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愛犬デュークの散歩から佳那子が戻ってくると、父と、その秘書の原口が、そそくさと出かける準備をしているところだった。
「こら、デューク! ハウス!」
途中、ちょっと気性の荒い犬と遭遇してしまった興奮が冷めないのか、デュークは佳那子について家の中に入って来ようとしていた。佳那子がちょっと厳しくそう命じると、デュークはキューン、という小さな声を上げて、玄関脇の犬小屋にすごすごと退散した。
「おお、佳那子、おはよう。今朝は朝食を一緒にとれなくて残念だよ」
玄関に掛けられた姿見でしきりに髪型を気にしていた父が、佳那子が戻ってきたのに気づいてそう言った。原口は、無言で父の靴を揃えている。オシャレな父は、その日のスーツに合わせられるよう、革靴を7足も揃えている。そして、どの靴をコーディネートするかは、いつも原口の仕事なのだ。
「随分早いのね。何、遠方の講演会か何か?」
「ああ。北海道で今日明日と講演会だ。北海道は広いから、日帰りできないのが辛いね」
「ふぅん…。いい時期なんじゃないかしら、今の北海道って。富良野辺りでゆっくり観光を楽しんでくれば?」
「ふ…冗談を言うな、佳那子」
内ポケットに櫛を仕舞うと、父は佳那子に向き直り、妙に挑戦的な笑みを叩き付けた。
「お前達を喜ばせるような真似を、わたしがすると思うか」
「…ごもっともです」
「ところで、久保田隼雄はどこに賭けると言ってた?」
「ナスダック・ジャパンの話? 土曜日に本人から聞いたんじゃないの?」
「あの男、不埒にもわたしと同じ会社に目をつけおった。他のところにしろと迫ったのに、一向に折れる気配を見せない。今回ばかりは負ける訳にはいかないからな。何がなんでも他の会社にしろと命令しておいたんだ」
今彼らが賭けをやっているのは、5月にナスダック・ジャパンに株式公開した企業の中で、6月終了時点でトップに立つのはどこか、というネタだ。仮にも経済系シンクタンクの人間である父が、素人である久保田と争うのはいかがなものか、と思うのだが。
「何を賭けたのよ」
「決まってるじゃないか。お前の門限時間を30分繰り上げるかどうかだよ」
「冗談でしょ!?」
「そんな訳で、久保田隼雄には他の会社を勧めておいてくれよ。お前の勧めなら、あやつもヘラヘラ口車に乗るかもしれないからな」
―――やる訳ないでしょう、自分の門限がかかってるってのに。
利害関係、という言葉を理解していないのだろうか、この親父は。ムカムカしながらも、佳那子は軽く深呼吸をし、ゆっくりと口を開いた。
「…私が言っても、無駄だと思うけど。だってあの会社、久保田のお爺様が久保田に強く勧めた会社だって聞いたもの」
そっけない口調で佳那子がそう言うと、今まさに靴を履こうとしていた父の肩が、ピクリと動いた。
顔を上げた父は、疑いの眼差しで佳那子をじっと見た。
「―――本当かね、それは」
「ええ。だから、いくらお父さんがお気に入りでも譲る訳にはいかないって」
「…久保田善次郎が推すようじゃ、あの会社も怪しいな」
その怪しい会社に、つい数秒前まで入れ込んでたんじゃないの、お父さんは。
「ま、もう一度、ゆっくり考えるさ。久保田隼雄は、ノンビリ怪しい会社の行く末を見守ってろ」
「分かったわ。そう伝えておく」
「では、佳那子。2日間留守にするが、くれぐれもバカな真似はしないように。民子さんにはきちんと言ってあるからな」
「はいはい」
民子さんは、秘書・原口の妻で、佐々木家のはなれに住む家政婦だ。多分、留守中、佳那子が不埒な真似をしないよう言い含めているのだろうが、残念―――彼女は既に、佳那子の味方だったりする。
―――肝心なところで、抜けてるのよね、お父さんは。
笑顔で父と原口を見送りながら、佳那子は昨日、久保田から言い渡された言葉を思い出した。
『じっちゃんの名前をさりげなく出しとけば大丈夫だ。あの人のことだから、じっちゃんと同じ会社には絶対賭けない。たとえ分が悪くても、他の会社に賭け先を変える筈だ』
なるほど、さすがは久保田、父の性格をよく見抜いている―――事実、その通りの展開になっているのだから。
今日、会社に行ったら、久保田に報告することが2つできた。
1つは、どうやら現在の門限は死守されそうだということ。そしてもう1つは―――今日は久々に、恋人同士らしい時間を過ごせそうだ、ということだ。
***
「木下先輩、そんな無理して持たなくていいですよぉ」
甘ったるい倉木の声に、奈々美の眉がぴくっ、と反応した。
―――いけないいけない。倉木さんは手伝いに来てるだけ。後30分で消えるんだから、あんたなんてどっか行って、って本心を顔に出して彼女を喜ばせるのはまずい。
パンフレットを抱えた奈々美は、ふわふわの髪を揺らしながらニッコリと微笑んだ。
「大丈夫よ。パンフレットの1キロ2キロで、どうなるものでもないから」
「そうですかぁ? でも、木下先輩、ドジだからぁ。またコケられると、あたしも困るしぃ」
階段から落ちたのは、あんたが変な場所で声掛けるからよっ。
「いいから、あなたは入り口にチラシ貼ってきて。それと総合受付横のチラシの枚数、控えておいて」
「奈々美さーん!」
不満そうな倉木が何事かを口にしようとした時、広い展示会会場のはるか彼方から、和臣がもの凄い勢いで飛んできた。途中、資料を運んでいた他社の女性と半ばぶつかりそうになったのだが、それにも気づかない勢いだ。
「だ…っ、駄目じゃないかっ! そんな重たいもの持ってっ!」
ゼーゼーと肩で息をしながらそう言うと、和臣は、奈々美が抱えているパンフレットの束を奪い取ろうとした。
「やだ、大丈夫だってば。本当にたいした重さじゃないもの」
「だめーっ! オレが心配なのっ。どうしても自分で運ぶって言うんなら、オレがブースまでくっついてくから。オレが見てない所で物なんて絶対持っちゃダメだよ」
「もう…心配性ねぇ、カズ君も」
「―――じゃ、あたし、チラシ貼ってきますから」
目の前でラブラブぶりを見せつけられた倉木は、しらっとした声でそう言うと、くるりと踵を返した。その時になって初めて倉木の存在に気づいた和臣は、ちょっと怒ったように眉を上げた。
「ちょっと、倉木さん。奈々美さんが大事な時期なの、分かってるでしょう? 重労働は、奈々美さんが手を掛ける前に率先してやってくれなきゃ困るよ。キミ、新人なんだし」
「……」
振り向いた倉木は、さすがにムッとした顔をしていた。一応声は掛けた、と言いたいのだろう。もっとも、彼女がこの役目を奈々美から奪いたかった理由は、その運ぶ先―――ブレインコスモスの展示ブースに和臣がいるから、なのだが。
ふっ、と笑った奈々美は、本気で怒っている和臣を宥めるような笑みを和臣に向けた。
「いいのよ、カズ君。彼女には彼女の仕事がちゃんとあるんだから」
「でもさぁ」
「さっさと運んじゃいましょ。…じゃ、倉木さん、チラシお願いね」
2人の女の間に、その場の空気が一瞬にして凍るほどの冷たい火花がバシバシ飛び散っていることに、奈々美の心配にばかり頭が行ってしまっている和臣は、ほとんど気づいていないのだった。
今日は、かねてから和臣が準備を進めていた展示会の当日。
久保田とは離れて1人で企画を取り仕切るなんて、和臣には滅多にないことだ。準備作業段階から、既に緊張でガチガチになっている。が…傍に奈々美がいてくれるので、ちょっとは落ち着いていられるのも事実だ。
ただ―――その奈々美が、ちょっと、問題。
妊娠4ヶ月目に入ったのに、奈々美のつわりは相変わらずで、一向に安定する気配を見せない。本当は、展示会のデモ担当なんてキツそうな仕事、和臣としては佳那子か誰かに代わって欲しかったのだが、奈々美本人が頑として首を縦に振らなかった。
「大丈夫。デモのない時間は奥で座って休んでるんだし…。だからカズ君も、私を妊婦扱いしないでよね。デモを見るお客さんに、変な心配をさせたくないんだから」
奈々美はそう言ってきかない。確かに、服を着た状態ではまだおなかも目立たないような奈々美を、和臣がオロオロ心配しながら見ていたら、客は不審に思うだろう。
―――仕事にやり甲斐見つけてくれたのは、純粋に嬉しいんだけどなぁ…。
営業の連中と、デモのロールプレイングを繰り返している奈々美を眺め、そのピンと張り詰めた横顔に、和臣は小さくため息をついた。いつもフワフワで小さな奈々美だけれど、仕事を得て生き生きしている様は、ちょっとかっこいいと思う。こういう奈々美も好きだ。確かに。
特に彼女は、客と直接触れ合えるデモという機会を、とても大切に思っている。多少きつくても、誰かにその機会を譲る気にはなれなかったのだろう。
「よ、カズ」
心配事をつらつら考えつつ、和臣が資料をトントン、と揃えているところに、ここにはいない筈の人物の声がした。
驚いて顔を上げると、その声の主―――久保田が、会社ブースの外側にのんびり佇んでいた。
「あれっ、久保田さん。なんでいるんですか? 今ってそっち、戦場状態ですよね?」
「まあな。気晴らしついでに、最終点検に来たんだよ。どうだ、うまく回りそうか?」
「あー、はい。来場者数にもよりますけど、なんとか。ただ…奈々美さんの体調だけが心配なんですよねぇ…」
そう言って心配そうに視線を奈々美に向ける和臣につられて、久保田もデモスペースにいる奈々美に目をやった。顔色はまあ悪くはなさそうだし、適度な緊張感のせいか、むしろいつもより元気そうに見える。
「妊婦扱いしないでくれ、って言われても…お客さんに対する体裁より、オレ的には奈々美さん優先なんだけどなぁ」
「当たり前だろ。木下の“大丈夫”を信用するな。絶対無理させるなよ。デモ以外の時は、なるべく座らせとけ」
「…ですよね」
日頃、すこぶる健康な奈々美は、病人じゃないんだから、とやたら自分の体調を心配する周囲に少しイラついているようだが―――倒れられたのでは元も子もない。多少強引にでも休んでもらわなくては。
「あ…、ところで久保田さん。そっちの件、今どうなってるんですか?」
「うん、まあ、なんとかなるだろ。部長がキレる寸前まできてるけどな」
「ひええ…キレると怖いんだよなぁ、部長は…」
キレそうな部長をほったらかしで、果たして会社の方は大丈夫なのだろうか? ちょっと心配したが、もとより長居をするつもりはなかったらしく、久保田は大きく伸びをすると、
「あーあ…そろそろ戻るか。じゃ、がんばれよ、カズ」
と言って笑った。
「はい、任せて下さいっ」
「ついでにアレ、会社に連行しといてやるよ」
そう言って久保田が親指で指し示した先には、雑用が終わったらしく、いつもより早足でこちらに向かっている倉木の姿があった。奈々美がデモ準備中で和臣の傍にいないことを察しているのだろう。さっきの不機嫌顔はどこへやら、実に楽しげな顔をしている。
「…あんまり手荒な真似はしないで下さいね」
「大丈夫、殴って引きずってくような真似はしないさ。まあ見てろ」
直後、あと数メートルまで来ていた倉木に歩み寄った久保田は、すれ違う倉木のスーツの襟首を、笑顔のままガシッ、と掴んだ。
「よ、倉木。今日も体力有り余ってるみたいだな。もうこっちは終わったんだろ? じゃあ会社に戻って、企画の手伝いをやってくれ。ガミガミうるさい取次店からの電話に対応するという名誉ある仕事だぞ。定時になる頃には、電話のベルが鳴っただけで動悸・息切れ・めまいが起こるようになること間違いなしだ。どうだ、楽しそうな仕事だろう?」
彼女がそれに対して、何と言ったかは、分からない。
何故なら、反論の機会さえ与えられないまま、まるで猫でも引きずって行くようにずるずると久保田に引きずられていったからだった。
***
休憩を兼ねてコーヒーを淹れに行った佳那子は、人影の少ない企画部の様子を窺った。
企画部には、部長と久保田、それに久保田の2つ先輩が、電話をかけたり企画書を睨んだりしながら侃々諤々している。電話応対は、どうやら倉木にさせているらしい。電話が鳴るたびに、恐々受話器を持ち上げる倉木の様が可笑しかった。
―――ああ、結構、きちゃってるわねぇ…。
誰と電話をしているのか、受話器を片手にボールペンで机をコンコン叩いている久保田を見て、佳那子は少し眉をひそめた。
滅多なことでは必死さを表に出さない久保田だが、今日の久保田は、かなり余裕がない。無理もない。明後日行う店頭キャンペーンの企画に必要な物が、この期に及んで揃っていないのだから。
実際のところ、久保田のミスではないことは、社の誰もが分かっていることだった。ミスをしたのは、実際の販促物を作成した下請けの方―――納期を勘違いして、他社の仕事を優先してしまったがために、こちらの作業が遅れてしまったのだ。部長は「もうあの会社は使うな!」と爆発寸前だが、久保田が新人時代から特に懇意にしてきた会社だ。自分がなんとかしなければ、と思っているのだろう。
腕時計を確認すると、既に午後4時を回っている。
今日は、無理かもしれないな―――ちょっと残念に思いながら、佳那子はため息をひとつつき、コーヒーサーバーを取り上げた。
色々な手段を講じて弱みを握ろうとする父の目を欺くように、恋人としての時間はたまにしか、しかもひっそりとしか持つことができない。
父や久保田の祖父の息のかかった人間がコールセンターなどにもぐりこむ可能性もあるのだ(実際、入社1ヶ月で辞めたコールセンターの子が、父の部下の娘だったことがあって冷や汗をかいた。単なる偶然とは思えない)。実質はどうあれ、認められていない交際を公にはできない。それが今の2人の正直な関係だ。
父がもう二度と文句が出せないように、久保田は金銭的にも社会的にも精神的にも、どこにも綻びのない人間になろうとしている。父が出した条件を全てクリアして、最後に笑うのは、きっと久保田だ。そう信じられる。
けれど―――時々、寂しくならないと言ったら、やっぱり嘘になる。
焦っている訳ではないけれど…あと4年、果たして自分は、信じて待ち続けることができるだろうか? 10年目にして、父が全ての約束を反故にしないとも限らない。そうなったら…自分たちの10年間は、どうなってしまうのだろう。
「コーヒー淹れるんなら、俺にもくれよ」
突如、声を掛けられて、佳那子はハッと我に返った。
いつの間にか、久保田がすぐ傍まで来ていた。疲れる電話だったのか、うんざり顔で首の後ろ辺りを揉んでいる。慌てて笑顔を作った佳那子は、自分のために淹れるつもりだったコーヒーを久保田のために淹れた。
「随分、混乱してるみたいね、企画は」
「まーなぁ…。でも、ギリギリのスケジュールで動くから、こういうことになるんだよ。何も下請けのミスだけじゃない、うちの自業自得もある」
「まだかかりそうなの?」
コーヒーの注がれたカップを差し出しながら訊ねると、久保田は渋い顔をした。
「まだ、見通しの立つ段階じゃないな」
「そう」
何時に帰れるかは不明、といったところだろう。まあ、定時退社なんて無理なのは、佳那子も同じことだが―――あっさり受けるつもりでも、やっぱり眉が少し寄ってしまう。
いけないいけない、と思った佳那子は、なるべく眉間に皺が寄らないよう注意しながら、自分の分も淹れようと、カップの山に手を伸ばしかけた。その刹那。
「佐々木、手」
耳元で、今までより僅かに小さな声で囁かれ、怪訝な顔になった佳那子は、少し首を傾げながらも手を久保田の方に差し出した。
その手のひらの上に、チャリン、と音を立てて、何かが落ちてきた。
見て、すぐ分かった。何度か見たことがあるそれは―――久保田の部屋の鍵だ。
「……」
―――つまり、先に帰って待ってろ、ってこと?
顔を上げ、目で問うと、久保田はニヤリと不敵に笑った。どうやら、そういうことらしい。
「さて、と。気の進まねぇ電話をまたかけてくるか。…コーヒー、もらっとくな」
そう言って久保田は、早々に企画部へと引き上げてしまった。
「言っとくけど、高いわよ、そのコーヒー」
「了解。覚悟しとく」
―――ほんと、ずるいんだから。
人がグラグラしかけている時に限って、こうやって問答無用に鷲掴みにしてくる。
佳那子は、鍵をスーツのポケットに突っ込むと、さっきまでより軽くなった気持ちに少し悔しさを覚えながらも、自分の分のコーヒーをカップに注いだ。
***
本日3度目のデモをこなした奈々美は、ニコニコの笑顔で客を見送った。
直後、マシンの前の椅子の上に、へたへたと座り込んでしまった。
「奈々美さんっ」
当然奈々美から一切目を離さなかった和臣は、すぐにそれに気づき、慌てて彼女に駆け寄った。
「だ、大丈夫? どっか具合悪い?」
「ううん…大丈夫。緊張しすぎで、ちょっと疲れてきちゃっただけ」
結構長時間に渡って、立ったまま説明を続けていた。心配になった和臣は、奈々美のスカートの裾から覗くふくらはぎを試しに触ってみた。
「―――うーん…むくんでる、かなぁ? 奈々美さん、念のためグーパーグーパーやって」
「そう酷くむくんでる訳じゃないと思うけど」
そう言いながらも、奈々美は両手を開いたり閉じたりした。平気そうにしているが、実は結構辛い状態なのではないだろうか。
「ねぇ、カズ君。私、普通にやれてた? お客さんに気を遣わせてなかった?」
「うん、大丈夫だったよ」
実際、見学しに来た客は、結構シビアな質問なども奈々美にぶつけており、そのせいで予定時間がオーバーした位だ。きっと誰も奈々美のことを、今日の昼ごはんもまともに食べられなかったような状態だとは思わなかったに違いない。
「…あのさ、奈々美さん」
ちょっと言い辛いな、と思いながらも、和臣は奈々美の手を両手で包み込んでその手の動きを制すると、奈々美の目を真正面から見つめた。
「奈々美さんのデモって、毎回とっても評判いいし、オレも、他の企画の奴らも、ついつい奈々美さんにお願いし続けちゃってるけどさ―――明日のデモで、暫くはやめとかない?」
心外だったのだろう。奈々美は、ちょっと目を見開き、動揺したような顔をした。
「ど…どうして? やっぱり私のデモに何か」
「ち、違うって! 奈々美さんのデモ自体は、すっごくいいんだよ、本当に。ただ―――こうやって、自分の体調誤魔化したり隠したりしながら奈々美さんが無理するのは、オレが嫌なんだよ」
「……」
「子供がどうこう、って言うよりも、奈々美さんが辛いのが嫌なんだよ。見てると、オレまで辛くなってくるんだ」
「…けど…」
不安げに眉を寄せると、奈々美は、少し声を落とした。
「けど…ねえ、そしたら、私がデモを辞めちゃったら―――あの子に頼む、なんてこと、しない?」
「あの子?」
「…倉木さん」
「―――…」
…くらき?
くらき、って、倉木さん? あの子にデモさせるの? あの、ぺたーっと甘ったるい声の、語尾が悉く伸びちゃうような、あの子に?
いけない。ここは、笑うところじゃない。
けれど、どうしても我慢できなかった。
「ぶ……っ、わははははははははは!!!」
堪えられなかった笑いが、一気に爆発した。和臣は、奈々美の手を取ったまま、目に涙を浮かべるほどにゲラゲラ笑ってしまった。
「ちょ…っ、ちょっとっ! そんなに笑うことないでしょう!?」
「だ、だって…あ、あの子にデモなんて、そんな恐ろしいこと、なんで考えるの? 部長命令でも、オレ、絶対やらせないよ。部長もまず推さないだろうけどさ。うくくくく…」
想像しただけで、契約激減で会社が潰れそうだ。真っ赤になって怒る奈々美の手をぽんぽんと叩いて宥めながら、和臣は、笑いすぎて痛くなったわき腹を思わず押さえた。
「あ…あのさぁ…。オレが奈々美さんをデモに推したの、別にうちの営業補佐だから、って理由じゃないよ? 他の会社の女の子でも、絶対奈々美さんにお願いしてた。だから、奈々美さんが辞めたら、前と同じように、専門業者からデモスタッフを雇うよ。いくら同じ営業補佐でも、倉木さんには頼めないでしょう、あれじゃあ」
「…そ、そう。良かったぁ…」
「やだなぁ。奈々美さん、そんなことで意地になってたの?」
「別に意地になってなんか…っ」
「うーん、まあ、いいけど。愛を感じるって感じで」
「違うわよっ! 私はほんとに、会社のことを考えて…」
言いかけて。
奈々美の顔色が、突如、悪くなった。
「…う、き、気持ち悪…」
「え!? えと…つわり?」
「そ、そうかも…なんか、気を張り詰めてたの解いたら、一気にきちゃった…。ごめん、カズ君、連れてって」
「うん、分かったっ!」
慌てて和臣は立ち上がると、半ば奈々美を抱きかかえるようにして洗面所へと突進していった。途中、来場者数名とぶつかって非常に迷惑だったのだが、そんなことにはやっぱり気づいていないらしい。
「…どうするよ。デモ担当と責任者が行っちゃったよ」
「まあ、分かってたことだけどさ…遅かれ早かれ、ああなることは」
「ていうか、あの2人、ここが展示会会場であることも忘れてるんじゃないの? すんげーラブラブぶり…」
ブレインコスモスのブースに取り残された形となった、企画と営業の若手3名は、来場者に迷惑をかけまくりながら去っていく2人を見送りながら、呆れたようにそんなことを呟いていた。
***
うとうとしかけていた佳那子は、何かの気配を感じ、ハッと目覚めた。
外階段を上がってくる音―――いつの間にか、MDの再生が終わっていたらしい。静かになった部屋に、かすかに外のその音が伝わってきていた。
案の定、その直後、呼び鈴が鳴った。突っ伏していたベッドから起き上がった佳那子は、慌てて玄関に向かい、ドアを開けた。
「お帰りなさい。早かったじゃない」
「ああ…予想よりはな」
ドアの向こうから現れた久保田は、疲労困憊、という顔で部屋の中に入ってきた。確かに、予想よりは早かった―――とはいえ、もう既に10時を大幅に回っている。
「上手くいった? 明後日の件」
「一応な。あー、全く…さすがに今回は生きた心地しなかったぞ。間に合わなかったら、取次店にも土下座する羽目になるところだった」
「夕飯は? 食べたの?」
佳那子が訊ねると、ネクタイを緩めていた久保田は、何を言ってるんだ、という風に眉を上げた。
「…あのな。こういう日に自分だけ食ってきたら、そりゃお前、裏切り行為だろ」
「…まあ、そうね」
「角のファミレス、結構うまい和定食始めたぞ。後で食いに行こう」
「あら、駅前のワインバーにしないの? あそこのファミレスじゃ、飲めないわよ?」
過去に何度かこの家に来た時は、そのワインバーへ必ず行ったのだ。別に飲みたい訳ではないが、それが常だったので、今日もそうだとばかり思っていた。
「お前、泊まってくんだよな?」
「当然、そのつもりよ?」
「俺、今日は相当きてるからな。今の状態で飲んだら、確実に帰宅と同時に寝るぞ」
「…それは困るわね」
久保田が先にぐーぐー眠りこけてしまったのでは、一体何をしに来たのか分からない。お気に入りの店なので、ちょっと残念な気はしたが、佳那子は素直にファミレスの和定食を受け入れた。
「ついでに、食いに行く前に15分ほど仮眠とらせてもらえると助かるなぁ」
「15分で大丈夫なの?」
「問題なし。俺の復活力を知らん訳じゃないだろ? 15分経ったら、絶対起こせよ。気兼ねして30分とか寝かせてたら、後で後悔させるからな」
「…はいはい」
どうやって後悔させる気なのやら―――と思ってる佳那子の目の前で、久保田は仰向けにベッドに倒れこむと、1秒後、ほとんど気絶状態で眠りについてしまった。
―――早っ。
いつものことだが、この寝つきの良さは、一種の才能だと思う。そして、15分後には大抵、ダメージの50パーセントは確実にリカバリーしているのだから、あっぱれとしか言い様がない。
それでも―――佳那子との時間を作ってくれるために、猛スピードで仕事をこなして、この時間に帰宅してくれたのだろう。
全く…秘密の逢瀬は、体力がなけりゃやっていけない道楽だ。
くすっ、と笑った佳那子は、時計の針を確認し、止まったままのMDをもう一度再生させた。
多分、久保田が目を覚ます15分後は、彼が一番好きなジャズの名曲“アズ・タイム・ゴーズ・バイ”が流れている筈だ。
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