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※注:「Step Beat×Risky」中のお話(2000年2月)です。未読の方はご注意下さい。 |
そろそろ見慣れた感のあるロンドンの街並みの中で、2人がその変化に気づいたのは、“シーガル”の撮影が終わって10日ほど経った頃だった。
「気のせいかなぁ…。花屋さんが、少し前までに比べて、妙に目立ってない?」
よいしょ、とフィルムなどの入ったケースを持ち直しつつ、蕾夏が瑞樹を見上げる。
三脚とカメラバッグを抱えた瑞樹も、ちょうど同じことを考えていたところだった。何故なら、車道を挟んだ向こう側の道端に、赤いワゴンの臨時の花屋が店を出していたからだ。
「前からある花屋の店先も、微妙にいつもと違うよな」
「なんか、バラが大々的に店の前の方に大量に置かれてる気がする。この前まで、こんな風じゃなかったよね。何かあったのかな?」
「
「伝統行事かぁ…」
「おーい、もたもたしてると、置いてくよー」
よそ見をしていたせいで、無意識のうちに歩く速度が遅くなっていたらしい。ふと気づけば、前を歩いていた時田と、既に10メートル近く離れていた。慌てて、2人して歩調を速めた。
「瑞樹の言う通り、何かイベントがあるのかも。帰った千里さんに訊いてみよっと」
「そんなに気になるか?」
「最近、累君にも言われて、色々書いてるじゃない? イギリス独特の風習とかがあるなら、いい題材になると思って」
「なるほどな」
しかし―――現実は、2人の推測とは、まるで違っていた。
***
「明日は、私と淳也さん、外で食べてくるから。瑞樹と蕾夏も、外で食べてくるか、適当にキッチン使ってね」
その日の夕飯の席で、千里が、妙にウキウキした様子でそう言った。
「はぁい。でも、夫婦揃って外食って、珍しいなぁ。何かの記念日?」
蕾夏が訊ねると、千里はちょっと意外そうに目を丸くした。
「あらやだ。気づいてないの?」
「え?」
「2月14日よ。バレンタインデーじゃないの」
「……」
…そ、
それだ―――…!!!
質問する前に、答えが出てしまった。やたら目立つようになった花屋の裏事情を瞬時に察し、瑞樹と蕾夏は、心の中でポン、と手を打った。
「うちは毎年、クリスマスは家族で、バレンタインは夫婦で、って決まってるのよ。ね? 淳也さん」
「そう。日本のバレンタインデーは女性から男性に告白するものらしいけど、こっちではむしろ、男性が女性に花を贈ったり、食事に誘ったりするのがスタンダードだね」
「ヨーロッパでは“恋人の日”的な意味合いよね。どうして日本では、女の子の告白の日になったのかしら?」
「ああ、それを言うなら、どうして日本だけチョコレートなんだろうねぇ? 赴任中、会社で貰った義理チョコには驚いたよ。あれってどういう意味なんだろう?」
「うちの双子も、毎年いっぱいチョコ貰って帰ってきたわねぇ…。奏はあんまり好きじゃないみたいで、全部ひとかけらだけ食べて、残りはみーんな累にあげちゃうの。チョコに決めるからいけないのよね。いろんなもの贈るようにすればいいのに」
夫婦でひとしきり、バレンタイン談義を繰り広げた淳也と千里は、はた、とあることに気づき、向かいの席の瑞樹と蕾夏に目を向けた。
「「もしかして、忘れてたの?」」
「…………」
フォークを持ったまま、瑞樹が蕾夏を流し見る。
同様に、スプーンを持ったまま、蕾夏も瑞樹を流し見た。
答えるまでもなく―――2人揃って、この時まで、綺麗さっぱり忘れていたのだ。
「そう言えば、そんな日があったねぇ…」
「なくてもいいのにな、別に」
部屋に戻り、フィルムを整理しながら、それぞれにため息をついた。
そもそも、チョコレートが大嫌いな瑞樹にとって、チョコレートを大勢から押し付けられる日なんて、1年で最も憂鬱な日だ。2月14日が休日でも油断できない。敵は自宅まで押しかけ、居留守を使っても玄関の前に置いていくのだ。高校生までは近所の子供に配って処分していたが、いっそ俺をスルーして子供にあげてくれ、と毎年思ったものだ。
一方、蕾夏にとっても、バレンタインデーは全然ピンと来ないイベントである。勿論、蕾夏が13歳までを過ごしたアメリカにもバレンタインデーはあり、花束やチョコを恋人同士で交換したりしていた筈なのだが、瑞樹と出会うまで好きになった男性の数ゼロを誇る蕾夏には無縁な話だ。
「でも、去年、俺に写真集くれただろ」
「あー、うん。名目はなんでも良かったんだけど、ちょうどバレンタインデーだったから。考えてみたら、お父さんにあげる以外で、バレンタインデーに誰かに物あげたのって、あれが初めてかも」
「義理とかは? うちの会社の連中は、義理も飛び交ってたぞ」
「男性社員に比べて、女の子少なかったからなぁ…。女の子一同で、丸い缶に入ったチョコレート1つ買っておしまい、かな。コーヒーメーカーの横に置いといて、好きなように食べてね、って感じで」
「効率的だな。あいつらも、そうすりゃいいのに」
「…あ、そうだ」
ふと去年のことを思い出し、蕾夏はアルバムをベッドの上に置き、顔を上げた。
「瑞樹って、相当な数のチョコ、貰ったでしょ。去年訊いた時は教えてもらえなかったけど、貰ったチョコ、毎年どうしてるの?」
その問いに、フィルムを摘み上げようとしていた瑞樹の手が、ピタリと止まった。
「受け取り拒否? でも、瑞樹の会社の女の子たちってパワフルだから拒否しにくそう…。受け取った場合、どうしてたの? 嫌いなの我慢して食べる訳ないよね」
「当たり前だろ」
チョコの味を思い出し、思わず眉を顰める。気を取り直したようにフィルムを手に取った瑞樹は、そっけない口調で、答えた。
「受け取って、適当に片付けてた」
「片付けてた?」
「会社には、いろんな人間がいるからな。俺が食わなくても、それなりに消えてくんだよ」
「…なんか、不思議な話だね、それ」
「深く考えるな」
「???」
こうも頑なに真相を語らないところをみると、相当に極悪非道な方法で“片付けていた”のだろう。だが、どんな極悪非道な方法があるのか、蕾夏には全く思いつかなかった。ともかく、聞かない方が無難なんだろうな、ということで、もう訊くのはやめにした。
「ま、まあ……今年はこんなだし、来年以降も会社勤めみたいに1ヶ所に留まって仕事するような生活とは無縁そうだから、これからはバレンタインデーの苦痛から解放されるんじゃない? 良かったね」
「そうだな。これからは穏やかに過ごせそうだ」
そこで、バレンタインデーの話は、打ち切りになった。
そんなことよりも、今日の撮影の後始末と、明日の撮影の準備の方が、ずっと重要だ。瑞樹も蕾夏も、バレンタインデーのバの字も二度と口にせず、それぞれの作業に没頭していった。
***
翌日。淳也と千里は、朝から妙に機嫌が良かった。
「前から行ってみたかったレストランなのよ〜。なかなか予約取れなくて、毎年断念してたのよね〜」
「バイオリンの生演奏が楽しみだよ。ワインもかなりの年代モノがあるらしいから、ちょっと奮発するかな」
とっくに成人した息子がいるというのに、まるで新婚旅行のようなはしゃぎようだ。若いですね、とおちょくる気すら失せる。楽しんできて下さい、と言って、瑞樹と蕾夏は、撮影に出かけた。
昨日に引き続き、街中での撮影である。改めて店のショーケースなどをよくよく見てみたら、飾り付けのあちこちに「St. Valentine's Day」の文字が小さく入っていた。全然気づかなかった自分たちに、ちょっと呆れる。
「ああー、フィルム切れた。藤井さん、買ってきて」
「ハイ」
「次、あっち撮るから、成田君見てきて」
「はい」
時田の指示で町中走り回る中、この日ならではの風物詩をいくつか見た。大きな花束を購入する男性、カードを選ぶ女性たち―――しかし、それらを目にしても、時田が「ああ、今日ってバレンタインデーだっけねぇ」とコメントしたことは、一度もなかった。どうやら時田にとっても、バレンタインデーは関係のない行事らしい。特定の恋人がいる様子もないので、当然と言えば当然だ。
ところが。
「よし。今日はこれで解散」
予定よりかなり早い時刻で、腕時計を確認した時田が、突如そう宣言した。
「でも、この明るさなら、まだ撮れますよ」
瑞樹がそう言うと、時田はニヤリと笑い、すぐ近くの洋菓子店を目で指し示した。当然ここにも、「St. Valentine's Day」の飾りが施されていた。
「今日は、カップル専門イベントの日だろう? 僕はフリーだから無関係としても、君らには重要イベントだろうから、恩情で早めに解放してあげるよ」
「……」
別に重要じゃないんだけど、と言いたかったが、なんだかそう断言するのも憚られた。
どことなく釈然としないながらも、2人は時田の気遣いを素直に受け、予定外に早い時間に仕事を切り上げることとなった。
「どうしよっか。映画見るにしても中途半端な時間だよねぇ」
「うーん…どこ行くにしても、機材が邪魔だな。事務所寄るか」
話し合った結果、2人が向かったのは、時田の事務所だった。
時田は現場から自宅に直行してしまったらしく、事務所には誰もいなかった。邪魔な機材などを片付け、ホッと一息ついた2人だったが、こういう時に限って、余計なものを見つけてしまう。
「ああっ、この書類、明日までにタイプしとかないといけないんだった!」
「おいおい、このプリント放置しといたらまずいだろ。何やってんだ、時田さんは」
それぞれに、やっておかねばならない仕事を見つけてしまった2人は、そのまま事務所に居座り、黙々と仕事をこなした。
仕事を終えても、ちょうどそこに郵便物が届いたり、しかもその中身が時田が写真を撮った雑誌の最新刊だったりで、本を見たり片づけをしたり―――なんだか、いつも事務所にいる時と変わらないことを延々続けていたら。
気づけば、外は真っ暗だった。
「…そろそろ、帰る?」
「…そうだな」
こうして2人は、行きつけの店で、いつもと変わりないものを食べ、家路についたのだった。
***
瑞樹と蕾夏が一宮家に帰り着いた時、淳也と千里は、まだ帰ってきていなかった。
無人のまま丸1日経った部屋は、2月の冷気で冷蔵庫のように冷え込んでいる。コートを脱いだ蕾夏は、思わず身震いした。
「さ、寒いなぁ、今日も…。瑞樹、何か飲む?」
コートをハンガーにかけつつ、蕾夏が振り返らないままそう訊ねると、デイパックを片付けていた瑞樹は、考えるように少し首を傾けた。
「飲むならコーヒーか。…寒さ解消には、あまり役立ちそうにないな」
「カフェオレの方が、体があったまりそう。カフェオレでもいい?」
「ああ。コーヒー関連なら、なんでもいい」
そう話がまとまったところで。
「あの、瑞樹、」
「蕾夏、これ、」
同時に振り向いた2人は、そこで絶句してしまった。
ワインレッドの小袋を手にした瑞樹と。
濃紺の包みを手にした蕾夏と。
「…………」
まるで鏡を見てるみたいに、そっくり同じ表情で呆けている相手を、たっぷり15秒、言葉もなく見続ける。
そして―――同時に吹き出した。
「あははは、やだ、もー、コントみたい」
「それにしても、お前、一体いつそんなもん買ったんだよ」
「フィルム買いに行った時、こっそり買ってきたの。瑞樹こそ、そんな暇いつあったの?」
「時田さんに言われて、撮影ポイントに先に断り入れに行った時」
「ずるーい。全然興味ない、って顔してた癖に」
「お前にだけは言われたくねーよ、それ」
こうして、恋人同士になった瑞樹と蕾夏の初バレンタインデーは、和やかに幕を閉じた。
プレゼントの中身?
それは、2人だけの秘密、ということで。
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