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: Requiem (2)

 喫茶店の窓ガラス越しに透子と目が合ったその人は、息を呑み、その場に立ち止まった。

 大人の男の人だ―――透子が最初に思ったのは、何故かそんなことだった。
 佐倉の同期ということは、慎二より2つ年下の筈だ。けれど、慎二よりその人の方が年上に見えた。別に老けていた訳ではないが、何故か。がっしりとした体格や、生まれた時からこの格好だったんじゃないかと思える位に似合っているスーツ姿、一本気そうなしっかりとした眉のせいかもしれない。先生よりも本間よりも、何故かその人は、透子に“大人の男の人”を感じさせた。
 彼の隣には、ショートカットのよく似合う、綺麗な女の人がいた。彼女も、目を丸くして透子を見ている。どうやら彼女も多恵子とは他人ではなさそうだ。
 「あらま…佳那子姫も連れてきちゃったんだ」
 向かいに座る佐倉が、外の光景を見てそう呟いた。
 「佳那子姫?」
 「久保田君のカノジョよ。同じ会社の人。多恵子のお葬式で1回会ったきりだけど…ふーん、まだ続いてるんだ。偉い偉い」
 「……」
 ―――なんで私って、こういうとこばっかり勘が鋭いのかなぁ…。
 ピンときてしまった。この3人の関係。彼と、彼女と、元彼女―――外を眺める楽しげな佐倉の笑みに、透子は落ち着かない気分で膝の上の手を組みなおした。
 窓の外では、彼と彼女が、何やら揉めていた。どうやら彼が、彼女に「お前は来るな」と言っているらしい。暫く押し問答が続いたが、結局彼女は説得されてしまったらしく、まだ納得のいかない顔をしながらも今来た道を帰って行った。何度も振り返りながら。
 やがて、喫茶店のドアベルがカランカランと音を立て、彼が入ってきた。
 「悪い悪い、遅くなって」
 「大して待ってないわよ。成田は? 連絡してくれた?」
 「ああ。けど、あいつも新しい仕事就いたばっかりで、バタバタしててなぁ…。俺らと時間合わせるのは無理そうだ。また電話することになってる」
 「あたしが直接電話するって言ってるのに…」
 「佐倉には電話番号教えたくないんだとよ。どう利用されるか分からねぇからな、警戒してんだろ」
 「…失礼な奴」
 不服そうにそう言いつつ立ち上がった佐倉は、透子の隣の席に移ると同時に、透子の肩にポンと手を乗せた。
 「この子が、井上透子。…透子。この人が久保田君よ」
 「…はじめまして」
 佐倉に代わって自分の向かいの席に回った彼に、透子は少し腰を浮かせ、会釈した。そんな透子に、彼も軽く頭を下げ、落ち着いた笑みを見せた。
 「久保田隼雄です。俺達の後輩なんだって?」
 「はい。地学科の3年です」
 「地学かぁ。うちの文理の教授陣、個性的な人多いから、苦労してるだろう?」
 「…う…確かに、ちょっと…」
 実はかなり苦しめられていたりするのだが―――笑顔を引きつらせながらも、ちょっと控え目にそう答えると、久保田は「わかるわかる」と言って苦笑しながら、向かいの席に腰を下ろした。
 久保田は、遠目に見た時もそう感じたが、近くで見ると余計、大柄でがっしりした体格の人物だった。身長も180をかなり超えているようだし、肩幅も広くて胸板も厚そうだ。
 佐倉は慎二を“避難所”と表現していたが、慎二が木の上に作られた雛を守る巣だとするなら、目の前にいるこの人は装甲車か核シェルターだ。いかにも頼れそうな風貌―――多分、荘太辺りはこういう人に憧れるんだろうなぁ、と、コーヒーを注文する彼を眺めながら、透子はそんな風に思った。
 「あの…さっきの人、どうして帰っちゃったんですか?」
 一息ついたところで、どうしても気になって透子が訊ねると、久保田は一瞬キョトンとした顔をし、続いて苦笑した。
 「ああ、見てたのか」
 「すみません…」
 恐縮する透子に、別にいいよ、と笑い返すと、久保田は小さな溜め息をついた。
 「―――実は、あいつと俺、多恵子が死んだ夜に、多恵子と一緒に飲んだ最後の人間なんだよ」
 「…えっ」
 「自分のせいじゃないか、何かサインを見落としてたんじゃないか、って、自分のこと責めて―――多恵子死んでから暫く寝込んだ位だったんだ。もうかなり落ち着いたけど、多恵子の話にはいまだに動揺するような奴だから…どうしても来たいって言うから連れてきたけど、やっぱり無理そうなんで、帰らせたんだよ」
 「お葬式の時だって、親より憔悴しちゃって、今にも倒れそうだったものね。帰らせて賢明だと思うわよ」
 コーヒーカップを口に運びながら、佐倉もそう言って同意した。佐倉の説明に、両親と紘太の葬儀の時の自分の姿を重ね、透子も佐倉の言葉に同意した。やっぱり、あの時のことを思い出すと、今でもあまり冷静ではいられない。
 久保田のコーヒーも運ばれてきて、会話が中断された。砂糖もミルクも入れないままコーヒーを口に運んだ久保田は、一息つくと、少し表情を引き締め、佐倉の方に目を向けた。
 「それで―――慎二さんから、何も連絡ないのか?」
 「…今のところね。携帯電話持ってないし、実質連絡手段は何もない状態」
 「そうか…。君、ひとり暮らし、初めてなんだろう? 大丈夫か?」
 大体の透子の置かれた立場は、既に佐倉から聞き及んでいるらしい。少し心配そうな顔でこちらを見る久保田に、透子はニッコリ笑ってみせた。
 「大丈夫です。同期生でも、ひとり暮らししてる子なんて沢山いるし」
 「まあ、確かに…でも、君の場合、突然だし」
 それに、家族がどこかにいる訳でもない―――そのニュアンスも汲み取り、透子は笑顔のまま首を振った。
 「大学やバイトで結構忙しくしてるから、気が紛れてます。それに―――慎二のこと気になって、家空ける気になれないし」
 「…そうか。まあ、仕事もあるんだし、慎二さんもそう長くは留守にしないだろう。それにしても、皮肉だよなぁ…。よりによって瑞樹と俺らの知らない所で偶然再会しちまうなんて」
 大きな溜め息をついた久保田は、そう言って再びコーヒーカップに手を掛けた。瑞樹、と言われて、一瞬誰のことか分からなかったが、その名前から深い森を思わせるあの写真を思い出した。成田瑞樹―――グループ展で会った、あの人だ。
 「あの…よりによって瑞樹と、って…成田さんと慎二、会っちゃまずいことでもあったんですか?」
 “よりによって”という言葉に違和感を感じた透子は、少し眉をひそめて訊ねた。
 「あー、いや、あの2人がどうこう、って訳じゃないんだ。ただ、なぁ…」
 「…成田だけ、口止めされてなかったのよね」
 苦虫を噛み潰したような顔をする久保田の言葉を受けて、佐倉がそう続けた。
 「あたしも久保田君も、さっきの久保田君の彼女も、それぞれ多恵子から遺書を受け取ってて、慎二君には言わないこと、って念押しされてたんだけど…成田はね、遺言そのものを残されてなかったから」
 「え…っ、そうなの?」
 「まあ、仕方ないけどね。成田とは歳も学部も違うし、あまり接点なかったから。でも、あたしらの中じゃ多恵子の次に慎二君と付き合いのあった成田を押さえとかないなんて、多恵子もちょっとうかつよねぇ…」
 「…いや、そういう訳じゃないと思うぜ、俺は」
 久保田はそう言ってコーヒーをくいっとあおると、テーブルの中央辺りを見据え、眉根を寄せた。
 「多恵子はああ見えて、用意周到で頭のキレる奴だった。人生の締めくくりに、そんなヘマをやらかす訳がない。瑞樹に何も残さなかったのは、残す必要がないからだろ、きっと」
 「残す必要がない?」
 「何ていうか―――瑞樹は、多恵子を一番理解してる奴だったからな。慎二さんとは別の意味で。多分…何も遺言しなくても、瑞樹が慎二さんを捜したりしないって分かってたんだろう」
 「…捜さなくたって、結局偶然再会しちゃったじゃないの」
 「それで瑞樹が“多恵子が死んだ”って慎二さんに教えるなら、それはそれでいいと思ったんじゃないか? 瑞樹が話すべきだと判断したなら、それは“話すべき時”だと悟ってたんだと思う。…多恵子と瑞樹は、接点こそ少なかったけど、よく似た奴らだったからな」
 “話すべき時”―――…。
 透子は、多恵子も、成田瑞樹という人もあまり知らない。けれど、久保田の言う“話すべき時”があることは、なんとなく分かる。永遠に秘密にできることなんて、あり得ない。いずれは事実を知り、それを受け入れなくてはいけない時が来る。問題は、それを受け入れるだけの準備が、受け入れる側に…慎二にあるか、ということなのだろう。
 「多恵子がああも心配するほど、慎二さんは弱い人間じゃないと、俺は思うけどな―――どのみち、瑞樹が話したのなら、慎二さんに話すべきだと思ったからの筈だ。だから、慎二さんのことは心配ない。大丈夫だよ」
 久保田は、そう言って透子に向かってニッと笑ってみせた。彼らをよく理解しているらしい久保田の言葉なら、その通りなのかもしれない―――透子も、久保田に笑顔を返した。
 「それで、久保田君。本題の方は? 会ったんでしょ、慎二君に」
 話が一段落したのを見計らって佐倉がそう切り出すと、久保田は、またコーヒーカップに伸ばしかけた手を止めた。
 「おー、そうそう。それ話さないとな。驚いたぞ。慎二さんがうち来たのって、1回だけ、しかも家の前までだろ。なのにいきなり、会社行こうとしたら外で待ってるから」
 「は? 何、家の前で待ってた、って…夜じゃなくて、朝?」
 佐倉と透子が、同時に目を丸くした。事前に聞いた話から、なんとなく夜の話だろうと思っていたのだ。

 そんな2人に、久保田は、10日以上前のその出来事をぽつぽつと語り出した。

***

 その朝、久保田は、いつもとほぼ同じ時間に家を出た。
 久保田の住むアパートは昔ながらの佇まいの木造2階建てなので、その2階に住む久保田は、部屋を出てすぐに、下の道路に佇む人影が目に入った。その背格好と髪の色、両手をパーカーのポケットに突っ込んで少し背を丸めるようにしたその立ち姿が、記憶に残るある人物と一致して、思わず息を呑んだ。
 「し…っ、慎二さん!?」
 2階から声を掛けると、人影が少し動いて、久保田を仰ぎ見た。そして、昔とあまり変わらない笑顔を返してきた。
 「…やあ、久しぶり」
 実に、7年ぶりの再会だ。久保田は、大急ぎで鍵を掛け、階段を駆け下りた。

 久保田と慎二は、あまり親しくはなかった。多恵子の彼氏だと紹介を受けて、数回、瑞樹や多恵子や佐倉を伴って飲みに行ったりジャズライブに行ったりした程度だ。ただ、その独特のふわりと柔らかな物腰は久保田もなんとなく好きだったし、あの問題児である瑞樹がどうやら慎二には打ち解けているらしい、という事実に興味を覚えてもいた。ちょっと気になる人物―――それが、久保田にとっての慎二だった。
 また、多恵子が死んでからは、別の意味でずっと心に引っかかっている人物でもあった。
 慎二は、尾道に行く際、誰にも住所を教えなかった。それほどの付き合いではなかったのだから当然だが、そこから先が奇妙だった。多恵子の死後、多恵子の部屋の整理を久保田と佳那子が行ったのだが、どういう訳か慎二の連絡先の類が一切出てこなかったのだ。
 アドレス帳や手帳、保管してあった手紙類の中にも、慎二の名前は一切ない。完璧なまでに、慎二の行方に関する情報は消されてしまっていた。唯一、尾道へ行ってからの慎二を彷彿させたのは、壁に掛かった1枚の絵―――慎二が描いた、尾道の街並みの絵だけだった。裏返すと、「94.04.11」という日付と「Shinji」というサインだけが入っていたが、やはりそれ以上のことは分からなかった。
 多恵子の遺言である以上、慎二を捜すわけにはいかない。死者の言葉は尊いものだと、久保田は思っていた。
 けれど―――本当に、それでいいのだろうか。その思いが、ずっと久保田の奥底で燻り続けていたのだ。

 「良かった。今も同じとこ住んでてくれて。うろ覚えだったからヤバかったけど」
 ふわりと微笑んだ慎二は、階段を下りてきた久保田にそう言った。
 「慎二さん、いつ東京に…」
 「んー、2年ほど前かな」
 「そんな前に? もっと早く連絡くれればよかったのに」
 「あはは、ごめん。…隼雄君、会社行く途中なんだろ?」
 歩きながら話そう、と促す慎二に従い、久保田も歩き出す。“隼雄君”―――なかなか、懐かしい呼び名だ。
 久保田のことを、大抵の人間は“久保田”と呼ぶ。“隼雄”と呼ぶ人は、多恵子と瑞樹くらいのものだった。そして“隼雄君”と呼ぶのは、慎二だけ―――多恵子が“隼雄”と呼ぶから自然とそうなったのだろうが、7年間全く耳にしていなかったその呼び方に、当時のことが思い出されて、久保田は柄にもなくちょっとノスタルジーに浸ってしまった。
 がしかし、そんなノスタルジーも、続いた慎二のセリフに、一瞬で吹き飛んだ。
 「…隼雄君に会うのは、ちょっと勇気が要ったんだ」
 「え?」
 「絶対訊かれると思ったからさ。“なんで多恵子は死んだのか”って」
 「……」
 思わず、足が、止まる。
 ギョッとした顔で自分の顔を凝視する久保田に、同じく足を止めた慎二は軽く苦笑した。
 「大丈夫。もう知ってるよ。それに―――そうだろうな、って、大体想像はついてたし」
 そう語る慎二の顔は、穏やかだった。むしろ、結果がはっきりして胸につかえていた物がなくなったような清々しさすらあった。いつ慎二がそれを知ったのかは分からないが、どうやら慎二の中では、多恵子の死は事実として受け入れられているらしい…そう察し、久保田は密かにほっと胸を撫で下ろした。
 「ごめん、慎二さんにも知らせたかったんだけどな―――引っ越し先分からねーし、多恵子の部屋に住所の類が全然残ってねーしで…」
 「いいよ。その辺の事情は想像ついてたし…オレも、今だから受け入れるだけの覚悟が出来たんだと思うしさ」
 「…そう、か」
 尾道へと去った慎二の心情は、正直、久保田にはよく分からなかった。
 慎二と多恵子は、決して嫌い合って別れた訳ではない。慎二が尾道に行かなければ、その後もずっと付き合い続けただろう。それなのに―――多恵子にとって自分は必要な人間だと重々承知している癖に、自分だって多恵子の傍にいたいと思っている癖に、何故あえて尾道へ行ってしまうのか―――久保田には最初、全く理解できなかった。
 でも、自分は弱い人間だから、多恵子が死ぬところは見たくない―――そう慎二に言われ、なんとなく納得した。愛しているからこそ、引き止めるのは不可能だと悟った時、別れる決意をしたんだな、と。それでもなお引っかかる部分はあるが、一応そう解釈し、納得した。
 あれが慎二の本心であるなら、あの時、多恵子の遺言を無視して慎二を捜すような真似をしなかったのは、やはり正解だったのかもしれない。ずっと心につかえていた荷物がやっと下ろせたような気がしてホッとした久保田だったが、それでも消えない荷物がまだ1つ、残っていた。
 「…なあ、慎二さん。あいつは何で―――慎二さん、もし多恵子から理由を聞いてるんなら…教えてもらえないか?」
 再び歩き出しながら、久保田が少し眉をひそめてそう言うと、慎二は困ったような笑いを見せた。
 「それ訊かれるのが怖くて来られなかった、って言ったのに、まだ訊くところが隼雄君らしいね」
 「…いや、ま、そりゃそうなんだけど」
 昔から、多恵子が死を望む理由を必死に模索していた久保田だからこそ、会えば開口一番それを訊ねるに違いないと危ぶんでいたのだろう。ばつが悪くなり、久保田はちょっと頬を掻きながら視線を前方へと逸らした。
 「多恵子本人が言わなかった理由を、オレが話す訳にはいかないよ」
 「…そうだよな。ごめん」
 「それに…知ったところで、多恵子が戻ってくる訳じゃないし」
 「……」
 「知っていたところで…オレは、多恵子を、止められなかったし」
 少し沈んだような慎二の声に、久保田はそっと慎二の横顔を窺った。
 視線を前に向けた慎二は、どこか遠くを見ているように見えた。ずっとずっと遠く―――もしかしたら、今、多恵子がいる所を。こういう顔は、久保田の不安を掻きたてる。何故なら、こういう遠い目は、かつて多恵子がよくしていた目だから。
 久保田の視線を感じたのか、慎二は久保田の方に目を向けた。そして久保田と目が合うと、極自然な感じに微笑んだ。
 「後を追うとか心配してるなら、それはないから安心していいよ」
 「―――…ッ」
 図星だ。だが、さすがにこれを図星だと悟られるのは気まずすぎる。久保田は大慌てで笑顔を作った。
 「ハハハ、そんなこと考える訳ないだろ。いや、なんか落ち込んだ顔するから、まだ多恵子に未練あるんだったら困るよなぁ、と、ちょっと思っただけで」
 「未練…未練、かぁ…」
 「…え。まさか、ホントにあるとか言わねーだろうな?」
 「さぁ? どうだろう」
 ―――ああ、畜生、やり難い。
 ふわりと微笑む慎二に、心の中で頭を掻き毟る。比較的他人の心を読むことに長けた久保田だが、こういう、本心に辿り着くまでの道筋がややこしい人間は苦手だ。
 ところが久保田は、そういうややこしい人間に限って惹かれてしまったりする、厄介な性格でもある。瑞樹しかり、多恵子しかり―――かつて、何人かの人間から「お前は真性のマゾだ」と言われたことがあったが、最近、本気でそうなんじゃないかと思い始めている。
 「ところで、本題なんだけど…隼雄君、多恵子の両親がどこに引っ越したか、知らないかな」
 「え?」
 唐突な慎二の質問に、久保田はちょっと目を丸くした。
 「引っ越したこと、なんで慎二さんが知ってるんだ?」
 「元の家に行ったから。あそこもちょっと行き難い所だったんだけど、どうしてもご両親に訊きたいことあって―――でも、家は建て変わってるし、表札も変わってるしで、ちょっと近所の人に訊いたら、何年か前に引っ越したって聞いたんだ」
 「そうか。でも…残念ながら、俺も知らないんだ。祖師谷の飯島家の墓には時々墓参りに来てるみたいだけど、どこから来てるのかまでは…」
 多恵子の両親は、多恵子が自殺した翌年の冬、多恵子の1回忌を終えると元いた家を引き払い、どこかへ越していった。
 社会人2年目で忙しかった久保田がその事実を知ったのは、更に年を越した夏、多恵子の墓参りに行った時だった。死因が自殺だったことから、近所で色々な噂を立てられたのが原因ではないかと、寺の住職は言っていた。高級住宅街で、上品な人間ばかり住んでいる街だったが、やることは下品極まりないな、と眉を顰めたのを覚えている。
 「そっか…隼雄君も知らないんじゃ、無理かな…」
 「それに、あの両親、多恵子の事はあんまり話したがらないしな。会えたところで、慎二さんが訊きたいことを喋るとも思えないぞ」
 「確かに、そうかもな」
 溜め息と共に慎二がそう相槌を打った時、角を曲がると同時に、最寄り駅の駅舎が視界に入った。
 「慎二さんも電車に?」
 「いや。オレは、もうちょいこの辺りうろついてから。この辺りはあんまり来たことないしね」
 「夜来てくれりゃあ良かったのに…こんな朝のせわしない時間じゃ、大した話もできないだろ」
 「あはは、まあね」
 そう言いながらも、もしかしたらわざと朝来たのかも…と久保田は頭の片隅で思った。
 時間がなければ、執拗に追及されずに済むから。多恵子の自殺願望の理由、多恵子と別れて尾道に行った時の心境、これまで連絡を一切してこなかった事情―――それら、すべてを。
 「…あ、そうだ。まだちょっとだけ、時間あるかな」
 「ああ、この時間帯は、5分に1本は電車来るし」
 「それじゃあ、ちょっと訊きたいんだけど―――…」
 駅の改札の手前で立ち止まった慎二は、肩に掛けていたリュックをよいしょ、と下ろすと、その中から折りたたんだ紙を1枚、引っ張り出した。そして、その紙を丁寧に伸ばすと、久保田に差し出した。
 「多恵子から生前、こういう景色について、何か話聞いてないかな」
 「景色?」
 怪訝そうに眉をひそめた久保田は、慎二からその紙を受け取った。
 紙は、画用紙のようだった。長辺の片側の形から、どうやらスケッチブックから破り取った1枚らしいことが分かる。そこに描かれた絵を見た途端、目の前が鮮やかな色で染まった。
 「…これ、慎二さんが描いた絵だよな」
 「そうだよ」
 「へえ…。多恵子の家に残ってた絵しか知らなかったけど―――やっぱり、癒し系な色だよなぁ…」
 感心したように呟いた久保田は、改めてその絵を真剣に見詰めた。記憶に残る多恵子との会話の中に、何かこの絵に繋がるものがなかったか、つぶさに確認していきながら。
 「―――いや…、記憶にないなぁ…。あいつ、ジャズの話や大学の話以外、あんまりしない奴だったし…」
 「…そっか…」
 慎二にしてはあからさまなほどに落胆した色を見せて、慎二は溜め息をつき、久保田の手から絵を受け取った。
 「この景色が、何か?」
 その落胆ぶりが気になって、思わず訊ねる。すると慎二は、ふわりと微笑んで、こう答えた。

 「探してるんだよ―――ここが、どこなのか」

 

 「あー! あたしもその絵、見たかもしれない!」
 久保田の話に何かを思い出したのか、佐倉がそう言ってポン、と手を叩いた。
 「いつだったかな、今年の2月か3月か―――その辺りに、同じこと言われたわよ。絵を見せて“こういう景色、多恵子から聞いたことない?”って」
 「ど…どんな絵だったの?」
 思わず、隣の佐倉の方へとにじり寄る透子に、佐倉はちょっと仰け反りながら答えた。
 「ひまわり畑の絵よ」
 「…ひまわり畑?」
 「ああ、それなら、俺が見たのと同じ絵だ。ひまわり畑だったよ。ずーっとどこまでもひまわり畑が続いてる絵」
 久保田もそう相槌を打つ。その瞬間―――透子の脳裏に、昔見た絵が鮮やかに甦ってきた。
 それは、描きかけの、ひまわり畑の絵。
 まだ塗られていない白い空の下、ひまわりだけが彩色されていた。ずっとずっと、どこまでも続く一面のひまわり畑―――その、画面の中央よりやや右寄り奥の方に、小さな女の子のような姿が描き込まれていた。高校に入学する直前の、春…慎二が眠っている間に垣間見た、あの絵だ。
 「それで慎二君は、どうしたのよ」
 「あとは世間話を2、3しただけで、駅の前で別れちまったんだよ。まさか旅行中だなんて思ってもみなかったから、これからどうするのかなんて訊かなかったし、時間もなかったから連絡先も―――やっぱり、その辺も計算して朝来たんだろうなぁ。してやられたよなぁ」
 悔しそうにする久保田の言葉も、透子はあまり耳に入っていなかった。頭の中には、遠い記憶の中にある、あの絵の風景だけが広がっていた。

 ―――探している…ここが、どこなのか。

 どういう事情かは、よく分からない。でも多分、ああいう風景を、慎二は多恵子から話として聞いたのだろう。その話を題材に、あの絵を描いたのに違いない。
 そして、探している―――この国のどこかにある筈の、あの風景を。

 「…そ…っか…」
 『探し物を見つけに行きます』―――慎二が探しに行ったのは、物じゃない。風景だ。それを理解した透子の口元が、無意識のうちに、綻んだ。

***

 久保田と会った日の夜も、慎二は帰ってこなかった。
 けれど透子は、その夜は少しだけ心穏やかに過ごせた。
 レポートを机の上に広げるのもやめ、代わりに1冊の本を飽きるまで眺め続ける。慎二が絵を担当した絵本―――“春”を探しに行く“カイト君”の絵本を。森のふくろうに“春”の居場所を訊ね、切り株に描かれた地図を必死に覚えて彷徨い歩く“カイト君”は、なんだか、今の慎二そのものに見えた。

 ―――大丈夫、信じられる。
 “カイト君”も最後には、自分の居た森に帰ってきた。だから、慎二もきっと、帰って来る。

 慎二が探しているものが分かって、慎二が今、何を思い、何を目指しているのか、おぼろげながら見えてきた。その先に、透子が一番恐れていた“死”はないと、確信できる―――そのことに、透子は泣きたくなるほどの安堵を覚えた。
 勿論、戻ってきても、結局は追い出されるかもしれない。透子がどれだけ「構わない」と言っても、慎二はもう別れて暮らす決意を固めているかもしれない。
 でも…それでもいい。帰ってきてくれれば、その先のことは、それから考えればいい。必死に訴えれば、いつかは届くかもしれない―――透子の願いが、いつかは。
 「うん…大丈夫」
 絵本の絵柄を指でなぞりながら、呟く。絵本を閉じた透子は、微かに記憶に残るあのひまわり畑の絵を思い浮かべ、目を閉じた。

 1日も早く、あのひまわり畑を見つけて欲しい。
 あの光景を前に慎二が絵筆を握る時、きっと慎二の中の何かが終わるに違いない―――漠然と、そう思った。


***


 それからほどなく、カレンダーは7月になってしまった。
 透子は、レポート作成に集中しようと心に決め、バイトのない日は、閉館時間ギリギリまで大学の図書館で過ごすようになった。同じく、それぞれのレポート作成で苦しめられている荘太や千秋もそれに倣い、3人で参考書籍と首っ引きになる日が続いた。

 7月4日の夜には、久保田から電話があった。
 『明日、多恵子の墓参りに行くんだ。よければ、一緒に来ないか? 仕事終わってからだから、ちょっと遅くなっちまうけど』
 明日―――7月5日だ。そう言えばそれを訊ねるのを忘れていた。
 「あの、7月5日って、何の日なんですか?」
 『え?』
 「慎二、毎年7月5日になると、ちょっと様子がおかしくなって…前から気になってたんです」
 『…そうか』
 電話の向こうで、久保田が溜め息をつく。確か佐倉も、この話をした時、似たような反応を示していた気がする。
 『…7月5日は、多恵子の誕生日だよ』
 「誕生日?」
 『昔から多恵子は、誕生日には必ず自殺を図ってたんだ。理由は分からないけどな。…もしかしたら、誕生日を呪ってたのかもしれない。でも、今となっちゃもう謎のまんまだ』
 「……」
 『俺達は、命日じゃなく誕生日に多恵子の墓参りをすることにしてるんだ。約束だからな―――毎年、誕生日祝いをしてやる、って』
 俺達、とは、久保田とその彼女の2人を指しているらしい。ああ、それが彼らに託された多恵子の遺言なんだな、と察し、透子は受話器を握ったまま少し微笑んだ。
 「…私は、遠慮しときます。ちょうど週末がレポートの提出期限だし」
 そう言って透子は、久保田の誘いを辞退した。彼らの間には、彼らだけの多恵子との空間がある…そんな気がして、そこに割り込むのは嫌だと思ったのだ。

 “駄目だ、多恵子、ここに”―――慎二が夢にうなされて言っていた言葉の意味が、やっと分かった。“駄目だ、多恵子。死ぬな。ここに―――この地上に留まってくれ”。…きっと慎二は、毎年、多恵子が死んでしまう夢を見ていたのに違いない。
 ならば、多恵子の死を受け入れた今年の7月5日は、むしろ去年までより穏やかな1日になるのかもしれない。やはり、“話すべき時”はあったのだと、透子は改めて思った。

 

 レポートが終わった金曜日の昼休み、思い切って千秋に事実を打ち明けた。
 「はぁ!? 行方不明!?」
 そう叫んた千秋は、中庭のベンチを蹴倒すのではないかという勢いで立ち上がった。
 「何をのんびり大学に来てるんだ、透子。捜すぞ!」
 「え? あああ、いいのいいの、捜さなくていいんだってばっ」
 バイク置き場へと向かおうとする千秋のTシャツをぐいぐい引っ張って、透子は大慌てで彼女を止めた。思い立ったら即実行―――どうもこの辺り、透子、荘太、千秋3人ともに共通する性分らしい。
 「いいの、って…行方不明ってことは、行方が分からないってことだろう! 捜すに決まってるじゃないか!」
 「ごめん、言い方悪かったかもしれない。どちらかと言うと、行方不明じゃなく放浪の旅―――旅に出たことは分かってるんだけど、行く当てのない旅だから、今どこにいるか分からないの」
 「…それって、いつ帰ってくるんだ?」
 「う…、それも、不明」
 「…行方不明に近いな。大人じゃなかったら、捜索願がとっくに出てるぞ」
 溜め息をついた千秋は、それでも一応事態を飲み込めたのか、すとんと透子の隣に腰を下ろした。
 近くに立つ大きな銀杏の木の葉陰に入って、中庭のベンチは真夏でも結構居心地が良い。風が銀杏の葉を揺らしてサラサラ音をたてるのを聞きながら、千秋は小さく溜め息をついた。
 「放浪の旅、か…。しかしなぁ…大丈夫か、あの同居人。放浪先で、胸でも患って病に倒れそうな風貌だぞ」
 「そ…それは…いくらなんでも、松尾芭蕉の時代じゃないんだから」
 「…大丈夫じゃないのは、むしろ、透子の方か」
 「……」
 「6月辺りから様子がおかしかったのは、同居人が放浪したからだろう? …大丈夫なのか、1人で」
 少し心配そうに眉を寄せる千秋に、透子は一瞬動揺しかけたが、気を取り直してニッコリと笑った。
 「…ん、大丈夫。この前まではかなり苦しくて、もう一生分の涙を流しきっちゃったかも…って思った位だったんだけど―――慎二の知り合いの人とかに会って、色々話を聞いて、やっと最近落ち着いてきた。2、3ヶ月は1人でもやっていけるだけの覚悟はしたから、もう泣き言は言わないよ」
 「そうか…。なら、良かった」
 透子の言葉が本心だと、ちゃんと察してくれたらしい。千秋は表情を和らげると、そう言って微かに笑った。
 「小林には、私から言うよ。あいつ、まだ完全には透子から気持ちが離れてないからな―――下手にこの話したら、また気持ちグラつかせて情緒不安定になるだろうから」
 「ん…ごめん。実はそれを千秋に頼みたかったんだ」
 「はいはい。全く…まるで透子と小林専用のカウンセラーだな、私は」
 苦笑しつつそう言う千秋は、まあ頑張れ、という風に、ぽんぽん、と透子の頭を撫でた。
 ―――私って、友達に恵まれてるよなぁ…。
 頭の上で踊る細い指にくすぐったさを感じながら、透子は、辛い時にこうしてさりげなく力になってくれる存在に、心から感謝した。


***


 慎二が出て行ってから3週間経った、その週の土曜日。
 他のバイト仲間との兼ね合いでバイトが入れられず、しかも荘太や千秋も予定があって、完全に暇になってしまった透子は、ひとり部屋の中でゴロゴロしていた。
 ―――やだなぁ…。こういう時間が、一番嫌なんだよなぁ…。
 クッションを抱きしめた透子は、溜め息をつき、ごろんとベッドの上に転がった。
 寝転がって見上げた部屋の様子は、あまり見慣れた光景ではない。そう―――今寝転んでいるのは、慎二の部屋のベッドだ。MDデッキを自分の部屋から持ち出し、“マイ・フェイヴァリット・シングス”をエンドレスで流しながら、慎二の部屋でゴロゴロしているのだ。
 目を閉じると、微かに慎二の気配を感じる気がする。
 ほんの微かに感じる、油絵の具の匂い―――絵を描く時は、必ず家中を開け放って、油絵の具の匂いがこもってしまわないようにして描くのだが、それでも微かに匂いが残ってしまう。慎二の部屋独特のこの僅かな残り香が、透子は結構気に入っていた。
 …慎二…今頃、どこで何描いてるかな…。
 目を閉じて、いろんな風景を思い描く。あのひまわり畑は、もう見つかっただろうか。それとも、ひまわり畑を探す途中、どうしても描きたいような風景に出会ってしまって、そこで毎日絵を描いてるだろうか。
 少し位は、透子のことを思い出してくれる時もあるのだろうか。
 ―――私は、24時間、慎二のこと考えてるのに…ね。
 「…っと、いけない」
 ホロリ、と涙が零れ落ちてしまい、透子は慌てて涙を指ではらった。一時期のような泣き腫らすような泣き方はもうしないが、それでも慎二が恋しくなると、こうやってすぐ涙が出てきてしまう。
 目をごしごしと擦り、もう一度閉じる。クッションを更にぎゅっと抱きしめて音楽に意識を集中しようとした時、玄関の呼び鈴が鳴った。
 「……?」
 寝転んだまま、パチッ、と目を開けた透子は、数度瞬きをし、起き上がった。
 ―――誰だろう?
 慎二かもしれない、という可能性は、何故か出てこなかった。虫の知らせというか、第六感というのか、慎二ではないと本能的に感じていた。けれど、家を訪ねて来る可能性のある人間は、今日はみんな忙しい筈。では…誰だろう?
 魚眼レンズから外を覗いてみて、怪しい人物なら居留守を決めこもう―――そう考えた透子は、ソロソロと足音を忍ばせながら、玄関へと向かった。
 ちょっと背伸びをするようにして、レンズに目をくっつける。よく見えなくて、もう少し背伸びをした。
 そして、外の様子を確認した瞬間―――透子の目が、丸くなった。
 「……え…っ」
 歪んだ視界の中、辛うじて写っている、見覚えのある顔。会ったのは1回きり―――でも、もう一度会ってみたいと思ったその人の顔だ。
 慌ててチェーンを外し、鍵を開ける。勢い良くドアを開けると、驚いて少し後ろにさがったその人が、更に後ろにいたもう1人にぶつかってしまった。
 「いてっ」
 「あ、ごめん」
 「うわ、ご、ごめんなさいっ!!」
 3人が同時に声を上げる。一瞬、そのあまりにもピッタリなタイミングに3人揃ってキョトンとした顔をしたが、慌てふためき顔を赤らめる透子の様子に、外にいた2人は苦笑してしまった。
 「良かった。家にいるかどうか確認しないで来ちゃったけど、ちょうど家にいたんだ」
 手前に立つ彼女が、そう言って微笑む。けれど、事態の飲み込めない透子は、ポカンとしたままだった。
 「えっと…私達のこと、覚えてるかな」
 ちゃんと覚えている。彼女は、佐倉が「藤井さん」と呼んでいた、あの真っ黒な長い髪をした女性。後ろで、あまり気乗りしなそうに立っているのは、あの成田という名の男の人だ。透子はポカンとしたまま頷いた。
 「あ、これ、お土産ね」
 「……」
 手渡されたのは、ひまわりの花束―――透子の視界が、一気にひまわり色に染まった。
 「瑞樹と一緒に、浅草まで写真撮りに来たから、ちょっと寄ってみたの。久保田さんから連絡もらってたし。…透子ちゃん、もし暇なら、一緒に行ってみない?」
 ひまわり色の向こうで、彼女がふわりと微笑む。
 慎二を思い出させる、柔らかな色をした笑顔―――ついさっき拭い去った涙が、その笑顔に揺り戻されてしまった。
 「―――…っ…」

 駄目だ―――こういう笑顔見ると、寂しさが我慢できなくなる。

 気づけば透子は、彼女に抱きついていた。抱きついて―――声を殺して、泣いてしまっていた。


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