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4月10日(火)
母ちゃんの様子がおかしい。
今日、帰ってきたら、なんだか呆然とした顔をしていて、夕飯の間もずっとぼんやりしてた。
今朝は普通だったから、よっぽど仕事で大変なことになったのかな、と思ったけど、そういう時の母ちゃんは「セキカワさんなんて」とか言って爆発するタイプだから、違うのかもしれない。
そしたら、風呂に入る前、いきなり聞かれた。
「あんた、お父さんがどんな人か、会ってみたいって思う?」
オレの答えは、即答「ノー」だった。
そりゃ、気になるか、と言われたら、はい気になります、なんだけど―――会いたいか、と言われたら、別に会いたくない。強がりでも何でもなく、はっきり言って興味ない。
母ちゃん本人にも、誰だか分からないっていう、オレの父ちゃん。それってつまりは、母ちゃんが本当に好きだった相手じゃない、ってことだ。母ちゃんが本当に好きだったのは、忍を除けば、これまでに兄ちゃんしかいないんだし。
母ちゃんが好きだった人だからこそ、兄ちゃんも忍も、オレにとっての「特別」なわけで。
母ちゃんが好きでもなんでもない、ただやる事やったからこうしてオレが生まれた、ってだけの相手なら、「特別」でもなんでもない。くじ引きで1等賞取るのと同じような偶然で、オレって子供が残せただけに過ぎないんだから。
そんな、ただの偶然野郎を、兄ちゃんや忍より上に思うなんて、絶対ムリ。
なのに、遺伝子提供したからってデカい面されたら嫌だから、会いたくない。
なんで急にそんなこと聞くんだ、って聞いてみたけど、母ちゃんは答えなかった。
さっき、こっそり見に行ったら、なんだか電話しながら泣いてた。電話コードをくるくるやってたから、電話の相手は忍だと思うけど…まさかとは思うけど、忍とそのことでケンカでもしたんだろか。
明日になってもまだおかしいようなら、ちょっと聞いてみよう。
【一口メモ】
恭四郎が、園田さんに「遊びに来ない?」って誘われた、ってすんごい嬉しそうに報告してきた。
2年でも同じクラスになれた時も、もう死んでもいい、みたいな顔してたけど、今日のはそれを上回っていた。
…オレは、一緒に喜んでやっていいんだか、親友にこれから降りかかる不幸を思って泣けばいいんだか、分からない。
とりあえず、オレはクラスが別になって、幸せだ。ああ、でも、綾瀬さんとも離れちゃったなぁ…。
同じクラスの、まだ名前覚えてない子たちのグループに、その頭天然? てまた聞かれた。何度答えたら覚えるんだよっ。
***
「あれ、舞ちゃん?」
営業の途中、三ノ宮の繁華街で声をかけられた。
寸前まで保険の切り替え相談に乗っていた客が、舞が一番苦手としている客だったので、ちょうど気分がダウンしていたところだった。いつもより覇気のない顔で、いつもよりだらけた様子で歩いていたら、声をかけられたのだ。
驚いて振り向いた先には、1人の男が立っていた。
年のころは40代半ば―――ダークグレーのスーツ姿から察するに、きっと相手も仕事の途中だろう。手にしたブリーフケースは、かなりの高級品らしいが、いかにも使い込まれたような雰囲気だった。
―――誰?
はっきり言って、記憶にない。
営業職である以上、顔見知りは数限りなくいる。保険を勧めた相手の顔なんて、いちいち覚えている訳がない。でも―――“舞ちゃん”。そんな呼び方をするのは、10年以上前の知人だけだ。イズミが生まれてから先、醸し出すムードが変わったのか、舞は決して“ちゃん”付けで呼ばれることは無くなったのだから。
――― 一体、誰…?
嫌な汗が、瞬時に、背中を伝う。
何故なら、それは―――…。
「舞ちゃんだよね、違う?」
「…ええ」
「ああ、やっぱり。でも、その顔じゃあ、舞ちゃんの方は覚えてないみたいだな」
苦笑する彼に、舞は、返す言葉がなかった。ただ、渇ききった喉を無理矢理コクンと言わせ、急速にせり上がってくる動揺を誤魔化すことしかできなかった。
全然、記憶にない男。
…でも。
目の前のこの男の髪は、恐ろしいほどに―――イズミの髪とそっくり同じだったのだ。
***
その15分後、舞は、近くの喫茶店で、男と差し向かいで座っていた。
お互いにアイスコーヒーを注文し、それが運ばれてくるのを待っている間、男が簡単な説明をしてくれた。それで、舞はちょっとだけ、霧の彼方に隠れていたこの男の正体を思い出した。
男は、尾崎と名乗った。
「あの頃、2年ばかり、こっちの支社に出向になってたんだ。ママさんの店に、週に2回ほど通ってたかな。ママさんも美人だったけど、いつもカウンターから出てこない、ふくれっ面の美女が気になってね」
と男が言う通り、高校受験直前を除いて、当時の舞は、母の店を手伝っていた。と言っても、客の相手は全て母の仕事で、舞の仕事は酒の準備や洗い物だったのだが。
「大人びてたから、まだ高1って聞いた時には驚いたよ」
「…えっ」
その言葉に、舞は初めて、驚きの表情を浮かべた。当時、店の客には絶対に年齢を明かさないのが、母との無言のうちの約束だったのだ。未成年を夜の店で働かせるという法律違反を犯していたのだから、当然だろう。
「い、いつ、あたし、そんな…」
「…ああ、それも覚えてないか。いや、舞ちゃんは覚えてなくて当然かな。僕としては結構、衝撃的な経験だったんだけどなぁ」
苦笑した男は、まだ運ばれてこないアイスコーヒーの代わりに、ほのかにレモンの香りのする水を少しだけ飲んだ。
「あれは、僕が神戸出向を終えるちょっと前だったから…6月か7月辺りかな。休みの日に偶然、店の近所を通りかかったら、変な男2人にふらふらくっついてく舞ちゃん見かけて、慌てて止めに入ったんだけど」
「―――…あ」
思い出した。
色あせた記憶の中、その瞬間のことが、突然パッと脳裏に蘇った。そして、勿論―――その後のことも。
「あれが、尾崎さんだったんだ…」
「やっと思い出せた?」
クスクス笑う男の顔を、舞は呆然とした表情で眺めた。
それは、舞が高校1年のことだった。
舞の高校進学以来、母のもとに男がそれまで以上に頻繁に通うようになり、舞は余計、行き場を失っていた。で、当時、すっかり荒んだ少女に成り果てていた舞は、その切なさややるせなさを、母に当てつけるかの如く、男で紛らせていた。
尾崎の言う“変な男2人”も、そういう相手だ。今となっては何者だったのか、全く見当もつかないが―――とにかく舞は、その2人の誘いに乗った。
ところが、それを、名前も知らない店の常連客が止めた。
『舞ちゃん! 遅れてごめん。待ち合わせ場所にいないから、探しちゃったよ』
完全な嘘だったが、さほど上背はないものの、整った顔立ちとセンスの良い服装をした大人の男の出現に、多分舞とさして変わらない年齢だった2人は怖気づいた。大した文句も言わず、さっさと舞を解放して、どこかへ消えてしまったのだ。
『あの連中、この界隈で、強請りたかりの類をやってる奴らの仲間だろう? 何があったのか知らないけど、不用意について行くと、とんでもない目に遭うよ』
大人らしい分別でそう言うその男に、当然、舞は噛み付いた。
『冗談じゃないわよ。あたしもその気でいたのよ。それをあんたが邪魔したんだから―――この暇になっちゃった時間、どうしてくれるのよ』
家には帰れない。そこで何が起きているか知っているから、絶対に帰れない。でも、舞には、どこにも逃げ込む場所がなかった。
だから。
『あんたがその責任、とってよね』
泣きながら、母と愛人のことを打ち明けたような記憶もある。お母さんも君を育てるために必死なんだよ、なんて諭されて余計反発したような記憶もある。
あたしがいろんな男と寝てるから、汚れてるから抱けないんでしょ、と食ってかかるのは、優等生な男に対してならいつものことだ。そして、その後はお決まりのパターン―――誘惑し、陥落した。それだけのことだ。
その男との行為そのものは、あまりはっきり覚えていない。
多分、紳士的だったのだろうと思う。けれど、紳士的な男はその男1人だった訳ではないから、さほど印象深かった訳でもない。ただ、そのことがあって以来、その男が店に現れなくなったのだけは、なんとなく覚えている。
―――でも、こんな顔だった?
どうしても、そこに考えが行き着いてしまうから。
「…尾崎さんて、昔からそんな顔だった?」
思わず、疑問をそのまま口にした。
ちょうど運ばれてきたばかりのアイスコーヒーにガムシロップを入れていた男は、舞の言葉に、ちょっと目を丸くした。
「と思うけどね。特に整形した覚えもないし」
「でも、なんかちょっと、あの時のお客さんと尾崎さんとが、頭の中で上手く繋がらないんだけど」
「―――ああ、それなら」
何か思い当たる節があったらしい。男は、納得したような顔になると、やおらブリーフケースの中から何かを取り出した。
それは、ノンフレームの眼鏡だった。男はそれをかけ、にっこりと舞に笑いかけた。
「数年前に、コンタクトレンズに変えたんだけど―――当時はこういう眼鏡をかけてたよ。それに、髪を黒に染めてたんだ」
「髪を?」
「ああ。神戸支社の上司が、うるさい人でね。このツートンカラーは僕の地毛なんだけど、“そんな頭で商社マンが務まるか! 今すぐ染めて来い!”って頭ごなしに命令したんで、面倒だから染めてたんだよ」
「……」
明るい茶色に、ところどころ混じる、金色のメッシュ―――全体に、イズミの頭を、1トーン明るくしたような感じのする色合いだ。
それを、頭の中で、黒く塗りつぶす。…確かに、なんとなく見覚えのある顔に変身した。
「てことは、それが尾崎さんの本来の頭なのね」
「そうだよ。曾祖父の結婚相手がドイツ人で、その先祖がえりらしい。小さい頃には結構苦労したよ」
「…でしょうね」
―――イズミも、苦労してるもの。
ガムシロップも、コーヒーフレッシュも入れる気になれない。舞は、ブラックのまま、アイスコーヒーを口にした。
冷たいコーヒーが喉を通る。
体を巡る血液までもが、ひんやりと冷たくなった気がした。冷たい―――心臓の代わりにフリーザーでも胸に詰まっているのではないだろうか。そう思うほど、舞の体の内側は冷たくなっていた。
決定的証拠など、何もない。
でも、否定するには、あまりにも条件が整いすぎていた。
あまりにもよく似た、先祖がえりの特徴的過ぎる髪。高1の夏という、計算にピタリと符合する時期―――そして、実際に、そうなってもおかしくないだけのことをした、という事実。
まさか。
まさか、今になって―――こんなことが分かろうとは。
「…あれから、どうしてたの?」
さりげない口調で舞が訊ねる。
イズミの存在など疑ってもみない男は、それに素直に答えた。
「ああ、実は―――さっきも言ったとおり、その直後、出向が終わってね。東京に戻ったんだよ。最後に店にも寄ろうと思ったんだけど…やっぱり、ちょっと気まずくてね。後にも先にも、浮気はあれ1度きりだから」
「東京にいた彼女にバレた?」
「ハハ…、バレてたら、こうして結婚してなかったかもしれないね」
そう言う男の左手の薬指には、銀色の指輪が馴染んでいた。東京に戻ったら結婚することになってるんですよ―――いつだったか、店でそうノロけていたのを思い出した。遠距離恋愛なんて続くわけないわよ、と、カクテルを作りながら冷ややかに見ていた自分のことも。
「幸せそうな笑い方するのねぇ…。15年経ってその顔じゃ、バレても破談にはならなかったんじゃないの」
少しからかうように言うと、男は「まいったな」などと言いながらも、それを否定はしなかった。ただ、ひとしきり照れた後、少しだけ寂しげな表情になった。
「確かに、幸せだよ。でも―――唯一、子供に恵まれなかったのが、ね」
「……」
「僕も彼女も子供好きだから…もし1人でもいいから授かっていれば、って思いは、今もある。医者からは見離されてるに等しいけど、ギリギリ可能性は残ってるから、まだ諦めてはいないんだ」
「…そうなの」
「舞ちゃんは? 考えてみたら、もう―――うわ、30か。月日の経つのって早いなぁ。僕が老ける訳だ」
露骨にうんざりした顔になる男に、舞はクスッと笑い、テーブルの下の脚を組み直した。
「来月には、31になるわよ、あたしも」
「そうか。…ますます落ち込むなぁ。結婚は?」
「ううん、まだ。でも、かなり幸せよ」
「ふぅん…彼氏でもいるの」
「まあね」
そう言って、舞は、強気に口の端を吊り上げた。
「恋人が、2人もいるの。…今、人生で一番幸せな時期だと思うわ。本当に」
***
呼び出し音が、もどかしかった。
繰り返される無機質な音を聞きながら、舞は、手にしていた名刺を、無意識のうちに何度も折り曲げていた。今日、別れ際にあの男と交換した名刺だ。
あと1回で留守番電話サービスになる、というところで、やっと電話は繋がった。
『はいはいー』
「忍さん?」
『あー、舞さん。堪忍な。ちょうど電車降りてる最中やってん』
そう言う忍の声のバックには、まだ駅の周囲だからなのか、ザワザワと人の声や車の音などが混ざっていた。
「今、大丈夫なの?」
『ええよ。何?』
何、と言われると、何から話せばいいのか、一瞬迷う。
けれど、話すべきことなど、結局1つしかない。憂鬱な気分を飲み込んで、舞はゆっくりと口を開いた。
「…今日ね。信じられない人に会っちゃった」
『信じられない人?』
「多分―――イズミの、父親」
忍が、ちょっと息を呑むのを感じた。
少し、間が空く。立ち止まったのか、歩きながらの電話のように感じられたバックの音が、動きを感じられないものに変わった。
『―――それ、ほんまに?』
「うん…ほぼ、間違いないと思う」
『…ちょっと、待っててや』
その言葉と同時に、また背景の音が動き出す。どこか、落ちついて話ができる場所に移動しているらしい。
僅かな無言の後、何故か、キイキイという、金属同士が擦れるような妙な音が聞えた。どこかで聞いた音だな…と思ったら、それはブランコの鎖が揺れる音だった。
『―――お待たせ。…そんで? 詳しい話、聞かせてや』
舞は、順を追って全て話した。
あの男を覚えていなかったことは勿論、思い出したエピソードや、父親だと確信するに至った理由も、そして―――その男の置かれた現状も、全て。
忍は、あまり質問は挟まなかった。「それで?」と促すだけで、概ね黙って聞いていた。
そういう所は、不思議と、忍の友人であるところの“彼”に、何故か似ている。かつて、恋心を抱いた相手―――当時、まだ中学生だった彼も、やっぱり黙って話を聞いていてくれるような人だった。まるで共通項の見当たらない2人だが、舞にとっては、案外、そんな些細な部分が重要なファクターなのかもしれない。
「―――…結局ね、また東京にでも来る機会があれば連絡しておいでよ、って、名刺を渡されて、別れたの。それで、おしまい」
件の名刺は、既に幾重にも折りたたまれ、電話台の下に転がっている。舞の空いている手は、今は電話のコードを指でくるくると絡め取っていた。
『…なるほどなぁ…』
大きく息を吐き出しながら、そう相槌を打った忍は、そのまままた無言になった。
会話のない時間が耐えられない。なんだか、抱え込んだ不安が余計増幅されそうで。だから舞は、忍の言葉を待たず、先を続けた。
「イズミにもね、訊いてみたの」
『え?』
「お父さんに会ってみたいか、って」
『…イズミ君、何て言うてた?』
「…会いたくない、興味ない、って。昔からそうなの。お父さんが欲しい、とは言ったことあるけど、事情説明する前も後も、“お父さんてどんな人?”って訊かれたこと、一度もないんだもの」
『―――さよか』
「…あたし、どうするべきなのかな」
あ、まずい、と思った時には、声が涙声になってしまっていた。
昼間から、ずっと不安で、泣きたかった。口に出したせいで、それを抑えることが出来なくなったらしい。舞は、指に絡めた電話コードを、ぎゅっと握り締めた。
「イズミはああ言うけど―――実の父親よ? そりゃ、あたしの方には何の思い入れもないけど…イズミにとっては、やっぱり特別な存在なんじゃないかしら。ううん、今はそう思ってなくても、やっぱりいつかは知りたくなると思うのよ。父親はどんな人だったんだろう、って」
『…まあ、そりゃ…思うわな。どんな人やろ、位は』
「やっぱり、全部話して、会わせるべき?」
『舞さんは、どう思うん? 会わせる“べき”とかやなくて、舞さんは会わせ“たい”と思てるん?』
まさに、核心だった。堪えられず、涙が零れ落ちた。
「―――あたしは、ずるいのよ」
『ずるい?』
「会わせたくないの。もしイズミが会いたいって言っても、会わせたくない。だって、向こうは子供を欲しがってるのよ? 血の繋がった子がいるって分かったら、引き取りたがるかもしれないじゃない。イズミだって、自分そっくりな容姿した父親見たら、気持ちが動くかもしれない―――そんなの、嫌…絶対、嫌よ。イズミは、あたしの子供なんだもの」
『……』
「だから、あの人に再会したことも、このまま黙っておこうとしてるの。イズミが興味ないって言ったのをいいことに。…ずるいって分かってる。親のエゴで、子供の知る権利奪うなんて。でも―――…」
―――イズミがいなくては、生きていけない。
イズミの父親なんて、一度も欲しいと思ったことがなかった。
イズミを一人で独占できるから、むしろ、父親が分からないのは好都合だった。イズミは自分だけの子供―――それでいいと、ずっと思ってきた。
でも、イズミ自身は?
そして、このことを知ったら、あの男は―――イズミとそっくりなあの男は、どう思うだろう?
考えれば考えるほど、自分の望まない結果になる気がして、舞は怖かった。だから、あの男と再会した時、その恐怖に身が凍ったのだ。
「ねぇ…あたし、どうすればいいと思う? 忍さんならどうする?」
半ば泣きじゃくりながら言う舞に、電話の向こうの忍は、少々困っているようだった。
『ああー、泣かんといてや。泣かれると、ボクも上手いこと話されへんで』
「…ごめん…」
『い、いや、謝るのもナシで頼むわ、ほんまに』
「じゃ、どーすればいいのよっ」
電話台の傍にあったティッシュを、おもむろに数枚、乱暴に手に取る。ああカッコ悪い、と思いながらも、そのティッシュで涙を拭った。これが電話だったのが幸いだ。先月、とんでもない醜態を晒してしまっただけに、これ以上酷い様を、忍に見られたくはないから。
舞が泣き止むのを待つようにあいた、暫しの沈黙の後。
『―――ボクならどうするか、言うんは、正直、なんとも答えられへんわ』
忍は、そう切り出した。
『舞さんにとってのイズミ君と同じ位、大切なものなんて、ボクにはあらへんし。そら、常識だけ考えるんやったら、何とでも言えんで? けど、常識で割り切れるもんと違う部分もあるやろ。せやから、当事者にしか分からん気持ちを無視して、他人がしたり顔で“あるべき論”を振りかざすなんて、そんなことできひん』
「…勝手にしろ、ってこと?」
『そうやないって。ボクが言いたいんは、ボクのことだけやない。イズミ君のお父さんのことや』
「…えっ」
『イズミ君のお父さんは、部外者やないけど、ある意味部外者やろ』
「……」
『イズミ君にとっての家族は、舞さんだけやねん。舞さんにとっての家族が、イズミ君だけなのと同じで。せやから、“当事者”は舞さんとイズミ君だけ―――なんぼ父親や言うても、舞さんとイズミ君の2人で築いてきた歴史より、血の繋がりが優先するなんて、絶対ありえへん。遺伝子の繋がりだけを理由に、自分の権利だけ主張するなんて、許されへんわ。もし、子供が欲しいから好都合や、っちゅー打算が働くんなら、尚更や。愛情より打算が勝るなんて、それこそ“あるべき論”でも“許されるべきやない”ってなるやろ』
「…でも…」
『舞さんは、イズミ君をその人に、会わせたくないんやろ?』
いつにない忍の強い口調に、舞は言葉を飲み込んだ。
『イズミ君も、実の父親なんて興味ない、言うてるんやろ?』
「…ええ」
『―――なら、ええやんか。それで。舞さんとイズミ君の望みが一致してるんやから』
「……」
『前、言ったやろ。イズミ君は、キリストと同じやって。父親は神さん、母親は舞さん。…それで、ええやんか』
「―――…ええ…そうよね」
…そうよね。
最初から、答えは出ていた。舞も、イズミも、“本当の父親”なんて人間を、家族に加える気は毛頭ない、と。
だから、“そうよね”と確認できただけで、十分。
周囲が何と言おうと―――理解してくれる人が、少なくとも、ここに1人、確かにいる。それで十分だ。
『…っちゅーか…むしろ、舞さんの方がどうなんやろ、て思うけど』
納得した舞が、やっと口元を綻ばせたところに、何故か忍が、そんなことを口にした。
「あたしの方が、って…なにが?」
『いや、その』
ゴホン、とわざとらしい咳払いをした忍が、なんだか言いにくそうに続けた。
『その―――イズミ君が授かったほど、縁のある人やろ? それに、イズミ君に似てるんやったら、結構男前なんとちゃうか』
「? そうね。世間一般で言えば、いい男の部類に入るんじゃない?」
『…惜しいとか、そういうこと、思わへん?』
「惜しい?」
『もっと早い時分に分かっとったら、その…もしかしたら、当たり前の家族3人になって、幸せに暮らせたかもしれへんやのやし』
「―――…あーあ、そういうこと?」
忍の言わんとしていることが分かり、舞は器用に片方だけ眉を上げた。冗談じゃないわよ、何言ってるの、という風に。
「そうねぇ。一流商社に勤めてるし、そういう意味では、もっと早く分かって“認知しろ”とでも迫れば、もっと楽な生活送れたかもねぇ」
『…いや、そういうことが言いたいんとちゃうんやけど』
「でも、あたしにとっては、それと同じことよ」
ニッ、と笑った舞は、床に落ちていた名刺の成れの果てを拾い上げ、それを、少し離れた所にあるゴミ箱に向かって投げた。
見事、一発でシュート。
「あたしはね、本気で惚れた男以外と、一緒に暮らす気はないの。たとえそれが、イズミの本当の父親でも、ね」
***
4月12日(木)
昨日に引き続き、本日も母ちゃんに変化なし。
…うーん、何だったんだ。おとといの、あのおかしな母ちゃんは。
思い切って忍に電話してみた。電話しながら母ちゃんが泣いてたことも言ってみたけど、忍は「仕事で辛いことがあったらしいから」としか言わない。ほんとかよ。あの母ちゃんが泣くなんて、一体どんないじめを受けたんだか。
まあ、いいけど。元気になったんなら。
ただ、今日、変なことを言われた。
「あんた、忍さんと一緒に暮らしてみたい、って思う?」
…いや、そりゃいくらなんでも飛躍しすぎだろ、母ちゃん。
まずは忍を落としてから吐けよ、そういうセリフは。
でも、そーゆーこと考える位、母ちゃんは忍にホレてるってことなんだろうなぁ…。いまだに、どこがツボなのか教えてくれないけど。
あ、忍にもまた聞き忘れた。
<近いうちの行動計画>
・母ちゃんに忍のどの辺が好きなのか聞いてみる
・ついでに、忍にも同じことを聞いてみる
…これ書くの、もう4回目だし。オレ、やっぱ脳みそ足りないのかもしれない。母ちゃん頭いいのに…。父親がよっぽどバカだったんだな。誰だか知らんが、オレはあんたを恨む。
【一口メモ】
…恭四郎。分かるぞ。言いたいことは分かる。だから何も言うな。
女は園田さんだけじゃないんだ。お前の理想の女も絶対どこかにいる! だから、一緒に強く生きような。
でも、いくらお前の究極の理想がうちの母ちゃんだからって、母ちゃんだけは絶対やらないぞ。
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