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 10: イズミ、空を仰ぐ

 10月2日(火)

 半日学校休んで、地元の病院に再検査に行った。
 とりあえず、異常なし。骨折れてたら相当長い時間バスケできなくなるから困るな、と思ったけど、それも問題なし。悪運強いなぁ、オレ。結局、一番楽しみにしてたディズニーランドも、恭四郎を松葉杖代わりにして全部回っちゃったし。
 でも、脱臼した肩がまだ治ってないし、捻挫が結構激しかったから、半月位は部活は控えろ、と医者に言われた。つまんないけど、ま、しょうがないか。

 やっぱりあの事故は「貞子」のせいのような気がしたから、今日、「貞子」のクラスに文句を言いに行った。
 でも、「貞子」はいなかった。
 自称「貞子の友達」が、修学旅行を最後に転校した、と教えてくれた。もう2ヶ月も前から聞いてた、って。
 …転校するから、もう1回、告ってきたのかも。そう考えると、ちょっと可哀想になった。だからって、呪ってもいい、ってことにはならないけど。

 忍から電話あり。異常なしだって伝えたら、ホッとしてた。
 今度の休みに、久々に飛行機飛ばしに行くか、と誘われたけど、オレは恭四郎との約束があったので、断った。前から見に行きたかったプロリーグの試合、恭四郎が「おわびに」って言ってチケット取ってくれたんだ。別に恭四郎のせいでケガした訳じゃないんだけどなぁ。
 で、断ったら、どうやら日曜日は、忍と母ちゃん2人きりのデートになったらしい。かえって良かったかも。

 なんか、事故以来、忍と母ちゃんの間の空気が、ちょっと変わった気がする(まだ3日だけど)。
 非常時って、愛がめばえるって言うからなぁ。もしかして、オレが事故ったおかげ? そっか、いわゆる「子は春日井」ってやつだな。ちょっと意味が違う気もするけど。
 …それにしても、なんで「春日井」なんだろう? 前から気になってはいたけど、変な言葉だな。


 【一口メモ】
  「春日井」について、気になったから母ちゃんに聞いてみたら、大笑いされた。
  「“子供が春日井”って、さっぱり意味わかんないわよ、あはははははは」と散々バカにした挙句、「鎹」って字を書いてくれた。知らねーよ、こんな字。
  材木と材木をつなぐ金具なんだって。母ちゃんは大工の娘だからそんなこと知ってるんじゃないか、と言ったら、常識だって余計バカにされた。チクショウ。
  でも、納得した。両親をつなぐ金具だから「子はかすがい」なのか。
  愛知県春日井市に、親の離婚を命がけで止めた伝説の孝行息子がいた訳じゃないのか。


***


 仰天ニュースが飛び込んできたのは、その年も間もなく終わろうかという、12月の半ばだった。

 「えぇ!? ま、マジ!?」
 「……マジらしいわ」
 休日、朝倉宅を訪れた忍は、目を丸くする親子の前で大きなため息をついた。
 「それだけは堪忍してや、っちゅーといたんやけどなぁ…。とうとう本決まりや。兄ちゃんも何を血迷ったんやろか」
 「…てゆか、イトコ同士って、結婚できたんや…」
 そう。忍が持ってきた仰天ニュースは、とあるイトコ同士の結婚話だった。
 雅と、綾香が、来年の6月に結婚することになったのだ。恐ろしいことに。
 「け、けど、雅にーちゃんて、あいつのこと苦手とか言ってへんかった?」
 「言うてたで。なのに、蓋を開けてみればこういう結末やねんて。ほんま、色恋沙汰はわからへんもんや」
 「何があったん!? 海水浴行ってから、まだ4ヶ月やんかっ」
 よほどの事件が起きて、唐突に雅の価値観が変わったとしか思えない。イズミが身を乗り出すようにしてそう訊ねると、忍は、少し気まずそうに、あさっての方向を向いた。
 「…そら、まあ、色々あったわな」
 「何、色々、って」
 「こら。子供がそういう話に深く突っ込まないの」
 それまで黙っていた舞が、そう言ってイズミの頭をコツンと叩いた。身を乗り出しすぎていたイズミは、そのせいでテーブルの上に見事に突っ伏す羽目になった。
 「ひ、酷いわ、母ちゃんっ。中学生でも十分興味持つ話題やろ、これっ」
 「もー、いいじゃないの、雅さんと綾香さんがそれでいいって言ってるんだから。…で、綾香さん、どうするって?」
 イズミの訴えを無視して舞が訊ねると、忍は、話題がまずい方向から逸れたことにホッとしたように表情を緩めた。
 「ああ、やっぱり、お父ちゃんの会社で働くことになったわ。綾香ちゃん、あれで英語だけはペラペラやからね。貿易業には向いてるかもしれへんわ。けど、27で初めての就職やで。全く…」
 「ふぅん…じゃあ、結婚したら、同じ職場で共働きになるのねぇ。やりにくそう」
 「当然、フロアは分けるやろ。その辺はぬかりないわ、多分」
 ―――おーい、オレは無視かいっ。
 イズミそっちのけで進行する2人の会話に、テーブルに突っ伏したままのイズミは、不機嫌そうに眉を顰めた。
 というか―――今の舞の話し振りから、舞にとってこの仰天ニュースは、決して“青天の霹靂”といった類のものではないことは、明らかだ。オレの知らないところで、ほんまに色々あったんやな―――イズミは、詳しく聞いてみたいような、知らない方がいいような、複雑な気分になった。

 実際、聞かなくて正解だったかもしれない。

 例えば、海水浴から間もない頃、雅がいきなり舞にプロポーズしてきたこととか。
 それを知った父が、子持ちの女だと聞いて激昂したものの、香乃が冷ややかな目をしたり、忍が父の意見にぶちキレたりしたため、ますます父の家庭での立場が弱くなったこととか。
 修学旅行後、忍と舞の仲がかなり確定的になってきたと知った綾香が、お願い人のモノにならないで、と忍の部屋でしくしくしくしく泣いたこととか。
 忍さんも綾香さんの方がいいんじゃないの、アホかそんな訳あるかいな、という言い合いが、合計3回ほどあったこととか。
 舞さんこそ兄ちゃんの方がお似合いなんとちゃうか、冗談でしょ馬鹿にしないでよ、という言い合いも、合計3回ほどあったこととか。
 恋に破れた雅と、自分の本心に気づいて混乱状態の綾香、2人の恋愛騒動が、忍や舞も知らないところで展開したこととか。

 母ちゃんと忍、いい加減キスくらいはしたんかなぁ、なんてことを日記に綴っているようなイズミが聞いたら、恐らく卒倒寸前になりそうな話が、イズミの知らないところで起きていたのである。
 「クリスマスは、2人でハワイに行くとか言うてるわ。変わり身早すぎて、ついていけへん…」
 「…まあ、いいんじゃない? あの2人に相手が出来てくれた方が、あたし達も安心だし」
 という忍と舞の会話の裏に、そうした経緯が秘められているとは、テーブルに突っ伏したイズミには全く想像がつかなかった。

 

 12月23日(日)

 2日早いけど、恭四郎やバスケ部の仲間と一緒に、クリスマスパーティーを開いた。
 結構交流のある隣の学校のバスケ部員も、3人ほど参加した。
 そしたら、ビックリ。6月の試合で、オレにタオル渡してくれたあの隣の学校の女の子が来てた! 部員3人の中の1人が、双子の弟なんだって。「隣のバスケ部とパーティーやるんだ」って言ったら、「私も連れてって」とせがむので、仕方なく連れてきたらしい。
 あの時のタオル、結局返せないままだったから、気になってたんだよな。だから、返したいんだけど、って彼女に言ったら、驚いた顔して「覚えててくれたの?」って嬉しそうに言ってた。
 姉ちゃんとはちょっとタイプが違うんだけど、ハキハキしてて、明るくて―――なんていうか、サイダーとかコーラを思い出させる女の子だった。こういうのも悪くないなぁ。
 タオルを返す用事もあるから、冬休み中にまた会う約束をした。「ノエちゃん」て名前だけど、字がよく分からない。今度会ったら、改めて聞くことにしよっと。

 雅兄ちゃんと綾香は、多分今頃、ハワイだと思う。勝手にしろ。
 母ちゃんと忍は、今日じゃなく明日会うらしい。イブだもんなー。案外、イベントごとに弱いな、あの2人。


 【一口メモ】
  ノエちゃんが連れてきた女の子の1人と恭四郎が、ちょっといい雰囲気だった。
  オレは、なんかミョーに男慣れしてる感じがして今ひとつと思ったけど、母ちゃんに憧れてる恭四郎だから、結構好みなのかも。
  もしあの2人が上手くいって、オレとノエちゃんも上手くいったりしたら、ダブルデートできるなぁ。それもいいなぁ。

***

 2月14日(木)

 野枝ちゃんからチョコをもらった。ついでに、告白もされた。
 3月14日までは、返事はしないでね、って言われたけど―――オレ、別に今日「はい、喜んで」って答えても良かったんだけどなぁ。なんで1ヶ月待つ必要があるんだ? 女って、変なところにこだわるなぁ。ようわからん。
 ま、でもいいや。野枝ちゃんは、友達としても楽しい子だし、付き合うなら長く付き合いたいから、あんまり急ぐのも良くないもんな。
 恭四郎とユミちゃんなんて、正月にくっついて、バレンタイン直前に別れたし。いくらなんでも早すぎだろ。バレンタインチョコもらってから別れればよかった、って、おい、そういう問題かよ。

 うーん…それにしても母ちゃん、遅いな。まだ帰ってこない。忍と仲良くやってるんかな。
 あそこも進展のろいよなぁ。1年以上経つのに、一体どうなってるんだろう? オレが見る限り、修学旅行明けの頃とあんまり変わってないんだけど。子供の手前、変わってないフリしてるだけとか? そんなに器用な奴らじゃないしなぁ。
 けど、正直、母ちゃんと忍のラブシーンなんて、想像つかない。

 あ、そうだ。また聞き忘れた。

 <近いうちの行動計画>
 ・母ちゃんに忍のどの辺が好きなのか聞いてみる
 ・ついでに、忍にも同じことを聞いてみる

 …1年経っても、まだ聞いてないし。


 【一口メモ】
  さっき、忍に付き添われて帰ってきた。忍も相当酔ってたから、また和室に泊めることにした。
  ちょっと覗いてみたら、忍のやつ、もう眠ってるし…。ムードない奴らだなぁ。ほんまに大丈夫か。

 

 

 3月14日(木)

 ホワイトデーなので、野枝ちゃんにクッキーをお返しした。
 で、今日から正式に、野枝ちゃんと付き合うことになった。
 …地主神社のお守り、別に持ち歩かなくてもご利益あるのかな。オレ、ずーっと机の中に封印したままなんだけど。とにかく、初めて、ちゃんと付き合える女の子と出会えたので、感謝感謝。

 母ちゃんと忍も、今日はデートだった。
 イベントごとは全部押さえてるから、一応、彼氏彼女の仲なんだろうなぁ。オレの前では、ほとんど変わんないけど。
 またバレンタインの時みたいに酔っ払って帰ってくるかと思って心配してたけど、普通に帰ってきた。ただ、前にも聞いたような気がする質問を、またオレに聞いてきた。
 「ねえ。イズミは、忍さんと一緒に暮らしたいって思う?」
 毎日忍に会えるのはうれしいから、「うん」て答えておいた。「そう」って言う母ちゃんの顔はうれしそうだったから、母ちゃんもそう思ってるんだろう。
 忍は、どう答えるかな。
 日曜日、うちに来るみたいだから、ちょっと聞いてみようかな。


 【一口メモ】
  恭四郎、どうなったかな…。
  別れた上に、バレンタインももらってないくせに、ホワイトデーのプレゼントをあげにユミちゃんとこ行くなんて、よっぽど好きだったのかな。なら、別れなきゃ良かったのに。
  あいつ、家のゴタゴタのせいで、結局地主神社行ってないんだよな。
  …お守り、貸してやれば良かった。


***


 「……え?」
 ホワイトデーの4日後の、日曜日。
 いつもとは違い、イズミの向かい側に2人並んで座っている舞と忍の顔を凝視しつつ、イズミはキョトンとした顔をしてしまった。
 「結婚??」
 「うん、そう」
 極々当たり前の話をするような口調で、舞がそう答える。
 来週にでも3人で温泉浸かりに行こうと思うんだ、なんて話題と大差ないノリで、実は結婚しようってことになったんだ、と報告されても、なんだかピンとこない。オレ、結婚の意味取り違えてるのかな、と一瞬不安になった。
 「…ええと、つまり、母ちゃんと忍が、結婚するってこと?」
 「それ以外、何があるの」
 「…オレ達が、忍と一緒に暮らす、ってこと?」
 「そうよ。この前、イズミも言ってたでしょ? 忍さんと一緒に暮らしたいか、って訊いたら、うん、って」
 「言ったけど……」
 まさかあの質問の裏に、こんな事情が隠れていたなんて、想像もしなかった。

 と、ここまできて初めて。
 忍と舞が結婚する、という事実が、イズミの頭の中でやっとリアリティを持って認識された。

 「―――えっ、えええええええぇぇ!!!? か、かーちゃんと忍、ほんまに結婚するん!???」
 「だから、さっきからそう言ってるじゃないの。変な子ねぇ」
 思わずのけぞったせいで、テーブルの上のマグカップが大きく揺れ、危うく中身のココアがこぼれそうになった。それにも気づかず、イズミは立ち上がり、テーブルの向こう側へと身を乗り出した。
 「い、い、いつ!? いつからそういう話になったん!? オレっ、オレ、全然そんな話、聞いてへんよっ」
 「いつ、って…」
 パニック顔で詰め寄るイズミに、舞は、少し困った顔をして、隣の忍の方を見た。
 「…うーん、ほぼ本決まりになったんは、ここ1週間やね」
 「てことは、本決まりじゃないのは、もっと前からってこと!?」
 「ここ1月くらいやろか」
 「嘘やあぁっ!」
 イズミが英語圏の人間であったなら、間違いなく「オーマイガッ」と叫んでいるだろう。イズミのあまりの驚愕ぶりに、さすがに忍も、心配そうに眉をひそめた。
 「ええと…もしかしてイズミ君、反対なんか?」
 「そーやないっ。忍と母ちゃんの間でそんな話が持ち上がってることに、このオレが1ヶ月も気づかへんかったことがショックなんやっ。大体、忍もみずくさいわ。オレの親友やのに、こんな大事な話、ひとっつも教えてくれへんなんてっ」
 「しゃあないやんか…。イズミ君は、親友である前に、当事者の一人やねんから。ある程度話がまとまるまで、そう簡単には話せへんて」
 「そうやけど―――ああああ、なんで雰囲気で気づけなかったんやろー? なんか悔しいー」
 思えば、今日忍がここに来たのも、最初からこの話が目的だったのだろう。先日未完成のまま持ち帰ったグライダーを完成させたから一緒に飛ばそうか、と言っていた数日前のあの電話を、全く疑わずに鵜呑みにしたのが悔しい。
 と言っても別に、蔑ろにされたとかそういうことを思っているのではない。単に、大人2人が自分の前で見せていた“恋人らしからぬ様子”にすっかり騙されてしまっていたのが悔しいだけだ。親友とか息子として、というより、“舞と忍ウォッチャー”を自認している立場として。
 「けど…そっかぁ…。結婚かぁ…」
 そうかぁ、と、独り言のように何度も繰り返しながら、無意識のうちに腰を下ろす。パニックがある程度去ったら、残ったのは、胸の奥にふわりと広がる、なんとなくあったかい気持ちだけだった。
 「―――イズミは、賛成してくれる?」
 そんなイズミの様子に、舞がやっとその言葉を口にする。
 イズミは、少しだけ不安そうな舞の顔を見、続いて神妙な面持ちの忍の顔を見、そして最後にもう一度舞の顔を見てニッコリと笑った。
 「反対する訳、ないやん。縁結びのお守り贈った張本人やのに」
 途端、2人の表情が、ホッと安堵に綻んだ。
 「良かった…」
 「おおきに」
 「えへへ」
 照れたように笑ったイズミだったが、ふとあることに気づき、表情を改めた。
 「あっ、そうや。それで、結婚て、いつするん?」
 「まだあちらのご両親に正式には挨拶に行ってないし、お式なんかをどうするかも決めてないけど―――籍を入れるのは、雅さん達の結婚式の後位のつもりよ」
 「ふーん…そんならオレ、6月か7月辺りに、苗字変わるのか」
 まあ、友達の大半が“イズミ”と呼ぶし、3年生になればバスケ部でも最上級生になる訳だから、苗字を呼ぶのはせいぜい学校の先生位だろう。昨日まで“朝倉”と呼んでた人から“中尊寺”と呼ばれるのも変な気分だが、別にいっか、とイズミは思った。
 ところが、それを聞いた舞からは、意外な言葉が返ってきた。
 「ああ、それは大丈夫。苗字は変わらないから」
 「え?」
 予想外の話に、イズミは目を丸くした。
 「だ、だって―――母ちゃんと忍が結婚したら、忍の姓になるんやろ? そしたら、オレも“中尊寺”って名前になるんと違うの?」
 それに対する舞の答えは、更に予想外だった。
 「そうじゃないの。あたしも“朝倉”のままなのよ」
 「は? ど、どういうこと?」
 ますます目を丸くイズミに答えたのは、舞の隣で涼しい顔をしている忍だった。
 「結婚したら、舞さんがボクの籍に入るんやなくて、ボクが舞さんの籍に入ることに決めたんや」
 「―――…は???」
 「そやから、イズミ君も舞さんも、今のまんま。ボクだけが“朝倉 忍”になるってこと」

 一瞬、意味が分からなかった。
 結婚するに当たって、男性側ではなく女性側の籍に入るケースもあること位、イズミも知っている。小学校の時のクラスメイトの家がそうだったから。
 ただ、そのクラスメイトの家は、母方の実家が古くから家業を営んでいて、どうしても跡継ぎが必要だから、父親が婿入りしたと聞いている。女ばかりの家だから、名前を継ぐ人間が必要だったのだ。こんな事情でもない限り、結婚と言ったら普通、男性の籍に入るのが当たり前―――というか、そういうもんだと、イズミは感じていた。

 だから、唖然とした顔で、こう返すしかなかった。
 「な…なんで? うちって別に老舗旅館とかそういう、跡継ぎが必要な家でもないし―――なんで、普通に忍の籍に入らへんの?」
 「なんで、って…」
 少し困ったようにチラリと目を合わせた忍と舞だったが、その結果、出てきた答えは、呆れるほどにアバウトだった。
 「どっちでもええんやったら、“朝倉”の方がカッコイイやろ?」
 「―――…」

 ―――カッコイイから、“朝倉”を選んだ??
 そんな訳ないやろ。子供だと思って見縊ってへんか?

 そんな説明を信じることができるほど、イズミは単純ではなかった。
 はぐらかされた―――その裏にどんな理由が隠されているのか考えた時、イズミの表情が曇った。

***

 「―――イーズーミっ」
 コンコン、とノックの音が響く。
 ベッドの上で膝を抱えていたイズミは、ちょっとだけ顔を上げた。直後、ドアが開き、舞が顔を覗かせた。
 「なぁに膨れてるの?」
 「…忍は?」
 「あんたがリビングに放り出してたインドアプレーン、羽根の角度が変だから、って、微調整してる」
 「…怒ってる? オレがいきなり、部屋に戻っちゃって」
 「―――怒ってないけど、心配してる」
 小さく息をついた舞は、スルリとイズミの部屋の中に滑り込み、イズミの隣に腰掛けた。その舞の表情から、舞もかなり心配していることが窺えて、イズミは気まずそうに抱えた膝を更に引き寄せた。
 「…どうしたの、一体。そんなに“朝倉”って苗字のままでいるのがイヤ?」
 「…そうやない」
 「じゃ、なんで怒ってるの?」
 「……」
 「まさか、忍さんが言った冗談を真に受けて、怒ってる訳? そんな理由で決めるなんて不謹慎だ、って」
 真に受けてなんか、いない。イズミは首を振った。
 「怒ってる訳やない。ちょっと…落ち込んだだけや」
 「落ち込む?」
 「―――なあ、母ちゃん」
 おもむろに顔を上げたイズミは、少し眉をひそめるようにして、舞の目をじっと見据えた。
 「もしかして母ちゃんと忍、忍の親とかから、反対されてるんやない?」
 「―――…え?」
 「反対されて―――中尊寺の家には入るな、って言われて、それで忍が母ちゃんの籍に入ることになったんやない?」
 「……」
 「どこの誰の子かも分からん子を、自分らと同じ籍には入れたくない、って…そういう理由やから、あんな風なおちゃらけ返して、オレに本当の理由言わなかったんやない?」
 「―――バカねぇ…」
 舞の顔が、僅かに歪んだ。
 「そんなこと考えてたの、あんたって子は」
 手を伸ばし、イズミの頭をくしゃくしゃと撫でると、舞は大きなため息をついた。まさかイズミが、忍が答えをかわした理由をそんな風に考えるんて―――さすがの舞も、予想外だった。
 「そんな理由じゃないわよ。そりゃ、全然反対がないとは思ってないけど…忍さんがあたしの籍に入ることになったのは、全然別の理由。ただ…忍さんは、それをあんたにどう伝えればいいか、一瞬迷っちゃっただけよ。凄く観念的なことだから」
 「…観念的…?」
 「まず、説明するけど」
 イズミの頭から手を離した舞は、体ごとイズミの方に向き直り、いつもよりゆっくりめの口調で説明し始めた。
 「親の結婚と子供の籍の問題って、実は別々なの」
 「え?」
 「例えばね。あたしと忍さんが結婚して、あたしが忍さんの籍に入ったとするでしょう? でも、あたしの子供のイズミは、何も手続きしなければ、忍さんの籍には入らないの。朝倉姓のままなのよ」
 「えっ、そうなん? オレ、母ちゃんが結婚すれば、自動的にオレも母ちゃんと同じ姓になると思ってた」
 「そう思ってる人が多いけどね。実は、違うの。イズミが忍さんの籍に入籍するか、結婚後にあたしか忍さんと養子縁組すれば、イズミも中尊寺姓になるんだけど」
 舞と、養子縁組―――もの凄く変な話だ。イズミは唖然とした顔になってしまった。
 「…あたしは、それでいい、って思ったの。イズミと忍さんには、書類上でも、ちゃんとした“家族”になって欲しいし―――やっぱり、親子で姓が違ってるのは、色々面倒でしょう? だから、通例通り、あたしが入籍するのと同時にイズミも入籍するか、忍さんが養子縁組してくれれば、それでいいって。でも―――忍さんが、それは嫌だ、って言うの」
 「忍が?」
 何故?
 イズミが目を瞬きながら無言のうちに問うと、舞は困ったように笑い、こう答えた。
 「イズミには、ずっと“朝倉イズミ”でいて欲しいんだって」
 「……え?」
 「イズミはずっと、“あたしだけの子供”だったから―――忍さんは、事ある毎にいつも、そう言ってくれてたから。結婚しても、養子縁組したとしても、イズミにはずーっと、“朝倉イズミ”でいて欲しい、って…そう、言ってた」
 「……」
 「イズミには“朝倉イズミ”でいて欲しいし、でも、書類の上でも実質的にも、3人で1つの家族になりたいし―――そうか、だったら、自分が“朝倉 忍”になればいいんだ、だって。ふふ、シンプルでしょ」
 くすっ、と笑った舞は、イズミを真似て、ベッドの上で膝を抱えた。
 「苗字の問題じゃないのは、忍さんだって十分分かってる。でも…忍さんは、あたしやイズミがいつも言ってたことを、この先も大切にしたいんじゃないかな。…イズミは、神様が、あたしにだけくれた子供―――母親はあたしで、父親は神様。そう思って生きてきた15年に、苗字ひとつでピリオドを打ちたくないんだと思うわ」
 「―――…」

 『イエス・キリスト。あの人、父ちゃんは“神様”やで? そんな訳あるかい、と思うてたら、キリスト教はなかったやろな。妄想も、貫けば一種の宗教や』

 荒唐無稽も、貫けば、誰かを救う力になる。
 だから―――信じ続けていればいい。イズミは舞だけの子供…父親のいない、神様が授けた聖なる子だと。信じることで、舞もイズミもハッピーになれるのなら。

 ―――…忍…。
 生徒手帳の裏に挟んだあの絵が、脳裏に浮かんだ。見つけた、と思ったのは、勘違いじゃなかったんだ―――そう思ったら、なんだか泣きたくなった。

 「イズミ君」
 コンコン、とノックの音がした。
 舞とイズミが顔を上げると、ドアの隙間から、忍が顔を覗かせていた。その手に、家から持ってきた特製グライダーを携えて。
 「機嫌、直ったんやったら―――そろそろ、飛ばしに行かへん?」
 そう言って、ニッ、と笑った。

***

 午後の神戸港は、芝生帯にも親子連れなどが座り込んで、結構な賑わいを見せていた。
 「…なぁ、忍」
 「ん?」
 「よく考えたら、オレが忍の姓になるより、忍が朝倉姓になる方が、大変なんやない?」
 イズミがそう言うと、持参したグライダーの羽を調整していた忍は、顔を上げてキョトンとした顔をした。
 「そうやろか?」
 「だって、会社で今まで“中尊寺”って呼ばれてたんが、突然“朝倉”になるんやろ? 女の人ならそういう話、いくらでもあるけど―――男では、しかも大人では、そんなケース、ほとんどないんと違う? 会社の人に、色々言われるんやない?」
 「あー、まあ、そういうのもあるかもしれへんねぇ」
 忍の反応は酷くのんびりしたものだが、イズミには、結構深刻な問題のように思えた。
 イズミの年齢ならば、苗字が変わったら「ああ、お母さんが再婚したのか」(実は初婚だけど)と思われるだけだ。そんな話は結構ある。
 けれど―――忍は、大人だ。そして、男でもある。
 大人の男は、普通、苗字は変わらない。変わるのは、婿養子に入るケースが大半。婿養子、イコール、妻の実家に頭の上がらない男、的なイメージがあるのは確かだろう。イズミだって、忍が朝倉姓を選んだ理由を聞かされていなければ、なんか男として情けないよなぁ、なんて言ってしまいそうだ。
 けれど、忍は、さっぱり深刻そうじゃない顔で、あっさりとこう返した。
 「ま、言う奴は言うかもしれへんで。婿入りしたんか、嫁さんに気ぃ遣うて大変やなー、とか、男のプライドがないんかい、とかな。けど、どっちの籍に入るかなんて、プライドの問題やろか? 単にイメージに踊らされてるだけとちゃうか」
 「でも、その踊らされてる奴らが、世の中の大半なんやろ」
 「ボクはええよ。何か言われたら、“中尊寺より朝倉の方がかっこええと思ったからです。嫁さんには実家がないし、ボクら3人だけの家族です”―――それでもまだ文句言う奴おるんやったら、笑って誤魔化すわ」
 「…それでもやっぱり、オレが変わった方が楽やと思うなぁ」
 「甘い甘い」
 ちっちっちっ、と目の前で指を振ってみせて、忍はもの凄くわざとらしい真面目顔をした。
 「イズミ君の年代は、相手もまだお子様な分、苗字が変わってもーたら、むしろボクより嫌な思いすると思うわ。お子様ランチは遠慮一切なしに無慈悲で暴力的やからな。ええか、イズミ君。苗字変わってへんのに、いきなり家族増えて不審がる奴おったら、涼しい顔で“前からおったで”って言うんやで」
 「ハハハ」
 それは、いくらなんでもバレるのではないだろうか。でも―――それも、面白いのかもしれない。忍のあっけらかんとした口調を聞いていたら、なんだかそう思えてしまう。

 「よっしゃ、できた」
 話をしながら、調整が終わったらしい。パンパン、とジーンズをはたきながら立ち上がった忍は、イズミにグライダーを手渡した。
 「ほい。これで大丈夫やと思うわ」
 「サンキュー」
 「あら、できたの?」
 ぶらぶら散歩しに行ってた舞もちょうど戻ってきた。あまりのタイミングの良さから察するに、多分、忍とゆっくり話ができるようにわざと散歩に出て、離れて様子を見ていたのだろう。
 「今回のって、工作キットじゃなく、板からイズミが自分で部品を切り出したやつなんでしょ? ちゃんと飛ぶの?」
 「失礼なっ。ちゃんと飛ぶわっ」
 「ほんとぉ?」
 疑わしげな目をする舞に、ムッとしたように眉を上げたイズミは、忍に調整してもらったグライダーを、持ち直し、構えた。
 「よう見ててや」
 そう言って。
 全力で、空に向かって、投げた。

 天めがけて、グライダーが飛んでいく。
 旋回し、大きな大きな円を描くように滑空する。3月の空を、まあるい形に切り取りながら。
 白く塗装したグライダーは、春の青空にとても似合う。太陽の光を反射するかのように白く輝く機体に、イズミ自身、一瞬見惚れてしまった。

 「すっごーい! やるじゃない、イズミ!」
 キットのグライダーと変わらないスムーズな飛行に、舞は目を見開いて笑い、手を叩いた。
 「えへへ、それほどでも」
 「師匠がええからやんな?」
 自慢そうにするイズミを制して、手柄を横取りするな、とでも言うように忍がニヤリと笑う。…実際、仕上げの大半は忍がやってくれたので、イズミはちょっとだけ体を小さくして「…その通りでございます」と言っておいた。
 「でも、不思議よねぇ。あたしって、この手の作業、あんまり得意じゃなかったのに。イズミは、こういう才能があるみたい」
 「大工やった舞さんのお父さんの血を引き継いでるんかもしれへんね、イズミ君は」
 ―――そっか。オレには、大工の血が流れてるんやった。
 すっかり忘れていた。舞の父親、ということは、自分の祖父でもあるのだ、ということを。
 それまで考えたこともなかった“祖父”という存在を、イズミはこの日、初めて意識した。そして―――こんなとこも、やっぱり舞から引き継いだものなんだ、と思ったら、ホッと安心したような、嬉しいような気持ちになった。


 それからも、羽根の角度を直して試したり、舞も投げるのにチャレンジしたりして、グライダーは幾度も空を飛んだ。
 ひとしきり楽しんで、ちょっと疲れてきた頃に、忍が3人分のジュースを買いに行った。その時、日記に何度も書いておきながら未だに訊かずにいた質問を思い出し、舞と2人きりになったイズミは、思い切って訊ねてみた。
 「なあ、母ちゃん」
 「なぁに」
 「母ちゃんは忍の、どこが好きなん?」
 芝生の上で脚を投げ出していた舞は、その質問に、キョトンとした顔をした。
 「どこ、って―――ああいうとこ、全部よ?」
 「ああ、違う違う。中身の問題やなくて、外身の問題」
 「外身?」
 「オレ、母ちゃんがホレた男って、兄ちゃんしか知らへんから、今までずーっと、母ちゃんは相当の面食いなんやと思っててん。けど、忍と兄ちゃんて、中身は、どことなく繋がってる気するけど、見た目は全然タイプが違うやろ? 忍の見た目のどの辺がツボやったんかな、と思って」
 「…あんた、そんなバカなこと考えてたの?」
 そう言って、舞は呆れた顔をしたが、それでも一応答えを出そうと、律儀に眉を寄せて考え始めた。
 「うーん…ほんと言うと、中身を好きになっちゃえば、外身なんてどーでもいいんだけどね。あんただってそうでしょ。野枝ちゃんて、特別好みのタイプじゃない、って言ってたじゃない」
 「うん。けど、見た目でも凄い気に入ってるとこ、あるよ? 野枝ちゃんは、目がちょっとタレ目っぽいねん。笑うとますます下がって、その顔がもの凄い可愛いくて、ツボやってん」
 「はいはいはい。ノロケて下さい、いくらでも。やっと彼女ができて、嬉しくて仕方ない時期だもんね?」
 「うう、オレのことよりっ、母ちゃんの方はっ?」
 「あたし、かぁ。あたしはねぇ―――…」
 うーん、と空を見上げた舞は、やがて、ポツリと呟いた。
 「…手、かな」
 「手?」
 「初めて会った日ね。気づくと何故か、いっつも忍さんの手を見てたの。名刺差し出す手とか、イズミの頭をぐしゃぐしゃ撫でる手とか―――ああ、大きくて、あったかい手だなぁ、って」
 「……」
 「そっか。今気づいたわ」
 視線をイズミに戻した舞は、くすっ、と笑った。
 「イズミ、あんたのおじいちゃん―――大工だったあたしのお父さんの手って、忍さんの手によく似てたわ」
 「…そうなんや」
 それを聞いて、イズミの口元が、綻んだ。

 いつの日か―――あの写真を、舞にあげよう、と思った。
 おととしの暮れ、“兄ちゃん”がくれた、忍の掌の写真―――大きくて、優しくて、安心して全部を委ねられるな、って思える掌だった。
 そう言えばイズミも、気づけばいつも、忍の手を見ていた気がする。2人で六甲山に行った時も、運転する忍の横で、ハンドルを握る手をずっとずっと見つめていたっけ…。
 ―――オレの手も、いつかはあの位、大きくなるかな。
 空に両手をかざし、見上げる。
 青空の下、突き出された両手は、まだまだ悲しい位に小さい。舞を守りたいと、小さい頃から思ってきたけど…とてもじゃないが、無理。野枝の手を握るだけでも精一杯…いや、足りない位かもしれない。
 ―――まだこんな手やから、忍の本心にも気づかんと、下世話なこと考えて落ち込んだりするんやな。
 さっき、“朝倉”の姓を選んだ忍の真意を完全に取り違えてしまったことを思い出す。忍の言う通り、まだまだ自分の年齢はお子様ランチなんやなぁ、と、イズミは苦笑した。

 「おーい、お待たせー」
 風に乗って届いた声に、舞とイズミが振り返ると、ジュースを買ってきた忍が手を振っていた。
 忍の大きな手は、3人分のジュースの缶を、楽々と片手で握っていた。舞やイズミの手では到底できない芸当に、親子は同じことを思い、同時にクスリと笑った。

 

 

 

 5月5日(日)

 忍が引っ越してきた。
 こどもの日に引越しってのも、どうかと思う。ついでに言うなら、引越し荷物に小型のこいのぼりを突き立てて持ってくるのも、どうかと思う。
 とにかく、こどもの日だし、忍と暮らす初日だし、めでたいことだらけだから、今夜はパーティーだった。ちらし寿司パーティー。荷物運んでガタガタの腕で、酢飯をうちわで扇ぎまくったから、忍は相当バテてた。

 忍、大変だよなぁ…。会社、遠くなっちゃったし。
 恭四郎がいるし、野枝ちゃんの学校も近いから、卒業まで今の中学校に通わせたい、って言って、忍がうちに越してくる形にしたんだけど―――ありがたいけど、申し訳ない。新快速なら大阪まで30分やで、って楽勝みたいなこと言うけど、そこからまだ先があるもんなぁ、会社まで。それに、新快速、めちゃくちゃ混むし。
 だから高校は、なるべく大阪寄りのところを選ぶことにした。母ちゃんの会社と忍の会社、そしてオレの学校の3ヶ所、どこにも大体同じ時間で通えるような場所に、改めて家を買うか借りるかしよう、って。
 忍は、このマンションは母ちゃんが買った記念すべきマンションだから、売らずに住み続けたらええやんか、と言ったけど―――母ちゃんは、もういい、って。3人の新しい家族でスタートするんだから、2人きりだった時のものにこだわる気はないんだって。

 オレと母ちゃんだけだった時のものを大切にしようとする忍と、忍を含めた3人のこれからを優先したい母ちゃん。
 オレは、どっちの気持ちも分かる。
 分かるから、2人のこと、もっと好きだって思う。母ちゃんの子供でよかったな、って思うし、母ちゃんが選んだのが忍で良かった、って思う。

 こどもの日のプレゼントに、鉱石ラジオのキットをもらったけど、それよりも忍が越してきたことの方が大きなプレゼントだったと思う。
 明日からの毎日が、凄く楽しみだ。

 あ、そうそう。
 地主神社の縁結びの神様。おかげさまで無事、ここまでこぎつけました。ありがとうございました。


 【一口メモ】
  忍が引っ越してきたところで日記をやめるつもりだったけど、やっぱり続けることにした。
  入籍まで、とか、結婚式まで、とか色々区切りを考えたんだけど―――やっぱ、もったいないや。
  これまでは「忍と母ちゃんがくっつくまでの観察日記」だった。
  で、これからは「朝倉夫妻観察日記」にする。
  …ますます、引き出しの鍵、頑丈にかけないとなぁ。万が一どっちかに見つかったら、オレ、家から追い出されるかも。

 

――― "サグラダ・ファミリア" / END ―――  
2005.6.25 


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