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津川亜佑美、間もなく29歳。
“月刊A-Life”の文芸記事を担当する、自他共に認めるキャリアウーマンである。
後ろで1つに結い上げた髪は、いつも後れ毛ひとつなくきっちりと纏められており、出勤スタイルもスーツオンリー。パンプスのヒールも、実用性とフォーマルさを優先して、7.5センチという絶妙な高さを愛用している。しかもオーダーメイドで、同じデザインの色違いばかり5足も持っている、という徹底ぶりだ。
かっちりしたスーツ姿で、黒のブリーフケースを提げてさっそうと歩く姿は、彼女を全く知らない人でも「ああ、仕事が命って感じだなぁ」と思えるほどに、できる女、というムードを醸し出している。
津川の仕事振りを一言で示すなら「シビア」という単語がふさわしい。
外部ライターに対する締め切り設定もシビアだが、誌面作りにもシビアだ。文章の上手い下手より、いかに見やすく美しい誌面を作るか、という方が、津川にとっての優先事項。そんな訳だから、「バランス悪いのよね。30文字ほどカットしてくれる?」「うーん、なんか寂しいわねぇ。もう少し内容膨らませて、20文字位増やして頂戴」なんていうライターへのダメ出しも日常茶飯事だ。
そんな彼女が担当しているページは、確かに美しく、見やすく、読みやすい。文字の多いコーナーだけに、津川の誌面作りは社内でも評価されている。
合理性を愛し、有能であることを善とする津川だが、別に堅物な訳ではない。
ここ2、3年はずっとフリーだが、人並みに恋愛だってする。“月刊A-Life”に引き抜かれた当初などは、あの瀬谷智哉に、密かに思いを寄せていたりもしていたのだ(今では、社内で一番苦手な人物が、瀬谷だったりするのだが)。
何よりも仕事を優先したいが、一生男っ気ゼロは寂しい。仕事に支障をきたさない位に恋愛も楽しんで、30代前半のうちに結婚できればベストかな…とまあ、そんなところが、津川の恋愛に対する本音だ。
しかし。
“月刊A-Life”に引き抜かれてからこのかた、津川に言い寄ってくる男は、ゼロだ。
津川の方も、瀬谷を最後に、これといって心惹かれる男を見つけていない。
恋人が欲しい、と切実に思う訳ではないが、その人の顔を見るのがちょっと楽しみ、位のことは、日常のスパイスとして欲しいよなぁ、とは思う。けれど、さして人の出入りが激しい訳でもないこの会社で、新しい出会いなんてものは、そうそう起こるものではない。仕事人間の津川は、会社の交友関係以外の付き合いはほとんどしない。だから、社内がアウトとなると、新たな恋に出会える可能性はほとんど絶望的なのだ。
こりゃ、このまま30の声を聞くことになりそうだな―――と思い始めていたのだが。
最近、津川の身辺に、ちょっとした変化があった。
***
「津川さん」
読者から送られてきたアンケート葉書を整理していた津川は、頭上からかけられた声に、顔を上げた。
声をかけてきたのは、新人ライターの藤井蕾夏だ。6月から仮契約で“月刊A-Life”の専属ライター候補として働いていたが、この9月1日付で正式契約を結び、晴れて正式な専属ライターになったばかりだ。
「何、どうかした?」
「あの、今度取材することになってるミニシアターの特集って、津川さんも担当するんですよね」
「ええ、そうよ。文芸では私が担当。…あ、もしかして藤井さんが書くことになった?」
「はい。よろしくお願いします」
嬉しそうに笑った蕾夏は、ペコリ、と頭を下げた。つられるように、津川の口元も自然と綻んだ。
「正式契約後、初めての大きな仕事になるんじゃない? まだ1週間だものね」
「そうなんです。だから、ちょっと不安なんですけど―――今回はもう、瀬谷さんも頼れないし」
「大丈夫よ。藤井さんにはピッタリの企画だろうから」
滅多にこんな風にライターを持ち上げたりしない津川だが、今回の企画に関しては別だ。本当に蕾夏にピッタリだと思っているから。
実を言えば、津川は、この新人ライターを結構気に入っている。
最初こそ、全く未経験のライターということで相当警戒していたのだが、書かせてみればそこそこ骨のある文章を書くし、意外にウィットに富んだ部分も兼ね備えていたりする。まだ経験不足の感は否めないが、経験を積めば、いい文章を書くようになるのではないかと思う。
そして、文章以上に気に入っているのが、彼女のリサーチ能力―――カフェスタイルの本屋の特集記事で、瀬谷に代わって店舗リサーチを行った際は、その的確で緻密な調査資料に、あの瀬谷までもが目を丸くしたほどだった。
人間味のある風刺の効いた文章に、恐ろしいまでにシステマチックなリサーチ力―――瀬谷の、正確だが機械的な仕事振りに完全には賛同できない津川は、硬軟うまく入り混じった蕾夏の仕事振りに、次第に好感を持つようになっていた。
「で、取材なんですけど…やっぱり、館内写真とか外観とか、写真を撮らないとまずいですよね。誰か同行してもらえるんですか?」
「ああ、それなら、小松君かアシの宮迫君連れてけばいいわよ。彼らとスケジュール調整して」
「宮迫君でもいいんですね。分かりました」
「あ、それと、イメージスチールは、表紙写真も兼ねてるから、外部カメラマンにお願いすることにしたわ」
メモ帳に“小松君or宮迫君に確認”と書き記していた蕾夏は、その言葉に、ピタリと手を止めた。
「外部カメラマン?」
「ええ。決めたのはサブカルチャー編集部だけど―――なんでも、藤井さんの元お仲間に依頼したらしいわよ。偶然ね」
「あ…そうなんですか」
もう少し詳しい話をしようかと思ったが、その時、机の上の電話が鳴った。1階受付からの内線電話らしい。これから来客の予定が入っていたので、その件だろう。
津川が受話器を取ると同時に、蕾夏も、メモを取りながら津川の隣の自分の席につき、机の上に積んであった資料をひろげ始めた。
―――さっき、一瞬だけ動揺したように見えた気がしたんだけど…。
元同僚が新しい仕事に関わってくるのは、やっぱり落ち着かない気分になるものなのだろうか。でも、既に普段の蕾夏と変わった様子もない隣の横顔をチラリと見、ただの気のせいだったかな、と津川は思った。
***
「すみません、ご足労いただきまして…。ミーティングルームが使用中なので、編集部の一角になってしまいますけど、構いませんか?」
「構いませんよ」
―――うわ…、噂通り、印象的な目だなぁ…。
ミーティングテーブルへと客を案内しながら、津川は、客の方を時折振り返ってはそんなことを思い、ちょっと胸をときめかせていた。
津川に案内されて歩く彼は、再来月号の特集記事のイメージスチール及び表紙の撮影を担当する、外部カメラマン―――成田瑞樹だ。
彼が“月刊A-Life”の仕事をするようになってから、まだ日が浅い。6月末に、専属カメラマンの小松の代役としてインタビュー取材に同行したのが最初で、これが2度目の起用だ。
しかし彼は、社内では結構、話題になっている人物でもあった。
大御所写真家・時田郁夫の秘蔵っ子だ、というだけでも噂の対象になっていたのだが、同じ時田郁夫のアシスタントをやっていた蕾夏が、何故か畑違いのライターとしてこの編集部にやってきたことが、その噂を歪んだ形にしていた。時田の元アシスタントが揃って“A-Life”の仕事に携わった裏には、時田やその義兄であるロンドン本社の一宮の存在があるのだろう…と察しがつくからだ。
しかし、成田瑞樹が社内で結構話題になっている理由は、時田や蕾夏のせいだけではない。
前回、小清水女史の取材の際に、打ち合わせの席にお茶を運んだ女子社員が、こんな噂話を流したせいだ。
『ねねねね、時田先生の代わりに今度から撮ることになった人! 若いし二枚目だし、背が高くてカッコよかったわよー。それにね、目がすんごい印象的! お茶出して“ありがとう”って言われただけなのに、あの目で言われると、もー、たまらないわよっ』
男性社員は「ふーん」と冷ややかな反応だが、女性社員は興味津々だ。津川も、一体どんな奴なんだろう、と大いに興味を持った。
当然、その興味の矛先は、蕾夏に向かった。どんな人なの、と訊ねる女性達に、蕾夏の返答はあっさりしたものだった。
『別に、普通の人ですよ。仕事は出来る筈なんで、時田さんの後でも心配することはない筈ですけど』
そんな心配をしているのは一部の社員だけなのだが―――天然ボケなのか、それとも分かっていてとぼけているのか微妙だが、蕾夏からはほとんど情報が得られなかった。
そして、今回。運良く、津川が関わる企画に、カメラマンとして噂の人物が起用された。
小清水女史の時に続いて、今回も蕾夏が担当する記事の撮影を瑞樹が請け負うとなると、また陰口を叩く連中が出てくるのは分かりきったことなのに―――何故こういう人選になったのだろう? 人選にタッチしていない津川には理解できないが、なんにせよ、噂の人物の顔を拝めるのは楽しみだった。
そして、現れた噂の人物は―――なるほど、好みは分かれるところだが、確かにお茶出し係の言ったとおりの人物だった。久々にちょっとしたトキメキを感じる人が現れたなぁ…と、津川は、らしくもなく浮かれた気分になった。
「えー、今回お願いしたいのは、モデルを使った屋外でのカット3点でして…」
サブカルチャー編集部の男性担当者が、瑞樹に資料を配る。
この打ち合わせには、津川も含めた編集者2名の他に、“A-Life”全体を取り仕切るアートディレクターも同席している。女性向け雑誌だけあって、このADも女性だ。契約社員だが、既に噂だけは耳にしていたのだろう。さっきから、自分が作った絵コンテよりも、それを真剣な顔で睨んでいる客の顔ばかり見ている。
―――確か私より5つも年上で、しかも既婚者なんだけどなぁ…。それでもやっぱり、気になるもんは気になるわよね。
日頃、津川と張り合うほどの“仕事の鬼”ぶりを発揮しているADの珍しい姿に、津川は内心、ほくそえんでしまった。
「うち2点は、特集記事で使用しますので、必要があれば編集かライターを同行させて、内容に沿った形に撮影現場をセッティングしていただいてもいいんですが」
「どういった特集なんですか」
一瞬だけ目を上げ、瑞樹が訊ねる。問われた編集者の隣に座る津川もその目を見る羽目になり、ドキリとさせられてしまった。
「都内のミニシアターを紹介して、単館上映物の映画などに人気が集まってる現象を紹介する特集です。3、4箇所予定していますが、イメージスチールにどこを使うかは、まだ未定です」
「記事の中で中心として取り上げる所がいいと思いますが」
「それもまだ検討中でして…ああ、そうだ。おーい! 藤井君!」
担当者が、少し腰を浮かせて、蕾夏の名前を呼んだ。途端―――瑞樹の目が、僅かに丸くなった。
編集部内を見渡して蕾夏の姿を探すと、彼女は瀬谷と一緒に、何やら難しい顔で先月号の“A-Life”を見ていた。多分、先月号で蕾夏が担当した記事に対してのクレームなりアドバイスなりを受けているのだろう。
名前を呼ばれた蕾夏は、雑誌から目を上げ、ミーティングテーブルの方を見た。こっちこっち、と手招きする担当者の様子にその意味を理解したのか、瀬谷に何事か告げると、深々と頭を下げた。
めげないなぁ、と、ちょっと感心してしまう。瀬谷の蕾夏に対する扱いは、はっきり言って“いじめ”に近いものがあるのに、蕾夏は涼しい顔でそれをかわし、いつでも礼儀を尽くした態度で瀬谷に接している。瀬谷の辛辣すぎるコメントに傷ついて、契約解除してしまった外部ライターもいるというのに―――見た目の華奢さに反して、意外に根性があるな、と感心させられてしまう。
「お待たせしました」
慌てて駆けつけた蕾夏は、ミーティングテーブルを囲む一同に、軽く会釈した。
「ああ、ごめん、呼びつけて。例のミニシアター特集のイメージスチールの打ち合わせをしてたんで…今日決まったばかりだけど、一応顔合わせとスケジュール確認だけして欲しいんだ。と言っても、君には紹介するまでもないと思うけど―――成田さんだから」
「あ…、よろしくお願いします」
「…どうも」
瑞樹と蕾夏は、そう言って少しぎこちない様子で会釈しあった。やはり、知り合い同士というのは、やり難いものなのだろうか。妙に気まずそうなムードが、両者の間に漂っていた。
「で、さっそくだけど―――ミニシアターの取材って、どういうスケジュールにする予定?」
「ええと…今週は下準備で終わってしまうし、小松君も宮迫君も時間が取れそうにないので、来週の平日に、2日に分けてやるつもりです」
「月曜は宮迫君、瀬谷さんに同行する予定があったと思うわ。小松君は休みを取ってる筈よ」
自分が担当している記事なので、津川がそう横から付け足した。
「となると、火曜日以降か…。撮影は10月入ってすぐだから、構いませんかね、それからでも」
担当者が訊ねると、瑞樹は手帳をパラパラとめくり、
「―――ああ、大丈夫です」
とあっさり答え、顔を上げて蕾夏の方に微かな笑みを向けた。
「ロケに使いたいミニシアターが決まったら、メールで構わないんで、連絡下さい」
「はい、分かりました」
そう言って、蕾夏もニッコリと笑った、その時。
「藤井さん」
ちょうど、奥のミーティングルームから出てきた編集長が、通りすがりに蕾夏の背中をポン、と叩いた。
自然、全員の目が編集長に向く。いつもと同じ穏やかな顔をしているところを見ると、先ほどまでの会議の成果がまずまずだったのだろう―――会議内容が最悪だと、その酷さ加減が全て顔に出る人なので、分かりやすい。
「ちょっといいですか? この前提出してもらったコラムの件で」
「あ、はい―――じゃあ、失礼します」
再来月の特集よりは来月のコラムの方が優先だし、平社員よりは編集長が優先だ。蕾夏はペコリ、と頭を下げると、編集長デスクへと戻る編集長に、半歩後ろからついていった。
編集長は、既に本題に入っているようで、少し蕾夏を振り返るようにしながら何事かを話しかけていた。蕾夏の顔は全く見えないが、深刻そうなムードはない。そして、編集長が席につく少し前―――編集長は、ニコリと微笑むと、蕾夏の頭をポンポン、と叩くように撫でた。
編集長ってどうして私の頭だけ撫でるんでしょう、と真剣に悩んでいた蕾夏を思い出し、津川は思わず苦笑した。編集長のあの癖は、あちこちの部署でもチラホラと話題になっているらしいが、津川は勿論のこと、誰にも、編集長が何故蕾夏だけ頭を撫でて労うのか、その理由は分からないでいる。
―――編集長って、独身よね。藤井さんが学生みたいに見えるから、つい反射的にそういう態度になっちゃうのかしら。それとも、まさか藤井さんに気があるとか?
「…あの、成田さん? 続き、構いませんか」
担当の声に、我に返った。
見れば、津川がそうであったように、瑞樹やADも編集長と蕾夏の背中を見送っていたらしい。担当の声に、3人とも視線を手元の資料に戻し、打ち合わせは何事も無かったかのように再開した。
瑞樹とは初対面である3人は、誰1人気づかなかったが。
この時―――瑞樹の纏っているオーラは、僅かに苛立ったような、不機嫌な色に変わっていた。
***
打ち合わせは滞りなく終わり、席が一番出口に近い津川が、瑞樹を見送った。
「あの―――こんなこと訊いていいかどうか分からないんですけど」
躊躇いがちに言う津川に、瑞樹は訝しげに眉をひそめた。
「何か?」
「今回、担当が藤井さんになったこと―――もし仕事に差し障りがあるなら、早めに言っていただけますか? ライターの撮影同行は絶対に必要な訳ではないですし、ADが大半のことは心得てると思いますので」
思い切って、そう告げる。その言葉が意外だったのか、瑞樹は余計怪訝そうな顔をした。
「別に、差し障りはありませんが」
「でも、さっき、とても気まずそうにしてましたし…藤井さんの名前が出た時、ちょっと顔色を変えてらっしゃったから」
「ああ」
それでか、と小さく呟いた瑞樹は、津川を見下ろし、ふっ、と微笑を浮かべた。打ち合わせ中、極々淡い笑みしか見せなかった瑞樹のはっきりとした笑みに、これまでで一番ドキリとさせられた。
「知人の名前が出て、驚いただけです。むしろ、藤井さんに同行してもらった方が、仕事が速いと思います。知人だからではなく、撮影現場に慣れているから、ですが」
「…あ…そう、ですか」
確かに…言われてみれば、そうかもしれない。じゃあ、あの気まずそうなムードは、ただの気のせいだったのだろうか?
「じゃあ、失礼します」
「あ、はい。お疲れ様でした。またよろしくお願いします」
余計なことを言ってしまったな、と少し後悔しながら、津川は軽く頭を下げた。瑞樹も会釈し、ガラス張りのドアを押し開けて、編集部を出て行った。
―――うーん…なかなか感じのいい人だったなぁ…。
自分の席へと戻りつつ、入り口のドアを振り返って、津川は僅かに口元を綻ばせた。
終始落ち着いた話し方だったし、仕事に対する姿勢も真剣で、好感が持てた。元同僚に会ってもビジネスライクに接する辺りも、場をわきまえた感じがしてポイントが高い。
確かに、独特な色合いをした艶のある目や、癖なのか時折前髪を掻き上げる時の仕草なども、不思議と魅力的でどことなくセクシーな感じだった。でも、真面目で潔癖症な津川からすると、そういう外見的なことより、彼の話し方や態度の方が魅力と感じられた。
もっと頻繁に、うちで使ってくれないかな―――そんな邪なことを考えながら席に戻った津川だったが。
「…あら?」
隣の席にいる筈の、蕾夏が、いない。
今の打ち合わせの内容を、纏める前に手短に蕾夏に伝えてしまおう、と思っていた津川は、キョロキョロと編集部内を見渡した。が…蕾夏の姿は、どこにも見当たらなかった。
どこに行ってしまったのだろう―――首を傾げた津川は、さっき蕾夏と話していた筈の瀬谷の席に向かった。
「瀬谷さん」
「何」
顔を上げもせずに、ひたすらパソコンの画面を睨んでいる。…どうやら、執筆が滞っていて、機嫌が悪いらしい。
「藤井さん、知りません?」
「さあ。備品庫か、資料室だと思うけど」
確信があって言っているのだろうか。少々怪しい。
けれど、編集部の中に見当たらず、帰宅した訳でもないのなら、そのどちらかにいるか、化粧室に立っている可能性が高い。ちょうど疲れてもいることだし…と思い、津川は、蕾夏を探しに行くことにした。
***
ところが、意外なほどすぐ、蕾夏の居所は判明した。
―――あら? あれって、藤井さんじゃない?
編集部のガラス張りのドアに手を掛けたところで、エレベーターの奥のドアに消える蕾夏の姿が見えたのだ。そのドアは、瀬谷が言っていたとおり、備品庫のドアだ。
ただ、蕾夏の様子が、ちょっと変だった。なんだか、転びそうになりながら、ドアの内側へと消えたのだ。直後―――ドアは、パタン、と閉じられた。自然に閉じたにしては早すぎるし、蕾夏があの態勢で閉めたとも思えない。
…もしかして…誰か、いるんだろうか。
まだ日も高いし、1階に受付があるのだから、変質者が侵入している可能性は低いと思う。でも…この界隈でも、そうした例を全く聞かない訳ではない。数日前には、隣のビルが空き巣被害にあったりもしたのだ。
仕事では瀬谷にも負けない気丈な蕾夏だが、見た目は清楚で華奢だ。そんな彼女に、もしも、何かあったら―――…。
変な胸騒ぎがして、津川は、極力音を立てないようにドアを開け、足音を忍ばせながら備品庫へと向かった。
嫌な感じに、心臓が暴れる。備品庫のドアまで辿りついた津川は、目一杯緊張した面持ちで、おそるおそるドアに耳をくっつけた。
「…っ、バカっ、何考えてるの、こんなことしてっ」
焦ったような蕾夏の声が聞こえて、ドキリとする。口調はキツイが、ドアの外に声が漏れるのは嫌なのだろう。聞こえてくる声は、極力押し殺したようなものだった。
「ねえ、私、すぐ戻って、津川さんに話聞かないと…それに、瀬谷さんにも」
必死な蕾夏の声に続いて聞こえた声は―――想像だにしなかった声だった。
「…次からは、撫でられそうになったらよけろ、と言った」
―――え…??
津川の目が、丸くなる。聞き覚えのある声だ。
いや―――今朝までは全然知らなかった声だが、ついさっきまで聞いていた声だから、聞き間違える筈はない。
「…やだ、見てたの? 仕方ないじゃない、あの状況じゃ」
「よける努力位しろ。お前、俺がうるさく言う理由、分かってんのかよ」
「分かってるよ? だから、日頃は―――ちょ、ちょっと、瑞樹っ!」
“瑞樹”。
決定的だ。間違いない。今、この中にいるのは、あの成田瑞樹だ。
「や、や、やめっ、こらっ! ダメだって! ここ、会社、」
「知るか。問答無用」
「酷いっ」
「うるさい」
言葉が、途切れる。
と同時に、なんだかもの凄く、この場に居辛いムードが漂う。
―――あの…あなた達、一体、何してるんでしょう? どうしてもイケナイ想像ばかりしてしまうんですが。
けれど、その想像は、あながちハズレではない気がする。話の展開からも、今漂っているこの気まずさからも、津川はある事実だけは確実に感じ取っているから。
つまり―――瑞樹と、蕾夏は、ただの“元同僚”なんかじゃなく…恋人同士か何からしい、という事実を。
「……っだ、ダメだって、ほんとに」
「まだ足りない。2週間分には全然足りねー」
「それは…ごめん。だって、もの凄く忙しかったんだもの」
どうやら、このところ時間が取れずに会えなかったことを言っているらしい。確かに蕾夏は、8月後半からつい先日まで、かなり忙しかった。本契約前に、特集記事並みの分量の記事を試験的に1本書かされたからだ。休日出勤はないようだが、恐らく家でもずっと仕事をしていたのではないだろうか。
それにしても―――瑞樹の変貌振りに驚く。あの瑞樹が、こんな風に会えなかったことについて駄々を捏ねるなんて…。どんな顔でこんなセリフを言っているのだろう? 想像もつかない。
「第一、今日会えるのは分かってたじゃない。まさか自分が担当になるとは思ってなかったけど…」
「まぁな。けど、仕事で会えても、あんまり意味ねーよ。こーゆーこと出来ないし」
「出来ない、って…してるじゃんっ。すんごい矛盾してるよっ」
「細かいことはいいだろ。飢え死に寸前のところで、あんな場面見せられた俺の身になれ」
「頭撫でられただけじゃん…。それに瑞樹だって、随分今日、愛想よくしてたじゃない。津川さんとかADさんに」
自分の名前が出されて、心臓が大きく跳ねる。
いや、それより―――あの状態が、そんなに愛想のいい状態なんだろうか? 穏やかではあったけれど、愛想がいい、というほどでもない気が…。
「仕事でも、瑞樹のあんな愛想いい顔、見たことないよ。日頃の撮影でも、あんな顔してるの?」
「バカか。ここだけは特別、品行方正にしてるに決まってるだろ。ここの仕事切られるのだけはゴメンだからな」
「…ま、別にいいけど」
「…へー。もしかして、妬いてる?」
「妬きませんっ。編集長のことで八つ当たりされたから、妬いてるフリしてるだけっ」
「最近、拗ねること多いよな、お前。イズミのことといい、舞のことといい」
―――イズミ? 舞? 誰だろう。
津川の耳には、どちらも女性の名前に聞こえた。もしかして、痴話喧嘩の一種だろうか。だとしたら聞いてていいんだろうか、とちょっと落ち着かなくなってくる。いや、痴話喧嘩でなくても、既に十分、覗き見レベルの行為をしてしまっているのだが。
「別に拗ねてないってば。それより、もう戻らないと…」
「…待て。お前、大切なことを忘れてるだろ」
「え?」
「お前が反故にし続けてる“約束”の件だよ」
「あ、あうう…、そのことか。ご、ごめん…」
「俺がどんだけ待ってると思ってんだ? 正直、もう我慢の限界。だから、今日、仕事終わったら来い」
「えっ!!」
蕾夏の声が、押し殺していない、素の声になる。が、すぐにまずいと気づいたのだろう。続いた声は、またさっきまで以上に押し殺したような声だった。
「きょ、今日、って…私、明日も仕事なんだけど」
「それがどうした。俺も明日は仕事だ」
「でも―――絶対、1回じゃ済まないでしょ?」
「だろうな。でも…まあ、夜も長いことだし? 俺は、いざとなりゃ眠らない覚悟もあるし。できれば、色々試したいしな」
「嘘でしょっ!? や、やめようよー。明日会議があるんだもん。絶対居眠りしちゃうよー」
…何をする気なんだろう。
2人が恋人同士だと分かっただけに、なんだか、またイケナイことばかり頭に浮かんでしまうのだが。
「週末まで待とうよ。ね? ね?」
「嫌だ。待てねー。何がなんでも今日来い」
「困るってば」
「…お前来ないんなら、こっちはこっちで、勝手にやらせてもらうぞ」
「えっ」
「お前に義理立てして我慢してきたけどな。うまそうなエサが目の前にあるってのに、ひたすら禁欲生活送る俺の身にもなれよ。お前来ないんなら、もう知らねー。勝手にやらせてもらう」
―――ええ!? そ、それは、いくらなんでも、まずいんじゃないの!?
自分が焦っても仕方ないのだが、ドアに耳をくっつけたまま、焦ってしまう。何をどう勝手にさせてもらうのか分からないが、さっき、ちょっとした痴話喧嘩の様相を呈していただけに、舞さんやらイズミさんやらと勝手に何かをしてしまうのではないか、と他人事ながら心配になってくる。
「ひ、酷いっ! 鬼っ! そんなの絶対やだっ!」
「そう思うんなら、来ればいいじゃん」
「うう…」
「な?」
「―――分かった。今日、6時退社だから、それからなら」
結局、蕾夏が折れてしまった。
何をするのかは定かではないが、とにかく、恋人同士の危機は回避されたらしい。津川はホッと胸を撫で下ろしつつも、ちょっともやもやとした気分を味わった。
「帰る時、連絡入れる。…じゃあ、私、ほんとに戻らないと」
「……」
「瑞樹? ちょっ……」
「…もうちょい、いろよ。マジで餓死する」
「…バカ」
―――餓死、って…空腹なんじゃなくて、藤井さんに飢えてるって意味だった訳?
他人事ながら、恥ずかしさに顔が熱くなってきた。
さすがに、もう立ち聞きもする気になれない。頬を押さえた津川は、また足音を立てないよう気をつけつつ、そっとその場を離れた。
***
「あ、津川さん、津川さん」
席に戻るとすぐ、離れた席にいた女子社員が2、3人集まってきた。
「さっき、噂の人来てたでしょ?」
「…ああ、来たわね」
「どうだった? あたし達、席離れてたし、横顔くらいしか見られなかったから、全然分からなかったんだけど」
「…そうねぇ…噂通りだったわよ。外見は」
「ほんと!? うわ、いいなぁ…。もっとちゃんと顔見とけばよかった」
「ねえ、中身は?」
「中身は―――…」
言いよどみながら、津川はチラリと、まだ戻らない蕾夏の席に視線を走らせた。
言いたい。今見たもの、今聞いた話、全部ぶちまけてしまいたい。自分がゴシップ誌の記者なら、真っ先にすっぱ抜くに違いないネタだ。バレれば、蕾夏が集中砲火を浴びるのは間違いないが、それでも黙っているのは至難の業だ。
―――いやいやいや。でも、ダメだ。話したらまずい。
合理性と有能さを愛する津川にとって、蕾夏は大切な新人だ。瑞樹だって、時田に認められた腕があるのなら、是非とも囲い込んでおきたいカメラマンに違いない。ここで2人の関係をバラせば、あの2人に批判的なグループを勢いづかせるだけだ。そんな事態は、仕事上、歓迎すべきことではない。
「…まあ、普通だったかな。中身を吟味できるほど、突っ込んで話してないし」
―――あああ、言いたい。たった2週間で、藤井さん不足で餓死寸前になる上に、イズミさんとか舞さんまでいて、今晩来なかったら浮気するぞって脅すような、そんな人だってリークしてやりたいっ。
かなりの憶測を含んでいるのだが―――ともかく、そんな衝動を押さえ込んで、津川はなんとか、無難な返事をした。
なんだ、そんなもんなの? と少しガッカリしながらも、仲間達はゾロゾロと自分の席へと戻って行った。その背中を見送った津川は、はーっ、と大きなため息をついて、半ば机に突っ伏しかけた。
「すいません、打ち合わせ、最後までご一緒できなくて」
突如降ってきた声に、津川は思わず、その場で飛び上がってしまいそうになった。
ガタタ、と椅子と机が音を立てる。椅子から落ちそうになった体勢を慌てて立て直して顔を上げた津川を、戻ってきたばかりらしき蕾夏は、怪訝そうに目を丸くして見下ろしていた。
「? どうかしたんですか?」
「え…っ、い、いえ、何でもないわ」
さっき備品庫の外で立ち聞きした内容が、まるで嘘だったみたいな、涼しげないつもの表情。まるで高校生が大学生みたいな、まだ少女っぽさを残した清楚な顔立ちからは、さっきの会話から感じられる熱っぽさが微塵も感じられない。
―――こんな子なのに、あーんな激しい人と付き合ってるのか…。なんか、信じられない。
「…あの、藤井さん。今夜だけど…何か予定、入ってる?」
無意識のうちに、そんな言葉が、口をついて出てきていた。
津川の言葉に、蕾夏は一瞬、表情を変えた。
「えっ」
「い、いえ、別にどうしてもって訳じゃないけど、その―――今度の特集、下調べ入る前に、ちょっと念入りに打ち合わせをしておこうかと思って。定時内だと、私も他の仕事があるから、できれば定時後に」
「…あ、そうなんですか」
どう答えるだろう―――ちょっとドキドキしながら待った津川だったが。
「分かりました。お願いします」
蕾夏は、一瞬変わった表情を元に戻し、僅かに微笑みすら浮かべて、そう答えた。思いもよらない返事に、津川は呆気にとられた。
―――そ、そんなこと言っていい訳っ!? 今日、成田さんに付き合わないと、好き勝手に浮気されちゃうんじゃないの!?
信じられない―――どういうことなんだろう? 津川は、唖然とした表情のまま、蕾夏を見上げる以外なかった。
「津川さん?」
そんな津川を、蕾夏は不思議そうに見ている。別に無理をしている訳ではなさそうだ。しかし…あの会話を聞いてしまった以上、その表情を額面通りに受け取ることは、津川にはできない。
「…ああ、ごめんなさい」
やっと口を開いた津川は、バカなことを言ってしまった自分を恥じるように、少し顔を赤らめて笑った。
「やだわ、今日は私の方に用事があるんだった。明日か明後日にでも、また時間作ってもらっていい?」
キョトンとした顔をした蕾夏は、少し首を傾げるようにしながらも、
「はい。じゃ、またお願いします」
と言って、小さく頭を下げた。
***
―――あー…、なんか、疲れる1日だった。特に後半4時間ほど。
瑞樹の部屋のラグの上にぺたん、と座り、蕾夏は大きなため息をついた。
「疲れた顔してんな」
「…誰のせいよ、誰の」
恨めしそうな目で蕾夏が言うと、ウーロン茶のグラスをローテーブルに置いた瑞樹は、肩を竦めてそれを軽く流した。
「今度あんな真似会社でしたら、絶対許さないんだからっ」
「善処します」
「善処じゃダメでしょっ」
「お前の編集長に対する警戒も、善処どまりだからな」
「…もーっ…」
「ま、そんな顔すんなよ。10月の撮影、お前に同行してもらうんだし」
ウーロン茶を飲みながらニッ、と笑う瑞樹に、蕾夏も渋々同意し、両手でグラスを包んだ。
そう―――それを考えると、何だって許せてしまいそうな気がする。昼、特集記事を書くよう言われた時は、まさか瑞樹がその写真を担当するなんて思ってもみなかった。瑞樹が表紙を担当することも、その打ち合わせに今日会社に来ることも知ってはいたが…その話が記事にリンクしてるなんて、予想できなかったから。
「…今度は、ピンチヒッターじゃないもんね」
口元を綻ばせて蕾夏が呟くと、瑞樹も満足げな笑みを浮かべた。
「蕾夏の文章に、俺が写真をつける、って感じか―――“写真集”への、大きな第一歩だな」
「うん…なんか、実感湧いてきた」
「…機嫌、直ったか」
「―――その質問は、2時間半後に、もう1回お願い」
綻ばせた口元をきりっと引き締め、蕾夏はきっぱりと言い放った。それを見て、瑞樹が可笑しそうに笑う。
「なんだよ。結局お前だって、結構楽しみにしてたんじゃねーか」
「当たり前でしょっ。自分だけが禁欲生活送ってたと思わないでよ。本体が手元にない分、私の方は想像が膨らんで膨らんで、期待度では瑞樹の倍なんだからね」
「はいはい。じゃ―――さっそく始めるか。予定通り、最初は“マトリックス”だろ」
「勿論。とりあえず1回、ざっと流し見ね」
「了解。時間あれば、やっぱもう1回、見たいシーンだけチョイスして見るか」
やおら立ち上がった瑞樹が向かった先は―――テレビの前。前から使っているビデオデッキの上に、真新しい、見慣れない機械が置かれている。
実はこれ、2週間前、秋葉原の電気店の福引で瑞樹が当ててしまった、最新型のDVDデッキである。
近所のビデオレンタルも、次第にビデオからDVDに替わりつつある今、この突然の幸運は、瑞樹にとってありがたいものだった。そして勿論、蕾夏にとっても、涙が出るほど嬉しい話だった。
使いぞめには、2人で一緒に“マトリックス”のDVDを見るぞ、と約束したのだが―――仕事などのスケジュールが合わず、結局今日まで延びてしまった。瑞樹からすれば、新品のDVDデッキと数枚のDVDメディアが目の前にあるのに見られない、という、まさにおあずけを食らった犬状態だったのだ。
津川の想像は、現実からは相当かけ離れていた。
しかし―――津川のような想像をする方が、一般的。こんな理由で大騒ぎしている映画フリークの2人の方が、レアケースに違いない。
「うわ、やっぱり画質が全然違う! 映画館で見るより数段クリアだよねぇ…劣化しないし、やっぱりいいなぁ」
「音いいよなぁ…サラウンドスピーカー使ってなくても、音が部屋ん中駆け巡ってる感じする」
「うん、するする」
“マトリックス”のオープニング段階で、既に2人とも、興奮状態だ。瑞樹と蕾夏は、2人並んで床に座り、親友の頃から変わらないスタイルで、目の前の映像の世界へと入っていった。
本当はお互い、言いたいことが、沢山ある。
この2週間―――実を言えば、会おうと思えば、無理矢理時間を作って会うこともできた。なのに会わなかったのは…蕾夏も、そして瑞樹も、同じことだった。
イズミと舞が神戸に帰ったあの日から、それぞれに抱えてきた、相手には言えない、ちょっとしたわだかまり。
それを、この瞬間位は忘れていたいから―――2人はいつも以上に、映像の世界に没頭したかったのかもしれない。
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