| Step Beat TOP | 「そら」まで何マイル TOP |
5年目の向日葵


※ご注意※

 この作品は、Step Beat「そら」まで何マイル のクロスオーバー(混合)作品です。
 時期的には、Step Beat の第100話の頃、「そら」まで何マイル 終了時からは約5年後のお話となります。
 できれば、両方を読了後にお読み下さい。どちらか一方でも、一応読めなくはないです…多分。
 でも、「そら」の方は、読んでないと、ちょっと辛いかもしれません。

 

 

 そのギャラリーに、ふと立ち寄りたくなったのは、本当に単なる偶然だった。
 そもそも、最初に足を止めたのは、蕾夏の方だ。

 「あっ。ねぇ、あれ、見て行かない?」
 映画帰りにぶらぶらと街中を散策している途中、そう言って蕾夏が瑞樹のジャケットの袖を引いた。
 蕾夏が指差す方を見ると、アマチュア写真家の個展や絵本サークルの展示会などで、何度か覗いたことのあるギャラリーだった。道行く人に目をとめてもらえるよう、手書きの看板が入り口に出されているのだが、まだ遠いので、目立つ文字しか読み取れない。
 瑞樹の目で確認できたのは「震災を描く」という字だけだった。
 「震災? 阪神大震災だよな、きっと」
 「多分。見てっちゃ駄目?」
 「…いいけど、個人的にちょっと、考えさせられるな」
 思わず、複雑な顔をしてしまう。

 阪神大震災が起きたのは、瑞樹が大学4年の冬だった。
 父が神戸のマンションに1人残っているので、朝、テレビで神戸の惨状を目の当たりにした時は、さすがに血の気が引く思いがした。大学に在籍している関西出身の学生がその日のうちに集められ、講義そっちのけで情報収集にあたった。交通網がストップしていたため、実際に現場入りできたのは、発生から4日経ってからだった。
 父が住む地区はほとんど被害がなくほっとしたのだが、神戸に移り住んでから大学進学で神戸を離れるまでずっと住んでいたあの一戸建ては、見るも無残に壊れていた。中学、高校時代の友人の中には、家族を失った者もいる。自ら家の下敷きになって死んだ者もいた。
 ―――さすがに、撮る気にはなれなかった。倒れたビルを、焼け残った街を、家を失った人々を。記録すべきだとは思っても。

 「実はさ…大学時代、結構仲良くしてた子が、長田の出身だったの」
 瑞樹の気持ちを察したのか、蕾夏はそんな事を口にした。
 「由井君とその子と3人で、震災の次の日に、無我夢中で神戸に向かったんだけど…大阪で足止め食らっちゃった。その子、“俺は歩いてでも帰る、お前らはもう東京に戻れ”って、一人で行っちゃって―――連絡もくれないまま、大学も辞めちゃったの」
 「…ああ、いたなぁ…。俺の大学にも、震災きっかけにして大学辞めた奴」
 「だからね、震災には、ちょっと思い入れがあるんだ。来年って震災から丸5年だけど―――日本にいないじゃない? 私達」
 イギリスに発つ日まで、1週間を切っている。半年の間、日本に戻る予定はない―――年末年始も、そして、震災の起きたあの日にも。
 ―――ああ、なるほど。
 そこでやっと、蕾夏があの立て看板に足を止めた心理がわかった気がした。蕾夏らしいよな、と思い、瑞樹はふっと笑った。
 「わかった。どんな絵かわかんねーけど、寄ってみるか」
 瑞樹がそう言うと、蕾夏も、自分の真意がわかってもらえたと察したらしく、ニコリと笑った。

***

 近くで見てみると、看板にはこう書かれていた。
 『震災から5年を前に 震災を描く―――グループ・Fチャリティー絵画展』
 「チャリティーなんだ」
 「でもここって、チケット売り場ないよな」
 「“お代は見てのお帰り”なんじゃないの」
 「…やっぱりお前、時々日本育ちの日本人以上に、日本人ぽい言葉使うよな」
 妙な事に感心した瑞樹だったが、視線をギャラリーの入り口に向けた時、そこに貼られている小さめのポスターに気づき、一瞬、目を見張った。
 ―――この絵…。
 「瑞樹? どうかした?」
 瑞樹の、ポスターを見つめる目がちょっといつもと違うのに気づき、蕾夏が声をかけた。
 ―――似てるけど…違うのかもしれない。
 思い浮かんだものと神戸に全く接点がない事に思い至り、ちょっと苦笑する。
 「いや、なんでもない」
 まだ不思議そうな顔をしている蕾夏の頭にポンと手を乗せ、ガラス張りのドアを開けた。
 ギャラリーの中は、そこそこ混雑していた。題材が、無関係な人々の興味も引きやすかったのだろう。ただのグループ展では、ここまで人は集まらない筈だ。
 入口に小さなテーブルが置いてあって、その上に募金箱があった。なるほど、蕾夏の言う通り“お代は見てのお帰り”らしい。
 「へぇ…結構点数あるねぇ。2階も使ってるんだ。順番に見てく?」
 「そうだな」
 ぐるりと1階部分を見渡しただけでも、ざっと3、40枚はあるだろう。号数もテイストもバラバラな絵が、ずらりと並んでいる。
 その時、一番みやすい所に飾ってある1枚に、瑞樹は目を留めた。
 あの、ポスターになっている絵だった。
 順番に見始めた蕾夏にちょっと断りを入れ、蕾夏から離れてその絵を見に行った。
 ポスターから想像していたより、かなり大きいその絵―――その下に、タイトルと作者の名前が入っている。
 「…や…っぱり」

 “工藤慎二”。

 懐かしい名前が、そこにあった。
 瑞樹は慌てて、1階のギャラリー内をもう一度注意深く見回した。こうしたグループ展では、出品者が会場に来ている場合が多い。記憶の中に残る顔と似た顔を探すが、一致する顔は見当たらなかった。
 2階かもしれないな、と思い、瑞樹は蕾夏のところに戻り、背中を軽く叩いた。
 「ん? 何?」
 「悪い。俺、先に2階見てくる。お前順番にゆっくり見てろよ」
 「え? …あ、うん。でも、何かあったの?」
 キョトンと目を丸くする蕾夏に、瑞樹は曖昧な返事を残した。

***

 ゆるやかな螺旋階段を上がった2階ギャラリーにも、1階と同じ位の点数の絵が展示されていた。
 絵ではなく、そこに群がる人々1人1人に目を移す。そして―――部屋の一番奥に、昔の面影を僅かに残したその人を発見した。
 1人で歪んでしまった絵を掛け直している彼の所に駆け寄った瑞樹は、ちょうど背を向けていた彼の背中を1度叩いた。
 「慎二(シンジ)さん」
 驚いたように振り返った彼は、瑞樹の顔を見て、更に驚いたような顔になった。
 「な…成田君!? え!? どうして!?」
 「どうして、って…俺の方がどうして“どうして”だよ」

 実に6年半ぶりの再会だった。
 工藤慎二―――大学時代の先輩・飯島多恵子の、一番傍にいた人だ。
 瑞樹と飯島多恵子の関係は、表面上、あまり深くはなかった。久保田という共通の友人がいた。ただそれだけ。学部こそ同じだが、接点はなかった。ただ1ヶ所―――1日の最後に煙草を吸うために上がる、屋上を除いては。
 偶然、屋上で鉢合わせた2人は、初対面の時に、すぐに察した。ああ、こいつ、同類なんだな、と。
 どうやっても癒すことのできない傷を抱え、半ば死にかけた状態で生き続けている人間。瑞樹も多恵子も、そういう人間だった。ただ、同類とはいえ、2人には決定的な違いがあった。
 瑞樹は、傷を抱えたまま生きる事を選んだ人間。…けれど、多恵子の望みは、死ぬこと。ただ、それだけだった。
 以来、彼女が実際にその望みを叶えるまでの、3年半ほどの間―――瑞樹は僅かながら、彼女との接触を持った。でも、その多くは、言葉すらかわさず、ただ隣に座っているだけ。わかっていた。彼女は、瑞樹の姿を見ることで、この世には自分以外にも仲間がいるんだ、と実感して、安心したいのだ、と。
 工藤慎二は、そんな多恵子の、世間で言うところの「彼氏」だった男だ。
 一時は、一緒に暮らしたりもしていた、いわゆる、男と女の関係だった人物―――でも、その実は、自殺願望に蝕まれた多恵子の、いわば「心の避難所」的な人物だった、と言った方が正しい。
 瑞樹は、撮影スタジオでバイトをしていた時に、偶然慎二と知り合ったのだが、彼が持つ独特の柔らかいムードにのまれ、ひねくれ者の瑞樹までがなんとなく仲良くなってしまった。若くして他界した彼の兄が、生前フォト・ジャーナリストを目指していた、ということもあるし、絵と写真という似た世界を趣味にしていたこともあって、彼が尾道へ行ってしまうまでは、しばしば顔を合わせ、話をしていたのだ。

 「いつ東京に戻ったんだよ」
 まだ信じられない気分で瑞樹が訊ねると、慎二は、昔と変わらない柔らかい笑みを返した。
 「…去年の春。ちょっと事情があって。成田君、なんでこんなギャラリーに?」
 「いや、偶然見つけて―――震災が題材だったんで、入ってみただけなんだけど」
 「そっか。…いやぁ、でも、久しぶり。なんか、凄く嬉しいな」
 慎二はそう言って、瑞樹に手を差し出した。
 昔から、芸術家っぽい、しなやかで繊細な手をしていた。風貌はかなり変わったが、その手は変わっていない。瑞樹は、差し出された手を握り、やっと笑顔を見せた。
 「でも、成田君、全然変わらないな。今でも学生で通用するんじゃない?」
 「…どうせ、服装も代わり映えしねーよ」
 「あはは、そういえば服装も同じだね」
 「慎二さんは、変わったな」
 かつては短かった髪は、今は肩の下辺りまで伸びていて、後ろでひとつに束ねられている。ちょっと日本人離れした綺麗な顔立ちは、6年半経ってもあまり変わっていない。が、ファッションなのか目が悪くなったのか、洒落たフレームの眼鏡をかけているので、少し違った印象だ。いつもパーカーにゆとりのあるジーンズ姿だったから、こんなスーツ姿は初めてかもしれない。いや―――初対面の時はスーツ姿だったな、と思い直す。モデルのアルバイトを頼まれてしまった慎二は、着なれないスーツでぎこちなくカメラの前に立っていた。あれが、初対面だったのだ。
 「―――6年半あれば、この位は変わるよ。来年の春には、30になるんだし」
 困ったような笑みを見せ、慎二は、束ねきれずに顔にかかった髪の細い束を掻き上げた。今でもモデルで通用するよな、と、その少しアンニュイなムードを持つ綺麗な顔を瑞樹は眺めた。
 「ところで―――慎二さんて、神戸と関係あったか? 俺、全然聞いたことねーけど」
 「あー…、うん、ほんとは関係ないんだけどね」
 瑞樹の当たり前の指摘に、慎二は、少し言葉を濁した。言い難そうに、ちょっと視線を逸らす。
 「ちょっと、いろんな偶然が重なって―――震災の2日後から暫く、震災の現場にいたんだ。神戸に住んだのはその時だけだけど…やっぱり、その場にいただけに、いろいろ思うところがあってさ」
 「へぇ…。ボランティアか何か?」
 「いや、そういう訳じゃ」
 慎二は、やたら歯切れが悪い。思わず眉をひそめる瑞樹に、慎二は余計、言い難そうな顔をした。それでも、なんとか口を開く。
 「…実はオレ、震災で親亡くしちゃった子を引き取ったんだ」
 「―――え?」
 ちょっと意外な展開に、瑞樹は目を丸くした。
 「といっても、養子縁組したとかじゃなく、ただ身元引受人になっただけだけど。すっかり焼け落ちてしまった家の前で、膝を抱えて泣きじゃくってるの見て、放っておけなくてさ。―――その子の親の葬式だの公的な手続きだので、バタバタしてたら、2週間位あっという間に過ぎちゃって…。その時の記憶を辿って、絵を描いたんだ」
 慎二らしくないな、と思った。
 慎二は、確かに優しい男ではあったが、そういう慈善的な事にはあまり興味を示さないタイプだった。社会の荒波に揉まれるのが耐えられない方で、高校を卒業してからは、進学も就職もせずに、フリーターをしながら路上で似顔絵描きをやってたのだ。フワフワとこの世を漂うように生きるヤツ―――それが、瑞樹の知る慎二だ。彼が子供を引き取るなんて、全然イメージできない。
 …でも。
 6年半もの月日があれば、価値観も変わる。自分がそのいい例だ。6年半前の自分と今の自分なんて、外見こそあまり変わってないものの、中身はほとんど別人なのだから。
 「…そうか。でも、良かった。慎二さんが、今も絵を描いてて」
 静かな笑みを浮かべて瑞樹がそう言うと、慎二は照れたような笑い方をした。
 「今は、挿絵とかちょっとしたイラストなんかで生計立ててるから、ただ楽しく描くだけじゃなくなって、結構苦しいけどね」
 「プロになったんだ」
 「うん。まだ一流ではないから、絵だけでは食ってけないけどね。成田君は? 今も写真続けてる?」
 「―――ん…まぁ、今その過程にいるとこかな」
 イギリス行きの話をしようかと思ったが、簡単に説明できるとも思えない。瑞樹は、曖昧なニュアンスで言葉を誤魔化しておいた。
 とにかく―――2人とも、あの頃「どうせプロになるのは無理だ」と諦めモードに入っていた割には、今もしっかり絵と写真の世界に生きている訳だ。その事に、瑞樹は心を和ませた。

 「―――ところでさ」
 慎二の声が、少しトーンを変える。
 「…訊いて、いいかな。―――多恵子は、いつ…」
 ―――“死んだのか”。
 慎二が口にしなかった部分が、言葉にならない言葉として、瑞樹に届く。瑞樹は、少し表情を硬くした。

 知っている。慎二が何故、あれほど愛していた多恵子と別れて、恩師の誘いに応じて尾道へと去ったのか。
 慎二には、どうしても耐えられなかった。愛しているからこそ、たとえその場にいなくとも、多恵子がこの世を去るのが―――去ってしまったと認めることが。だから、一切の連絡を絶つという約束のもと、別れた。

 少し眉をひそめるようにして自分を見つめる瑞樹を見て、慎二はクスリと笑った。
 「…大丈夫。実はもう、死んだことはほぼ確信してるんだ」
 死、という言葉を使えるまでにはなったのか―――瑞樹は、強張りそうになった肩の力をゆっくり抜いた。
 「―――震災の前の年の、12月に…」
 「…そっか…」
 慎二の笑顔が、寂しげに揺らいだ。微かな溜め息と共に、彼はポツリと、呟いた。
 「―――やっぱり、運命だったのかもしれないな」

 何が、と、瑞樹は訊けなかった。なんとなく、慎二のムードが、その質問をされるのを拒否しているような気がして。

 その意味を瑞樹が知るのは、もう少し先のことだった。

***

 ―――あ。この絵…。
 1人で1階のギャラリーを回っていた蕾夏は、1枚の絵の前で足を止め、思わず顔を綻ばせた。
 ―――いい絵だなぁ…、優しい色してて。
 倒壊した建物や真っ赤に燃える空、道端でうずくまって泣く少女―――そんな絵が続く中、その絵は、唐突な位に優しい絵だった。
 50号位の大きさだろうか。適度な大きさのキャンバスに描かれていたのは、1本の向日葵だった。
 廃墟を表しているのだろう。殺伐としたグレーの大地に、1本、向日葵がぽつんと立っている。そのバックは、真夏らしい鮮やかな青い空だ。
 全体のタッチは淡い感じだが、のびやかな向日葵も、背景の青空も、夏の空気をよく表していた。いい絵だな、と感心する。そういえば、この絵は、入口に貼られていたポスターの絵だ。これが、いわば「展覧会の顔」として選ばれたのも当然のことだ、と蕾夏には思えた。
 もしかしたらこれは、長田区なのかもしれない。何一つ残らぬほどに焼き尽くされたと聞いたから。大学時代のあの友人は、変わり果てた故郷で、どんな思いをしただろう―――家族は無事だったんだろうか。大学を辞めた後、あの明るい笑顔をちゃんと取り戻しているだろうか。
 画面の真ん中に立つ向日葵は、そんな記憶の中の友に「がんばれ」と言ってる気がした。

 ふと視線を感じ、蕾夏はくるりと後ろを振り返った。
 ちょうど、この絵を見ていた人物と、目が合ってしまう。蕾夏もどきっとして慌てたが、相手もちょっと慌てた顔をした。
 高校生か大学生か―――成人式を迎えてるかどうか微妙な位の年齢の、女の子。ぱっちりとした目元の、ちょっとコケティッシュな感じのする可愛い子だった。外から入ってきて間もないのか、ギャラリー内は暖房が効いているのに、彼女はまだダウンジャケットを羽織ったままだ。
 彼女は、何か言いたげな顔に見えた。
 見知らぬ人に話しかけるなんて滅多にしない蕾夏だが、その表情に、思わず先に口を開いた。
 「いい絵だよね」
 にっこり笑ってそう言うと、彼女は、ちょっとうろたえたような顔をした後、何故か不貞腐れたように視線を逸らした。
 ―――あれ?
 予想外な反応に、ちょっと戸惑う。彼女は間違いなく、蕾夏と同じ位の長い時間、この絵を見ていたと思う。ずっと視線を感じていたから。だから、よほどこの絵が気に入ったんだな、と思ったのだが…。
 「…ちっとも、いい絵なんかじゃないよ。この絵」
 視線を逸らした彼女が口にした言葉は、更に予想外だった。
 「そう?」
 「だって、こんな光景、あり得ないもの」
 「…あり得ない?」
 「―――あなたも、やっぱり被災者じゃないんだ」
 皮肉っぽい笑みを浮かべ、彼女は蕾夏の方を見た。
 「いい? 町中が焼け野原になったの。家は勿論、家が建ってた土の上だって、火が舐めるようにして進んでいったの。庭木はおろか、雑草だって燃えちゃったのよ。そんな土地に、どうして向日葵なんかが咲くのよ」
 「……」
 「馬鹿馬鹿しい―――御伽噺もいいとこ」
 吐き捨てるようにそう言うと、彼女はまた視線を逸らした。それを見ていた蕾夏は、何とも言えない気分になった。

 ―――そうか。
 被災者なんだ。この子。

 苛立ったように向けられたあの目の意味が、なんとなくわかった。
 震災当時も、確かにいた。倒壊した建物の前でVサインをして記念撮影をしている、全然無関係な他県からの“見物客”。ほんの1ヶ月前まで、そこで当たり前の日常を暮らしていた人々のことなど考えもせずに、20世紀の終末に起きた世紀の大イベントに参加しない手はない、とばかりにゾロゾロやってくる若者たち。
 彼女から見たら、あれから間もなく5年とはいえ、こういう展覧会に足を止める客も、そういう連中と同じに見えるのかもしれない。人の不幸の記録を見て、同情したようなフリをする連中―――廃墟に咲く向日葵を見て笑顔を見せる自分も、現実を理解していない奴、と彼女の目には映ったのかもしれない。

 「―――ごめん。気分悪くさせちゃったみたいだね」
 困ったような笑みを浮かべて、蕾夏がそう言う。
 すると彼女は、少し眉をひそめ、蕾夏の顔をじっと見た。
 「うん。私、震災の現場には行ってないの。行きたかったけど、足止め食らっちゃって無理だったんだ。そうだよね…ニュースで見た映像だと、こんな風に向日葵が咲くとも思えないよね」
 「…変な人」
 視線を泳がせた後、彼女はそう言って、1歩蕾夏の傍に歩み寄った。でも、目を見るのは困るらしく、あらぬ方向に視線を逸らせている。その、照れたような、まだ不貞腐れているような態度が微笑ましくて、思わず笑ってしまいそうになる。
 「―――でもさ、やっぱり私、この絵好きだなぁ…」
 さっきより距離の近くなった彼女の気配を斜め後ろに感じながら、蕾夏は再度、絵に目を向けた。
 「現実にありうるか、ありえないか、それは問題じゃない気がする―――きっとこれ描いた人、あなたみたいな人に“がんばれ”って言いたくて、これ描いたんだと思うよ」
 「…私みたいな人…?」
 「うん。なんかね…この向日葵が咲いている廃墟。これも、現実のものじゃないと思うんだ」
 「―――どういう事?」
 「…この廃墟って、風景じゃなくて“心”なんだと思う。…私さ、震災をきっかけに二度と会う事のなかった友達がいるけど、今一番気になるのって、彼が震災の後、ちゃんと笑って生きてるかどうかなんだ。今もまだ、この絵にある廃墟みたいに、殺伐とした心のまんまでいるんだとしたら―――それって、悲しいと思う」
 「……」
 「この絵描いた人も、きっと私と同じ思いでいると思うよ。がんばれ、挫けるな、って―――そういうエールを、この向日葵の花に託してるんだと思う。…違うとしても、私にはそう感じるの。だから、この絵は好きだよ」
 こういうのも、ただの想像だ、って言われちゃうのかな―――そんな風に思いながらも、蕾夏は本音を口にした。
 実際のところ、この絵を描いた人の心など、蕾夏にだってわからない。けれど、この絵を見て蕾夏がそう感じた、それは動かしがたい事実だ。そう感じさせるものがこの絵にはあるのだから、それが描き手が絵に託したものの一部なのではないか―――そう信じるしかない。
 黙っている彼女が気になって、蕾夏はもう一度、背後を振り返った。
 彼女は、何故か驚いたような顔をして、蕾夏を見ていた。さっきまでの憮然とした顔とのギャップに、蕾夏も驚いたような顔になってしまう。
 「…あの、どうかした?」
 「―――う…ううん、違うの」
 蕾夏としっかり目が合った途端、その顔が真っ赤になる。
 慌てて俯いた彼女は、また1歩、蕾夏の方に近寄った。煮え切らない態度で、前で組んだ手を落ち着かなく何度も組み直していたが、やがてチラリと目を上げた。
 「…ありがとう」
 「え?」
 突如言われた感謝の言葉に、蕾夏は目を丸くした。
 「あ、あの―――絵を、褒めてくれて、ありがとう。ほんとは…褒めてくれて、嬉しかったの」
 「? どうして、あなたが?」
 「…この絵、描いたの、私の恋人だから」
 「え!?」
 ―――恋人が描いた絵に、あんな顔する事ないじゃんっ!
 思わず言いたくなってしまうが―――まあ、照れもあったのかもしれないし、描くまでに彼との間でいろいろ確執があったのかもしれないし、…とにかく、蕾夏には推し測れない部分もあるだろう。
 にしても、この子の恋人だとしたら、もしかしたらまだ学生かもしれない。上手いなぁ、と、改めて背後の絵を返り見た。
 「―――でも、不思議」
 唖然としている蕾夏に、少し余裕を取り戻した彼女は、やっと顔を上げ、何故か感慨深げな笑みを見せた。
 「あなた見てると、なんだか、彼のこと思い出す」
 「…え?」
 「困ったような笑い方とか、どうしてそんな風に思えるの、っていう位、優しい考え方とか―――顔とか全然似てないのにね。持ってるオーラが、どこか似てるみたい。あなたと彼って。似てるから…だから、どういうつもりで描いたのかが、わかるのかな…」
 彼女はそう言って、視線を絵に向けた。

 ―――どうして、そんな目をするの…?
 恋人が描いたという絵を見つめる彼女の目を見て、蕾夏は不思議に思った。

 彼女は、とても寂しそうに、辛そうに見えた―――まるで、報われない、苦しい恋でもしているみたいに。

***

 慎二を伴って階下に下りると、慎二の絵の前にいる蕾夏をすぐ見つけられた。
 「蕾夏」
 声をかけると、絹糸みたいな黒髪がピクン、と動き、続いてパッとこちらを振り向いた。
 遅れて続く艶やかな髪のせいで、彼女の動きはいつもどこかスローモーションに見える。そういう時、つい見惚れてしまう自分に気づく。見慣れてる筈なのにな―――と、瑞樹は思わず苦笑した。
 「瑞樹。2階の用事、終わったの?」
 フワリと笑う彼女に、瑞樹は軽く頷きながら、傍らにいる慎二を軽く押し出すようにする。
 「ああ。終わった。―――蕾夏、この人、その絵の作者。俺の古い知り合い」
 「え!? そうなの!?」
 蕾夏の目が、宝物発見時のキラキラした目に変わる。それですぐわかった。ああ、この絵を気に入ったんだな、と。
 「凄い偶然! 瑞樹の知り合いさんだったなんて…。あ、あの、藤井蕾夏です」
 あがってしまったようにそう言って蕾夏が手を差し出すと、慎二がドギマギしたような顔をして、チラリと瑞樹の方を見た。
 「ええと、彼女は…」
 「―――さっき話した奴だよ」
 「…ああ、あの」
 ニッ、と笑う瑞樹の答えに、慎二は納得したような笑みを見せた。逆に蕾夏は、訝しげな顔になる。
 「さっき話した?」
 「あ、いや、なんでも。…どうも。工藤慎二です」
 慎二独特の柔らかい笑みを浮かべると、慎二は蕾夏の手を握って軽く握手をした。
 「びっくりしたな―――こんな、妖精みたいな人だとは想像もしてなかった」
 慎二がサラリと口にした言葉に、瑞樹が僅かに眉を上げ、蕾夏が僅かに頬を紅潮させた。
 「あ、あはははは、そんな―――あの、さっき話した、って」
 「慎二」
 蕾夏の背後に隠れて見えなかった人影が、蕾夏の言葉を遮るようにして口を挟んだ。その場にいた3人の目が、自然、蕾夏の背後へと向けられる。

 次の瞬間。
 瑞樹は、目を疑った。

 「―――…」
 絶句する瑞樹の横で、慎二はちょっと驚いたような顔をした。
 「透子(とうこ)。来てたの?」
 「こんな事でもないと、慎二のスーツ姿を拝む機会もないかと思って」
 透子と呼ばれた彼女は、そう言って、口の端を上げて笑った。その笑い方までが、遠い過去の記憶を呼び覚ます。瑞樹は、全身が粟立つのを感じた。
 「…勘弁して欲しいなぁ…。オレ、こういう服装、苦手だから。早く着替えたい」
 「だぁめ。佐倉さんにせっかくコーディネートしてもらった服なんだから、期間中はこれで通さなかったら許さないよ」
 “佐倉さん”!?
 その名前に、瑞樹はもとより、蕾夏も目を丸くした。
 佐倉―――当然、あの、佐倉みなみのことだろう。確かに佐倉と慎二も面識はあるし、かつてモデルのアルバイトを慎二に依頼したのは、他ならぬ佐倉みなみだ。だが―――…。
 瑞樹らしくない、少しうろたえた顔を慎二に向ける。
 瑞樹の動揺の理由は、慎二もわかっているのだろう。静かに笑みを浮かべると、透子に少し歩み寄り、その柔らかそうなミディアムショートの頭に手を乗せた。
 「成田君。この子は、井上透子。今、成田君が通ってた大学に通ってるんだ」
 「―――あの…もしかして」
 「…そう。さっき話した子だよ」

 さっき、話した子。

 ―――…実はオレ、震災で親亡くしちゃった子を引き取ったんだ。
 すっかり焼け落ちてしまった家の前で、膝を抱えて泣きじゃくってるの見て、放っておけなくてさ―――。

 どういう声を出せばいいか、わからない。
 けれど、どんな声も、どんな言葉も、無意味だろう。それは慎二の今の表情を見れば、明らかだった。気づいていない訳がない。多分、最初からそれを承知で、彼女を引き取ったのだろう、慎二は。
 いや、むしろ―――井上透子でなければ、慎二は引き取ったりしなかったかもしれない。

 ―――似ている。
 あまりにも、似ている。
 勿論、細かなパーツは、全く異なっている。けれど…たった1ヶ所、あまりにも酷似しているので、瑞樹も思わず目を疑ったほどに、まるでいる筈のないその人が現れたかのように感じられた程、似た顔に見えたのだ。

 透子の、まるでペルシャ猫のような、拗ねたような色合いをした大きな目。
 それは、飯島多恵子の目と、瓜二つだった。

***

 「えっ…、あの人、“多恵子”さんの彼氏だったの?」
 蕾夏の反応に、瑞樹は思わず足を止めた。
 「―――お前、知ってんのか? 飯島さんのこと」
 「…うん。断片的にだけど、佳那子さんから聞いた。でも…多恵子さんて、久保田さんが好きだったんじゃないの?」
 「…こえーな…女の情報網って」
 呆れたような、感心したような溜め息をつき、瑞樹はまた足を進めた。ちょうどその時、薄暗くなってセンサーが働いたのか、歩道に並ぶ洒落たデザインの街灯が一斉に灯った。
 「俺にも、詳しい事はわかんねーけど…いろいろあったからな。飯島先輩にも」
 「ふぅん…そうなんだ。あの人が多恵子さんの彼氏かあ―――…」
 妙に感慨深げにそう言うと、蕾夏は小さな笑い声をたてた。
 「苦労しただろうけど、きっと楽しかっただろうね」
 「そうかな」
 「だって、佳那子さんの話しぶりからすると、多恵子さんて、凄く豊かな生き方をした人だったと思うもの」
 「……」
 歩き出したばかりだというのに、また足を止めてしまった。すぐにはそれに気づかなかった蕾夏は、数歩歩いた所でそれに気づき、慌てたように瑞樹を振り返った。
 「え? どうかした?」
 信じられない、という顔をしている瑞樹に、蕾夏は、まずい事でも言ってしまったのだろうかと、俄かに焦りを感じた。
 が、瑞樹はすぐに表情を崩し、苦笑を浮かべて前髪を掻き上げた。
 「―――いや。なんでもない。…ただ、お前って凄いな、と思っただけ」
 「は?」
 蕾夏が佳那子からどれ程の事を聞いたのかは、わからない。けれど―――佳那子だって、多恵子の本当の顔は知らないだろう。蕾夏に伝えられたのは、多恵子の持つ顔の断片的な欠片だけに違いない。
 その欠片の中から、真実の顔を見つける蕾夏の能力は、やはり凄いと思う。彼女独特の第六感というか…。
 ―――こういうところが、こいつの怖さなんだよな。
 再び並びかけながら、瑞樹は思わず蕾夏の肩に腕を回した。肩を抱かれて歩くのに慣れていない蕾夏は、ちょっと身じろぎしたが、逃げることもなく、大人しくそのまま従った。
 「…あ、そうだ。瑞樹、“さっき話した子”って何? 慎二さんに私の事、なんて話したの?」
 瑞樹を見上げてそう問う蕾夏を見下ろし、瑞樹はニッと笑った。
 「秘密」
 「またぁ? 最近の瑞樹、ほんと秘密多くない? なんかムカつく…」
 「なんでもいいだろ。お前が嫌がるような説明はしてねーって」
 「ほんと?」
 疑いの眼差しで見上げる蕾夏に、「ほんとほんと」と答えておく。

 別に、変な説明などしていない。
 ただ―――ちょっと、蕾夏に直接言うには気恥ずかしいような説明だっただけで。

 「…まあ、いいけど。―――でもさぁ、大変だね、慎二さんと透子ちゃん。10歳位離れてるんじゃない?」
 とりあえず自分がどう説明されたのかはどうでも良くなったらしく、蕾夏は突然、そんなことに話題を変えた。
 「大変?」
 「だって、年の差カップルじゃない」
 「は?」
 思わず、眉をひそめる。
 「あの2人、別にカップルじゃねーけど…。慎二さん、娘か妹みたいなもんだって言ってたし」
 「え? そんな筈ないよ。絶対カップルだってば」
 「だって、あの子は、慎二さんが震災の時に身元引受人になって引き取った子だって聞いたぜ?」
 「でも透子ちゃんは、あの絵を描いたのは“私の恋人”だって言ってたよ?」

 瑞樹と蕾夏は、同時に足を止めた。
 かみ合わない会話に、2人はよく似た感じに眉をひそめ、互いの顔を見つめた。

 「―――え???」


***


 「さっきの男の人、どういう知り合い?」
 向日葵の絵の前に佇み、透子は慎二を見上げた。
 「東京にいた頃の友達だよ」
 「でも、年離れてるよね。高校の後輩か何か?」
 その問いに、慎二は困ったような笑顔だけで答えた。
 ―――また、答えない気なの。
 神経が、ささくれ立つ。慎二が東京にいた頃の話になると、慎二はいつもこんな顔をしてしまう。佐倉に訊いても、適当に誤魔化されてしまう―――そのことが、透子はとてつもなく嫌なのに。

 何も知らないとでも、思ってるんだろうか。
 知ってるのに――― 一番、大切なことだけは。

 慎二がこの世で一番愛した人―――その人が、どんな顔をしていたかだけは。

 「…この前、ごめん。慎二」
 ポツリと透子が呟いた声に、慎二は不思議そうな目を向けた。
 「なに?」
 「この絵のこと、“大嫌い”なんて言って」
 「…ああ、そのこと」
 うな垂れる透子にくすっと笑い、慎二はその頭を優しく撫でた。
 「いいよ。透子の考えてる事は、よくわかってたから。オレも言い過ぎたよ。見に来なくていいなんて」

 “透子の考えてる事は、よくわかってる”―――…。
 ―――ホントに?

 私が何故この絵が嫌いだと言ったのか、慎二、ほんとにわかってる…?

 “向日葵が好きな子だったな…”。
 佐倉さんが、思わず口を滑らした、あの一言。
 あの一言が、それまで好きだったこの絵を、嫌いにさせたんだってこと―――慎二、ほんとに気づいてる?

 「…慎二…」
 きゅっ、と拳を握り締めると、透子は慎二を見上げた。
 自分が今、どんな目をしてるかわかる。慎二が困ったような顔をしているから、わかる。でも、こんな目をせずにはいられない。どうしたらわかってくれるのか―――どうすれば想いが伝わるのか、もう方法なんてわからないから。
 「…そんな目、しちゃ駄目だよ」
 くしゃっ、と透子の髪を掻き混ぜると、慎二は少し身を屈めて、他の客にはわからない位素早く、透子の額に唇を落とした。
 「外、寒かっただろう? 2階にコーヒー用意してるから、一緒においで」
 「―――…うん」

 ―――違う。
 私が欲しいのは、こんなキスじゃない。

 柔らかな笑顔を残して、先に2階に上がる慎二の背中を見送りながら、透子はまた拳に力を入れた。
 暗い目を、もう一度、絵に向ける。透子は唇を噛んでしばしそこに佇むと、目を逸らし、慎二の後を追った。


 額縁の中では、透子ではない“あの人”が好きな花が、廃墟の中、青空をバックに揺れていた。

 



Step Beat「そら」まで何マイル のクロスオーバー、とか言いつつ、実は別の作品の一部だったりするのですが…(笑)
勘のいい人なら(というか、結城の性格をもう見抜いている方なら)これでわかっちゃったと思います。
Step Beat系シリーズ、もう1つ中編追加です(どこまで追加する気だ>自分)。
「そら」を書いてる途中、「これって、シンジはどうなっちゃうんだろう…なんか、1人だけ可哀想だよなぁ」と思ってしみじみしていたのです。
多恵子がまだ生きてると信じきって生きていく筈もないよな、と思って―――そしたら、いろんなエピソードが生まれてきまして。
つまりは、慎二(シンジ)と透子(トーコ)の2人のお話。震災から、「5年目の向日葵」の翌年あたり(いやもうちょっと先か)までの話です。
いつアップになるんだろう…もういい加減「Step Beat × Risky」やんないと、読者の皆様、絶対怒るだろうしなぁ。でも、この話も好きだし、うーん。

えーと、あとは、マニア向け情報。
多恵子の向日葵好きについては、「そら」のどっかに、ちらっとだけ出てきます。探してみましょう。
でもって、慎二の苗字―――工藤。見覚えがあるぞ、と思った人は、相当なフリークです。「Presents」に慎二のいとこが登場しております。ハハハハハ(^^;
(いとこも顔いいです。もしや外国の血が混じってるんじゃないかなぁ、彼の家系は…)


| Step Beat TOP | 「そら」まで何マイル TOP |


  Page Top
Copyright (C) 2003-2012 Psychedelic Note All rights reserved. since 2003.12.22