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― 掌(てのひら) ―

 

 どこか遠くで、電話が鳴っているのを感じた。

 引きずり込まれていた夢から、急速に目覚める。はっとしたように目を開けた瑞樹は、慌てて体を起こした。
 ―――いつの間に…。
 気づかないうちに、うたた寝していたらしい。嫌な汗をかいたせいで、体が重く感じる。まだ纏わりついている気がする夢の残像を振り払うかのように軽く頭を振ると、瑞樹は立ち上がり、受話器を手に取った。
 「―――はい」
 『瑞樹?』
 「…ああ。今、何時?」
 『12時ちょっと前かな。…何、眠ってたの? 起こしちゃったかな』
 瑞樹の声の調子で、寝起きであることが分かるらしい。蕾夏が、少し心配そうな声で言った。
 「いや、単なるうたた寝。急な撮り直しが入って、ちょっとバテてたらしい」
 『そうなんだ。大丈夫? 明日って神戸でしょ?』
 「ああ―――…」
 そう。明日は、“I:M”の撮影のために、神戸に行く。けれど、その前にイズミに会いに行く。それを考えると、少し気が重かった。そして、重いと感じる自分に対して、また気が重くなる。
 『…瑞樹?』
 「ん?」
 『イズミ君に会うのが、気が重いの?』
 あっさりと言い当てられて、思わず苦笑が漏れた。くしゃっと前髪を掻き上げた瑞樹は、小さくため息を一つついた。
 「…俺、口が下手だからな。イズミを傷つける結果になりそうで、自信ねぇよ」
 『でも…瑞樹が言うみたいに、会わないままフェードアウトは、もっと辛いと思う。逆に、瑞樹がイズミ君の立場なら、できる?』
 「いや」
 無理だろうな、と、すぐ分かる。何故なら―――"猫柳"が、言っていたから。イズミが瑞樹を諦めるのは、瑞樹が蕾夏を諦めるのに匹敵する、と。だから、フェードアウトなんて無理だと分かる。が…だからこそ余計に、じゃあどんな言葉なら諦められるのか、それが想像がつかない。
 『大丈夫だよ。瑞樹は優しいもん。いざその場になったら、自然とイズミ君が傷つかない方法で納得させられると思う』
 「…お前が言うほど、優しくねーよ」
 『私だって、瑞樹が言うほど、強くもないよ?』
 少しおどけた調子で、蕾夏がそう返した。
 『けど、瑞樹が“お前は最強の女だ”って言ってくれると―――そうなれる自分がいるの。言葉がパワーをくれるみたい。こういうの、“言霊”って言うのかな』
 「……」
 『瑞樹も、信じて。私が“瑞樹は世界で一番優しい人だ”って言うんだから…瑞樹はきっと、優しくできるよ』
 ―――“言霊”…か。
 そういうのは、確かにあるのかもしれない。
 自分を優しい人間だなどと、蕾夏と出会うまでの長い間、一度だって思ったことはない。何が優しさで何が冷たさなのか、その判断さえ、心を失ってしまっていた瑞樹にはできなかったのだから。
 でも―――蕾夏は以前から何度となく、瑞樹を“優しい”と言う。瑞樹が蕾夏を“強い”と言うのと同じように。そして、蕾夏に“優しい”と言われると、ホッと安堵する。まだ、大丈夫なのだと―――あの時、母に全てを破壊された訳じゃない、自分はまだ人間として大切なものは失っていないと分かって、安心できる。
 『第一、優しくない人は、傷つけることを怖がったりしないと思うよ?』
 笑いを含んでそう言う蕾夏に、
 「…そういえば、そうだな」
 瑞樹もやっと口元を綻ばせた。


***


 野球部の連中だろうか。寒空の下、景気のいいノックの音や掛け声が聞えてくる。
 全然変わんねーな、と思いつつ、瑞樹は校門に寄りかかって、母校の広いグラウンドをぼんやり眺めていた。
 校舎は、一部改築をしたらしく、遠目にも瑞樹が通った当時とは様子が変わっている。が、バスケ部の練習でほぼ毎日使っていた体育館や、木村達園芸部がせっせと手入れしていた花壇などは、当時とあまり変化がない。これが本当のノスタルジーってやつだな、と、自分の中の“懐かしい”という僅かな感慨に、瑞樹は微かに笑った。
 「兄ちゃーんっ!」
 約束した時間ほぼピッタリに、イズミが体育館の方から走ってきた。
 練習が終わってすぐ、飛んできたのだろうか。イズミは、トレーニングウェアに首にタオルを掛けた格好で走ってくる。瑞樹が手を挙げて合図すると、ぶんぶん手を振って応えた。
 「練習は、いいのか?」
 声の届く位置まで来たイズミに瑞樹がそう問うと、イズミは少し息を弾ませながら、小さく頷いた。
 「3年生は、週末、外部の模試があるから、今日は1、2年だけで自主練習やってん。もう片付けも終わった」
 「そうか」
 「兄ちゃん、機材とか持って来てへんの? 今日ってルミナリエ撮影するんやろ?」
 瑞樹が何も持っていないのを不審に思ったのか、イズミがキョロキョロしながら首を傾げる。
 「邪魔になるから、預けてきた」
 「そうなんや。…な、どぉ? 兄ちゃんが通ってた頃と、あんまり変わってへん?」
 「そうだな。校舎がちょっと変わったけど、それ以外は―――ああ、屋外のバスケットコートって、まだあるのか?」
 「あるよ。部活では使わへんけど、体育の授業とか球技大会では使ってる」
 「…久々に、行ってみるか」
 何気なくそう言うと、イズミの目が、パッと明るく輝いた。
 「あっ。そんなら兄ちゃん、シュートするとこ、見せて! オレ、ボール取ってくるっ」
 「おい」
 体もなまっているし、仕事前だから疲れるのは御免だったのだが―――イズミはクルリと踵を返すと、真っ直ぐに体育館へと駆けて行ってしまった。
 ―――元気な奴…。
 変に大人ぶって背伸びをする癖に、ああいうところは子供の頃から少しも変わっていない。瑞樹は、呆れつつも、ちょっと苦笑した。

***

 「なあ、兄ちゃんって、1年でレギュラー取ったんやろ?」
 「一応な」
 「どこのポジション?」
 「最後はポイントガードだったけど―――1年の今頃は、シューティングガードか」
 「いいなぁ。オレも、小さいからシューティングガードのレギュラー枠狙ってるんやけど、シュートの確実性に欠けるって言われて、なかなか上手いこといかへん」
 「中学は卒業ギリギリまでやる奴も多いだろ。焦るな」
 脱いだジャケットを近くの植え込みに置いた瑞樹は、ドリブルを繰り返すイズミに、貸せ、という風に手を差し出した。
 イズミが放ったボールは、ストン、と瑞樹の手に収まった。高校生以上が使うボールよりひと回り小さいそれは、高校になって一気に背の伸びた瑞樹にとっては、当時以上に小さく感じた。
 決して、好きで始めた競技ではなかった。が、レギュラーなんぞになったせいで、中学3年間、真面目に取り組んだ競技だ。高校も、部活は写真部だったが、課内クラブにはバスケを選んだ。だから、普段は気にしたこともないが、シュートの動作はすっかり体に染み込んでいる。久々だから失敗する可能性もあるが、まあ、あまり無様なことにはならないだろう。
 「オレ、兄ちゃんが東京行く前、兄ちゃんがシュートするとこ、初めて見せてもらってん。覚えてる?」
 トレーニングウェアのポケットに両手を突っ込んだイズミは、そう言って懐かしそうに目を細めた。
 「ああ、覚えてる」
 「バスケット見るのも、あれが初めてやってん。あんな遠くから一発でボールが入るなんて、曲芸やと思ったわ。カッコ良かったよなぁ…」
 「―――だから、バスケを選んだのか?」
 さり気ない調子で瑞樹が言うと、イズミの表情から、笑みが抜け落ちた。
 「俺がバスケやって見せたから、バスケを選んだのか、イズミは」
 「……」
 「だったら―――俺がサッカーのドリブルでも見せてたら、サッカーやってたかもな」
 「……」
 言葉を失うイズミにふっと笑うと、瑞樹はボールを数度ドリブルさせ、バスケットゴールに向き直った。

 大きく息を吐き出し、一度、体の力を抜く。ゴールリングを見つめて、次第に集中力を高めていく。
 もう2回ほどボールをバウンドさせ、額の斜め上辺りに構えると、瑞樹は、極自然なフォームで、ボールを放った。
 放物線を描いて宙に放たれたボールは、ボードに当たることなく、ゴールリングの中に吸い込まれた。ザッ、と音を立ててネットを擦り、地面に落ちる。ポンポンポン、と地面で跳ねたボールは、僅かな土煙を上げた後、コロコロと転がって行った。

 イズミは、何も言わなかった。
 まるで夢でも見ているみたいな目で、ずっとボールの行方を追いかけていた。
 「…バスケが好きか? イズミ」
 瑞樹が訊ねると、転がるボールを見つめたまま、イズミはコクリと頷いた。ボールを真っ直ぐに見つめるその目は、嘘ではないようだ。それならば、いい―――瑞樹は、少しだけ安心した。
 「けど、兄ちゃん言う通り、オレがバスケ始めたんは、兄ちゃんがバスケやってたからや」
 「…そうか」
 「レギュラー取りたいって思うんも、兄ちゃんが1年でレギュラー取ってたって知ってるからやと思う。母ちゃんが新しい家に引っ越す、って言うた時、この学区にしてって頼んだんも、兄ちゃんが住んでた町だからやと思う」
 「―――そうか」
 「…けどな、兄ちゃん」
 一度、唇を硬く引き結ぶと、イズミはボールから瑞樹に視線を移した。
 「オレも、もう子供と違う。兄ちゃんと母ちゃんをくっつけようとか、そんなこと思ってへん。そういうのは、随分前に卒業した。母ちゃんが彼氏作ったりするようになった時から―――ああ、なんや、母ちゃんて兄ちゃん以外の男でも好きになれるんやな、って思って…ちょっと、安心したわ。一生兄ちゃんしか好きになれへんかったら、可哀想やろ?」
 「……」
 つまり、"猫柳"がこだわっていた“イズミは瑞樹を諦めきれずにいる”という部分は、ある意味とっくにクリアされていた訳だ。イズミは、もうちゃんと理解している―――いかに自分が望んでも、瑞樹がずっと自分の傍にいてくれる存在にはなり得ないのだ、ということを。
 では、何が問題なのだろう―――いまいち、その辺が見えない。瑞樹は、知らず、僅かに眉をひそめた。
 「…母ちゃんには、幸せになって欲しい」
 瑞樹を見据えていた目が、ゆっくりと地面に落ちる。肩をすぼめたイズミは、心もとなさそうな声で、ゆっくりと続けた。
 「オレは、母ちゃんにたくさん、幸せ貰ったんやから、大きくなった分、母ちゃんを幸せにしないとアカン。母ちゃんが誰かを好きになって、そいつと結婚したいって言うんやったら、オレは喜んで祝福してやらないとアカン。そうするのが、オレの役目やと思う。けど―――自信、ないねん」
 「―――他人が入り込んでくるのが、嫌か?」
 「…それもあるけど―――分からへんねん」
 「何が」
 「それまで知らなかった誰かが、オレの“父親”になる、ってのが、どんなもんなんか」
 「……」
 「オレにとって、“父親”に一番近いのは、兄ちゃんや。小さい頃から、一番“家族”に近い所にいた男の人やし、ずっと憧れやった。なのに―――兄ちゃん以外の誰かが“父親”になるんやろ? …受け入れられるかどうか、全然自信ないわ」
 「…“父親”…か」
 つまり―――今、イズミが混乱しているのは、一番“父親”に近かった瑞樹という場所に、別の誰かをスライドできるかどうか、ということらしい。今までも悩んできたのだろうが、そうしなくてはいけなくなるかもしれない相手が現実に目の前に現れてしまったから、余計混乱しているのだろう。
 「―――猫やんのこと、どう思う?」
 単刀直入に、訊いてみた。するとイズミは、落としていた視線をパッと上げ、困惑したような目で瑞樹を見つめた。
 「…どう思う、って…」
 「嫌いか?」
 それには、イズミは一切の躊躇なく、即座に首を横に振った。
 「忍は――― 一緒におると、なんや、ホッとするから、好きや」
 「…ふーん。ホッとするから…、か」
 「それにな。この前分かったけど、オレと忍、趣味が似てるらしいんや。オレ、車とか飛行機とかの本見るの好きやし、小学生の時、母ちゃんにねだってラジオの組み立てキット買ってもらったこともあってん。忍もな、子供の頃、理科部ってのに入っとって、鉱石ラジオ組み立てたり、インドアプレーン作ったりしとったんやて。忍のそういう話も凄く面白いし、話すの上手やから、忍のことは好きや。けど…」
 「けど?」
 楽しそうだったイズミの声が、一気にトーンダウンする。落ち込んだような表情になったイズミは、それまでの半分以下の大きさの声で、呟くように言った。
 「―――オレん中の、兄ちゃんのいた位置に、忍を置くのは、無理やと思う」
 「……」
 「オレと母ちゃんと兄ちゃん、3人セットで、オレの中ではもう形が出来上がってるもんがあって―――“家族”とかそういうんと違うけど、とにかく、その中の誰かを他の人間に替えるなんて、無理や。無理やから…どうしていいか、分からへん」
 「―――そうか…」

 イズミの中の、自分のポジション―――…。
 具体的にどういう位置づけなのか、瑞樹にはよく分からない。
 ただ、そのポジションが、“父親”とイコールでないのは、よく分かる。イズミは“父親”を知らない―――瑞樹が、実の母を知りながらも“母親”という存在が分からないのと同様に、“父親”とはどういう存在なのか、“父親”に対してどんな感情を抱くのかを知らない。
 では、“忍”は?
 イズミの中の彼のポジションは、どんな場所にあるのだろう?

 「オレが一番、母ちゃんを守ってやらなアカンのになぁ…」
 はあぁ、とため息をついたイズミは、やるせなさそうに、地面をガツンと蹴った。
 「なんや、オレが一番、母ちゃんの幸せ邪魔してる気ぃして、へこむ」
 「馬鹿、そんな訳ないだろ」
 「けど、オレがおらんかったら、忍かて、もっと気楽に母ちゃんと付き合ってくれるやろ? 今ひとつはっきりした態度とらへんのは、やっぱ、オレがおるせいやろな、って思うと…」
 「…随分と猫やんを見縊ってるな、お前」
 憮然とした声でそう言うと、瑞樹は、ボールが転がっていった方へと歩いていった。
 地面に転がっているボールを片手だけで易々と拾い上げる。事態が飲み込めずキョトンとしているイズミの方を向いた瑞樹は、ニッ、と挑戦的な笑みを浮かべた。
 「一度、頭を空っぽにしてみろ」
 「…えっ」
 「部の練習でもやってるだろ。…俺からボール、取ってみろよ」

***

 決して広くはない野外バスケットコートに、ボールが地面を叩く音だけが響く。
 そもそも、160センチに届くか届かないか―――蕾夏とさして変わりない背丈しかないイズミでは、ほぼ180ある瑞樹に高い位置で対抗するには無理がある。イズミは、極力姿勢を低くして、瑞樹が持つボールを叩き落す一瞬を狙っていた。
 ボールを奪おうと伸びてくる手をかわし、左へとドリブルで抜け出る。イズミは、すかさずそれを追ってきた。
 足には自信があるのか、すぐに前に回りこみ、ゴールに進むのを阻む。その場で切り抜けるチャンスを待ちながらドリブルを続ける瑞樹のすぐ脇で、そのボールをカットすべく、せわしなく攻撃をしかけてきた。その目は、真剣そのものだ。

 何年ぶりになるのか分からない1オン1のゲームに没頭しながら、瑞樹は頭の片隅で、全く別のことを考えていた。
 思い出していたのは、今年の春まだ浅い頃―――遠く離れた国で数年ぶりにやった、フリースロー対決のことだった。


 瑞樹が1本決める毎に、悔しそうに歯噛みしていた、対戦相手。
 クール・ビューティーともてはやされる顔いっぱいに、まるで中高生の喧嘩みたいな剥き出しの闘争心を顕わにし、燃えるような目で瑞樹を睨み据えてきた、彼。

 ―――奏…。

 やはり、似ている。目の前にいるイズミを見て、瑞樹は改めてそう思った。
 勿論、奏とイズミでは、顔立ちがまるで違う。似ている要素は、ほとんどない。けれど…こうしてボールを持って対峙すると、こうした場面で剥き出しにされる闘争心やオーラが、驚くほど似ている。
 実を言えば、蕾夏がイズミを「奏に似ている」と言うよりはるか以前に、瑞樹は奏を「誰かに似ている」と思ったことが2度ほどあった。
 1度は、帰国間際。契約していたモデル・エージェントを解約してフリーになることを決意した奏が、その営業のための写真を瑞樹に撮って欲しい、と頼んで来た時。縋るような必死なその目を、どこかで見たな、と漠然と思った。
 そして、もう1度は―――どうしても抑えきれない怒りに駆られて、奏をこの手にかけた時。
 苦しさに目に涙を浮かべ、時折咳き込みながらも、奏は真っ直ぐに瑞樹の目を見返してきた。殺されて当然のことをした、ただもう一度蕾夏に謝りたい―――そう吐露する奏の場違いに真摯な目を、誰かに似ている、とあの時頭のどこかで思った。
 そして、蕾夏の一言で、その“誰か”がイズミであったことに気づいた。

 時田の代わりとしてなのか、それ以外の理由があるのか、表向きの反発的な態度とは裏腹に、いつも追いすがるような目を瑞樹に向けていた、奏。
 あの事件の前は勿論のこと、事件の後も完全には奏を憎みきれなかったのも、怒りに駆られながらも最後の最後で手を離したのも―――もしかしたら、イズミとよく似た、あの目のせいかもしれない。
 “瑞樹は、優しいよ”という蕾夏の言葉が、脳裏に浮かぶ。…確かに、そういう部分もあるのかもしれない。あまりにも真摯な目で追いすがられると、それを振りほどくだけの非情さを保つことができない。案外、俺も情に弱い人間だったんだな―――なんてことに気づいて、ちょっと苦笑した。

 ―――あいつなら…どう思うかな。
 目の前で、必死に食い下がるイズミを見下ろし、ふと思う。
 奏は、養父である淳也に深い愛情を感じながらも、実の父である時田に、強い渇望を覚えていた。父、という確固たる存在をちゃんと持っているにもかかわらず、時田を必要としていた。
 彼の中の“父親”は、どんなポジションだったのだろう?
 時田が実の父と分かったからといって、それまで淳也が占めていた場所に時田を据えた訳ではないだろう。奏の中で、淳也と時田は、どちらも別の意味合いでの“父親”として、矛盾せずに共存していた―――きっとそうに違いない。

 では、イズミの中の、“兄ちゃん”と“忍”は?
 そのどちらか一方でも、“父親”と重なり得るものだろうか?
 …いや。
 重なる必要など、そもそも、あるのだろうか―――…?


 「……っと!」
 ふいを突かれた。
 ドリブルをイズミの手がカットし、バスケットボールがあらぬ方向へと弾かれた。
 イズミがそれをすかさず取ろうとする。が、取り損ねてしまい、ボールはイズミの手の中で弾んで、零れ落ちた。あ、というイズミの短い叫び声が聞えた気がしたが―――瑞樹は反射的に、零れ落ちたボールへと片手を伸ばしていた。
 ぱしっ、という小気味良い音と共に、ボールは瑞樹の手のひらに収まった。
 バランスを崩したイズミの脇をすり抜けた瑞樹は、そのまま、あと2メートルにまで迫っていたゴール下へとボールを運び―――楽々と、シュートした。
 「―――ゲーム・セット」
 ゴールリングをくぐり抜けて落ちたボールをキャッチしつつ、瑞樹が宣告した。途端、既に完全に息があがってしまっていたイズミは、体力を使い果たしたかのように、その場にガクリと膝をついてしまった。
 地面に両手を突いたイズミは、声も出ないありさまのようだ。無理もない。チラリと時計を確認すれば、たっぷり15分間、一瞬たりとも休むことなく、このコートの中を動き回っていたのだから。
 「どうだ。頭、空っぽになったか?」
 片手にボールを持ったまま、空いた手をイズミに差し出す。
 ゼーゼーいいながらその手に掴まったイズミは、3回、がくがくと頷いた。と思ったら、力の抜けきった声で「…ズルい…」と言った。
 「ずるい?」
 なんだよそりゃ、と眉をひそめる瑞樹に、少し息が整うのを待って、イズミが悔しそうに、けれどやっぱり力の抜けた声で続けた。
 「…こんなデカい手しとったら、全然敵わへん。オレが両手でやっと受け取れるボール、兄ちゃんは片手で軽々やんか」
 「そりゃ、大人とガキの違いだから、仕方ねーよ」
 「……」
 ガキ、という単語に、イズミの眉がピクリと動く。が、反論はできないのだろう。面白くなさそうに手を振りほどくと、コート脇に置かれたベンチ代わりのコンクリートブロックにドサリと腰を下ろした。
 ―――ほんとに、笑えるほど、奏に似てるよな…こういうとこが。
 苦笑した瑞樹は、ボールを邪魔にならない所に放り出し、植え込みに置いておいたジャケットを掴んだ。そして、イズミの隣に同じように腰を下ろしたが、イズミはそれに文句は言わなかった。
 不貞腐れたような横顔を、暫し黙って眺めていた瑞樹は、小さく息をつくと、視線を前に向けた。
 「お前さっき、自分が一番、舞を守ってやらないといけない、って言ったよな」
 「…うん」
 「―――舞を守るには、もっと大きな手が要るぞ」
 その言葉に、イズミの表情が変わった。
 驚いたような、けれどどこか腑に落ちたような不思議な顔をして、イズミが瑞樹の横顔を凝視する。その視線を感じて、瑞樹もまた目をイズミの方に戻し、微かに笑みを見せた。
 「これ、お前にやる」
 手にしていたジャケットのポケットから引っ張り出したものを、瑞樹はイズミに差し出した。反射的にそれを受け取ったイズミは、不思議な表情のまま、それを見下ろした。
 最初は、それが何なのか、イズミには分からなかったようだ。が…暫し後には、分かったのだろう。それをじっと見つめていたイズミの表情が、だんだんと綻んできた。
 「―――忍の手や…」
 それは、写真展に出したあの両手のひらの写真を、サービスサイズに焼き直したものだった。
 「よく分かったな」
 「この前、運転してる時、大きな手やなぁってずっと隣で手ばっかり見ててん。だから、すぐ分かったのかもしれへん」
 「俺より大きな手してるもんな、あいつ」
 「うん」
 「…でも、あいつ、これでもまだ小さいって言ってた」
 その言葉に、写真を見つめていたイズミが、顔を上げた。
 その顔は、勿論、瑞樹の言う“小さい”が単純な手の大きさを言っているのではないと、ちゃんと悟っている。少し心配そうに眉を寄せ、恐る恐る、という風に口を開いた。
 「それって…母ちゃんを守るには、ってこと?」
 「いや。お前を守るには、ってこと」
 「―――…」
 動揺に、イズミの大きな瞳がグラグラと揺れた。焦ったようにあちこち視線が彷徨い、最後にはまた、手元の写真の上に落ちた。
 「け…けど、オレ、忍を兄ちゃんみたいには思えへんし…っ」
 あたふたと何度も写真を持ち直しながら、言い訳みたいにそう言うイズミに、思わず声をあげて笑ってしまいそうになる。それを何とか噛み殺して、瑞樹は軽く首を傾けた。
 「俺みたいに、って?」
 「つまり…」
 「つまり?」
 「……」
 落ち着かなかったイズミの手が、ピタリと止まった。
 目を上げたイズミは、暫し何かを考え込むような表情をしていた。そして再び瑞樹と目を合わせると、きっぱりとした口調で言った。
 「―――憧れの人、かな」
 「…憧れの人、か」
 「目標、でもいいし、将来なりたい自分、でもいいし。…オレが目指してる人」
 「…なるほど」
 瑞樹はそう相槌を打つと、組んだ膝の上に頬杖をつき、ニッ、と笑った。
 「だったら、それでいいんじゃねーの」
 「…えっ」
 「俺目指してる間は、そのままで。イズミん中の俺は、俺のまんまで構わないだろ」
 「…けど、忍は…」
 「“忍”は、“忍”だろ」
 「……」
 「俺の代わり、って思うから、混乱するんだよ」
 くすっと笑った瑞樹は、空いてる手で、不思議そうな目をしているイズミの頭をくしゃっと掻き混ぜた。
 「俺の代わりを“忍”が出来ないのと同じで、俺も“忍”の代わりは出来ない。だから、お前の中に俺と舞と自分の3人で固まってる形があるように、“忍”と舞とお前の3人にしか作れない、新しい形を作れば、それでいいんじゃねーの」
 「…忍と、オレと、母ちゃんで…?」
 「そう。それが、どういう形かは分かんねーけど」
 「…でも…オレ、もし忍が母ちゃんと結婚しても、忍のこと“父ちゃん”なんて呼べない気する…」
 「じゃあ、“忍”のまんまで、いいんじゃねーの」
 「忍のままで?」
 「法律で“父親”になったからって、生まれた時からいる“父親”と同じ存在になる訳ないだろ。だから、“忍”は“忍”で構わないんじゃない?」
 「……」
 「さっきお前、“忍”といるとホッとする、って言っただろ。俺といるとはしゃいでるお前が、ホッとできる場所―――それが、“忍”だ」

 “父親”でも、“兄ちゃんの代わり”でもない、“忍”という名前の存在。
 瑞樹を忘れるのでもなく、まだ知らない“父親”という枠に押し込めるのでもなく、ただ“忍”という存在を、自分の中に少しずつ作っていけば、それでいい。

 「分かるか?」
 瑞樹はもう一度イズミの頭を掻き混ぜ、確認するように、イズミの目を覗き込んだ。
 イズミの目は、もう動揺していなかった。
 ずっとずっと解けなかった問題が、スルリと解けてしまったみたいに―――晴れやかな、すっきりした目をしていた。
 「無理してでも兄ちゃんのこと忘れなアカン、て思ってたけど…違うんやね」
 「ああ」
 「今まで、兄ちゃんが母ちゃんの次に大事な人やったけど―――兄ちゃんと一緒にいた時間と同じだけ一緒にいたら、忍が母ちゃんの次になるかもしれへん」
 「…もっと早いかもな」
 だって、“忍”は、イズミの傍にいようとしてくれる人だから。
 そのことは、口にしなくても、イズミも分かったのだろう。照れたような笑みを見せたイズミは、大きく頷いた。

***

 結局、イズミにせがまれて、フリースロー対決までやる羽目になり―――もういい加減、荷物を預けている“I:M”の神戸事務所に戻らないとまずい時間になってしまった。
 「なあ、兄ちゃんって、どうやって背ぇ伸ばしたん?」
 校門まで見送りに出ながら、イズミは瑞樹を羨ましそうに見上げてそう訊ねた。が、問われた瑞樹は、首を傾げるしかない。
 「別に、何もしてねーからなぁ…」
 「中3から高1で10センチ伸びたって言ったやんか。何か秘策があったんと違うの?」
 「ねぇって。背なら、猫やんの方が高いだろ。猫やんに訊け」
 「忍は参考にならへんねん。中1でもう170だった奴に訊いても、何もならへん」
 「…あいつ、うちの学校にいたら、絶対バスケ部にスカウトされてたな」
 比較的背の低い1年生の多かった当時のバスケ部を思い出し、瑞樹はちょっと笑った。ヒョロヒョロと背の高い"猫柳"が、スポーツに見向きもしないで鉱石ラジオを組み立てていた姿が、容易に想像できるだけに。

 野球部の練習も終わったらしい。薄暗いグラウンドからは、まとまった掛け声や金属音は消えてしまっていた。すっかり静まり返ったグラウンドを横切った2人は、校門の前で立ち止まった。
 「じゃあな。舞に心配かける前に、早く家帰れよ」
 ポン、とイズミの頭に手を乗せて瑞樹がそう言うと、イズミはニッコリと笑った。
 「うん。…兄ちゃん、今日、ありがとう」
 「ああ」
 「母ちゃん幸せにするのを忍に任せると、オレの手が空いちゃうから、早いとこ姉ちゃんみたいな好みの彼女見つけることにするわ」
 ―――やっぱり好みなのかよ。
 少しムッとしたように目を眇めた瑞樹は、自分の手よりひと回り以上小さな両手を目の前にかざして見せるイズミの額を、ピン、と指で弾いた。
 「…バーカ。そういう相手は、守れるだけの手の大きさになるまで、現れねーんだよ」
 「ちぇっ」
 口を尖らせたイズミは、痛そうに額をさすったが、すぐに笑顔になった。
 「―――兄ちゃん、姉ちゃんと、いつかは結婚するん?」
 「…さあな」
 「オレ、兄ちゃんが新しい“家族”作るの、なんや嫌やな、って思ってたけど―――姉ちゃんが相手やったら、しゃーないって思える。って言うより、羨ましいわ」
 「…そうか」
 曖昧な笑みを返した瑞樹は、もう一度イズミの頭を軽く叩いた。
 「じゃあな」
 「うん」
 クルリと踵を返すと、イズミは軽やかな足取りで、校舎の方に向かって走り去った。その姿は、日の落ちかけたグラウンドの彼方へと、あっという間に吸い込まれていった。


 ―――“家族”…か。
 暫し、イズミが走り去った方角を眺めていた瑞樹は、イズミの最後の言葉を思い出し、複雑な心境になった。
 自分の望みは、一体、何だろう?
 蕾夏と“家族”になる―――なんだか、ピンとこない。そもそも“家族”が何なのか、いまだに瑞樹はよく分からないのだから。
 親友、恋人、仲間、同士―――夫婦。いろんな代名詞はあるけれど…蕾夏は、どれにも当てはまらない存在。それは多分、蕾夏にとっての瑞樹も、同じで。
 ただ――― 一緒にいたい存在。一時も離れていたくない存在。…そうとしか言いようがない。
 自由でいたい。法律からも、しがらみからも…過去、からも。何に縛られることもなく、全てから解き放たれた所で―――2人でいたい。
 でも、そのためには―――…。

 思わず、両手のひらを、あの写真と同じように広げてみる。

 ―――俺の手は、蕾夏を守れるだけの大きさがあるんだろうか。

 暮れかけた学校の片隅で、瑞樹はそんなことを考えながら、自分の手のひらを暫く見つめ続けた。


***


 『ふーん…そっか。瑞樹はイズミ君の中に、憧れの人としてずっと残るんだ』
 「…とか言いながら、将来はメカニックになる、とか言い出して、人生の目標も猫やんになる確率の方が高い気するけどな」
 『あはは、それもいいね』
 電話の向こうの蕾夏がそう言って笑った時、背後のガラス戸が開き、父が顔を覗かせた。
 「瑞樹」
 ベランダの手すりに頬杖をついていた瑞樹は、父のヒソヒソ声に気づき、振り向いた。
 風呂上りらしい父は、身振り手振りで「先に寝るぞ」と伝えていた。瑞樹は、携帯電話を握ったまま僅かに口元を綻ばせ、「おやすみ」と手振りで伝えておいた。
 『でも―――なんか、去年のこと、思い出しちゃった』
 カラリ、とガラス戸を瑞樹が閉めてる傍で、蕾夏がそんなことを言った。
 「去年?」
 『うん。ほら、翔子とゴタゴタした時、あったでしょ。あの時翔子、私が翔子や辻さんに向けてた愛情が瑞樹に向けられちゃうのが苦しかった、って言ってたの。で―――私、瑞樹がイズミ君に言ったのと似たこと、言ったの』
 「何て?」
 『私の中の翔子に対する愛情は、翔子のためだけのものだよ、って。だから、私が瑞樹を愛するようになったからって、翔子専用の愛情が瑞樹に流れていっちゃう訳じゃない。瑞樹に対しては瑞樹のためだけの愛情が、私の中にあるから、って。…それって、心の中の居場所と同じだよね』
 「…ああ。確かに、そうかもな」
 “愛情”を“想い”に変えれば、ほぼ同じ意味になるのかもしれない。結局、翔子の時の蕾夏と同じ結論に辿り着いたのか―――と思い、瑞樹は思わず苦笑した。
 「あれこれ悩む前に、お前に正解聞いといた方が、手っ取り早かったかもな」
 『あはは…そんなことないよ。イズミ君と1オン1やったりしたのも、きっと無駄なプロセスじゃないと思うもん』
 「俺は、相当疲れたけどな」
 『あ…そ、そうだ。撮影っ、大丈夫だった?』
 急に蕾夏の声が心配げになる。やっとそこに考えが及んだのか、と軽く片眉を上げた瑞樹は、本当に疲れたように手すりに寄りかかった。
 「滅茶苦茶、辛かった。一般公開前っつっても、プレス関係や市民でごった返してたからな。脚立、何度も倒されそうになりながらの撮影だった」
 『あ、そっか…神戸に住んでる人も招待されてるんだっけ。すっかり忘れてた―――お、お疲れ様です』
 「丁寧な労い、ありがとうございます」
 『う…ごめん。イズミ君の心配が先行しちゃってたもんだから…』
 「…バカ。冗談だよ」
 しゅんとする蕾夏に、つい小さく声をたてて笑うと、電話の向こうの声も可笑しそうにクスクスと笑った。

 笑い声が収まると、ふっと、互いの言葉が途切れた。
 時間にしたら、多分、ほんの数秒のこと。けれど―――その空白の時間に、何故か瑞樹の中に、会ってから言おうと思ってた言葉がふわりと浮かんできた。

 「―――蕾夏」
 『ん? なに?』
 「1年、経ったら…」
 言いかけて、一瞬、言いよどむ。少しの間逡巡した瑞樹は、もう一度、口を開いた。
 「…このまま帰国から1年間、無事に乗り切れたら、その時は―――無理するの、やめるか。お互い」
 『……』

 電話の向こうの気配が、少し、変わる。
 今、蕾夏がどんな顔をしているのか―――分かるような、分からないような、複雑な気分だ。わざわざ言うべきじゃなかったか、と少し後悔したが、その少し後、受話器から、茶化すような小さな笑い声が聞えた。
 『…瑞樹は、そんなに無理してるんだ?』
 「―――正直、かなり」
 『…そっか。私だけが無理してる訳じゃないんだから、って自分を励ましてたけど…先に言われるとは、思ってなかった』
 本気とも冗談ともつかないその言葉に、緊張に少し強張っていた肩から、すっと力が抜けた。蕾夏も同じことを考えていたと、はっきりと確認できたから。
 「悪かったな。お前ほど、強い奴じゃなくて」
 『あは…、私もゴメン。瑞樹ほど優しくなれなくて』
 お互い、冗談めかして、そんなことを言い合う。小声で笑い合って、それが収まった時―――蕾夏が、静かに言った。
 『帰国から1年、て言ったら…来年の6月だよね』
 「…ああ、そうだな」
 『それまでも、もっともっと――― 一緒にいよう?』
 「―――ああ」
 そう言って目を伏せた瑞樹の口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 

 蕾夏が音を失い、そして再び取り戻してから、1年経ったら。
 2人で歩いていく前に、1人でも歩けるだけの自信を取り戻すことができたら。

 その時は――― 一緒に暮らそう。

 それが、2人が決めた、言葉にはしない約束。


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