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 08: 忍、月夜に涙する

 9月14日(金)

 忍が、日曜のバスケの試合を見に来てくれるって約束してくれた。
 母ちゃんも一緒だったら良かったんだけど、生保レディー仲間での日帰り慰安旅行の日だから、どうにもならない。おばさんばっかりで面白くない、バスケの試合の方がいい、と母ちゃんはぶつぶつ言ってた。けど、セキカワさんがいない分、ちょっとはマシらしい。よっぽどセキカワさんと相性が悪いんだな。

 恭四郎は…やっぱり、もうちょっと時間がかかりそうだ。
 家がゴタゴタしてるのに、バスケをやる気になれない、っていう恭四郎の言い分もよく分かる。けど、早く戻らないと、勘もにぶっちまうよなぁ…。
 せっかくレギュラーはってるのに、もったいない。恭四郎が早くその気になりますように。

 でも、恭四郎が正直に話してくれてて、良かった。あのまま喧嘩別れしたら、オレもプレーに集中できなかったと思うし。
 「突き放したらあかんけど、無理に踏み込むのもあかんで。一番近くにいて、じっと待つんやで」って忍にアドバイスされたのが良かったのかもしれない。忍には感謝しないとなぁ。
 それにしても、父親の浮気って、そんなにショックなもんかなぁ? オレには父親いないから、よく分からない。母ちゃんが兄ちゃんじゃなく忍を好きになった時、ちょっと嫌だったけど、バスケ辞めたる、とまでは思わなかったし。
 今、母ちゃんが、忍以外の男に走ったら?
 …うーん、それは、かなり、嫌かも。


 【一口メモ】
  雅兄ちゃんは、この週末、屋久島らしい。この前の台風で、ペンションが大変なことになったらしく、権田さんが泣きついてきたって。
  権田さんがおかしくなった裏には、権田さんの婚約者の入れ知恵があるらしいけど…いくらホレた女の言うことだからって、親友裏切るなんて。オレなら許せない。
  裏切った親友が困ってるからって、わざわざ屋久島に行くなんて。ホンマ、お人よしにもほどがある。
  でも…もし、オレと恭四郎が、同じようなことになったら―――もしかしたらオレも、行くかもしれないな。


***


 「しのぶーっ」
 体育館の外でうろついていた忍は、晴れやかな声を聞いて振り返った。
 トレーニングウェアの上下に、スポーツバッグを肩からかけたイズミが、手を振りながら走ってくる。試合後のミーティングの内容が良かったのだろう。その顔は満面の笑みに包まれていた。
 「お疲れさん。えらい活躍してたやんか」
 ぽん、とイズミの頭に手を置いて言うと、イズミは嬉しそうに笑って、忍のわき腹に軽くパンチを入れる真似をした。
 「恭四郎おらんから、ちょっとやりにくかったけど―――5番のやつと、結構いい連携できてたやろ」
 「デカい連中に囲まれとるのに、イズミ君が大きく見えたわ」
 「へへへへへぇ」
 見えただけではなく、実際のイズミの身長も、出会ったばかりの去年の今頃より、確実に大きくなっている。月に2回は会っているが、それでも「あれ、この前より背ぇ伸びてへんか」という時があって、成長の著しさに驚かされる気分だ。
 「今、身長何センチやったっけ?」
 「164かな。2年になって4センチちょい伸びた計算やけど、まだまだこれからや。最近、足の骨とかがキシキシゆーてる気して、ちょっと痛くて眠れへん日があるし」
 「ああ、成長期にはようあるで、そんなんが」
 「そやろ? 忍の高さになるんは無理かもしれへんけど、兄ちゃん位にはなりたいなぁ」
 “兄ちゃん”は確か、180を少し超した辺りだった気がする。その位大きくなったイズミを想像して、忍は「あいつ以上にモテる奴になりそうやなぁ」と、内心苦笑した。

 「…あ、それはそうと。恭四郎君、やっぱり出てへんかったね」
 2人並んで歩き出して間もなく、忍は、今日の試合の様子を思い出して、空を仰ぎながら呟いた。
 「うん。部にも、まだ復帰してへんねん」
 「そないに深刻なんか、家の事情」
 「うーん…深刻なのは恭四郎の両親だけで、恭四郎と恭四郎の姉ちゃんは、ただ2人の泥沼の痴話喧嘩に呆れてるだけらしいけど」
 イズミは、そこでため息をひとつつき、眉を寄せた。
 「恭四郎の姉ちゃん、社会人やけど、恭四郎以上に荒れてるらしいわ。結婚前提に付き合ってる男がいるから、両親が離婚なんてことになったら幸先悪いと思うてるんやって。浮気1回位で離婚になるんかな、って思うけど…恭四郎のやつ、片親になったらどうすればいいか分からへん、て言うて、落ち込んでるんや」
 「……」
 「オレかて片親やで、って言いたいけど―――うまいこと、慰められへんわ」
 「…イズミ君は、片親で辛かったこととか、不自由やったこととか、あったんか?」
 思わず忍がそう訊くと、イズミはキョトンとした顔で忍を見上げ、首を傾げた。
 「辛かったこと、かぁ…。面倒なことなら、小さい頃はあった気するけど―――この歳になると、ないなぁ。片親だから学校に行けないとかいうこともないし、成績悪いのはオレがバカだからで、父親がおらんせいやないしな」
 「ハハ…、ま、そらそやな」
 「けど―――逆に、オレに父親がおったら、どういうメリットがあったんやろ、ってオレには想像できひん。何の違いがあるんやろ、としか思えんオレに、恭四郎に“落ち込むな”って言う資格はあらへんよなぁ…」
 なんとも答えようがなくて、忍はこめかみの辺りをぽりぽりと掻いて、押し黙った。
 言う資格がないのは、自分も同じことだ。恭四郎に対しても、そして…イズミに対しても。人は誰しも、自分の未体験ゾーンにいる相手には、想像や良心をもとにしてしか、言葉を与えることができない。忍が“苦労人コンプレックス”を抱くのも、その未体験ゾーンが彼らよりもずーっと広いせいなのだ。
 「ま、いっか。恭四郎の家族がどーなろーと、オレと恭四郎の友情は永遠やしっ」
 何かを吹っ切ったようにそう言ったイズミは、再び表情を明るくした。
 「なぁ、今日の夕飯、忍が奢ってくれるんやろ? 何奢ってくれるん?」
 「ん? ああ、何でもええよ。超高級神戸牛は堪忍して欲しいけど」
 「あ! ほんなら、ファミレスのオージービーフのステーキは?」
 「あはは、構へんで」
 「やぁった」
 オージービーフに気を良くしたイズミは、さっきまでの重い空気など忘れたように、半ばスキップするような勢いで歩き出した。現金なやっちゃなぁ、と苦笑しつつ、忍もイズミに合わせて歩く速度を僅かに上げたのだが。

 「―――……?」

 視線を、感じた。
 そっと振り向くと、同じ体育館から出てきた客やら選手やらが、何人か歩いていた。視線の主は―――残念ながら、分からなかった。
 「忍?」
 「んあ? ああ。なんでもない」
 ―――自意識過剰なんかなぁ…。
 首を捻った忍は、それきり、感じた視線のことなど、綺麗さっぱり忘れたのだった。

***

 その、忘れてしまった視線のことを思い出したのは、それから3日後―――水曜のことだった。

 「主任、受付からお電話です」
 そろそろ定時やなぁ、と思いながら仕様書とにらめっこしていた忍は、部下のその声に我に返った。
 自分の机から離れていたせいで、忍あての内線を部下が電話を取ってしまったらしい。おおきに、と言いながら、忍はキャスター付の椅子を滑らせて、部下から受話器を受け取った。
 「はいー、中尊寺です」
 『受付です。あの、お客様がこちらにいらっしゃってるんですが』
 「客?」
 忍の立場は、とある自社製品の技術開発部門の主任である。立場上、社外の人間と接することは極端に少ない。それを知っているから、受付嬢の声も、少々困惑気味だ。
 一体誰や、という忍に受付嬢が告げたのは、日本を代表する商事会社の名前だった。がしかし、営業部門ではどうだか知らないが、少なくとも忍が、その会社の人間と仕事で関わったことは、これまで一度もない。
 「…分かりました、すぐ行きます」
 よく分からないが―――追い返す訳にも行かない。不審に思いつつも、忍はそう、受付嬢に返事をした。
 ―――しかし、商社マンと会うのに、この格好でもええんかいな。
 会議の時や東京に出張する時などは、一応普通にスーツを着用する忍だが、日頃、社内で仕事をしている時は、Gパンの上に作業着を着ている状態だ。開発部門の人間は全員この格好なので、同じ技術開発関係の客とは、こんな格好のまま会っている。が…、商社マンとなったら、少々事情は違うだろう。大丈夫なのだろうか。
 まあ、大丈夫じゃなくても、どうしようもない。スーツを会社に置いている訳でもないんだし。
 エレベーターが1階に着くまでの間、そんなことをつらつら思った忍だったが―――何故かふと、日曜日のことが、頭に蘇った。
 ―――なんで、あの時感じた視線のことなんぞが思い浮かぶんやろ? すっかり忘れとったのに。

 チーン、という軽快な音とともに、エレベーターのドアが開く。
 エレベーターを降りた忍を待っていたのは、40代前半から半ばほどの、スーツ姿の感じの良い男だった。忍がやっていたことに気づくと、座っていたソファから立ち上がり、スーツの襟元を正している。しかし…忍には全く見覚えのない顔だ。
 「お待たせしました。中尊寺ですが」
 訳が分からないまま、軽く会釈しつつ忍が言うと、男はきちんと忍に向き直り、生真面目そうに口元を引き結んだ。そして、少しの間の後、僅かに頭を下げた。
 「はじめまして―――尾崎といいます」
 「尾崎……」

 商社マン、ということと、尾崎、という名前が、1人の人物を記憶の底から蘇らせた。
 そして、思い出した途端、もの凄く嫌な予感が、忍の背筋をざわめかせた。

 『ずるいって分かってる。親のエゴで、子供の知る権利奪うなんて。でも―――…ねぇ…あたし、どうすればいいと思う? 忍さんならどうする?』

 今年の春、舞からかかってきた、1本の電話。
 あの時、舞が口にした男の名前も―――確かに、“尾崎”だった。

***

 「実は、今月から大阪に転勤になりましてね」
 グラスを傾けながら、尾崎はそう言って苦笑した。
 その、どこか少年ぽさを残した笑い方は、哀しくなるほど、イズミとよく似ている。ただ…舞から聞いた話では、髪もイズミとそっくりだということだったが、今目の前にいるこの男は、極普通の黒髪をしている。多分、何らかの事情があって、また染めたのだろう。
 「妻も来たがったんですが、向こうも責任ある立場にいるんで、東京を離れる訳にはいかなかったんです。で…まあ、単身赴任て訳です」
 「…奥さん、何してはるんですか」
 「教師です。高校で、英語を教えてます。海外赴任の時には、無理を言ってついてきてもらったんで―――今回はやむなく、離れ離れですよ」
 基本的に大きな転勤のない教師と、2、3年というスパンで世界中に飛ばされてしまう商社マンのカップルでは、色々無理があったのではなかろうか―――忍はそんなことを想像しながら、水割りのグラスを傾けた。

 それにしても―――なんだってこの男と、こうして飲む羽目になっているのか。忍は、そもそもそれが分からなかった。
 舞にとって尾崎は、はっきり言ってありがたくない存在だろう。そういう相手に、不用意に現在の自分の生活を推測させるようなことは言わない筈だ。従って、忍のことなど、全く話していない筈―――忍はそう思っている。
 しかし尾崎は、先ほど、「朝倉 舞さんのことで、ちょっと」と忍に言った。
 何故、忍のことを知っているのだろう? しかも、会社にまで押しかけてくるというのは、一体どういうことなのだろう? 考えれば考えるほど、訳が分からない。仕事の話なんかより、そっちが聞きたい。そう思って忍が口を開きかけた時、尾崎が先に、その疑問に対する答えの一端を口にし始めた。

 「実は、4月に一度、神戸に出張で来た時、舞さんに十数年ぶりに会いましてね」
 「……」
 「なんだか様子がおかしかったので、ずっと気にしていたんです。そんな矢先、今回の大阪出向が決まりまして―――下見のために大阪や神戸を回っている最中、偶然見かけたんですよ。三ノ宮のファミレスで、あなた達“3人”を」
 “3人”―――…。
 それが誰を指すのかは、確認するまでもない。それが“いつ”なのかも、大体分かる。8月の半ばに、3人で三ノ宮で食事した記憶があるのだから。まさかそこに、偶然この男が居合わせていたとは―――忍は、舌打ちしたい気分になった。
 「…あまりにも、あの男の子の髪が僕そっくりで、驚きました。と同時に、何故彼女が再会した時に妙な様子だったのか―――その理由も、すぐ分かりました。ただ、どうしても分からなかったのは、何故彼女があの子の存在を、僕に言ってくれなかったのか…そのことです」
 「……」
 「彼女の会社にも電話してみましたが、いつも外回りに出ていて掴まらないんですよ。それで―――単なる思い違いの可能性も考えて、思い切って興信所にお願いをしたんです」
 「興信所?」
 さすがに、平然と聞いてはいられなかった。グラスを置いた忍は、眉をひそめるようにして尾崎の顔を凝視した。
 「舞さんの私生活を調べさせた、っちゅうことですか」
 知らず、責めるような口調になってしまう忍に、尾崎は苦い笑みを返した。
 「褒められたことじゃないことは、僕も分かっています。でも―――見過ごせる話でもなかった。それは、分かって欲しいんです」
 「…でも…」
 「彼女には、後できちんと謝ります。それに…あなたにも。結局、あなたの素性も調べたことになるんですから。申し訳ないことをしました。本当に」
 そう言って頭を下げる尾崎は、心底、申し訳ないと思っている様子だった。
 舞から聞いている人柄も、この態度と矛盾しない、誠実で優しい人物像だった。問題が自分の血を分けた子供かもしれない子供のことだけに、非礼なことだと承知しながら、やむなくとった手段だったのだろう―――それは、忍にも理解できる。
 「…別に、ボクのことは、謝らんでもええです」
 ため息とともに忍がそう言うと、尾崎は、少しだけ安堵した表情になった。

 暫し、話が途切れる。テーブルの上の料理や酒を、それぞれ無言でちまちまと口に運ぶ時間が続いた。やがて口を開いたのは、やはり今度も尾崎だった。
 「―――この前の日曜、イズミ君のバスケの試合を、見に行きました」
 「……っ」
 「そのために、髪を染めたんですよ。地毛のまま行ったら、もしイズミ君に見つかった時、同じDNA持ってることがバレバレですから」
 「…そうやったんですか」
 「中尊寺さんと並んで歩いてるイズミ君も見ました。正直…複雑な気分でした。イズミ君が、本当に楽しそうにしていたので。いや、勝手なことなのは、重々承知してるんですが」
 ―――この人やったんか。
 視線の主の正体を知り、深く納得した。道理で、さして視線に敏感な方でもない自分が気づいた筈だ。そんな複雑な事情を抱えた視線なら、気づいて当然かもしれない。
 「…それで…尾崎さんは、どういう用件で、ボクに会いに来はったんですか?」
 大体の経緯は察したが、肝心のそこが分からずじまいだ。忍が思い切ってそう訊ねると、尾崎は表情を引き締め、手にしていたグラスをトン、とテーブルの上に置いた。
 「実は、中尊寺さんに、お願いがあるんです」
 「お願い?」
 「舞さんに、もう一度僕と会ってくれるよう、説得してくれないでしょうか」
 「―――…は?」
 「あなたが、彼女とどの程度の付き合いなのかは分かりませんが―――舞さんやイズミ君が一番信頼している人であることは、確かだと思います。多分…彼女は、僕がどれだけ連絡を取ろうとしても、応じてはくれないでしょう。ですから、あなたから」
 「ちょ、ちょい、待って下さい」
 尾崎の言葉を慌てて遮った忍は、自分もグラスを置き、尾崎の方に向き直った。
 「舞さんが会いたくない言うもんを、ボクが会うように説得する訳には行きません。お断りさして下さい」
 困ったように言う忍に、尾崎は、意外なことを聞いたように目を少し丸くした。
 「しかし―――あなたも、僕が舞さんと会って、きちんと話をした方がいいと思うでしょう?」
 「え?」
 「そうすべきだと思いますよね? 普通」
 「……」
 普通、と言われても。
 「っちゅうか、会って、何を話し合おうとしてはるんですか?」
 会う会わないの問題より、そっちが重要だ。自分にそれを訊ねる権利などないのかもしれないが、訊かずにはいられなかった。
 すると尾崎は、よどみなくスラスラと答えた。
 「そりゃあ勿論、イズミ君のことですよ」
 「……」
 「時期的にも合っているし、何よりあの独特の髪から考えても、イズミ君が僕の息子であることは明らかでしょう。当時は僕も髪を染めていたし、彼女も関係を持ったのは僕1人ではなかったようだから、誰が父親か分からなかったのかもしれないけれど―――分かった以上、僕には父親としての責任があります。とにかく、認知だけはしてやらないと」
 「…認知…」
 「…勿論、それだけじゃ駄目だってことも、分かってます。14年以上も父親としての義務を果たしてこなかったし、彼女の貴重な青春時代を奪ってしまったんだから。できる限りの償いをさせてもらうつもりです」
 「…できる限りの償い、って―――何をしはるつもりですか」
 「彼女がそう望むなら、イズミ君をうちで引き取って、彼女を自由にしてあげるつもりでいます」
 「……」

 半ば、予想した答えではあったが。
 やっぱりそうなるのか―――鈍い憤りが、忍の頭の奥で、チリチリと不愉快な痛みとなって襲った。

 「あの華やかだった人が、人生で一番輝いてる時期を、子供のために費やしてしまったんです。その責任は、僕にあります。…これからの時間は、彼女自身のために使って欲しい―――幸せになって欲しいと、本当に思います。まだ妻には話してませんが、必ず説得して、」
 「あ…アホなこと、言わんといて下さいっ!」
 思わず、声を荒げた。腰を浮かしかけたせいで、ガタン、と椅子が音を立てた。
 少し驚いたような顔をする尾崎を、半ば睨みつけるようにしてしまう。初対面の男だが、どうしても―――どうしてもこれだけは、譲る訳にはいかない。
 「舞さんの…舞さんのたった1人の家族を取り上げる気ですか!? ようそんなことが…」
 「ですから、彼女が望むなら、です」
 「望む訳、ないでしょうが!」
 「しかし―――彼女は、まだ若い。これから結婚という話になった時―――子持ちでは、普通、相手の家族の反対にあう可能性は高いですよ。あなたと舞さんがどの程度の仲かは存じ上げませんが…いざ結婚となれば、やはりそこがネックになるのでは」
 「うちの親は、そないな了見の狭い人間とちゃいます。尾崎さんの考える“普通”と、一緒にせんといて下さい」
 怒りにまかせて、冷たく言い放つ。実際、そんな話など微塵も出ていないが、もしも将来そんなことになれば、父はともかく母は間違いなく賛成するだろう確信が忍にはあった。
 「失礼ですが、あなたと舞さんの間では、そういう話が出てるんですか?」
 「…いや、そういう訳や、ないですけど…」
 「…あなたのご家族のように、理解ある家族ばかりじゃないですよ」
 「でも、」
 「もし、舞さんが誰とも結婚する気がないのなら」
 反論しかけた忍の言葉を遮り、尾崎が言葉を継いだ。
 「もしくは、妻が他人の子供は育てたくないと言うなら―――妻と別れて、舞さんにプロポーズするつもりです」
 「―――…っ」
 そう言うと尾崎は、一番言いにくかったことを告白し終えたように、はーっと大きく息を吐き出した。
 「…妻とは、上手くいっているつもりです。愛し合っていますし、子供を完全に諦めた訳でもありません。でも―――僕はそれ以上に、イズミ君が可愛いんです。あんなにも僕に似ているイズミ君が」
 「……」
 「僕に、こんなことを言う資格はないのかもしれない。でも…理屈じゃないんですよ。彼と一緒に暮らしたいと思うし、彼には幸せになって欲しいと思うし―――父親がいなかったことで随分辛い思いもさせただろう、これからも片親では不自由するだろう、そう思うと、いてもたってもいられないんです」
 「…………」
 「これから高校、大学とますますお金がかかるのに―――きっと舞さんが僕に何も言わなかったのは、僕に家庭があることを知ったからだと思います。迷惑をかける訳にはいかないと思って、遠慮して黙っていたのだと」
 「―――勝手なこと、言わんといて下さい」

 それまで、ある程度、理性を持って話を聞いていた忍だったが。
 この瞬間、何かが、心の中でぷつりと切れた。

 膝の上で握り締めた拳が、怒りのあまり、震えた。
 自分にそれを言う権利も資格もないと思いながらも、黙ってはいられなかった。ぎりっ、と奥歯を噛み締めると、忍は尾崎を睨み据えた。
 「…父親がいなくて辛い思いをさせた? 家庭があるから迷惑をかけると思って遠慮した? なんでそないなこと、尾崎さんに分かるんですか。いつイズミ君が、舞さんが、父親がいなくて辛い、困ったと言ったんですか」
 「…え…っ」
 「舞さんやイズミ君の幸せは、舞さんとイズミ君にしか分からへん。それを勝手に―――勝手に可哀想がって、善人面してあの2人の生活に土足で踏み込むんは、やめて下さい!」
 「……」
 「…わざわざ来てもろて、申し訳ないけど」
 声が、震える。
 自らを落ち着かせるよう、唾を一度飲み込むと、忍はガタリと席を立った。
 「ボクは、そないな話するために舞さんと尾崎さんを会わせる訳にはいかへん。…お断りします」


***


 カラカラと音を立ててガラス戸を引く。
 「…っいしょっ、と」
 灰皿を傍らに置いて、縁側に腰を下ろす。あぐらをかいた忍は、口にくわえた煙草に火をつけ、はーっと煙を吐き出した。
 縁側から眺める夜空には、青白い月がぽっかりと浮かんでいる。そういえば、中秋の名月は9月10月辺りやったな、とぼんやり思いながら、忍は何をするでもなく、月を眺めながら煙草をくゆらせた。
 「ええお月さんどすなぁ」
 ふと気づくと、母がすぐ傍に立っていた。
 「…そうどすなぁ」
 気の抜けたような声で忍が返すと、母は意味深に微笑み、傍らに正座した。母は、いついかなる時も正座なのだ。
 「どないしたんどすか。こないなところで、お月さん見ながら考え事やなんて風流な真似しはるやなんて」
 「…いや、別に、なんでもあらへん」
 「舞さんと喧嘩したとか」
 「ハハ…、そんなんとちゃうわ」
 笑う声も、力がなかった。こんな声を出しておいて“なんでもあらへん”もないわなぁ、と、内心自分でも苦笑してしまった。
 「…あ、そうや。兄ちゃん、どうなった?」
 ふいに、屋久島から今日戻った筈の兄のことを思い出し、忍は母の方に顔を向けた。忍が帰宅した時は、兄は会社の方へ行ってしまっていて、留守だったのだ。
 「権田さんが、泣いて謝って引きとめはった言うてたけど―――雅さんは、もうペンション経営には戻らん言うてはりましたえ」
 「…さよか…」
 「権田さん、雅さんがおらんようになって初めて、雅さんの大事さが身にしみたと言うてはったそうや。そやけど、婚約者さんとは別れる気はないし、そやったらまた同じようなトラブルがまた起きるかもしれへんさかいに、友情を守るためにも、仕事は別にしたほうがええ、思ったそうや」
 「…確かに、そうかもしれへんなぁ…」
 「何が一番大事なことかは、雅さん自身にしか、分からへんことやさかいに」

 ―――何が一番、大事なことか―――…。

 あれで良かったんだろうか―――時間が経つにつれ、そんな思いが、少しずつ滲み出してくる。
 舞やイズミの望みは、ちゃんと理解しているつもりだ。でも…部外者の自分がいくら主張したところで、お前には関係ないだろう、と言われれば、それまでだ。ならばいっそ、ちゃんと会わせて、舞の口から言わせた方が良かったのかもしれない。
 けれど、会わせたくなかった。
 会って、あんな話を舞に聞かせるのは―――どうしても、嫌だった。

 「…なあ、お母ちゃん」
 再び月を見上げながら、忍はぼんやりとした口調で、問いかけた。
 「“普通”って、何やろか」
 「“普通”?」
 「こんなことしたら、普通はこう思われる。あんな状態だったら、普通はこう思われる。…そういう“普通”や」
 「…“普通”、なぁ…」
 ため息のようにそう繰り返した香乃は、忍と同じように、月を見上げて呟いた。
 「少なくともうちとは、無縁の言葉どすなぁ…」
 「―――ふはは…、そやろな」
 「そういう女から生まれた子やさかいに、忍さんとも雅さんとも、きっと無縁の言葉と違うやろか」
 「…かもしれへんなぁ」

 ―――分かってもらえへんものなんやろか。あの2人にとっての“幸せ”は。
 …分かってもらおうと、部外者のボクが思うこと自体、間違ってるんやろか…。

 目に映る月が、少し霞んだ気がした。
 泣きたい気分だった。
 けれど―――何故、泣きたくなるのか。その理由が、忍自身、よく分からなかった。


***


 9月19日(水)

 恭四郎一家のゴタゴタが、どうやら片付きそうな予感。
 良かった。もうすぐ修学旅行だから、そこまで引きずるのは嫌だと、恭四郎自身も言っていたから。
 来週から部活にも戻るって、明るい表情で言ってた。本当に良かった。やっぱり恭四郎がいないと、プレーのキレも今ひとつなんだよな。

 でも…やっぱり、よく分からない。
 仲良かった両親が離婚したら、そりゃショックだろうとは思うけど―――恭四郎が「親父がおらんくなったら、どうすればええか分からん」て言う、その気持ちは、オレには分からない。
 そんなに父親って重要? 別にいなくても、オレ、不自由してないけど。

 兄ちゃんも言ってた。もし将来、母ちゃんが誰かと結婚したとしても、その相手を“父親”だと無理に思う必要はないって。
 たとえば、もし母ちゃんと忍が結婚しても―――忍は、忍でいい、って。

 きっと、最初から「いた」人がいなくなると、困るんだろうな。
 オレには最初から「いない」訳だから、いなくても困らない。金持ちが貧乏になると困るけど、最初から貧乏だった人間は、今ある金でちゃんと生活できる。それと同じようなもんなのかもしれない。
 金持ちが偉いとも思わないし、それが幸せだとも思わないけど。
 でもきっと、金持ちは、自分の方が偉くて幸せだと思ってる―――なんだか、そんな気がする。だから、今あるものをなくすのを、すごく怖がるんだろうな、って。

 でも、恭四郎はオレのこと「父親がいなくてかわいそう」とは思ってないみたいだから、オレはそれで満足だ。
 恭四郎の父親がいなくならなくて、オレも良かったと思う。恭四郎は、いなくなるのを怖がってたから。上手く説明できないけど――― 一言で言うなら、人それぞれ、ってことなんだよな、きっと。


 【一口メモ】
  …前に告ってきた、通称「貞子」が、また告ってきた。
  「前にも断ったよ」って言ったら、「あきらめられません」と言われた。でも、やっぱり好みじゃないから、断った。そしたら、怖いこと言われた。
  「…そんな冷たいこと言うなら、たたっちゃいますよ…フフフフフ」
  ―――やっぱりあいつ、「貞子」かも。どうしよう。オレ、たたられちゃうのかな。


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