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03 : BORDER LINE (3)

 サインペンを手にカレンダーとにらめっこしていた慎二は、背後を透子が通ったのに気づき、くるりと振り向いた。
 「あ、透子」
 ピタリ、と透子の足が止まる。キョトン、と、大きな目を見開いた透子は、軽く首を傾げて「何?」と訊いてきた。
 「今度の土日、ギャラリーも教室も休みにするけど、どっか行く?」
 「えっ」
 「ゴールデンウィーク、ほとんど遊べなかったし。土日なら、中間試験も終わってるだろ? 泊まりは今更無理だけど、日帰りなら」
 途端、パッと表情が明るくなり、目がキラキラし始める。分かりやすい。どこか行きたい所があるのだろう。
 「あっ、あのね。それやったら―――…」
 大喜びで口を開いた透子だったが、次の瞬間、しまった、という顔をして慌てて口を両手で覆った。続けようとした言葉が、透子の手のひらに遮られてくぐもった音となって漏れる。
 「え、何?」
 「…な…なんでも、ない、です」
 「は?」
 「せっかく広島、近い、から、宮島とか行きたい、かなー」
 「……」
 もの凄く、不自然な喋り方。
 ―――もの凄く、挙動不審。
 「…透子。何かヘンなもんでも食った?」
 「―――…」
 ふるふる、と首を横に振った透子は、そのまま何も言わず、鞄を抱きかかえるようにして玄関に走って行ってしまった。そんな透子とすれ違うようにしながら、先生が居間に入ってきた。
 「なんだ、透子は。今日はえらく急いで登校するなぁ」
 「……」
 「ん? 工藤、どうした」
 「…うーん…反抗期かな…」
 「反抗期??」
 要領を得ない顔をする先生にも気づかず、慎二はサインペンのキャップを外し、土曜と日曜の空欄に「宮島」と書き入れた。オレ、何かしたかなぁ? と内心首を傾げながら。

***

 「―――だから、このカッコを取ると、カッコの外についてた二乗が、こっちにもこっちにもくっついて…」
 「…ああー! そうか! こうだよな」
 「そうそう、それでOK」
 「うわー、俺、なんでこんな簡単なことが分からなかったんだろう! 俺ってバカかも」
 「え、自分で分かってへんかったの」
 直後、バシッ、という音を立てて、透子の頭に荘太の手元にあった教科書が振り下ろされた。
 「いったーいっ」
 「…“分かってへんかった”じゃないだろ。“分かってなかった”!」
 荘太の指摘に、透子は今朝やったのと同じように、慌てて口を手で覆った。
 「何も叩かなくても…」
 前の席で、透子が荘太に数学を教えているのを見ていた真奈美が、そう言って眉をひそめた。かく言う真奈美は真奈美で、古坂に数学を教えている。午後の数学の試験に備えて、男2人が最後の悪あがきをしている訳だ。
 「いいんだよ。透子の希望でやってるんだから。だよな? 透子」
 「…うう…そうです」
 「まぁったく―――変な奴だよなぁ。一体何のためにこんなことしてるんだか…」
 呆れ顔の荘太に、透子は何も言い返せない。悔しいので、更に難しい問題を問題集から選び出して「はい、これ解いて」と突きつけてやった。

 

 きっかけは、ゴールデンウィークに突入する少し前。はるかが働くデパートの婦人服売り場に行き、はるかが接客しているシーンを見たことだった。
 家庭的なはるかが仕事をしているシーンなどイメージが湧かなかったが、実際に目にすると―――ちょっと、驚いた。
 柔和な笑みで客に商品を勧め、試着した服を褒め、時には世間話に乗り、客が嫌味に感じない程度のタイミングで、客が広げたままにしてしまった商品を素早く畳む―――そんなことを当然のようにこなしていくはるかは、いつものはるかとは別人のように見えた。
 カッコイイ、なんて、はるかにはそぐわない単語が口をついて出てきてしまう。今もバイトを探している最中の透子は、できればファーストフードなどの接客業がしたいと思っている。だから余計に、巧みな接客をするはるかが、とても格好良く見えた。
 そして、1つ、気づいたこと。
 尾道生まれ、尾道育ちのはるかなのに、はるかは常に標準語を話している、ということ。

 「ああ…方言は、就職を機になるべく出さないように日頃から気をつけてるの。デパートの販売担当の研修も、全部標準語でやらされたし」
 接客の合間に透子が訊ねると、はるかは、ちょっと恥ずかしそうにしながらそう答えた。
 「でもね。方言は直っても、イントネーションはやっぱり“西”なのよねぇ」
 「そうかなぁ。私には標準語に聞こえるけど…。真奈も“女の子っぽくない”って言って、極力方言は避けてるみたいやけど、真奈の方がはるかさんよりずっと“西”のイントネーションやし…」
 「工藤さんと比較したら分かるわよ? 工藤さんは、生まれも育ちも東京だもの」
 「……」
 慎二の名前を出された時。
 何故か、酷く、神経が逆撫でされた気がした。

 

 「…よく分からないんだけど…、なんでその話から、小林君に標準語の特訓をしてもらう話になっちゃうの?」
 透子から事の経緯を聞いた真奈美は、そう言って首を傾げた。その動きに合わせて、三つ編みにした黒髪が肩から滑り落ちる。
 「うん―――ほんと言うと、私にも、分からへん」
 バス停の時刻表に書かれている落書きを指でなぞりながら、透子はそう呟いた。それから慌てたように、
 「…っと、“分からない”、だよね」
 と付け足して、ちょっと舌を出す。標準語の先生である荘太は、今頃陸上部でしごかれている筈だ。真奈美は小さく笑って、この場の会話は秘密にしておく、という意味をこめて唇の前で人差し指を立てて見せた。
 透子も、それを真似て「ナイショね」という風に指を立てて見せて笑ったが、すぐにその目が、少し寂しそうに細められた。
 「ただ、多分―――ほんとに、多分、やけど―――悔しかったのかな、とは、思う」
 「悔しい?」
 眉をひそめる真奈美に、透子は言葉を切り、俯いた。俯くと、サラサラしたミディアムヘアが真奈美の視線から透子の表情を隠してしまう。こういう時の顔を、たとえ真奈美にでもあまり見せたくはない。
 「慎二は今、両親や紘太よりも私に近い所に居る人やのに―――誰よりも一番、家族に近い人やのに、はるかさんの事考えると、慎二が凄く遠い人に思える。…それが、イヤ」
 「……」
 「年齢も、言葉も、私と慎二じゃ違い過ぎるから―――慎二に近いはるかさんが、羨ましくて、悔しかったんやと思う」
 透子のセリフに、真奈美は数度、目をパチパチと瞬いた。
 真奈美には、透子の心理がよく分からない。真奈美には家族がいるし、家族より近い他人などいないから。でも、もしかしたら―――…。
 「…透子、慎二さんが、好きなの…?」
 躊躇いがちに真奈美が訊ねると、透子は微かな笑みを浮かべて顔を上げた。
 「勿論、好きだよ?」
 「…そう」
 多分、透子の言う“好き”は、真奈美が訊ねた“好き”とは違う意味だろう。つまりそれは、慎二に対する真奈美の言う意味での“好き”という感情は、透子の中にはない、ということ―――それが分かり、真奈美はちょっと落胆した。
 しかし、当の透子はそんな真奈美の様子には気づかず、いつもの、ちょっと勝気な笑みを取り戻して、表情を明るくした。
 「それにホラ、私の関西弁って中途半端やから、下手に慎二にうつっちゃったら困るし」
 「―――うん、慎二さんが関西弁喋るのは、ちょっと似合わないかも」
 「ね。余計情けなーい感じになると思わへん? それに、接客系のバイトやるにも、広島弁ならまだしも似非関西弁じゃまずいしね。ま、飽きるまでやってみようかな、って感じ」
 「じゃあ、あたしも遠慮なくバシバシ注意入れるから」
 「えー、荘太みたいに叩かんといてね」
 ふざけるようにわざと眉を寄せる透子の肘を、にこっと微笑んだ真奈美がさっそくつついた。
 「“叩かないでね”」
 「…そうでした」
 何故か、丁寧語。2人は「変な感じ」と言って、吹き出してしまった。


 馬鹿げていると、自分でも、思う。
 はるかのことは大好きなのに―――はるかが透子に何をした訳でもないのに、時々感じる、妙な焦り。はるかは、“あっち側”の人。透子は、“こっち側”の人。そして慎二は、透子の側にはいない―――はるかと同じ“あっち側”にいる。そう感じて、どうしようもなく、寂しくなる。
 “大人”と“子供”を分ける境界線は、曖昧な癖に、絶対越えられない位に、深くて広い。
 単なる子供の悪あがき、そう思われてもいい。
 何かせずには、いられなかった。

***

 透子のバイト先が突然見つかったのは、宮島に日帰り旅行をした、更に1週間後だった。
 それまで求人をストップしていたファーストフード店が、人手が足りなくなったということで、急遽1名募集し始めたのだ。他店が16歳以上を条件としている中、そのチェーン店だけは、高校生であれば15歳でも可、ということだった。

 「ああー、駄目だよキミ、この履歴書じゃ」
 さっそく、履歴書を手に面接に臨んだ透子だったが、店長は困ったような顔でそう言って、履歴書を机の上に広げた。
 「ほら。キミ、18歳未満だろう? 親御さんに署名をもらわないと」
 そう言って店長が指差したのは「保護者欄」と呼ばれる部分だった。
 「…あのー、私、保護者がいないんですけど…」
 「いない?」
 「両親とも震災で亡くなって、私一人なんです」
 透子があっさりした口調でそう言うと、店長はちょっと顔色を変え、続いて気の毒そうに眉をハの字に下げた。
 「そうか…そういう事情か。じゃあ今は、親戚の方の所に?」
 「いえ、親戚もほとんどいないんで…たまたま縁のあった人が後見人になってくれて、その人の下宿先に居候してるんです」
 「ああ、後見人がついてくれてるんだ。なるほど。だったらその人が“保護者”だよ。その人にサインもらっておいで」
 「……」
 「キミ、明るいし元気だし、うちも是非来て欲しいと思ってるよ。でも、未成年は保護者の同意がないと働けないんだよ。もし後見人の方が反対したら、可哀想だけど18歳になるまで我慢して。ね?」
 透子の表情が、一気に曇った。

 

 慎二に相談したら、先生の許可をまずもらえ、と言った。
 そんな訳で、透子は今、慎二と並んで先生の前に正座している。
 先生は、透子の説明を一頻り聞いた後、履歴書を見るためにかけていた眼鏡を外すと、お茶をずずずっとすすった。
 「駄目だな」
 先生ならそう答えるな、とは思っていた。先生の両親も、そして先生自身も教職に就いていたから、考え方はきっと学校の先生に近い筈だ。正座した膝の上の手をぎゅっと握り締め、透子は先生の顔を見つめた。
 「…なんで?」
 「まだ高校入って何ヶ月も経っとらんじゃないか。学生には学生の領分ってもんがある。嫌でも大人になれば働くしかないんだ、今できる事をやる方が先だろう」
 「今できる事って?」
 「勉強もそうだし、部活なんかもそうだろう?」
 「勉強は学校の授業と予習復習で十分やし、やりたい部活はないもん。荘太みたく何か一芸があれば部活もいいと思うけど、私、何もあらへんし。それに、興味ある部活もあるにはあるけど、それとバイトを比較したらバイトの方がずっとずっと上やもん」
 「そんなにバイトしたけりゃ、うちのギャラリーの店番でもすりゃいい。時給は安いけど、選考なしですぐ採用だぞ」
 「そんなの意味ないっ! 先生んとこで働いたら、先生んとこの売り上げが削られるだけやないの。それやったら意味ないわ」
 「…あのなぁ、透子」
 はあぁ、と大きな溜め息をつくと、先生は宥めすかすような口調で続けた。
 「うちは、そんなに貧乏に見えるか?」
 「…そんなこと、ない」
 「工藤ですら、お前の1.6倍生きてるんだぞ。俺なんざ、お前の何倍生きてると思ってるんだ。そんなに頼りなく見えるか?」
 「そんなんと違う。先生や慎二が貧乏だからとか頼りないからとか、そんな理由でお金稼ぎたいと思ってる訳やない。欲しいもんがある訳でもないし、今の生活に不満がある訳でもないよ」
 「じゃあ何だ」
 上手く、説明できない。
 もどかしい。確固たる思いはあるのに、それが分かりやすい言葉となって口から出てきてくれない。どう説明すれば分かってもらえるんだろう。
 「透子。前に言っただろう? 親に遠慮する子供なんていないって。俺と工藤はお前の親代わりとしてここにいるんだから、遠慮する必要なんてない。安心して甘えてればいいんだ」
 「…そんなの、無理…」
 「何?」
 ちょっと顔色を変える先生に負けまいと、透子は半ば睨むようにして先生の顔を見据えた。
 「頭でいくらそう思おうとしても、そんな風に思えない。何もせずにただ甘えられるほど、私はもう“子供”やないもん」
 「……」
 「“保護”されるだけやったら、ここに居られへん―――実際に役に立ってるかどうかは問題と違う。ただ、何かしないと…何か目に見えて役に立つことしないと、苦しくて苦しくて、甘えられへんの。家事は、はるかさんの方がずっと役に立ってるし、結局私はお手伝いにしかならへん。だから、働きたいの。それでお小遣いだけでも稼げれば、その分2人の負担を減らせてるって安心できる。安心すれば甘えられる。ここに居たいの。ここに居るために―――ちょっとでいい、働きたいの」
 感情に任せて、一気に吐き出す。昂ぶった感情のせいで、目が潤み始めているのが自分でも分かった。ずっと抱えてきたものを口にできたことに、どこかでホッとしている自分がいる―――気を張っていないと、大声で泣き出してしまいそうだった。

 先生は、真剣な、でも少し動揺したような目をして、透子を見ていた。
 なんとも言えない沈黙が流れる。先生はどう答えるだろう―――息を詰めてそれを待っていると、意外なことが起きた。
 「―――先生。オレ、サインしますから」
 それまで一切口を開かなかった慎二が、一言そう宣言した。
 驚いた透子が隣を見ると、慎二は、いつものあのフワリとした笑みを浮かべた。ぽかんとした顔をしている透子をよそに、机の上に広げられた履歴書を、先生の許可も得ずに自分の手元に引き寄せてしまう。
 「ただし、この辺て結構のどかだけど、やっぱり夜は危ないからさ。オレが仕事終わる夜7時以降はバイト禁止にしていい?」
 「…え…っ」
 「それと、土日はなるべくシフト入れないで。せっかくの休みがバイトで潰れるなんて悲しいからさ」
 「―――それ守ったら、バイトしていいの?」
 「うん」
 「どうして? 先生、まだOKしてくれてないのに」
 信じられなくて、思わず訊ねる。すると慎二は、軽く首を傾げるようにして眉を寄せた。
 「…うーん、強いて言うなら、あの店のバイトの制服、透子が着たら可愛いだろうな、って思ったからかなぁ…」
 「何それっ」
 「それに、先生もきっと、いいって言ってくれるよ。…でしょう? 先生」
 慎二がそう言うと、先生は憮然とした顔をして湯飲みを口に運んだ。
 「全く…お前ばっかり、おいしいところを持って行きおって…」
 その返事が、アルバイトを許したことを意味していると察し、慎二は安堵したように目を細めた。

***

 「―――慎二…」
 「ん? 何?」
 おずおずと透子が声を掛けると、縁側の戸を開けて腰を下ろそうとしていた慎二は、振り返らずに返事をした。
 「…ノラちゃん、今日も来てたの?」
 ノラちゃん、とは、このところ西條家に出没している、親を亡くした子猫のことだ。牛乳を置いておくと、人間が見ていない間に飲んでいくらしい。透子もその姿をまだ2度しか見たことがない。警戒心の強い子猫なのだろう。
 「あー、うん。朝あげておいたら、帰ってきた時、空っぽになってたからね。夜来るかどうか分からないけど、念のため補充」
 なんとなく、慎二の隣に腰掛ける。高さのある縁側は、透子が腰掛けても足が僅かに地面から離れてしまう。透子は、足をぶらぶらさせて、慎二がお皿に牛乳を注ぐのを黙って眺めた。
 街灯も届かない裏庭は、部屋の灯りだけにぼんやり照らされて、植わっている金木犀の葉の形もただの黒い影にしか見えない。どこかにノラちゃんがいるのかもしれないが、透子の目ではその姿を見つけられなかった。
 慎二が牛乳パックの口を閉じるのを待って、透子はやっと、口を開いた。
 「あの―――さっき、ありがとう」
 「んー?」
 「味方になってくれて」
 透子の言葉に、慎二は透子の方を向き、くすっと笑った。
 「先生はすっかりむくれちゃったけどね。お前ばっかりいい格好しやがって、って」
 「―――ねぇ。なんで味方してくれたの? 制服の話なんて、冗談でしょ?」
 「いや? 冗談じゃなく、あの制服着た透子は可愛いだろうな、って思うよ?」
 「もぉっ! 真面目に答えてよっ」
 不覚にも顔が赤くなってしまったのを誤魔化すように、慎二の背中を軽く叩いた。可笑しそうに笑った慎二は、ちょっと前につんのめりながらも、手にしていた牛乳パックを縁側に置いた。
 「うん…まぁ、さ。透子の気持ちが分かったからだよ」
 「私の気持ち?」
 「子供の気持ち、って言うのかな。子供、とも言い切れないけど―――透子のもどかしさ、オレにもなんとなく、分かるから」
 「…慎二にも、分かるの…?」
 「分かるよ。先生よりは、オレの方が子供に近いしね。自分では“こうしたい”って気持ちがあっても、実際には全然できなくて―――そんなもどかしい思い、今でも結構よくするよ」
 大人の慎二でも、そんなことがあるのか―――透子は、意外な話に、少し目を丸くした。
 それと同時に―――ちょっと、ホッとした。
 遠くかけ離れていた慎二との距離が、ほんのちょっと、縮まったような気がして。
 慎二は大人で、自分は子供だけれど…その差は、透子が思っていたよりも、もっと近いものなのかもしれない。自分の至らない部分にばかり目が行ってしまって焦るけど、大人は大人で、結構焦ったり落ち込んだりしてるのかもしれない。
 慎二が近くに感じられると、安心できる。透子は、安堵の笑みを浮かべ、また足をぶらぶらさせた。

 「ところで透子。さっきから持ってるそれ、何?」
 「…あ、そうだ。これ見せに来たんだった」
 慎二に指摘されて、思い出した。透子は慌てて、手に持っていた白い小冊子を慎二に手渡した。
 「通知表。今日渡されたんだけど、すっかり忘れてたから」
 「は!? 通知表、って―――まだ6月だろ?」
 「普通は期末試験の後の年3回なんだろうけど、うちの高校、中間試験の後にも出るの。コメントとかはつかないけどね」
 「ひえー…、進学校っぽいなぁ…」
 「進学校やもん」
 じゃあ拝見します、という感じに姿勢を正した慎二は、ケント紙のような紙で出来た通知表をペラリとめくった。
 表紙の裏は白紙、次のページに教科毎の試験の点数が小さな枠に記入されていた。見るのが怖いので、それはパスして、ページをめくった。
 そこには、見開きで、全教科の成績が並んでいた。どうやら5段階評価のようだ。それを見た慎二の目が大きく丸くなった。
 「―――透子…もしかして、秀才?」
 「天才とは言わへんの?」
 「いや、それは、勉強してるの知ってるから。うわー…壮観だなぁ…5と4のオンパレード」
 「…美術の3は、大目に見てくれる?」
 ぺろっと舌を出す透子にも気づかず、慎二は通知表を呆然と見ていた。なるほど、神戸で有名な私学に進む筈だっただけのことはあるな、と。
 「いいよなぁ…。オレもこんな通知表、一度でいいから貰ってみたかった」
 「慎二の通知表って、どんな風だった?」
 「3、3、3、3、3、3、5、って感じ」
 「…その5は、言わずもがな、って奴?」
 「当然」
 つまり、ひたすら平凡な成績の中、美術だけが突出して良かった、ということだ。透子は、よく似た通知表を今日見たのを思い出し、ちょっとうつろな表情になった。
 「荘太の通知表みたい」
 「え?」
 「3じゃなく2も混じってる辺りがちょっと問題アリだけど―――荘太も、体育だけが5だった」
 「へーえ…親近感湧くなぁ…」
 「―――いいなぁ」
 思わず、呟く。
 慎二からすれば意外な言葉だったのだろう、不思議そうに眉をひそめた。
 「いいなぁ、荘太も、慎二も。そういう通知表に憧れるなぁ」
 「…なんで?」
 「自分の進むべき道が、はっきりしてて」
 「……」
 「いくら5や4を沢山取っても、自分が将来何をすべきか、全然見えてこないもの。得意な科目はあるけど、これが一番好き、って言える科目はないし、バイトより魅力のある部活も全然ないし。せっかく慎二に高校行かせてもらってるのに、なんだか自分が、もの凄くつまらない人間に思えて、通知表見ると落ち込む」
 「…こんなに豪華な通知表でも?」
 「自己満足にはなるけどね。…成績なんて、悪くてもいい。荘太や慎二みたいに、何か1つ他よりグンと優れてるものがある方がいい。そうすれば、その道を迷わず進んで行けるもの」
 「―――…」
 口にしたら、余計落ち込んできてしまった。透子は、ちょっとうな垂れて、ぶらつかせていた足を少し引き寄せた。
 慎二は、そんな透子の横顔を眺めていたが、やがて微かに微笑むと、通知表をぱたんと閉じた。
 「―――そう単純なもんでもないよ。自分の進む道を見つけるのなんて」
 「……」
 「美術だけ5を取ったからって、それで“じゃあ絵描きになろう”とは思えなかったよ。絵は大好きだったし、他の事やろうとしても結局それだけは捨てられなかったけど―――ずっとずっと、迷ってばっかりいた。ふらふらとフリーターしながら、自分が何やるべきか模索してた」
 「…成績で、絵を選んだ訳じゃない、ってこと…?」
 「うん。成績なんて、ただの指標にしかならなかった。駄目だ、オレやっぱりこの道しか進めない奴なんだ、って思うまで、何年もかかったよ」
 「…じゃあ」
 顔を上げた透子は、眉をひそめるようにして慎二の目を見つめた。
 「じゃあ慎二に、この道を選ばせたモノって、何?」
 「……」
 「何が慎二の背中を押したの? 慎二に絵筆を握らせたモノって、何…?」

 慎二の瞳が、何故か、揺れた。
 微笑んでいた顔から、ゆっくりと笑みが消える。うろたえたように泳いだ視線は、透子の目を離れ、仄暗い裏庭へと流れていって、やがて足元に落ちた。不揃いな髪の隙間から覗くその表情は、日頃の慎二とは別人のように、暗く沈んだ表情だった。
 思わぬ慎二の反応に、思わず、息を呑む。
 何か、触れてはまずい部分に触れてしまったのだろうか―――嫌な予感に、焦りがせり上がってくる。

 「し…慎二…?」
 声を掛けずにはいられなかった。不安げに名前を呼ぶと、慎二は小さく息をつき、ゆっくり顔を上げた。
 再び透子の方を見た慎二の顔は、もういつもと同じ顔に戻っていた。ただ一点―――悲しそうな、寂しそうな色をした目を除いては。
 「…ごめん。ちょっと疲れてるのかもな」
 「……」
 「忘れた」
 不思議なほどきっぱりした口調でそう言い、慎二は透子から目を逸らし、真っ直ぐ前を見つめた。何も見えない、暗い空間を。
 「何がオレに絵を描かせたかなんて―――そんなきっかけ、もう忘れたよ」

 ―――本当に?

 言いたかったけれど、言えなかった。
 言ったら、慎二が、また慎二じゃない誰かになってしまう気がして。

 触れるのが、怖い。
 慎二が一瞬垣間見せた、何か―――それに触れるのが、とても、怖かった。


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