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― 男の直感女の理性 ―

 

 ―――ああ、地獄だった。
 読み終えた本をパタンと閉じて、蕾夏は思わず、その上に突っ伏してしまった。

 今、注目を浴びているらしい、いわゆる自己啓発本の一種。
 元来、蕾夏はこうした自己啓発ものが大の苦手だ。いや、様々な人の意見を聞くのは、自分の考えの新たなヒントにもなって結構好きなのだけれど、本には会話がない。意見だけを一方的に提示されるのは、どうにも苦手なのだ。
 “私はこんなに前向きです、こんなに幸せな人生を送ってます。さあ後ろ向きなアナタ、アナタも私を見習って一緒に前向きなって、幸せをゲットしましょう!”
 それが今蕾夏が読んだ本の概要だ。
 ああやだやだ、と思ってしまうのは、自分の心が狭いからなんだろうか? 後ろ向きな人は、これを読んで「よし、私も前向きなるわ!」と一念発起するんだろうか? 自分が特別前向きな人間とも思わないが、自他共に認める後ろ向きな人に、是非とも訊いてみたい。
 そして何より嫌なのは、この本の筆者が、「幸せ」というのを一義的に決めつけている点だ。
 幸せなんて、そんなの、人それぞれなんじゃないの、と蕾夏は思う。なのにこの筆者によれば、結婚もして、子供も作って、その上でバリバリ働くのが「現代の女性の幸せ」らしい。独身も専業主婦もDINKSも、全部アウト。無茶を言うな、と、途中でムカムカしてきた。

 これをお薦めの本として紹介しろ、というのが、今の蕾夏に課せられた任務だ。
 本来、外部ライターに書かせる仕事なのだが、見習い中ということで蕾夏に回ってきたのだ。人選を誤っているとしか思えない。誰かこれに感動できる人に代わりに書いて欲しい。
 「読み終わったの?」
 隣の席に座る津川が、突っ伏している蕾夏の下敷きになった本をチラリと見ながら声を掛けた。
 「…終わりました。最悪です」
 「けどそれ、先月発売の本じゃダントツの注目度よ。結構売れてるし。だから余計、出版側が推してきたんだとは思うけど」
 「津川さん、読みました?」
 ムクリと顔を起こして蕾夏が訊ねると、津川は、ちょっと不愉快そうに眉を顰めた。
 「読んだわよ。私は好きじゃない、こういう自己陶酔型の押し付け本は」
 「じゃ、なんで売れてるんだろう…」
 「世間一般が考える女性のステレオタイプだからじゃないの」
 「ステレオタイプ?」
 「女が働く時代と言っても、結婚至上主義はいまだに抜け切らないし、結婚した以上は“お子さんは?”が当たり前の質問でしょ。けど、専業主婦で落ち着いてるとバカにされるのが、今の日本の女性事情―――そう思ってる専門家が多くて、そう思い込んでる女が実際に多いから、こういう本が売れるのよ、きっと」
 「……」
 独身である蕾夏には、これを手に取る既婚者の気持ちは分からない。結婚なんて微塵も考えたことがないから、結婚願望の強い独身女性が何を思ってこの本を読むのかも、よく分からない。でも、売れるということは、蕾夏とは立場の違う女性が世の女性の多くを占めているということなのだろうか―――よく、分からない。
 「まあ、悩める女性に勇気を与える、とか何とか書いておけば、クリアになるでしょう。深く考えることないわ」
 「…はあ…」
 全然勇気を与えられてないのに、そう書くのがライターなのだろうか。なんだかなぁ、と、蕾夏はため息を一つつき、とりあえず何か書くか、と机上のパソコン画面に目を向けた。
 「藤井」
 ちょうどそのタイミングで、背後から瀬谷の声が聞こえた。
 振り返ると、瀬谷は、社内では脱いでいることの多いスーツの上着をきちんと着込んでいた。どうやら外出するつもりらしい。
 「読めたか、それ」
 眼鏡の向こうの瀬谷の目が、蕾夏の手の下にある本に向けられる。
 「あ、はい。読みました」
 「なら、あとは書くだけだな。じゃあ、今から取材に行くから、同行してくれ」
 「取材?」
 「特集記事のためのリサーチ取材」
 「行きますっ」
 あの本を紹介する記事を書くには、少しばかり頭のリセットが必要かもしれない。それに、瀬谷のリサーチ取材に同行するのは、これが初めてだ。蕾夏は、願ってもない話に、即座に飛びついた。

***

 瀬谷が蕾夏を連れてやってきたのは、一見カフェに見えるような洒落た店だった。
 「ここが取材先なんですか?」
 確か、瀬谷が今取材中の巻頭特集は、本屋が題材になっていた筈だ。少し目を丸くして瀬谷を見上げると、瀬谷は涼しい顔で蕾夏を見下ろした。
 「取材先の1つだ。最近流行りのカフェスタイルの本屋」
 「えっ、これ、ホントに本屋さんなんですか?」
 どう見ても喫茶店かカフェにしか見えない。が―――確かに、ガラス窓の向こうに、普通のカフェではあり得ないほど沢山の本棚が並んでいるのが見える。と言っても、漫画喫茶のそれとは違い、やたらゆとりを持って並べられているが。
 本屋はよく利用する蕾夏だが、カフェスタイルを取っている本屋は、ビルの中に入っている大型店位しか体験したことがない。普通の大型の本屋の一角に、購入前の本を持ち込んでもよい喫茶コーナーが併設されていて、そこでお茶を飲みながら本を読んで、良さそうなら購入する、というスタイルだ。
 多分、この店も、そういうシステムなのだろう。それにしても…瀬谷に言われなければ、これが本屋だなんて絶対思わなかった筈だ。表に出された黒板メニューといい、横文字だらけの看板といい、"BOOK"の4文字が入っていなければ、最後まで気づかなかったかもしれない。
 「藤井位の年代の女性は、こういうのが好きなんじゃない?」
 「あー…いえ、私は、実用一辺倒ですから」
 「流行に疎いんじゃ、ライター務まらないよ。少しは研究するんだね」
 「…好みを訊かれたから答えたまでで、流行を無視してるつもりはないです」
 少しムッとして蕾夏が言葉を返すと、瀬谷は軽く肩を竦め、「それは失礼」と白けた声で言った。


 瀬谷の後に続いて店内に入ると、内部もやっぱり、一見本屋とは分からないムードだった。
 落ち着いた色合いの照明、ざっと30程度も並んでいる丸テーブル、オシャレなインテリアの数々―――その横に、本棚がズラリと並んでいなければ、ごく普通のカフェだ。店内は、平日の昼間にもかかわらず、結構賑わっている。が、そのどれもが女性である辺り、普通の本屋とは少々趣が違う。
 ひとまず、店の奥に席をとり、それぞれコーヒーを注文した。
 「一応ここ、どの情報誌でも人気ナンバー1って紹介されている、一番人気の店なんだ」
 「へぇ…そうなんですか」
 「という訳で、うちも紹介する5軒のうちトップに持ってくる。それ以外には、識者2名が“何故最近、こうしたスタイルの本屋が流行しているのか”について分析して、その結果を僕が纏める。そこに編集が纏めた読者アンケートを散りばめて、それらで“本屋が変わる―東京ブックストア事情”という特集記事が完成する訳だ。…さて、君ならこの店、どう記事にする?」
 「えっ」
 急に振られて、蕾夏は目を瞬いた。どう記事にするか―――つまり、この店の何を紹介すべきか、という意味だろう。
 「ええと…それだけの人気店なら、知名度も高いんだと思います。私はその、知りませんでしたが」
 「だろうね」
 「でも中には、この店は知っていても“なんでこの店、そんなに人気があるんだろう”と思ってる人もいると思います。だから、人気の理由を紹介すると、有名店だけに興味を持ってもらえるんじゃないかと」
 「…なるほど。じゃあ、何が理由かな」
 ―――そんなの、今日初めて来たのに、分かる訳ないじゃないですか。
 言いそうになったが、ぐっと堪えた。そんなことは、多分瀬谷も承知の上で言っているのだろう。
 「入店5分では分かりません。30分観察させて下さい」
 少し憮然とした声で蕾夏がそう言うと、瀬谷は眼鏡の奥の目を細め、どことなく皮肉っぽい笑いを口元に浮かべた。
 「―――了解。意外に性格キツいね、君」
 「相手によります」
 瀬谷が、そりゃどういう意味だ、という顔をした気がしたが、完全に無視した。ちょうどコーヒーも運ばれてきたところだったので、蕾夏はミルクと砂糖を手早くコーヒーに入れつつ、次第に意識を瀬谷からその周囲へ広げていった。

 店内に流れている、ほど良い音量のゆったりしたリズムのジャズ。
 スティックシュガーの字が苦もなく判別できるレベルの、目に優しい集中照明。
 書棚は、どうだろう―――普通の本屋に比べると、1段に並んだ本の分量が、格段に少ない気がする。実用主義な蕾夏からすると在庫の少なさはマイナスポイントだが、単純に本を手に取るという動作を考えた時には適切な分量かもしれない。
 そう言えば、どの客のテーブルを見ても、注文した飲み物は、全てトレーの上に乗せられている。それに、アイスコーヒーなどの入ったグラスは、みな背の低い径の大きいグラスだ。つまり、うっかり倒してしまって商品である本を汚してしまわないための工夫―――汚した場合は当然買取なのだが、そうした気配りはプラス評価だ。
 ところでここは、喫茶店ではなく、本屋だ。肝心の本のラインナップは、どうなっているのだろう?
 気になって席を立つ。全部で10ほどある書棚を順に見ていくと―――なるほど。蕾夏も聞いた覚えのある、いわゆるベストセラーものを集中的に並べている。さっき読んだあのムカムカくる自己啓発本も3冊並んでいた。あとは、ファッション雑誌、女性向けと思われる実用書、芸能関係の本―――…。
 蕾夏が求めるような本は悉く並んでいないのだが、なんとなく分かった。
 20代から30代の女性が、好んで手に取りそうな本“だけ”を並べている。この店のターゲット客の方だけを向いているラインナップだ。一応ターゲットの1人である筈の蕾夏の好みからは外れまくっているが、世間一般を考えると、大変効率的なセレクトだと思う。

 なるほどね―――人気店である理由を理解すると同時に、この店の絵が、蕾夏の頭の中に完成した。そこに流れる空気、光の色合い、集う人々の表情、細かな調度の配置など、ちょうど1枚の写真に焼き付けるように。
 こういう作業は、被写体を探す時の心境と、ちょっと似ている。
 ストーンヘンジを撮りに行った時、そこにあるものを1つ1つ具に洗い出していき、何を撮るべきか、瑞樹と2人で意見を戦わせた。写真も、文章も、同じだ。何を伝えたいのか―――それを模索し、実現する作業だ。


 「―――30分経ったよ」
 突如、思考が声に遮られた。
 ハッとして顔を上げると、待ちくたびれた、という顔をした瀬谷が正面に座っていた。彼の手元に目を落とすと、コーヒーカップの中身が見事に空になっている。一方、蕾夏の手元にあるコーヒーは、まだ半分以上が手付かずだ。
 「僕もいささか暇を持て余してるから、そろそろ出よう」
 奢るつもりなのか、それとも経費として会社に請求する気なのか、瀬谷はそう言い、テーブルの上の伝票をくしゃっと握って先にレジに向かってしまった。暇を持て余す位なら、自分もリサーチ作業をやればいいのに―――ちょっと不服を感じながらも、蕾夏は残りのコーヒーを急いで流し込み、席を立った。

***

 「さて、それで? 今の店が人気ナンバー1な理由、分かったかい?」
 店を出、財布をジャケットの内ポケットに突っ込みながら、瀬谷が訊ねた。
 「はい、なんとなく」
 「じゃあ、聞かせてもらおうか」
 「まず―――お店のムード作りに、とっても気を配ってると思いました。無機質にならないよう、自然素材を壁面や書棚にふんだんに使ってたし…玄人っぽいインテリアだな、と感じました。多分、コーディネーターの手が入ってるんだと思います。それと、色々とユーザーフレンドリーな工夫が施されてるって点でもポイント高かったです。店員が不必要に店内をうろついてないのも、落ち着けて好感持てました」
 答えはよどみなく出てきた。実際、蕾夏も、今度プライベートであの店を利用してみようか、という気になったのだ。新刊の小説などを試しに読むには、結構いい店かもしれないな、と。
 瀬谷はその説明を、黙って聞いていた。が、蕾夏が全て言い終わると間もなく、あの皮肉めいた笑いを見せた。
 「…ふーん。それが君の視点か。よく分かったよ」
 「は?」
 「正解を教えてあげよう」
 少しずれていた眼鏡を押し上げると、瀬谷は余計皮肉な笑みを深めた。
 「あの店が人気店なのは、そうなるべくしてなってるからだ」
 「…え?」
 「もっと詳しく言うなら―――あの店は、立地がいい。最寄り駅から徒歩1分。どんな横着者でも辿りつける距離だ。内装外装は、君が言う通りプロの仕事だ。今時のOLがいかにも好みそうなインテリアにしている。そして決め手は、フードメニューだよ。あの店で出されるケーキは、今、OLの間で一番人気のパティシェの店から仕入れているものなんだ。…つまり、あの店の売りは、立地の良さ、オシャレさ、人気パティシェのケーキの3点だ」
 「―――…」
 「そんな訳で、立地の良さとオシャレさとケーキを記事にするのが正解。というより、最初に正解ありき―――他の情報誌じゃ、金払ってトップに載せてもらってるってもっぱらの噂だ。そしてターゲット層は、そうした記事を見て、戦略通りの反応を示すって訳だ。どう? 僕らが“文章作成マシーン”だと言った意味が分かっただろう?」

 勝ち誇ったような瀬谷のセリフを聞きながら、蕾夏は、襲ってくる憤りのようなものに、思わず眉をひそめていた。
 計算し尽された戦略、その通りに踊らされている消費者―――そういう図式が全くないとは、さすがの蕾夏でも思いはしない。
 でも、人気パティシェのケーキが食べたいだけなら、その店に行けばいい。オシャレな空間が楽しみたいなら、もっとオシャレなカフェレストランに行けば済むことだ。わざわざ本屋というスタイルを取ったこの店を選ぶからには、本屋を利用するという意識の働いた客ならではの理由がちゃんとある筈だ。なくてはおかしい。

 「納得いかない、という顔だね」
 「…納得、いきません」
 「でも、それが現実だ。あの店は、広報宣伝費を惜しまない。だから有名店になれるんだよ」
 「…それは、瀬谷さんのカンですか」
 「経験から来る直感だよ」
 「だったら、本屋愛好家のカンで言いますけど、お客さんは、ケーキや見た目や場所の便利さだけを理由に、あの店を利用してる訳じゃないと思います。だってあそこ、本屋さんでしょう? 本屋としての快適さがあるからこそ利用してる筈です」
 負けるもんか、という勢いで蕾夏が言い放つと、瀬谷は、おや、と表情を少し変え、続いてううむと考え込むようなポーズを取った。
 「本屋としての快適さ、か。僕はあまり、そうした快適さを今の店には感じなかったな。ただのカフェじゃ面白くないから、目新しさとして本屋の形式をとってるだけだと思うけど」
 「カフェに本屋がおまけとしてくっついてるってことですか? そんな筈ないですっ」
 「―――なら、それを証明するために、具体的な取材資料を作ってもらおうか」
 唐突な話に、蕾夏は目を丸くした。
 「は?」
 「残り4軒。いずれも、今の店ほどじゃないけど、人気店だ。僕が納得するような“本屋としての快適さ”を示した取材資料を提出してくれ。ムードとか印象じゃだめだよ。数値化できる位、具体的な中身でないとね」
 「……」

 ―――なんだか、とんでもない命令を下された気がする。
 そう気づいた時には、時既に遅し。さあ、やれるもんならやってみろ、と冷淡な笑みを浮かべる瀬谷に、蕾夏は、
 「―――分かりました。やります」
 と言う以外、どうしようもなかったのだった。

***

 「快適さなんて、簡単に数値にできる訳ないじゃんっ! 何考えてんの、あの人ーっ!」
 『…まあ、とりえあず、落ち着け』
 受話器から聞こえる瑞樹の声が、少し遠くなった。多分、蕾夏の声の大きさに負けて、受話器を耳から遠ざけたのだろう。
 『にしても、結構嫌味な奴だな、その瀬谷って奴』
 「嫌味だよっ。まあ、篠沢次長に慣らされた身からすれば、あの位どーってことないけど…」
 無駄に鍛えられている自分の神経が、ちょっと悲しい。ベッドの上でクッションを抱えた蕾夏は、受話器を耳に当てたまま、ごろりと寝転がった。
 「いいの。瀬谷さんが嫌味なのは、もうどうでも。それより本屋さんだよ。どうすれば瀬谷さん納得させられる資料が作れるかなぁ…」
 『うーん…普段、そういう店、ほとんど使わねーし』
 「今度行ってみる?」
 『…俺らの趣味に合う本が並んでる確率、相当低そうだけどな』
 瑞樹と蕾夏が本屋に行くと、決まって行くのが映画、写真集、カメラの各コーナーだ。“昭和映画史50年”だの“ライカ通信”だのが、ああした本屋に並んでいるとは思えなかった。
 『でも、お前は気に入ったんだろ、その本屋』
 「うん。居心地良かったよ。あそこならゆっくり本の吟味ができそう。ほら、どこだっけ、立ち読み防止なのか、10分に1回は店員が本の山を整えにうろうろ寄ってくる店があったじゃない。あれは落ち着かなかった。立ち読みはいけないと思うけど、あれじゃゆっくり選べないよ」
 『落ち着いて本選びできるのは、本屋の快適さの基本だよな』
 「だよね」
 言いながら、ふと思い立った蕾夏は、体を起こして枕元のメモ帳に手を伸ばした。いつもセットにして置いてあるボールペンで、素早く書き付ける。
 “1.客は落ち着いて本を選んでいるか”。
 「ねえ。お客さんが落ち着いて本を選んでるかどうかの判断て、何を見れば分かるかなぁ?」
 書きながら訊ねると、瑞樹の回答はいたってシンプルだった。
 『長時間その店にいるかどうかで、分かるんじゃねーの』
 「…滞在時間、か」
 『居心地いい店には、長居するもんだろ、普通。居づらければ、客の回転速いぜ、きっと』
 「そっかそっか。瑞樹の考え方って、シンプルでいいなぁ」
 『…お前にだけは言われたくねーよ』
 むっ、としたような声を耳にしながら、書き加える―――“……客の滞在時間、客の回転を数値化”。
 「あと、本屋の快適さっていうと…やっぱり、品揃えかなぁ」
 『マニアックなもん揃えてるのも嬉しいけど、普通はベストセラーのヒット数の方が重要かもな』
 「今週の売れ筋トップ10のうちいくつを揃えてるか、なんて形でなら数値化できるよね」
 “2.品揃え……トップセラー10位以内のヒット率、専門書の有無、全体の在庫数”。
 「それと、照明も問題かな。ムード優先で、本が読み難いんじゃ、意味ないもの」
 “3.照明は適度か”。
 そう書き込んで、はたと気づく。照明が字を読むのに適した明るさかどうかを、どうやって調べるんだ、と。そして、思い出したのは―――ロンドンでのスタジオ撮影の際、時田が使っていた機材。
 「…あの…さ。すごーく虫のいい話かもしれないけど、瑞樹、照度計って…」
 期待と不安の入り混じった声で訊ねると、瑞樹の押し殺したような笑いが聞こえた。
 『―――言うと思った。旧式のなら、事務所に転がってた』
 「貸してっ!」
 『っつーか…普通、そこまで細かい調査するもんなのかよ。1本書くたびに』
 “……照度計で手元で何ルクスの明るさがあるかを測定”と書いたところで、瑞樹がそんなことを言った。首を傾げた蕾夏は、累や瀬谷のことを頭に思い描いた。が、彼らの取材手法など全く知らないので、比較のしようもない。
 「うーん…よく、わかんない。とりあえず、私は新人だから、思いつくことは全部やってみようかと思って。…おかしい?」
 『いや。お前、楽しそうだから、ホッとする』
 「……」
 これまで瑞樹は、蕾夏の新しい職場のことを心配するようなそぶりはなかった。けれど…やはり、ちょっとややこしい立場にあることは、伝わってしまっていたらしい。本当に安堵したような声色を耳にして、蕾夏はくすっと笑った。
 「辛い部分もあるけど、頑張るもの―――瑞樹と一緒に仕事できる機会が、絶対あるって信じてるから」
 『…だよな』
 電話越しに、ちょっと、笑いあった。
 この先にあるものを夢見れば、多少の苦労も、ややこしい人間関係も、我慢できる。それが、いつになるかは、分からないけれど。それは、蕾夏だけではなく、瑞樹も同じことだった。


 それが、思いのほか近い未来にあることを―――この時の2人は、まだ知らないでいた。


***


 「え…っ、特集記事の店舗取材、結局藤井さんに全部任せてしまったんですか?」
 目を丸くする津川に、瀬谷は顔色ひとつ変えずに、書類を見たまま軽く頷いた。
 「任せたよ。おととい昨日と取材して、今日出社したら結果を提出することになってる」
 「大丈夫なんですか? 彼女、まだ新人なんですから」
 「まあ、大丈夫だろう」
 「責任の重い仕事任せて、何かあったらこっちも迷惑だって言ってるんです。外部ライターの仕事なら、万が一の場合、替えがきいていいと思ったから任せたのに…」
 特集記事という大きな記事に新人の蕾夏が関わったことに、津川はかなり神経を尖らせているらしい。ふっと笑った瀬谷は、書類から津川に視線を移した。
 「時間は十分あるから、問題ないよ。それに、適当なデータが揃えば、あとは決まり文句並べれば済む仕事だからね」
 「…まるで、取材しなくても書けるようなことを言うんですね」
 津川の目が、少し軽蔑したような色合いになる。
 「なら、藤井さんに取材させる必要もなかったんじゃないかしら。私は、彼女に地道な仕事からコツコツ積み上げてもらおうと、私なりに」
 「ああ、分かった。君の仕事の邪魔はしないよ」
 以前にも聞かされた津川の“新人教育論”をまた聞かされるのはごめんだった。瀬谷は軽く書類を振って話を中断させると、早々に自分の席に戻った。

 そう。津川は、歯に衣を着せなすぎるため少々誤解はされやすいものの、基本的に陰湿な苛めなどはしないタイプだ。蕾夏に接する姿勢も、またしかり。採用経緯に気に食わない部分はあるが、使い物になるのであれば歓迎する、という考えでいる。
 けれど瀬谷は、蕾夏の能力の有無を見極める気など、毛頭なかった。
 最初に読ませられた、膨大な量の紀行文や評論文。あれで十分。彼女は、ライター向きではない―――瀬谷は既に、そう結論付けている。
 やたら情緒的な、詩的な表現の並んだ文章―――詩人か小説家にでもなれ、と言ってやりたかった。情緒なんぞ、ライターには必要ない。ライターに必要なのは、冷静で客観的な分析力だ。この企画が意図する“結論”を素早く察し、その“結論”に沿うように文章を構成する―――それが、ライターの能力というものだ。
 自分の適性も判断できないような奴に、自分の領域を侵略されるのは嫌だ。さっさと身の程を知って辞めてしまえ、というのが、瀬谷の蕾夏に対する正直な気持ちだった。

 「瀬谷君、ちょっと」
 津川から受け取った書類の吟味に入ろうとしていると、編集長が瀬谷を呼んだ。
 何事か、と思いつつ席を立ち、編集長のデスクへと向かった。その表情があまり冴えないので、悪い話だな、と見当はつく。
 「どうしました」
 「小清水さゆみのインタビュー取材ですが、先方の都合で、急遽明後日にして欲しいと言ってきたんですよ」
 「明後日ですか?」
 思わず、眉を顰める。
 小清水さゆみは、中堅どころの女流作家だ。彼女の処女作が映画化されたので、次号でカラー写真入りのインタビュー記事を載せることになっている。見開き2ページ程度だが、相手が結構お高い人物なので、外部委託せず瀬谷がインタビューに赴くことになっていた。でも―――予定していたのは、明日だ。
 「明後日は瀬谷君、取材が入っていたでしょう。静岡で」
 「…ええ。小松と一緒に」
 小松というのは、ここの専属カメラマンのことだ。つまり明後日は、ライター、カメラマンとも不在という最悪のタイミングなのだ。
 「それで、提案なんですけどね―――藤井さんに、インタビューの方をやらせてみてはどうかな、と」
 編集長の提案に、瀬谷は驚きに目を見開いた。
 「藤井にですか? あいつ、まだ小さな記事1本仕上げただけの新人ですよ?」
 「ロンドン本社の一宮君の話では、相当度胸はいいみたいですよ。それに、自他共に認める映画フリークときている。映画化を話題に話を盛り上げるには、案外君より適任かもしれませんよ」
 「いや、しかし―――第一、カメラマンはどうするんですか。小松はこっちの取材でも欠かす訳には」
 「まだ確認は取ってませんが、時田さんのお弟子さんの、成田君に頼もうと思ってます」
 「……」
 「彼ら2人は、ロンドンで一緒に仕事をしてたから、気心も知れてます。さすがに時田さんにはこんなお願いできませんが、彼の方は新人だし、元仕事仲間が関わる仕事であれば、スケジュールさえ空いてればOKをくれると思いますよ」
 「―――既に結論ありき、ですか」
 よどみない編集長の言葉に、自分が呼ばれたのは単に決定事項を報告するためだと察した瀬谷は、皮肉っぽく眉を上げた。
 その通りだったのだろう。編集長は、温和な笑顔を瀬谷に返した。
 「という訳だから、小清水さゆみ関係の資料、藤井さんに引き継いでおいて下さい。カメラマンの手配は小松君本人にさせましょう」
 「…分かりました」
 今更、瀬谷が口を挟める問題でもなかった。瀬谷は、軽く一礼すると、自分の席へと戻った。


 席に戻る途中、フレックスタイムの関係で瀬谷より1時間遅れで出社した蕾夏と鉢合わせになった。
 「あ、瀬谷さん、おはようございます」
 ペコリ、と頭を下げる蕾夏に、瀬谷は機嫌の悪そうな視線を返すことしかできなかった。
 ―――こいつが、インタビュー? できる訳ないだろ。有名人を前にしてはしゃいで終わりだぞ、新人なんて。
 「? どうかしましたか?」
 奇妙な瀬谷の視線に、蕾夏がちょっと眉をひそめる。
 「…いや、なんでもない。それより、持って来たんだろうね。月曜日に頼んだやつは」
 「はい、できました」
 ニコリと笑った蕾夏は、バッグの中からA4サイズの茶封筒を引っ張り出し、瀬谷に差し出した。
 「2日間の取材成果です。デジカメで写真もいくつか撮ってきたので、CD-Rに焼いてきました。中に入ってますので、参考にして下さい」
 「写真?」
 「商品の本の並べ方とか、照明の位置とか、データ化しにくかった部分です」
 「……」
 「藤井さーん! あの本の紹介コメント、完成したー!?」
 背後から聞こえる津川の声に、蕾夏のニコニコ顔が引きつった。茶封筒を瀬谷に押し付けると、慌てて津川の方へと走っていった。
 「で、できました。でも、ごめんなさい、全然褒めてるコメントになりませんでしたっ」
 「えー? ダメじゃない。ちょっと見せなさい」
 背後で展開するせわしない会話を聞くともなしに聞きながら、瀬谷は、受け取った茶封筒の中身を確認した。
 確認した途端、なんだこれは、と思って、目を剥いた。

 慌てて、茶封筒の中身を机の上に引っ張り出す。せいぜい、レポート用紙2、3枚だろうと思いきや―――出てきたのは、A4のコピー用紙計10枚と、CD-Rが1枚だった。
 紙に印刷されていたのは、データの羅列だ。
 住所や電話番号、席数、営業時間などから始まり、どこで調べたのか店舗面積なんてものまで書いてある。更にはドリンクメニューの種類、その価格の平均、1時間の間の客の出入り、1人の客が一度にテーブルに持ってくる本の冊数の平均、手元を照らす照明が何ルクスか、トップセラーのヒット数、取り扱い書籍のジャンル、書籍検索システムの有無、客の書籍購入確率―――ざっと数えただけでも20以上の項目について、ずらずらとデータが並んでいる。
 他にも、本を選びやすいよう工夫していると思われる点について細々と備考が並んでおり、店長のコメントなんてものまでついている。そして最後には、なんとランク付けまでされていた。最も高い評価を蕾夏から受けたのは、結局、月曜日に瀬谷と一緒に行った、あの店だった。
 『分析した結果、やっぱりあの店が1位でした。本屋愛好家的にも、あの店はおすすめです』
 ペタン、と貼られた付箋には、蕾夏の字で、そんな言葉が添えられていた。

 …恐ろしいまでに、システマティック。
 あの観念的で叙情的な文章を書いた人物と同じ人間とは思えない。どうなってるんだ、と混乱した時、つい先日耳にした蕾夏の言葉を思い出した。
 『ロンドンへ行く前ですか? システムエンジニアやってました』

 ―――謎だ。
 藤井蕾夏の中身は、理論派なのか、浪漫派なのか、どっちなのだろう。
 津川の隣でパソコン画面を眺めて頭を抱えている蕾夏に目を向け、瀬谷は首を傾げるしかなかった。


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