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no006:
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-odai:96-

 

初メテノ電話ハ、カルチャー・ショック。

―98.01―

 3行読み進んだところで、またつまづく。
 ―――“acronym”って何だっけ。
 パラパラパラと辞書をひいて、それが「頭文語」という意味であるとわかる。
 さらに数行進んだところで、またつまづく。
 ―――“consider”って何だっけ。
 また辞書をひいて、それが「考える」という意味であるとわかる。普通に“think”とか“imagine”とか使えよ、と内心愚痴る。
 疲れてきて、それまで読み終わったページを数えた。約半分といったところか。大半を斜め読みしただけだが、それでもここまでくるのに2日かかっている。
 頭痛がしてきて、瑞樹は憎むべき敵を放り出した。

***

 「この間取り寄せた本、読み終わった?」
 プログラムにちまちまとコメントを入れていた瑞樹は、その一言に眉間に皺を寄せた。
 「まだ」
 「そう。まぁ、しょうがないわね。年末年始で取り寄せに時間かかっちゃったし、原書だもの」
 システム部全体のスケジュール表を睨みながら、佳那子はため息をついた。現在、部長の補佐的作業を任されているので、各人の進捗状況や作業の割り振りの確認などは、全て佳那子が行っているのだ。
 「でも、部長もヘンな事思いついてくれるわよねぇ。月に1度は勉強会、なんて、どこから拾ってきたのかしら」
 「企画からだろ。隼雄が前に、全く同じことやってた」
 「え? そうだった? じゃあ何、久保田が発案者?」
 「いや、隼雄は佐々木さんと同じで、ただ押し付けられただけ。発案は、あっちの部長」
 「…うちの部長と同期だったわよね」
 家族ぐるみで付き合いがあると聞いている。元凶は間違いなく、隣の部の部長だ。
 「全くもー…成田には、そんな勉強会より、やってもらいたい仕事山ほどあるのに」
 作業の割り振りがうまくいってないのか、佳那子は眉を八の字にして、スケジュール表に消しゴムをかけだした。

 システム部の部長・中川の発案で、今年からシステム部では、月に1回「勉強会」を開くことになった。新しい技術やIT産業の現状などについて、誰かが講師役となって簡単な講義を行う、というものだ。
 栄えある講師第1号は、くじ引きの結果、瑞樹になった。しかも講義テーマまでご丁寧に部長が用意していた。
 瑞樹も興味のあるテーマだったので、テーマ自体に異存はない。ただ―――そのテーマについて講義するには、日本語訳のまだ出ていない解説本を、まるまる1冊読む必要があった。
 コンピューター関連の専門用語は、英語の状態で日頃からよく目にしているので、単語を追っていれば大体の内容はわかる。
 が、その他の一般単語がかなり頭から抜け落ちているので、妙な動詞や形容詞でつまづいたりする。その上、ひたすらカンマで文章が繋がっていて、丸々1ページ近くピリオドがない文、なんてのが登場すると、「このitは何を指してるんだ」「このthatはどこにかかってるんだ」となり、いよいよ訳がわからなくなる。比較的短い言葉で成り立っている映画のセリフとの大きな違いだった。

 「まあ、あと1週間あるから、倒れない程度にがんばって」
 佳那子は瑞樹の肩をポン、と1回叩くと、他のメンバーのスケジュールを訊きに行った。
 なんとなく目で追うと、佳那子が声をかける度に、声をかけられた人物の背中がシャキッと伸びるのがわかった。そして、話をしていくうちに、だんだん背中が丸くなる。
 ―――どいつもこいつも、作業が難航してて、頭の痛い状態みたいだな。
 自分より年上の男性社員に「先輩が遅れててどうするんですか! シャキッとして、シャキッと!」と怒鳴りながらその背中をバン! と叩いている佳那子を見て、部長、いい人選したよな、と感心した。

***

 『(江戸川)ここ3日、来るのが遅いな>HAL』

 "江戸川"が指摘したとおり、瑞樹はここ3日ほど、午前1時を過ぎないと、チャットにアクセスできなくなっていた。
 勿論、理由は「勉強会」の本である。実は今だって、パソコンの前に座りながらも、キーボードの横には問題の本と辞書が広げてあるのだ。
 とりあえず斜め読みで、最後まで読破はした。が、どうしても訳のわからない個所が大量にあって、そういった個所の読み直しに瑞樹は追われていた。そういう面倒な個所に限って、一番重要な事が書いてあったりするので「ここは飛ばしてしまえ」といかないところが辛い。

 『(HAL)仕事が忙しくて>江戸川』
 『(江戸川)なんだ、mimiを避けてる訳じゃないのか>HAL』
 『(HAL)俺は避けてないよ。mimiいても、raiがいなければ平和だし>江戸川』
 『(江戸川)確かにそれは言えてるな>HAL』

 "江戸川"は、その名の通り江戸川区に住んでいるプログラマーで、このチャットルームでは良識派で通っている。おちゃらけ専門の"猫柳"と絶妙のコンビネーションを見せるので、2人のチャットはただ見ているだけでも面白い。だが、最近はその"猫柳"が出張続きで不在のため、"江戸川"も少々暇そうだ。

 『(HAL)でも、こんな時間に起きてて大丈夫なのか? 寝れる時寝とかないと>江戸川』
 『(江戸川)起きてるんじゃない。起こされたんだ。今も後ろで思いっきり夜泣きしてる>HAL』
 『(HAL)ああ、なるほど>江戸川』

 "江戸川"は、昨年末に1児の父になったばかりである。夜泣きが凄くて睡眠不足だ、とよく愚痴っている。
 だが―――ちょっと待て、と瑞樹は眉をひそめた。夜泣きしてる子供をほったらかしてチャットしてるのか?
 まさかそんな筈はないだろう。ということは当然、パソコンに向かう"江戸川"の傍らでは、"江戸川"の妻がむずかる子供をあやしている訳だ。
 寝不足の心配より、家庭内不和の心配をした方が良いのではないだろうか。

 『(rai)こんばんは>ALL』

 ちょうどそこへ、"rai"が入ってきた。今日はいつもより遅めの登場のようだ。

 『(HAL)こんばんは>rai』
 『(江戸川)あ、ちょうどいいところに来た>rai』
 『(rai)は? なんで? >江戸川』
 『(江戸川)HALだけ残して落ちるのが忍びなかったんだ。カミさんが睨んでるんで、そろそろ落ちないと、明日が怖い>rai』
 『(HAL)やっぱり…>江戸川』
 『(rai)あはは、そりゃまずいね>江戸川』
 『(江戸川)ではでは…おやすみなさい』

 瑞樹が心配した通りの展開となって、"江戸川"はチャットルームを出ていった。父親ともなると大変なのだ。

 『(rai)そういえば、HALが今読んでる洋書、実は今手元にあるんだ』
 『(HAL)え? なんでまた』
 『(rai)うちの部の先輩が、今日いきなり“読め!”って。半強制的に借りさせられた』
 『(HAL)変わってんなあ、個人で取り寄せか?』
 『(rai)超のつくコンピューターオタクだからね』

 気が知れない、と瑞樹は思った。仕事だからイヤイヤながらも読んでるのであって、こんなのを個人の趣味で読もうなんて(やから)は、瑞樹の理解の範疇外だ。もっとも、瑞樹にしたって、これが好きなカメラマンの写真集や自叙伝だったりすれば、ドイツ語で書かれてようがフランス語で書かれてようが、喜んで購入してしまうのだが。

 『(rai)で、どう? 進んでる?』
 『(HAL)一応斜め読みで最後まで到達した』
 『(rai)おお、凄いじゃん』
 『(HAL)けど、ワンセンテンスが長すぎる所とかが、意味不明のまま放置されてる。正直、まいった』
 『(rai)へー、珍しいね、HALが弱音吐くなんて。もう二度とないかもしれないから、ログとっとこうかな』
 『(HAL)うるせーよ』
 『(rai)あはは。で? どこでつまづいてるって? よければ訳すよ』

 そう言われて、思い出した。"rai"はバイリンガルで、英語は読むのも書くのも喋るのもネイティブ並みなのだった。
 瑞樹は問題の本を手に取り、パラパラとめくってみた。意味不明だった所には付箋が貼ってある。ざっと数えただけでも、その数は10ヶ所を超えていた。

 『(HAL)10ヶ所以上ある。チャットで訊くのは無謀だ』
 『(rai)わかった。携帯番号を教えなさい。こっちからかけるから』
 『(HAL)そりゃいくら何でも悪い』
 『(rai)へー、ますます珍しい、HALが気を遣ってるなんて。明日(ひょう)が降るかも』
 『(HAL)降るかっ!』

 ―――ったく、こいつは、時々口先に悪魔が棲みつくなぁ…。
 気を遣わせないための"rai"の心遣いなのはわかっているが、一本とられた気がして癪に障る。とはいえ、ここで意固地になると余計格好が悪いので、瑞樹は諦めて携帯電話を手に取った。

 『(HAL)今から書くから、メモして』
 『(rai)わかった。メモし終わったら、チャットは落ちるから』
 『(HAL)了解』

 瑞樹が携帯番号を書き込むと、間もなくして、チャットルームの参加者リストから"rai"が消えた。瑞樹も回線を切り、傍らに置いたウーロン茶をあおる。
 ―――そう、口先に悪魔は棲んでるけど、親切な奴ではあるんだよな。
 時計をチラリと見ると、午前1時半だった。これが久保田や和臣相手なら「時間なんて関係あるか、仲間なら協力しろ」とオレ様な態度をとる瑞樹だが、顔も名前も不明な人間が相手となると、さすがに気がひける。できるだけ早く、訊くこと訊いて電話を切ろう、と本を片手に密かに思った。

 と、その時、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
 液晶には、見覚えのない電話番号が表示されている。タイミング的に見ても、"rai"からの電話だろう。
 瑞樹は、通話ボタンを押し、携帯を耳にあてた。

 「はい」
 『もしもし』

 瑞樹の眉が、訝しげにひそめられる。
 誰だこいつ、というその表情は、数秒後―――ある可能性にいきあたった時に、驚いた顔にとってかわった。

 『もしもーし?』
 「――――――ッ!」
 絶句した瑞樹は、思わず“切る”ボタンを押してしまった。

 心臓が、にわかに鼓動を早めた。いや、うろたえるような事ではない筈なのだが、考えてもみなかった事態に、少々気が動転していたのだ。
 ―――なんで一度も疑ってかからなかったんだ?
 どうりでつかみどころがなかった訳だ。根本的に、認識の土台が間違ってたんだから。
 それにしても…これは、かなり、心臓に悪い。

 まだ動揺している瑞樹をよそに、また携帯電話が鳴った。覚悟を決め、瑞樹は再度電話に出た。

 「…もしもし」
 『ちょっと。いきなり切るってどういう根性?』

 やっぱり、耳元に届いてきたのは、心地よいトーンの女性の声(・・・・)だった。

 「…悪い。ちょっと予想外の展開に、俺らしくもなく動揺した」
 『は? なんで?』
 「今は訊くな。余計落ち込む」
 『落ち込む? らしくないなぁ―――ま、いいや。で? どこがわからないって?』
 「一応確認するけど」
 『え?』
 「ライ、だよな?」
 『…当たり前じゃない。ハルだってそのつもりで電話してるんでしょ? …っと、そうだ、忘れてた』

 受話器の向うの声が、あらたまるように咳払いする。

 『ハンドルネーム"rai"です。"HAL"さん、はじめまして』
 「…はじめまして」

***

 ―――これは、カルチャー・ショックかもしれない。
 午前3時。ほとんど電池の切れかかった携帯電話を見下ろして、瑞樹は言葉を失っていた。
 結局あの後、"rai"は見事な英語の発音を披露しながら、瑞樹が不明個所に挙げた部分を全部意訳してくれた。ものの30分もかからなかった。
 が、その後1時間―――映画の話やら会社の話、チャットルームの話題などで盛り上がってしまった。最終的には"rai"の携帯の電池が切れそうになったので、ようやくお開きになったのだ。
 正直なことを言うと、チャットで"rai"と話す以上に、面白かった。打てば響くというか、会話のテンポが心地良いというか、とにかく、他の人間と話す時に感じるストレスを、全く感じなかった。
 相手は、顔も名前も知らない奴なのに。
 しかも、日頃会話なんて全く成り立たない「女」なのに。

 ―――なんか、無性に、悔しい。
 やっぱりここでも一本とられた気がして、瑞樹は不機嫌に、携帯電話を床に放り出した。


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