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 05: 香乃、茶会を開く

 6月の、とある日曜日。

 「忍さん」
 廊下を向かい側から歩いてきた母に呼び止められ、忍は、庭に出ようとしていた足を止めた。
 「は?」
 「ちょっと、よろしおすか」
 高級友禅に身を包んだ母は、そう言って茶室の方に視線を流した。
 母が改まった話をする時は、場所は茶室と昔から決まっていた。どうでもいい話も茶室だが、そういう時は「ちょっとよろしおすか」などと声をかけない。2つの事実から導き出されるのは―――母は、最近になく改まった話をする気でいるらしい、ということだ。
 こういう時の母に逆らってはいけない。忍は、庭に遊びに来ていた猫に「堪忍なぁ」と声をかけ、渋々茶室に入った。
 先に茶室に入った母は、いつもの定位置に既に正座していた。忍も座布団を引っ張ってきて、その真向かいに座る。
 長身の忍の正座は、若干、猫背気味である。比べて母は、定規でも背中に挿してるんやないか、と言われるほどに、背筋が通っている。座ってしまうと、どういう訳か、忍よりはるかに背の低い母の方が、断然恰幅良く、大柄に見えてしまう。
 ―――アカンなぁ…。これだから、うちの男連中は、お母ちゃんに頭が上がらへんのや。
 兄も、父も、忍以上の猫背である。真剣勝負の話し合いは“和室で正座”と決まっている中尊寺家で、母が最も強い地位を確保しているのは当然のことだろう。
 「…さて」
 襟元をピリシと直した母は、真っ直ぐに忍の顔を見つめ、意味深な笑みを口元に浮かべた。
 「綾香さんから、聞きましたえ」
 「えっ」
 「最近、忍さんが週末によう神戸に行かはる理由を」
 ―――あ、綾香ちゃんから!?
 とんでもない話に、背中が寒くなった。

 綾香、とは、忍の父方の従姉妹である。
 綾香の家は、忍の家の隣にあるが、普段、綾香はそこにはいない。世界中を“遊学”して回っているのだ。
 最初はアメリカだった。次はカナダだったっけ。その後暫く日本にいたと思ったら、香港・シンガポール・タイ・インドネシアというアジア諸国巡り。エジプトとかイタリアにもいたことがあると思う。それぞれの期間は2、3ヶ月なのだが、合計した結果、ずーっといない、という状態が何年も続いている。
 その綾香は、去年の秋、一度日本に帰ってきた。
 その時に、忍の兄から余計なことを聞きだしたらしいことは、忍も知っていた。
 そして、先日―――また綾香が、帰ってきた(今回はモンゴル帰りである)。仕事で忙しかった忍は、そのニュースを聞かされても「ああ、また帰ってきたんかい」で終わりだったのだが…まさか、裏で母に妙なことを吹聴していたとは。

 「な…何聞いたかしらんけど! 綾香ちゃん情報は鵜呑みにしたらアカンで! 絶対にっ!」
 思わず数歩、前に膝歩きで進み出た忍は、必死の形相で母に言い募った。すると母は、冷ややかな目つきで忍を見下ろた。
 「…何をそないに慌ててはりますのんか。なんぞやましいことでもあるのんか?」
 「ある訳ないやんか! ないのに“ある”ような事を綾香ちゃんが言うたのが想像つくから、こうして慌ててるんやて…!」
 「―――2つ年上の、中1の子持ちや言うのも、忍さんの言わはる“鵜呑みにしたらあかん情報”どすか?」
 「…ああ、もう…そういう“情報”のことを言うてんのとちゃうわ」
 はあぁ、と大きなため息をついた忍は、困ったように頭を掻き毟った後、勢いよく顔を上げて母を見据えた。
 「…あんな、お母ちゃん。そういう細かい部分のことを鵜呑みにしたらアカン言うてる訳やない。多分綾香ちゃんは、その“2つ年上の中1の子持ち”のことを、ボクの彼女みたいにお母ちゃんに言うたんやろ?」
 「違いますのんか」
 「違います! ただの友達やねんから―――舞さんも、息子のイズミ君も」
 途端、母の顔が、露骨にガッカリした表情になった。
 「なんや…相変わらずの“あかんたれ”どすなぁ、忍さんは」
 「…綾香ちゃんのガセネタ1本で、“あかんたれ”扱いせんといてくれますか」
 「“マリリン・モンローもハイヒール抱えて逃げ出すべっぴんさん”や、言うてはりましたえ、綾香さんは」
 ―――って、舞さんに会うたことないやんか、綾香ちゃんっ!
 兄が発した「どうやら相当な妖艶美人らしいぞ」という言葉から、どうしてそこまで勝手に舞の容姿を誇張できるのだろうか。
 「それに―――忍さん。去年の秋頃から、よう携帯電話に電話がかかってきてる様子どすな」
 「えっ」
 「それほどのべっぴんさんが、あちらさんから電話しはると言うことは、あちらさんが忍さんに入れあげてる証拠と違いますやろか。それを“友達”のままにしてるやなんて―――“あかんたれ”言われても仕方ないのと違いますやろか」
 「……」
 ―――母の勘、恐るべし。
 何故、忍にかかってくる電話が急激に増えたのを知っているのか、その辺りがどうにも不思議で怖いが、それは事実である。舞に、友情以上の好意を寄せられているのも、事実である。そして―――それを“友達”のままにしている主な原因は、忍側にある。
 「子持ちやさかいに、深入りしとうない、思うてますのんか」
 母の目尻が、微妙に吊り上った。
 冗談ではない。忍はぶんぶん首を横に振った。
 「そ、そないな訳、あるかいなっ。ボクが気に入っとんのは、むしろ、舞さんよりイズミ君やで?」
 「ほな、気持ちに応える気になれへんほどに、いけずなお人やのんか」
 「いや、中身は、外見よりサッパリしとんで。そういう問題ちゃうねん。なんちゅうか―――お母ちゃんも、()うたら分かるわ、きっと。なんでこんな人がボクに? って疑問がどーしても先行してもーて、本気にできひんタイプやねんて」
 「…そうどすか」

 一瞬。
 母の目が、意味深に光ったような気がしたのは、単なる気のせいだろうか。
 いや。気のせいではなかった。何故なら、続いて母は、勝ち誇ったような笑みを浮かべて、こう忍に言ったのだから。

 「ほんなら、直接この目で確かめるしかおへんなぁ」
 「いっ!?」
 「会うてみれば分かる、言うんやったら、会うてみるまでのこと―――なんぞ、文句でも?」

 


 6月10日(日)

 …えらいことになった。
 来週の日曜日、母ちゃんと2人で、大阪にある忍の家に行くことになった。しかも、向こうで、忍のお母ちゃんがお茶をたてるとか言ってる。
 電話受けた時の母ちゃん、顔が真っ白だった。マジで倒れそうになったので、後ろから支えてやった。
 「あたしんとこ、裏なんだけど、大丈夫かなぁ」としきりに不安がってたけど、裏って何だろう。オレにはよく分からない。
 忍は電話口で何度も何度も謝ってた。「ほんま、申し訳ない、はめられたわ」って。
 ……誰に?


 【一口メモ】
  隣の学校との交流試合にフル出場。最後に恭四郎が決めた3ポイントで、うちがせり勝った。
  応援に来てた隣の学校の女の子に、タオルを渡された。「お疲れ様」って言った笑顔が、結構可愛かった。
  でも、これ…一体、どうやって返せばいいんだろう?


***


 時代劇で見る武家屋敷のような門構えに、ででん、と立派な、大きな表札―――“中尊寺”。
 「―――寺と間違える奴、おるんやないかなぁ…」
 「…確かに、そうね」
 舞とイズミは、初めて見る忍の実家のいきなりの威圧感に、暫し言葉を失った。

 忍の実家については、多少、聞き及んでいた。
 古くから続く商人の家で、土地持ちでもあるため、かなりの資産家とのこと。忍曰く「歴史は古いが由緒は正しくない成金」―――まあ、その昔は、通行手形を携帯し忘れると、関所で踊ったり歌ったり漫才をやったりして誤魔化して通してもらったというご先祖がいたのだから、あまり由緒は正しくないのかもしれない。
 そんな中尊寺家の面々は、現在は、全部で4名。
 主である忍の父については、舞もイズミも、あまり知らない。というか、会社ではどうだか知らないが、家庭において父の存在は極めて希薄なのだそうだ。
 その代わり、家庭の中心を担っているのが、忍の母。京都の名家の末っ子で、見合い結婚でなにわ商人の家に嫁いだ女性だ。祖父母亡き今、中尊寺家は彼女の王国なのだという。
 跡取りである忍の兄は、現在、あまりにも遅すぎる反抗期の真っ只中。ずっと父の言う通り、父の会社に入社して、真面目に働いていたのに―――数年前、いきなり屋久島の自然に感銘を受けてしまい、今では友達と共同出資して、屋久島にペンションを開いているのだそうだ。息子の突然の変貌に、父はうろたえ、母は「ええやないですか」と涼しい顔らしい。
 そして、忍―――父にイエスマンだった兄とは対照的に、母の庇護のもと「忍さんのお好きにしなはれ」精神で育てられた、ゴーイングマイウェイな次男である。

 「なんか…忍の家やと思うと、すんごいミスマッチなような、逆に面白すぎてピッタリなような…」
 銀髪にサングラス、という忍のファッションと、目の前に立ちはだかる寺院の入り口のような門構えとを比較し、イズミが噛み殺した笑いに肩を震わせた。
 すると、その直後。
 「―――何がピッタリやって?」
 背後からいきなり低い声が飛んできた。
 びっくりして2人が振り返ると、紙袋を手にした忍が、憮然とした顔で立っていた。
 「し、忍さん…出掛けてたの!?」
 「お母ちゃんに、お茶菓子買いに行かされててん。全く…悪趣味な門構えやから建て替えて欲しいって、昔から何度も言うてんのに…」
 忌々しそうに自宅の門を一瞥した忍だったが、視線を舞の方に移すと、バツが悪そうに笑った。
 「あー…、ほんま、今日は堪忍な、舞さん」
 「やだ、謝んないでよ。イズミがちょくちょく忍さんを連れ出してるから、申し訳ないな、ってちょうど思ってた頃合だったのよ。一度お世話になってること、家の人にお礼言っておきたかったから、ちょうどいい機会よ。ただ…お茶が、ねぇ…」
 「お茶点てる言うても、本格的な茶会やないから、ただフツーに座って、フツーにお菓子もろて、フツーに抹茶飲めばええよ。ボクかて子供の頃、裏千家やらされた口やけど、家では“自己流”やし」
 「けど、忍さんのお母さん、お茶にはうるさい方なんでしょ?」
 「忍の母ちゃん、元・京都のお姫さんなんやろ? 礼儀作法とか厳しいんと違うの」
 舞の不安を増幅させるかのように、イズミが口を挟んだ。舞の顔が、一瞬引きつりかけたが、それを払拭するみたいに、忍が豪快に笑った。
 「あははは、まあ、常識的な“礼儀”には、そこそこうるさい人やけどな。格式とか伝統とかいうのには、意外に無頓着やで。むしろ―――舞さんの方が、お母ちゃんのぶっとび加減について行けへんのとちゃうかと思って、ちと心配してる位やから」
 「……」
 本当だろうか?
 ちょっとホッとしながらも、なんだか信用しきれない。舞はやっぱり、いつもよりちょっと緊張した面持ちにならざるを得なかった。

***

 「ようおこしやす」
 出迎えた中尊寺家の女主人は、非常に美しい身のこなしで畳に両手の先をつき、軽く頭を下げた。
 つられるように、舞とイズミも、かしこまった態度で深々と頭を下げた。
 再び上げられた女主人の顔は、柔和な和風で、やはり忍に似ている。細かな造作が忍と違うだけで、こういう京美人に変身するものなのか―――イズミは、特殊メイクでも見せられたような気がして、思わずしげしげと女主人の顔を見つめてしまった。
 中尊寺香乃、と、女主人は名乗った。
 舞とイズミの名を聞いて、「どちらも綺麗な響きやなぁ」と、どこかうっとりした表情でその名前を褒めた彼女は、舞の隣に座る忍の方にチラリと視線を流し、意味ありげな笑いを浮かべた。
 「うちとこは、長男の雅も、弟の忍も、主人やのうて、うちが名前をつけましたんえ」
 「ああ…どちらも、京都っぽい感じの、風情のあるお名前ですよね」
 「主人は、自分が“一郎”やなんて平々凡々した名前やさかいに、雅の時には“太郎”、忍の時には“次郎”がええ言うてましたんやけどなぁ」
 「…母ちゃんが必死に止めた結果、お父ちゃんだけが平凡に浮いた名前になっとるけどな」
 楽しげに言う母に、忍がボソリと付け加えた。確かに―――香乃、雅、忍ときて…一郎。1人だけ、異様なまでに平凡だ。
 なんとなく、中尊寺家の構図が、名前にまで反映されている気がする。うくくく、と笑いそうになるイズミだったが、香乃からは見えない位置にある正座した足の裏を舞につねられ、噛み殺すのは笑いではなく悲鳴にとって代わった。

 暫し、世間話並みの会話をいくつか交わした後―――香乃は忍にお茶菓子を配るよう言いつけ、お茶を点て始めた。
 「ちょ、ちょっと、忍さん」
 ほい、と膝先に置かれたお茶菓子を見下ろし、舞は小声で、忍を制した。
 「ん?」
 「いいの? こんな出し方して」
 少し非難を含んだ舞の言葉に、一瞬キョトンとした顔をした忍だったが、その意味を理解してすぐに破顔した。
 「ああ。お茶会みたいに山形に盛られたお茶菓子から、お箸で1個取るんを想像してたんやね」
 「舞さん、お茶をやってはるの?」
 耳ざとくそのやり取りを聞きつけた香乃にそう言われる。舞は内心、しまった、と思いながらも、観念して答えた。
 「は…はあ。まだ始めたばかりですが」
 「表? 裏?」
 「裏千家です。あの…香乃さんは、表千家を小さい頃から習ってると伺ってたものですから」
 「今も週に1度は、お師匠さんに来てもろうてます。けど、茶道のお茶会の時はお作法に厳しゅうなるけど、家でのんびりお茶点てる時は、紅茶でクッキー食べる時と大差ないことしか言わしまへんえ。“茶道”をやる訳やのうて、“お茶を飲む”んやさかいなぁ」
 「……」
 「茶道は“道”―――お茶室入る所作からお道具、お茶菓子、お茶の出し方、お茶の飲み方…その全部を型通り披露することで、心を磨く行為を指すものですやろ。そないに“型”にこだわってしもうたら、お客さんは緊張するばっかりや。お客をもてなす主としては、お茶を楽しんでもらう方が大事やさかいに―――“茶道”と“お茶を飲む”は、全くの別物やと、うちは思うてます」
 そう言った香乃は、棗を手にして、ニッコリと笑った。
 その笑顔を見て、硬くなっていた舞も、ようやくスッと体から力が抜けるのを感じた。

 実際、型に嵌らないお茶会だった。
 イズミには「お茶菓子、遠慮のうおかわりして」と言うし、香乃の分は「忍さん、何お客さんの顔して座ってはりますのん」と言って忍に点てさせるし。
 極めつけは、イズミの分の抹茶だ。
 「あれ? 甘い…」
 「え?」
 イズミが発した感想は、信じられないものだった。苦いものの苦手なイズミが、抹茶を甘いと言うのだから。
 すると香乃は、ほほほほほ、と楽しげに笑って、とんでもない種明かしをした。
 「イズミ君は、お抹茶が苦手やと聞いてたさかいに、イズミ君の分だけ、お砂糖を少々」
 見れば、他の道具類に隠れるように、小さな砂糖壷が置かれていた。千利休が見たら、きっと卒倒ものだろう。

 お師匠さんには内緒どすえ、といたずらっ子のように言う香乃を呆然と見ながら、舞は心のどこかで、思った。
 ―――ああ…、やっぱりこの人は、忍さんのお母さんだわ。
 それは勿論、いい意味で。
 まだ大して話もしていないが―――舞はなんとなく、この香乃という女性に好意を覚えていた。

***

 お茶が終わると、忍とイズミは、インドアプレーンを見るのだという理由で、そそくさと茶室を後にした。
 ―――逃げたな…。
 面倒そうなシーンでは明らかに逃げ腰になる、という点で、あの2人は、他人同士の癖にやたらと似ている。1人では逃げ難いが、2人なら大手を振って逃げられると思っているのだろう。
 まあ、舞にしてみても、ここから先は1人の方がいい。

 「あの…香乃さん」
 2杯目のお茶を点てている香乃に、舞は、今まで以上に居ずまいをただし、口を開いた。
 「ご心配おかけして、申し訳ありません」
 その言葉に、香乃は顔を上げ、不思議そうな顔をした。
 「心配? なんの心配ですやろか」
 「…子持ちの年上女と親しくしてると聞いて、きっと心を痛めてらっしゃるんだろうな、と思って」
 「……」
 「しかも、ご実家がこんな立派なお宅だと、余計―――下心を疑われても仕方ないと思います。でもあたし、そんなつもりは、全然ありませんから。それは勿論、忍さんのことは好きですし、好かれたいとも思ってますが―――結婚は、また別問題だと、割り切っています。ですから、そういうご心配は、なさらないで下さい」
 舞が真面目な顔でそう言うと、不思議そうな香乃の顔が、途端、笑みに崩れた。
 「そないなこと考えて、ずっと緊張した顔してはったん?」
 「…えっ」
 「うちが舞さんとイズミ君を招待したんは、そないなことを心配したからと違いますえ」
 意外な言葉だった。
 舞はてっきり、舞の存在を知らされた香乃が、息子が悪い女に騙されて結婚でもさせられるのではないか、と危惧して、その真意をただすために家に招いたのだと思っていた。勿論、表面上、そんなムードは微塵も出さないものの、きっと本音はそこにあるのだろうと―――そう思っていたのだ。
 「随分と、嫌な目に遭うてきたんやろなぁ…」
 舞の言葉が、過去の経験から出たものだと察したのだろう。小さくため息をついた香乃は、手にしていた茶器を置き、舞の方にしっかりと向き直った。
 「うちがお二人をお招きしたんは、単なる親の好奇心。それと、純粋な女としての好奇心。それだけ」
 「…好奇心…」
 「えらいべっぴんさんやと聞いとったさかいになぁ。あの忍に入れあげるやなんて、随分と奇特なべっぴんさんもいてはるもんやなぁ、思うて、是非一度顔を拝みたいわぁ、思うて、呼びましたんえ」
 「…じゃあ、あの、お付き合いそのものには…」
 「反対する気はおへん。むしろ、あの子にはええことやと思うてます」
 きっぱりとした口調は、到底、嘘とは思えなかった。唖然とする舞に、香乃はくすっと笑い、再びお茶をいれ始めた。
 「それでも、話聞いた一番はじめは、ほんの少し、心配した部分もあるかもしれへんなぁ…。あの子には、前科があるよってに」
 「…ああ、大学の時のお話ですか」
 忍が大学生の時、苦労している妖艶美人に騙された話は、舞も知っている。あまりの真剣さに、自分を好きだと言う彼女の言葉を信じてしまったが、結局、彼女の狙いは忍の実家だったのだそうだ。忍がその本心に気づいて別れを切り出すと、妊娠したと嘘をついて実家に慰謝料請求してきたというから凄い。勿論、香乃がその言葉を信じる訳もなく、とっとと追い返したのだが。
 それ以来、妖艶系美人は、忍の中では要注意人物らしい。舞からすれば、全く迷惑な話だ。
 「けど―――そういうトラウマがあっても、あの子が友達でい続けてる。自分とは不釣合いやと思うと、たとえ友達づきあいだけでも、すぐに一歩後退してたあの子が、わざわざ休日潰して会いに行ってる―――そう思うたら、どんなお人やろか、という思いの方が強うなりましたんえ」
 「……」
 「まだ沢山、話した訳やないけど―――…」
 そう言って一呼吸置いた香乃は、点て終えた京焼きの茶碗を舞の目の前に置き、ニコリと笑った。
 「下心はない、と筋を通しながら、好きやという気持ちを小ざかしく隠したりせぇへんところ。ああ、こういうお人やから、忍もあんな穏やかな顔でおれるんやろな、と分かって、嬉しいわ。正直は、一番の美徳やさかいに…」

 口では同情したような、理解があるようなことを言いながら、陰ではその反対のことばかり言っていた、かつての上司、同僚、友達、知り合い―――舞に言い寄ってきた男の、家族。
 けれど舞は、香乃の言葉は、信じることができた。
 何故なら―――この人の息子もまた、どうしようもなく正直で、嘘をつくのが下手な人だから。

 「―――ありがとうございます」
 そう答え、舞もニッコリと微笑み返した。

***

 そして、1時間後。

 すぐ話すこともなくなって出てくるだろうと思っていた舞が、1時間経ってもやってくる気配がない。
 ―――向こうに戻るん、気ぃすすまへんなぁ…。
 とはいえ、さすがに気になるので、忍は仕方なく、イズミと一緒に様子を見に行くことにした。

 「なあ、忍―――母ちゃんたち、どんな話してるんやろ」
 ちょっと心配そうな声音で訊ねるイズミに、忍は軽く首を傾げた。
 「…なんやろなぁ。世間話とちゃうか? お仕事なにしてはりますのー、とか、そんな感じの」
 「そんなんで、1時間ももつん?」
 「舞さんも、うちのお母ちゃんも、結構おしゃべりやからなぁ…」
 でも―――正直、どんな会話がそこでなされているのか、忍にも想像はつかない。あの強気な母とたった1人で対峙させられて、舞も心細い思いをしているのではなかろうか。そう思うと、逃げるように出てきてしまった罪悪感に、胸がチクチク痛んだ。

 階下に下りるとすぐ、忍は、ある異変に気づいた。
 茶室ではなく、居間の方から、何やら賑やかな声が聞えてくる。
 ―――? 誰やろ?
 舞とイズミ以外の来客予定など、なかったように思うのだが―――それに時折、カラカラと高い笑い声も混じっているような気がする。しかも、2つ…。
 「…まさか」
 いや、でも、確かに、あの笑い声は。

 「あれ? 忍、茶室ってそっちやった?」
 茶室とは逆方向に歩き出す忍に、イズミが驚いた顔をした。が、単独で茶室に行く気にもなれないので、首を傾げながらも、忍の後についていった。
 廊下を進むにつれ、話し声や笑い声はどんどん大きくなる。そして、居間のふすまを開けた時―――その声は、一気に廊下に流れ出した。

 「あはははははは! やだ、それ、本当に!?」
 「なぁ、落語か漫才かと思いますやろ? もう、ほんま、うちの男連中ときたら…」

 という、やたら砕けた会話を交わしているのは、舞と、香乃だった。
 茶室にいた筈なのに、何故か居間に移動しているし、抹茶を飲んでいた筈なのに、何故か手元には番茶と京菓子の残りが置かれている。2人とも、涙を流さんばかりに笑っているが、香乃の言葉の最後の部分から、どうやらネタは忍や兄や父らしいことは間違いない。
 ―――なんでこないに、急激に仲良うなってるんや、この2人。
 呆気にとられる忍とイズミが、無言のままその場に立ち尽くしていると、2人の存在に先に気づいた舞が、ふいに廊下の方に顔を向けた。
 「あら、どうしたの?」
 「…どうしたは、こっちのセリフやと思うねんけど…。いつの間にこっちに?」
 「急にお番茶が恋いしゅうなって、うちが誘ったんえ。なんぞ不都合でもあるのんか?」
 軽く眉を上げて言う母に、忍が異を唱えられる訳もない。
 「…イエ、何モゴザイマセン」
 「ああ、そうそう、冷蔵庫に水羊羹が入ってるさかいに、2人で食べるとよろしいわ」
 「…イタダキマス」
 「良かったわねぇ、イズミ。あんた、水羊羹大好きでしょ。お礼言いなさい」
 「…アリガトウゴザイマス」

 男2人が納得したのを見て満足そうに頷いた女2人は、また、何だか分からない話に花を咲かせ始めてしまった。
 「―――イズミ君、向こうで一緒に食べよか」
 「…うん」
 絶対、自分達には加われない話題であろうことは明白である。
 忍とイズミは、ちょっと顔を見合わせた後、今開けたばかりのふすまを、しずしずと閉めた。


***


 6月17日(日)

 忍の家に行った。

 忍の兄ちゃんと父ちゃんは留守だったけど、忍の母ちゃんには会えた。
 …伝統が着物着て歩いてるような姿をした、中身は弾け飛んでる人だった。
 何故か母ちゃんと意気投合してしまったらしく、合計2時間、オレらほったらかしで、2人でしゃべりまくってた。
 「舞さん、あの話は、絶対に秘密どすえ」
 「もちろんです。香乃さんもあのお話はご内密に」
 と最後の挨拶の時に言い合ってたけど――― 一体、どんな話をしてたんだろう。むちゃくちゃ気になる。
 もちろん、帰りの電車の中で母ちゃんに聞いたけど、意味深に笑うだけで、答えてくれなかった。

 ふん。別にいいもんね。
 オレと忍だって、秘密の話を、色々したんだからっ。

 お互い、女運が悪いなぁ、って慰めあったことは、一生、母ちゃんには内緒にしておこう。


 【一口メモ】
  今日の秘密の話で、忍が意外に美人にモテたことが判明。その割に、忍は美人に興味がなくて、平凡な女の子に告ってはフラれてたことも判明。
  オレはもちろん、園田さん事件を告白した。女は怖いで、目的のためには手段を選らばへんからな、と、やたらマジな顔で言われた。
  …忍も、騙されて襲われた経験でもあるんだろうか。


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