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― ペア ―

 

 目覚ましの音に驚いて、蕾夏はガバッ、と飛び起きた。
 いつもより1時間以上早い時刻にセットした目覚ましは、スヌーズ機能限界まで音量がアップしていたらしく、普段の倍以上の音量で鳴っている。そんなに寝坊してしまったのか、と慌てたが、時計を確認したところ、予定より5、6分遅れただけだった。
 ベルを止め、あくびを一つ。気だるさを追い払うように、こめかみを拳でコツン、と叩いた蕾夏は、まだ目が覚めていないらしい隣の人物の肩を軽く揺すった。
 「みずきー、じかんー」
 が、揺すった肩の手触りが妙にガサガサゴワゴワしてるのに気づき、ちょっと驚いて瑞樹を見下ろした。
 「―――…」
 大丈夫、お前眠ってからシャワー浴びて着替えて寝るから、と言ってた癖に。ちょっと添い寝するだけだから、と言ってた癖に。
 その添い寝状態のまんま、外出時の服装のままで眠ってしまっている。掛け布団すら掛けずに。
 添い寝のつもりが寝入ってしまうほど、疲れていたのに違いない。それでも来てくれたんだよな…と思うと、もうちょっと眠らせてあげたい。
 しかし。
 今日ばかりは、心を鬼にしてでも、たたき起こさなくてはいけない。
 窓際に置いてあった金属製の目覚まし時計は、外気のせいか、ひんやりしている。蕾夏はそれを、眠っている瑞樹の頬に押し付けた。
 途端。
 「―――…ッ! つめてーっ!!!」
 効果覿面。びっくりした瑞樹は、即座に目を開け、飛び起きようとした。その弾みでベッドから転げ落ちそうになったので、慌てて蕾夏がそれを支えた。
 「バカ!! なんつー起こし方すんだよっ!」
 「…瑞樹だって前、やったじゃん」
 冷たいウーロン茶で起こされて寿命が縮まった恨みは、まだ忘れていないのだ。窓際に時計を戻した蕾夏は、瑞樹を跳び越してベッドを降り、アイロンとアイロン台を出すべく物入れに向かった。
 「早くそのシャツ脱いだ方がいいよ。家戻る時間もないだろうし」
 「…ああ。ちっきしょ…眠る気なんて無かったのに」
 「こういう日に限ってね」
 「…そう。こういう日に限って」
 はぁ、と息を吐き出した瑞樹は、眠気を振り払うように頭を振ると、だるそうにベッドから抜け出た。さすがにすぐシャワーを浴びる気にはならないらしく、向かった先はキッチンのシンクだった。
 「こんな大事な日の前なんだから、無理して来てくれなくても良かったのに―――昨日、結構遅くまで撮影あったんでしょ?」
 アイロンを出しながら蕾夏が眉をひそめると、瑞樹は軽く肩を竦め、冷蔵庫を開けた。
 「大事な日の前だから来たに決まってんだろ」
 「でも…」
 「先週は隼雄達のせいでバタバタしたからな。ま…あれはあれで、いい気分転換にはなったけど」
 昨晩買ってきていたらしいミネラルウォーターを取り出すと、蓋を捻り切り、4分の1ほどを一息にあおる。そんな瑞樹を眺める蕾夏は、ちょっと複雑な思いでいた。
 「…瑞樹」
 「ん?」
 「昨日は、夢、見た?」
 蕾夏の問いに、瑞樹は蕾夏の方を流し見、首を傾けた。
 「いや。ぐっすり。お前は?」
 「…ん、私も。いつ眠ったか覚えてない位」
 「―――無理してきた意味、十分あるだろ」
 ニッ、と笑った瑞樹は、蓋を閉めたペットボトルを蕾夏に渡し、ダンガリーシャツを脱いだ。そして、カーテンの隙間から射し込んできた明け方の光に気づき、目を細めた。
 「撮影日和だな」
 「うん。雨じゃなくて、良かった」
 本日は、例のミニシアターの特集記事のためのイメージスチールの撮影日。
 代役ではなく正式に受けた、初めての“2人で1つの記事を作る”仕事なのだ。


 同窓会の日以来、蕾夏はたびたび、同じ夢に悩まされていた。
 夢の中で、体育倉庫の戸口に立った蕾夏は、やっと“あの日”を過去のものと出来るような実感を覚えていた。もう自由なんだ―――そう思って口元を綻ばせる蕾夏の耳元に、残酷な言葉が囁かれる。
 “まだ、終わりにするなよ”。
 その低い声に、足元にぽつんと取り残された煙草の吸殻に震撼し、その場に凍りつく―――そういう夢。
 そのせいで蕾夏は、同窓会の翌日から数日間、極度の睡眠不足と精神疲労で、ちょっと体調を崩してしまった。心配した瑞樹は、以来、以前よりも忙しいスケジュールを無理矢理調整して、3、4日に1度は蕾夏の部屋に泊まっていくようになった。
 恐縮する蕾夏に、瑞樹は一言、こう言った。
 『俺もあれ以来、夢、見るから。…だから、お前のためだけじゃない。変に気ぃ回すな』
 夢―――どんな夢かは、蕾夏だって説明していないし、瑞樹からも聞いてはいない。けれど…寝不足気味な瑞樹の顔を見れば、それが“悪夢”であることは、容易に想像ができる。

 2人でいれば、あっけない程たやすく眠りの淵に落ちていける。
 夢も見ずに、深く深く眠ることができる。
 おかげでここ数日は、1人の時の眠りもだんだん深くなってきた気がする。瑞樹に無理をさせずに済むようになる日も近いだろう。

 毎日がこんな日々なら、きっと楽なんだろうな。…そう思う自分も、いるけれど。
 それぞれの場所を持ちながら、一時、身を寄せ合う―――こんな距離感が、今の自分達には、ちょうどいいのかもしれない。少なくとも…まだ、暫くは。


***


 事前の取材と書きかけの記事から、蕾夏がイメージスチールの撮影場所として選んだのは、下町にある昔からある小さな映画館だった。
 「あっ、おはよーございまーす」
 先に現場に到着していた“月刊A-Life”の専属カメラマン・小松が、瑞樹の姿を見つけてペコリとお辞儀をしてきた。ちょっと予想外だったので、瑞樹はつい目を丸くしてしまった。
 「まさか、今日のアシスタントって…」
 「ええ。幸い、撮影予定がゼロだったんで、アシの宮迫に代わってもらったんすよ。自分、撮影現場なら何でも好きなんで」
 「…先輩にアシされるってのも…」
 「ハハハ、何言ってるんすか。それに自分、成田さんの写真のファンですし」
 「え?」
 「ほら、“フォト・ファインダー”の。あれって藤井さんすよね、モデルやってるの」
 ―――げ。こいつも見てたのか。
 カメラをやっている人間なら、その半分以上が講読しているであろう雑誌だから、当然ではあるが―――2人の関係を、あまり社内に広められるとまずい。ただでさえ色眼鏡で見られているのだから。
 「…まあ、元々、知り合いだったから」
 偶然だよ、という口調で瑞樹がそつなくかわすと、小松は屈託のない笑顔で頭を掻いた。
 「あ、いや、別に変な意味で言った訳じゃないっすよ。自分も、写真学校時代の同級生の子とかにモデルやってもらったこと、何度もありますから」
 「俺も別に、変な意味で答えた訳じゃないし」
 「ありゃ。余計な事言っちゃったな、ハハハ」
 「小松君」
 突如、割って入った声に、小松が首を縮めた。映画館の入り口辺りで、先日打ち合わせにも顔を出していた男性編集者と何やら話していた蕾夏が、書類片手に走ってきたのだ。
 一緒に家を出た筈の蕾夏が、何故先に到着しているのか―――それは簡単だ。瑞樹が途中で、少しだけ時間を潰してきたから。2人揃って現場入りするほど、2人とも間抜けではない。
 すっかり仕事モードに入っていた蕾夏は、本当に瑞樹が来たことに気づいていなかったらしい。一瞬目を見開いた後、そつなく笑みを浮かべて、
 「あ、おはようございます」
 と会釈してきた。瑞樹は、内心苦笑しつつも、同じく微笑を浮かべて会釈した。
 「あの、小松君。杉下さんが呼んでるから」
 「えっ、自分っすか」
 蕾夏は、話をしていた編集者が小松を呼んでいるので、呼びに来ただけだったようだ。蕾夏の言葉を受け、小松は慌てた様子で走って行ってしまった。
 「…なんだか、体育会系のノリな奴だな」
 「実際、学生時代にそういう部活をやってたみたいだよ」
 “っす”という独特な語尾と“自分”という一人称は、単なるポーズではなかったらしい。見た目も学生っぽいままの小松だが、会話のノリも学生時代で止まってるな、と思い、思わず笑ってしまった。

 現在、午前7時半。こんな時間から撮影を始めるのも、映画館の1回目の上映時間が正午だから。それまでに、館内撮影や入り口付近を使った撮影は全て終わらなくてはならないからだ。
 正午からの上映とはまた悠長な話だが、この手のマニアックな映画館には時々そういうケースがある。特に、今日は平日―――元々、席数も20程度の映画館だが、やはり昼から満員になることはないだろう。
 「けど…やっぱり、いい味出してるよな、ここ」
 少し離れた場所から全体を眺め、瑞樹がそう呟くと、蕾夏は嬉しそうに顔を綻ばせた。
 「でしょ。編集会議でもね、ミニシアターブームを単なる“カルトムービー・ブーム”として伝えるんじゃなく、ノスタルジーとか心の安らぎと絡めて発信することになったから、ピッタリだと思ったんだ」
 蕾夏からこの映画館を指定された段階で、瑞樹は一度、ここに下見に来ている。
 低い軒や蔦が絡まった味わいのある壁、掲示板のようなスペースに所狭しと貼られた上映作品のチラシ―――古き良き映画時代を思わせるノスタルジックなたたずまいに、ああ、いかにも蕾夏が選びそうだよな、と納得したものだ。
 「そういうコンセプトになるよう、お前が上手いこと誘導したんだろ」
 「…まあ、そういう部分も、ちょっとはあるかも」
 そう答える蕾夏の顔は、“ちょっと”という表現がかなりの過小評価であることを、如実に物語っていた。

 ―――ノスタルジー…か。
 ふと、頭に思い浮かんだのは、いまだ何を撮るか決まっていない、あの写真展のことだった。
 “想い”―――考えてみたら、懐古(ノスタルジー)というものも、古き良き時代への懐かしさ、失われゆくものを惜しむ、という“想い”の一種だ。

 ある1つの絵が、瑞樹の頭の中に浮かぶ。
 その絵が、はっきりとした形でリアルに思い描けた時―――瑞樹は久々に、心から“撮りたい”と感じた。

***

 「本日のモデルの、麗奈さんです」
 前回の打ち合わせにいた女性アートディレクターとは違う、40歳前後の美術系担当者が、そう言って1人の女性を前に押し出した。
 「麗奈です。よろしく」
 軽く頭を下げたモデルは、顔を上げると同時に、ニッコリと艶やかな笑みを見せた。日本人かどうか、一瞬首を傾げたくなるその派手な顔立ちから察するに、どうやらどこか白人系の国とのハーフらしい。
 「編集の杉下です。こちらはカメラマンの成田さん、アシスタントの小松、そしてライターの藤井です」
 「どうも」
 杉下から紹介を受け、それぞれが軽く頭を下げる。その時になって初めて気づいたが、本日の撮影、モデルと蕾夏を除けば全員男性という現場のようだ。
 モデルは、ノースリーブのニットにカーディガンを肩にかけ、シンプルなフレアスカートを履いている。緩いウェーブの入った栗色の髪をヘアアクセサリーでこじんまりと纏めており、顔立ちの派手さの割に、随分と落ち着いたイメージだ。恐らく、古い映画館というコンセプトに合わせて、知的なムードを演出したのだろう。
 かなりの美人だが、嫌味のないムードのような気がする。同性から見てもそうなのか、蕾夏も「いい感じの美人だよね」とこっそり囁いていた。
 ―――でも…ちょっと違うんだよな。
 さっき頭に思い描いた絵を思い出し、瑞樹は僅かに眉をひそめた。
 どうせこの映画館をバックに撮るのならば、さっきの構図で撮ってみたい―――それが瑞樹にとって最高のアングルであるなら、仕事で活かさなくては。そう思うのに…違う。このモデルで同じ図を撮っても、瑞樹が描いたような絵にならない気がする。
 蕾夏でないと。
 蕾夏の醸し出す空気が、そこに加わらないと―――多分、表現できない。
 どれだけ美人を持ってこられても、やっぱり瑞樹にとっては、蕾夏より撮りたいと思える被写体は無いらしい。軽く首を振った瑞樹は、さっきのアイディアを仕事で実践する、という思いつきを、即座に断念した。


 「これ以上日が陰るとまずいから、先に屋外から撮りましょう」
 という瑞樹の一言から、その日の撮影が本格的にスタートした。
 撮るカットは、丸めたパンフレットを持ったモデルが、映画館の入り口からちょうど出てきたところ、といったカットだった。実際に、中から出てくるアクションを何度も繰り返しながら撮ることになる。
 「視線はどちら向きかしら」
 丸めたパンフレットをポンポンと手に打ちつけて遊ばせながら、麗奈が左右に視線を巡らす。
 「絵コンテでは左だけど、一応右と斜め下のパターンも撮るから」
 「了解」
 口の端を綺麗に上げた麗奈は、まだ光の当たり方の調整をしている瑞樹や小松を待つ間、映画館の入り口を出たり入ったり、自分なりのリハーサルを何度も繰返した。日本人らしからぬ顔なので年齢がよく分からないが、落ち着いて手慣れたその態度から、結構キャリアのあるモデルなんだな、と察しがつく。
 実際の撮影進行は、撮影に専念するため、小松に任せた。
 「じゃ、いきます。用意……はいっ!」
 小松の掛け声と同時に、麗奈が映画館の中から、軽快な足取りで出てくる。そして視線が左へと流れるタイミングで、連写モードのシャッターを連続して切った。
 「じゃ、2回目いきまーす。パターンは1回目と同じで。用意……はいっ!」
 イメージを確認するために同席しているに過ぎない蕾夏は、撮影が始まってしまえば、ほとんど仕事はないも同然だ。何度となく繰返される一連の動作を、瑞樹の斜め後ろから、他のスタッフと一緒に眺めていた。
 が、4回目の撮影に入ろうとした時。
 「あ…っと、ストップ!」
 背後から飛んだ声に、ファインダーを覗き込んでいた瑞樹も、“用意”の声をかけようとしていた小松も、ハッと顔を上げた。
 振り返ると、蕾夏が空を指差して、眉をひそめていた。
 「1分待って。雲の状態、やばそうだから」
 「……」
 ファインダーから目を離さなかったので気づかなかったが、瑞樹が空を見上げると、ちょうど、輝くような濃い白さの雲が、太陽を隠し始めたところだった。
 「あちゃ、しまったーっ。すいませんっす、藤井さん」
 「いいよ。小松君はそっち専念してて」
 アシスタントとして当然注意を払うべきことをすっかり失念していたことを恥じる小松に、蕾夏は苦笑を返し、軽く手を振ってみせる。そして瑞樹の方に視線を移すと、クスッと笑って手を差し出してきた。
 「撮影済みフィルム、こっちで管理しましょうか」
 「―――じゃ、お言葉に甘えて」
 時間がない上に、離れた場所にいる小松に頼む訳にもいかず、実は撮影の終わった2本を左右のポケットに分けて入れることで誤魔化していたのだ。その順番もちゃんと見ていたらしく、蕾夏は右ポケットに入れていたフィルムに、ちゃんと“1”という数字をマジックで書き入れた。
 半年という短い時間だったが、蕾夏はすっかり、アシスタントとしてノウハウを覚え込んでしまっているらしい。アシスタントを辞めてから時間の経った小松より、むしろ蕾夏の方が反応がいい位だ。まいったな、と、瑞樹は思わず苦笑した。


 こうして、蕾夏もアシスタント的に参加したことで、屋外撮影はよりスムーズに進行したのだが。
 「―――…?」
 ふと、妙な視線を感じて。
 屋内へと移動するため、三脚などを片付けていた瑞樹は、その視線の主を探して、視線を巡らせた。が…バタバタと人が行き交う中、その主を見つけることはできなかった。


***


 ―――なんか、視線感じるなぁ…。
 瑞樹が撮影し終わったフィルムの詳細をメモに取りつつ、蕾夏は、つむじの辺りに感じる妙な視線が、気になって気になって仕方なかった。
 撮影現場は映画館の中へと移動し、ほぼ中央の席にゆったりと脚を組んで座った麗奈にカメラが向けられている。小松はライティング機材から離れないし、“A-Life”側スタッフやモデルエージェントは蕾夏の背後にいる。でも…さっきから感じるのは、正面からの視線だ。
 正面から。
 ―――となると…あの人しかいないよね。
 ちらっ、と目を上げ、確認する。途端、優雅に座席に座っている麗奈の目が、すっと横に逸れた。
 やはり、そうだ。この視線の主は、唯一こちらを向いている人物―――モデルの麗奈だ。
 さっきから、そうだ。館外で撮影していた最中も、何度となくこういう視線を感じた。目で確認したのは、今が初めてだが―――視線を感じたのは、全て、瑞樹に話しかけたり、逆に瑞樹に話しかけられたりした後だった気がする。
 ライターの癖に撮影に口出しして、と思っているのだろうか。結構キャリアもありそうだし、そう思ってもおかしくはない。まずかったかな、と、蕾夏は眉をひそめた。
 「藤井さん」
 ふいに瑞樹に呼ばれ、蕾夏はハッと我に返った。
 「はいっ」
 「光の具合、調整し直したんだけど」
 このカットは、既に10枚強撮っているのだが、レトロなムードをもう少し出すために、照明を限界まで絞った方がいいのでは、ということになり、ライトの再調節をしたのだ。
 さっき視線を逸らした麗奈は、今はきちんと前を向いている。照明を更に柔らかくした分、さきほどまでより全体に暗い感じになったが、その分、客電の独特の色合いが強調された気がする。
 「私は、イメージに近くなったと思いますけど…」
 そう言いつつ、蕾夏は、斜め後ろに立つ美術担当者を振り返った。彼も同じ意見らしく、
 「やっぱり、こっちで行きましょう」
 と頷きながら言った。

 ―――うーん…なかなか難しいなぁ、こういう場合のスタンスって。
 再び撮影が始まるのを、一歩引いた場所で見ながら、ちょっとため息をつく。
 前回瑞樹と仕事をした時は、2人だけの現場だったから、あまり考える必要がなかった。が…瑞樹にインタビュー撮影なんていう社内で賄えるような仕事が回る確率は極めて低いだろう。恐らくは、アシスタントの必要な撮影では、宮迫や小松がその役目を担うのだろうし、それで賄えない部分は瑞樹自身がフォローする―――それで現場は問題なく回っていくのだ。
 でも、つい、気づいてしまう。
 瑞樹の身振りから、ああフィルムの残り枚数が微妙なんだな、とか、レフ板の位置に納得がいってないんだな、とか…そんなことが、なんとなく感じ取れてしまう。それは、半年のアシスタント経験からくる、というよりも、日頃、ライカ片手にぶらぶらと街中を撮り歩く中で培われた、瑞樹専用の勘のようなものだろう。
 だから、つい、手出ししてしまう。
 指示が飛ぶ前にレフ板を調節しに走ったり、残り2枚ならもうフィルム交換しちゃいましょう、と交換フィルムを差し出したり―――本来ならライターがやるべきじゃない仕事を、アシスタントが指示を受けてやるべき仕事を、つい自らやってしまう。
 たとえ気づいたとしても、他のカメラマンに対しても同じことをするか、と言われたら…もしかしたら、答えはノーかもしれない。撮影に入ると、指示を出すことも忘れて没頭してしまう、という瑞樹の性格をよく分かっているからこそであって、他の人間相手なら、遠慮して黙ってしまうだろう。
 ―――天候のこともフィルムのことも、黙っていた方が良かったのかな。
 麗奈の視線も気になったが、それより気になるのは小松の気持ちだ。先回りして仕事を横取りされているように感じて、気を悪くしてるのではないだろうか。
 2人で仕事をするのは、ただただ楽しみでワクワクするばかりの出来事だったが―――撮影現場に話を限るなら、結構、想像していたより厄介な部分が多いのかもしれない。

 「蕾夏」
 また考え事に没頭していた蕾夏は、仕事用の声ではない瑞樹の声に、ギョッとして顔を上げた。
 「えっ」
 「移動するぞ。今度は映写室」
 「……」
 慌てて周囲を見回すと、機材を持った小松も、背後にいた筈の他のスタッフも、既にゾロゾロと移動を開始していた。蕾夏だけが、ファイルを胸に抱きしめたまま、ぼーっとしていたらしい。
 「ご、ごめん」
 「何か気になることでもあったか? 撮り直したけりゃ、まだ間に合うぞ」
 今の撮影内容に、蕾夏が納得していないとでも思ったのだろう。瑞樹の表情が、ちょっと心配そうになる。とんでもない、と、蕾夏は必死に首を振った。
 「う、ううん、違う、そうじゃないの。ただ、なんとなくぼーっとしてただけ」
 「仕事中に、珍しいな」
 「…ごめん」
 済まなそうな顔をする蕾夏に、瑞樹は苦笑し、周囲に気づかれないほどの素早さで蕾夏の額をコツン、と弾いた。

 ―――あれっ?
 その刹那、また、視線を感じた。
 瑞樹の肩越しに、視線の主を探す。その先にいたのは―――やっぱり、麗奈だった。
 席を立ち、映写室へと向かいかけている麗奈は、瑞樹の陰になっている蕾夏が自分の方を見ているとは気づいていないのだろう。少し憮然とした表情で、刺すような視線をこちらに向けている。その冷ややかな目は、過去にも見覚えのある類の目だった。
 例えば、仕事で瑞樹の会社に行った時、女子社員が向けてきた目とか。ロンドンの出版社で、やはり女子社員が向けてきた目とか―――あのあからさまな刺々しい目と、よく似ている。
 ―――ああ…なんだ。そういうこと、か。
 どうやら、仕事より“そっち”の問題だったらしい。
 全く―――何故瑞樹は、こうも簡単に人を、特に女性を惹きつけてしまうのだろう? 本人に自覚はほとんどないらしいが、傍にいる蕾夏の身にもなってもらいたい。

 三脚を持った瑞樹が動いたせいで、麗奈との間を遮るものが無くなった。
 遅ればせながら、蕾夏が自分の方に目を向けている、と気づいた麗奈は、一瞬目を見開きはしたものの、ニッコリと艶やかな笑みを返してみせた。
 ああして取り繕う分、ブレインコスモスの女子社員達よりは数段大人だよな―――なんてことを思いつつ、蕾夏も一応、ニッコリと笑みを返してみせた。

***

 その後も、比較的順調に撮影は進行し、予定の時間までに全てのカットを撮り終えた。
 お疲れ様でした、と声を掛け合う中、瑞樹は密かに、映写機にカメラを向けていた。
 戦後間もなく作られた、というこの映画館に似つかわしく、その映写機は使い込まれていて、1つのアンティークの置物のように見える。この映画館の歴史をぎゅっと凝縮しているように見えて、すぐ傍で見守っていた蕾夏は、無意識に口元を綻ばせていた。
 ―――もしかしたら、例の“想い”をテーマにした写真展に出す写真のつもりなのかもね。
 真剣な眼差しでカメラを構える瑞樹を見て、なんとなく、そんな気がした。ノスタルジー ―――消えゆくものを懐かしみ惜しむ気持ちだって、切ないほどの“想い”には違いないから。
 でも、写真展用の写真なら、本当は仕事用の一眼レフではなく、ライカで撮りたかったのではないだろうか。また休みの日に改めて来てみてもいいな…と蕾夏が思った時、誰かが蕾夏の背中をポン、と叩いた。
 「お疲れ様っすー」
 慌てて振り向くと、照明器具のケースを肩に掛けた小松だった。
 「あ、お疲れ様です」
 「成田さんもお疲れ様っす」
 ちょうど映写機を撮り終えたところだった瑞樹も、カメラを下ろして振り返り、「お疲れ様」と返した。
 そう言えば、小松には言わなくてはいけないことがあったんだ、と思い出した蕾夏は、小松にしっかり向き直り、軽く手を合わせるような仕草をした。
 「…あ、あの、小松君。今日、ごめんね」
 「へ? 何がっすか?」
 「色々、出すぎた真似しちゃって」
 「―――あー、アシスタントの仕事のことっすか? 別になんとも思ってないっすよ、自分は。っつーか、助かりました」
 その事で謝られるなんて意外だ、という顔で言った小松は、何故かニカッ、と豪快な笑みを見せた。
 「それに―――なんつーか、感心させられたっすよ」
 「感心?」
 「やっぱ、一緒にアシスタント業やってただけあって、呼吸っつーか意思疎通っつーか―――いちいち言葉にしなくても、相手が何求めてるかすぐに察して行動できるんだなぁ、と。アシスタント歴は、藤井さんよりか自分の方が長い筈なんすけど、成田さんのアシスタントとしては、あと何年頑張っても、藤井さんの域には行けない気がしたんすよ」
 「…そ、そんなことも、ないと思うけど」
 なんだか、そこまで言われると、照れる。が、小松は、オーバーな位に首を振った。
 「いやいやいや、そんなことあるっすよ。先輩に聞いた話じゃ、こういうパートナーシップには相性もあるから、本当にいいアシスタントに巡り合えたら超ラッキーなんだって。そこまでのもんじゃないだろ、ってその時は思ったけど…うん、なんか、今日は“なるほどなぁ”て思ったっすよ。きっと相性いいんすね、2人は」
 「……」
 瑞樹と蕾夏は、思わず顔を見合わせた。
 なんと言うか―――恋人として“お似合いですね”とか“仲良さそうですね”とか言われるより、嬉しい気がする。
 「あっと、ええと、変な意味じゃないっすよ?」
 あくまで仕事のパートナーって意味っすよ、と、焦ったように付け加える小松に、瑞樹は堪えきれず、苦笑を漏らした。
 「今朝も同じセリフ言ってたよな」
 「…いや、マジで、あれもこれも変な意味じゃないっすから。勘弁して下さいよ」
 ますます焦る小松の様子が可笑しくて、蕾夏もつい、吹き出してしまった。


 ―――…うん。私って、凄くラッキーなのかもしれない。
 帰り支度をしながら、小松の言葉を思い出し、改めて思った。
 まだ、十分理解できない部分もあるし、自分より分かってあげられる人がいるんじゃないか、と時々悩んでしまうのだけれど。
 言葉にしない部分で分かり合える、テレパシーのようなもの。それの存在は、日々感じる。親友だけだった頃も、恋人となった今も、そして…こうして、仕事のパートナーとして1つの仕事に関わる時も。
 そういう友達と出会うことも、そういう恋人を見つけることも、そういうパートナーを得ることも、どれもきっと、凄く難しいことだと思う。しかも、それがたった1人の人だなんて―――きっと、奇跡と呼んでいい出来事だろう。
 そんな奇跡があれば、何だって乗り越えられる気がする。
 “まだ、終わりにするな”―――夢の中で、佐野がそう囁いていても。そしてそれが、事実であっても。大丈夫―――時間さえかければ、不可能なんてきっと、何ひとつない。


 「…あの、ちょっといい?」
 「え?」
 映写室を出たところで、突如、耳慣れない声に呼び止められて、蕾夏は振り返った。
 そして、振り返ったことを、少し後悔した。何故なら―――呼び止めた主は、あのモデルの麗奈だったから。
 撮影が終わって、役作りの必要がなくなったせいだろうか。今目の前にたつ麗奈は、先ほどまでのキリッとしたムードが半減し、その分、女っぽさがアップしている気がする。その、やたら艶っぽい微笑に、思わず一歩足が退いてしまう。
 「あ…お疲れ様でした」
 ちょっと引きつり気味な笑顔で蕾夏が言うと、麗奈は余計、口の端を吊り上げた。
 「撮影中は、なかなかお話する機会がなくて。撮影終わるまで、ずっと待ってたのよ」
 「は…あ」
 何の話をしたくて待っていたのだろう。さっきの視線を思い出すと、想像しただけで気が重くなる。
 そんな蕾夏の懸念通り、麗奈が次に口にした言葉は、ほぼ予想通りだった。
 「ちょっと訊くけど―――ほら、あの人。成田さんだったかな。あの人って、あなたの親しいの?」
 そう言って麗奈は、映写室の中を親指で指し示した。そこには、まだ小松と何やら話し込んでいる瑞樹がいた。
 「…えーと…親しいというか、仕事仲間ですけど」
 「個人的に、何か、関係でもある?」
 ―――そんな、じーっと見つめられたら、ノーとしか答えようがないじゃん…。
 どこかビー玉を彷彿とさせる色素の薄い瞳に目を覗き込まれ、また一歩、足が退いてしまった。ごくん、と唾を飲み込んだ蕾夏は、なんとか首を横に振った。
 「ってことは、フリーなのかしら」
 「…ええと…」
 「まあ、いいわ。とりあえず、今日はフリーってことよね」
 そう言って、ホッとしたように表情を和らげた彼女は、次の瞬間―――信じられない行動を取った。
 なんと麗奈は、多少退き気味になっている蕾夏の片手を取ると、自らの胸元に引き寄せて、両手でぎゅっ、と握ったのだ。
 「ねえ。良ければこの後、一緒にランチでも食べに行かない?」
 「えっ」
 「さすがに、彼氏の目の前で誘うのは気が退けるな、と思ってたんだけどね。違うんならまあ、いいかな、って」
 「……」
 ―――はい????
 なんだか、話が妙な方向にずれつつある気がする。キョトンと目を丸くする蕾夏に、麗奈はくすっ、と妖艶に微笑むと、内緒話をするように耳元に口を近づけてきた。
 「実はね―――今朝紹介された時から、すっごく気になってたの。だって…あなたって、あたしの理想のタイプなんだもの」
 「……は!?」
 自分でも、どこから声が出たのか、分からない。初めて聞くような叫び声を上げ、蕾夏は思わず、大きくのけぞってしまった。
 「あたしってホラ、ハーフで日本人ぽく見えないから、真っ黒な髪とか雪のような肌にホント弱いのよ。あのカメラマンの人が傍に行くたび、もう妬けちゃって妬けちゃって―――仕事中だってのに、思わず睨んじゃったわよ」
 「あ、あ、あ、あのっ」
 「それにね。ちょうど、一緒に住んでた子猫ちゃんが彼氏を作って出てっちゃったばかりで、寂しかったのよ。なのに、こーんな毛並みのいい子にさっそく出会えるなんて、あたしってラッキーだわ」
 「あのっっ!!!」
 必死で彼女の手を振り解いた蕾夏は、あまりにも接近しすぎな彼女の肩を押して引き剥がした。
 ここで、レズだのアブノーマルだのといった単語は、間違っても使ってはいけない―――ひとり盛り上がる彼女を真正面から見据えて、蕾夏は慎重に言葉を選び、なんとか、口を開いた。
 「…こ…こんな美女にお誘い受けて、凄く嬉しいですけど―――…」
 「けど?」
 「わ、私―――女ギライ、なん、です。…ごめんなさい…」
 言い終えると同時に、冷や汗が、背中を伝い落ちるのを感じた。

 

 「―――あれ? 藤井さん、まだ外に出てなかったんすか?」
 瑞樹と一緒に映写室から出てきた小松が、廊下に立ち尽くしている蕾夏を見つけ、驚いたような声を上げた。
 呆然とした様子だった蕾夏は、ぎこちなく振り返ると、力ない笑みを返した。
 「…あー…うん」
 「? 早くしないと、客入ってくるっしょ。急いだ方がいいっすよ」
 訝しげに眉をひそめた小松だったが、特に追及することもなく、蕾夏を追い越して出口へと向かってしまった。が…さすがに瑞樹の方は、そうもいかなかった。
 小松が廊下の角を曲がるのを確認した瑞樹は、ぽん、と蕾夏の肩に手を置き、その顔を覗き込んだ。
 「どうした? なんかあったか」
 「…お願い、何も訊かないで」
 「は?」
 「…今、何か訊かれたら、とんでもないこと口にしちゃいそうだから」
 「???」

 その後―――真相を明かした蕾夏が、瑞樹から盛大な爆笑という不名誉なプレゼントを嫌というほどもらったのは、言うまでもない。


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