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一番古い記憶は、まだアメリカへ行く前―――多分、3歳か4歳。
「らいちゃん」
らいか、と上手く言えないらしく、彼女はそんな風に蕾夏のことを呼んだ。
「しょーこちゃん」
蕾夏は彼女をそう呼んだ。
呼ぶと彼女は、とろけそうに可愛らしい笑い方をする。そして、とととと、と走り寄って、蕾夏の腕にぎゅっと抱きついた。
兄の正孝の姿が少しでも見えないと、まるで火がついたみたいに泣き出してしまう翔子。宥めるのはいつも、蕾夏の役目だった。
うっかり小麦粉の入ったものを食べてしまうと、全身真っ赤になって倒れてしまう翔子。ご近所の家にお呼ばれをした時、勧められるままにお菓子に手をつけようとする翔子を注意するのも、蕾夏の役目だった。
蕾夏がアメリカに引っ越す時には、絶対嫌だ、どうしても行くなら翔子も行く、と駄々を捏ねて、正孝や両親を困らせた。アメリカでお友達なんて作ったら絶交なんだから、と拗ねまくった翔子は、蕾夏がうんと言うまで、食べ物を一切口にしなかった。
アメリカに行ってからも、まとまった休みになると必ず遊びにきて、始終蕾夏にべったりくっついて過ごした。蕾夏のプライマリースクールの同級生が訪ねてきたら、追い返してと蕾夏にせがんだ。蕾夏と正孝は、翔子にとっては絶対的な存在だから、他人に入り込まれるのが嫌だったのだろう。
でも、翔子が一番嫌がったのは、自分抜きで蕾夏と正孝が仲良くすること。
体の弱い翔子は、あまり外で遊べなかった。だからたまに、正孝が蕾夏だけを連れて外に遊びに行ったりすると、決まって高熱を出し、発疹で全身を赤くした。心配した2人がずっと付き添ってやれば、必ず回復して元気になる。元気になった翔子は、右手で正孝の手を、左手で蕾夏の手を握ったまま、決して離そうとしなかった。
わがままで、独占欲が強くて、甘えん坊な翔子。
でも何故か―――いや、だからこそ―――蕾夏は翔子が大好きだった。
***
ほぼ1年ぶりに見る美貌は、夏風邪のせいで、酷くやつれて見えた。
「帰国準備で結構無理したみたいでね。今朝になって、いきなりダウンだよ」
苦笑交じりの声に顔を上げると、正孝が紅茶とクッキーの乗ったトレーを持って翔子の部屋に入ってくるところだった。入り口付近に、今朝届いたばかりの荷物の一部がうず高く積まれているので、部屋への出入りが妙に窮屈そうに見える。
「藤井さんが来るのは知ってるから、そのうち目を覚ますよ。ひと足先にお茶にしておこう」
「うん」
正孝が座りやすいようガラステーブルの奥に移動して、蕾夏は大きなクッションを自分の背中の後ろに置いた。
昔からこの部屋にあったクッション―――色も柄もあせていないそれは、それでも年月が経った分だけ、くたびれた様子になっていた。
昨年のお盆休みは、西暦2000年対応で休みどころの話ではなかった蕾夏だが、今年は無事、世間一般の休みに合わせて実家に顔を出すことができた。
アメリカに行っている翔子も、この時期に合わせて帰国した。ただし、今年の帰国は、去年までとはちょっと意味が異なる。何故なら、これが一時帰国ではなく、本当の意味での帰国だからだ。
メールでその事実を翔子から告げられた蕾夏は、少なからず驚いた。既に大学院に進んで修士号まで取得していた翔子は、現在博士号をとるべく勉強中だと聞いていた。だから少なくともあと2年ほどはアメリカで勉強を続けるものとばかり思っていたのだ。詳しい話は帰国してから、とあったので何も訊かずにおいたが、帰国したくなるような事が何か起きたんだろうか、とちょっと不安だ。
「翔子って、ドクター取るのは諦めちゃったの?」
紅茶をかき混ぜながら正孝に訊ねてみたが、正孝は曖昧な笑みを返すばかりだった。
「まあ…翔子のことは、翔子の口から聞いた方がいいよ。正直なところ、僕もいまだによく分かってないんだ」
「そっか…辻さんも分かってないんだ」
「どんな方面の勉強をしているのかも、あまり話してくれなかったからね。翔子ももう大人なんだし、僕がとやかく口を出す問題でもないよ。学費を払ってたのだって、結局は両親なんだから」
「…そんな突き放した言い方すると、翔子が拗ねちゃうよ、きっと」
翔子の性格を一番知っているのは、正孝の筈なのに―――蕾夏は軽く正孝を睨んだが、当の正孝は涼しい顔だ。
「全く…変わらないね、藤井さんは」
「え?」
「損をしているのは、割を食っているのはいつだって藤井さんの方なのに、翔子にはつい甘くなってしまう。…かつての僕もそうだったけどね」
懐かしそうに目を細めた正孝は、紅茶を一口飲んで、小さく息をついた。
「―――君のことは…正直、まだ少し引きずっている部分はあるけど、気持ちの整理はついた」
続いた言葉に、蕾夏は僅かに緊張した表情になった。膝の上の手に、思わず力が入る。
「でも、だからといって、君に注ぎたかった愛情を翔子に回すつもりはない。できるかどうか分からないけど―――新しい誰かを見つけられればと思う。両親もうるさいしね」
「…そっか。病院を継がなきゃいけないもんね、辻さんは」
それが、生まれた時からの正孝の宿命だ。蕾夏に固執し続けていた間は、他の女性のことなど考えるゆとりはなかったようだが、気持ちの整理がついた今なら、年齢のことも考えると、あまりのんびり構えていられる状態ではないだろう。
「病院関係者の間で、いくつか見合いの話も出始めてるんだ。…いずれ結婚して病院を継げば、僕は、翔子より妻や子供を大事にすべき立場になる―――翔子は嫌がるかもしれないけど、慣れてくれないとね」
蕾夏に言い聞かせているのか、それとも自分に言い聞かせているのか…正孝はそう言うと、まだ目を覚ましそうにない翔子の方に目を向けて、うっすらと微笑んだ。
なんだか、憑きものが落ちたような顔だな、と、その顔を見てなんとなく思う。
蕾夏が子供だった頃の正孝は、とても穏やかな人だった。あの事件があって以降暫くも、やっぱり頼れる、優しい人間だった。でも、蕾夏が高2になってからの正孝は、まさに“憑かれている”状態のように蕾夏には見えた。そう…つい、去年の今頃までは、ずっとそんな風だった。
でも、今の正孝は、事件前の正孝に戻った感じがする。ちょっと心配性で、面倒見がよくて、優しい―――蕾夏のよく知る正孝だ。
長い時間をかけて、やっとここまで来た。いや―――時間のことよりも、やはり、瑞樹という存在が現れたことの方が、大きかったのかもしれない。
慣れ親しんだ幼馴染が戻ってきてくれたことを改めて実感して、蕾夏は内心、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「しかし、なぁ…いつまでも学生でいたから実感なかったけど、そろそろ適齢期だよなぁ…」
感慨に浸る蕾夏の思考をぶった切るように、翔子の寝顔を眺めていた正孝が、ため息混じりにそう呟いた。
その意味を一瞬理解しかねた蕾夏は、理解すると同時に、手にしていたティーカップを落としそうになった。
「え!? て、適齢期って―――しょ、翔子が!?」
「…そりゃそうだよ。だって藤井さんと同い年だよ? 忘れた訳じゃないよね?」
適齢期、という単語が意味する“時期”は、勿論、結婚時期だ。翔子が、誰かと結婚する―――無理だ。どんな相手ならば翔子が結婚に踏み切るのやら、全然想像がつかない。生半可な相手では「私、まーちゃんの方がいいの」と言いかねない。
「イメージ湧かないなぁ…」
ティーカップを両手で包んで首を傾げる蕾夏の様子に、正孝は可笑しそうにくすくすと笑った。
「藤井さんは、自分の年齢も忘れてるようだね」
「えっ?」
「藤井さん自身も適齢期だってこと。…彼との間に、そういう話、出ないの?」
「……」
―――彼との間に、って?
また、正孝の言葉の意味を、一瞬理解できなかった。傾けた頭を元に戻し、目を2度ほど瞬いたところで、やっと意味を理解できた。途端―――猛烈な勢いで首を振った。
「じょ、冗談っ! 出ないよ、そんな話っ!」
「え、本当に?」
「当たり前だよ。今、2人揃って新人さん状態なんだよ? もう、毎日仕事のことで精一杯。瑞樹は時田さんの後釜って形で毎回結構なプレッシャーかけられてるみたいだし、私も先輩と何度も意見対立起こしちゃって、9月の正式契約が心配で心配で…」
「ふぅん…そうか。なんだ。イギリスに一緒に行った段階で、これは帰国早々そういう展開になるかな、とちょっと思ってたんだけどな」
心底意外だったのか、正孝はクッキーに手を伸ばしながら、ちょっと首を捻った。
「おじさん達から聞いたけど、君達、向こうじゃ同じ家に下宿させてもらってたんだろう? 24時間一緒にいる生活を経験したなら、離れ難くなるだろうから、結婚とは言わないまでも同棲位はするかな、と思ったんだ」
「…辻さんの口から同棲なんて単語が出てくる日が来るなんて、夢にも思わなかったよ…」
と言いつつも、ふと思い出すのは、翔子の初体験の時のエピソード。
由井から、翔子とそういうことがあった、と聞かされて、当時高2だった蕾夏は天地がひっくり返るような衝撃を受けた。なのに、翔子からその事実を聞かされた正孝は、意外にもこう言ったのだそうだ―――“そうか…最近の高校生は進んでるなあ。まあ、由井君は真面目でいい子だからね。同意の上なら、僕も文句言わないよ。あ、でも、藤井さんには黙っておきなさい。きっとショックを受けるから”。
―――案外辻さんて、元々そういう人だったのかもしれないなぁ…。
「おじさんもおばさんも、その辺結構寛容なようだし。むしろ藤井さん1人で暮らしているよりは安心だ、位に思うんじゃないかな」
「…そんな気はするし、いずれは一緒の家に住めたら楽しいな、と思うけど―――まだ、無理だよ」
「どうして」
「それは、」
―――それは……。
言いかけて、言葉を飲み込む。
正孝は、蕾夏の変化にはすぐ気づいてしまう。何かを感じ取られたのではないか、と一瞬焦りを覚えたが、蕾夏はその焦りを打ち消すかのように、曖昧な笑みで言いかけた言葉を誤魔化した。
「…まあ、いろいろ、考えるところもあって」
「いろいろ?」
「うん、いろいろ」
言える訳がない。本当の理由なんて。
正孝にも翔子にも由井にも、決して語る訳にはいかない。過去を知る彼らにだからこそ、余計―――また何のきっかけで音を失ってしまうか分からないこの不安は、絶対に語る訳にはいかないのだ。
***
結局、翔子が目を覚ましたのは30分以上経ってからだった。
やっと代役から解放されるよ、と冗談めかして言いながら、正孝は自室に戻っていった。何か仕事上の調べ物があったらしい。
「ごめんね、蕾夏。薬が効きすぎたみたいで、我慢できなくて眠っちゃったの」
済まなそうに言う翔子の頬は、熱でもあるのか少し赤い。蕾夏は、ベッドの上で上半身を起こした翔子の額に、軽く手を当ててみた。
「…ん。微熱程度かな。翔子用にシャーベット買ってきたけど、食べる?」
「ありがとう、後で食べる。…ねぇ、それより」
薔薇の花みたいな笑顔が、すっと曇る。何故か心配げに眉を寄せた翔子は、蕾夏の着ているTシャツの裾の辺りを緩く掴んだ。
「―――蕾夏。中学の同窓会出るって、本当?」
「…えっ」
「由井君に昨日電話した時、聞いたの。9月よね。本当に出るの?」
いきなりその話が出るとは思わなかった。むしろ、蕾夏の方から「翔子はどうする?」と聞こうと思っていたのだ。
少し動揺してしまったが、もとより心は決まっている。蕾夏は翔子の目を見据えて、小さく頷いた。
「どうして今更…。ねぇ、やめておかない? もし、その…あの人が来ちゃったら」
「…来ないって、分かるの。だから、大丈夫―――あの後だって、1年以上毎日通った場所だもん。大丈夫」
「でも…」
「大丈夫。そう信じるだけの自信があるから、由井君にも行くって返事したんだもん」
「……」
「翔子も、信じて」
「…もう決めちゃった目ね、その目は」
ため息をついた翔子は、何故か寂しそうに目を細め、僅かにうな垂れた。
「前から蕾夏はそうだったけど…今は成田さんがいるから、余計そうよね。私の出番なんて、どんどんなくなっちゃう」
「翔子…」
「寂しい、なんて言うのは、傲慢よね。きっと」
「…そんなこと、ないよ」
眉をひそめる蕾夏を安心させるためか、翔子はにこっと笑ってみせると、布団の中で膝を抱えた。
「さっきね。中学の頃の夢、見てたの。…授業中、苦しくなった私を蕾夏が保健室で寝かしつけてくれる夢。でも…目が覚めたら、蕾夏じゃなく由井君がいるの。なんで蕾夏がいないの、蕾夏はどこに行ったの、って拗ねる私を、由井君は凄く厳しい顔して諭してるの―――“辻、藤井に甘えるのもいい加減にしろ”って」
「……」
「本当は、蕾夏を守る側の立場になった筈なのに…私、何もできなかった。由井君みたいにさりげなく蕾夏の周囲に気を配ることもできなかったし、まーちゃんみたいに蕾夏を支えることもできなかったの。2人にどんどん差をつけられるみたいで―――悔しかった」
「そんなこと…」
「だからね」
否定しかけた蕾夏の言葉を遮り、翔子は急に真剣な顔になって、蕾夏の目を見つめた。
「決めたの。…私、スクール・カウンセラーになる」
「スクール・カウンセラー?」
思いがけない言葉に、蕾夏は目を丸くした。
確かに、翔子の専攻は心理学だ。カウンセラーを目指しているとも聞いていた。しかし、翔子の両親が経営している病院には精神科もある。だからてっきり、卒業後はそちらの方で働くものと思い込んでいたのだ。
「最初は漠然とカウンセラーになろうと思ってたんだけど…向こうで勉強している間、何度も考えたの。もしあの時、由井君が相談した相手が、まーちゃんじゃなくスクール・カウンセラーだったら―――って。完全な第三者な分、もっといい対応ができたんじゃないか、って」
「……」
「去年、蕾夏と喧嘩みたいなことになっちゃって…成田さんの存在を認めた時、なんだか自分が進むべき道を見つけた気がしたの。もう私は蕾夏を支える立場にはなれないけれど―――この先、悩んでる子供達を助けることができたら、あの頃蕾夏を助けられなかった劣等感とかわだかまりとか…少しずつ、消えるかも知れない、って」
「…そう…なんだ…」
いつもいつも、蕾夏や正孝に守られていた翔子。蕾夏が傷を負った後も、前と変わらず甘えて駄々を捏ねて、正孝や由井に怒られていた翔子。
蕾夏は、それでいいと思っていた。前と変わらず甘えてくれる翔子の存在を、ありがたいとすら思っていた。
でも―――本当は翔子も、蕾夏をもっと違った形で助けたいと思っていたのだということに、今初めて気づいた。頼られる側の立場になりたい…そう思いながらも、そうできなくて歯噛みしていた翔子の気持ちなど、少しも気づかなかった。事件前よりむしろ強くなってしまったような翔子の蕾夏に対する独占欲も、正孝や由井のようには出来ないもどかしさの反動だと考えると納得がいく。でも…あの時は、そんなことには全然気づいてやれなかった。
いつだってそうだ。由井の気持ちにだって、結局気づけなかった。正孝のことだって、もっと早く気づいて距離を置くようにすればよかったのかもしれない。
分かっているつもりで、分かっていなかった―――迂闊すぎた過去の自分に、蕾夏は思わず唇を噛んだ。
「このままアメリカでキャリアを積んでいこうかな、とも思ったんだけど…やっぱり日本でやりたいな、と思って。臨床心理士資格を取ると有利らしいの。修士課程は修了してるから、あとは心理臨床の実務経験をもう少し積まないと―――それはやっぱり、うちの病院で、ってことになっちゃうと思うけどね」
「そっか…じゃあ、これからますます忙しいね」
「反対しない?」
「する訳ないよ」
蕾夏が言うと、翔子はやっと安堵したような笑みを浮かべた。多分、動機の部分で、蕾夏がどう感じるかが心配だったのだろう。
「でも、なんというか…大人になったんだねぇ。翔子も」
感慨深げな蕾夏の言葉に、翔子はキョトンと目を丸くして、それから呆れたような顔をした。
「やだ。何言ってるの? 蕾夏と同い年じゃないの。忘れちゃったの?」
正孝とそっくり同じなセリフ―――やっぱり兄妹なんだな、なんてことを感じて、つい吹き出してしまった。
「なぁに?」
「なんでもない。それより…その話って、辻さんにはもう話したの?」
「ううん、まだ。臨床心理士資格の話はしたけど―――それ以外の細かいことは、まだ蕾夏と由井君しか知らないの」
「由井君?」
「3月か4月頃、手紙で相談したの。何度かやりとりして、凄く助かっちゃった」
「へーえ…」
スクール・カウンセラーの件より、むしろこちらの方が意外かもしれない。
確かに、翔子と由井は、以前は付き合っていたしそれ以後も友達という立場を続けてきている。けれど、正孝よりも由井に先に相談する、なんてことは、今まで一度もなかったし、蕾夏よりも由井を優先することもなかった。人生を決定するような相談事を、誰よりもまず由井にするなんて、今までの翔子ならあり得なかったことだ。
どうしたのだろう―――何かあったのだろうか。この前、由井から衝撃的な話を聞いていたこともあって、蕾夏は少し不安げな顔になってしまった。
その表情に気づいた翔子は、笑みを消して、僅かに眉をひそめた。何かを探るように蕾夏の目を見つめ、やがて、慎重に口を開いた。
「…蕾夏、もしかして―――由井君から、聞いた…?」
「え?」
「昔の…高校とか大学の頃の、由井君の蕾夏に対する気持ちの正体」
「―――…」
さっき正孝を誤魔化した時のようには、上手く誤魔化せなかった。あからさまに瞳を揺らす蕾夏を見て、翔子も事情を察したらしい。
大きく息を吐き出した翔子は、うな垂れると同時に、だるそうにウェーブのかかった髪を掻き上げた。
「もう―――バカなんだから、由井君も」
しょうがないなぁ、という口調でそう呟いた翔子は、再び顔を上げると、済まなそうな目で蕾夏を見つめた。
「ごめんね。ここまで隠し通したのなら、死ぬまで黙ってりゃいいのに、って思ったでしょ」
「そんなこと―――第一、どうして翔子が謝るの?」
「私のせいだから」
「…え?」
翔子のせい―――…?
意味が、分からない。要領を得ない顔をする蕾夏に、翔子は少し迷った挙句、ゆっくりと真相を語った。
「蕾夏が一人暮らしを決めた時―――私、由井君をなじっちゃったの。“蕾夏は由井君を心から信じてるのに、由井君は蕾夏を裏切ってる。本心を口にしている分、まーちゃんの方が正直だ。由井君は卑怯だ”って」
「…っ、ち、違うよ! それは」
「うん、分かってる。今は理解できたの。でも―――あの頃の私の目には、由井君が、自分の気持ち誤魔化すことで、蕾夏に一番近い位置をキープしてるみたいに見えてたの。生涯恋人という立場になる気はない、なんて言ってるけど、どうせ嘘に決まってる、だからまーちゃんから蕾夏を引き離そうとするんだ、って。…だから言ったの。“蕾夏の友達だって言い張るのなら、蕾夏に本心を言うべきだ。その上で続けられる関係でなければ、私は友達だなんて認めない”って」
―――そ…そんな話をしてたのか、私の知らないところで。
冷や汗が背中を伝う。由井は、どう感じただろう? 翔子の発言とはいえ、なんだか自分の責任のような気がしてきて、焦ってしまう。
「…由井君、まだ時期じゃない、って言ってた。蕾夏は優しいし、すぐ自分を責めるから、今言ったらまーちゃんの二の舞になる、って。蕾夏が、この告白を聞いても、罪悪感から由井君の気持ちに応えたりはしない、って確信持てるようになったら…その時全部話して、蕾夏に許してもらうって」
「…許す、なんて…」
「うん…私も、そう思う。それ聞いて、ああ、この人、本当に蕾夏とは友達でいたいんだな…って分かって、少し後悔した」
―――由井君……。
1月半ほど前の痛みが、また胸を襲う。思わず、Tシャツの胸元をぎゅっと握り締めた。
「由井君と付き合ってる間は、お互い、苦しかった―――由井君の目はいつだって蕾夏を追ってたし、私の気持ちも常にまーちゃんに向いていて…自分の不条理な行動を棚に上げて、相手に不満をぶつけてたの。なんでこっちを見ないんだ、って。…仕方ないわよね。2人揃って、一番欲しかったものから目を逸らして、2番目同士で手を繋いでたんだもの」
「……」
「だから由井君は、私の一番汚い部分を知ってるし、私も由井君の一番卑怯な部分を知ってる。そのことに気づいた時―――私が一番欲しかったものが、分かったの」
「…一番、欲しかったもの…?」
「―――由井君の、一番の友達になりたいの」
翔子が、ふわりと微笑む。
これまでで一番、綺麗な笑い方―――淡いピンク色をした薔薇の花が、ゆっくりと花開いたみたいな笑い方だ。
「中学の頃の由井君と蕾夏の関係―――男とか女とか関係なく、信頼感だけで繋がってる友達って関係が、いつも羨ましかった。私が由井君に求めてたのはああいう関係だったんだ、って分かったの。…多分、私達の間には、恋愛感情はもう生まれないと思う。でも…友情は、もっと育んでいけると思うの」
「…そう」
―――だから…真っ先に由井君に、相談したんだね。
一番汚い部分を、一番卑怯な部分を知っている相手。だからこそ全てを話して曝け出せる相手―――その名前は、“親友”だ。
翔子と由井が、親友同士になる。
それは、なんだか、とても素敵なことのように思えた。
恋人同士になることよりずっと―――何倍も素敵なことのように、蕾夏には思えた。
***
『ふーん…親友か』
電話の向こうから、そんな相槌と冷蔵庫を閉める音が聞こえた。多分、カクテルバーかボルヴィックを出しているのだろう。つられて喉が渇いてきた蕾夏は、机の上に置いてあった麦茶に手を伸ばした。
『由井が一方的に翔子の面倒見て終わりになる方に一票、って感じだな、俺は』
「あ、酷い。翔子だって成長してるんだからね」
『そんなに簡単に、あの性格が矯正されるとは思えねー』
去年の今頃を思い出してか、受話器から聞こえる瑞樹の声が憮然としたものに変わる。まあ、お互い、翔子には散々な思いをさせられたので、瑞樹が憮然とする気持ちも分からなくはない。喉を通る麦茶の冷たい感触を味わいながら、蕾夏は再びグラスを置き、懐かしいベッドの上にゴロリと寝転んだ。
大学卒業までの時間を過ごした、かつての自分の部屋―――ここを出て行ってからまだ5年も経っていないのに、背中に感じるマットレスの感触がすっかり馴染まなくなってしまっているのが不思議だ。
「でも…本当に大人びちゃって、びっくりした。由井君に相談して、さっさと全部決めちゃってるんだもの」
『大人びた、って―――お前、同い年の奴に使うのは変だぞ、それ』
「ん、そうなんだけど…なんか、私の中では、翔子って妹みたいな感覚があったみたいで」
『…分からないでもないぜ。俺にとっての海晴みたいなもんだったんだろう』
そういえば―――そうかもしれない。
瑞樹は子供の頃、海晴の面倒を見ることで、癒しがたい孤独感や飢餓感を補っていた。海晴が無条件に自分を必要としてくれることに、唯一とも言える生き甲斐を感じていた。
そして蕾夏も―――ただひたすら真っ直ぐに「蕾夏ちゃん」と自分を頼ってくる翔子の存在に、自分は与えられるだけの人間じゃない、こうして自分を必要としてくれる人もちゃんといる―――そう思えて、嬉しかった。だから、翔子のどんなわがままも、愛しく思えた。
でも、海晴は、いまや母親という立場で。
翔子も、次の世代の子供達を救う立場になるべく、立ち上がっていて。
「…寂しいのは、私の方かもしれないなぁ…」
『―――バカ』
ちょっとした感傷は、短い言葉とくぐもった笑いで一蹴された。蕾夏も苦笑を返し、それでその感傷は忘れることにした。
その後も、4日後に迫ったオフ会の話などを話し合っていたところ、玄関で突如、呼び鈴が鳴った。
「あれ?」
『この時間に客か?』
「うん…誰だろう?」
呼び鈴の音は瑞樹にも聞こえたらしい。起き上がった蕾夏は、半分だけ閉めていたドアを大きく開き、階下の様子を窺った。
父は風呂に入っている筈だし、母も何かで手が離せなくて、出て行けないのかもしれない。玄関ホールは静まり返っていて、誰かが応対に出て行く様子はなかった。
そうこうしているうちに、もう一度呼び鈴が鳴った。
「…ごめん。私出てみる。後でまた電話するから」
『気をつけろよ。時間が時間だからな』
「うん、分かった。じゃね」
電話を切った蕾夏は、携帯電話を握ったまま、急いで1階に下りた。
「はーい…?」
既に夜の11時を大幅に過ぎている。恐る恐る、ドアの向こうに声を掛けた蕾夏だったが、
「…蕾夏? ごめんね、こんな時間に」
「え…っ!?」
返ってきた声の主が誰なのかすぐに分かり、慌てて玄関のドアを開けた。
案の定―――玄関先に立ち尽くしていたのは、翔子だった。
今夜は辻家・藤井家双方の両親も交えて、蕾夏の家で2家族でちょっとしたホームパーティーを開いていたのだが、日中風邪をひいて寝込んでいた翔子もそれには参加していた。まだ少し熱があるのか時折ふらついている様子だったが、正孝に支えられるようにして帰っていた。それがほんの1時間半前のことだ。
「ど、どうしたの、翔子!?」
「ごめんなさい。今晩、こっちに泊めて」
「は!?」
むすっとした顔の翔子は、言うが早いか、蕾夏が招き入れるのも待たずに玄関に入っていて、さっさと靴を脱いでしまった。唖然としてそれを見ていた蕾夏だったが、翔子がスリッパをスリッパラックから出したところでやっと我に返り、慌ててドアを閉めて翔子の後を追った。
「ちょ、ちょっと―――! どうしたの、急に!」
「なぁに、泊まったらまずいの?」
「そ、そういう訳じゃないけど―――そんな不機嫌な顔して泊まりに来たら、普通は驚くよ。ねぇ、何かあったの?」
「まーちゃんと喧嘩したのっ」
着替えを入れてきたらしいボストンバッグの持ち手をぎゅっと握り締め、翔子は、思い出すのも忌々しい、といった表情で蕾夏を振り返った。
「お見合いの話があるらしい、ってことは、確かに聞いてたわよ? でも―――でも、何あれっ! なんなの、あの地味で冴えない女!」
「え…っ」
「お見合い写真よっ! まーちゃんにどうですか、って関係者や親戚が持ってきた写真っ! もう、どれもこれも冴えない女ばっかり! 清楚な人がいい、ってまーちゃんは希望を出したらしいけど、清楚と地味は違うって言うのよ。もう、全然分かってないんだから…っ!」
「……」
「私、蕾夏よりいい女でない限り、“お義姉さん”なんて絶対呼びたくないっ。まーちゃんが蕾夏より下でもいいって言っても、私は絶対、ぜーったい許さないんだからっ!!」
憤懣やるかたない、といった風情で怒りまくる翔子を眺めつつ、蕾夏はどう言って宥めればいいか、途方に暮れた。
どれだけ大人びようと落ち着いてこようと―――やっぱり翔子は、翔子だ。
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