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 09: イズミ、旅先で事故る

 9月28日(金)

 明日から3日間、修学旅行のため、日記が書けなくなる。
 東京や日光を回るコースだけど、この前アメリカであったテロのせいか、先生たちが妙にピリピリしてる。飛行機使わないんだから、そう神経質になることないって。新幹線をジャックしたってしょうがないし。

 土日にもかかってるし、母ちゃんも忍と会う約束してるみたいだから、「外泊もOKやし、うちに泊めても構わへんよー」と母ちゃんに言ったら、グーで殴られた。これ以上バカになったらどうしてくれるんだ。
 ま、とにかく。
 母ちゃんみたいないい女に、31年間、本気で付き合った男が1人もいなかった方がおかしかったんだ。この機会に、2人の仲に進展があれば、万々歳。「舞さんは何か、ボクのことをええように美化してるんとちゃうやろか」と疑ってた忍も、もう1年も経つんだし、母ちゃんの本気度は十分分かったと思う。でもって、オレは、相手が忍なら、何も文句はない。
 地主神社の縁結びの神様。
 どうぞよろしゅう、お願いします。


 【一口メモ】
  …でもって、オレの方は「貞子」のたたりから守ってもらわないといけないんだよな。神様に。
  あれから10日、とりあえず無事にきてるけど、なーんか嫌な予感がする。
  どうか、何事もなく、帰ってこれますように。


***


 「なんか、疲れてるみたいね」
 舞がそう指摘すると、缶コーヒーを手にぼんやりしていた忍は、え、という風に顔を上げた。
 「別に、疲れてへんよ?」
 「けど、スコアがガタガタよ?」
 「……」
 頭上のモニター画面には、上に忍の、下に舞のボーリングのスコアが表示されている。
 以前、イズミも含めた3人で2ゲームやった時には、忍が1位をとり、賞品のケンタッキーフライドチキン・クリスピーセット1人前を見事ゲットした。しかし、今日はその時のスコアを大幅に下回っている。スペアをことごとく逃している上、ガータが2本あるのだから、かなり異常事態だ。
 「…ま、不調な時もあるわ。ハハハ」
 力なく笑った忍は、残りのコーヒーを一気にあおった。その余裕の無い飲み方が、舞の指摘をかわすための誤魔化しに見えるのは、決して舞の被害妄想ではないだろう。
 「あーやーしーいーなー。何か隠してるんじゃないの」
 「ないない。なーんもあらへんで」
 「実は仕事がすんごい忙しいとか。けれど舞さんのデートのお誘いを断ると、後でイズミ君がアホボケマヌケとうるさいからなぁ、という理由で、お誘いに乗ったとか」
 「…いや、そこまで言わへんやろ、いくらイズミ君でも」
 「ちょっと。そこだけ否定する訳っ?」
 「そーやないって。ほんまに疲れてる訳ちゃうんやって。スコアに波あるんは普通やろ? 毎回1ゲーム200以上キープできるほど、ボクも達人の域には達してへんだけや」
 確かに、スコアの件だけなら、そうかもしれない。
 けれど―――舞には、分かってしまうのだ。常にへらへらと笑っていることの多い忍の、その笑顔の質の違いが。
 何か引っかかるものを心の奥に隠しながら、表面だけ笑ってる―――今日、ジープの運転席の窓を開けて顔を覗かせた時から、忍の表情はそんな感じだった。それに気づいていたからこそ、何があったのだろう、と心配になるのだ。
 「それよりホラ、次、舞さんの番やろ。最終フレームやから、気合入れてやらなあかんで。調子悪いボクよりスコアが下のままやったら、イズミ君にバカにされんで」
 さっさと投げんかい、と手振りで急かす忍に、舞は唇を尖らせ、まだぶつぶつ言いながらもボールリターンの方へと歩いていった。確かに、これほどスコアがガタガタの忍より、舞のスコアの方がまだ10以上も下なのだ。
 ―――まあ、いいわ。食事の時にでも、ゆっくり話を聞かせてもらおうじゃないの。
 そう思いながら舞がボールに手を掛けた時―――軽快な着信音が、背後で鳴った。
 「……?」
 舞の携帯は、バッグの中だから、こんなに大きな音はしない。振り返ると案の定、忍が顔色を変えていた。
 「忍さん、電話じゃないの?」
 「え? あ、あー…、そうみたいやね」
 そう答える忍だが、電話に出る気はなさそうだ。そうこうしているうちに、着信音は切れてしまった。
 「……」
 「……」
 「誰から?」
 「仕事関係の電話や。休みなんやから、ちょっと位無視してもええやろ」
 「今までは律儀に出てたのに?」
 「……」
 「…なるほどね。あたしに知られたくない相手ってことね。もしかして、別の女か何か?」
 軽く眉を上げて舞が言うと、忍はギョッとしたように、慌てて首を振った。
 「あ…、アホかっ! 舞さんおるのに、そないなこと」
 「え?」
 「えっ?」
 微妙な一言が発せられて、2人してその一言にひっかかった瞬間。
 着信音が、再びその場の空気を邪魔した。
 「―――…」
 忌々しげな表情になった忍は、観念したのか、ため息とともにジーンズのバックポケットから携帯電話を引っ張り出した。
 ところが。
 「…っ、う、うわ! 舞さんっ!」
 忍の一瞬の隙をつき、舞が手を伸ばしてきて、その携帯電話を奪い取った。
 「ちょっ、あ、アカンって!」
 「あら、だって、忍さんは出たくない電話なんでしょ? 大丈夫、失礼のないように、あたしが出てあげるわよ」
 「余計アカンのやって!」
 何が何でも奪い返そうとする忍をなんとか振り切り、舞は通話ボタンを押した。

 「はい、もしもし?」
 『……』
 電話の向こうからは、すぐには返事が返ってこなかった。忍が出るとばかり思ったのに、いきなり女が電話口に出て、相手は困惑している様子だ。
 妙な間が空いた後、聞こえてきたのは、男の声だった。
 『あ…あの、この番号は、中尊寺さんの携帯番号では…』
 「ええ、そうです。彼、今ちょっと席を離れていて―――失礼ですが、どちら様ですか?」
 『ああ、失礼。わたくし、尾崎と申しますが』

 その瞬間。
 舞の表情が、凍りついた。
 多分、再会しなければ、一生思い出すこともなかった男の顔―――再会しても、それが昔と同じ姿であれば、また忘れて二度と思い出しもしなかっただろう男の顔。
 半年前、思いがけず再会した男の、以前とは違った風貌を思い出して…舞は、言葉を失った。

 『…あの…もしかして、舞ちゃん?』
 忍の代わりに出た女が誰なのか、気づいたのだろう。尾崎がそう問うてきたが、舞は答えられなかった。凍りついた表情のまま、苦い表情で佇む忍の顔を、呆然と見つめ返すしかなかった。
 『舞ちゃんだろう!? あ、あの、覚えてるかな。4月に十何年ぶりに再会した…』
 尾崎がそう言いかけたところで、忍が舞の手から携帯をそっと取り上げた。舞は、それに抵抗する素振りも、もうなかった。
 「―――すみません、中尊寺です。…何度電話もろても、答えは同じです。…じゃあ、失礼します」

***

 コンコン、と窓をノックされて、ジープの助手席で俯いてた舞は、ハッとして顔を上げた。
 見ると、ウーロン茶の缶を2つ持った忍が、窓の外で「出て来ぉへん?」と身振りで誘っている。駐車場なんかで外に出ても面白いこともないだろうに…と思ったが、よく見れば、少し離れた所に小さな公園がある。忍も、それに気づいて誘っているらしい。
 迷った末に、舞もジープの外に出た。
 「ほい」
 冷たいウーロン茶の缶を舞に手渡すと、忍は車の施錠を済ませ、先にたって歩き出した。両手で缶を包んだ舞も、無言のまま、その背中に続いた。
 「あないな狭いとこで、息が詰まるような話ばっかりしとったら、気が滅入る一方やからな」
 「……」
 「電話は、安心してええよ。電源切っといたから、間違ってもまたかかってきたりせーへんから」
 「……」
 「―――堪忍な」
 振り返ることなく、忍はそう、ぽつりと呟いた。
 「出来ることなら、舞さんには知らさない方がええと思ったんや」
 「…ううん」
 まだ、詳しい事情は聞いていない。ただ―――本能的に、察してはいた。どういう経緯かは知らないが、イズミの存在があの男に知られてしまったのだ、と。
 「でも、あの人―――なんで、忍さんの所に?」
 どうにもそれが分からず、背中にそう問いかけた時、ちょうど公園の入り口に足を踏み入れた。
 振り向いた忍は、困ったような、落ち込んだような複雑な表情をしていた。
 「説明するわ。…とりあえず、座ってや」


 それから舞は、10日ほど前にあったことを、忍の口から細かに聞かせてもらった。
 尾崎がどういう心積もりでいるかについては、さすがの忍もなかなか言おうとしてくれなかったが、どうしても聞いておきたかった。そして、その内容を聞いた結果―――舞は、激しい憤りを覚えた。
 「そ…れで、忍さんは、何て…?」
 震える声で舞が問うと、忍は少し言いよどんだ後、ぼそりと答えた。
 「…結構、無茶苦茶言うてもーたわ。2人がどんな人生送ってきたかも知らんと、若くして子持ちになった上に母子家庭で、舞さんもイズミ君も可哀想や、ってやたら言うもんやから―――善人面してあの2人の生活に土足で踏み込むんは、やめてくれ、ってゆーてもーた」
 「……フフ」
 思わず、小さな笑いが漏れた。忍は、分かってくれている―――こういう人だからこそ、心惹かれたのだ。
 イズミを邪魔だと思ったことなど、1度たりともない。仕事だって勉強だって、辛いと思ったことなんてなかった。それがイズミとの生活のためだと思えば―――本当に辛いことなんて、何一つなかったのだ。
 決して裕福ではないが、人並みな生活はしてきたと自負している。人に恥じるようなことは何もしていないし、いつだって明るい方向を目指して、2人で助け合って生きてきた。イズミがいれば―――2人でいれば、不足しているものなんて、何もなかった。そこにあったのは…間違いなく、“幸福”だ。
 そんな自分たちの14年間も、あの男からすれば“可哀想”なのだろうか?
 父親がいない―――そのことが、それほどまでに“可哀想”なことなのだろうか? 自分も、イズミ自身も、それに不自由も不足も感じたことがないのに。
 「それにしても…存外にしつこいわ。不用意に名刺交換なんぞしてもーたけど、名刺に入っとる携帯番号を黒塗りする位の機転、きかしとけばよかったなぁ…」
 ため息とともにそう言うと、忍はウーロン茶をぐいっとあおった。
 そう。尾崎はまだ、諦めていないのだ。いまだに「舞と話し合う機会を設けてくれ」と、あれからほぼ毎日、忍の携帯に電話をかけてくる。忍の調子が今ひとつだった理由も、実はこれが原因だったのだ。

 ―――卑怯者…。
 真っ先に湧き上がってきた言葉は、それだった。
 直接舞にアプローチすれば、にべもなく拒絶されることを予め分かっていたからこそ、あえて忍をターゲットにしてきたのだろう。卑怯者―――怒りに、体の芯が震えた。

 「―――ねえ、忍さん」
 舞は、一度きつく唇を噛み締めると、顔を上げた。
 動揺や不安より、怒りが勝っていたのかもしれない。
 「あいつに、連絡をとって」
 「え?」
 「会って、白黒はっきりつけるわ。その代わり…忍さん、一緒に来てくれる?」

***

 休日仕様の尾崎は、先日会った時とは、少々印象が違って見えた。
 コンタクトから眼鏡に替えただけで、人の印象とはこうも違うものだろうか。10日前、あれほどイズミに似ていると思えた顔は、さほど似ていない顔に変わっていた。なるほど、これじゃ父親が誰か分からなくて当然やな―――当時もこんな風に髪を染めて眼鏡をかけていた、という話を思い出し、忍は納得した。
 「勘違いされると困るから、先に言っておくけど」
 脚を組んだ上に腕組みまでした舞は、向かい側に座る尾崎を睨んだ。目の前には、食べ物を頼む前にとりあえず頼んだカクテルが置かれているが、よほど気が立っているのか、舞のグラスだけが既に半分近くにまで減っている。
 「あたしは、尾崎さんが忍さんに仲介を頼んだのに乗った訳じゃないから。あたしが話し合いに応じると思ってるんなら、それは大いなる勘違いよ。だから、そのホッとしたような顔は、今すぐ引っ込めて」
 「…そう言われても、どういう顔をしていいのやら、困るね」
 ちょっと面食らった顔をした尾崎は、そう言って困ったように忍と舞の顔を交互に見た。
 「だって実際、君はこの席についているんだし―――まさか黙って食事するだけのために僕を呼び出した訳でもないだろう?」
 「当たり前でしょ。でも、あたしが尾崎さんを呼び出したのは、話し合うためじゃない。文句を言うためよ」
 「文句?」
 「忍さんに頼むような真似するな、ってことよっ。どれだけ忍さんに迷惑かけたと思ってんの!? いい歳して、恥ずかしくないの!?」
 「……」
 「興信所の件もそう。忍さんは怒らなかったみたいだけど、あたしは怒るわよ。あたし達のことを調べたからじゃない、忍さんのことを調べたから! あなた、一体何の権利があって、忍さんのプライベートに踏み込む訳!? ずうずうしいにも程があるわよっ」
 「ま、舞さん…落ち着いて」
 早くもヒートアップ気味な舞を、隣に座る忍は、遠慮がちに制した。ヒートアップの原因が自分なだけに、あまり声高にクレームを連呼されると、自分が言わせているみたいで、少々気まずい。
 「ボクのプライベートも、尾崎さんからしたら、イズミ君や舞さんの延長線上にあったんやと思うわ。そやから、ほんま、ボクは構へんから」
 「いや、興信所の件は、申し訳なかったと思っているんだ。本当に」
 それについては、心底、すまないと思っているらしい。尾崎は、忍の言葉を遮り、居ずまいを正した。
 「舞ちゃん達のことも含めて―――すまなかった。けれど、分かって欲しい。そこまでしなくてはいけない位、これは重要なことだったから」
 「重要? 何が重要なのよ」
 「僕がイズミ君の父親だってことがだよ」
 当然だろう、という風に言い切る尾崎に、舞は冷ややかな表情で返した。
 「そんなこと、少しも重要じゃないわよ」
 「え?」
 「尾崎さんがイズミの父親だから、何だって言うの? それが分かったところで、あたしやイズミの人生に、何の影響もないわよ」
 「い…いや、だって…」
 唖然とした表情の尾崎は、混乱しながらも、なんとか反論を試みた。
 「今までは、舞ちゃん自身、誰がイズミ君の父親か分からなかったから仕方なかっただろうけど―――僕はイズミ君を認知するつもりだし、父親としての義務もちゃんと果たすつもりでいる。そうなれば、舞ちゃんの人生も、イズミ君の人生も、今とはそれなりに変わってくる筈だと思うよ?」
 「認知してもらう必要はないし、義務なんて果たさなくていいわよ」
 「そんな訳には」
 「だって、父親なしでも何ら不自由せずに生きてきたもの。今まで無くても困らなかったものを、今更押し付けられても、迷惑なだけよ」
 「ふ…不自由しないって! 少なくとも君は、十分過ぎるほどの不自由を被ってるじゃないか! まだ高校生だったのに…学校も辞めて、子供抱えながら生活のために働いて」
 舞の表情が、途端、険しくなった。
 「何よ、不自由って」
 「えっ」
 「高1までのあたしって、本当にどうしようもない人間だった。寂しくて、寂しくて…だから、その寂しさを埋めるために馬鹿な真似ばっかりしてた。でも、イズミがそれを、救ってくれたの。イズミがいたから、働く気力も、大学を自力で卒業するエネルギーも、営業所トップの営業成績をキープし続けるモチベーションも持つことができた―――イズミがいたからこその、今のあたしなのよ。それを、不自由だった? 可哀想だった? 馬鹿にしないで!」
 「……」
 「そりゃ、“普通”って言われる生き方があるのは、あたしだって知ってるわよ。10代は勉強が大事なんだろうし、20代は恋愛至上主義かもしれない。でも、“あたしにとって”何が一番大切なものなのかは、“あたしが”決める。世間や尾崎さんが決めるんじゃない、あたしが! あたしが決めるの!」

 尾崎は、舞の勢いに飲まれていた。
 忍もまた、舞の勢いに飲まれかけていた。と同時に、不思議な位に納得していた。
 舞の半生を聞くにつけ、いつも、このパワーはどこから生まれてくるんだろう、と羨ましく思っていたが、今の舞を見ていたら、その答えがよく分かったような気がする。
 イズミがいたからこその、今の自分―――孤独を埋めてくれる小さな命を授けられて、舞は初めて、明るい世界を歩くだけのパワーを得ることができた。もしイズミがいなければ、案外舞は、もっと自暴自棄な人生を歩んでいたのかもしれない。

 「…わ…悪かった。ごめん。舞ちゃんを不愉快にさせるつもりは、なかったん、だ」
 怒りのあまり半ば息があがってしまっている舞を宥めるように、尾崎はそう言った。がしかし、それでイズミのことを諦めた訳ではなかった。
 「でも…君が“何もしなくていい”と言っても、それでは僕の気が済まないんだ」
 「……」
 「僕の血を分けた子供がいると分かった以上、僕には父親としての義務があるし、それを感じない訳にはいかないんだ。母親である君に押し付けて、それで何も見なかったふりが出来るほど、僕は器用じゃない。せめてこの先、あの子の学費なり何なりを僕が負担したい。勿論…金銭だけで済ますのは、僕の本意じゃないよ? できることなら、一緒に暮らして…」
 「…あたしはイズミを手放す気はないし、本気で愛した男以外と同じ家で寝起きする趣味もないの」
 尾崎とその妻にイズミを託すのも、尾崎が妻と別れて舞と再婚するのも、どっちも願い下げだ、ということだろう。そっぽを向いて、なんとか涙を堪えている舞の言葉に、尾崎は、続きの言葉を一旦飲み込んだ。
 「―――そう、今すぐ即決するような話でもないだろう? ともかく、まずは認知だけでも」
 「いらない」
 「そういう訳にはいかないよ。父親として当然のことなんだから」
 「尾崎さん」
 自分が口を挟む問題でもないな、と思いながらも、忍は、ギリギリの状態にいる舞が見ていられず、思わず口を挟んだ。
 「もしもイズミ君が尾崎さんと似ても似つかへん姿でも…尾崎さんは、同じこと言ったやろか?」
 「…えっ?」
 「尾崎さんと奥さんの間にもう子供がおったとしても、同じこと、言ったやろか? 生活が苦しくて、子供を育てる余裕なんてなくても―――イズミ君を認知して養ってくって、言ってくれたやろか?」
 「……」
 尾崎の目が、ぐらりと揺れた。恐らく、耳の痛い部分があったのだろう。
 忍もまた、なんとなく感じていた。
 イズミが偶然、DNA鑑定を待つまでもないほど、尾崎の血を濃く引いていたから。長年、ずっと子供が欲しかったのに、まだ子宝に恵まれていなかったから。そして経済的にも十分すぎるほどのゆとりがあったから―――だからこそ尾崎は、こうして舞に食い下がっているのだ、と。
 「…確かに、尾崎さんには、父親の“義務”があるんやと思います。けど―――舞さんからすれば、尾崎さんが主張しはる“義務”は“権利”と同じ意味なんやないですか? 一緒に暮らす“権利”、父親を名乗る“権利”…義務と権利は、それを持っとる人間の心根一つでどちらにでもなる、表裏一体のもんやないかと、ボクは思います」
 忍がポツリポツリとそう言うと、尾崎は眉間に皺を寄せ、テーブルの上の自分のグラスをじっと見つめたまま、黙ってしまった。
 そのまま、2、3分ほど、黙っていただろうか。やがて顔を上げた尾崎は、何とも複雑な表情をしていた。
 「―――舞ちゃんの気持ちは、分かった。僕も想像力に欠けてたと思う。申し訳ない」
 「……」
 「中尊寺さんの言うことも…確かに、そうかもしれない。僕は“義務”と口にしながら、その実、“権利”を主張しようと躍起になってただけなのかもしれない。決して責任を感じてない訳じゃないよ。けれど…罪悪感より、イズミ君の存在に対する嬉しさの方が先行してたんだね。きっと」
 そこで大きく息をついた尾崎は、ちょっと眉をひそめて、舞の目を見据えた。
 「でも―――僕や舞ちゃんに“親の権利”があるように、イズミ君にも“子の権利”があるんじゃないか?」
 「え?」
 「自分の父親が誰なのか―――知らないままでいて、いいんだろうか?」
 「……」
 「親のいる僕でさえ、思春期には“実は自分は両親の子供じゃないんじゃないか”なんて不安感を覚えた経験がある。…子供にとって、自分のルーツを知るのは、重要なことなんじゃないだろうか」
 今度は、舞が瞳を揺らす番だった。
 『今はそう思ってなくても、やっぱりいつかは知りたくなると思うのよ。父親はどんな人だったんだろう、って』…尾崎と再会した日の夜、電話で忍にそう言ったのは、他でもない、舞自身だったのだから。
 「…で…でも、イズミは、会いたくないって言ってるわ」
 「それは、舞ちゃんにもイズミ君の父親が分からなかった時の話だろう?」
 「…それは…」

 唇を震わせた舞が、どう答えるべきか迷っていると―――唐突に、舞のバッグの中から、携帯の着信音が流れてきた。
 「ちょ、ちょっと、ごめんなさい」
 あまりありがたくない話の流れでもあった。ちょっとだけ救われた気持ちになりながら、舞は慌ててバッグを引き寄せ、中から携帯電話を取り出した。
 修学旅行先のイズミからだろうか―――そう思ったが、携帯の液晶に表示されているのは、見覚えのない番号だった。眉をひそめた舞は、怪訝に思いながらも通話ボタンを押した。

 「はい? 朝倉です」
 少し警戒したような声で電話に出た舞だったが、電話の主が名乗ると、目を大きく見開き、突然姿勢を正した。
 「あ…っ、はい、そうです。イズミの母です。松島先生は…イズミの、担任の先生で―――はい、はい、いつもお世話になっています」
 どうやら、イズミの中学の担任かららしい。声がすっかり“よそ行きの母親モード”になっている。
 それにしても、イズミが修学旅行なら、担任もその引率で日光だか東京だかに行ってるのではないだろうか。不思議に思いながら忍と尾崎が見守っていると。
 「はい……はい―――……え?」
 舞の顔が、一瞬のうちに、蒼褪めた。

 「イ―――イズミが、事故に…?」

***

 タクシーの中は、微妙な空気に包まれていた。
 「…もうすぐ、着くで? 舞さん」
 忍がそっと声をかけると、俯いていた舞は、僅かに顔を上げて忍の顔を一瞥した。その目は泣きすぎたせいで真っ赤に充血し、顔色は紙のように白く、血の気が完全に失せている。
 新幹線に乗っている間も、ずっとこんな状態だった。ガタガタ震えて、「どうしよう、どうしよう」とうわ言のように繰り返して―――あまりにも見るに耐えないその姿に、忍は途中からずっと、舞の手を握って支え続けるしかなかった。
 「―――大丈夫やって。大事になっとったら、また追って連絡を入れるって、先生も言うてたんやろ? 連絡がないっちゅうことは、とりあえず大丈夫やってことや」
 「…あたし…どうしよう…」
 瞬きをするとまた、涙が零れ落ちる。その涙を拭うのも忘れて、舞は忍の手をぎゅっと握り返してきた。
 「イ、イズミにもし、万が一のことがあったら―――どうしよう? あたし、生きていけない」
 「…大丈夫やって」
 「だって、車とぶつかった、って…!」
 「悪い方向に考えんとき。…イズミ君が、舞さん悲しませるような真似、する訳ないわ。…な?」
 「どうしよう…っ」
 何を言っても、今の舞には無駄らしい。空いている方の手で、舞の頭をぽんぽん、と撫でると、舞はまた俯き、忍の肩に寄りかかるようにして泣き出してしまった。
 ―――まあ…無理ないわなぁ…。
 忍だって、全くの平静状態ではない。日光の旅館に入る直前に、観光客の四輪駆動車と接触して、救急車で運ばれた―――それしか聞かされていないのだから、不安だらけなのが正直なところだ。
 彼は、どんな気持ちでいるのだろう―――チラリと目を上げた忍の視線と、舞の向こうに座っている尾崎の目が、空中でぶつかった。
 けれど、それも一瞬のことで、疲れた顔をした尾崎は、忍の視線を避けるかのように顔をそむけ、タクシーの窓の外に広がる暗闇に視線を移してしまった。


 病院に着いてみると、イズミの病室の前で、電話をしてきた担任教師が待っていた。
 「申し訳ありませんっ!」
 引率教師としての責任を感じてか、忍とほぼ同じ世代に見える担任は、舞にそう言ってガバッと頭を下げた。
 まだ動揺している最中らしい担任の話によると―――事故のあらましは、こういうことだった。
 日光観光を終え、今晩泊まることになっている宿に到着した一行は、旅館に入る前にちょっとした注意事項を駐車場で言い渡されていた。風が結構強くて、注意書きのプリントを配布するのに一苦労だった。そんな中―――思いがけないことが起きた。
 イズミの親友である恭四郎の手に渡ろうとしていたプリントが、風にあおられて、飛んでいってしまったのだ。
 「朝倉の方が風下にいたんで、朝倉がそれを追いかけて―――偶然、そこに、四輪駆動車が駐車するために進入してきまして」
 「あ…あの、どの位の勢いでぶつかったんでしょうか」
 「相手も車を停めるつもりだったので、かなり減速はしてたようです。それに、咄嗟に受身の姿勢をとったらしくて、幸い、肩の脱臼と打撲や捻挫で済みました。ただ…頭を打って気を失ったまま、まだ目を覚ましてないものですから…」
 「……」
 「あっ、でも医者(せんせい)が言うには、CTスキャンに異常はないそうです。その点はご安心下さい。ただの脳震盪ですから、目を覚ませば、とりあえず一安心です。すみません…事故直後にお電話したものですから、かえってご心配おかけしたようで―――いや、軽傷で済んだとはいえ、息子さんが事故に遭われたのは、ひとえに私達の力不足です」
 担任自身、思ったより軽傷でよかった、という感情と、えらいことになってしまった、という感情で、ごちゃごちゃになっているらしい。とにかく―――大きな怪我や命にかかわる異常はないらしい。駆けつけた3人は、ほっと安堵の息を漏らした。


 一通りの説明を終え、何度も何度も頭を下げて、担任は旅館に引き上げて行った。本人はイズミが目を開けるまで付き添うと言ったが、舞が断ったのだ。
 「あたし、病室で付き添うわ」
 「ん…、そやな」
 舞が心細そうにしているので、一緒について行こうかと思った忍だが―――気まずそうに佇む尾崎の方を見て、思い直した。
 「ボクと尾崎さんは、待合室で待っとるわ」
 「…えっ」
 忍の言葉に、舞だけでなく、尾崎も意外そうな顔をした。
 「でも…」
 「…イズミ君は、舞さんの子供やからね。ボクらは、とりあえず後回しでええよ。それに―――尾崎さんと、色々話もあるし」
 「……」
 不安げに瞳を揺らす舞に、忍はニッ、と笑ってみせた。
 「絶対、悪いようにはせーへん。…信じてや。ボクと、イズミ君を」


***


 ぶつかった瞬間、ああ、これが“貞子の祟り”か、と、馬鹿みたいに思った。

 やけに車が遅く見えて、自分では避けることができたつもりでいた。実際には、避けきれずにぶつかったのだが、正直、あまり痛くなかった。なんだ、こんな程度なんだ―――と思った、その先は何も覚えていない。

 切れ切れな夢を、色々見たような気がする。
 そして目が覚めた時―――そこに、酷い顔をして自分の顔を覗き込んでいる舞を、イズミは見つけた。

 「―――…母ちゃん…?」
 「だ…っ、大丈夫? イズミ、どこか痛くない?」
 「…ちょっと、腕とか、脚とか、痛いかも…」
 「1たす1はっ?」
 「……2」
 5、とかボケたら面白かったかもしれないが、そこまで頭は回らなかった。意識は戻ったものの、まだ夢うつつ状態だったから。
 ―――アカンなぁ…。関西人として、まだまだ修行が足りひんわ。
 それより母ちゃん、なんでここにいるんやろ?
 そこまで考えたところで、イズミは、また眠りの底に落ちた。


 次に目が覚めた時、舞は、そこにいなかった。
 「―――…」
 今度の目覚めは、寝ぼけた状態ではなかった。瞬きを数度繰り返したイズミは、うんしょ、と言いながら首を少し起こし、辺りを見回した。
 どうやらここは病室らしい。事故って運ばれたな、と、すぐに理解した。病院で着る検査服みたいな服を着せられているが、壁には着ていた服がそっくりそのままハンガーに掛けられていたので、安心した。財布や生徒手帳の類も、サイドテーブルの上にきちんと乗せてある。
 ―――で、母ちゃんは?
 …夢、だったんだろうか。
 いや、あんな場面で「1たす1は?」なんて質問をしてくるのは、舞本人しかあり得ない。窓の外の様子から、どうやら今は明け方の時間帯らしいと分かるので、もしかしたら仮眠でも取りにどこかへ行っているのかもしれない。
 そう推理した時、初めて、病室内に人の気配があることに気づいた。
 目を擦りながら顔をめぐらせる。まだ薄暗い室内をぐるりと見回すと―――入り口のすぐ脇に置かれたスチール椅子に、誰かが腰掛けていた。
 「……誰…?」
 誰、だろう。
 知らない人だ。
 舞や忍より、ずっと年上の、男―――40は過ぎているだろう。イズミにとっては、馴染みのない年代だ。品の良いブルー系のシャツにベージュのパンツという服装は、中年の域にさしかかりながらも、結構オシャレにしていることを感じさせる。でも…全く見覚えのない男だった。
 「―――ああ、良かった。目が覚めたんだね」
 眼鏡の奥の目を優しげに細めると、男は椅子から立ち上がり、イズミの枕元に歩み寄った。
 「びっくりしたよ。事故に遭ったなんて聞いて」
 「…おっちゃん、誰?」
 「ああ、僕は、君のお母さんの古い知り合いでね。尾崎っていうんだ。昨日、中尊寺さんや舞さんと一緒に食事をしてて、そこに君の事故の一報が入ったんだよ」
 「忍も?」
 「うん―――今、舞さんと一緒に、ちょっと席を外してるけどね」
 「そうなんや…忍も来てくれたんや」
 思わず、顔が綻んだ。こんな軽傷じゃ、心配して損をした、と2人には言われそうだけれど―――自分の大事に舞と忍が揃って飛んできてくれた。それは、とても幸せな気分だった。
 「おっちゃんは、母ちゃんとどういう知り合いなん? オレが事故ったからって、わざわざ一緒に日光くんだりまで飛んでくるなんて」
 ちょっと不思議に思ってイズミがそう訊ねると、男は一瞬、うろたえたような顔をした。が、すぐにもとの穏やかな表情を取り戻し、薄く微笑んで答えた。
 「実は…とても大事な話があって、舞さんと会ってたんだ」
 「大事な話?」
 「…君の、お父さんかもしれない人の、話」
 「……」
 意味が、よく分からない。
 「オレには父ちゃん、おれへんよ?」
 「ああ、うん、分かってる。だからあくまで“かもしれない人”なんだ。…僕の知り合いで、舞さんと昔交際のあった人がね、イズミ君と似ているもんだから」
 「オレと?」
 「うん」
 そんなに似た奴が、過去の男どもの中にいたのか―――なのに舞は、その男の子供だとは微塵も考えなかった、そういうことだろうか? どうにもおかしな話だ。
 でも、まあ、そういうこともあるのかもしれない。ああ見えて、舞は結構抜けている口だ。しかも、相手は結構な人数いたのだから、いちいち顔なんて覚えてなくても仕方ないだろう。
 「ふーん」
 納得したようなしないような妙な気分で、イズミはそう、相槌を打った。その、あまりにも軽い反応に、男は少し驚いたような、困ったような顔をした。
 「で、ね。彼は是非、イズミ君に会ってみたい、って言ってるんだ」
 「会ってみたい、って…会って、どうするん?」
 「…ただ、会って、親子なんだな、ってことを確認したいだけだよ」
 「……」
 「どう? 君は、彼に会ってみたい?」
 男の目が、少し真剣みを帯びる。急な話で、あまり頭がついていけてない気もするが、この話が結構深刻な話であることは、事故後のボケた頭でも十分分かっている。イズミは僅かに眉を寄せ、男の目を見返した。
 「ううん」
 「―――…」
 「おっちゃんがわざわざここまで来てくれたのに、悪いけど…ごめん。オレは、会う気、ないわ」
 「…で…でも」
 明らかに動揺した顔になった男は、一度唾を飲み込み、イズミとの距離を少し縮めた。
 「お父さん、てことは、君の体の中に、その人の血が流れてるってこと―――君のルーツに当たる人だよ? どんな人か、知りたいとは思わないのかい?」
 「うん」
 「…どうして?」
 「オレのルーツは、母ちゃんやから」
 「……」
 「普通は、父親と母親から半分ずつ遺伝子もらって生まれてくるんやろと思うけど―――オレは、100パーセント、母ちゃんで出来てるんやと思ってる。ちゃんと、母ちゃんていうルーツが分かってるから、それ以外のルーツはいらんねん」

 一切、迷いのない答えだった。
 似たような質問を、学校の教師から、同級生の親から、なんだか分からない大人から、何度となく繰り返されてきた。だから、簡単に出てくるのだ。もうイズミの中では、何年も前に消化し終わった問題だから。

 「それにな。相手の人って、セックスが目的だっただけで、母ちゃんに惚れてた訳でも、子供作ろうと画策しとった訳でもないんやろ?」
 いきなり露骨な話をイズミが口にしたので、男はギョッとしたような顔になった。その反応にちょっと笑いながら、イズミは続けた。
 「もしそうなら、母ちゃんにも父親が分からん、なんてことにはなってへんもんな。オレが生まれようが生まれなかろうが、ずっと母ちゃんの傍にいた筈や。いなかったってことは―――その人の遺伝子が残ったんは、単なる偶然やろ。その偶然を“父親”って思え、って言われても、とても思えへん」
 「……」
 「…途中からおらんくなったんなら、また別やろうけど―――オレは、生まれた時から父親おらんかったから。みんなが持ってるらしいから“オレも父ちゃん欲しい”ってねだった時期もあったけど…実際、父親が何なのか、よう分かってへんかったから、“みんなの持ってるゲーム、オレも欲しい”って言っとったのと、大差ないしな。だからオレは、父親がおらんことに、疑問持ったことも、不自由感じたこともないわ。母ちゃんがおれば、それで満足や。だから…オレのルーツは、100パーセント、母ちゃんやねん」
 「―――そう…か」
 呟くようにそう言うと、男は、少し寂しげに目を細めて、笑った。
 「よく考えたら、“かもしれない人”だしね。君がそう思っているなら、わざわざDNA鑑定して、親子かどうか白黒つけるなんて、あまり意味のないことかもしれないね。…分かったよ。じゃあ、彼には、振られたって伝えておくよ」
 「うん。ごめんな」
 「でも―――イズミ君の話聞いてると、ちょっと心配だなぁ。もし舞さんが中尊寺さんと結婚でもしたら、中尊寺さんのこと、ちゃんと“お父さん”って思えるかい?」
 「……」
 苦笑混じりの男の質問に、イズミはキョトンとして、パチパチと瞬きした。
 そして、思い出して、思わず笑った。ああ―――去年の今頃は、そんなことで悩んで、兄ちゃんや姉ちゃんにも心配かけてたっけなぁ、と。
 よっ、と勢いをつけて起き上がろうとする。が、腕や肩にズキンと痛みが走って初めて、自分が事故で怪我をしたことを思い出した。
 「い、いててて」
 「あああ、無理をして…」
 「だ、大丈夫大丈夫」
 顔を歪めながら起き上がったイズミは、サイドテーブルの上の生徒手帳を手に取ると、その裏表紙を開いた。
 そこには、イズミの憧れの人・姉ちゃんの写真が挟んであるのだが―――目的のものは、その裏に、隠すように挟んであるもの。昔々からの、イズミの宝物だ。
 「これ」
 その宝物を引っ張り出し、男に差し出す。不思議そうな顔をした男は、それを受け取った。

 男が受け取ったものは、1枚の絵だった。
 本か何かから切り取ったらしいが、随分色あせて、古ぼけて見える。ただ、何の絵かは、すぐ分かった。
 赤ん坊を抱く、美しい女。その母子を見守る、質素な服装の優しげな男―――これは、聖書のワンシーンだ。馬小屋でイエスを抱くマリアと、その夫のヨセフの。

 「昔な、学童保育で行ってた教会の、牧師さんにもらった絵本や。ボロボロになったから、一番好きだったその絵だけ、切り取って今も持ち歩いてんねん」
 「…なんで、この絵が?」
 「オレ、初めてその絵見た時、そこにいるヨセフがイエス様の父ちゃんやと思ってん。それで牧師様に聞いたら、そうやないって。イエス様の父ちゃんは、神様やねんて。イエス様は、マリア様だけの子供で、ヨセフの子供ではないんやって」
 「……」
 「なんか、それ聞いて…オレ、嬉しかってん。その絵のマリア様、ちょっと母ちゃんと似てるしな。父親がおれへんとこも同じやろ? そうか、オレの父親も、もしかしたら神様なのかもしれへん。…そう思った。だからずっと、その絵が好きやった」
 「…そうか…」
 「―――初めて、忍に会った時な」
 1年ちょっと前を懐かしむように、イズミは笑みを浮かべ、天井を仰いだ。
 「忍、オレには父ちゃんがおらん、誰なのかも分からん、て話を聞いて―――そらええなぁ、って言ってん」
 「…え?」
 「“誰なのか分からんのやったら、自分の好きなように想像できるやんか。大金持ちかもしれへん、詩人かもしれへん―――いくらでも想像できる。その最たるもんが、イエス様や。父ちゃんが神様やなんて、アホらしくて信じられへんやろ? けど…そう思うんも自由や。”…そう、言ってん」
 「―――…」
 「…この絵のことも知らんのに、そう言ったんや。忍は」

 あの時。
 口では「馬鹿馬鹿しい」と言って逃げてしまったけれど―――本当は、心臓がドキドキいって、大変だった。
 まだ、兄ちゃんという存在への憧れが強すぎて、自分にとって何が一番大切なのか、それを見失っていた時だったから―――いきなり現れた忍に、動揺し、混乱し、怯えた。差し出された手を取っていいのかどうか分からなくて…迷って、迷って。

 「オレな。最近、やっと分かったんや。オレが一番欲しいと思ってるもんが、何なのか」
 視線を男に戻したイズミは、ふわっと微笑むと、やっと手に入れた答えを口にした。
 「オレはずっと、ヨセフを探してたんや」
 「…ヨセフ…?」
 「血の繋がらん子供と、そんな子供を産んだマリア様を、それでも笑顔で守ってくれる人。…こういうオレと母ちゃんを、それでいいんだよ、って言って、受け入れてくれる人」
 「……」
 「見つけた、と、思う。…でもオレ、忍を“父ちゃん”とは呼ばへんと思う。ヨセフが“父ちゃん”やないのと同じや。忍は…やっぱり、忍やから」
 「―――…そう」
 男はポツリと相槌を打ち、笑った。
 その笑顔は、イズミの言葉を理解した、納得した笑みだった。


***


 ガチャリ、とドアを開けると、少し離れた所にあるベンチに座っていた2つの人影が、同時に立ち上がった。
 「イズミ君、目を覚ましましたよ」
 尾崎のその言葉に、舞と忍は、つかつかと歩み寄り、少し心配げな目で尾崎の目を見つめた。
 “父親であることは、絶対に言わないこと”―――それが、忍と交わした最大の約束だった。その上で、イズミ自身の口から、真意を聞いて欲しい、と。
 「…納得しました。彼には、会うのは諦めるように伝えます」
 イズミの手前、自分のことだが“彼”と言うしかない。苦笑を浮かべた尾崎がそう告げると、舞はあからさまに安堵したような笑みを見せた。が、忍はその結末を確信していたのか、口元だけで薄く微笑んだだけだった。

 「イズミっ」
 尾崎の横をすり抜けた舞は、足早に病室の中に駆け込み、ベッドの上に起き上がっていたイズミをぎゅっと抱きしめた。
 「う、うわ! い、いたたたたたたた、痛いわ、母ちゃんっ」
 「うるさいっ。もー…あんたって子はっ。こんな所まで来て、あたしや忍さんに心配かけてっ」
 「ごめんごめんごめん」
 舞の腕の中でもがきながら、イズミは、舞を宥めるように何度も謝った。が、枕元に歩み寄った忍に気づくと、舞の腕の隙間からなんとか手を伸ばし、忍の手を軽く握った。
 「忍…、来てくれたんや」
 「ほんま、寿命が3年ばかし縮んだで。早死にしたら責任とってや、イズミ君」
 「あははは」
 楽しげな笑い声をたてるイズミに応えるように、忍も笑った。そして2人して、イズミに抱きついて泣いている舞をチラリと見て、しゃーないなぁ、という顔を同時にした。


 ―――あの絵と、同じだな…。
 その光景を見て、尾崎はそう思った。

 聖書の中の、聖母子像―――ようやく明るくなってきた病室の中に描かれたその光景も、確かに、淡い色したその絵と同じものだった。


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