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マンションの1階に下りた途端、嫌な予感に足が止まった。
甲高い喋り声が、複数―――まずい。この時間帯は、あのグループが井戸端会議をやっている時間帯だったらしい。
今すぐ、回れ右して部屋に戻りたいところだが、もう出かけないと帰宅ラッシュにかかってしまう。ラッシュ、イコール、危険。和臣がしつこくしつこくインプリンティングしたせいで、奈々美も本能的にラッシュ時を避ける癖がついていた。
―――しょうがない。突っ切るしかないっ。
奈々美は、ため息をひとつつき、意を決して一歩踏み出した。
***
「ごめんねぇ、遅れちゃって」
待ち合わせより30分ほど遅刻して、蕾夏がイタリアンレストランに入ってきた。先に飲み物だけ注文していた佳那子と奈々美は、済まなそうな顔をする蕾夏を笑顔で迎えた。
「忙しそうね、蕾夏ちゃん」
「うーん…と言っても、SE時代よりはマシなんだけど。ほら、こんな時間に帰れちゃうし」
「現役SEの佳那子は、大丈夫なの?」
「後輩をスパルタ教育中だから、私はわざと早めにあがってるのよ」
なかなか上手く連携してくれない樋沼と小沢の荒療治として、部長がそう指示したのだ。佳那子の抜けたシステム部は、今頃戦場状態だろう。佳那子の性格からすると、こうしていても気になってじっとしていられないのだが、「手を出さないのも先輩の仕事だぞ」と久保田に窘められたので、ぐっと我慢するしかない。
「スパルタねぇ…。私なら耐えられない。営業補佐の先輩って、凄く優しくて親切丁寧だったもの。スパルタだったら、自信喪失して辞めてたと思うな」
奈々美がちょっと顔を顰めてそう言うと、メニューを手に取った蕾夏は、軽く首を傾げた。
「私はスパルタな位の先輩の方が好きだなぁ。がんがん仕事与えて、自分で考えろー、とか言って放置してくれるのがいい」
「何を考えればいいか分からないー、って状態にならない?」
「考えるの、好きだし」
「逞しいわねぇ。今の職場はどうなの? 先輩ライターっているんでしょう? 蕾夏ちゃんに厳しい?」
「厳しい厳しい。超スパルタだよ」
「じゃあ、藤井さん的には“いい先輩”なんだ」
「うん。いい先輩かな。性格は破綻しちゃってるけど」
「……え?」
性格が破綻してしまっている超スパルタな先輩、とは、どんな先輩なのだろう。色々な想像が佳那子と奈々美の頭の中に浮かぶが、蕾夏は既にメニューを見ることに没頭してしまっていて、先輩についてそれ以上語ってくれることはなかった。
何故、平日の夜にこうして3人集まっているのか―――その理由は、実は和臣だ。
今日は和臣は、珍しいことに、大学時代の友人と会っている。なんでも、その中の1人が盆休み前に会社を退職して故郷の四国に戻るのだそうで、いわば彼の送別会のような飲み会だ。
退職してまだ日が浅い奈々美は、1人きりの夕食、というシチュエーションは実はこれが初めてだ。1人分の夕飯を作るのも味気ないので、たまには女だけで集まっちゃおうか、という話になったのだ。
「実家にいた頃は家族が一緒だったし、上京してからも叔母さん夫婦が必ず一緒だったし、結婚してからはカズ君いたし。考えてみたら私、夕飯時に1人、って環境にいた経験が全然ないのよね」
そう言って奈々美は、運ばれてきたサラダを難しい顔で頬張った。つまんない、という感じの奈々美の表情に、佳那子がくすっと笑う。
「あと半年足らずで、もう1人増えるじゃないの」
「…まあね」
「奈々美さんて、今、日中1人でどうしてるの?」
奈々美の動向を全く聞いていない蕾夏がそう訊ねると、奈々美はちょっと嬉しそうな顔になった。
「今はね、仕事してた間全然出来なかった部分の掃除とかにいそしんでるの。カズ君は“危ないからやめろ”って言うんだけど、家の中にいると気になって気になって―――気づけば家中、ピカピカよ。会社辞めて2週間経って、さすがにもう磨くとこなくなったけど」
「…やり過ぎなんじゃない? カズ君じゃなくたって心配するよ」
「根が貧乏性だから。あ、それと、マタニティー・スイミングにも行ってるの。あとは、離乳食のレシピを試してみたり、カズ君ばっかり読んでて全然読んでなかった育児書の類を読んだり―――なんか、仕事してた時より忙しい感じ」
「ナナは主婦向きなのよね、元々」
「自分でもそう思う」
手芸関係は得意だし、料理も好きだし、掃除や洗濯も全然面倒じゃない、むしろ好き。面倒なカロリー計算なんかも全然苦にならないし、スーパーのタイムサービスなんかをチェックするのも大好きだったりする。つくづく、主婦向きだなぁ、と自分でも思うのだ。
「なんか、会社勤めは、いつも自信なくていじけちゃって、自分でも嫌だなぁ、と思ってたんだけどね。主婦業に関しては、なんだか自信満々なのよ、私って。やっぱり休職じゃなく退職にして正解だったみたい」
「そうねぇ…あの時は惜しいと思ったけど、ナナの顔見てると、私もそんな気してくるわ」
「…なのにさ」
突如、奈々美の声が2音ほど下がり、眉間に皺が寄った。
唐突な変化に佳那子と蕾夏が目を丸くしていると、奈々美は、忌々しげにサラダの上に乗ったトマトをぐさっ! とフォークで突き刺した。
「なのになのに、あの連中ときたら―――…!」
「あの連中?」
「ご近所のママさん連中よっ」
「…ママさん連中が、どうしたの」
むかむかむか。
そんな効果音が聞こえてきそうな表情で、奈々美はパクリとトマトを口に放り込んだ。
***
それは、奈々美が退職した2日後の、7月下旬に起きた。
「あら、神崎さん!」
買い物に行こうと家を出た奈々美は、マンション1階のエントランス付近で、滅多に会わない人々と遭遇してしまった。
同じマンションに住む主婦4名。名前はよく覚えていない。その内の1名が2軒隣の木村さんだということは分かるが、それ以外の3名は、時々挨拶はするが、名前までは確認していなかったのだ。
声を掛けたのは、唯一名前を知る木村さんだった。あまり良い印象を持っていなかった奈々美だが、一応社交辞令的に笑顔を作ってみせた。
「どうも、こんにちは」
「どうしたの? 平日のこんな時間に。お勤めがあるんでしょう?」
「ああ、一昨日、辞めたんです」
「えっ、そうなの?」
途端、木村さんの顔が凄くいいニュースを聞いたみたいに明るくなったのを見て、奈々美は眉をひそめた。しかも、木村さん以外の3人の表情も変わったのを見て、思わず後退りしそうになった。
「あらまあ、どうして?」
「ねぇ、もったいない。どうして辞めちゃったの?」
なんだかワクワクした顔で訊ねられ、本当に後退ってしまった。何を期待しているんだろう、この人達は。
「あの―――もうすぐ妊娠6ヶ月で」
「え、妊娠してたの?」
何故か、少し期待はずれな顔になる。怪訝に思いつつも、奈々美は続けた。
「ええ。もう安定してるから大丈夫だとは思うんですけど、主人が、これ以上おなかが大きくなったら、ラッシュや階段が心配で仕方ないから、っていうんで」
「ご主人てあの、アイドルみたいな顔の人でしょう?」
名前不明の主婦の1人が、奈々美の言葉を遮る。その目が、その一瞬で妙に剣呑なものに変わったのは、何故なんだろう?
「えー…、多分、そうですね」
「同じ会社なんですってね」
「3つ年下だとか」
「ご主人の方が猛アタックしたんですって?」
残り3名が、矢継ぎ早に迫ってくる。どれも正解なので、言葉も出ずにこくこくと頷いたが、なんでそんな情報を名前も知らない人間が知ってるのだろう?
その答えは、ただ1つだ。情報の出所は、木村さん―――それしか考えられない。
挨拶回りで木村家を訪問した際、木村夫人は、和臣のアイドル並みのルックスにすっかりのぼせ上がり、まるで10代の追っかけみたいに目をキラキラさせていた。
『共働きで留守がちですが、よろしくお願いします』
にこやかに挨拶する2人の、主に和臣の方しか目に入っていない様子で、木村夫人は興味深々で色々な質問をしてきた。
自分よりはるかに年上と思われる女性の異常な関心に、奈々美はちょっと嫌な気分になったのだが、当の和臣は全然気づいていないらしく、質問に嬉々として答えた―――ええ、同じ会社の先輩後輩なんです。あ、でも3つしか違いませんからっ。入社前からオレ、奈々美さん一筋だったんですよ。半分奈々美さん狙いで入社した感じです。口説いて口説いて口説きまくって、とうとう手に入れたんです。あ、まいったな、これってただのノロケですよね。すみません、あんまり奈々美さんが可愛いもんだから。
簡単ながらも、自分達の概略をほぼ喋り終わった時、木村夫人が奈々美に向けた目は、“嫉妬”の2文字としか言いようがなかった。場の雰囲気を読んでよ、カズ君―――引きつった笑顔を返しつつも、奈々美は内心、頭を抱えてしまった。
『共働きってことは、これからも同じ会社に?』
木村夫人も大人なので、一応笑顔をキープしている。でも、そこから発せられるムードは、これ以上惚気るようなら許さないぞ、といった険悪なものだった。
なのに、やってしまったのだ、和臣は。
『勿論ですっ。奈々美さんは重要な仕事してますし、同じ会社なら24時間一緒にいられますからね』
―――つまり、あの時の収穫を、ご近所の友達にばら撒いてた訳ね、木村さんは。
どうせ、日々の井戸端会議のネタにされていたのだろう。その情報だけではなく、その後の生活の細々したことを。何を話していたかは不明だが、どのみち好意的な扱われ方はしていなかっただろうな、と察しはつく。
「でも、ご主人も理解がないわねぇ。どうせ同じ会社なんだし、通勤も一緒にしているんだから、奥さんのフォロー位できるでしょうに」
「そうよねぇ。休職したって、復帰って大変なのよ。その苦労考えたら、出産ギリギリまで協力してあげればいいのに、奥さん可哀想」
「ねえ。結局男って、女には家庭に入って欲しいのが本音なのよね。うちも結婚する時、随分揉めたわ」
「奥さんとこもきっと、復帰する時揉めるわよー」
やっぱり男ってそうよねー、といった口調で、4人が次々にそんなことを口にする。なんだか、妙に一致団結したムードだ。何をそんなに同情しあっているのか、奈々美には理解できなかった。
「あのー…、皆さんは、働いてらっしゃらないんですか?」
上は木村さんの40手前から下は奈々美と同じ位までの4人組は、奈々美の質問に、一瞬ぴたっと静まりかえり、続いて苦笑めいた笑い声をたてた。
「働いてたら、こんな時間から井戸端会議なんてしてないわよねー」
「うちは、下の子がまだ1歳だから、とてもじゃないけど働きに出られないのよね」
「うちは小学生だけど、なかなかいい勤め先なんて―――年齢もブランクもあるしね」
「そうそう。子供が小さいうちは働ける状態じゃないし、子供の手が離れたと思ったら、今度は勤め先が難しいのよ。この年齢で探すとしたら、スーパーのレジのパート位だもんねぇ」
「え…っ、じゃあ、皆さん働きたくはあるんですか」
素で訊ねたら、あんた何言ってんの、という笑い方をされてしまった。
「当たり前じゃないの。ねぇ?」
「そうよ。ただの専業主婦で終わるなんて、考えただけでぞーっとするわ」
“ただの専業主婦”?
―――何それっ。
「でも…だったら働けばいいんじゃないかなぁ…。レジのパートの募集はある訳だし」
ちょっとムッとしながらも、どうにも引っかかったさっきの言葉を引用してみる。すると、4人はますます苦笑した。
「レジのパートじゃ、ねぇ…生き甲斐にならないわよねぇ」
「もっと、自分の人生賭けられるような仕事でないとね。なんかああいうのは、家計に困って無理矢理働いてるイメージあって、ちょっとやだなぁ」
「専門職がいいわよね。自分の技術が生かせるような」
「そういう技術があるんですか?」
奈々美が放った疑問が、グサリ、と木村さんの脳天に突き刺さった。
残り3人も、顔が引きつっている。…やっぱり、生かす技術は持っていないらしい。奈々美にだって、そんなもんはないけれど。
「ま、まあ、神崎さんは、出産が終われば戻る場所があるんだし? あたし達とは立場が違うのかもね」
「そ、そうね。いいわねー、若いって」
どういうフォローの仕方なんだか、主婦連はそんな風に誤魔化し、乾いた笑い声を立てた。イライラがそろそろピークに達しつつある奈々美は、むすっとした表情で言い放った。
「私、休職じゃないですよ。退職したんです」
その言葉に対する4人の反応は、凄まじかった。
全員、びっくりしたように目を大きく見開き、世界一の愚か者でも見るような目で奈々美を見下ろしてきたのだ―――そう、見下ろす形になってしまうのだ。彼女らの中で、奈々美が飛びぬけて背が低いから。
「ど、どうして!? もったいなーい!!」
「そうよそうよ。しかもあのハンサムなご主人と同じ会社なんでしょ。やーん、あたしが代わりたかったーっ!」
「休職も出来たんでしょ!? なんでそうしなかったの!? 絶対後悔するわよ!」
「あ、やっぱりご主人が許さなかったんでしょ。もー、いくら見た目が良くても、結局男ってそうなのよねぇ」
―――ちょっとちょっとちょっと。
自分が退職したことを、ほとんど見ず知らずの第三者に、こんな風に言われる覚えはない。滅多なことではキレない奈々美も、こめかみに血管が浮かんでくるのを感じた。
「カズ君は休職を勧めてくれたんです。私がイキイキしてるのが好きだから、って。子育てで大変な部分は2人でなんとかすればいいし、いざとなったら2人で赤ちゃんを会社に連れてっちゃえ、とまで言ってくれたんですからっ」
「…あ…そう」
4人の顔に、一気に白けたムードとどす黒いものが広がったが、奈々美はそれを無視した。
「でも私、仕事を生き甲斐にしていくつもり、ないですから。器用じゃないから1つのことしか集中できないし―――だから、退職は自分で決めたんです。子供生まれても、どこかに再就職する気はありません」
「一生、ただの専業主婦で終わる気? じゃあ、あなた、何を生き甲斐にしてくの?」
「まさか子供とか言う? ああ、あれね、お受験とかに走るタイプ」
「それはイヤよねぇ〜。夫の出世とか子供の教育しか生き甲斐ないのって、自主性のない女って感じでイヤだわぁ」
「そういう風にだけはなりたくないわねぇ」
だんだん、主婦連の口調もフレンドリーさを装わなくなってきている。その態度の変化に、奈々美は事実をはっきりと理解した。
つまり。
元々彼女らは、神崎夫婦が妬ましかったのだ。
アイドル並みの見目麗しい若い夫と、そんな夫からベタ惚れされている年上の妻。夫は理解のある人物で、妻が働くことに異を唱えないし、率先して協力もしてくれる。しかも勤め先は同じで、24時間ラブラブ状態。
うちの旦那なんて、中年太りで頭も薄くなりかけてるのに。
仕事に出たいって言ったら「金に困ってないのになんで働くんだ」なんて言って、取り合ってくれないのに。
こっちは、夫と子供の世話に明け暮れて、全然面白くない生活を送ってるっていうのに。
多分、そんな感じで、4人は和臣と奈々美を愚痴りあい大会の肴にしていたのだろう。そして、子持ちの主婦の常として、憂さ晴らしにこんな言葉も付け加えていたに違いない―――ま、あそこは子供いないしね。子供いないんじゃ、何のために結婚してるんだか分かんないわよねぇ。妊娠したと聞いて面白くなさそうな顔をしたのは、唯一自分達が優位に立てた部分が“子供”だったからだろう。
仕事を辞めたと聞いて喜んだのは、奈々美が自分たちと同じレベルに“落ちた”と思ったから。そして今機嫌を損ねているのは、奈々美が同じレベルに“落ちた”ことを認めようとしないからだ。そう考えれば、妙な言動も腑に落ちる。
―――頭にくる。
何が一番頭にくるか、というと、専業主婦になることを、彼女たちがまるで“敗北”のように言うことだ。
専業主婦を「たかが」呼ばわり。働いている女性が言うなら、ムカつきながらも、まだ心情は理解できる。
でも。
でもっ。
あんたたち現役の専業主婦が、自分のことを「たかが」って言うなーーーっ!!!
***
「ナナ、ナナ、フォークが曲がるってば」
「え?」
話に熱が入りすぎていたのか、奈々美の握るフォークが、空になったサラダ皿の底に押し付けられすぎて、ギシギシとたわんでいた。ちょっと顔を赤らめた奈々美は、慌ててフォークを置いた。
聞き手に回っていた佳那子と蕾夏は、というと、奈々美の迫力に押されて、椅子の背もたれギリギリまで体が退いている状態だ。日頃、気弱で臆病な奈々美だが、3人の中で本当にキレた時一番怖いのは、間違いなく奈々美だろう。
「…で…結局奈々美さん、それに何て答えたの?」
「ん…、それがね。カーッて頭に血は上ったんだけど―――なんか、馬鹿馬鹿しくなって、何も言い返さなかったの。ただ、一言だけ、決め台詞だけは言い放ってきたけど」
「決め台詞?」
「“私は、専業主婦が、自分の天職だと思ってますから”って」
はふ…、と息を吐き出して、奈々美は、少し冷めてきているリゾットを一口すくった。
「カズ君の世話して、この子の世話して、家中ピカピカにして、好きな手芸とかを好きなだけやって―――あー、今月は予算より千円安く食費があがっちゃったー、なんてことに喜び感じる生活が、私は好きなんだもの。あの人達が、そういう生活にどうして生き甲斐感じられないのか、どうもよく分からないのよねぇ。そんなに専業主婦がイヤなら、レジでも何でもやりゃあいいのに。ねぇ、佳那子には分かる?」
「え? う、うーん…そうねぇ」
急に話を振られて、佳那子も眉間に皺を寄せる。
「多分、ナナとは逆で、主婦に向いてない人ばかり集まってたんじゃないかしら。夫や子供の世話に明け暮れてると、自分が家政婦か奴隷にでもなった気分になる、って主婦も、結構いるらしいわよ。元々家事が嫌いな人なら、余計にそう思うかも」
「でも、一日中家事やってる訳じゃないじゃない。ああして無駄話してる時間が、酷い時は4時間位続いたりするんだもの」
「んー…じゃあ、他にやりたいことがあるけど、結婚してたり子供がいたりするせいで、出来ないとか。その鬱憤が“主婦なんて”って感覚に繋がってるのかもしれないわよ」
「うーん…そうかなぁ…。ね、藤井さんは、どう思う?」
黙々とグラタンを食べ続けている蕾夏の方に、奈々美と佳那子の視線が向く。
キョトン、と目を丸くした蕾夏は、少し考えるように眉を寄せると、あっさりと返した。
「そういう人は、主婦としてのアイデンティティが欠落してるんだと思う」
「アイデンティティ???」
意味が分からない。2人揃って怪訝そうな顔をしていると、蕾夏も説明する気になったのか、フォークを置いた。
「仕事はしたいけど、特殊な技能はない。でもスーパーのレジなんてかっこ悪くてイヤ。けど専業主婦はもっとかっこ悪い―――要するに、そういうことでしょ。だったら、特殊な技能を今から身に付ければいいのに、それもしないで、4時間無駄口叩いてるんでしょ。その人達」
「…まあ、そうよね」
要約すると、もの凄い言われ様になってしまう。だが、事実だ。
「結局ね。それって本当に働きたい訳じゃないんだと思う。働いてる、イコール、社会に貢献してる、イコール、主婦より偉い、って思い込んでるだけだよ、きっと」
「……」
「洗濯機あるし掃除機あるし、コンビニ弁当もある時代だから、主婦の存在意義を実感できないのかもね。かと言って生き甲斐にするだけの趣味もないから、カッコ良さそうな“働く主婦”に憧れちゃうんじゃないかな。第一、ご主人がちゃんと主婦の存在意義認めて日々労ってれば、そういう妙な思考にはならないと思う。そういう奥さんになっちゃったのは、旦那さんの責任でもある」
―――唖然。
多分3人の中では一番キャリアウーマンに近い立場にいる蕾夏が、こんなことを言うとは…意外だ。奈々美と佳那子は、スプーンやフォークを手にしたまま、何も言えずに蕾夏の顔を凝視していた。
そんな2人の様子に気づいた蕾夏は、暫しの沈黙の後、くすっと笑った。
「―――って、“月刊A-Life”の去年の10月号に書いてあった」
「えっ」
「詐欺商法について考える特集で。主婦アイデンティティの欠如した人はね、仕事をエサにした通信教育とかの詐欺商法とかにひっかかりやすいんだって。その4人、気をつけといた方がいいよ」
…大いに、あり得る。通信教育を自慢げに受けている木村さんを想像して奈々美は吹き出し、そんな奈々美を見て佳那子は額を押さえた。
それにしても、“月刊A-Life”がそうした社会派の特集も組んでいたとは知らなかった。それに、いくら自分が契約している会社だからとはいえ、過去の記事を受け売りできてしまうほど読み込んでいる蕾夏にも、ちょっと驚きだ。
「主婦アイデンティティ、かぁ…。そうよね。うちなんて、ご飯にしろ掃除にしろ、カズ君がべた褒めしてくれるから、やっぱり私がいなくちゃダメよね、って思うもん」
「…さりげなく惚気てるわね、ナナ」
「惚気じゃないわよ。事実だもん」
「はいはい」
蕾夏の説から、自分たちは理想の夫婦像だと実感でもしたのか、不機嫌だった奈々美はすっかりご機嫌だ。そして、ふと思い立ったように、口に運びかけたスプーンを下ろし、佳那子の方を見た。
「ねえ。佳那子は、結婚しても仕事続けるの?」
「……っ!!」
水を飲みかけていた佳那子は、いきなりの質問に、思わずむせそうになった。
「な、何言い出すのよ、急にっ」
「だってほら、この前の“TVバトル”見て以来、私もカズ君も、2人の未来が気になって気になって」
「あ、バレちゃったの?」
やっぱり、という感じで眉をひそめる蕾夏に、佳那子はただ頷くしかない。…そう。バレてしまったのだ。和臣と奈々美には。他に指摘してきた人間がいなかったのは、不幸中の幸いだっただろう。
「…結婚したらどうする、って問題より、その前がもの凄く問題だから、考えたこともないわよ」
ちょっと咳き込みつつ憮然とした表情で答える佳那子に、奈々美はちょっと真剣な表情になって、ずいっ、と詰め寄った。
「あのね。いつ結婚する気か知らないけど―――佳那子はちょっと、考えた方がいいと思うわよ?」
「? 何を?」
「主婦業についてよ」
「…って、どういう風に?」
「だって佳那子、凄いお嬢様じゃないの。お母さんが生きてた頃から、ずっと家政婦付の家に住んでたんでしょう? 当然、炊事なんてしたことないわよね。自分の部屋の掃除すらしたことがないんじゃない?」
う、と言葉に詰まる。
全くない、とは言わない。料理は、学生時代に当時の家政婦を手伝って、何度か経験した。部屋の掃除は、物の整頓程度なら毎日やっている。が―――1人でゼロから料理を作ったことは実は一度もないし、自分の部屋以外の掃除もしたことがない。
娘に厳しい両親だったが、茶道や華道といった花嫁修行には熱心な割に、そうした実践的な花嫁修業には無頓着だったのだ。まあ、母自身が超お嬢様だったのだから、家事なんて念頭になかったのかもしれないが。
「藤井さんは、心配ないわよ。結構自炊もこなしてるらしいから」
「うー…、自慢できる程じゃないんだけどね」
決して家事が得意な訳ではない蕾夏も、ちょっと言葉を濁す。けれど、佳那子と同レベルでないことは間違いないだろう。
「言っておくけど、久保田君てきっと、自炊しないタイプよ」
「……」
「結婚前に、暇作ってでもやっといた方がいいんじゃないかなぁ。佳那子たちも家政婦雇うんならいいけど」
「い、いやよ、そんなのっ! 自分が独立する時は、絶対普通の家庭にしたいんだから」
大慌てで首を振ってはみたものの―――…。
佳那子がここまで家事に疎いのは、何も家政婦やお嬢様な母のせいばかりではない。
佳那子は率先して手伝おうとしたのだ。過去に、何度も。なのに、その都度断られてしまうのだ。何故なら―――佳那子は、絶望的なまでに、手先が不器用だから。
料理は、きゅうりの薄切りをしようとして指を刻んでしまって以来、頑として受け付けてもらえなくなった。掃除は、父がオークションで落札した古九谷の壷を割ってしまって以来、頼むからやめてくれと言われてしまった。あれだけスピーディーにキーボードは叩けるのに、何故包丁やはたきになると全然ダメなのか。その答えは、佳那子自身が一番知りたい。
そんな訳で、現在、佳那子が任せてもらえる唯一の家事は、洗濯だ。しかも、乾燥機付。ほとんど意味がない。
「大丈夫だよ、きっと。私だって実家にいた時、何も出来なかったもん。やらざるを得なくなれば、適当になんとかなるって」
奈々美さんてばオーバーなんだから、と、蕾夏は軽い調子で超アバウトな励まし方をした。しかし、蕾夏は佳那子の不器用さを知らないから、そんなことが言えるのかもしれない。
―――本気で、まずいかも。
親の反対という、越えなければならないハードルが高すぎて、そういう実質的なことをすっかり忘れていた。
佳那子は、この時初めて、自分にはもう1つハードルがあったんだ、という事実に気づかされ、密かに蒼褪めていた。
***
―――あー、思いっきり愚痴ってきたから、気分が楽になったなぁ。
タクシーで帰宅した奈々美は、気分よく紅茶などを淹れていた。
“専業主婦の何が悪いのよっ!”と、あの連中の前で叫んでやりたいと思った瞬間が何度もあったが、今ではもうどうでもよくなった。主婦業の意義について説明してやろうか、なんてことも考えたが、やめておくことにした。
…きっと、独身とか主婦とか共働きとか、そういう問題じゃないんだよね。
今の自分に、どれだけ自信があるか。それが問題。
あの人達は、今の自分に全然自信を持ってないから、自分達の立場を“たかが”なんて卑下するんだ。学校や会社での私が“私なんて”ってすぐ卑下しちゃってたのと同じで。
今の私は、誰よりもカズ君好みの料理を作れる自信もあるし、カズ君の給料を上手にやりくりする自信もある。…うん。やっぱり、主婦は私の天職だ。
ふふふー、主婦業極めて、主婦向け雑誌にカリスマ主婦なんて紹介されるのもいいなー。目指せマーサ・スチュワート、なんてねー。
そんなことを考えつつ1人分の紅茶を見事な色合いで淹れ終えた時、呼び鈴が鳴った。
「はいはーい」
パタパタと玄関に走っていき、確認する。やっぱり和臣だ。
「お帰りなさい」
「ただいまぁ…」
ガチャリとドアを開け、入ってきた和臣は、異様なまでに疲れ果てていた。飲みすぎだろうか、と思ったが、そんなにお酒の匂いもしなかった。
「どうしたの? すっごく疲れてるみたい」
「うーん…すっごく疲れてるからねー…」
背広を着替えるのも面倒、といった感じで、リビングに置いた小さなソファにドサリと腰を下ろした和臣は、ぐったりとソファにもたれると、大きなため息をついた。
いつもなら、帰宅後すぐに向かうのは洗面所で、その目的はうがいだ。何故なら、お帰りなさいのキスで、外から持ち込んだウイルスが奈々美や子供にうつったら大変だから。その日課すら忘れてしまうとは、これはよほど疲れているのだろう。
「何かあったの? 四国に戻っちゃう人と喧嘩したとか」
「んー? ああ、いや、そんなんじゃないんだけどね…」
やっとネクタイを緩めた和臣は、またため息をひとつつき、疲れたように奈々美を見上げた。
「―――あのさ、奈々美さん」
「なぁに?」
「本人たちの前で叫べなかった分、今、ここで叫んでもいい?」
叫ぶ? 何を?
「いいわよ?」
分からないけど、一応そう答えた。すると和臣は、すぅっと息を吸い込むと、テレビの方向に向かって、力いっぱい怒鳴った。
「26で子持ちになって、何が悪いっていうんだよっ! 結婚が人生の墓場だなんて、そんなこと、結婚もしてないお前らに言われたくないぞっ! 自分達が運命の人見つけてないからって、僻んだこと言うな! オレの人生はオレの勝手だろ、放っといてくれーーー!!!!」
「―――…」
…男は男で、やっぱり色々と、叫びたいことがあるらしい。
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