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“藤井蕾夏”
管理人から受取った荷物の送り状には、そう書いてあった。
―――ふじい…読めねぇ。
『らいか、よ。ら、い、か!』
「…あぁ、それで"rai"なのか」
『そ。一見するだけじゃ、ハルのハンドルネームの方が意味不明だよ。成田瑞樹のどこにも"HAL"なんて入ってないもの』
3月も半ばになった頃、"HAL"と"rai"は、互いの名前と住所を交換する機会に恵まれた。
ライの叔父という人が現在山梨で苺の卸売り販売をしているそうで、東京で一人暮らしをするライの元に「ビタミン不足になるといけないから」と言って、大量の苺を送ってきたのだそうだ。1人では食べきれないほどの量を。
実家にはまた別途叔父から送られているので、実家にお裾分けという訳にもいかない。会社にも持って行ったが、
それまで、主にチャットと電話、連絡事項はメール、という付き合いをしていたため、お互いに本名を知る必要性など感じなかったが、さすがに物を送るとなるとそうはいかない。ひとまず瑞樹が住所や名前をメールで送った。そして無事届いた苺の箱には、初めて目にするライの本名が書かれていたのだ。
「でも…らいか、か。いい名前だよな」
『そうかなぁ。うちのお父さんがカメラ好きでね。“僕の大好きなカメラの名前でピッタリの名前がある!”…って言って、独断で決めたのがこの名前。一歩間違えたらミノルタとかニコンて名前にされたかもしれないと思うと、全然いい名前とは思えないよ』
「…悪かった」
『え?』
「俺が“いい名前だ”って言ったのも、お前の親父と同じ理由だ」
ライカ、とは、ドイツのライツ社(現在はライカ社)製のカメラのことだ。唯一とも呼べる動的趣味がカメラである瑞樹は、ライカの信望者でもある。おそらく、
『いくらカメラが好きだからって、娘にカメラの名前つけないでよっ』
「だから、悪かったって」
自分が名付けた訳でもないのに、つい、謝ってしまった。同じカメラ信望者である蕾夏父に同情したのかもしれない。
『第一ね。アメリカじゃ漢字で名前書く機会なんてなかったけど、帰国後は最悪。なまじずっと英語で育っちゃったから、中学生にもなって自分の名前書くのに四苦八苦する羽目になったもの。もっと簡単な字にして欲しかった』
「ああ、それは、わかる。俺も字画多くて、結構苦労した」
『…こうして並べてみると、“瑞樹”と“蕾夏”って、お腹いっぱいになるほど画数多いね』
伝票に縦に並んだ2人の名前を見て、瑞樹も苦笑する。確かに、やたらと密度の濃い字ばかり並んでいる。
「俺も自分の名前、あんまり好きじゃない」
『なんで? カッコイイじゃない“みずき”なんて』
「なんかなぁ…字面と自分自身が、どうもしっくりこないんだよな。“瑞樹”って言ったらこう、少女マンガとかに出てきそうな…」
『王子様タイプってこと?』
「ま、そんなとこ。会社に“瑞樹”って名前がピッタリな奴いるんだけど、実際にはそいつの方がよっぽど硬派な名前なんだよな」
勿論、瑞樹が言ってるのは、硬派な名を持つ和臣のことだ。瑞樹の頭の中では、“瑞樹”という字面には、和臣のような外見が馴染むらしい。
―――そういや、俺よりあいつの方が、よっぽどビタミン不足だな。
ふと思いつき、苺の箱を開けた。
中には、巨大な苺がずらりと並んでいた。あまりの巨大さにギョッとする。まさに「おばけ苺」といったところだ。結構な量が入っているので、和臣に分けてやっても、十分春の味覚を堪能できそうだった。
たまには親切にしてやるか、と、瑞樹はお裾分けを決めた。
***
「おおおおおおおっ!! アイベリーだっ!」
翌日、昼休みを利用して苺を渡すと、和臣は意味不明なことを叫びながらオーバーに喜んだ。
「…なんだよ、それは」
「知らないの? アイベリーと言えば、苺の最高級品種だよ。スーパーなんかには並んでないんだぞ」
「へぇ、お前、妙なことに詳しいなぁ」
「苺好きだから。サンキュー、有難く貰っとく。…あ、そうだ」
いそいそと苺の包みをしまいつつ、和臣は瑞樹の方に顔を向けた。
「成田の携帯って、ドコモのPシリーズだったよね」
「ああ」
「ちょっと、使い方教えて。オレもPに機種変更したんだけど、わかんないとこがあって」
取扱説明書など最初から読む気のない和臣は、前の機種変更の時も瑞樹を質問攻めにした。というか、瑞樹に教えてもらうのを織り込み済みで、必ず瑞樹と同じ機種に変更するのだ。
「…しつこいようだけどカズ、お前本当に東大卒か?」
「毎度毎度失礼な事を言うなっ。勉強のためのエネルギーを、18年間で使い果たしただけだっ。―――で。電話帳の登録の仕方なんだけど」
結局、昼休みの残りの時間は、2人して携帯片手に頭をつき合わせて過ごすことになった。
***
―――今日の夕飯はアイベリーだな。久々に豪華だ。
その日の夜。仕事の終わった和臣は、昼間瑞樹に貰ったアイベリーに思いを馳せつつ、軽い足取りで家路についていた。
―――スナック菓子とか食べてると、普通の夕飯入らないもんなぁ。コンビニの弁当も飽きるし。今日は午後から外回りで、途中久保田さんに吉野屋おごってもらったから、夕飯はアイベリーだけでいいや。あ、せっかくだから、安いんでいいからワイン買おうかなぁ。ワインと苺ってゴージャスでいいよなぁ。
そんな風に和臣は考えているが、久保田に吉野屋で牛丼をおごってもらったのは午後5時の話―――既に4時間半経過している。空腹に苺をワインで流し込むのは、ゴージャスというより暴挙である。
こういう乱れた食生活をしているから、和臣は極端に不健康だ。昨年、栄養失調で点滴を受けたりもした。でも本人は「奈々美さんが病室まで看病に来てくれた」という幸せなことばかり覚えていて、どういう生活をしたから栄養失調になったのか、ということは綺麗さっぱり忘れている。元々あまり頑丈ではないので、こんな生活を続けていればいつかは倒れるぞ、と周囲は心配しているのだが、和臣は全く意に介さない。
―――でも、そういえば成田、こんなもの誰から貰ったんだろう? もらい物、とは言ってたけど、あいつ、山梨に親戚とか友達なんていなかったよなぁ…。
明日、また聞いてみよう、と思った瞬間、胸に入れた携帯がブルブルと震えた。
慌てて、上着の内ポケットから携帯電話を取り出し、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『ハル?』
聞き覚えのない、女性の声。
「え? 違いますよ」
『あ、すみません』
間違い電話のようだった。少しガッカリしながら電話を切り、また携帯を内ポケットに入れようとする。
と、また、携帯が震えた。
…なんなんだ、一体。
無視する訳にもいかないので、また通話ボタンを押し、面倒くさそうに携帯を耳にあてた。
「もしもーし」
『ちょっとっ! つい条件反射で切っちゃったじゃないの!』
先ほどと同じ女性の声だった。しかも、怒ってる。
『昨日ちゃんとゴメンって言ったでしょ? まだ怒ってんの? 何も間違い電話のフリすることないじゃないっ』
「……」
…ちょっと、待って。何かが変だ。
嫌な予感がして、おそるおそる携帯電話を耳から離してみる。
最新のパナソニック製携帯電話。色はシルバー。付属の、なんの
……まさか。
「―――!!!」
さーっと頭の中が真っ白になり、和臣は反射的に通話を切った。
心臓が、バクバクする。どうしよう、どうしよう、と思考が空回りしたが、ふと、昼間瑞樹に言われたことを思い出し、この携帯の電話番号を表示させるべく、メニューボタンと0を押してみた。
案の定―――表示されたのは、紛れもなく、瑞樹の電話番号だった。
「うわ、やっちゃったよ…」
どうやら昼間、携帯の使い方を瑞樹に教わってる時に、瑞樹の携帯と和臣の携帯が入れ替わってしまったようだ。そういえば途中で、2人とも仕事の関係で声をかけられた際、机の上に無造作に携帯を放り出していた。手に取る時、どちらかが間違って相手の電話を持ってしまったのだろう。
普段なら、見分けがつく筈だった。瑞樹はいつも、今この携帯がそうであるように、付属のストラップをつけるだけで、シールも貼らなければ凝ったストラップをつける訳でもない。和臣は、ストラップを携帯の色や形に合わせて毎回変えるし、アンテナも着信時に光るタイプの市販品に交換する。だが今日は、まだ昨日機種変更をしたばかりだから、不幸にも付属ストラップをつけただけの「瑞樹仕様」になっていたのだ。
―――また、さっきの人からかかってきたら、オレどうすればいいんだよ…。
途方に暮れてるところに、また携帯が震えた。
「わあぁっ!」
危うく携帯を落としてしまいそうになったが、ディスプレイを見て、慌てて通話ボタンを押した。そこに、自分のフルネームが表示されていたのだ。
「成田!?」
『カズ! 今どこだ!?』
やはり、瑞樹からだった。和臣の携帯からかけてきているようだ。走ってでもいるのか、やたらと息の上がってるしゃべり方をしている。
「駅の改札通る直前」
『わかった。そこを動くな。絶対動くな。1分で行く。死んでも動くなよ!』
「…わかった」
『それと! 電話かかってきても、絶対取るな!』
「……」
―――もう取っちゃったよ、成田…。
切れてしまった電話を片手に、和臣は更に途方に暮れた。
***
それから1分後、瑞樹は、猛ダッシュという勢いで走ってきた。おそらく和臣の退社後すぐ位に携帯が入れ替わっていることに気づき、慌てて追いかけてきたのだろう。
「…成田、おつかれ」
「あぁ、マジで疲れた」
ゼーゼーと肩で息をしつつ、瑞樹は携帯電話を和臣の目の前に突き出した。
「早くいつもの“派手仕様”にしてくれ…。電話しようとしてお前の携帯だって気づいた時、生きた心地しなかったぞ」
「わかった。―――ついでに、ごめん。オレ、全然気がつかなくって、かかってきた電話に出ちゃったんだ」
途端、瑞樹の顔色が変わった。
「かかってきたって…誰から?」
「知らないよ。女の人。違いますって言って切ったけど、またかかってきたんだ。成田がからかってるとでも思ったみたい。でもオレ、そこで携帯入れ替わってるの気づいて、脊髄反射で電話切っちゃった」
「…サイアク」
ガックリ肩を落す瑞樹を見て、それほど大切な相手だったんだろうか、と内心ドキドキしてくる。
「…ま、いいや。俺の携帯かして」
力なく差し出された手に、携帯を握らせる。
「成田は、また会社に戻るの?」
「デバッグでつまづいてるから、もう少し残る」
「そ、か。じゃ、オレ、帰る」
「ん。お疲れ」
疲れた足取りで、今走ってきた道を帰っていく瑞樹の背中を眺めつつ、和臣はさっきの電話を思い出していた。
―――「ハル」って、一体誰??
着信時にちゃんとディスプレイを見てれば、相手の女の子の名前位はわかったんだろうけど―――と激しく後悔しつつ、和臣は、自動改札機に定期券を滑り込ませた。
***
『あはははははははは、やだもう、最高!』
和臣と別れた少し後、会社に戻る道すがら、瑞樹は不機嫌な顔で電話をしていた。間違い電話扱いされたことに腹をたてる蕾夏に事実を説明すると、そこまで笑わなくてもいいだろう、という位、盛大に笑われたのだ。
「笑うな。俺とカズの声、区別つかなかったくせに」
『だって無理だよぉ。もしもし、と、違いますよ、だけだし、バックに車の音とか入ってるんだもの』
「第一、いくら怒ってても、間違い電話を装って勝手に切ったりするかよ、失礼な」
『…やっぱ、まだ怒ってたの?』
彼女の声が、幾分シリアスになる。はーっ、とため息をついて、瑞樹は前髪を掻き上げた。
「怒ってねーよ、もう。まだ怒ってるんなら、そもそも電話しようと思わないって」
『全く、いきなり怒って電話切っちゃうから、心配したよ』
「そっちも似たようなもんだろ。すぐかけ直してくると思ってたのに、結局丸1日放置だし」
『こっちにだって意地はあるのっ』
「大体お前―――…」
何か言い返したくて瑞樹は口を開いたが、何も出てこなかった。
―――あれ?
「俺ら、昨日何が理由で喧嘩してたんだっけ?」
『……』
蕾夏の方も無言のままだ。やはり、昨日喧嘩して電話を切ったのは覚えているが、その理由は忘れてしまっているらしい。
「…お互い様みたいだな」
『…そうみたい』
「…ま、いいや。―――ところで、“ジャッキー・ブラウン”がそろそろ公開だよな?」
『うん。タランティーノかぁ…私、どうしようかな。観たいような、観たくないような』
通常の倍の時間をかけて会社までの道のりを歩きながら、瑞樹は、昨日の喧嘩の原因を頭の片隅で思い出そうとしてみた。でも、やっぱりどうやっても思い出せなかった。
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