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11 : Half-Blood (前)

 スカートを履くなんて、何年ぶりだろう。
 多恵子は、正座したスカートの裾から覗く膝小僧を、落ち着かない気持ちで手で押さえた。畳の目に沿って視線を彷徨わせ、唇を噛む。延々続く読経は、なんだか別世界から聞こえているような気がした。
 逃げ出したかった。
 今すぐ立ち上がり、父や母の静止を振り切って、外に飛び出したかった。
 けれど―――耐えた。もう、一度実感してしまったものなのだ。今更現実から逃げようとしても、心の中にあいてしまった穴は、二度と塞がらない。

 陸は、もう、ここにはいない―――7回忌の法要の席で、多恵子はそれを、肌で感じていた。

 

***

 

 母という人を、多恵子は知らない。
 銀座の高級クラブで、ホステスをしている女なのだと、誰かから聞いた。多恵子を出産したものの、母親を務めるだけの母性を到底持ち合わせていない人物で、出産後間もなく、多恵子は施設に預けられた。以来、母は面会にすら来ない。多恵子という娘がいることも、もしかしたら忘れているのかもしれない。
 このまま施設で育って、いずれは巣立ち、働くようになるのだろう、と多恵子は考えていた。それが覆ったのは、小学3年生の冬だ。
 父という人が、面会に来た。
 自分に父がいるなんて、知らなかった。が、説明によれば、父は間違いなく多恵子と血の繋がった父で、正式に認知もしているのだという。戸籍を見れば、ちゃんと父の欄に「飯島雅彦」の名が記載されているらしい。
 父は、大学病院に勤める優秀な医師で、母とは客とホステスの関係だった。愛人、と呼べる程の関係でもなく、ちょっとした火遊び、と表現した方が正しい。それでも認知したのだから、その点は立派と言っていいだろう。が、施設に入っている多恵子を放置した点は、母も父も同罪である。
 「多恵子。わたしが君の父親だ。長いこと、待たせて済まなかった。施設を出て、うちにおいで」
 多恵子の父というには、少々年齢が上なその男性は、微かに笑みを浮かべて、そう言った。
 周りの職員よりはるかに年上の男性。そんな人が自分に笑顔を向けてくれるなんて初めての事で―――多恵子はつい、頷いてしまったのだった。


 多恵子が飯島家の門を初めてくぐったのは、小学校4年生に上がる春だった。
 飯島家の玄関の前では、1人の女性が待っていた。
 飯島涼子―――父の、現在の妻。父と同じ大学病院に勤めていた看護婦で、昨年の秋、父と結婚したのだそうだ。
 笑顔が優しそうなその人を、多恵子は一目で気に入った。施設で多恵子が一番懐いていた職員と、どことなく似ていたのだ。勿論、30代半ばであるその人は、20代だった職員よりも、ずっと落ち着いていたが。
 「多恵子、って呼び捨てにしちゃってもいい? 私ね、女の子がどうしても欲しかったの。多恵子ちゃんのこと、自分の娘だって思いたいのよ」
 おずおずとそう言う涼子に、多恵子は満面の笑みで頷いた。若い頃に患った病のため、涼子は子供の授からない体だった。もっとも、多恵子がそれを知ったのは、かなり後になってからだが。
 涼子に促されて連れて行かれたのは、リビングだった。そこには、何度か面会に来たあの父と、もう1人―――中学生か高校生位の男の子が、多恵子を待っていた。
 「この子は、陸。お前のお兄さんだよ」
 父の紹介に、多恵子は目をパチパチと瞬いた。
 ―――お兄さん?
 そんなものが居るとは、予想していなかった。多恵子は、目の前で僅かに微笑む少年を、不思議な気持ちで見つめた。
 彼の黒髪は、多恵子の目には少し緑がかっているように見えた。涼やかですこし吊りあがり気味の目元は、多恵子とも、彼の隣に座る父とも似ていない。座っているのでよく分からないが、やや痩せ気味の、スラリと背の高い少年らしい。
 真夏の太陽より、秋の落ち葉が似合う人だな、と多恵子は思った。
 「はじめまして」
 陸はそう言って、ニコリ、と優しく笑った。

***

 飯島陸は、その時、高校入学目前―――多恵子の6つ上だった。
 「あはは、違うよ。涼子さんは僕のお母さんじゃないよ」
 初めて会った日の夜、多恵子は陸の部屋で、深夜まで話をした。多恵子の勘違いに気づいた陸は、そう言って可笑しそうに笑った。
 「聞いただろ? 父さんと涼子さんは、去年の秋に結婚したんだよ? 僕のお母さんは、涼子さんより前に父さんと結婚してた人だよ」
 「あ…そっか。変だよね、それじゃ。…じゃあ、陸も、お母さんに捨てられたの?」
 「いや」
 「? じゃあ、陸のお母さんは、どこにいるの?」
 無邪気に首を傾げる多恵子に、陸は、少し寂しげな笑みを返した。
 「―――僕が10歳の時に亡くなったんだ」
 「えっ…、し、死んじゃったの…?」
 「うん」
 10歳といえば、今の多恵子とほぼ同じ年だ。多恵子には実の母がいるにはいるが、恋しいと思う気持ちがない分、まだましかもしれない。生み育ててくれた実の母を失った陸は、どれほど寂しかっただろう―――そう思うと、「陸もお母さんに捨てられたの?」などと訊いた自分が、急に恥ずかしくなってしまった。
 「ご…ごめんね、陸」
 小さな声で多恵子がそう言うと、陸は驚いたように目を丸くした。
 「なんで多恵子が謝るんだ? 何年も前の話だし、もう母親が恋しくて泣くような年でもないしさ」
 それでも、済まなそうに体を縮める多恵子に、陸はクスクス笑い、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。
 「そんなことよりさ。こんな可愛い妹が出来た事の方が、僕にとっては大事だよ」
 「ホント?」
 「ほんとほんと。ずっと、父さんと男2人で寂しかったからね。涼子さんも来たし、多恵子も来たし…女の人が2人も増えたなんて、明日から凄く楽しみ」
 「…陸って、そんなに女の人が好きなの?」
 そう言って、陸の腕の中で、多恵子がまた無邪気に首を傾げる。的外れなその質問に、陸は思わず吹き出してしまった。

***

 奇妙な家族だった。
 当初は「涼子さん」と呼ばれていた涼子も、ほどなく、陸からは「母さん」多恵子からも「お母さん」と呼ばれるようになった。
 半分だけ血の繋がった兄と妹は、すぐに打ち解けあえた。しかし、顔を見ても、どうやら2人共母親に似ているらしく、共通する部分はほとんど見当たらない。だから多恵子は、陸を兄と認識するのが難しかった。
 血が繋がっているようで繋がっていない、不思議な3人。その接点は、父の筈だった。
 が、しかし、多恵子は何故か、父にはどうにも馴染めなかった。
 最初こそ、僅かながら笑顔を見せていた父だったが、家にいる時の父は、多恵子にも母にも陸にも笑顔を見せない。いつも寡黙で、眉間に皺を寄せたような厳しい顔をしている。なんだか、怖い人―――多恵子の目には、そう映っていた。


 飯島家の一員となって2週間後、多恵子は、真夜中に自室を抜け出し、陸の部屋のドアをノックした。
 ドアを開けた陸は、眠りかけていたのか、目を頻りに手の甲で擦っていた。が、枕を抱きしめて、大きな目からボロボロと涙を零している多恵子を見て、パチリと目を開いた。
 「…どうした? 怖い夢でも見たのか?」
 「う…ううん、違うけど…」
 「じゃ、何?」
 「さ…っ、寂しくて…っ、眠れないのっ、この家来てから毎日。施設では4人部屋だったから…」
 毎朝、母が最初に訊ねる質問―――「おはよう、多恵子。よく眠れた?」。その問いに「うん、ぐっすり眠ったよ」と答えるのを、陸は毎朝聞いていた。そしてその言葉を鵜呑みにしていた。たった10歳足らずで、大人に気を使うことを覚えてしまっている多恵子に、胸が痛んだ。
 「…そっか。じゃ、一緒に寝よう?」
 「い、いいの?」
 「いいよ。ちょっとベッドが狭いかもしれないけど、多恵子小っちゃいから、2人で寝れると思うよ」
 陸の手が、多恵子の頭をくしゃくしゃと撫でる。その感触にほっと安堵できて、多恵子は促されるままに陸の部屋に入った。
 先に布団の中にもぐりこんだ陸が、多恵子のために場所を空けてくれる。おずおずとその空間に体を滑り込ませた多恵子は、まだ涙の止まらない目を抱きしめた枕に押し付けて、その空間で丸まった。
 「寂しかったら、毎晩こっちで寝なよ。昼間は学校あるし、夕飯の後も勉強だなんだって話する時間もないからさ。寝転がって、眠くなるまで話でもしよう?」
 「…ん…。陸って優しいね」
 「そんな事ないよ」
 スラリと長い指が、多恵子の髪を梳いてくれる。
 「多恵子も気づいてると思うけどさ―――父さんて、ああいう人だろ? 昔からそうなんだ。母さんも…あ、僕を生んだ母さんの方ね。母さんも、父さんの前ではいつも、ちょっと緊張してた。完璧主義者でね、失敗が許せない人なんだ」
 「失敗―――…」

 ―――だから、私は、なかなか引き取られなかったんだな…。
 私は、失敗して生まれてきた子だから。
 自分の失敗が、許せなかったから―――だから、引き取れなかった。今のお母さんが、どうしても女の子が欲しいって言ってくれなかったら、きっと今も施設で暮らしてたんだろう…陸の存在も知らないで。

 陸に髪を梳かれながら、多恵子は漠然とそう考えていた。けれど、それを口に出す気にはなれない。子供がそんな話をするのはおかしい、と陸から窘められてしまいそうな気がして。
 「母さんが死んで―――最初はやっぱり、寂しかったよ。でも、母さんが居ない事より、父さんと2人きりの生活の味気なさが寂しかった。話すことって言ったら、学校の成績の話ばっかりだし。多恵子には格好の良い事ばっかり言ってるけど…本当は僕も、結構、寂しかったんだ」
 「…今も、寂しい?」
 「今は、寂しくない。多恵子がいるから」
 そう言って、頭を抱き寄せてくれる手は、確かにそれが本心だと教えてくれた。

 自分なんて、大した価値もない人間だと思って、諦めてたけれど。
 もしかしたら、陸の心の支えになれるかもしれない―――多恵子は初めて、自分が生まれてきた意味を実感できたような気がした。

***

 多恵子は、新しい学校に慣れ、新しい母に慣れ、新しい兄に慣れた。父には慣れないままだったが、日々は確実に、穏やかに過ぎてゆく。
 陸は、この辺りでも名門と呼ばれる高校に通っていて、そこでも成績はかなり優秀な方だった。塾に通えと口酸っぱく言う父に反発して、家庭教師もつけず、自力で常に良い成績をキープし続けていた。
 父がそこまで成績に口出しする理由を、多恵子もほどなく察することになった。つまり父は、一人息子である陸に、自分と同じ医学の道に進んでもらいたいのだ。医大へ進み、国家資格を取って、大学病院の医師になる。そういう、自分と同じ道を歩んで欲しいのだ。


 「ねぇ、陸?」
 「ん?」
 「陸は、お父さんが言ってるみたいに、やっぱりお医者さんになりたいの?」
 飯島家に入って1年―――陸が高校2年になって間もなく、多恵子は、いつもの眠る前の雑談で、陸にそんな事を訊いてみた。
 すると陸は、苦々しげな表情になり、ゴロンと頭を傾けて天井を見上げてしまった。こんな表情の陸は初めてで、多恵子は急に不安になってしまった。
 「…陸? 怒った?」
 「…いや―――怒ってない。ごめん。多恵子に怒ってる訳じゃないんだ」
 目だけを多恵子の方に一瞬向け、陸はまた天井を見上げてしまった。
 「医者、か…。立派な仕事だよな。医者の家に生まれたから言う訳じゃないけど―――凄いと思うよ。父さんは特に、指名してくる患者が後を絶たない位、有名な名医だし。尊敬される職業だと思う。それを目指してるって言えば、きっと周囲も褒めてくれるんだろうな…」
 「目指してないの?」
 「…表向きは、目指してるよ。でも…本当は別に、やりたい事があるんだ」
 「何?」
 「―――宇宙開発」
 多恵子の目が、キョトン、という風に丸くなった。
 「宇宙開発?」
 「多恵子も去年、一緒に見ただろ? NASAが打ち上げた、スペースシャトル」
 そう言えば、この家に引き取られて間もなく、陸と一緒にテレビで見た。それに、秋にも。どちらの時も、陸は膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、真剣な眼差しでリフト・オフの瞬間を見守っていた。打ち上げられ、それが軌道に乗ったことを確認したNASAの職員たちが歓喜の声を上げると、陸も一緒になって手を打ち、多恵子をぎゅーっと抱きしめたのだ。
 「…もしかして陸、アメリカ行って、NASAでスペースシャトルを打ち上げたいの?」
 「最終的には、ね」
 照れたような笑みを浮かべた陸は、漸く体を傾け、多恵子の方を向いてくれた。
 「去年までは、ただ漠然と宇宙が好きなだけだったんだけど、去年、スペースシャトルの初飛行を見てから、もうどうしようもなくて―――医者になる勉強なんてしてる場合か、って気持ちばっかり湧いてきてさ」
 「ふーん…。私も、陸には、お医者より宇宙が似合うと思うな」
 「ほんとに?」
 「うん。…だって陸、宇宙の話する時って、目がいつもキラキラしてるもん。それに―――お医者さんも偉い仕事だけど、スペースシャトルを飛ばすのだって、凄い仕事なんでしょ? 陸、言ってたじゃない。“このミッションは、人類にとっては偉大なる第一歩だ”って。患者さんに感謝されるのもいいけど、人類の役に立つのって、もっと凄いよ」
 多恵子がそう言うと、陸は最初、驚いたように目を見張っていたが、やがて嬉しそうに笑い、多恵子の頭を乱暴な位の勢いで撫でた。


 その日を境に、多恵子と陸は、かなり真剣な悩みなども話し合うようになった。
 多恵子の悩みは、友人とのトラブルの事や、どうしても上手くいかない父とのコミュニケーションの事についてが多い。
 多恵子は、父が自分を疎んじていると感じていた。そしてその理由は、多恵子が正妻の娘ではないから―――つまり、失敗して出来た子供だからだろう、と考えていた。父は、陸や母に対しても無口でそっけない人ではあったが、やはり自分に対してはことのほか冷たい態度を取るように感じる。そのたびに多恵子は、望まれてこの世に生を受けた訳じゃない自分の体を、酷く情けないもののように感じて、恥じていた。
 そんな思いが、学校生活にも影響を及ぼしていた。自分は駄目な子なんだ、という思い込みから、時折屈折した態度を取って、トラブルを起こしてしまう。陸にそんな思いを吐露すると、少し気分が楽になれる気がした。
 一方の陸の悩みは、大半が父とのトラブルについてだった。
 多恵子に夢を打ち明けてから間もなく、父に「工学部を志望したい」と言ってみたところ、一笑に付されてしまったのだ。
 「工学部に行ってどうするって言うんだ? 機械の設計図でも引くのか。そんな仕事は、工業高校を出た奴らにでも任せればいいだろう」
 そういった仕事をあまり高尚な仕事とは思っていない父は、馬鹿にしたような言い方で陸の希望を蔑んだ。代々、医者をしてきた家系に生まれたのだから、医者になるのは当然。そう言う父の言葉に、陸はいちいち反感を覚えていた。
 父の反対を押し切って工学部を受けてしまえばいいのだが、飯島という名は学校にもしっかり浸透してしまっている。工学部への希望変更の話をしても、「それじゃあ飯島先生が納得されないだろう?」と眉をひそめられるだけだった。それに、進学校だけに、教師側の打算もある。難関突破の実績に貢献してもらいたい―――成績優秀な陸は、当然、教師たちからは大いに期待されている訳だ。そんな話も陸は多恵子にしたが、まだ5年生の多恵子には、そんな大人たちの思惑は、陸に対する意地悪としか映らなかった。


 そんな1年間を過ごし、陸が高校3年になった、ある日。ついに父と陸、そして多恵子を決裂させる事件が起きてしまった。
 いつもなら、ぐっと我慢して父と陸の言い争いを黙って見ている多恵子が、とうとうキレてしまったのだ。
 「どうしてお父さんは陸の夢の邪魔をしようとするの!? 陸はシャトルを飛ばすのが夢なんだから! お医者さんなら、もう沢山いるじゃない! なんで陸がお医者にならなくちゃいけないの!?」
 父と陸の間に割って入るように、多恵子が泣きながら抗議する。すると父は、顔を真っ赤にし、鬼のような形相で多恵子を見下ろした。
 直後。
 多恵子は、左頬に強烈な衝撃を感じ、床に崩れ落ちた。
 「子供の癖に、生意気な事を言うな!」
 父に平手打ちされた、と気づいたのは、陸が、庇うように多恵子に覆いかぶさってからだった。
 「暴力はやめろよっ! 僕が言いなりにならないからって、多恵子に当たったりしないでくれよっ!」
 呆然とする多恵子の華奢すぎる体を必死に抱きとめながら、陸は父を睨み上げた。その時、父と陸がどんな顔をしていたのか―――多恵子には、見えなかった。


 陸は、その春の進路志望の用紙に、医大や医学部の名前を並べた。
 「陸…、宇宙の夢、諦めちゃうの?」
 泣きそうになる多恵子を抱き寄せた陸は、掛け布団の端をぎゅっと握り締め、天井を睨んだ。
 「―――諦めない。だから多恵子は、ただ応援しててくれればいいから」

 結局陸は、超難関を突破して、有名大学の医学部に入学した。それで、父と陸の戦争は、一旦は終わりを告げた。
 しかし陸は、医学部に通いながらも、宇宙工学の本などを買い漁って、独学を続けていた。陸は、医学部に4年間通って父の顔を立てた後、アメリカの工科大学に留学しようと考えているのだ。
 勿論、それは、父や母には内緒―――陸と多恵子だけの秘密だった。

 秘密は、2人と父の距離をより遠ざけ、2人の間の距離をより縮める。
 それが、思いのほか危うい状況であることに、既に2人とも、気づきつつあった。

***

 いつからそれが始まったのか―――多恵子が6年生に上がった頃からだと思うが、記憶は曖昧だ。

 その少し前から、多恵子はなるべく1人で眠るように努めていた。が、週に1日か2日は、やはり寂しくて、陸の部屋のドアをノックしていた。
 逆にこの頃から、陸が多恵子の部屋のドアをノックする日も出てきた。受験勉強の疲れや父との確執での苛立ちで、陸も精神的に参っていたのだろう。2人は、陸のベッドより更に狭いベッドの上で並んで膝を抱え、ポツポツと喋りあったり、時には黙ったまま一晩過ごしたりした。ただ一緒に居るだけで、時折心の空洞を通り抜ける冷たい風を、一時忘れられるような気がして。
 そんな時に。
 ふと、触れることがある。
 手を握りあったり、陸の肩に擦り寄ったり、髪を撫でられたり。
 引き取られてからずっと、そんな事は幾度もあったけれど―――そこに別の意味合いを感じるようになったのは、この頃だ。
 学校にいても、ふと気づけば、陸の事を考えている事が多くなった。
 宇宙開発に対する夢を、部屋の窓から漆黒の夜の空を見上げつつ、少年のように目を輝かせて話す、陸。その姿を思い出すと、自然、胸が高鳴る。その高鳴りに、陸が髪を撫でてくれる感触を重ね合わせると、どうしようもなく苦しくなる。
 その苦しさをぶつけるように、その夜は、もっと陸にしがみついた。それに応えるように、陸ももっと強い力で抱きしめてくれるのが、たまらなく嬉しかった。

 耳たぶに、軽いキスを落とされたのは、小学校も卒業間近な頃だったと思う。
 多恵子も、陸の同じ場所に、キスを返した。
 頬に、瞼に、額に―――じゃれるように落とされる唇は、日を追う毎に、範囲を広げる。何かを、確かめるみたいに。
 父との諍いのあった日は、特にそんな事がよく起きた。苛立ちや悔しさや寂しさを共有しようとするように、少しでも距離を縮めようと手を伸ばしてしまう。唇から語りきれない痛みを、頬や瞼で受け止めあってしまう。
 陸も、そして多恵子も―――そんな手探りな接触で、自分にとって一番大切な存在が何なのかを、暗闇の中で確かめていたのかもしれない。


 多恵子が中学1年の夏休み。そんな曖昧で危うい均衡が、破れた。

 学校での補習を終えた多恵子が、両親共に留守にしている家に帰宅すると、玄関に陸の靴と女物の靴が並べられていた。
 補習授業の数学で分からない所があった多恵子は、数学が得意な陸に教えてもらおうと、見慣れない靴の存在に気を留めることもなく、陸の部屋へと急いだ。

 そこで見てしまった光景を、多恵子は一生忘れないと思う。

 陸の部屋で、陸と、多恵子の知らない女の人が、キスをしていた。
 髪の撫で方も、抱き寄せ方も、多恵子の頬にキスする時と嫌になる程似ている。ただ、違うのは―――2人が、唇を重ねていたこと。多恵子はそういうキスを、まだ陸からしてもらったことがなかった。
 どうして? ―――その言葉が、頭の中をグルグルと回る。足が、どうしようもなく震えた。

 目を上げた陸が、半分開いていたドアの向こうで立ち尽くしている多恵子を見つけた。
 その瞬間、陸の顔が凍りついたように強張るのを見て、多恵子は弾かれたように踵を返し、自分の部屋に飛び込んだ。
 勢い良くドアを閉め、鍵をかけるのも忘れてベッドに突っ伏した多恵子は、鞄に顔を押しつけるようにして、声を押し殺して泣いた。不安と、寂しさと、恐怖と―――嫉妬。そんなものが、多恵子の体の中で、いつまでも渦巻いていた。


 その日はそれきり、多恵子は夕飯の時間になっても自室から出て来なかった。

***

 真夜中、多恵子の部屋のドアをノックした陸は、帰宅時のセーラー服姿のままベッドにうずくまっている多恵子を見て、辛そうに眉を寄せた。
 「…入っていいって、言ってないよ」
 膝を抱えて、余計小さくなったセーラー服の背中が、拗ねたような声で、陸を制した。
 「―――でも、入ってくるなとも言わなかった。そうだろ?」
 膝小僧に押し付けた額を上げ、多恵子は陸の方に目を向けた。
 陸も、昼間見たチェック柄のシャツのままだった。後ろ手に閉めたドアにもたれかかるようにして、暗い表情で多恵子を見つめている。水を頭から浴びでもしたのだろうか。大学に入ってから少し伸ばし気味にしている前髪から、雫がぽたん、と落ちた。
 「ごめん―――まさか多恵子が、あの時間に帰ってくるとは思わなくて」
 確かに、いつもの補習の時より、若干早く帰ってきたのは事実だ。けれど―――…。
 「…誰、あの人」
 「大学の同級生。…参考書を借りたいから、っていうんで、連れてきただけだよ。他意は無かったんだ、本当に」
 「…他意も無いのに、恋人でもない人と、あんなキスするんだ、陸って」
 軽蔑したような口調でそう言うと、陸の眉が、ますます辛そうに顰められた。
 大きな溜め息をつくと、陸は、多恵子が膝を抱えているそばに腰を下ろした。その陸を避けるみたいに、多恵子はくるりと、陸に背中を向けてしまった。
 「多恵子…」
 頑なに膝を抱える多恵子の手を取ると、陸は、多恵子の手の甲に軽く口づけた。途端、多恵子は怒ったように陸の方を振り返り、まるで奪い返すみたいに手を引っ込めた。
 多恵子が手を振り払った弾みで、陸の唇の端に、小さなひっかき傷ができた。少し痛んだらしく、陸はそれを舌でペロリと舐め、微かに眉を顰めた。それを見て、怒りに顔を紅潮させていた多恵子の胸が、チクリと痛んだ。けれど、その痛みで誤魔化せるほど、多恵子の憤りは小さなものではない。
 「こんなのじゃ、嫌だっ!」
 「……」
 「さっきの人には出来て、なんで私には出来ないの!? まだ子供だから!?」
 「―――…違うよ」
 陸が、呟くみたいに、低く答える。
 次の瞬間、陸の手が、多恵子の肩を掴み、そしてそのまま、ぐいっと引いた。
 華奢な体格の多恵子は、なんら抗う事が出来ずに、そのまま背後に倒れこんだ。
 多恵子が好きなひまわり柄のベッドスプレッドの上に、肩までの長さで切りそろえた癖のない明るい色の髪が広がる。大きな目を驚いたように見開き、真上から見下ろしてくる陸の緑がかった黒い瞳を見つめる。その目は、辛そうではあったけれど、怒っていたり絶望していたりはしなかった。

 陸の指先が、多恵子の唇に、軽く触れる。
 「―――ここは、ダメ。多恵子がいつか好きになる人のために、とっといて」
 ゆっくりと唇を辿ってゆく、しなやかな指。 その感触に、多恵子は切なげに眉を寄せた。
 「…私、陸以外、好きになったりしないよ…?」
 「それでも、駄目だ。…何故なのかは、多恵子ももう理解してるだろ?」
 「―――半分だけだもん」
 「半分だけだよ」
 静かに微笑みを浮かべた陸の唇が、頬に触れた。
 頬が、微かな熱をもつ。
 「半分だけでも―――多恵子と僕には、同じ血が流れてる」
 潤んだ瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。それを追うように、陸の唇が、今度は目の縁に押しつけられる。
 目もとにも、生々しい熱を帯びる。
 「…こうして、どこにでもキスは出来るけど―――僕たちは、体を繋ぐことは許されてないから。…唇は、駄目だ。親愛のキスを越えてしまったら、もう、戻れなくなる」

 戻れなくなる―――…。
 それって、そんなに、いけないこと?
 血の繋がりなんて気にしてるの、地球上の生き物で、人間だけなんじゃないの?
 戻る必要なんて、あるの? モラルって一体何? 好きでもない人と唇を合わせるのと、求めてやまない血縁者とそうするのと、一体どっちがインモラルなことなのか―――誰が裁くの?

 「―――だったら…、だったらもう、他の誰にもキスしないでよ」
 涙を拭うように、多恵子は腕を目に当て、溜め息と一緒に言葉を吐き出した。
 「顔見て、分かった。私と似てるからだよね、さっきの人を選んだの」
 「……」
 「…でも、嫌だ。陸が他の人とキスするのなんて、絶対嫌だ。私も、誰ともしない。だから陸―――お願い…」
 「多恵子…」
 「そんなの無理だって言うんなら、今すぐしてよ―――キスだけじゃなく、最後まで」
 多恵子のその言葉に、陸は、 苦笑とも自嘲ともとれない、小さな笑い声をたてた。
 「…馬鹿言うなよ」
 陸は、多恵子の腕を目元からどけさせると、今度は額にキスを落とした。どけさせた手に、自分の手のひらを重ねる。大きな陸の手のひらの中に、多恵子の小さな手はすっぽり収まってしまいそうだった。
 「―――わかった。二度と、しない」
 しばしの沈黙の後、陸がそう言いきった。
 「…ほんとに?」
 「うん。他の誰にも、もうキスしない。他の子で誤魔化したりしない。一生、多恵子の傍にいるよ」
 「一生?」
 「死ぬまで」
 「…絶対に?」
 「―――絶対に」
 中世の騎士が誓いをたてるみたいに、陸はまた、多恵子の手の甲にキスをした。
 優しくて、まるで大切な宝物でも扱うような、羽根のような感触のキス―――また切なくなって、泣きたくなる。多恵子は体を起こして、陸に抱きついた。
 「絶対に―――絶対に、もう、一人にはしないでよ? 私、また陸に会う前の一人きりの私になるのは嫌だよ…」
 必死に、陸のシャツの胸元にしがみつく。それを助けるように、陸は多恵子の震える肩を、持てる力の全てで抱きしめた。
 「…うん…大丈夫。ずっと、多恵子の傍にいる。一人にしない―――死ぬまで、ずっと」

 

 ―――この体に流れている血の半分を、私と陸は、共有している。
 だから、この世で結ばれる事は、許されない。
 けれど、この共有する血があるからこそ…陸と、出会えた。それもまた、事実。…その半分の血が、よりによってあのお父さんの血だなんて―――皮肉すぎる。


 この血はまるで、お父さんが私と陸にかけた、呪いみたいだ。
 …こんな血、要らないのに。


 多恵子が、自分の中を流れる血について考えたのは、この時が初めてだった。


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