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新・釈迦伝 |
ある日室田竜太(しつだ・りゅうた)は、社長室の窓から、何気なく外を眺めていた。
彼は日本を代表する「おぼっちゃま」である。
父はたった一代でこの「室田産業」を一部上場企業にまで成長させた豪腕の持ち主で、自分が苦労した故に(彼は幼少時代は丁稚奉公をしていた)、年老いてからたった一人しか恵まれなかった大事な息子には、この世のおよその苦労は一切かけまい、と、強く誓った人物であった。
受験戦争などという非人間的足のひっぱりあいに、かわいい竜太が巻き込まれるのは可哀相である。校内暴力もいかん。校庭は我が家の土地より広くなくては(室田家の敷地は東京ドーム1個分に相当する)。教授陣だって一流でなくてはいかーん。という結果、そんな学校はない、ということになり、とうとう父は、幼稚園から大学まで、ひとつの学園を創ってしまった。
竜太はその学園で大学まで学び、卒業後は当然、父の会社の重役におさまった。営業のつらさも、工場の危険な作業も知らず、連結決算という言葉もリストラという言葉も知らずにいた。なんと、倒産という言葉も知らなかった。室田産業の下請けには大量に倒産した中小企業があるが、それも知らない。倒産しそうになると、竜太がそれに気づく前に、父がその会社を切ったからである。よって竜太は、夜逃げも自殺も知らずに、平成不況の中で育ってしまった。
そんな竜太が30歳になったこの春、突然父が死んだ。
いくらなんでも87歳では、慰安旅行にエジプト、というコース選択は間違っていた。案の定、熱射病から肺炎を併発し、あっけなく死んでしまったのである。
というわけで今、竜太は、社長室にいる。
自分の仕事は、はんこを押すことである、と、竜太は認識している。その他のことは、優秀な重役連中が、ちゃーんとやってくれるのだ。おかげで室田産業は、不況の中でも好調な成績を納めている。
暇をもてあまし、竜太は、何気なく外を眺めた。今まで社長室はブラインドが下りていたので、窓の外が見えたことなどなかったのだ。会社と自宅の間もリムジンが送り迎えしていたので、自分の会社でありながら、竜太は自社ビルの周りの風景など見たことがなかった。
「なあ池田。あの向かいのビルはひとつも明かりがついてないぞ。一体どうしたんだ」
竜太は、たまたまその時同席していた切れ者の重役・池田にそう尋ねた。
彼は重役陣では珍しい、二代目重役である。つまり池田の父が古くから室田産業に勤めており、このほど定年退職し、かわって息子の池田が重役に抜擢されたのである。重役にしては若手の45歳だ。
「ああ、あのビルのテナントは、全部出て行ってしまって、今向かいのビルは廃墟になっております」
「なぜ全部出て行ってしまったのだ? ここは新宿の一等地なのに」
「だからです。家賃が高すぎて払えず、みな家主に追い出されてしまったのです」
竜太は初めて「この世には家賃払えない人がいる」という現実を知った。
また次の日、社長室から一歩外に出てみると、作業着を着た男が、オフィスの一部屋から蹴り出されている瞬間に出くわしてしまった。
「池田。なぜあの男は蹴り出されているのだ」
「商品の納期に遅れたので、わが社との取引を辞めることにしたのです。あの男の会社の商品はもう買いません。彼はそれを不服として、直訴しに来たのです」
「一体何日遅れたのだ」
「20分です」
竜太は、「この世にはたった20分納期を遅れただけで取引中止に追い込まれる人もいる」ということを知った。
ある日竜太が何気なく自社ビルのロビーを横切ると、先日オフィスを蹴り出されていた男を見かけた。思いつめた表情が気にかかり、通りかかった池田を呼び止めた。
「おい、あれはこの間の男じゃないか。一体どうしたんだ」
「はい。彼の会社は、わが社との契約を結び、商品を造るために多額の借金をしました。しかし契約が破棄されたため、借金だけが残りました。とうとう昨日、あの男の会社は倒産したのです」
竜太はついに、「倒産」という現実を知った。
そして翌日、また窓から外を眺めていると、上から池田が降ってきた。
後に聞いた話では、社長にいろいろ進言しすぎるということで、竜太の叔父や叔母から苦情が出、池田はクビになったのだ。思いつめた池田は、屋上から身を投げた。
竜太はここで、「リストラ」と「自殺」という、人生の最も大きな悲哀を、ついに発見してしまったのだ。
竜太は苦悩した。
サラリーマンとはなぜ、こんなに苦しい生き物なのだ。一生懸命働いても、家賃が払えず、倒産し、リストラされ、自殺していく。この苦しみから逃れる方法はないのか。
かくして竜太は、社長の座を降りた。叔父に全権をゆだね、彼はひとり、悟りをひらくべく、失業者となったのである。
***
最初の5年間、竜太は必死に職を求めた。
世間にもまれずに育った竜太には、つらい5年間であった。
内定をもらってうかれていると、数日後、実は3人のところを50人もに内定を出していたことが発覚、結局研修期間中に退職させられたこともあった。警備員の仕事では暴漢にぶん殴られ、街頭のアンケート調査では顔の黒い女子高校生にカラオケボックスに連れ込まれたあげくに5万円の入った財布を盗られ、遠洋漁業では船酔いに苦しみ、原子力発電所ではタンクに亀裂が入って被爆した。仕事とはつらいものである。
そこまでしても、竜太は悟りをひらけなかった。やはり社会で仕事をしていくことは、限りない苦悩に満ち満ちた生活である。どうすれば人は、心おだやかに生きていけるのだろう? 竜太は悩んだ。
そしてとうとう、仕事が一切見つからない状態になった。
竜太は、新しく借りていたアパートも追い出され、着の身着のままで路上に座り込んでいた。もう3日も何も食べていない。途方にくれてしまった。
と、その時。
「はい、おじちゃん、これあげる」
かわいらしい声に顔をあげると、そこに、5歳くらいの女の子・筋屋妙子(すじや・たえこ)がいた。彼女の差し出す握りこぶしをしばし見つめ、おずおずと竜太は手のひらを出してみた。
転がり落ちたのは、3粒のアーモンドグリコであった。
少女の手の熱で、かなりやわらかくなっていたが、一口ほおばってみると、とてつもなくおいしかった。
その時である。竜太はついに悟った。
別に働かなくたって、人間は生きていけるのだ。なのに働こうとするのは、金が欲しいからだ。より良いものを食べ、より良いところに住み、より良い服を着たいからだ。すべて、ただの欲なのだ。
ただ生きるためであれば…欲を捨て去ることができれば、人間は、何をしたって生きていける。欲があるからいけないんだ、欲が。人間だって動物なんだ。東京の裏路地でも、カラスや猫や犬は生きてるじゃないか。
「そうなんだ! 欲を捨てるんだ! 欲が苦悩の原因なんだ!」
こうして、悟りをひらいた竜太は、立派なホームレスになった。
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