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outsider ―

 

 時田のスタジオに出かける前にメールチェックをした瑞樹は、1通のメールを読むや、固まってしまった。


 『成田様
  お疲れ様です。佐々木です。
  今、私は、じゃんけんで負けた結果、4人を代表する形でメールを書いてます。
  でも、ここで席を離れようと思います。この先、何が書かれても、私は一切責任は負いません。
  メールアドレスは私、佐々木佳那子ですが、私を恨まないで下さい。
  では、よろしく。
  -------------------------------------------------------------------------------------------------
  お疲れさん。元気でやってるか?
  こうしてメールしたのも、実は、今日面白いもんを見つけたからなんだが。
  会社の向かい側に、酒類を置いてるコンビニがオープンした話は前に書いたと思う。
  その店内に、今朝から、なんだか見覚えのある女の子のポスターが貼り出されたんだよ。
  「シーガル」っていうメーカーの「アイリッシュ・カクテル」って新商品のポスターなんだけど。
  俺達は、なーーーーーーーーんにも聞かされてないんだけど、あれが藤井さんだなんてこと、ないよな?
  でもって、あれを撮ったのが実はお前だ、なんていうオチも、まさか、ないよなぁ?
  昨日撮って、今日貼り出される、なんて話、ありえないしなぁ。メール1通寄こす時間はあった筈だし。
  …まあ。
  覚悟しとけ。
                                                久保田
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  奈々美でーす。メールって初めてです。
  会社の女の子達が、藤井さんの顔しっかり覚えてたみたいで、ポスター見て大騒ぎしてます。
  佳那子と2人で適当に誤魔化したけど、やっぱりあれって藤井さんよね?
  カズ君が、コンビニと交渉してポスターをゲットするって張り切ってます。入手したら、家に飾るね。
  -------------------------------------------------------------------------------------------------
  カズです。
  奈々美さんはこんな事書いてるけど、コンビニのおやじ、結構ケチみたい。
  それにオレ、今日、ポスター見て店内で大泣きしたから、あのおやじに反感持たれてるかも…。
  という訳で、そっちにあのポスター、大量に余ってないかな?
  着払いでいいから、あるだけ送ってくれると嬉しいです。
  あ、ついでに、成田と藤井さんのサインをどっかに入れてくれると、なお良。
  じゃあ、よろしく。』


 「―――…」
 「ねぇ、メールチェック終わった? 私もチェックしたいんだけど」
 出かける準備の終わった蕾夏が、瑞樹に声をかけた。が、ノートパソコンの画面を見たままフリーズしている瑞樹の様子に、思わず眉をひそめる。
 「…瑞樹? どうしたの?」
 顔を覗きこむように身を屈める蕾夏の腕を取ると、瑞樹は無言のまま、メールが表示されている画面を指差した。
 訝しげな表情でメールを読み始めた蕾夏は、内容を把握するや、目を丸くした。
 「え、えええ!? “シーガル”の発売日って4月じゃなかったの!? 3月ってまだ1週間も残ってるじゃんっ!」
 「…わかんねー…。発売早まったか、販促物がもう配られてるか」
 「そうなんだ…うっわー、やだなー…。私、会社の人達とか友達に全然知らせてないよ」
 辛うじて蕾夏の親には一応連絡は入れておいたが、それ以外には何一つ知らせていないのだ。無理もないだろう。あの撮影以降、撮ってしまった写真の行く末を心配するようなゆとりは、瑞樹にも蕾夏にもほとんど無かったのだから。
 かといって、メールでことの次第を書き連ねるのも難しい。瑞樹は、大きなため息をひとつつくと、半ば自棄になって、短い返信メールを書いた。

  『おかけになった電話番号は、現在使われておりません。帰国するまで大人しくお待ち下さい。』

***

 「うーん…大分絞れてはきてるねぇ…」
 パラパラと写真を次々にめくりながら、時田は眉間に皺を寄せた。
 時田が座る椅子の前に立ってそれをじっと見ている瑞樹と蕾夏は、子供の頃、職員室に呼び出された時の気分を、なんとなく思い出していた。
 「これは、建物のフォルムの美しさだけにスポットを当てた1枚だね。成田君、逆光得意だから、こういうのはすんなり1つに絞れるんだよな、うん。えー、これは、全体の佇まいかな。丘陵地の上にある古城ってムードがよく出てて、これも合格。…あー、これはまだ贅沢してるな。光と影のコントラストを撮るなら、手前の花はカット。綺麗だけど、あるとボケるよ。―――あぁ、遠景になると、まだ迷ってるなぁ。君はどれを感じ取らせたくて撮ったのかな、これは。これはやり直し」
 次から次へと批評を重ねながら、膝の上にぽいぽい写真を放り出していく時田の様を、2人ともひたすら黙って見ているしかない。批評してくれるようになったのは有難いが、質問を挟む隙もないのは、結構、困る。
 一通りの批評を終えると、時田は、膝の上に不揃いに放り出された写真をトントンと束ね、瑞樹に差し出した。
 「なかなかいい感じになってきてるよ。まだ遠景が危なっかしいけどね。気を抜くと、また“空気”とか“音”に神経が行ってるんじゃないかな?」
 「…確かに」
 「君は、目に見えるものより、見えないものの方をより敏感に感じ取るタイプかもしれないね。むしろ映像作家に向いてるのかもなぁ…。映画好きはその辺りに影響してるかな?」
 「8ミリや16ミリ回す気はないですよ」
 ちょっと睨むようにして瑞樹が言うと、時田は、冗談だよ、という風に声をたてて笑って立ち上がった。
 「じゃあ僕は、憂鬱な“ワーキング・ランチ”してくるよ。スタジオは好きに使ってていいよ」
 「わかりました」
 返事が少々、暗くなる。実はこの後、例のキャピキャピとうるさいモデル2名が、ポートフォリオ用の写真を撮りに来るのだ。
 時田は、日本から来ている出版社の担当者と、写真集の打ち合わせがてらのランチ。過去の経験から言って、3時間は帰ってこれないだろう。その間、本来の仕事ではないこの撮影に、スタジオを使わせてもらう訳だ。

 気が乗らないらしく、ぶつぶつ言いながら打ち合わせに出る時田を見送ると、それまでの疲れがどっと出てしまった。
 「言われると思ったんだよな、あの写真…」
 「うん…私もそう思ってた」
 椅子に座り込んだ瑞樹に合わせて、蕾夏も椅子を引っ張ってきて座った。
 「“10を感じて、1を撮る”は出来てるよね、ある程度。写真の用途に合わせてどの“1”を選べばいいのかは、まだ迷うけどさ」
 「まぁな。ただ―――どんな風景でも“10”感じられるとは限らねーもんなぁ…。それでも撮れって言われた場合、どうすりゃいいんだか…」
 「奏君を撮った時みたいな感じ?」
 「―――ああ、そう、あんな感じ」
 「んー…もう少し時間かかるのかなぁ…。もう残り2ヶ月切ってるけど、間に合うかなぁ…」
 小さなため息をついた蕾夏は、そう言って、立ちっぱなしで疲れた足を伸ばした。
 伸ばした足を軽く叩きながら、壁に掛かった時計をチラリと確認する。時計の針は、昼の12時少し前を指していた。
 「…もうすぐお昼だから、そろそろ来るかな」
 「時間にルーズでなけりゃな」
 飲みかけだったボルヴィックの蓋を捻りながら答える瑞樹に、蕾夏の目が、少し落ち着きをなくす。瑞樹の着ているシャツの胸ポケットあたりを見るともなしに見ていた蕾夏は、いささか唐突なことを口にした。
 「…私、ちょっとオフィス戻ろうかな」
 「は?」
 「ちょっと仕上げちゃいたい書類が、まだ残ってるから、この隙に」
 「おい」
 腰を浮かせかける蕾夏の腕を、怪訝な顔をした瑞樹が引っ張る。蕾夏はまたストンと椅子に座ってしまった。
 「冗談だろ。なんで俺が1人であいつら撮らなきゃならねーんだよ」
 「う…、だ、だから書類が」
 「んなもん後でやれ」
 「でも、」
 「蕾夏」
 じっ、と真正面から瑞樹に見据えられると、もう言葉は出てこない。蕾夏は口を噤むと、諦めたように椅子に深く腰掛け直した。
 「今度はどんな余計なこと考えてんだよ、え?」
 「……」
 「まさかあいつら、お前に何か」
 「ち、違う違う、そんなんじゃないよ」
 “VITT”のショーの時、蕾夏を刺すような視線で見ていた2人を思い出して、彼女達が蕾夏に傷つけるようなことを言うなりするなりしたと思ったらしい。一瞬、殺気を帯びて細められた瑞樹の目に、蕾夏は慌ててそれを否定した。
 「違うの。ただ…ちょっと、私が変なだけで」
 「変??」
 まだじっと見据えている瑞樹の視線から逃れるように俯くと、蕾夏は、小さな声で呟くように答えた。
 「―――瑞樹が、私以外の女の子撮るの見るのが、辛くて」
 少し怒ったようだった瑞樹の目が、え? という風に丸くなる。
 「カレン撮った時も、もう耐えられなくて、思わず廊下出ちゃって…、バカみたいって自分でも思うんだけど」
 「…いや…バカみたいって言うか…」
 片手で蕾夏の腕を掴み、片手でボルヴィックのペットボトルを掴んだまま、瑞樹は、蕾夏のセリフを頭の中で何度か復唱してみた。が、結局、何も浮かんでこなくて。
 「…なんで?」
 それしか、出てこなかった。
 「―――だって…想像したら、嫌だったんだもの」
 「何を」
 「瑞樹が、その―――私のこと撮る時みたいな目で、他の女の子をファインダー越しに見てるのかな、って思うと…」
 「―――…」
 どんどん声が小さくなっていく蕾夏を、瑞樹は唖然とした顔で眺めていた。
 が、俯いている頬がだんだん赤く染まっていくのを見て、思わず吹き出してしまった。
 「わ…笑うことないじゃんっ! これでも私、結構真剣に…っ」
 顔を上げ、憤慨したようにますます顔を赤らめる様子に、瑞樹は蕾夏の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜるように撫でた。
 「お…前、って、ほんと、面白い」
 「もーっ! また面白いって言うっ!」
 瑞樹は、撫でていた頭を引き寄せると、まだ真っ赤に染まっている蕾夏の頬に軽く唇を押し付けた。不意打ちな行動に、蕾夏の心臓が一瞬止まる。
 憤慨の勢いがそがれた蕾夏は、ちょっと恨めしそうな目で瑞樹を見た。瑞樹はやっと笑うのをやめてはくれたが、まだ肩が笑いを噛み殺しているみたいに揺れている。
 「バカだよなぁ…お前に向ける目と、他のモデルに向ける目が、同じな訳ねーじゃん」
 「そ…んなの、わかんないじゃん。そりゃ、日頃はそうかもしれないけど―――写真撮る時は、日頃とはまた別だろうし」
 「疑うんなら、今日、後ろからじゃなく、モデルの横辺りで見てみろよ。全然違うから」
 「…うん、そうする」
 「って疑ってんのかよ」
 「ううん。でも、目で見て納得しないと嫌だから」
 拗ねたように口を尖らせた蕾夏は、そう言うと、自己嫌悪に陥ったみたいにうな垂れて、大きなため息をついた。
 「―――もー…、ごめんね。馬鹿みたいなことでこんな風に浮いたり沈んだりして」
 「馬鹿みたいなことで、逆に良かった」
 「でも、瑞樹がポートレートのトラウマ克服できたんだから、本当はもの凄く嬉しい筈なのに…」
 「…いや。まだ、克服してない」
 瑞樹がそう言うと、蕾夏は驚いたように顔を上げ、眉をひそめた。
 「…え? でも…ちゃんと、撮れてたじゃない。カレンのこと。視線も合ってたよね」
 「まぁな。でも、多分―――まだ、本当の意味では克服してない。ただ、まがりなりにも撮るためのコツを掴んだだけで」
 「コツ?」
 「蕾夏探しながら撮ったんだよ」
 思ってもみなかった答えに、蕾夏の目が、大きく見開かれた。

***

 「Pose as you like. I'll take photos as I like. OK?(好きに動いて。こっちも適当に撮るから)
 フィルムをカメラにセットしながら瑞樹がそう言うと、名前もよく知らないカレンのモデル仲間は、その綺麗に整えられた眉を、怒ったようにつり上げた。
 「Karen said you know English very little. Did you deceive us!?(ほとんど英語がわからないってカレンから聞いてたのに。あたし達をかついだの!?)
 「蕾夏。喋れるけどヒアリングできねーって言っといて」
 ホリゾント横に立っていた蕾夏は、むしろ事実とは逆な瑞樹の言葉にクスクス笑い、腰に手を当てて憤慨しているモデルに、瑞樹に言われた通りのことを伝えた。
 事実、このモデルの英語は、声があまりにもキンキンと甲高いので、非常に聞き取り難い。人がせっかく集中しようとしてるのに乱しやがって―――パチン、とカメラの裏蓋を閉めた瑞樹は、小さく息を吐き出し、手にした一眼レフのファインダーをじっと見据えた。

 こんな方法、本当は間違っていると思う。
 本来ならば、そのモデルそのものの魅力を引き出してやるのが、カメラマンの役目の筈。ちょうど、“人形”状態の奏の中に、必死に“人間”の一宮 奏を見つけようとしたように。
 けれど―――蕾夏以外とファインダー越しに視線を合わせられる自信のない今の瑞樹は、まだそこまでできない。…特に、母と同じ“女性”を被写体にした場合は。
 だから、瑞樹は、“蕾夏”を撮る。
 本能が、瑞樹の目が、唯一追い求めてしまう被写体―――蕾夏。彼女の欠片を、モデルの中に探しながら、撮る。

 軽く深呼吸をした瑞樹は、カメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。
 フレームの中央に、ヒョロリと背の高い女性が浮かび上がる。赤毛に近いショートヘアに、キツい目つき。直線的な体つきからしても、女っぽさで売っているカレンとは逆の路線のモデルだろう。
 ピントが合った瞬間、ファインダー越しに、モデルと目が合った。
 一瞬、体が硬直しかけ、冷たいものが背中を這い上がっていく。それが全身を侵食してしまう前に、瑞樹はファインダーの中の女性の姿の中に、撮りたいものが隠れていないか探し始めた。
 表情に、仕草に、体のあちこちのパーツの僅かな動きに、神経を集中させ、探す。
 そこに、蕾夏がいないかどうか。
 やがて、モデルが俯いて目を伏せ気味にした瞬間に、瑞樹は反射的にシャッターを切った。何故切ったのか、頭ではわかっていない。ただ、センサーが働いただけ―――蕾夏を探し出すセンサーが。
 きっと、目や脳ではわからないほど、僅かな類似点。瑞樹の本能は、それを察知する。瑞樹はそれに従って、シャッターボタンを押していった。


 一気に24枚撮りフィルム1本撮り終え、瑞樹はやっとファインダーから目を外した。
 「…Finish?(終わったの?)
 モデルの甲高い声が確認してくる。瑞樹は、巻き取ったフィルムを抜き取ると、それをモデルに放ってやることで、それに答えた。
 幸運のフィルムだとはしゃぐモデルと、次は自分の番だと騒ぐもう1人のモデルを無視して、瑞樹は、ライトの傍に立つ蕾夏の方に目を向けた。
 「―――感想は?」
 ニッ、と笑って声をかけると、蕾夏は、まるで夢から覚めたみたいに数度瞬きすると、やっと焦点の合った目を瑞樹に向けた。
 「お前以外を撮ってる俺は、どんな目してた?」
 瑞樹の問いかけに、蕾夏は、声には出さず唇の動きだけで『ゴメンネ』と言うと、柔らかくフワリと笑った。

***

 3月も今日で終わりという金曜日、瑞樹と蕾夏は、平日にもかかわらず、揃って休みを取らされた。
 時田の知人がスコットランドで結婚式を行うそうで、時田は前日から、スコットランド西部の町・グラスゴーまで移動しなくてはならないらしい。
 「あら、休みなの? なら、ちょっとうちの高校来てくれない?」
 平日に休みだと聞くや否や、千里がそう言って、2人を自分が勤める高校へと引っ張って行った。
 何事かと思ってついて行った2人を待っていたのは―――予想もしない撮影現場だった。


 「あー、畜生、追いつかねーよ」
 右へ左へともの凄いスピードで移動する選手達をカメラで追いながら、瑞樹は思わず愚痴ってしまった。
 校庭に作られたバスケットコートでは、今、この高校の男子生徒が紅白戦をやっている。千里曰く、彼らは、日頃千里が悩みなどを聞いている少々問題を抱えた生徒達だそうで、鬱積しているストレスや衝動を解消するために、金曜日の午後にこうしてまとまってスポーツをさせているのだという。
 今度、各学校のスクールカウンセラーが集まる会合で、この活動の様子を資料に盛り込むので、それに使う写真を瑞樹に撮ってもらいたい―――それが、千里の依頼だった。
 引き受けてはみたものの、これが結構難しい。
 バスケ部の試合、という訳ではないが、結構体力のありそうな現役男子高校生の試合は、ドリブルのスピードが半端ではなく、シャッターチャンスを逃さずキャッチするのは至難の業だった。元々、スポーツカメラマンというジャンルだけは、どういう訳か念頭にない瑞樹なので、こうした試合を撮るのは初めてなのだ。
 「スポーツカメラマンて大変だねぇ…」
 感心したように蕾夏が呟くと、瑞樹もそれに同意して、ちょっとため息をついた。
 「サッカーの試合なんて、もっと大変らしいぜ。サッカー担当のカメラマン、日光の猿山で猿をカメラで追いかけて練習するらしいから」
 「ひえー、ほんとに? でも、確かに、サッカーってもっと広いコートだし、攻守がすぐ切り替わるから、動きを追うの大変そうだよね」

 結局、試合開始から終了までで、24枚撮りフィルムを2本消化した。果たして目的通りの写真が撮れているのやら、少々疑問だ。
 「ありがとー。助かっちゃったわ。ごめんね、休みだったのに、こんな疲れる撮影させて」
 「…まあ、安く住まわせてもらってるお礼に」
 嬉々としてフィルムを受け取る千里に、瑞樹と蕾夏は、ちょっと力のない笑顔を返した。
 「何かおごってあげたいところだけど…まだこの後、ミーティングだ何だと時間かかっちゃうから、今晩の夕飯ででもお返しをするから、期待しててね」
 パチン、とウィンクした千里だったが、ふと、瑞樹と蕾夏の背後に目をやると、途端に不満げな表情になった。
 「おーそーい! 何してたの、全く!」
 誰か遅れてきたらしいな、と振り返った2人は、そこに奏の姿を見つけて、少なからず驚いた。
 が、驚いているという意味では、奏の方が、2人の何倍も驚いていた。後姿だけで、もう気づいていたのだろう。何故お前達がここに、という顔で、その場で固まってしまっている。
 「どうして奏君が??」
 蕾夏が訊ねると、千里は、まだ遅刻してきた息子に憤慨しているように口を尖らせたまま答えた。
 「奏は、うちの高校の卒業生で、元バスケ部なのよ。前に1度、指導兼ねてプレイに参加してもらったんだけど、今日も、ちょっとチームを乱しそうな子が何人か参加するのがわかってたから、奏に入ってもらって上手く取り成してもらう予定だったの。なのに…全部終わってから来るなんて。全く意味ないじゃないの」
 「…午前の撮影が遅れたんだよっ」
 不貞腐れたように顔を顰めると、奏はやっとフリーズ状態を解除し、2人のすぐ傍まで歩み寄った。
 「第一これ、ボランティアだろ? オレは仕事で遅れたんだからな」
 「はいはい、そうね。ゆっくり話もしたいところだけど、もうミーティング始まるから、続きは瑞樹と蕾夏に愚痴って頂戴ね」
 実際、もう時間が迫っているらしく、千里は早口にそう言うと、瑞樹と蕾夏に「じゃ、お疲れさま」と言い残して、校舎の方へと足早に去ってしまった。文句だけ言われて捨て置かれた形になった奏は、そんな千里を見送りながら、深い深いため息をついた。
 「まーったく…いつもあれだからなあ、あの人は」
 「マイペースだよね、千里さんて」
 クスクス笑う蕾夏を見て、奏は居心地が悪そうに視線を逸らした。
 「…昔っから、自分のペースでしか動かない人だったから、今更だけど」
 「の割りに、案外お前、千里さんに弱いな」
 軽く笑いを含んだ瑞樹の声に、奏は眉を顰めて視線を向けた。
 「なんだよそれ」
 「連絡1本で、やる義理もない“ボランティア”を買って出るんだから、強い訳ねーだろ」
 「……」
 言い返せない部分があったのだろう。奏は面白くなさそうにジロリと瑞樹を睨み、またそっぽを向いた。その表情が、拗ねてしまったやんちゃな子供みたいで、蕾夏は余計クスクス笑った。
 が、ふと、さっきまで千里がいたベンチの上に、ボールペンとバインダーが置かれているのに気づいてしまい、蕾夏は笑うのをピタリとやめた。
 「やだ、千里さんてば、忘れていってる」
 眉をちょっと寄せた蕾夏は、それらを拾い上げると、中腰姿勢のまま瑞樹と奏を仰ぎ見た。
 「私、ちょっと届けてくるね。この辺で待ってて」
 「場所は?」
 「大丈夫、さっき一緒に、名簿取りに行ったから」
 言うが早いか、蕾夏はバインダーとボールペンを手に、校舎の方へと走っていった。
 自分が行った方が良かったかな、と瑞樹は一瞬思ったが、そうなるとこの人気のなくなった校庭に蕾夏を奏と2人きりにしてしまうことに気づき、それはまずい、と考えを訂正した。
 蕾夏が当初抱いていた「佐野君に似たところがあって、怖い」という印象は、結構考えが顔に出やすい奏の様子に、最近では大分薄まったようではある。が、奏に対してどことなく“危険”を感じるのは、今も変わらない事実だ。
 蕾夏も、瑞樹が何か予感しているのを察知しているらしく、瑞樹の目の届く範囲以外では奏と2人きりになるのを避けている節がある。もっとも、その“危険”の具体的な内容は、いまだ曖昧なままだけれど。

 「…あーあ。久しぶりにコートで暴れようと思ったのに」
 瑞樹と2人きり、というのが気まずいのか、奏はそんなことを呟きながら俯き、スニーカーの踵で地面をガツガツと蹴った。
 そんな奏の仕草が、まるで構って欲しくて注意を引こうとしている子供みたいに見えて、瑞樹は密かに苦笑した。
 「昔の仲間に連絡とって、練習試合でもするかなぁ…。あんたは、やっぱりずっと写真部?」
 「いや。高2の時、先輩が作るまで、写真部なかったから」
 「じゃあ何やってたんだよ」
 「バスケ」
 地面を蹴っていた奏の足が、ピタリと止まった。
 ぱっと顔を上げた奏は、涼しい顔でカメラをデイパックに仕舞っている瑞樹の横顔を凝視した。
 「あんた、元バスケ部?」
 「一応な」
 「ポジションは?」
 「中3ときは、ポイントガード。高1は幽霊部員だったから、忘れた」
 「げ…司令塔!? 背ぇ高いから、センターかと思った」
 「高1で伸びたからな」
 そっけなく答える瑞樹の様子を、奏は少しの間、何か考えをめぐらすような目をして見つめていた。その視線を感じた瑞樹は、デイパックのファスナーを閉めると同時に、目を上げた。
 「…何」
 瑞樹がちょっと眉をひそめるようにすると、奏は、一度唾を飲み込み、それから少し硬い声で告げた。
 「―――今から、ちょっと暴れたいから、相手してくれよ」
 「は?」
 「バスケが得意ならさ。勝負してくれよ、フリースロー」
 「…なんでまた」
 ちょっと呆れたような声を出す瑞樹に、奏は、平静を装うようにGパンのポケットに両手を突っ込むと、半ば睨むようにして瑞樹を見据えた。
 「5本ずつシュートして、もしオレが勝ったら―――この後2、3時間、あいつ貸して」
 「―――…」
 “あいつ”、が誰を指しているのかは、わざわざ確認するまでもない。
 ―――いよいよ、動き出したって訳か。
 瑞樹は、しばし黙って、静かに奏の目を見返し続けた。目を逸らすようなら、相手にするまでもないな、と思いながら。が、奏は目を逸らさなかった。思いのほか、肝が据わっているらしい。
 「―――それ、“宣戦布告”って取っていい訳?」
 軽く首を傾け、瑞樹はふっと口元だけで笑って、そう訊ねた。
 奏は、一度唇をきつく引き結んだ後、瑞樹の視線に負けまいとするように、少し眼光を鋭くした。
 「…いつまでも“部外者”の立場に甘んじる気はない」
 「―――その面構えの方が、“Frosty Beauty”より、よっぽど絵になる」
 そのセリフに、奏の表情が僅かに動揺を示すのを見て、瑞樹は内心苦笑しながら、地面に転がっていたバスケットボールを拾い上げた。
 「貸すのはいいけど、あいつ傷つけたら、俺に殺される覚悟しとけよ」
 「…あんたが勝ったら?」
 「即退場」
 「それだけでいいのかよ」
 「賭けに勝っても、欲しいもんなんてねぇよ。蕾夏以外は」
 闘争心を刺激されたようににわかに頬を紅潮させる奏に、瑞樹はボールをパスし、ニヤリと笑った。
 「―――いいぜ。売られた喧嘩、買ってやるよ」


***

 ―――まずいなぁ、結構待たせちゃったかも…。
 ミーティングに参加してみないか、という千里の誘いを困ったような笑顔で断った蕾夏は、ちょっと焦りを覚えながら、校舎を出て、校庭を走って突っ切った。
 瑞樹と奏が2人きりになったことなど、これまであっただろうか。別に仲たがいしている雰囲気はないが、なんだか、あの2人を頭の中で並べて想像すると、仲睦まじく会話しているところが思い浮かばない。嫌な予感の方が、格段に多い。
 息を切らして、校庭の隅にあるバスケットコートへと駆けて行く蕾夏の目に、まだ遠目ではあるが、これからシュートをしようとバスケットゴールに狙いを定めている奏の姿が飛び込んできた。
 シュート練習でもしてるのかな、と思いつつ、ちょっと走る速度を緩める。普通に声をかければすぐに声が届く位の距離まで来た時、ボールは奏の手を離れ、ゴールリングの中へと吸い込まれていった。
 「…うわー、上手だね、やっぱり」
 感心したような声を蕾夏が上げると、シュートし終えた奏が、ぎょっとしたような顔を蕾夏に向けた。
 「? どうかした?」
 「い…っ、いや、別に」
 何故か慌てたような口調でそう言った奏は、まだ小さなバウンドを繰り返しているボールを拾い上げると、それを瑞樹に放ってよこした。
 「―――4−3」
 ぶっきら棒な奏のカウントコールに、瑞樹は黙ってボールを受け取ると、奏と入れ替わりにフリースローラインに立った。その一連の動きで、どうやらフリースロー勝負をしているらしいことを、蕾夏も察した。なんだか空気がピンと張り詰めているような気がして、蕾夏はそれ以上声をかけるのをやめて、奏からも離れた場所で勝負の行方を見守ることにした。
 瑞樹は、すぐにはシュートせずに、何度かその場でドリブルをしていたが、やがて集中力が高まったのか、弾ませたボールを両手で掴み、ゴールを見据えた。
 極自然な感じでボールを構え、放つ。風にふわりと靡いたダークグレーの髪が、柔らかなフォームとあいまって、やたらと綺麗に見えた。
 撮りたいなぁ、と思ってしまう自分が可笑しい。自分は写真を撮る立場ではないのに…何故か、そんな風に思ってしまう。
 放たれたボールは、綺麗な放物線を描いたかと思うと、ボードに当たりもせずに、リングの中に吸い込まれた。
 ―――うわ、瑞樹、上手いじゃん。
 ちょっと驚いた。
 「4−4」
 「…あんた、ほんとにポイントガードだったのかよ?」
 疑うような声をあげる奏に、瑞樹はボールをパスしながら、ニッと笑ってみせた。
 「3年は、な。2年の時はシューティングガードだった」
 「くっそー…、詐欺だ」
 「高校3年間シューティングガードやってた事黙ってた奴に、詐欺とか言われたくねーよ」
 バスケットのポジション名などわからない蕾夏は、瑞樹と奏の会話がさっぱり理解できない。キョトンとしている蕾夏をよそに、奏は、少し紅潮した顔でボールを受け取ると、瑞樹と交代してフリースローラインに立った。
 落ち着こうとするように何度か深呼吸を繰り返した奏は、再びボールを構えると、今回も綺麗なフォームでボールを放った。
 が、やっぱりどこか、動揺している部分があったのだろうか。ボールは、バックボードにぶつかったかと思うと、ゴールリングの縁を掠めながら、リングの外側に落ちた。
 思わず舌打ちした奏は、苛立ったような足取りでボールを取りに行き、「4−4!」と自棄になったような声でコールした。掴んだボールを、手加減なしのスピードで瑞樹にパスする。
 「これで俺が外したらどうなるんだ?」
 「あとはサドンデスだろ。どっちかが潰れるまでやる」
 「冗談だろ。んな面倒なこと誰がやるか」
 「引き分けなんて面白くもなんともないだろ。あんたが降りるって言うんなら、オレの勝ちにさせてもらうからな」
 むきになって声を荒げる奏に、瑞樹は、しょうがない奴、という目を向けた。
 またフリースローラインに立った瑞樹は、ちょっとため息をつくと、今度は大した間合いも置かずに、さっさとボールを放った。
 放物線を描く、なんて優雅さはない。ボールは、かなりの勢いでバックボードに叩きつけられると、ザッという音を立ててゴールリングの中に叩き込まれた。
 ―――う…うっわー、かっこいいー…!
 女子高生でもあるまいし、と自分で自分に突っ込みを入れたくなるが、さすがに胸がドキドキしてしまう。学生時代にこういうのを経験してこなかっただけに、当たり前の反応の筈なのに、妙な焦りや恥ずかしさを感じてしまう。蕾夏は、急に熱くなった頬に両手を押し当て、ドキドキうるさい心臓を心の中で詰った。
 「―――4−5。ゲームセット」
 死刑宣告のような瑞樹のコールに、奏は、地面に落ちていた小ぶりな石を思い切り蹴った。ほぼ金色な髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜるほどに苛立っている奏に、瑞樹は苦笑いとともにボールをパスした。
 「残念だったな」
 「…うっせーよ。即退場だろ。わかってる。邪魔者は消えてやるって」
 大きなため息をついた奏は、チラリ、と蕾夏の方を見ると、手にしたボールを軽く蕾夏に放った。慌ててそれをキャッチした蕾夏は、何故奏がこんな恨めしそうな目をして自分を見るのか、その理由がよくわからなかった。
 奏は、ちょっとずれてしまったパーカーの裾などを軽く直すと、瑞樹に目を向けた。涼しげな瑞樹の表情に、余計奏の表情が悔しげになる。
 「―――確かにオレは、“部外者(アウトサイダー)”だけど」
 いつもより低めの奏の声は、なんだか危険なものが内包されている予感を、蕾夏に覚えさせた。思わず体が強張る。
 「覚えとけよな。アウトサイダーって単語には“ダークホース”って意味もあるんだから」
 「…野心のある奴は、嫌いじゃない」
 ニヤリ、と瑞樹が笑う。奏は、それに少し動揺したように視線を彷徨わせかけたが、唇を噛むと、くるっと踵を返した。
 異常なまでに悔しがっている奏の後姿を見送りつつ、蕾夏は、強張っていた体から、少しずつ力を抜いていった。

 ―――なんで、だろう。
 なんか、やっぱり、怖い。
 佐野君と奏君は、全然違う。佐野君は、何考えてるのか全然わからなくて、冷たくて、鋭くて、どこに彼を爆発させてしまう導火線があるのか見えなくて―――怖かった。奏君も、最初はそう見えたけど、今は違うってわかる。奏君は、わかりやすい…感情の起伏が。
 なのに。
 なんで、こんな風に、怖い気がするんだろう。

 「蕾夏」
 かなり離れていた筈の瑞樹が、いつの間にか目の前にいて、声をかけた。はっと我に返った蕾夏の手から、バスケットボールが転がり落ちた。
 「どうかしたか?」
 「う…ん、…なんか、奏君、随分悔しがってたみたいだけど―――何か賭けでもやってたの?」
 「ん? ああ、まぁな」
 「何?」
 「秘密」
 瑞樹はクスリと笑うと、蕾夏の黒髪をくるくると指に髪を絡めた。慣れた仕草なのに、なんだかまた鼓動が速くなってしまう。
 「…なんか、凄く綺麗でカッコよかった。瑞樹のフリースロー」
 「そうか?」
 「でも、もう10年以上ブランク空いてるのに、よく決まったね」
 「つい今しがたまで試合見てて、無意識のうちにイメージトレーニングできてたからな。それに、大学の頃、同期の連中とたまーにやってたし」
 「そうなんだ」
 「…でも、あそこで蕾夏が来なかったら、サドンデスになってたかもしれない」
 「え?」

 奏は、好きな女の前で恥はかけない、と気負ってしまって、自滅するタイプ。
 瑞樹は、好きな女の前だからこそ、エンジンがかかって本領を発揮できるタイプ。

 ―――もっとも、そんなことを蕾夏に教える筈もない。瑞樹はただちょっと苦笑して「なんでもない」と言っただけだった。
 「それよりお前、これから行きたいとこ、ある?」
 「瑞樹は?」
 「特には。何もないなら、その辺適当に撮ってくかな、って程度で」
 蕾夏は、肩の上辺りで、髪が瑞樹の指にくるんと絡められたり解かれたりするのを感じながら、少し考えこんだ。心臓のドキドキは、少しはましにはなったが、まだ完全には治まっていなかった。

 ―――なんか、私って、つくづく順番が逆だよなぁ…。瑞樹と“親友”だけだった頃は、こんな種類のドキドキ、経験したことなかったもの。
 普通、逆だよね。かっこいいー、素敵ー、って胸をときめかせるのが先で、付き合い始めると、そういうのが減ってく方が一般的。第一、憧れの人とか見てドキドキするなんて体験、もうとっくに体験してて当たり前なのに、よく考えたら私、そんな体験て全然したことないよ。中学も高校も大学も、そもそも「憧れの人」がいなかったし。
 …なんか、ちょっと、ショック。
 中高生でも体験してて当然のことを、こんな年齢になって初めて体験してるなんて。

 「? そんなに考え込むことか?」
 ちょっと眉を寄せるようにして考え込んでいる蕾夏に、瑞樹までもが眉を寄せてしまう。
 すると蕾夏は、ちょっと目を上げ、言い難そうに告げた。
 「―――デートがしたい、かな」
 瑞樹の手が、止まる。指に絡めていた癖のない髪が、するりと蕾夏の肩に落ちた。
 「…は!?」
 「パブでお茶して、運河沿いでものんびり散歩して…あ、手を繋いでウィンドウショッピングもいいなー…」
 「―――蕾夏? もしかして、熱でもあるか?」
 「ないよ?」
 あるのかも、しれないけど―――そう思ったが、それは黙っておいた。
 そんな蕾夏を訝しげに見下ろしていた瑞樹だったが、やがて、小さく息をつくと、苦笑とともに蕾夏の肩に手を回した。
 「…まぁ、確かに、たまにはそういう“デートっぽいデート”も悪くないか」
 「でしょ?」
 にこっと笑う蕾夏に、瑞樹も、久々に映画を観に行くのもいいな、なんてことを思い始めた。

 知らない土地で、知り合いがほとんどいない町で、慣れないことに日夜明け暮れて。
 考えてみれば、そんな風に、自覚のない緊張感に常にさらされていた4ヶ月あまりだった。

 だから、まあ、たまには。
 写真のことも、将来のことも忘れて、ただ「楽しむ」ために2人で一緒にいる日があっても、悪くはないのかもしれない。


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