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―――大変だ。
白雪姫が生まれてきた。
それが、キミとの初対面の時、一番最初に頭に浮かんだ言葉。
気がついたら僕は、周囲の看護婦が笑うのにも気づかず、立ち尽くしたままボロボロ泣いていたんだ。
***
「いやいやいや、僕はいい。僕はいいから、夏子がちゃんと抱っこしてやってくれ」
くにゃりとした白い物体を恐ろしげに見下ろしつつ後退る夫を見て、夏子は困ったように笑った。
「大丈夫よ、
「いや、だって―――この子は、なんていうか…赤ちゃんじゃないよ」
「え?」
「だって、白いじゃないか」
夏子は、キョトンと目を丸くすると、腕の中にいる、まだ名のないわが子に目を向けた。
白い―――まあ、白いといえば、確かに。頬は紅潮してバラ色だけれど、顔も手も、まだ生後3日とは思えないほど、白い。といっても、色素の抜け落ちた白さじゃなく、色でいけば間違いなく日本人の肌の色だ。この位色白の子がいても、別に不思議ではない。
「いいかい、夏子。赤ちゃんは、生まれてきた時に猿みたいに真っ赤な顔して生まれてくるから“赤”ちゃんなんだよ」
急に力説しだす匠に、夏子は、ますますキョトンとした目になる。
「そうよ。それがどうかしたの?」
「おかしい」
「?」
「おかしいよ。知子んとこの子は確かに赤ちゃん猿みたいだったよ。今は成長して可愛い女の子になったけど。でも、この子は、どう見ても猿に見えない。…何か理由があるんじゃないか?」
「理由って?」
「かぐや姫とか、イエス・キリストの例があるじゃないか」
つまり、人ならざる存在の力で、特別な子供が自分たちのもとに送り込まれた、と言いたいらしい。日頃はむしろ、夏子の方がファンタジストだが、さすがにこれには呆れた。
「…あのね。私は別に神の声は聞いてないし、青竹の中からこの子を拾ってきた訳でもないの。それに、ここ2年ほど、しっかり基礎体温つけて計画的に子作りしてたんだから、何月何日にこの子が出来たのかまで、ちゃーんと私は把握してるのよ?」
「…相変わらずキミは、言いたい時にはあっけらかんと言うねぇ…」
「いいから。早く抱っこしてあげてよ。私、もう腕が疲れちゃったわ」
「あああ、ごめんごめん」
下手な言葉より“腕が疲れた”の方が効果
―――う…うわー…。なんだか、抱き心地まで、知子んとこの子と違うぞ。
軽い。もの凄く軽い。おかしい、知子んとこの子は3000グラムちょうど位で生まれて、この子は3200グラム強だろう? この子の方が重い筈なのに、なんでこんなに軽いんだ? この3日で痩せたのか? 赤ちゃんて、生まれてすぐに痩せたりするものだったか?
それに、色が白いせいか、妙に存在感がない。腕に抱いててもしゅわっと溶けて消えるんじゃないかと思える位…。
―――溶けちゃったら、どうしよう。
「―――匠さん。赤ちゃんが驚いちゃうから、いきなり泣き出さないでよ…」
「と、溶ける…」
「とける?」
「この子、やっぱり普通の赤ちゃんじゃないよ。蛍光灯浴びてても溶けてなくなりそうだよ」
「大丈夫大丈夫。溶けたりしないから」
「溶けないでくれー。こんなに可愛いのに」
「だから、溶けないってば…」
…要するに。
匠の目から見ると、その子は、あまりにもあまりにも可愛くて、ちょっと自分の子だとは信じられなかったらしい。
***
真っ白い赤ちゃんは、その後、匠が愛してやまない「ライカ」というカメラから名づけられた。
「なんだか難しい字ねぇ…」
孫の顔を見ようとやってきた匠や夏子の親も、匠がにこにこしながら掲げて見せた紙を見て、眉を顰めた。
「夏、は夏子から取ってるんだろうけど―――らいか、って響きがいいんなら、来る、って字でもいいんじゃないか?」
夏子の父がそう指摘したが、匠は頑として譲らない。
「駄目です。蕾って字には、思いいれがあるんですから」
「ほー。どんな」
「可能性です」
その場にいた全員の顔に、大きなはてなマークが浮かぶ。
「綺麗に咲き誇った花もいいけど、蕾って、まだ開花してないからこその楽しみがあるでしょう? 咲き誇った花とは違って、蕾には沢山の可能性がある―――色だってわからないし、何日持つかもわからない、中には開いてみないと種類さえ判別つかない花だってある。…僕はこの子に、未知の可能性をいっぱい秘めた子になって欲しいんです」
楽しげに力説する匠に、反論できる者はいなかった。彼は、別に理論派とか口が達者とかいうタイプではないが、持論を展開させると、何時間でも喋り続けることができる、特殊な人間なのだ。
命名・藤井蕾夏。
十数年後、この名前のせいで、娘がテストのたびに苦労することなど、命名者である匠は予想すらしていない。
***
蕾夏は、典型的なお父さん子になった。
あやしたり、散歩に連れて行ったり、お風呂に入れたりするのが、全部匠の役目だったからだ。
「匠さぁん…私もたまには、蕾夏をお風呂に入れたいなぁ…」
お風呂場の入り口で拗ねたように唇を尖らせる夏子に、匠は優越感いっぱいの笑みを浮かべる。
「駄目」
「なんでぇ? 匠さん、赤ちゃんの時からずーっと入れてるじゃない。もう3歳になったんだし、たまには私に譲ってくれてもいいでしょ?」
「あのね。男親と娘の蜜月なんて、ほーんとちょっとの間しかないんだよ。
「望月さんとこの子は、特別でしょ。普通、そんなに早くパパ離れしないわよ」
「かもしれないね。でも僕は、5歳で“蕾夏離れ”するって決めてるんだ」
蕾夏のおかっぱ頭をがしがしと洗いながら、匠は宣言するようにそう言いきった。
「蕾夏は預かりものだから、僕や夏子が独占しちゃ駄目なんだよ。10歳まで待ったら、きっと手放せなくなる。だから、5歳で“蕾夏離れ”するんだ」
「預かりものって―――ま、まさか匠さん、かぐや姫とかキリストの話、まだ信じてるんじゃないでしょうね?」
「あはは、違うよ。蕾夏がそういう特殊な人間じゃないこと位わかってる。蕾夏は普通の、僕と夏子の子だよ。でも―――僕たちの子だけど、やっぱり、神様から預かってる命だ。…だよなー?」
シャンプーが目に入らないようにじっと目を瞑っている蕾夏の顔を覗きこんでそう言うと、意味がわかってるのかわかってないのか、蕾夏は大きく頷いてみせた。
「3歳の蕾夏も、一人のちゃんとした人間だ、って言いたいのね?」
匠の、どこか哲学めいた話し方に慣れている夏子は、言いたい事を察してクスリと笑った。
「でも、そういう事言ってる人に限って、いざ娘が結婚するってなったら、大泣きして反対したりするのよ?」
「―――失礼な。しないよ」
「あら、絶対に?」
「しないしない。絶対に大丈夫」
なー、と蕾夏に訊いたら、意味がわかってるのかわかってないのか、蕾夏はまたコクンと頷いた。
***
「なななななな夏子っ!」
ご近所のホームパーティーに行く準備をしていた夏子は、とっくに着替え終わってくつろいでる筈の匠が、血相を変えてダイニングに飛び込んできたのを見て、目を丸くした。
「あらやだ。どうしたの?」
「あの子! あの子は誰だ!?」
「あの子って?」
「金髪の巻き毛がくるくるしてる、天使みたいな顔した男の子だよ!」
金髪の巻き毛には複数の心当たりがあったが、“天使みたいな顔”に該当するのは1人しかいない。夏子はああ、と何度か頷いた。
「その子なら、蕾夏の同級生よ。名前はよくわからないけど、蕾夏はマッキーって呼んでるから、そんなような名前なんじゃない?」
「蕾夏と手を繋いでたぞっ!」
全身全霊でショックを表現している匠に、夏子は思わず、冷やかな目を向けてしまった。
「…匠さん。蕾夏は“神様からの預かりもの”なんでしょう? アメリカ来る時に“蕾夏離れ”したんじゃなかったの」
「し、したけど―――なぁ、いくらなんでも、早くないか? 手を繋いで歩いてるんだぞ!? 蕾夏はまだ7つじゃないか」
「幼稚園でも手を繋いで通ったりするじゃない」
「けどなぁ…なんか雰囲気が違うんだよなぁ」
「それは、相手の子が大人びて見えるからでしょ。あんな子供の頃から、こっちの子ってませてるものね」
心配を払拭するためにそう言ったのに、その発言はかえって匠を煽ってしまった。
「いや、ほんとにませてるんだよ、こっちの子は! 高校に託児所がある位だからねぇ、中学生にもなればボーイフレンドがいて当たり前だし、小学生でも化粧してる子がいるし。7歳ってどんな感じなんだろう…蕾夏は世間知らずだからなぁ。心配だよ」
「…もー。心配しすぎよ。子供同士じゃないの。仲のいいお友達ができて良かったって、私は安心してるのよ?」
「でもさぁ」
とその時、玄関のドアが、やや乱暴に開け放たれ、むくれた顔をした蕾夏が入ってきた。
思わず“マッキー”の姿を探す2人だったが、天使のような少年の姿は、どこにも見当たらない。
「蕾夏、マッキーと一緒じゃなかったの?」
夏子が訊ねると、蕾夏はますます不機嫌そうに頬を膨らました。
「いいのっ。マッキーは置いてきたからっ」
「…置いてきちゃったの?」
「ほっぺた、叩いてきたのっ」
「え!!」
匠と夏子の声が重なる。
「おうちの人がみんな留守で寂しい、って言うから、可哀想になって手を繋いであげたのに、マッキーってば、おでこにキスしようとしたんだもん! しかも、おうちにはお父さんもお母さんもいたんだもん! やだやだ、嘘つく子って大キライ。だから、グーで叩いてきたの」
「…グーで…」
「…蕾夏、それは“叩く”じゃなくて“殴る”って言うんだよ…」
「今、マッキー、道路の真ん中でわんわん泣いてると思うけど、お父さんもお母さんも、絶対慰めに行っちゃダメだよ。おでこにキスされるから」
キッ、と両親を睨むと、蕾夏は、腹立ち紛れのような足音をたてて、自分の部屋に引っ込んでしまった。
「―――大丈夫よ、匠さん。蕾夏、私たちより逞しい子に育ってるわ」
「…そうかもしれないね」
天使みたいな顔をした美少年をグーで殴る蕾夏を想像して、匠も夏子も、顔を見合わせて苦笑した。
***
「ねぇ、お父さん」
「んー?」
「“
シーズン最後の梅の花をカメラに収めていた匠は、蕾夏にそう問われて、振り向いた。
蕾夏は、まだ蕾がようやくつき始めたばかりの桜の木を、愛しそうに抱きしめていた。アメリカにいた頃から、蕾夏がよくやる仕草だ。
「“八百万の神”? なんだい、急に」
「今日読んだ本に載ってたの。日本は八百万の神が住んでる国だ、って」
「ふーん。随分宗教的な本を読んでるんだねぇ」
匠は、レンズキャップを嵌め、よっこいしょ、と言いながらベンチに腰を下ろした。蕾夏はまだ、桜の木に抱きついたままだ。
「八百万、てのは、たくさん、って意味だよ。抽象的だけど―――数え切れな位多い、って意味」
「じゃあ、神様が沢山いる国、って意味?」
「うん。日本は元々
「へーえ…。素敵。木にも草にも、命がない石にも、神様が宿ってるのかあ…」
ちょっと嬉しそうな顔をして、蕾夏は、桜の木に頬を寄せ、目を伏せた。
―――エネルギーを、貰っている。
蕾夏がこの仕草をするのは、大地に根づくものから、エネルギーを貰っている時だ。今はもしかしたら、そのエネルギーと一緒に、この木に宿っているかもしれない神様の存在も感じ取ろうとしているのかもしれない。
去年の冬あたりから、蕾夏は、微妙に変わってしまった。
以前から、親に迷惑をかけたくない、という思いの強い子で、何かに悩んだり苦しんだりした時は、こうして大きな木に抱きついて、たった一人で答えを探していた。けれど―――最近の蕾夏は、その傾向がもっと顕著になった。迷いや悩みの一部分すら見せなくなった。その事に、匠も夏子も、心を痛めている。
けれど、問いただすような事はしていない。2人とも、黙って蕾夏を見守っている。何も訊かず、これまで通りの両親でいることが蕾夏の希望だと思ったから。
待っているだけ、というのは、結構きつい作業だけれど…そのきつさに耐えるのも、親の役目かもしれない。
「…じゃあ、お父さん。私の中にも、神様は宿ってる?」
暫く、じっと目を閉じていた蕾夏が、急にそんな事を訊いてきた。
「八百万の神が、いたる所に宿っているなら―――私にも宿ってるのかな」
「…うん。人間にも、神様は宿ると思うよ。蕾夏にもきっと、宿ってる」
「―――私が、どんな人間でも?」
「どんな人間でも」
「どうして?」
「どうして―――かなぁ…」
手の中のカメラを弄びながら、匠は、愉快そうな笑みを浮かべた。
「子供ってのは、ただ生きてるだけで、親にとっては“神様”なのかもしれないね。だから、他の人には見えなくても、僕と夏子には見えるよ―――蕾夏の中に宿っている“神様”が」
***
蕾夏の言動に、泣いたり、笑ったり、心配したり、時には怒ったり―――成長していく蕾夏を見ながら、匠も夏子も、少しずつ蕾夏を神様に返していった。
蕾夏は、神様から預けられた命。決して、自分たちの従属物でもなければ、自分たちが庇護し続けなければ生きていけないような未熟な生き物でもない。蕾夏が1歩踏み出すたびに、また1つ、神様に返す―――そうやって、ちょっとずつちょっとずつ、“蕾夏離れ”していった。
一人暮らしをすることを決め、家を出て行った時、最後のひとかけらを返し終えた気がした。
蕾夏は、藤井匠と藤井夏子の娘だけれど、それは、ちょっとの間、神様から預けられていただけ―――今の蕾夏は、もう自分の足でしっかりと地面を踏みしめている、立派な一人の人間だ。
だから、笑っていられるのだ。
こういう存在が、いきなり現れても。
「―――何か…?」
「え?」
「いや…なんか、ずっと俺のこと見てるから」
そう言って訝しげに眉を寄せる彼を見て、匠は、穏やかな笑顔を見せた。
「そう? 見てたかな。無意識だったんだけど」
春と呼ぶにはまだ早い、城ヶ島。
匠の傍らでカメラを構える彼は、ふとした瞬間、発するオーラが蕾夏と重なって見える。去年、自宅で初めて顔をあわせた時にもその片鱗は見せていたが、ここまで顕著ではなかった。
それが何を意味するのか―――匠は薄々、気づいている。
けれど、あえて訊ねたりはしない。ただ、あの、頼りない手ごたえしかなかった小さな命が、今ではこうして、一人の男を動かすまでになったという事実に、改めて驚かされる。
匠は、彼の中にも“神様”を見ていた。癒し、慈しみ、救ってくれる存在―――多分、蕾夏のために存在している、“神様”。
今度蕾夏に会ったら、彼女の中にも、新しい“神様”が見つかるだろうか? 両親のために存在してる“神様”ではなく―――彼のために存在している“神様”が。
そうであってくれればいい、と、心から思う。かつて、匠が夏子の中に、夏子が匠の中に、互いのためにだけ存在している“神様”を見つけたように―――…。
「…また見てるし」
「ハハハ、ごめん。瑞樹君、男前だから、つい見入っちゃうんだねぇ」
「…お世辞言っても、何も出ませんよ」
彼らをこれから、どんなストーリーが待っているだろう?
まだまだ未知数な彼らが、これからどんな花を開かせるのか―――それを見守ることができることに、匠はほのかな幸せを感じていた。
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