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「成田さん―――あなたはいつも、どこを見てるんですか…?」
その声に、一瞬遠のいた意識が引き戻された。
「…なんか言った?」
「……いえ、なんでもないです」
煙草の灰が落ちそうになってるのに気づき、瑞樹は舌打ちして、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。時計に目をやると、既に午前1時を回っている。
「…帰る」
短くそう言い、立ち上がる。そのまま玄関に向かおうとした瑞樹の足を、彼女の声が止めた。
「終電はもう行ってしまったんじゃないですか?」
「いい。歩いて帰る」
「3駅も?」
「散歩にはいい距離だろ」
「…泊まってはくれないんですか?」
「俺、そーゆーだらだらした関係、嫌いだから」
「せめて、もう一度だけ―――ダメですか?」
ベッドの上で俯いて正座している体が、更に縮こまる。スカートの上で組まれた手が、小刻みに震えていた。無理をしている―――それはわかるが、そんな彼女の捨て身の作戦に、同情はしても、それ以外の感情は湧いてこない。
「…キリがないだろ」
「―――…もう、二度と、来ないで下さい」
「…わかった」
瑞樹は、玄関に脱ぎ捨てていたスニーカーを履くと、玄関のドアをあけた。11月の冷たい空気が、ただでさえ冷えてた部屋を更に寒くする。
ドアを閉めると同時に、その向こうから泣き声が聞こえた気がしたが、あえて無視した。ジャケットのポケットに両手を突っ込み、アパートの階段を早足に下りる。線路沿いの道に出ると、風が真正面から吹きつけて、瑞樹は思わず肩を丸めて首を竦めた。
「…さむ…」
“あなたはいつも、どこを見てるんですか?”
彼女のセリフを、今更のように思い出す。
「…さあ。どこなんだろう」
その答えを、瑞樹自身、持っていなかった。
***
「えーっ! 別れちゃったの!? もったいないっ!」
素っ頓狂な声をあげた和臣は、慌てて口を押さえ、身を縮めた。ここが公共の場―――通勤ラッシュの駅の改札であることを思い出したらしい。
「ま…また今回も早かったなぁ…。何ヶ月持った?」
「半月かな」
「…最短記録更新、おめでとう」
「褒めてねーよ、それ」
嫌味なやつ、という目で和臣を睨み、瑞樹はまたジャケットのポケットに手を突っ込んだ。スーツ姿の和臣にラフスタイルの瑞樹が並んで歩いていると、とても同じ会社の人間とは思えない。営業職とシステムエンジニアの違いである。社風なのか、システム部は瑞樹のようなラフスタイルが多い。
「でも、半月って言う表現も正確じゃないな。その間、会ったのってたった3回だから」
「はぁ!? 3回!?」
「部屋まで行かなけりゃ、もーちょい持ってたかもしれないけど」
「…成田って変だよなぁ。付き合いが深くなればなるほど、別れるの早いもんな」
「深くなればなるほど、恋愛感情がないのがよくわかるから、だろ」
はーっ、と大きなため息をついて、和臣はその綺麗な眉をハの字に歪めた。
「成田さぁ…結局好きでもなんでもないなら、続く訳ないじゃん。断れば?」
「断ってるよ」
「は?」
「断るのに、食い下がるんだよ。“好きじゃなくても構わない、他に誰もいないのなら、その間、彼女でいさせてくれ”って」
「…それでも断った場合は?」
「前にそれやって、ストーキングされた経験あるから、もう二度とやろうとは思わない」
「……」
「ストーカーって単語も浸透してない頃だったから、苦労したぞ」
「…さすがに、同情するなぁ」
好きな人の、一番近くにいたい。
彼女たちは口を揃えてそう言う。だからこぞって彼女とか恋人という称号を手に入れたがる。一番近くにいて、自分の思いの丈をぶつけ続ければ、いつかは瑞樹が自分を見てくれる筈だ、と思っている。遠くから見ているより、ずっとチャンスが多い、と。
でも実際は、彼女たちが近づけば近づくほど、ただ「諦めるまでの時間」が短くなるだけなのだ。
近づいてしまえば認めざるを得なくなるから―――どんなに尽くしても、どんなに愛しても、瑞樹は自分のことなどさっぱり見てはくれない、と。
「あ、奈々美さんだ! 奈々美さ〜ん!」
突如、隣を歩いていた和臣が、瑞樹の存在無視で走り出した。その後姿を目で追うと、確かに数十メートル先に、木下奈々美の小さな後姿があった。
―――この雑踏の中、よく見つけたなぁ、あいつ。
なるほど、愛の力は、偉大だ―――さっぱり報われてなくても。
***
どんなに嫌でも、4階の事務所に寄らなければ、会社に出勤することはできない。4階の受付横に、タイムカードがあるからだ。
が、今日はさすがに行き難かった。4階受付の奥―――顧客からの問い合わせに応じる“コール・センター”に、彼女がいるから。
まだ出社していないことを祈りつつ、事務所のガラス張りのドアを開けた。
「あら、成田君、おはよう」
ドアを開けた途端、あまり会いたくない人物に会ってしまった。「コール・センターの主」と呼ばれる村上頼子だ。
コール・センターはオペレーターの入れ替わりが激しいが、この村上はもう4年勤めている。年齢は瑞樹の1つ上なのだが、コール・センターでは最年長という気の毒な状況になっている。
いかにもキャリア・ウーマン、といったボディコンシャス気味なスーツと、常にきりりと結い上げている髪、少々派手すぎるメイクのため、確かに「大人の女」という演出には成功している。年上の女性に弱い新入社員などがとち狂って憧れてしまったりするが、瑞樹は社内で一番、この人物が嫌いだ。
「おはようございます」
抑揚のない声でそう挨拶し、瑞樹はタイムカードを押した。
「遠山さんなら、辞めたわよ」
負けじと、村上が抑揚のない声で言う。遠山――― 一昨日まで瑞樹の「彼女」を名乗っていた人だ。
村上を無視するつもりだった瑞樹も、さすがに足を止め、訝しげに眉を寄せた。
「辞めた?」
「昨日の日曜日の昼間、私の所に電話があってね。明日から会社には行けないので、って」
―――馬鹿、たかが失恋位で、不況だってのにせっかくの職を手ばなしたのか。
苛立って、思わず舌打ちをする。だから嫌なんだ、恋愛なんて馬鹿げたものに目の眩んでる女は。
「心当たり、あるんでしょ」
「ないですよ」
もう4階には用がなかった。瑞樹はまたガラスのドアを押し、廊下へ出て、階段へ向かった。
「ない訳ないじゃない。あなた、付き合ってたんでしょ? 遠山さんと」
村上は、しつこく瑞樹の後を追ってくる。からかうような、皮肉っぽい笑いを貼り付けたままで。
「もしかしてあなたたち、別れたの? それなら遠山さんが辞めるのも当然だと思うわ。あの子の神経じゃ耐えられないものねぇ、振られた相手と同じ会社なんて」
「……」
「まぁ、別れて正解だとは思うけど? あんな世間知らずなお子様じゃ、あなたの相手は無理だもの。今頃傷ついて泣いてるんじゃないの? 可哀想に―――」
階段の踊り場にさしかかった所で、瑞樹は急に振り向くと、村上の腕を掴んだ。
びっくりして目を丸くする彼女をそのまま壁際に追いやる。
「何をす―――…」
抗議するように顔を上げた村上の頬を、一瞬、瑞樹の拳が掠めた。
ガツッ!
鈍い音が、村上の耳元で響く。背中に当たった壁が、微かに振動したような気がした。衝撃に、村上の呼吸が止まった。
「―――あんまり俺を怒らせんなよ」
見下ろしてくる瑞樹は、微笑さえ浮かべている。が、間違いなく、今頬を掠めたのは、壁を殴りつけた瑞樹の拳だった。あと数センチ内側なら、村上が殴られていたに違いない。
滅多に見ることのない瑞樹の「本気」の表情に、村上の足は震えだした。
「マジでキレたら、殴る位の事は平気でするぜ―――顔の形、変わるのイヤだろ」
「そ…そんなことしたらあなた、傷害罪よ」
「ご自由に。3日以内に会社辞めないようなら、本気でやらせてもらうから、覚悟しといて」
つまり、殴られたくなければ会社を辞めろという脅しだ。村上は悔しげに唇を噛んだ。
「…酷い奴…」
「酷い? 遠山さんにある事ない事吹聴して追い詰めたあんたの方が、よっぽど酷いと思うけど」
「し…信じたあの子が悪いのよ。私はただ…」
「ただ? なんだよ」
村上の唇は血の気を失って震え、顔は紙のように白くなっている。ストーキングがバレた時も、こんな顔をしていたっけな―――と、瑞樹は2年前の村上を思い出した。
「…好きなのに…」
「知ってるよ」
「だったら、どうしてお前なんか大嫌いだって言わないのよ! 憎いって言わないのよ! あなたをこれだけ傷つけてる女に、なんで何も文句を言わないの!?」
目に涙を溜めて震える村上が、2年前と同じセリフを吐く。瑞樹は苦笑すると、2年前に言わなかったセリフを口にした。
「嫌いと思えるほどの存在価値すら、あんたにはないからだよ」
悔しげに歪んでいた村上の顔が、ショックを受けたような表情に変わる。
嫌われる方が、まだましだった。それほどの存在価値もない―――どんな拒絶より、冷たい言葉。
瑞樹はにっ、と笑うと、やっと拳を下ろした。
「あんたと俺は、一生相容れない関係なんだ。それに気づいてないのはあんただけ―――もうお遊びには十分付き合ってやっただろ。早く目ぇ覚ませよ」
村上は、答えなかった。ただ怒りとショックに震えて、瑞樹の顔を見つめている。
そんな彼女を残し、瑞樹は5階へと階段を上っていった。
―――相容れない関係、か。
「いてて…」
壁を殴った拳がにわかに痛み出して、瑞樹は右手を見下ろした。人差し指から薬指までの関節が、壁を殴りつけたせいで赤くなっていた。
―――相容れないのは、頼子さんだけじゃないけどな。
男と女なんて、創世記の時代から、相容れない関係なんだから。
消毒がわり、とばかりに傷口を舐めると、瑞樹は雑念をはらうように頭を振った。
顔を上げた彼は、既にいつもの冷静沈着な成田瑞樹に戻っていた。
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