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最近、システム部が騒がしい。
「取引先の女の子に手を出したって本当ですかっ!?」
「その子と打ち合わせ中にキスしてたなんて、絶対嘘ですよね!?」
「打ち合わせ終わった後デートしてたって噂もあるけど、それ、本当ですか!?」
次々に質問が飛び交うが、質問をされている筈の彼の耳には、ひとつも届いていない。
「―――あのね。成田、仕事モード入っちゃってて何も聞こえてないと思うから、諦めなさい」
ため息とともに佳那子がそう言うと、ズラリと並んだコール・センターの制服姿の女子社員は、「ホントにぃ?」という顔で佳那子を流し見る。佳那子が無言で頷くと、一同、ディスプレイから全く目を離さない瑞樹の方に、もう一度視線を送った。そして、どうやらそれが事実らしい事を察し、諦めてすごすごと去って行った。
ここ1週間、この調子で、日替わりで違うメンバーが質問に来ている。が、瑞樹は仕事に入ってしまうと雑談が耳に入ってこなくなる特殊な耳をしているため、当然、彼女たちの質問など聞いてはいない。だから仕方なく、その都度佳那子がフォローに入る羽目になっている。
とはいえ、2人が元々知り合いで、あの日は早々に仕事を片付けてあとは居眠りをしていた、なんて事実、到底公表できる筈もない。結局、第三者である佳那子にできるのは、ただただ質問してくる女子社員を追い払う事だけだった。
―――まぁ、私たちにも何も言わない位だから、たとえ聞こえてても、あの子たちに説明なんかする訳、ないわよねぇ。
2人が“親友”だけの関係ではなくなったらしい事に気づいている佳那子は、完全に仕事に没頭している瑞樹を見遣り、ダメもとで声をかけてみた。
「…で? 真相はどうなのよ」
無反応。しかし佳那子は、瑞樹を振り向かせる方法を、既に会得している。
「蕾夏ちゃんとは、その後どうなの?」
「別に」
弱い反応ながらも、一応返事を返す。
蕾夏、と言う単語を入れれば、短いながらもほぼ100パーセント答えが返ってくることに、佳那子はかなり前から気づいていた。その段階で、瑞樹の方の気持ちには気づいてしかるべきだった、と、自分のうかつさに呆れ返る。
「全く…あんたたちも人騒がせよねぇ…。デマならデマで、きっちり自分で対応しなさいよ。毎回私が対応してるんじゃ意味ないわよ」
佳那子がため息まじりにそう愚痴ると、瑞樹は視線はそのままで、軽く片眉を上げた。
「お互い様じゃねぇの?」
「…なによ。お互い様って」
「あれだよ、あれ」
そう言って瑞樹は、ディスプレイを睨んだまま、親指で自分の背後を指してみせた。佳那子の顔が強張る。
2人の背後には、じっと佳那子の方を見つめる男が一人。
「…ああ、あれね」
げんなりした。ほとんどストーカー状態で、一日中、行動を見張られているのだ。げんなりしない方がおかしい。
「佐々木さんとの間を疑われて、えらい迷惑かけられたよなぁ。あれ、カズたちの結婚式の直後位だっけ」
「あ、あの時は…申し訳なかったわ」
思い出すのも嫌な話だった。佳那子はこっそり、自分たちの背後でこちらの様子を窺う「彼」の姿を確認した。
この春入ったばかりの、システム部の新人・
***
樋沼は、その体格じゃキーボードを壊してしまうのではないか、と危ぶまれるほど、ごつい体格の男である。
中学・高校・大学と10年にわたってラグビーをしてたというから、その気になれば、本当にキーボードを潰す位、朝飯前だろう。身長も190をゆうに超え、比較的長身な佳那子でさえ、見上げると首が痛くなりそうだ。
樋沼は、自分が配属された部に咲く、5つ年上の紅一点の花に、一目惚れしてしまった。
が―――スポーツ一筋で、女性関連には酷く疎い男であったがために、アタックはおろか、話しかける事すらできない有様。故に、彼の行動は、傍目にはほとんどストーカー状態である。仕事中も休憩中も、彼の視線の先には、常に佳那子。声もかけずに物陰から自分を監視し続ける男を佳那子がどう思うか、この男はいまひとつ想像できないらしい。
樋沼のもっぱらの関心事は、佳那子に特定の恋人がいるかどうか、という点だった。
話しかけられもしない癖に、と周囲は苦笑してしまうのだが、勉強熱心な樋沼はその苦笑に耳を貸さない。佳那子の行動を毎日つぶさに観察し、誰と親しいのかをチェックし続けた。
そして、1ヵ月後。樋沼は、1つの結論を出した。
「成田先輩。ちょっと、お話があります」
ちょうど、和臣たちの結婚式のあった数日後。休日出勤がほぼ確実になって最高に機嫌を損ねている瑞樹のところに、樋沼がやってきた。
瑞樹の殺人オーラを知っている周囲の人間は、何度も樋沼を止めたのだが、猪突猛進型の彼の耳にそんな忠告は届いていない。憮然とする瑞樹を、樋沼は屋上に引っ張っていった。
そして、つきつけた言葉。
「あなたに、決闘を申し込みますっ!」
「―――…」
瑞樹の思考が、一瞬、止まった。
樋沼は、それから30分間にわたり、いかに自分が佳那子を愛しているか、いかに自分が女性に対して真面目な人生を送ってきたかを切々と説いた。そのあたりは、瑞樹でなくとも、社内の人間誰にとっても「今更」な話だ。
ついでに樋沼は、瑞樹には言い寄る女が大量にいること、そういった女性に対する瑞樹の態度が余りにも酷いという事まで説いた。余計なお世話だ、と、瑞樹は新人の巨漢を睨んだ。
「で? それがどうした訳」
「あなたが佳那子さんの相手だなんて、許せませんっ!」
―――はぁ!?
その一言で、どうやら自分が佳那子の相手と勘違いされていることに、瑞樹はようやく気づいた。
なんでそうなるのか、ちょっと理解に苦しむ。確かに席が隣だし、仕事も一緒の場合が多い。一緒に飲みに行く機会も多い―――実際には久保田が連れ出しているのだし、和臣や奈々美も一緒で、しかも飲み屋に着くとそこには蕾夏がいたりするのだが。そういった事が、樋沼の思考回路の中で、間違った解答に変換されてしまったのかもしれない。
冗談じゃないぞ、と思ったが、瑞樹が訂正する間もなく、樋沼は勝負を挑んできた。
「ですから、これで勝負して下さい! 僕が勝ったら、佳那子さんから手を引いてもらいますっ!」
そう言って樋沼が瑞樹の目の前に突きつけてきたのは―――何故か、簡易式のチェスゲームだった。
「…お前、チェスのルール、わかってんのかよ」
「知ってます! 僕の唯一の趣味です! ここ数年、負けたことがありません! 成田さんにだって、勝つ自信があります!」
雉も鳴かずば撃たれまい―――機嫌の悪い瑞樹に絡んでしまった樋沼の運命は、この瞬間、決まった。
「…あ、そう。―――いいぜ。定時過ぎたら、相手してやる」
そう言って、瑞樹はニヤリと笑った。
樋沼は、一世一代の勝負で、惨敗した。
しかも、ゲーム開始から、僅か数分で。
「残念だったな、樋沼」
悔し涙に暮れる樋沼を見下ろしてせせら笑いつつ、瑞樹は最後に、こうつけ加えた。
「ついでに言っとくと、俺、佐々木さんとはなんでもないから」
「…はい?」
「俺、他に欲しい女、いるから。勝負したのは、ただお前をからかうと面白そうだからなんで、そこ、勘違いしないようにな」
***
―――こっ、これは、強敵だ。
更に数週間、佳那子の観察を続けた樋沼は、真の敵らしき人物をついに割り出し、そのあまりの強敵ぶりに、対戦前から白旗をあげそうになった。
久保田隼雄。佳那子とは同期で、若手ながら、企画の中核を担っている人物。
まず、背が高い。樋沼ほどではないが、185センチはある。肩幅も広く、胸板も厚い。噂では、スポーツは大抵何でもこなすという。力もあるし、敏捷性もある。力で押す事しか知らないタイプの樋沼とはその点、大きく違う。スポーツで勝つのは無理そうだ。
人望も厚い。人心掌握術に
ついでに、意外に博識でもある。入社してすぐ、樋沼が仕事上で大ポカをやらかした事があったが、久保田はその時、聖書だかハイネだかの一節をさらさらっと引用して、樋沼を励ましてくれた。久保田に聖書もハイネも似合わないが、とにかくこういう文学的センスは、樋沼がどう頑張っても真似できないものだ。
趣味もジャズ鑑賞と渋い。しかもその趣味は、佳那子と全く同じときている。
顔も悪くない。美形からは程遠いが、男らしくてキリッとした顔だ。周囲の女がさっぱり久保田に興味を示さないのは、久保田と佳那子があまりにもお似合いだからである。佳那子のような女性が周りにいなければ、結構モテた筈だ。
―――つ…強すぎる。無敵だ。
樋沼が好きなチェスに例えるならば、瑞樹はいわば「クイーン」的な人物だった。こいつの行動を押さえておかないと、忘れた頃にガツンと一発やられる、というような。
が…久保田は、まさに「キング」である。難攻不落。そつがなくて、突き崩すには周囲の守りを1つ1つとっぱらう位しかない。
さて、どうする?
樋沼は、無い知恵を必死に振り絞った。が―――久保田を崩せるだけの材料など、到底見つからなかった。
結局。
単純思考の樋沼の作戦は、初心にかえる。
***
「これで勝負して下さいっ!」
ある日突然、ほとんど口も聞いたことの無い相手から突きつけられたチェス盤に、久保田はさっぱり意味がわからず、暫し無言でチェス盤を凝視してしまった。
「…これ、どういう意味なんだ?」
「僕が勝ったら、佳那子さんから手を引いて下さいっ!」
「…は???」
ますます、訳がわからない。
樋沼が佳那子を気に入っているのは知っている。その行動が不審者レベルなため佳那子がうんざりしているのも、本人の口から直接聞いている。が、それとこのチェス盤とがどう結びつくのか、久保田にはよくわからなかった。瑞樹が挑まれた勝負の事を佳那子が前もって話していれば理解もできただろうが、あまりにも馬鹿馬鹿しい話なため、さすがの佳那子もその話だけは久保田にしていなかったのだ。
何だかさっぱりわからないが、とにかく樋沼にチェスの勝負を挑まれているのは間違いなさそうだ。久保田は、こめかみを掻きながら、樋沼の目を見返した。
「―――1回勝負すりゃ、それでいいのか?」
「はいっ。お願いします」
「―――わかった。じゃあ、下のファミレスに行こう。ちょうど休憩したいと思ってたところなんだ」
***
1階のファミレスで、巨体の樋沼とそこそこ大きな体の久保田が差し向かいで座る光景は、嫌でも周囲の目をひいた。
序盤は、ほぼ互角。瑞樹との一戦の時、想像だにしなかった攻撃方法でいきなりボコボコにやられた樋沼は、じっくりさすタイプらしい久保田のチェスの手法に、少し安心した。
「―――樋沼。佐々木が好きなんだってな」
次の一手を考えつつ、久保田がポツリと、そんな言葉を口にした。
「はっ…はいっ。そうです。一目惚れです」
真っ赤になりながらも、樋沼ははっきりとそう答えた。久保田は特に表情も変えず、次の手をさしつつ、
「どんなところが気に入ったんだ?」
と訊ねた。さした手は、無難なものだった。
「は、はぁ…まず、その見た目にやられました」
「見た目、ねぇ…」
「あんな美しい女性は、見たことがありません。女性でありながらキリリとした緊張感もあり、美人なのに全くおごった部分が無い。年長者にも若輩者にも等しい態度をとれる。責任感も強い―――まさに理想的だな、と」
「…“美人”で、“しっかりして”いて、“常に真っ直ぐ”な、佳那子さん…か」
「え?」
「…いや。こっちの話」
久保田は苦笑すると、早くさせ、というように、無言で樋沼を促した。
「で…なんで佐々木に、それを直接伝えないんだ?」
「えっ…」
そう言われ、樋沼は大きく狼狽した。更に顔を赤くし、体を縮める。
「そ、それは…恥ずかしいし、自信がないから…」
「だからこうやって、佐々木が惚れてるらしい相手の見当をつけては、チェスの勝負を挑んでる訳か」
「…そんなところです」
「―――男らしくねーなー…」
はああぁーっ、という大きなため息とともに、久保田がそう吐き出す。
「男なら、ドーンとぶつかれよ。駄目で元々だろう? いくら俺に勝ったって、それで佐々木がお前のものになるもんでもないのに。俺に勝った挙句、佐々木に“ごめんなさい、あなたは好みじゃないの”なんて言われたら、お前、どうするんだ?」
「うっ…そ、それは、そうなんですが…」
「負かすのは俺じゃなくて、佐々木だろ? 勝負を挑む相手、間違ってないか?」
「うー…」
「それに!」
まだ次の一手をうとうとしない樋沼を見かねたのか、久保田は、樋沼の右手側にある黒いナイトをつまんだ。
「どうせお前は、これをこう動かそうと思ってたんだろう」
そう言って久保田が黒のナイトを動かした先は、まさに樋沼が動かそうと思っていた場所だった。何故それを、といった表情で、樋沼は盤面を凝視した。
「そうすると俺がこう来る訳だ。次にお前がこう。すると俺がこう。で、こう、こう、こう、こう―――…」
久保田は、唖然とする樋沼を置き去りにして、黒白両方の駒を次々に動かしていった。まるでテレビゲームのチェスの解説を見ているようだ。
「―――で、こう。ほら。俺の勝ちだろ?」
確かに盤面は、白の久保田のチェックメイトで終わっていた。
「…ど…どうしてですか」
「どうして? お前のさし方、教科書通り過ぎるんだよ。まるで模範演技だ。初心者や中級者相手なら負けなしかもしれないけど、これじゃあ俺には勝てないよ」
樋沼の目の前に「YOU LOSE」という格闘ゲームお決まりのエンディングロゴが見えたような気がした。
―――…強い。強すぎる。無敵だ。
こんな強敵が目の前に立ちふさがっていたら、100万倍の勇気をもって直接佳那子にアタックしても、まず無理だろう。
大体最初の一手をここにした場合はだな、と、ご親切にも樋沼のミスを丁寧にリプレイして指南を続ける久保田を見つつ、樋沼は思った。
久保田隼雄がいる限り、佳那子の事は、諦めるしかないんだな、と。
***
「隼雄、樋沼にチェス勝負挑まれたんだって?」
ファミレスから帰ってきた久保田を見て、コーヒーを飲んでいた瑞樹がそう言った。久保田は疲れた表情で肩をトントンと叩きつつ、大きく頷いた。
「全く―――あの坊やは何を考えてるのかねぇ…。また、よりによってチェスと来てるよ。少しリサーチすれば、俺がチェス得意なこと位、すぐわかるのに」
そう。チェスは、久保田の得意とするゲームだったのだ。
久保田は、大学進学で上京した当初は、下宿が決まらず久保田善次郎の家に1ヶ月ほど仮住まいする羽目になっていた。その際、引退後で暇を持て余していたチェス好きな祖父に、散々チェスの相手をさせられた。政界じゃ1、2を争うチェスの強さだった、と自負するだけあって、祖父はかなりのつわものだった。結果、1ヶ月経つ頃には、久保田自身、向かうところ敵なし状態になってしまったのだ。
瑞樹は、そんな久保田のチェスの練習台にされ、可哀想な大学時代を送った。元々チェスなどやった事がある筈もなく、毎日のように負ける負ける―――おかげで、久保田タイプの正攻法なさし方には、正攻法じゃ勝てない事をしっかり叩き込まれた。結果、相手が度肝を抜いて戦意喪失するようなチェスばかりさすようになってしまった。
「隼雄が大学のチェス大会で4連覇した、って知ってれば、すぐ諦めただろうに」
「その俺から3度も勝利をもぎ取った奴が瑞樹だ、って事もわかれば、お前に勝負を挑むこともなかったんだろうなぁ」
苦笑する久保田を見、瑞樹は意味深な笑みを浮かべた。
「聞いたんだ? 樋沼が、佐々木さんの相手を俺だと勘違いした話」
「ああ、聞いたよ」
「ふーん…いいのかよ」
「いいのかよ、って、何が?」
「俺なんかを、樋沼に誤解させるほど、佐々木さんに接近させといて」
からかうようにそう言う瑞樹を見、久保田は不機嫌そうに眉を上げた。
「…馬鹿野郎。いいに決まってるだろ。お前の好み位、とっくの昔に見抜いてる」
その答えを聞いて、瑞樹は、耐え切れなくなったように吹き出した。
「なんだよ、失礼な奴だな」
「…あんたさ。周囲に隠してるつもりなら、もうちょい返答捻らねーと、バレるぜ?」
「……」
「…っとに、チェスと同じで、正攻法だよなぁ…」
―――このヤロ…言いたい放題言いやがって。
ミーティングテーブルに半ば突っ伏して、肩を震わせるようにして笑う瑞樹を、苦虫を噛み潰したような顔で見下ろす。
佳那子から聞いた蕾夏との件をぶちまけてやろうか、とも思ったが、やめておいた。チェスと同じで、瑞樹に攻撃を仕掛けると、どんな報復措置が待ち受けているか、正攻法な久保田には見当がつかないのだから。
―――せいぜい、そうやって笑ってりゃいいだろ。
こんな事位で動揺してたら、約束の10年、神経がもたねーんだよっ。
まだ笑っている瑞樹の手元からコーヒーを奪い取って一気に飲み干しながら、久保田は、どこまで事情を察しているのやらわからないこの悪魔のような友人の顔を睨んだ。
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