今日の午後にでも紹介してあげる」
 「ほ…っ、ほんとですか!?」
 「だから、これは、約束のキスね」
 そう言って、晴れやかな笑顔に変わった沙和の頬に、軽くキスをした。途端、沙和の顔が、耳まで赤くなる。
 「―――多恵子。天然記念物に、いきなりキスはまずかったんじゃないの」
 呆れたように佐倉が呟いたが。
 「はいっ! 是非、お願いしますっ!」
 真っ赤になりながらも、満面の笑みでそう元気に答える沙和に、多恵子も佐倉も、おや、と考えを改めた。

 中西沙和―――案外、中身は、ステンレス並に丈夫かもしれない。

***

 瑞樹が入学して、半年と少し。彼をめぐる噂は、確実に増えていた。
 去年のミス大学祭を、公衆の面前でおおっぴらに振ったとか。
 一晩付き合ってくれたら諦める、でなけりゃ死ぬ、と言われて仕方なく付き合った相手に、結局今も追い回されてるとか。
 大学院に通う美人研究員にしつこくつき纏われて、ついにブチ切れて、酔わせた挙句に彼女に憧れている4年生に引き渡してしまったとか。
 その、どこまでが真実でどこからがデマなのかは不明だが、共通しているのは「誰かが瑞樹に迫った」もしくは「陥落した」という内容。その逆は、1つもない。
 しかも、迫られても陥落されても、瑞樹側の反応はすべからく「迷惑」の2文字―――よって、相当数のチャレンジャーがいたにもかかわらず、瑞樹はいまだに「彼女なし」の状態なのだ。
 ―――罪なヤツ。
 いつものように、屋上のど真ん中を占領して煙草を燻らす瑞樹を見下ろして、多恵子は小さく溜め息をついた。

 「悪いけど、その気ない」
 多恵子の陰に隠れるようにしている沙和に目を向けて、瑞樹はそう言いきった。多恵子の肩に触れている沙和の肩が、びくん、と反応する。
 「けっ、けど、成田君、彼女いないよね…? お試しで、傍にいさせてもらうってのも、ダメかな…」
 「嫌だ。期待させても、俺が困るだけだから」
 ―――こら。もっと言い方があるだろ。
 片方の眉を吊り上げて、多恵子が瑞樹を睨んだ。瑞樹もそれに気づいたようだが、態度を改める気はゼロらしい。
 「わっ、私っ、こうやって告白する位に好きになった人って、成田君が初めてなのっ。だ、だから…だから、そんな簡単に諦めたくないのっ」
 「俺の“何”に、そんなに執着してる訳」
 「ぜっ…全部」
 「全部?」
 「顔も、声も、そういう態度も、全部好きなのっ」
 「つまり、“見た目”?」
 「……」
 「だよな。“中身”なんて、知るわけねーもんな」
 皮肉っぽく笑うと、瑞樹は煙草をもみ消し、立ち上がった。デイパックを拾い上げて肩にかける瑞樹を、沙和は、涙で潤んだような目で、じっと見ていた。
 「…だって成田君、“中身”なんて、誰にも見せてくれないじゃない」
 「見せる気、ないし」
 「見せてよ。そしたらきっと、“中身”も好きになるから」
 「無駄だから。諦めて」
 「イヤ! 諦めたくない!」
 押し問答に、さすがの瑞樹も溜め息をついた。なんでこんな面倒な女を連れてくるんだ、という目で、前髪を掻き上げた手の下から多恵子を睨んでくる。多恵子の方も、こんな可愛い子にそんな態度を取るな、という目で、瑞樹を睨み返した。
 ―――あんたには勿体無い位、可愛いのにさ。
 好き、という感情を、これほど真っ直ぐにぶつけられるなんて、羨ましい。多恵子には、できない―――「お気に入り」としての好意ならいくらでもぶつけられるけれど、恋愛感情は、体の奥底に抱え込む。
 沙和のような「女の子らしい女の子」は、多恵子から見れば、とても可愛らしい存在だったのだ。
 「―――どうすりゃ、諦めてくれる訳?」
 半ばうんざりした声で、瑞樹がそう言う。
 沙和は、泣くのを我慢してるような顔で、瑞樹の胸の辺りを見つめて、しばしじっと押し黙っていた。が、やがて顔を上げ、微かに震える声で告げた。
 「…キスして。してくれたら、諦める」
 その返事に、瑞樹があからさまに舌打ちする。参るよなあ、という顔で空を見上げたが、彼なりに結論が出たのか、溜め息とともに沙和を見下ろした。
 「―――そしたら俺の事、もう放っといてくれる?」
 「うん。すぐには無理かもしれないけど…頑張る。努力する」
 顔に似合わず凄い要求をするものだ、と多恵子が感心していると、瑞樹はすっと身を屈め、一瞬だけ沙和の唇にキスをした。
 ―――軽っ。
 軽すぎる。多恵子の親愛のキスと大差ない。そんなキスを望んだ訳じゃないだろうに―――女心のわからない奴だな、と多恵子はまた眉を吊り上げた。
 「飯島先輩」
 日頃、絶対に口にしない呼び方で多恵子を呼んだ瑞樹は、沙和の肩をトン、と押した。よろけた沙和の背中が、多恵子の腕にぶつかる。
 「お返しします」
 “二度と仲介なんかやるな”。
 瑞樹の目が、明らかにそう、多恵子に迫っていた。

***

 「…で、連れてきちまった訳か」
 「…そゆこと。僕のバイト代から引いていいから、何か飲ましてやってよ」
 カウンターに突っ伏して泣いている沙和を見遣り、多恵子は久保田に手を合わせてみせた。腕まくりをしてグラスをせっせと拭いている久保田は、そんな多恵子の様子に苦笑した。
 「珍しいな。お前の方が、そうやって“お気に入り”の面倒見るってのも」
 「…そういやあ、そうだね。面倒見られる方が多いかも」
 「というより、面倒見られてばっかりだろが」
 「うー…。隼雄に言われると、反論のしようがない」
 そう言って唇を尖らせた多恵子だったが、突然、頭の芯が僅かに揺らいだ気がして、磨いていたカウンターに縋るような形でぐらついてしまった。久保田の顔が、不安げに強張る。
 「―――どうした?」
 「あ、うん―――最近、寝つきがどうにも悪いんで、医者から睡眠薬貰ってんの。前と薬変わったから、微妙に副作用出てるのかも」
 睡眠薬、という単語に、久保田の表情がますます不安げになった。
 「おい―――また余計な事考えてんじゃねーだろうな?」
 「あっはは、違うよ。僕に危ない薬出す医者が、まだいるとでも思ってんの」
 「だったら、薬の名前言ってみろ」
 「トリアゾラム」
 「―――って、ハルシオンだよな。…ちょっと安心した」
 久保田の表情が、やっと少し和らいだ。意外な反応に、逆に多恵子の方が、少し驚いてしまう。
 「隼雄って、そんなに薬に詳しかった?」
 「詳しくなっちまったんだよ。誰のせいだと思ってるんだ」
 「え?」
 「命は助かったけど、その後何か副作用が出たりするんじゃないか、って、お前が運ばれるたびに医者から薬品名聞いて図書館で調べまくってたからな。高校時代の2回の未遂も、佐倉から聞いて調べた。今じゃちょっとした“睡眠薬博士”だぞ」
 「……」
 ―――う、うわ…、やばい。
 言葉に、詰まる。胸が締め付けられる。慌てて多恵子は、視線を逸らして、カウンター磨きを再開した。
 「…よ…よかったじゃん。講義より勉強になってんじゃないの? 薬品会社にでも入れば?」
 「馬鹿。いい迷惑だぞ」
 ぐしゃぐしゃと頭を撫でられ、余計胸が締め付けられた。唇を噛んで、その感覚に耐える。

 そうしないと、馬鹿な事をしでかしてしまいそうで。
 抱きついて、甘えてしまいそうで。


 その夜、結局沙和は、多恵子たちのバイトが終わるまで、久保田が作ってくれたカクテルをちびちびと飲み続けた。
 男の人と話すのは恥ずかしい。そう言って顔を赤らめた天然記念物が、久保田が口にする冗談に鈴のような笑い声を立てるのを見て、多恵子はなんとなく複雑な気分になった。

***

 以来、沙和は、多恵子の前に頻繁に姿を見せるようになった。
 同じ外語学部であることもあり、レポートの出来を見てやったり、去年取った講義のポイントを教えてやったり―――沙和に請われるままに、多恵子は沙和の面倒を見てしまっていた。そんな自分に、多恵子自身が一番驚いている。
 「…気色悪い」
 佐倉が、じっと多恵子の横顔を見て、呟いた。
 「…何、その滅茶苦茶失礼なセリフは」
 「多恵子は、人様にご迷惑をおかけするのが存在価値なのに。なんで人様の面倒見てんの? 久保田君に感化された?」
 「―――なんかムカつくよ、それ。僕の存在価値って“迷惑をかけること”な訳?」
 「あたし的には、そう。養うのが好きだから」
 ムッとする多恵子だったが、実際、佐倉にも結構な迷惑をかけているので、何も言えない。そういう佐倉から見れば、多恵子が誰かの面倒を見る日が来るなんて、天変地異に等しい出来事だろう。
 なんというか―――庇護欲をくすぐるタイプなのだ。中西沙和は。多恵子にとって、だけかもしれないが。

 「で? 沙和ちゃんは、成田の事、諦められた?」
 半月ほど経った頃、多恵子はそう、沙和に訊ねてみた。
 沙和は、伏し目勝ちな目を余計に伏せて、ほとんど俯くようにしながら「…いいえ」と小さく答えた。
 「こういう時、同じ学科なのって辛い。だって、忘れたくても、毎日に近い位、顔合わせなくちゃいけないから…」
 1ヶ月後も、その状況は変わらないようだった。大学祭の時、佐倉も加わって、3人で写真部主催の写真展を見に行ったのだが、沙和は、他の写真には目もくれず、瑞樹の写真の前にずっと佇んでいたのだ。
 「上手いけど、雑。もうちょい“魅せる”事を計算して撮らなきゃ、商売にはならないね」
 誰もいない早朝の丸の内オフィス街を撮った瑞樹の写真を、佐倉は厳しく批評した。それを聞いて、当の瑞樹は「商売のために撮ってるわけじゃない」と憮然としていたが、そんな2人のやりとりにすら、沙和は辛そうに目を背けていた。


 「ふーん。多恵子が後輩の面倒見てるのかぁ。変な感じだよなぁ」
 「…シンジまでそんな事言うし」
 「動かない」
 不満げに振り向こうとした多恵子を、シンジが一言で制する。数秒後、バチン! という音が多恵子の耳元で鳴った。
 「いったーーーっっ!」
 「あ、冷やし足りなかったかな」
 氷で冷やし続けたせいで真っ赤になった、多恵子の右耳。感覚がなくなる程冷やしたつもりだったが、やはりピアサーの針が通る瞬間の痛みは半端じゃなかった。思わず涙目になってしまう。
 「プラス1ヶ所でよかった?」
 「うん。ほんとはプラス2ヶ所したかったけど、一度には無理っぽい。あー、いてー…」
 手鏡で確認すると、今までの2ヶ所のピアスホールより少し高い位置に、金色のピアスが輝いていた。
 「んじゃシンジ、行ってくるわ」
 シンジと同居している同級生2人が、コートを羽織って靴をいていた。2人は、土曜日は夜通しバイトなのだ。
 「んー、行ってらっしゃい」
 ひらひらと手を振るシンジに合わせて、多恵子も手を振った。バタン、と玄関のドアが閉まると同時に、シンジが溜め息をつく。
 「やっと出てった…」
 「ハハ、邪魔者が消えた、って?」
 「多恵子の睡眠時間が減るのが嫌。…どう、最近。ちょっとは眠れてる? 平日」
 「そこそこいい感じで眠れてる。でも、シンジと一緒に寝る時ほどじゃないね」
 それを聞いて、シンジがまた、溜め息をついた。
 「もうちょい稼げればなぁ、一人暮らしも出来るんだけど。そしたら多恵子、一緒に暮らす?」
 「やーだよ」
 手鏡を置いた多恵子は、ごろん、と畳の上に丸まった。
 「なんで?」
 「そんな事したら、僕が死んだ時、シンジ、ひとりぼっちになっちゃうじゃん」
 「……」
 「シンジは、今のままでいて―――稼ぐことより、今を楽しく生きること考えてるシンジの方が好き」
 「…そっか」
 呟くように答えたシンジは、まだ真っ赤なままの多恵子の耳たぶに、そっと唇を落とした。
 氷のように冷たかった耳が、多恵子の体温でゆるやかに温められている。その事に、多恵子が今確かに生きてる事を感じ、シンジは安心したような笑みを浮かべた。


 ―――今は、少しだけ、“もっと生きる”ことを実践する時期。
 「そら」を、目指す―――その意志は、やっぱり多恵子の根底に、消えることなく根づいていた。

***

 12月に入って間もなく、その事件は起きた。

 「…うーん、やっぱり、ない。おかしいなぁ…」
 昼休みも残り少ないというのに、学食の片隅でバッグの中を引っ掻き回している多恵子を見て、久保田が眉をひそめた。向かい側に座る佐倉も、辺りを探し回っている。
 「なんだ? 財布でも失くしたか?」
 「いや。睡眠薬(トリアゾラム)が、ない」
 「は!?」
 「今朝、来週の分も含めて2週間分貰ってきたばっかなのに―――…」
 「久保田君も、その辺見てくれない? 食券買う時にはあったの、あたしもちゃんと見てるんだから、失くしたとしたら学食の中だから」
 佐倉にも言われ、久保田も一緒になって辺りを探してみた。が、病院名の入った袋は、どこを探しても見当たらなかった。
 「ったく、しょーがないなぁ。また帰りに先生んとこ寄るかな」
 「そういう問題かよ。気味悪いじゃねーか。1万錠は飲まないと死なないような薬でも、薬物は薬物だぞ?」
 「おい」
 探し疲れたところに、突如、憮然とした声が割って入った。
 3人が顔を上げると、そこには、声同様に憮然とした表情の瑞樹が立っていた。相当機嫌が悪そうだ。しかも、視線は多恵子の方に向けられている。
 「何、どうしたの成田」
 「あんた、これ、どういうつもりだよ」
 「は?」
 そう言って、瑞樹が突きつけてきたのは、ルーズリーフの一部を切り取ったようなメモだった。受け取って見てみると、丸っぽい小さな字で、短い言葉が綴られていた。
 『屋上で、沙和ちゃんが待ってます。昼休みが終わったら行ってあげて下さい。   多恵子』
 「―――何これ」
 「さっき、知らない奴に渡されたんだよ」
 「知らないよ。第一これ、僕の字じゃないし。だよね、佐倉」
 多恵子は、佐倉にメモを差し出した。それを受け取った佐倉は、その字を見た瞬間、訝しげに眉を上げた。
 「…これ、沙和ちゃんの字じゃない?」
 「え?」
 「多恵子も見たでしょうが、レポートの指導する時」
 言われて、その時の記憶が甦る。慌てて多恵子は、佐倉の手からメモを奪い返し、その字体を確認した。
 ―――そうだ。これ、沙和ちゃんの字だ。
 そう思った瞬間。
 「や…っばい」
 頭をよぎった「可能性」に、多恵子は思わず身震いした。


 説明を求めるほかの3人を無視して、多恵子は屋上へ急いだ。
 気づかなかった―――沙和は一体、いつから狙っていたのだろう? 案外、ずっとそれ目的で、多恵子の周りをうろついていたのかもしれない…そう思うと、やはり胸が痛む。その真相はどうであれ、今日、沙和が学食で多恵子に声をかけてきた目的は、昨日見たテレビドラマの話をすることではなかった。それだけは確かだ。
 鉄の扉を勢いよく押し開ける。眩しい光が、薄暗い踊り場に射し込んだ。
 そして。
 「沙和ちゃん!!」
 屋上のど真ん中―――いつも瑞樹が座っているその場所に、沙和が、倒れていた。その傍らには、空になった紙コップと、2週間分のハルシオンの残骸が転がっていた。

***

 医務室から出てきた佐倉は、廊下で所在無げにしている3人に、肩を竦めてみせた。
 「熟睡中」
 「―――だよな」
 久保田と多恵子が、同時に安堵の溜め息をついた。瑞樹だけが、一人、憮然とした表情で視線を逸らした。
 「多恵子の自殺未遂は有名な話だから、まさか気持ちよく眠れるだけだとは思ってなかっただろうけど…どの道、死ぬ気はなかっただろうね。メモで成田を呼び出してるってことは」
 「狂言、てこと?」
 多恵子が眉を寄せて確認すると、佐倉も溜め息混じりに頷いた。すると、それまで黙っていた瑞樹が、寄りかかっていた壁を蹴って体を起こし、廊下に置いていたデイパックを拾い上げた。
 「…帰る」
 「え? おい―――ちょっと待て」
 宣言と同時に踵を返す瑞樹の腕を、久保田が慌てたように掴んだ。
 「ちゃんと傍にいてやれよ。お前の事思いつめて、ここまでしたんだぞ」
 「…知るかよ、そんなの」
 「いくらなんでも冷たすぎるだろ、それは。お前に気がないのはわかるけど、こんな時位、少しは優しくしてやれよ」
 「こんな時だからだろ!」
 久保田の手を振り解いた瑞樹が、そう怒鳴る。不機嫌ではあっても激昂などしない瑞樹の、その感情を顕わにした怒鳴り声に、久保田だけでなく、多恵子も佐倉も息を呑んだ。
 久保田に向き直った瑞樹は、軽蔑しきった顔をしていた。久保田を、ではない―――沙和を。
 「俺が傍に行けば、あの女、絶対味しめる。自分の命を盾にすれば俺を振り向かせられるって勘違いして、俺が離れようとしたら絶対またやる―――サイテーだよ。大体、恋愛に(うつつ)を抜かしてる奴ら自体、色と欲に溺れてるどうしようもねぇ連中だって軽蔑してるけどな。あの女はそん中でも最低最悪。諦めるって約束を反故にした上に、こんな茶番に命を無駄に使いやがって―――“諦めきれない”? ふざけんな!」
 「―――…」
 誰一人、何も言えなかった。が、辛うじて久保田だけが、なんとか口を開いた。
 「…でも…放っとく訳にもいかないだろう…?」
 「放っとけよ」
 「そんな酷いこと、できるかよ!」
 「その気もねぇのに期待だけ持たせるのと、どっちが酷い? 偽善だろ、そんなの」
 “偽善”。
 その2文字に、久保田も言葉に詰まった。言い返せない―――そう言われても仕方ないという自覚が、自分の中にもあったから。
 何も言い返せずに立ちすくむ久保田の様子に気まずくなったのか、瑞樹は視線を落とし、ゆっくりとデイパックを肩に掛けた。気持ちを落ち着かせるように髪を掻き上げると、少しだけ目を上げた。
 「…ごめん」
 感情的にまくしたてた事を詫びているらしい。久保田は僅かに苦笑すると、瑞樹の頭をポンと叩いた。けれど、やっぱり瑞樹は残る気にはなれないらしい。くるりと踵を返すと、歩き去ってしまった。

 「―――偽善、か」
 瑞樹の背中を見送っていた久保田が、ぽつりと呟いた。大きな溜め息をつき、佐倉の方を見る。腕組みして、医務室のドアにもたれていた佐倉は、仕方ない、という風に肩を竦めた。
 「久保田君も、放っといた方がいいんじゃない。さすがのあたしも、ちょっと呆れた。キミみたいにすぐ同情して面倒みたがる奴は、沙和ちゃん系の女に利用されやすいし」
 「酷い言い様だな」
 肩を揺らして苦笑した久保田は、多恵子を振り返った。
 “偽善”―――その言葉を一番言われそうな相手。そう覚悟しているらしいことを、多恵子は久保田の表情に感じ取った。
 「お前は、どう思う?」
 そう問われ、一瞬、言葉に迷う。

 ―――けれど、行動せずにはいられないのだろう。久保田隼雄という男は。
 たとえそれが偽善に過ぎなくても、傷ついて打ちひしがれている女を、冷たく突き放せない。そこに恋愛感情がなくても、優しく接して、相手に夢を見させてしまうのだ。佐倉の言う通り、久保田のようなタイプが、一番危ない。
 でも、そういうところが、久保田らしさ。
 呆れながら、もう二度と面倒見ないぞと悪態をつきながら、結局あれこれ世話を焼いてしまう。そういう馬鹿がつく程の人の良さが、人を惹きつけている。計算された処世術の裏で、人間的な温かさをきちんと持ち合わせている―――それが、久保田らしさ。
 …そういう久保田でなければ、多恵子も惹かれなかった。

 多恵子は、口の端を上げて笑みを作り、言い放った。
 「“バカがつく程のお人よし”な隼雄から、“お人よし”を取っちゃったら、ただの“バカ”しか残らないね」
 さすがに、久保田の眉が不愉快そうに顰められる。
 「…おい。佐倉以上に酷い言い様だぞ、それ」
 「あっはは…。だからさ、ただの“バカ”になりたくなけりゃ、“お人よし”でいるしかないんじゃない? 偽善だろうが何だろうがさ」
 「……」
 その答えに、久保田は驚いたように目を丸くし、やがて柔らかな笑みを見せた。

***

 ―――あ。しまった。
 扉を開けた途端、そこに先客の姿を見つけてしまい、多恵子はガクリとうな垂れた。
 屋上のど真ん中、胡坐をかいて空を見上げている後姿は、扉の開く音にも振り向くそぶりはなかった。多恵子は扉を閉め、彼から少し離れた所に、同じように胡坐をかいた。
 事件から、1週間。瑞樹と対峙するのは、これが初めてだ。絶対に辛らつな事を言うだろうな―――そう考え、ちょっと憂鬱な気分になる。その気分を払拭するように、多恵子は煙草をくわえ、火をつけた。
 「―――飯島先輩、おめでとう」
 ライターの蓋を閉じると同時に、瑞樹が、感情のこもらない声で、そう呟いた。“飯島先輩”という呼び方に、皮肉を感じ取る。多恵子は、片眉を歪めるように上げ、まだ空を見上げている瑞樹の横顔を睨んだ。
 「…は?」
 「久保田先輩、ボランティアにいそしんでるらしいから」
 「―――その表現は、買い(・・)だな」
 ボランティア。まさにそんな感じだ。皮肉な笑みを浮かべる多恵子に、彼女の方に目を向けた瑞樹も、同様の笑みを浮かべた。

 結局久保田は、目が覚めた後ヒステリックに泣きじゃくる沙和を必死に宥め、バイト先でずっと話を聞いてやった。それで、同情してしまったのだろう。事件の翌々日から、沙和と付き合い出してしまったのだ。
 恋愛感情を抜きにしても、その必要はあったかもしれない。熟睡しただけで終わった「狂言自殺」の件は、極力多恵子たちだけの中に留めるよう努力はしたものの、やはり一部に噂として伝わってしまっていた。好奇の目に晒されて平然としていられるほど、今の沙和は強くない。“彼氏”という存在は、いわば沙和のシェルター的な役割を担う。事実、単純な人間は、沙和に久保田という“彼氏”がいるとわかっただけで、噂をデマと判断してくれている。
 とにかく―――事情はあれ、今、沙和は、久保田の“彼女”だ。
 だから、多恵子はまた、キャンパス内では久保田と距離を置くようにした。
 久保田をとられる、という不安感から、“彼女”にギャンギャン噛み付かれるのは、もう御免だ。特に、あの沙和が自分にそんな険悪な目を向けてくるなんて、想像するだけで嫌だ。呆れる部分も、胸が痛む部分もあるが―――沙和はやっぱり、今も多恵子の庇護欲を刺激する存在なのだ。

 胸が痛まないと言ったら、嘘になる。
 ―――けれど、大丈夫。多恵子は、自分に言い聞かせる。
 何故なら、これは、恋愛ではないから。
 怪我をして泣いてる子猫を、捨て置けないだけ―――面倒を見てくれと足元にじゃれつく野良猫を、あっちへ行けと追い払えないだけ。久保田は、本当の恋愛なんかしていない。多分、仁藤すみれの時もそうだろう。必死に自分を求めてくる存在を無視できなかっただけ。

 ボランティア―――だから、別れても、ほんの少し落ち込むだけで、あとはケロリとしている。
 あれは、恋愛じゃない。…だから、大丈夫。

 「―――…っ」
 ふいに、喉元に涙がせり上がってきて、多恵子は顔を背けた。
 煙草を持つ手が、意志を無視して震える。無理矢理口にくわえたが、口元も僅かに震えていた。苛立ったように煙草を指で摘むと、多恵子はそれを地面に押しつけた。
 「―――あんたも変わってるよな」
 苦笑を含んだような、瑞樹の声。けれど、多恵子は振り向けなかった。また皮肉でも言うのだろう、と密かに身構えた多恵子だったが、彼はそれ以上何も言わず、多恵子を残して屋上から去ってしまった。


 広い屋上に、多恵子ひとりが取り残された。

 ―――だから、やっと、泣く事ができた。


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